8月15日、終戦の日に思うこと。

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1945年6月23日に沖縄県がアメリカに占領され、8月6日に広島に原爆が落とされて、8月9日に長崎に原爆が落とされました。

そして1945年8月15日に終戦を迎えました。

しかし、北方領土や中国などではまだ戦争が続いており、戦後もソ連によるシベリア抑留が続いていました。

1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効され、連合国との戦争状態が終わり、日本は主権を回復しました。

吉田茂元首相は「歴史では戦争で敗けて外交に勝つこともある」と述べ、サンフランシスコ平和条約締結と日米安全保障条約締結に臨みました。

岸信介元首相の時の日米安全保障条約改定では、単に米軍が日本に駐留するだけでなく、米軍が有事に日本を守ることを約束しています。

そして日本は軍事ではなく経済活動に力を傾け発展しました。

日本は吉田茂元首相が述べたように「戦争で敗けて外交で勝った」のです。

日本人にとって8月15日は二度と戦争はしてはならないと決意する日です。

戦争は指導者の勇ましいかけ声と国民の熱狂によって始まり、そして多大なる犠牲を作り、後悔だけが残ります。

太平洋戦争も原爆投下前の敗戦の状況が濃くなった時期に降伏を決断することもできたはずです。

しかし、世論や軍部の圧力が敗戦を決断させませんでした。

犠牲になった命を平和に活かすことができなかったのかと悔やみ、そして今後、その犠牲を出さないと決意する日です。






















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1769年8月15日にフランス皇帝のナポレオン・ボナパルトがフランスのコルシカ島で生まれました。

フランス革命が1789年ですので、20歳の時になります。

学生の時は数学に優れ、読書に明け暮れて砲兵士官を目指したそうです。

コルシカ訛りを馬鹿にされ、友だちは少なく無口な青年であったといわれます。

よくナポレオンは身長が低かったから、そのコンプレックスで努力し、出世をしたと言われますが、実際は身長は167cmあり、当時では高いほうでした。

周りの屈強な兵士の中では低く見えたのかもしれません。

アルプス山脈を越えてイタリアに奇襲で攻め込みますが、歴史上ではそれを実行したのは他にローマに攻め込んだ古代カルタゴのハンニバルのみです。

そして、ナポレオン法典という法律はいまだにフランスで使われています。

数学が得意であったから論理的な思考ができたため法律も作れたのかもしれません。

皇帝にならなければ、もっとも功績を残した人物になったと思います。

母親は戴冠式に出席することを拒みましたが、ナポレオン・ボナパルトは、その絵画では母親の姿を描かせました。

ナポレオン・ボナパルトはフランスの英雄ですが、アメリカのジョージ・ワシントンがイギリスからの独立後も皇帝や国王にならず、大統領を2期で辞めたのとは対照的です。

そしてアメリカ合衆国では今でも大統領は2期8年までを守っています。

ナポレオン・ボナパルトが皇帝にならなければ、フランスに民主主義をもたらした英雄と評価されたでしょう。












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中国地方の覇者 毛利元就の影響力のつけ方。

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中国地方の覇者の毛利元就は、人と上下の関係を作らず接しました。

それが毛利元就の影響力のつけ方でした。

中国地方の豪族とは連名で統治し、その盟約の書には盟主という形をとらず、円を描いて周りに皆と同じように名前を連ねました。

江戸時代には農民が一揆をする時に誰がリーダーかをわからないようにするためにも使われた連名の書き方でした。

「上に立つ者はこうあるべき」と述べる人がいますが、そのような支配欲や権力欲の意識はすぐに周りに悟られてしまい、周りの人は動いてくれなくなります。

毛利元就の上下のない関係の作り方は影響力をつけるための賢い方法です。

威張りたいだけならば、上下を誇れば良いですが、社会を動かすために影響力を使いたいならば、上下を作らず人と接したほうが賢いやり方です。

毛利元就の息子の吉川元春もその息子の吉川広家に家臣に挨拶されたら丁寧に挨拶を返すようにと諭しています。

影響力を持てないというのは人に頭を下げることができなかったり、人を上に立てる賢さがないからでもあります。

毛利元就が大名であったから人が従ったわけではないですし、そもそも肩書きなどでは人は動きません。

そして、歴史では名門意識を持った家は必ず衰えていきます。






















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1176年8月14日(安元2年7月8日)に後白河天皇の女御で、高倉天皇の母であった建春門院 平滋子が亡くなりました。

平滋子は平清盛の正室の平時子の妹であり、後白河天皇の寵愛を受けて、平家と皇室の好関係を作りました。

平清盛の娘で、建春門院 平滋子には姪にあたる平徳子は高倉天皇の中宮になり、のちの安徳天皇を生みます。

この時が平家の絶頂の時でした。

建春門院 平滋子が亡くなると、後白河天皇と平清盛の仲は悪化しました。

そして、木曽義仲に平家が京都から追いやられた後に、後白河天皇は源義経を利用して平清盛亡き後の平家を滅ぼします。

後白河天皇は力の強いものを利用するリアリスト(現実主義者)でもありました。

平家が滅亡した壇ノ浦の戦いでは安徳天皇も入水して建礼門院(平徳子)だけが生き残ります。

建春門院 平滋子から当時の女性による政治への影響は強かったことがわかります。

後白河法皇は建春門院 平滋子を失ってから平家への思いも薄れていきました。

歴史は人と人との関わりであり、合理的な選択だけでなく、そこには因縁や感情もあります。

皆様おはようございます。

2018年8月12日(日)のNHK大河ドラマの西郷どんの第30回『怪人 岩倉具視』を視聴し終えました。

笑福亭鶴瓶さんが演じた岩倉具視は、普段テレビで見る鶴瓶さんのままであるかのように見えました。

違うところと言えば一人称に麿(まろ)を使ったことぐらいだと感じました。

将軍の徳川家茂と和宮の婚姻を実現し、公武合体を進めて孝明天皇の信任が厚かった岩倉具視はなぜか都を追われて、岩倉村に蟄居していました。

禁門の変で長州藩士らの尊王攘夷派が都から追い払われ、岩倉具視も幕府に危険人物として扱われたためです。

岩倉具視も蟄居が長く続いたため、孝明天皇の御心を疑い始めます。

しかし、薩長同盟の策も秘めていました。

島津斉彬も幕府を動かして日本を欧米列強から守ろうとしていましたが、時代の流れから幕府では日本を守れないと岩倉具視や西郷隆盛は考えて倒幕を志すようになっていました。

今回は失望し自信を失っていた岩倉具視が自信を取り戻し、再び倒幕を志す回であったと思います。

薩長同盟の策を実現することが倒幕に最も近いことはわかっていましたが、桂小五郎ら長州藩が禁門の変で薩摩藩に恨みを持っていたことがボトルネックでした。

政治は人と人とのつき合いですからどうしても感情を無視することはできません。

その感情を解きほぐしたのが坂本龍馬でしょう。







































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1965年8月13日に所得倍増計画を公約にした池田勇人元首相が亡くなりました。

実際に日本国民の所得を倍にするという所得倍増計画は実現しました。

それまでの政治家は安保や外交などを主な公約にしていましたが、池田勇人首相が初めて経済政策を公約の前面に押し出しました。

公共投資で消費を喚起し、自由貿易のために関税を低くしています。

石油や石炭などのエネルギーを安く輸入できれば、それを使ってつくる輸出製品も安くできます。

池田勇人首相は、若き日に2浪して五高、京大から大蔵省に入ります。

当時は一高、東大が中央官庁の出世コースであり、五高、京大は亜流であったそうです。

そして、入ってから疱瘡を患い5年間療養をして、一度大蔵省を辞めています。

電力の鬼といわれた松永安左エ門は投獄、大病、浪人のどれか一つは経験しないと大物にはなれないと述べています。

挫折が人を大きくするからです。

じっとして身動きがとれない時を過ごすと良くとも悪くとも運命を受け入れ、自分ができることを尽くそうとします。

池田勇人首相は大病を経験し、挫折してから大きく花開きました。


皆様おはようございます。

2018年8月12日(日)のNHK大河ドラマの西郷どんは第30回『怪人 岩倉具視』です。

岩倉具視は公家でありながら型破りな人物であり、屋敷で賭博場も開いていました。

薩長同盟の構想も坂本龍馬が実行する前に持っていました。

江戸時代は250年続き、当時の人は江戸幕府が倒れるとは思いもしなかったでしょう。

幕末に倒幕を志すのはまさに博打のようなことです。

既得権益がある人にとってみれば、江戸幕府が続いたほうがよく、その博打をしたのは関ヶ原の戦い以降に冷遇されていた長州藩や薩摩藩、下級武士たちでした。

改革は既得権益がある人たちからは出づらく、現状に不満を持っている人たちに主導されて行われます。

享保の改革を行った徳川吉宗は紀州の藩主になれない境遇から将軍になりましたし、幕末の井伊直弼は部屋住みから思いもよらず大老になりました。

そのため、冷遇される時期は人生で良い糧になります。





















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1604年8月12日(慶長4年7月17日)に江戸幕府の三代将軍の德川家光が生まれました。

1600年に関ヶ原の戦いがあったのでそれから4年後のことです。

生まれてから大きな戦といえば、大坂冬の陣、大坂夏の陣、島原の乱ぐらいでかぞえるほどしかありません。

德川家光は乳母の春日局に育てられ、弟の德川忠長は実母のおごうの方に育てられました。

そのためおごうの方は弟の德川忠長を溺愛しました。

二代将軍の德川秀忠はどちらを後継にするか悩みます。

戦国時代には実力があるものが後を継ぐのが当たり前でした。

德川秀忠も德川家康の三男で、兄には越前の結城秀康もいました。

しかし、その時に德川家康が裁断して德川家光が継ぐことになりました。

以後は将軍の嫡男が後を継ぐのが当たり前になりました。

そして江戸時代の将軍の嫡男の幼名には竹千代という名がつけられました。

将軍で幼名が竹千代であったのは、德川家康、德川秀忠、德川家光、德川家綱、德川家治です。

江戸幕府十五代の将軍のうち幼名が竹千代であるほうが少ないのは、将軍の嫡男がすんなりと成長して将軍になったことのほうが少ないからでもあります。

しかし、德川家康が望んだのは戦国時代のような動乱の実力主義の世ではなく、安定して動かない世でした。






























司馬遼太郎が語った仁徳とは何か?『項羽と劉邦』

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歴史小説の大家の司馬遼太郎は『項羽と劉邦』の中で仁徳とは何かをテーマにしました。

項羽は家柄がよく武にすぐれ、部下思いでした。

それに対して劉邦は酒や女癖が悪く、無学な貧農の出身でした。

しかし、天下をとったのは劉邦で、漢王朝を創り高祖と呼ばれるようになります。

しかも、劉邦は項羽に99敗して勝ったのは最後のみでした。

司馬遼太郎の述べた仁徳とは礼儀正しさや知識の多さからのものではないようです。 

また、花を愛でるような優しさを仁弱と述べて、これも君主の仁徳ではないと述べています。

劉邦の持っていた仁徳とは人の語ることに耳を傾けて、人物の才能や向き不向きを見抜き、それを活かすことでした。

項羽は部下思いでしたが、自分の才覚を過信するあまり、部下の語ることに耳を傾けず、部下を活かせませんでした。

劉邦は素行が悪かったですが、人々は自分の才能を活かしてくれる処に集まります。

どうやらそれが仁徳というもののようです。

長所を活かし短所を補い合い、組織を強くするというのは、ピーター・ドラッカーのマネジメントのテーマでもあります。


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1892年8月11日に歴史小説作家の吉川英治が生まれました。

宮本武蔵や三国志、私本太平記、新平家物語、新書太閤記などの代表作があります。

宮本武蔵では人の心理を描きました。

宮本武蔵は宝蔵院の槍の名手の胤栄を訪れるときに、何気ない畑を耕していた老人の鍬の動きに殺気を感じ、飛び避けました。

その人が宝蔵院の槍の名手胤栄でした。

宝蔵院の槍の名手胤栄に宮本武蔵は、自分に殺気はなく、貴方は自分の殺気に驚き飛び避けたのだと言われます。

胤栄は貴方は強すぎるからだと言います。

良い意味で言ったのではありません。

宮本武蔵は、自分の殺気を相手に投影して自分の殺気に自分でおびえていたのです。

多くの人は自分の影に怯えています。

他人に悪意を持てば、他人の悪意に自分が怯えて、他人に意地悪をすれば、他人の意地悪に怯えます。

自分が勝手に怯えているだけでそれは自分の影であることもあります。