孔子の『論語』「歳寒くして然る後に松柏の彫むに後ることを知る。」という言葉があります。


松や檜は常緑針葉樹ですので紅葉することも葉が散ることもありません。


「子のいわく、歳寒くして然る後に松柏の彫むに後ることを知る。」


(孔子は述べた。「気候が寒くなってから、はじめて松や柏(ひのき)が散らないで残ることが分かる。人も危難の時にはじめて真価が分かる。」)



武田信玄の言葉にも似たものがあります。

「大将は似たような家臣ばかりを好むことはあってはならない。例えて言うなら​庭には四種類の木々を植える。春には桜が色めき、夏は柳が緑にゆらめく。秋になれば楓が紅葉し、冬になれば松、つねに変わらぬ松の緑は冬にこそ真価をあらわす。4つの木を備えてこそ、いかなる時も庭を美しく見ることが出来る。」

武田信玄は、戦国時代の教養人ですので、孔子の論語の記載も知っていて述べたのでしょう。

戦国時代は、時代の変化が甚だしく先が読めない時でしたが、そのような時に多様な人材がいればこそ苦境を脱せると武田信玄は述べました。

大きく変化する環境では、必要な才覚は何かを予測するのは難しいことです。

桜しかない庭は春の季節を過ぎれば見るものがありません。

そのため多様な人材を備えておく必要があります。

春の桜や秋の楓の紅葉などの派手さに目がいってしまいがちですが、地味な松も冬の季節にその緑の美しさが際立つことを孔子も言及していました。












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1799年12月14日にアメリカ合衆国初代大統領のジョージ・ワシントンが亡くなりました。

アメリカの首都のワシントンDCや北西部の州でシアトルがあるワシントン州は、ジョージ・ワシントンの名からとられています。

中学校の歴史のテストでは、清教徒革命、名誉革命、アメリカ独立戦争、フランス革命を起こった順番に並べる問題がよく出されます。

フランス革命は1789年ですがアメリカ独立戦争はその前です。

アメリカ独立戦争ではフランスは弾薬などジョージ・ワシントンの独立側を支援しています。

フランス革命の後、フランスは紆余曲折があり、ナポレオン・ボナパルトが皇帝になっていますが、ジョージ・ワシントンは2期で自ら大統領を辞しました。

ジョージ・ワシントンが2期で自ら大統領を辞めたため今でもアメリカ大統領は2期8年までです。

フランスのナポレオン・ボナパルトが皇帝になったのに対してジョージ・ワシントンが国王などにならず貴族制度も作らなかったことはアメリカ合衆国の形づくりになりました。  

『学問のすゝめ』を書いた福沢諭吉がアメリカを訪れた時にアメリカ人に初代大統領のジョージ・ワシントンの子孫はどうしているかと尋ねて「さあ、知らない」と言われたことに大変に感激したという逸話があります。

福沢諭吉が生まれた江戸時代は、将軍家、大名、武士らは家系図を作り、家柄で人の一生が決まる時代でした。

しかし、アメリカは奴隷制度はありながらも基本的に家柄に関係なく本人の努力で社会的地位が決まる社会でした。

そのため大統領になるためには先祖が大統領である必要がありません。

そのことに福沢諭吉は感動します。 

福沢諭吉の父は才覚がありながらも生まれた身分が低かったため出世することができませんでした。  

そのため、福沢諭吉にとってアメリカ合衆国は理想の国でした。

そして福沢諭吉の生涯の仇は生まれた家柄で一生が決まる門閥制度でした。







































孫子の虚実篇に「千里を行いて労れざる者は無人の地を行けばなり。」(遠い道のりを行軍して疲れないのは敵の間隙をぬって敵対する者がいない土地を行軍するからだ。)という記述があります。

「其の必らず趨く所に出で、其の意わざる所に趨き、千里を行いて労れざる者は無人の地を行けばなり。攻めて必らず取る者は、其の守らざる所を攻むればなり。守りて必らず固き者は、其の攻めざる所を守ればなり。故に善く攻むる者には、敵其の守る所を知らず。善く守る者には、敵其の攻むる所を知らず。微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る。故に能く敵の司命を為す。」


(敵がきっとはせつけて来るような所に出撃し、敵の思いもよらない所に急進し、そのようにして遠い道のりを行軍して疲れないのは敵の間隙をぬって敵対する者がいない土地を行軍するからである。攻撃したからにはきっと奪取するというのは、敵の守備をしていない所を攻撃するからである。そこで、攻撃の巧みな人には、敵はどこを守ったらよいのか分からず、守備の巧みな人には敵はどこを攻めたらよいのか分からない。微妙、微妙、最高は無形だ。神秘、神秘、最高は無音だ。そこで敵の運命の主宰者になることができるのだ。)


本能寺の変の後の豊臣秀吉の中国大返しは有名です。


備中高松城(岡山県岡山市)から山崎(京都府)までの約200kmを10日間で移動しています。


1日に約20km移動した計算になります。


しかもその後に明智光秀と対峙しています。


中国大返しでは裏切りそうな宇喜多氏の領国を通らなかったという話もあります。


豊臣秀吉が中国大返しを成功させることができたのは敵がいないところを移動して戦闘をしなかったからでもあります。


また、孫子は攻撃が上手い人は敵が少ないところを攻撃し、守備が上手い人は敵が攻めてこないところを守備するからだと述べています。


敵が攻めてこないところとは、堅固に見えて敵も元から攻めることを諦めている処でもあります。


孫子は戦闘がいかに人を疲弊させるかを述べています。





































2009年12月13日に経済学者ポール・サミュエルソンが亡くなりました。

ノーベル経済学賞は、ノーベル賞の中でもアルフレッド・ノーベルの遺言にないもので、後から作られたものですが、アメリカの経済学者ポール・サミュエルソンに受賞させるために作られた賞とも言われていました。  

それほどポール・サミュエルソンは戦後の経済学者の中では飛び抜けた存在でした。

ノーベル賞に数学はありませんが、アルフレッド・ノーベルの恋敵が数学者であったためだというのは有名な逸話です。

なぜアルフレッド・ノーベルが遺言に経済学賞を入れなかったかと思うと経済学を平和や人類の繁栄のための学問ではなく、お金儲けの学問だと考えたからかもしれません。

ノーベル経済学賞はポール・サミュエルソンに受賞させるために作られたという巷での噂がありましたが、第一回のノーベル経済学賞は計量経済学に貢献したティンバーゲンとフリッシュが受賞していました。

そして、ポール・サミュエルソンは第二回のノーベル経済学賞を受賞しています。

ポール・サミュエルソンの著書には『サミュエルソンの経済学』があり、一橋大学の都留重人教授が翻訳しています。

昔の経済学部の学生はその教科書を読んで近代経済学の基礎を勉強していました。

経済学が近代経済学とマルクス経済学に分けられていた時代です。

昔と言ってもかなり古いので、今の学生が読んでも参考にはならないかもしれません。

今の経済学の主流が近代経済学をより精緻化したもので、マルクス経済学を学ぶ学生はほとんどいません。

マルクス経済学は、資本主義の理論を述べたもので数学はほとんど使いません。

近代経済学が主流になってから経済学では数学を使うことが多くなりました。

微分はよく使われます。

数式を微分してプラスならば傾きが正で片方の値が増えればもう片方の値も増えている関係がわかります。

2回微分すれば傾きが正に大きくなり逓増しているか傾きが負に大きくなり逓減しているかがわかります。

傾きが正であるか負であるかや逓増しているか逓減しているかがわかればグラフで表すこともできます。

また『サミュエルソンの経済学』には大砲とバターのトレードオフが書かれています。

大砲の生産を増やすとバターの生産が減らさなければならず、バターの生産を増やすと大砲の生産を減らさなければならないというものです。

つまりは戦争に費やすと他の経済活動が衰えて、経済活動を増やすには戦争に費やすものを減らす必要があるということです。

トレードオフの資本はお金だけでなく人の労働力でもあります。

戦後の日本は、日米安全保障条約を結んで、軍事に力を傾けないで経済活動に力を傾ける賢い選択をしました。

つまり、大砲を作るためにお金や労働力を傾けず、バターを作るためにお金や労働力を傾けました。












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孔子の『論語』に門人の子路の記述があります。


「子の曰わく、敝れたる縕袍を衣、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざる者は其れ由なるか。」


(孔子が述べた、「破れた綿いれの上衣を着ながら、狐や貉(むじな)の毛皮を着た人と一緒にならんで恥ずからしがらないのは、まあ由(子路)だろうね。」)


破れた綿いれの上衣とは粗末な格好という意味であり、狐や貉(むじな)の毛皮とは立派な格好の例えです。


孔子は出で立ちを気にしないで人と対等につきあえるのは門人の子路だと述べています。


また、孔子は「未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若かざるなり。」(本当に立派な人は貧しいなかでも道義を重んじ、豊かになっても礼儀を欠かさない。)と述べています。


出で立ちを気にしないというのは貧乏であることを恥としないで道義を楽しむことです。


また、そのような人物であればこそ外見で人を判断せずに人の本質を見ることができます。













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#12月12日 は禅僧 一休宗純の忌日。


1481年12月12日(文明13年11月21日)に禅僧の一休宗純が亡くなりました。

1467年から1477年まで京都では応仁の乱が起きており、一休宗純は日野富子や足利義政の政治を批判していたと言われています。

将軍家の権力を強化することばかり考えて応仁の乱で京都を火の海にして民衆を苦しめたからです。

また、正月にドクロをつけた杖をついて街中を歩き『ご用心、ご用心』と叫んでいたそうです。

門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

と一休宗純は言い、正月はめでたいものだが、月日が経って死に近づく日でもあると述べました。

正月を祝うのは良いがうかれるだけでなく一日一日を大事にしようということかもしれません。

世相を評する一流のジャーナリストのようでもありました。

一休宗純は、風変わりなことをする怪僧とも思われていましたが、若い時には自殺未遂を起こすなど思い悩む青年でした。 

その一休宗純は弟子たちにどうにもならない時には『なんとかなる。』という言葉を遺しています。 

一休宗純は亡くなる時に大徳寺の弟子たちに箱を遺して、どうしても困った時には開けなさいと言い遺して亡くなりました。

その後、弟子たちは少しの困難の時にも箱を開けず大事にしていました。

そして大徳寺が財政難になりどうにもならないと大変な困難にぶつかった時に弟子たちは箱を開けました。

そこには手紙があり『どうにかなる』と書かれていました。

人間の歴史を考えればどのような困難でも人はどうにかしてきました。

人を導く人とは自分が思い悩みながらも他人をポジティブな方向に導く人であるようです。 

一休宗純は、思い悩んだ人であったからこそ他人の心がわかり、他人の思い悩む苦しみも理解して、他人を前向きにすることもできました。 

人には自分の力ではどうしようもないものと自分の力でどうにかできるものがあります。

他人のことは自分の力ではどうにもすることができないことであり、悩むのは徒労であってそのままにしておけば良いですが、自分の心は自分でどうにでもすることができます。

激しい雨や風の中でも自分の心を動じなくさせることもできますし、暗い夜道の中でも自分の心のうちに光を見出すこともできます。

そして元気であれば大抵の物事はなんとかなります。




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孫子の用間篇には間諜(スパイ)の重要性が書かれています。


孫子は間諜にお金をかけないのは民衆を愛さない不仁であり、将軍にふさわしくなく、将軍として君主を助ける役割を果たしていないと述べています。


「孫子曰わく、凡そ師を興こすこと十万、師を出だすこと千里なれば、百姓の費、公家の奉、日に千金を費し、内外騒動して事を操るを得ざる者、七十万家。相い守ること数年にして、以て一日の勝ちを争う。而るに爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり。人の将に非ざるなり。主の佐に非ざるなり。故に明主賢将の動きて人に勝ち、成功の衆に出ずる所以の者は、先知なり、成知なる者は鬼神に取るべからず。事に象るべからず。度に験すべからず。必らず人に取りて敵の情を知る者なり。」


(孫子は述べた。およそ十万の軍隊を起こして千里の外に出征することになれば、民衆の経費や公家の出費も一日に千金をも費すことになり、国の内外ともに大騒ぎで農事にもはげめないものが七十万家もできることになる。そして数年間も対峙したうえで一日の決戦を争うのである。それにもかかわらず、爵位や俸禄や百金を与えることを惜しんで敵情を知ろうとしないのは民衆を愛しあわれまないことの甚だしいものである。それでは人民を率いる将軍とはいえず、君主の補佐ともいえず、勝利の主ともいえない。だから聡明な君主やすぐれた将軍が行動を起こして敵に勝ち、人なみはずれた成功を収める理由は、あらかじめ敵情を知ることによってである。あらかじめ知ることは、祈ったり占ったりする神秘的な方法でできるのではなく、過去の出来事によって類推できるのでもなく、自然界の規律によってためしはかれるのでもない。必らず特別な間諜に頼ってこそ敵の情況が知れるのである。)


戦いには多大な費用や民衆の犠牲が要ります。


その多大なコストに比べれば間諜に費用をかけるのは容易いことだと孫子は述べています。


日本の戦国時代の織田信長は、桶狭間の戦いで一番の恩賞を一番槍や今川義元の首を取った者ではなく、今川義元の居場所を探って知らせた間諜の簗田出羽守に与えました。


劣勢の織田軍が勝つためには今川義元の首を獲らなければなりませんでしたが、そのためには今川義元の居場所を正確に把握して奇襲をかける必要がありました。


織田信長は情報の重要性を認識していたため、簗田出羽守を前例を破って厚遇しました。


織田信長も当然、孫子の兵法を知っていたでしょうからこの一文からヒントを得ていたのかもしれません。



































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1465年12月11日(寛正6年11月23日)に室町幕府9代将軍の足利義尚が生まれました。

父は8代将軍の足利義政で母は日野富子です。

1473年の8歳の時に将軍になり、1489年に享年24歳で亡くなっています。

その誕生は応仁の乱を起こし天下を揺るがすものでした。

足利義政は長年にわたって子がいなかったため、弟の足利義視を養子にして跡を継がせようとしていました。

その時に正室で力があった日野富子が足利義尚を産みます。

日野富子は足利義尚に跡を継がせようとしたため、応仁の乱が起きたとも言われています。

日野富子は足利義尚に英才教育を施しました。

足利義尚は、性格は温厚で文武に秀でていたそうです。

しかし、母の日野富子が政治に頻繁に口を出したため、足利義政と同じく、趣味に耽り政治に見向きもしなくなったと言われています。

足利義尚は若くして亡くなったため、結局、応仁の乱で対立していた足利義視の子の足利義稙が室町幕府10代将軍になりました。

日野富子や豊臣秀頼の母の淀君のように母の愛情は時に天下を乱すもとになることもあります。





































2018年12月9日(日)のNHK大河ドラマの西郷どんの第46回『西南戦争』を視聴し終えました。

西郷隆盛は大久保利通により賊軍にされ、弟の西郷小兵衛は戦死して、長男の西郷菊次郎は片足を失い、熊吉とともに政府軍に投降します。

鹿児島県令であった大山綱良は、西郷隆盛に加担した罪で大久保利通に投獄されます。

そして西南戦争の後に斬首されました。

大久保利通は、西郷隆盛が立ち上がることにより、全国の不平士族が立ち上がることを怖れていました。

そして、大久保利通は、自分が政府だと述べていました。

幕末の德川慶喜もそうでしたが、権力が人を狂わせる様子が描かれています。

力を持つと自分はまるで神様であるかのような錯覚をするようです。

しかし、権力を持った時にこそ人に頭を下げなければなりません。

道徳だけではなく、自分の身を守るためでもあります。

大久保利通は、恨みを買って不平士族に暗殺されることになります。

































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1867年12月10日(慶應3年11月15日)に幕末の志士の坂本龍馬が亡くなりました。

生まれたのは1856年1月3日(天保6年11月15日)であり、享年31歳で、旧暦だと暗殺されたのは誕生日であったことになります。

当時に日本で誕生日を祝う習慣があったかはわかりません。

大政奉還が決まったのが1867年11月9日(慶應3年10月14日)であり、その大仕事を遂げた約1ヶ月に京都の近江屋で暗殺されています。

大政奉還が決まった時にその英断を下した将軍 徳川慶喜に敬服して、『徳川慶喜公のためならば命を捨てる』と述べたそうです。

当時、薩摩藩と長州藩は武力で幕府を倒そうとしていましたが、坂本龍馬は幕府を取り込みながらの日本の統一を目指しており、誰が暗殺を指示したのかは謎です。

一介の浪人である坂本龍馬が、薩長同盟を仲介して裏書をし、後藤象二郎を通して大政奉還を成し遂げるなど何者であったのかが興味深いところです。

司馬遼太郎の代表的な小説に『竜馬がゆく』がありますが、坂本龍馬の龍の字を竜にしたのはフィクションであるためとも言われています。

膨大な資料を集めた司馬遼太郎にも坂本龍馬の実像はわからず、フィクションで描くしかなかったのでしょう。










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