鳥羽・伏見の戦い関連史跡~淀・千両松エリア~ | 歴史と文化と和の心♪

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こんばんは‼

今月から10月にかけてまた色々公私ともに忙しくなってまいりますが、史跡だけはがっつり巡りたいので←(生きがい)、またちょいちょいこのブログで報告させていただきたいと思いますm(_ _ )m

 

今日は淀エリアの鳥羽・伏見古戦場史跡参りたいと思います。

まずは、京阪本線淀駅を出てすぐの所にある淀城からです。

 

淀城は元和9(1623)年、江戸幕府2代将軍徳川秀忠が、京都の南を警護する役割を持たせるべく、松平定綱に所領3万5000石を与えて築城させた城です。

往時の城には伏見城の資材や二条城の天守が転用されたと伝えられ、豪壮たる佇まいだったと言われます。

やがて松平定綱が美濃大垣藩に転封となった後は、永井尚政、石川憲之、戸田光煕、松平乗邑の入部を経て、享保8(1723)年、稲葉正知が10万石で城主となると、以後幕末まで稲葉氏が城主を務めております。

そして幕末、淀藩12代藩主稲葉正邦は老中職を務めていたものの、鳥羽・伏見の戦いにおいては新政府軍の寝返り説得に応じ、淀城に引き上げてくる旧幕府軍に対して城門を閉ざすのです。

 

“老中なのだから裏切ることはまずあるまい。伏見奉行所が落とされた今、淀城に立てこもれば・・・”

 

そう考えていた旧幕府軍にとって、これは流石にショッキングだったでしょね・・・(´・ω・`)。

 

秀忠が「西国の要に」と建てた城は、皮肉にもそれを逆手に取られてしまう形となったのです(ちなみに淀城を築いた松平定綱は後に伊勢桑名藩へ封じられます。そして幕末、この家を継いだのが最後まで旧幕府軍として戦った松平定敬になります。定敬、悔しかっただろうな・・・( ;∀;))。

淀城や城下は戦いの際に焼けてしまっており、城の跡地は現在公園となっております。

公園内には石垣の一部と石碑が残るのみで、城の面影はほとんど見られません。ですが、この静けさの中から魂の慟哭が聞こえてきそうな気がいたしました・・・。

さて、淀駅の前にある京都競馬場の地下トンネルを超えてすぐの高架線付近に、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と書かれた碑が立っております。

ここが鳥羽・伏見の戦いにおいての最大の激戦地、千両松になります。

この辺りでそう・・・、新選組6番隊隊長として知られる井上源三郎が戦死しております。

源三郎の甥・泰助が首を持ち帰ろうとしたところ、重くて持てなかった為、泣く泣く現地に埋葬したエピソードは有名ですね( ;∀;)

 

大河ドラマ「新選組!」では山南の死に次いで泣いた回でしたね・・・、源さんの死・・・。

ちなみに井上源三郎については以前日野を訪れた際レポを書いておりますので、ご参照の程を☆

⇒(http://ameblo.jp/iemochikazunomiya/entry-11944705208.html

↑この石碑の文章、涙が出そうになりました(´;ω;`)ウゥゥ

戦いで亡くなられた方々に対し、心からご冥福をお祈りいたします・・・。

 

 

 

なおこの辺りには砲弾の貫通跡の残る妙教寺や、淀さまが住んでいたことで有名な「淀古城跡」もあるのですが、この日も午後から用事があったため、一旦引き上げε-(o´ω`o)

 

また今月でも来月でも訪れたいと思います。

 

 

 

・・・それにしても鹿児島は6月ががっつり梅雨なのに対し、京都は7月が梅雨時という・・・。

これまで雨の日が少なかったのに、7月に入ったとたん殆ど雨。

夏に備えてちょっとだけ体力を温存して、また元気に夏を乗り切りたいですね‼('ω')ノ