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農学博士の偉大な研究
■ その6 ◇蝶の視界 ■
5月初旬の東京は、太陽が出ている日中なら20℃を超えることもあるけれど、日没後はあっという間に気温が下がって時には15℃を下回る。
全ての窓が閉じられているとはいえ、温度調整がなされていないハウスの中は、正直言って寒かった。
「 …さむ…… 」
ハウスの壁際に表示されている管理札には、理学部昆虫生命学科とある。つまりこのハウスはユキちゃん管轄のものではない。
夜気の冷たさを避けようと、私はなるべくハウスの中央に身を寄せた。
「 ・・・・ユキちゃん・・・ 」
ゴールデンウィーク2日目。
なぜ私がこんな所にいるのかを説明するならたった一言で完結する。要は邪魔をされたのだ。
ユキちゃんは連休中もチューリップの世話をするため、休まない予定だった。
連休期間のキャンパス内なら人は極端に少ないだろうし、2日目なら尚更そうに違いない。そう踏んだ私は敢えて今日、LME総合大学キャンパスに足を踏み入れた。
先日香凪さんが言っていた事について
ユキちゃんから真相を聞くために。
その訪問時間を夕方5時過ぎにしたのは、ユキちゃんの作業を邪魔したくなかったからという理由の他に、落ち着いて話がしたかったというのもある。
さすがのユキちゃんでも視界が狭まる夕闇の中、作業を続けたりはしないだろう。
案の定、キャンパス内に人影はまばらで、辺りの暗さを確認してやっと腰を上げたユキちゃんに声をかけるべく私が近づこうとしたとき、私より先に声を掛けた人がいた。
「 社教授 」
「 蓮。なにしてんだ、お前 」
敦賀さんだった。
そこで私は躊躇してしまった。
なぜなら、私はユキちゃんと二人きりで話がしたかったのだ。
立ち止まってしまった私の肩に、誰かが後ろからそっと触れた。
反射的に振り向いた私の目に飛び込んできたのは三人の女性たち。
GWに敦賀さんと水族館に行こうと約束をしていた人たちだった。
「 後姿を見てまさかとは思ったけど、そういうことだったのね 」
「 私たちを差し置いて図々しい 」
「 ちょっといい。あなたに話したいことがあるからこっちへ来て 」
どうして今ここにこの人たちが?と考えた数秒後、私はそうかと合点していた。
そうか、敦賀さんが今そこにいる訳だから、もしかしたら敦賀さんと水族館に行った帰りなのかもしれない。
それでどうして右手を掴まれなきゃならないのか。引っ張られて私はぎょっとした。
「 え?? 」
「 大丈夫。そんなに時間取らせないから 」
「 はい、こっちにいらっしゃい 」
「 あっ… 」
戸惑っている間に今度は別の人に左手首を掴まれ、残りの一人に背中を押されて強制的に歩かされた私に、もはや拒否権はなかった。
このとき私が暴れたり抵抗したりしなかったのは、メチャクチャ怖かったからだ。
だって3人とも目が笑っていなかった。
そして連れて来られたのがこのハウス。放り込まれてすぐ、入り口のカギを閉められた。
「 え?ちょっと待って、どうして?! 」
「 子供が暗くなってからデートなんて、危険だからしない方が良いわ 」
「 そうよ。これはあなたの為なのよ 」
「 それにね、この大学の学生でもないあなたがキャンパス内をウロチョロするのは問題よ。だからこんな良くわからない場所に入り込んで閉じ込められたりしちゃうんだわ 」
この人たちは誤解している。即座にそれに気付いた。
だって私はユキちゃんに用事があってここに来ただけなのに。
敦賀さんと約束していた訳じゃないのに。
「 待ってください!鍵を開けてください!! 」
「 教授に電話して迎えに来てもらいなさい 」
「 でも、いいこと?言っておくけど、そのとき私たちの事を告げ口したら承知しないわよ。教授だけじゃない。誰に対してもね 」
携帯は持ってきていなかった。
そもそもLME総合大学農学研究科から我が家までは徒歩5分の距離なのだ。おまけに私は、作業を終えたユキちゃんとすぐ帰るつもりでいた。
こんな事になるなんて予想すらしていなかった。
「 …ぅぅぅ……ユキ…ちゃぁん… 」
昆虫学科管轄のハウスは全面がすりガラスで、中からも外からも見通すことが出来なかった。しかも入り口も窓もきっちり戸締りされている。
それゆえハウスの中は無風だったけれど、あちこちで軽微な葉擦れが聞こえた。恐らく虫たちの仕業だろう。
一人ぼっちにされて、泣きたいぐらい心細くなった。
この時ふと、昔のことを思い出した。
私がまだうんと小さかった頃のことだ。
私はあの日、お父さんを探しながら冬の街を彷徨った。
クリスマスイブの日だった。今まで忘れていたくせにそれを断言できるのは、翌日が自分の誕生日だったことを覚えているからだ。
通っていた保育園で、お父さんがいない子にはクリスマスプレゼントなんて無いんだよー…と複数の子たちにからかわれて、私は泣きながらお父さんを探しに行ったのだ。
そしてユキちゃんと出会った。
――――――― キョーコちゃん。このお兄さん、お父さんだと思ってくれて構わないらしいわよ。
そうだ。そうだった。思い出した。
だから私はこう思っていたのだ。
ユキちゃんからお祝いをされなきゃ歳をとらないことにする、と。
じんわりと両目に涙が滲んだとき、カチャン…と、金属音が聞こえた。鍵が開いた音のようだった。
誰だろう。まさかあの人たちじゃないわよね。
まっすぐこちらに向かって来る気配に怖気づき、誰が来たのかを木の陰に隠れて確認しようとした私に声をかけてきたのは意外な人だった。
「 あれ、キョーコちゃん。何してるの、こんな所で 」
「 …緒方さん…こそ、どうしてここに… 」
「 僕は蝶を見に来たんだよ。もうすぐ羽化するはずだから 」
「 羽化? 」
「 そうだよ。と言っても羽化は大抵夜中だから、こんな時間から来ちゃうのは僕ぐらいだろうけどね 」
言われて辺りを見回して、初めてそこかしこにいる蛹の存在に気付いた。
小さな木の幹に留まっている蛹や、支柱に留まっている蛹や、大きな葉をベッドみたいにしているのもいる。すぐに4~5個ほどを見つけることが出来たけど、うち一つは他と様子が違っていた。
「 緒方さん。この蛹、中心が割れていますよ? 」
「 うそっ?!どこ?! 」
「 ここです。蛹の背中が…あ、黒いのが出てきた 」
「 本当だ、すごい絶妙なタイミング!キョーコちゃん、よく見ておくといいよ。こんなシーン、滅多に見られないんだから! 」
「 …っ…はい 」
「 この蝶はね、カラスアゲハって言うんだ 」
「 カラスアゲハ?真っ黒だからですか? 」
「 真っ黒に見えるけど、決して真っ黒だけじゃないんだ。あれ?キョーコちゃん、半袖のワンピースなんて、そんな薄着で寒くない? 」
「 実はちょっと寒いです 」
「 だろうね。僕の上着を貸してあげる。それで少し蝶から離れて?でないと蝶が飛べなくなってしまうかもだから 」
「 飛べなくなることがあるんですか? 」
「 もちろんあるよ。羽化したてのアゲハ蝶の翅は体液で濡れていて、その体液が渇ききる前に翅を広げなければならないんだけど、もしそのとき何らかの理由…例えば強風が吹くなどしてアゲハ蝶が地面に落ちてしまったら、翅に大きなダメージを受けてしまうんだ。そうなったら二度と飛ぶことは出来ない。やり直しがきかない一回限りのことだから、なるべく風を起こさないよう、上着は静かに着て。それで、くしゃみとかも絶対にしないで 」
ああ、なんだ、そうだったんだ。
だからこのハウスの窓は全部閉じられていたのか。
「 わかりました 」
「 着た?そしたらこの翅をよく見てごらん。黒地に細かな斑点があるだろう?これがカラスアゲハの翅の特徴なんだ。カラスアゲハは、エメラルドグリーンと濃い青色に輝く翅をもつ蝶なんだよ 」
「 本当ですね 」
「 片方の翅だけ見ると全くランダムに散りばめられているように見えるよね。でも、両方の翅を見ると完璧なまでに左右対称なのが分かる。おまけに、頭部やえりもとにまで宝石のような緑の点描が降り注いでいるのが見えるかな? 」
「 はい、見えます。すごく綺麗な蝶なんですね 」
「 うん、綺麗だね。この蝶が僕は一番好き。でもね、キョーコちゃん。本当は、美しい蝶なんてこの世にはいないんだ。そこに蝶の美しさがあるだけなんだよ 」
うっとりとした眼差しで蝶を見つめる緒方さんの瞳は、草木を見つめるユキちゃんと同じ輝き。
自然と私の口角が上がった。
「 ・・・・・緒方さんは、蝶が好きなんですね 」
「 僕?うん、実はそう 」
「 初めて知りました 」
「 そりゃあね。わざわざ言いふらす内容でもないし 」
微笑し合った私たちは顔を見合わせてから、また二人で蝶に視線を移した。
自分が知らないハウスに一人で閉じ込められ、心細かったはずなのに。
顔見知りの緒方さんが現れた時点で平常心を取り戻せていたのだろう私は、なぜ私がここに居るのかを問い詰めることもせず、アゲハ蝶を見守りながら私に熱く語りかける緒方さんの話に耳を傾けた。
「 綺麗に乾いたみたいだ。ちなみにこの蝶はオスだね。メスの場合はこの青や緑に輝いている部分が少し白っぽく見えるんだ 」
「 そうなんですね。そんな微かな違いが。もしかして、その辺の蛹も全部同じ種類ですか? 」
「 うん、そうだよ 」
「 じゃあもしかしたら、一斉に羽化するかもなんですね。ふふ、どうやってご挨拶するんだろ。少なくとも真正面じゃ無理ですよね 」
「 どうして? 」
「 だって、翅の色が見えなきゃ相手が同性か異性か判らないじゃないですか。ひいては友達になれる相手か恋人になれる相手かを見極められないってことになるかなって 」
「 …ぷっ 」
「 どこかおかしい? 」
「 うん。そういう考え方って、蝶のことを知らない人あるあるだなって思って。残念だけど、カラスアゲハたちは…というより、蝶たちは自分の仲間を見るとき、そこにある緑や青の美しい斑点や模様のパターンを見ていないと考えられているんだ。周囲を見るとき、彼らは色すらも見ていないと考えられている。少なくとも、人がそれを見るようにはね 」
「 そう・・・なんですか。色を見ないの?でも、じゃあどうやって花を花と見極めているんですか? 」
「 はい、いい質問です。実は蝶やミツバチなどの昆虫は、人間には見ることの出来ない紫外線を見る眼を持っているんだ。彼らの目は紫外線が当たった部分が色変わりして見えるようになっている。それで仲間を見極めているし、異性か同性かもひと目で分かるようになっているんだ。
実際に紫外線が映る特殊カメラで花を撮影すると、どんな花でも中心が色変わりして映る。それで蝶たちは蜜にありつけるというわけ。これに対してヒトや他の動物は可視光線より波長の短い紫外線を見ることが出来ない。文明の利器を使えば見られるけどね 」
「 そんな仕組みなんですか?でも、前にユキちゃんから、花に色があるのは昆虫を呼び寄せる為だって聞いたことがあったんですけど。昆虫たちが色を見ていないのなら、矛盾していませんか? 」
「 ううん、ちっとも。もともと花の色には二つの役割があるんだ。一つは、昆虫や鳥などを呼び寄せて花粉を運んでもらうためのアピール。一部、色を見ている昆虫がいる事は判っているしね。ちなみに鳥類は赤・緑・青と透明の4原色を見分けることが出来るんだよ。人間は赤・緑・青の三原色しか見えないんだけど。だから、花に色があることは決して無駄じゃないんだ 」
「 緒方さん、透明って? 」
「 紫外線のこと。それで、花に色があるもう一つの理由だけど、紫外線対策のためなんだ。そもそも花の色素には紫外線から生じる有害な活性酸素を消す働きがあってね、植物は紫外線から身を守るために色素を獲得したってわけ 」
「 …っ…初めて知りました! 」
「 ふふ、そうだった?ちなみに、花を彩る色素って、実は3つしかないんだよ。フラボノイド・カロラノイド・ペタレインの3つ。
花の色の大半はアントシアン(フラボノイド)で、赤や紫~青の広範囲の色を発色しているんだ。余談だけど、白という色素はこの世にないの。
白く見える花にはフラボンやフラボノイドという色素があって、これらは太陽光の色を吸収せずに素通りさせるという性質があるんだけど、白く見える花弁は実は透明で、けれど空気の穴が沢山あるからそれで白く見えているだけなんだ。ほら、ビールって黄色なのに泡は白く見えるでしょ。それと全く同じ原理。あれも泡の中に空気がたくさん入っているから白く見えるだけなんだよ 」
「 すごい!そんなこと、知りませんでした! 」
「 そう。この話も教授から聞いたことなかった? 」
「 無かったです!なんか感動しちゃいました。緒方さんって意外と物知りだったんですね 」
「 意外とって… 」
「 でも、そうやって知っていくと本当に感動します。そうなんだ。花に色があるのは紫外線対策のためで、昆虫や鳥は紫外線が見える眼を持っていて。・・・私たちが知らないだけで、自然は共鳴し合いながら共存しているんですね 」
命は循環し、そして共存している。
これはユキちゃんの口癖だ。
本来のユキちゃんの専門は雑草生態学なのに、ユキちゃんの知識が生物生態学にまで及んでいるのはそれが理由なのだ。
私が大好きな農学博士は途轍もなく知識が広い。
だからなのか、今までもユキちゃんの所にはたびたび農林水産省などの大きな機関から、調査依頼が来ることがあった。
「 緒方さん。聞いてもいいですか? 」
「 なに? 」
「 ユキちゃん、海外に行くんですか?それも、探求心を満たすための旅ではなく、もっと別の理由で? 」
言いながら、急に心細い気持ちになった。
それを察してくれたのか、私を見下ろした緒方さんが、眉をハの字の形にした。
「 もしかしたら今日、それを聞くために大学に来たの? 」
「 …そう。ユキちゃんに直接聞こうと思って 」
「 なのにどうしてキョーコちゃんはこのハウスに? 」
「 ・・・・・ 」
ぶっちゃけ、こうなった経緯を告げ口しても良かった。でも話したくないと思った。
それは、あとが怖いからでも、脅しに屈したからでもなく、心の底から面倒くさいって思ったからだった。
「 キョーコちゃん? 」
「 ・・・・黙って入っちゃってごめんなさい 」
「 そう。告げ口する気はないって事だね?それはそれでいいけど、どちらにせよこのことを社教授に報せたら自然と勘づかれる事だと思わない? 」
「 え・・・ 」
「 だってそうでしょう。僕はこのハウスに入るのに、外の鍵を開けて入って来たんだから 」
「 …っ… 」
「 ねぇ、キョーコちゃん。蝶は、僕らとは違う視界を持っている。それは、人がどれほど焦がれたとしても手に入らないものだ。でも、人間だからこそ見える世界というのもあると僕は思うんだ。
もっと注意深く、もっと心を配って、もっとよく考えて目を凝らしてみたらいいと思う。そしたらね、その目には映らなくても見えてくる世界はきっとあるよ 」
「 …はい… 」
はい、と頷いておきながら、私はこの時の緒方さんの言葉を全く理解していなかった。
「 取り敢えず社教授に電話するね。キョーコちゃんを心配して探しているみたいだから 」
「 うそ? 」
「 本当だよ。ほら、僕の所にメールが来ている 」
くるりとひっくり返された画面に表示されていた現在時刻は9時21分だった。
緒方さんがユキちゃんに電話を掛けた数分後、ユキちゃんは息を切らしながら駆けつけてくれた。
額にいっぱいの汗をかいて。夕方見た時と同じ格好のままで。
その姿を見ただけで胸がいっぱいになってしまって、すぐ私の視界は涙で滲んだ。
「 …っ…キョーコちゃん!!! 」
「 ユキちゃん、心配かけてごめんなさい 」
「 本当に心配した!どうして家に携帯を置いて行ったりしたんだ! 」
「 だって、うちから農学研究科までは徒歩5分しかない距離なんだもん 」
後から聞いた話しによると、家に私がいないのに、携帯が置きっぱなしになっていることに不安を覚えたお母さんが、そこに私はいるかとユキちゃんに電話をしたらしい。それで私がいなくなっている事に気付いてずっと探してくれたみたい。
それが何時頃のことだったのかは分からないけど、少なくともそのときユキちゃんのそばにはまだ敦賀さんがいたのだろう。
ユキちゃんと一緒に駆けつけてくれた敦賀さんは、緒方さんに話しかけられて私たちから少し離れた。そのまま緒方さんと話している。
途中、私の視線を感じたのか、敦賀さんはふと顔を上げて私の方を見たけれど
敦賀さんと目が合った瞬間に私は大急ぎで視線をそらした。
E N D
カラスアゲハ。最近見なくなったなぁ・・・。子供の時は初夏の頃になると必ず見かけた蝶だったのに。
⇒農学博士の偉大な研究◇6・拍手
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