Clementi : Piano Trio in F Major, Op.32, No.1
コロナ禍で室内楽の会のメンバーと顔を合わせない月日がとうとう1年以上になった。先日、その仲間の一人、M氏が亡くなったという知らせを受けた。顔を見ないままでそれっきりになることが本当に起きてしまった。氏は会の中ではチェロ奏者で通っていたが、元々はピアノ奏者で腕前も確かなので、時々メンバー不足のピアノを引き受けることもあった。性格は飄々として嫌味がなく、酒好きで付き合いもよく、皆から慕われていた。室内楽ではチェロ同士が一緒になる機会は少なく(せいぜい弦六や一部の弦五のとき)、表面的な挨拶程度であまり話をすることはなかった。しかしある時、その日の予定曲を終えたときに、わざわざ話をしに私の所に寄ってきたことがあった。
「さっきやったクレメンティのトリオは、何かおさらい会みたいな曲だったけど、なかなか楽しかったよ。」
その曲ではM氏はピアノを担当していた。曲目のクレメンティの作品32のトリオの楽譜を私の提供する「譜面倉庫」からプリントしたからで、私としても提供し甲斐があったのだ。
人がこの世を去ることには一様に寂しさを感じる。コロナ感染ではなく、持病の悪化ということだったが、不調を訴えて入院してから3カ月で旅立ってしまった。M氏の言葉はこれからもずっとこの曲と共に記憶されることだろうと思う。それと同時に、先立った多くの人々と同じように、私も従容として自分の番が迎えられたらいいなと思っている。
モーツァルトのライバルとされたムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi, 1752-1832) はローマで生まれたが、少年時代から英国に渡り、チェンバロ奏者からピアノ奏者として大成した。20代後半にフランス、ドイツ、オーストリアなど各地を演奏旅行した後は、生涯のほとんどを英国で過ごした。作品のほとんどはピアノ曲である。室内楽曲として20曲ほどのトリオがあるが、フルートまたはヴァイオリンとチェロの助奏付きのピアノ・ソナタが実態になっている。これはハイドンのピアノ・トリオでもチェロ・パートがピアノの左手譜と同じ音符をなぞるだけと同様で、あまり合奏の緊張感はない。
Clementi sonata for piano, flute and cello Op 32 No 1 in F major
Pietro Spada(Pf), Gianni Biocotino(Fl), Andrea Bergamelli(Vc)
作品32のトリオ3曲は1793年以降ロンドン、ウィーン、ドイツで次々に出版されている。その曲の可愛らしさで当時人気があったのだろうか。
IMSLP : Sonatas for the Piano-Forte with Accompaniments for a Flute & Violoncello ad libitum, op.32 1793/4 London Wien Mainz Offenbach
楽譜はイタリアのウト・オルフェウス(Ut Orpheus)社版のピアノ・スコアとパート譜を下記URLの「KMSA室内楽譜面倉庫」で参照できる。
Clementi - Piano Trio (Sonate) F-dur Op.32 No.1
KMSA譜面倉庫 http://bit.ly/2palD77
ヘ長調、2/2拍子。プレストというほどの疾走感は全くない。ピアノがソロで快走するテーマを弾き始め、フルートが追いかけて併走する感じである。古典派の簡素な魅力がある。
第2主題も底抜けに明るい。モーツァルトに似ている部分と似ていない部分が混在している。私たちはすでにモーツァルトの物差しで曲の尺度を測る習慣が定着している。似ているとすれば、それはその世代の空気であったのかも知れない。
第2楽章:ロンド、アレグロ
ヘ長調、2/4拍子。譜例を見て始めて気がつくが、テーマが弱起で始まる。フルートやチェロは休みをカウントしてから出るのだが、出だしが拍の裏側からになるので、ちょっと騙された感じになる。しかしロンド楽章の弱起は古典派時代には珍しくはなかった。
【対決の逸話】
20代のモーツァルトとクレメンティがピアノの弾き比べをしたという話は誰もが知っている有名な逸話である。音楽家 Robert Greenberg 氏の英文サイトに「月曜音楽史話~モーツァルトとクレメンティの対決」と題する詳しい記述があったので以下に抄訳してみた。
Music History Monday : Mozart - Clementi Duel
https://robertgreenbergmusic.com/mozart-clementi-duel/
©Robert Greenberg 2017
モーツァルト(クレメンティよりほぼ4歳年下)はザルツブルクでの職を辞し、1781年5月にウィーンに定住した。彼は25歳だった。モーツァルトは自分の天分を知っており、世界で最も偉大なピアニスト兼作曲家であることを自覚していた。ウィーンでの彼の最初の仕事は、その素晴らしい都市のすべての人に彼の素晴らしさを認めてもらうことだった。
それはまさに1781年12月24日に起こった。ウィーンに到着したばかりのイタリアのピアニストと腕比べをするよう皇帝ヨーゼフ2世から宮廷に呼び出されたのだ。そのイタリアのピアニストの名前はムツィオ・クレメンティだった。
クレメンティは彼の同時代人によって最も偉大な現役のピアニストの一人であると見なされていた。彼は3年間の欧州各地を巡る演奏旅行の途上にあった。1781年12月にウィーンに到着した彼は、クリスマスイブに皇帝とその賓客を楽しませるために、地元のモーツァルトという名前の男との弾き比べを行うことに同意した。
クレメンティはモーツァルトの第一印象を次のように説明している。
「皇帝の音楽室に入ると、その優雅な外見から彼を皇帝の側近の一人だと思いました。しかし、話をし始めるとすぐに私たちはモーツァルトとクレメンティとしてお互いを認めました。」
モーツァルトはそこから話を続けている。
「クレメンティと私がお互いに十分な褒め言葉を交わした後、皇帝は、クレメンティが最初に演奏すべきだと発言しました。《カトリック教会から聞こうか!》クレメンティはローマ出身だからです。彼は即興で弾いたあとにソナタを演奏しました。」
クレメンティは変ロ長調(Op.24 No.2)のソナタを弾いた。流麗できらびやかな超絶技の作品である。モーツァルトの特徴であるメロディックな優雅さと調和のとれた想像力が欠けているが、それは他の誰の音楽でもそうだった。
クレメンティの演奏に続いて、モーツァルトの番だった。モーツァルトは書いている:
「私は即興で演奏し、いくつかの変奏曲を演奏しました。」
モーツァルトが言及する変奏曲は、フランスの作曲家グレトリーの1776年に書いたオペラ「サムニットの結婚」からの行進曲だった。この数日後、モーツァルトがグレトリーの行進曲に基づいてピアノ曲の主題と変奏曲(K.352)を書き上げたので、私たちはそれを知ることができる。彼が書いた変奏曲は、即興で演奏したものの正確なレプリカではないにしても、非常に近いものとされている。前夜の即興演奏を書き留めることは、彼がいつもやっていたことだった。
聴衆の中には、皇帝ヨーゼフ2世の弟レオポルド大公と彼の妻、マリア・ルイザ大公夫人がいた。皇帝と同じように大公夫人は大の音楽好きだった。しかし、ヨーゼフ2世とは異なり、彼女の好みは明らかにイタリアの音楽や演奏家に向けられていた。 (10年後、マリア・ルイザ大公夫人は、モーツァルトのイタリア語のオペラ「皇帝ティトゥスの慈悲」を「ポルケリア・テデスカ」(ドイツのがらくた)と貶して音楽史に逸話を残した。)大公夫人は皇帝と個人的な賭けをしていた。彼女はクレメンティが勝負に「勝つ」と確信していたが、皇帝はモーツァルトにお金を賭けていた。
モーツァルトがグレトリーの行進曲の変奏を終えると、大公夫人が前に出てきた。モーツァルトは次のように回想している。
「大公夫人はパイジエッロのソナタを取り出しましたが、その楽譜は彼自身の手で判読不能に書かれていました。私はその [第1楽章] アレグロを読みながら弾かなければなりませんでした。その後、クレメンティは [第2楽章] アンダンテと [第3楽章] ロンドを読みながら弾きました。皇帝が私に非常に満足していたことは、信頼できる筋から得た情報です。」
モーツァルトのウィーンでの評判が俎上にあるのを彼は知っていた。そして彼は正しかった。皇帝は彼の演奏に非常に満足していたのだ。
公式には、勝負は「引分け」と宣言され、100ドゥカートの賞金はモーツァルトとクレメンティの間で折半となった。
クレメンティは、確かに競争相手モーツァルトがはるかに優雅であり、その演奏に魅了されたことを喜んで認めた。 彼は後で書いた:
「それまで、これほど快活で優雅に演奏する人は聞いたことがありませんでした。」
一方、モーツァルトはクレメンティにそれほど優しくはなかった。 対決の数週間後、モーツァルトは次のように書いている。
「クレメンティには、クロイツァーのような味わいや感性はありません。つまり、彼は単なる技術屋です。」
当時の音楽動向を考えると、クレメンティが独墺系であったとしたら、モーツァルトは彼の演奏と音楽についてもっと好きなものを見つけることができたのだろうと思われる。
©Robert Greenberg 2017
Clementi: Sonata Op.24, No.2 in B-Flat: Allegro Con Brio - Vladimir Horowitz
上記の記事の中でクレメンティが弾いたソナタが作品24の2だったとすれば、それも10年後の因縁話につながることになる。この作品は1784年にロンドンで出版された。ちょっと聞いただけですぐにわかるが、モーツァルトの1791年の歌劇「魔笛」の序曲のモティーフに酷似している。この指摘は随分前から行われているが、モーツァルトであればパクリでも何でも許されるのは確かだ。この対決時の記憶が10年後に何かの拍子で楽想として浮かび上がったのだろうか。往年の大ピアニスト、ホロヴィッツは積極的にクレメンティのソナタの演奏や録音に取り組んでいたことも有名だ。