冬(コールドでウェット)の季節の、水(コールドでモイスト)の女性格のサインです。季節の終わりにあることから、ミュータブル(柔軟宮)なサインです。

 


ミュータブル・サインなので、固定的な要素や、物を形作る(地のエレメント)の要素がありません。水をつなぎ留めておくことはできません。入れ物に入れて保存するという手はありますが、それをわざわざ水の季節に行うことはありません。苦労しなくても、そこには、コールドでモイストがあります。

水は風に次いで柔軟であり、多少粘着性があるので、境界線を無にしてしまう性質を持ちます。受容的というよりも、同化して一つに結び合わせてしまうのです。

感情は、対立するものもあります。同化というのは、対立を無くしてしまうことです。ギスギスする感情さえも受け入れてしまうなら、それこそ水のエレメントです。

感受性とは真逆の性質を持っています。感じる性質も、反駁する気持ちも、違和感を唱える心も、全て受け入れる、わけの分からないエネルギーなのです。包み込むという感覚とも違っています。

私の古代の先生の一人は「飄々(ひょうひょう)」と表現しました。捉えどころが無いのです。水を手で捕まえてみてください。感情を捕えてみてください。一時すくうことはできますが、その水が手と同化することをイメージすると、それが「水」です。

蟹のサインがカーディナルな最も綺麗な川で、蠍のサインが淀んだ匂いを発するような水、魚のサインは広大な海であり、あらゆるものを、大陸でさえも、最後には飲み込んでしまう普遍性を持ち、境目の無さを強調します。

このサインは確かに内省的なのですが、感情とか、感受性を超えています。全ての物の境目を、物質だけではなく、精神的な境目さえも無くしてしまうことを想像してみてください。誰も、気付かなかった本来の水の性質に気づいてください。(荒行である滝行は、宇宙との一体感を目指しています。)

しかし、ミュータブル・サインの全てがそうであるように、その季節を大事に後始末をして、次の季節に、季節を引き渡す役割を持ちます。


一方で、魚のサインは季節に彩られています。日本においては、寒くなるころ「山羊のサイン」から雪が降り積もります「水瓶のサイン」。この季節「魚のサイン」は、冬が終わりそうで、春がまだ来ない不安定な時節です。雪の下には枯れた葉が眠り、しおれた植物は次の生命たちに養分として残されていて、ほどよく栄養分を温存しています。氷に覆われていた湖や小さなせせらぎには魚の泳ぐ様子が再び見られることから、魚のサインにされたと伝えられます。

木星が魚のサインのルーラーで、金星がイグザルテーションのルーラーです。やはり、魚のサインの意味は、宗教的な木星の意味と、楽しみを享受する金星が相まって構築されています。木星はホットでモイストであり、ここの水が完全に冷たくはないことを示しています。広大な受容的な木星の精神性は、猜疑心も、感情的なブレも、感受性も全て飲み込み、明朗で、闊達な心と共に、イグザルテーションの金星の喜びに溢れた気持ちに変えます。

つまり、魚のサインの究極は、何のわだかまりもない、飄々とした、澄み切った水のような心(それをスピリチュアルと言うのかもしれません)が底辺になるように、木星と金星が作り上げているのです。明らかに、これは感受性とは異なるものです。

木星は、ある種の普遍的で利他的な思いやりを与えます。

水星がここでデトリメントとフォールになり、よく次のように表現されます。水星が、水の上に文字を書こうとするようなものだと。
 

♈のサイン

♉のサイン

♊のサイン

♋のサイン

♌のサイン

♍のサイン
♎のサイン

♏のサイン

♐のサイン

♑のサイン
♒のサイン
♓のサイン