不思議なできごと -3ページ目

不思議なできごと

できるだけオリジナルな、或いはそれに近い怪異譚を公開してゆきたいです。

 石原裕次郎さんの奥さんだった北原三枝(石原まき子)さんが娯楽よみうり昭和33年8月1日号に幽霊談を寄せています。今回はそれを掲載したいと思います。


私は幽霊を信じた

北原三枝   


黄ダンになった弟

  疎開中の私にとっで、一つの大きな悩みは一緒に疎開している弟の和男の身体が弱いということでした。
 新宿駅を発つ時、母は「まき子ちゃん、和男を頼みますヨ」
 と、しっかりと私の手を握っておっしゃいました。   
$不思議なできごと しかし、私は、ただ母に頼まれたというだけではなく、現にこの弟がかわいそうでならなかったのです。また和男ほ幼いながら、一生懸命、なにかと私を慰めたり、かまったりしでくれたのです。
 だが、この弟も、いろいろとさびしいことは多かったでしょうが、清い空気と不自由しない食物とでやや元気になり、私もほっと一安心したのです。が、それも束の間、黄ダンにかかっでしまいました。

 「しまった」と思ったとたんにのしかかるような責任を感じました。そしてその日から、ひまさえあれば、近くを流れる塩川や、田んぼを流れる小川をさまよっては、シジミをとっで歩きました。この黄ダン療法ほ、だれから教えてもらったというわけではなく、いつとはなしに耳学問で聞き覚えたものでした。秋ならともかく、冬の川は、足がしびれるほどのつめたさでした。しかも一日ぐらい歩いたところで、せいぜい茶わん一杯か二杯が関の山。あまり成績のはかばかしくない時たどは、カラの茶わんを持ったまま、泣きたくなって来ました。
 こうしで拾って来たシジミを、私の手製のミソ汁に入れで弟にのませたのです。弟の病気だけは、祖父の家の方々の手をわずらわすことなく、私の手で治したかったのです。
 弟が「姉さん、おいしい、おいしい」 とニコニコして飲んでくれる時のうれしさ。そうした弟の笑顔をみるたびに、何かしら生きがいのようなものを感じました。

 ショックだった祖父の死

 というような次第で何やかやと、忙しい日、悲しい日が過ぎ去っで行きましたが、その年の暮、祖父が突然亡くなりました。祖父の死、兄の戦死、疎開………昭和十九年という年は、ほんとに悪魔に魅入られたような年でした。
 それにしでも祖父の死はものすごい衝撃でした。やさしいおじいさんでした。疎開前はもちろんのこと、疎開中も、世間の冷たい目から、私をそっとかばってくれたのはこのおじいさんでした。
 私の母が祖父の長女だったからでしょうか、祖父にとっでも、私の母が一番かわいかったようです。そうした母に対する愛情が、そのまま私たち孫にまで注がれたとも考えられます。
 こんな祖父でしたから、孫が生れたと聞くと、シンゲン袋に、アズキやカンピョウをいれて、大急ぎで上京して来るのです。これは一番下の弟七郎が生れた時のことですが、この時も、祖父はいち早く上京して参りました。そして生れたばかりの赤ン坊をみるなり、やにわに
  「この子の名は七六だ!」
 と叫んだから大変です。家中のものは一瞬きょとんとしで顔を見まわすばかり。七六という珍妙な名前の出所がわからないからでした。
  「おまんたち(お前たち)は何を考えてる。七六ってのは山本五十六元帥にあやかってつけた」
 これには一同あ然としましたがこれじゃこの子が大きくなった時「おい七六!」なんてのはあまりにもかわいそうたという反対にあって、ついに七郎という名前に落着いたわけです。祖父はまことに不本意だという顔をしておりましたが、結局はしぶしぶこれを認めてしまいました。
 まあ一事が万事で、祖父が私たちに示した愛情といえば大変なものでした。今この原稿を書きながらも、よきおじいちゃんの在りし日の姿がほうふつとしてよみがえって来ます。今でも、雑誌社のお仕事などで、田舎に行った時など祖母と祖父の話をしまして、泣いたり笑ったりしております。
 とにかく、祖父の死はショックでした。
 それからというもの、よけいに疎開生活は空虚なものとなって来ました。心の支えがなくなった私は、病弱の弟をかばいつつ、美しい自然を楽しむことが何よりの喜びのような気持がしました。

 ウメの木陰に白装束の女

 前にも書きましたように、疎開先の山梨県北巨摩郡藤井村というところは、風光の美しいところで
す。住んでいる分には申分のない農村でした。
 しかしこの風光明びも、大変迷惑だったこともあります。私の家は、塩川の河原に近かったので、村のうちでも景色のよいところでしたが、困ったことには学校の帰り、お使いの帰りなどには、竹ヤブを抜け、墓場を通らなければならないほどさびしいところにあったのです。夕暮時にここを通る時など、お化けが出るんじゃないかといつもビクビクしていました。
 ところが本当に幽霊が出たのです。幽霊など全然信じていなかった私も、あまりにも明白に私の眼底をとらえたこの幽霊には、身の毛もよたつ思いでした。そしてそれ以後私は、幽霊というもの、ひいては霊魂というようなものは存在しないとはいえなくなってしまいました。
$不思議なできごと それは春雨の降る夜でした。真夜中、ご不浄に起きたのです。農家のご不浄は、別むねの物置小屋にある家が多く、私の家のも、母屋から十メートルくらい離れていました。
 私か用を足し終ってご不浄から出て来ると、パサッと何かの物音がしたような感じがしましたので、ふとふり向くと、ご不浄の隣のウメの木の陰に白装束の女の人が立っているではありませんか。透き通るような美しい人で、きちんと日本髪を結い、その毛が二本スーとホオにたれて、ジッと私を見つめているのです。私はその瞬間おそろしさのあまり声も出ず、地にはいながら祖母の床へもぐりこみ、一晩中ふるえていました。
 翌朝、このことを家の人に話すのさえこわくて、真っ先に起きてそっと一人でご不浄へ行って見ますと、ちゃんと私か用を足した跡があるのです。ああ、私は確かにご不浄へ行ったんた。とすれば、あの幽霊は本当だったんだ。
 それからというもの、私は幽霊の存在をすっかり信じこんでしまいました。心霊術などというものが流行しているそうですが、やはり私たちの世界には、物質的には割切れない何ものかがあるということを知った以上、これを信ぜざるを得なくなって来たのです。

  東京が灰になった!

 さて学校はと申しますと、授業内容が最初のうちは、ほとんど東京で習った個所ばかりであり、学校へ行っても、友だちは冷淡で、また大部分は防火訓練とか勤労奉仕ばかりでは、まことに不愉快な学校生活でした。こんなことが原因で、授業を甘くみたり、怠け心を起したりしているうちに、学校に対する興味、勉学に対する関心はうすれて行きました。これが私の生涯に大きな影響をおよぼそうとは思いもしませんでした。
 そうしているうちにも憎むべき戦争は激烈を極め、昭和十九年十二月二十五日、翌年三月十日の二回を中心にした米空軍の大爆撃によって、東京は全くの灰じんと化してしまいました。「東京がやられている!」私はラジオの情報を聞きながら父母たちを思い、おろおろと泣いておりました。

 三月十日、ついに私たちの上目黒の家は焼け出されました。そして母と弟は、隣村の祖母の兄の家に逃げて来ました。その家と私の家とは一里くらいは離れていましたが、母が出かけて来たり、こちらから出かけたり、毎日行き来していました。母が近くにいる。そう思うたけで、私は十万の味方を得たような気がしました。
 しかし母は、農家の出身でしたが、当時身体をこわしていましたため畑仕事は手につかず、もっぱらよその家事手伝いなどされておりました。やはり疎開者という気兼ねが、病弱の母にこんな苦しい仕事を押しつけたのです。かさねがさねの心労にガックリ肩のさがった母の後姿を見ては、私はソッと涙をぬぐったものです。
 かくして八月十五日、戦争は終りました。



 まあ幽霊談というよりは、戦争中の苦労話といった感想のほうが強い内容ですが、当時一流の女優さんがこんな手記を掲載していたのだなぁと思うと、何か、まだまだ隙間のあるのんびりした時代だったのだなぁと、そんなことを思ってしまいます。






$不思議なできごと 西隣のアパートに住んでいた若者の話。

 彼は、その窓にカーテンをしていなかったので、1メートル数十センチ離れて向かい合わせになっている隣のアパートの窓がよく見えていたため、時々そこの住人の影を見ていた。
 ほとんどが夜で、曇りガラス越しに見える照明からの影により、その住人は男性だということはわかっていた。
 アルバイトが急にキャンセルとなったある日の午後、彼は何の気なしに向かいの窓を眺めていた。
 すると、曇りガラスが嵌められた内窓ががらりと開けられ、五十代風の痩せぎすの男の姿が見えた。
 髪は短いが寝癖が見えてややぼさぼさ、無精ひげが鼻の下と顎あたりに見えた。起きたばかりなのだろうか。と思いながら見ている内に、一瞬、男と目が合ってしまい、彼は思わず頭を下げた。相手の男も少し頷くような仕草をしたように見えたが、なんとなく気まずいので視線をずらし、席を立ってしまった。

 その後彼は、覗き見しているように思われるのも嫌なので、窓にカーテンをすることにし、そのエピソードを近所に住む友人に電話で話すことにした。すると、相手から意外なことを言った。隣のアパートは十年以上は空き家で、誰も住んでいる筈がないと言うのだ。
 彼はあわてて外へ出て隣のアパートを見に行った。すると、確かにそこは空き家で、何年も人の住んでいた形跡のない建物だった。通学や買い物する場所は逆側にあったため、隣のアパートを見たことはほとんどなかったのだ。
 ためしに階段に張られたチェーンを乗り越えて2階まで上がってみたが、そこにも人の形跡はなく、浮浪者が入り込んだ雰囲気すらなかった。
 彼は急に寒気を感じ、引越しを思い立ったという。

 そこは、今現在もある筈である。
 
 この25日、近郊の炭鉱跡へ友人と二人で行って来ました。友人のルーツ探しの名目だったのですが、そこは一緒に行くのが私ですから、ただでは転びません。もちろん廃坑の施設などの見物にも向かった訳です。
 そこは元廃坑の施設を文化遺産と捉え、保存してゆくテーマパークとしてやってゆく筈だったのだと思います。休憩所や管理棟、遊歩道なども整えられていたようですが、今は人影がありませんでした。やはり遊戯施設などがないと弱いのでしょう。おそらくこの10年近くは維持管理もままならない状態で、ほとんど野ざらしでした。
 そんな中にあった休憩所らしき建物。トロッコのレール跡が見えることから、昔はトロッコに石炭を乗せる駅のような性質を持っていた建物なのでしょう。頑丈なコンクリート製の建物ですが、ぼろぼろに見えます。不思議なのは階段がないのに二階建てなこと。昔は外側に階段が付いていたのでしょうか。
 ともあれ、私はこの建物内をガラス越しに撮影しました。その写真がこれ。
$不思議なできごと

 中には施設を説明するパネルが何枚か立っています。あとは柱と椅子があるだけ。ガラスには写真を撮っている私と友人の姿が青く写っています。友人の姿は中のパネルにもやや小さく写っています。気になったのは黒い枠の中の白いモノ。鳥が私の首をつついているような、人の顔が圧縮されたようなものが写りこんでいるのです。大きく伸ばして見ても、どうも反射とかゴミや汚れの類ではなさそう・・・。
 この時私は印象的な事を思い出しました。この後友人と廃小学校を探して歩いたのですが、その途中の森で「ぎゃっ」という若い女性が叫んだような声を頭上から聞きました。私たちは声のあった方向を見上げましたが、鳥や動物の姿は確認出来ませんでした。何とも嫌な声でした。
 それで私はこの声の主がここに写りこんだのだと思ったのです。
 私はそのことを書き添えて、この写真を一緒に行った友人に添付メールで送りました。
 程なく返信されてきたメールに私は驚きました。メールには以下の内容が書かれ、写真にはいくつかの枠が付されていたのです。
$不思議なできごと『♯4は、鳥にも見えますが 白いハンチング帽じゃないですか?
肩越しに「俺にも見せて....」と言ってるみたいです。
背の低い男のようです。悪霊じゃないね....年齢は30 代かな。
剽軽な奴です。

♯1と♯2 ドーナツ型のオーブ状のもの。雲にしても 窓の埃にしても ありえない位置。
♯7も 雲にしては形がおかしい。
むしろ嫌な気を出してるのが ♯3の反射した雲ですが、獣のような顔で左上に咆哮してますね....気がかりな存在ですが。
邪気を感じます。

♯5 反射したあたしの右腕が服から先すっぽり見えませんw 
いきなり背景の草むらです。

♯6 ガラスと撮影者の間にあるから一見、汚れにも見えますが、汚れなら すぐ右横に縦にあるガラスキズのようにピントがあうはずなんですが なんの靄でしょうかね。
これも気になりました。』
 
 実はこの友人はよく“感じる”ことの出来る人だったのです。だからオブザーバー的な存在として同行してもらったとも言えるのです。
 私は雲の形うんぬんとか、靄とかはあまり信じることは出来ないのですが、ドーナツ状のもの、彼の右腕、そしてハンチングはそれなりに説得力を持っているように思えます。そして私も新たに見つけました。黒枠の[A]の部分。本来は私の左腕が写っている筈なのですが、ここには靄に包まれて私の左腕が見えていません。この時私は半袖シャツを着ており、右腕同様左腕も露出していたのです。私の左腕を覆い隠したこの靄は一体何なのでしょう?

 とまあ、たった1枚に結構な収穫(?)がありました。もちろんほかにも沢山写真を撮りましたが、検証はまだです。何か出てきましたら、またこちらで紹介したいと思います。
 ご意見、何かほかにも「見える」「感じる」ことがありましたら、どしどしコメントください。よろしくお願いします。


8月31日追記

 この写真は先の施設を出たすぐのところにある崩れた橋から写した川の模様です。白で囲ったところに髑髏のような、ミイラのような顔があります。
 って、これはまあ、シャレみたいなもんで、別に自分は何も感じないんで、たまたま黒い丸の部分が四つあるんで顔に見えるというモノだと思っているのですが。
$不思議なできごと-どくろ?
不思議なできごと-神社 7月29日。 この日は友人と朝から川の流域を探索していました。
 というのは、この川周辺には、明治から昭和中期までの人々の生活の跡が残っているということと、しかもその中には幽霊の噂のある場所もあるということで、非常に興味を持ったためです。
 デジタル写真を撮りながら流域を歩き、終点の公園ではビールとウイスキーをいいだけ飲んでよい気持ちになってその日の川めぐりは終わりとなりました。
 その日のうちに私は友人のみが閲覧可能なソーシャル・ネットワークに簡単な記事と写真を掲載しました。

 翌日、ひとつのメッセージと数本のコメントを読んで愕然となりました。一緒に歩いた友人からの、記事と写真の削除要請だったのです。驚いて連絡を取ると、こういうことでした。

 『昨日、サイトに掲載されたページを見て、特に問題がないことを確認して眠ったんだけど、数時間したら眼が覚めて、トイレに行こうと立ち上がった時、部屋の隅に何かの気配がしたのでそちらを見たら、男の影が見える。まあ、そんなことは俺には日常茶飯事なので大して気にも留めずそのまま用足してまたすぐ眠りに就いた。
 朝起きると、人の影はなく、特に何事もなかったように思えたんだけど、かすかに右腕が痛む。見ると、紙で切った様な浅い直線の切り傷が2本あった。どこかで擦ったかなぁ、程度のものなので、さほど気にもしないでそのまま茶の間へ入った。奥さんと娘さんがいつもと同じように、朝食を作ったり食べたりしている。ふと娘の右腕を見ると、紙で切った様なキズがある。
「ねえ、M(娘さんの名前)、その腕、どうした?」
「それがね、全然わかんないの。気がついたら、キズになっていたの。大して痛くないからいいんだけど。」
 するとかみさんも
「あら、あなたも?私もほら。」と右腕を見せる。そこには4センチ程度の細長いキズがあった。
 それを見て俺、ああ これはやばいな 憑いて来たなと思った。恐怖感はないけど 家族に害為すのだからこれは無視出来ない。多分サイトにアップされたことで、侮辱されたと思ったんだな。と。それで、削除をお願いした、という訳なんだ。』

不思議なできごと-滝 それで、すぐに記事と写真を削除したのですが、後で考えると確かにやばい写真だったのです。 まずは1枚目。川べりの道に入る前に地元の神社へお参りしたのですが、その時本殿を望む階段で友人を入れて撮った写真が紫色のヴェールのようなものに覆われていたのです。デジタルカメラが時々逆光の時に起こるエラーと似ていることは似ているのですが、その時は逆光ではなかったですし、友人の前を紫色のヴェールで遮断したという感じの、ちょっと普通のエラー時とは違う気がするものなのです。
 もう1枚は、天然氷を作っていた氷池を再現した沼の写真。ここではかつて事故があったらしく、「水の中に入って遊ばないでください」という看板がしつこい位立てられている所で、なんとなくどんよりとした空気が漂う池を写したもの。
 そして最後の1枚。実は案内してくれた友人が数年前首吊り自殺をした男の姿を幻視した藤棚があって、その現場で彼がその姿を再現した写真を撮ったのです。
今回は特に最後の写真がやばかったのでしょう。確かに死者に対して失礼なものだったのかも知れません。
 こんなことがあったので、今回は実際の写真を掲載するのは遠慮します。ただ、写真がないのは寂しいので、差し支えのなさそうな当日の写真を掲載したいと思います。ただ、これも、もし何かあったら即削除する積もりなので、公開は期間限定になってしまうかも知れません。

不思議なできごと-川 ちなみに、なぜ写真を掲載した張本人の私には何も起こらなかったのか、ということにも触れておきましょう。もしかしたら、私に霊感がない、ということなのかも知れませんが、ひとつ思い当たることがあります。
 実はこの日、友人と自分は用事を済ます為に2時間ほど別行動を取ったのです。
 自分は彼の用事が済む間、どこかで時間を使わなければならなかったのですが、近所に適した場所がなかったので、近くの霊園の中で過ごそうと考えたのです。そこには長時間休憩できる東屋があることを知っていたからです。自分はそこへ向かいました。思っていたより霊園の奥まった場所にあった東屋でしたが、無事到着することができました。そして、さあ、座って休もう、とした瞬間、そこに一人の老婆がいることにやっと気づいたのです。

「あっ、すみません。   ・・・私もここで休んでいいですか?」
 ととっさに言ったのですが、老婆は普通にしたまま
「どうぞ、どうぞ。」と手を長椅子のほうへ差し伸べながら言いました。
 年の頃は60代後半位でしょうか。おとなしい感じの老婆でした。
 彼女が私に拒絶感を持っている様子はなく、私も変な感じはしなかったので、普通に世間話をすることになりました。天気の話から入って、この東屋をなぜ知ったか、そして、今友人の連絡を待っている事などを話したと思います。それ以外は極普通の当たり障りのない話をしていたと思うのですが、何故か、いつの間にかこういう話になっていました。
「変に思われるかも知れませんが、私は時々奇妙なものを見るんです。」
「奇妙なものとは?」
「そう、世間では幽霊とかいうものなのかも知れません。・・・・信じませんよね。」
「いえ、そうでもありません。全部が全部無条件に信じるということではありませんが。」
 すると彼女、ちょっと微笑んで
「今日はどちらに?」
と問いかけてきたので、自分は今日の川巡りのことを語りました。もちろん当時は写真や友人の異変に気づいては居なかったので、川での怪異についてはここで語れる訳がありませんでした。
すると彼女は
「ふふっ」
と軽く笑うようにしながら、今度は彼女が身の上話を始めました。
 内容は個人的なものなので、ここで公表できるものではありませんが、彼女の立場からすると、非常につらい話だったに違いありません。
 なぜこんな場所でこんな話になるんだろうと思う気持ちもありましたが、なぜか嫌な気持ちはしなかったので、真剣に話を聞き、真剣に自分の意見を言いました。そして、いつの間にか2時間が過ぎていたのです。友人から呼び出しの電話が来ました。電話を切った私が
「それでは、これで失礼します。」
というと、彼女は
「それでは、持って行きましょう。」
と言ったのです。
"持って行きましょう?”
私はその言葉に違和感を持ちました。
「行きましょう。」ではなく「持って行きましょう。」と彼女は言いました。
彼女は何を持っていったのでしょうか?
 今となってはわかりかねることですが、今回自分に霊障が来なかったことと関係があるように思えてならないのです。


$不思議なできごと-氷池
 5月の連休中、Wさんから聞いた話。

 Wさんは建設会社に務めている。いろんな現場を掛け持ちして飛び歩いている人だが、昨年秋に不思議な経験をしたと教えてくれた。
$不思議なできごと-倉敷のアパマン情報

 Wさんの同僚に設計もこなすAさんという同僚が居る。Aさんはその頃N温泉旅館新築工事の現場指揮に行っており、Wさんは数日遅れて現地に行く手はずになっていた。
 
 WさんがN温泉に到着したのは、Aさんに遅れること4日。新築旅館の姉妹旅館の一室に相部屋で泊まることになった。まず荷物を置いて現場へ向かおうと思ったWさん。押入れの引き戸が10数センチ開いているのが気になって、それを閉めてから出かけた。

 現場は順調に進んでいたが、Aさんがちょっとやつれて見えたので、声をかけた。
「よ、Aさん。来たよぉ。と、ちょっと疲れてるんじゃないか?根詰めるなよ。まあ、俺が来たからもう大丈夫だが。」
 するとAさん、Wさんを見てにこっとして
「ああ、そうだな。よろしく頼むよ。」と返して来た。いつものAさんだ。心配はない。Wさんはそう思った。

 仕事を終えて旅館へ戻った二人。風呂へ入り、久しぶりにビールを酌み交わしていた時、Wさんはふと、押入れの引き戸が気になった。また10数センチ開いているのだ。さっき閉めた筈なのに、おかしいなぁ。Aさんが開けたのかなぁ。と思ったが、そのときは深く考えないままだった。

 それから毎日、ふたり揃って現場へ向かい、汗を流す。夜帰ってきて、風呂へ入り、食事をして、眠りに就く。という普通の生活。特に問題はない。ただ、やはり気になる押入れの引き戸。いつも10数センチ開いているのだ。最初は押入れが湿気るから旅館の人が開けているのかと思ったが、押入れの中はどこも濡れた跡すらない。それで、Aさんがわざと開けているのか訊いてみたが、Aさんは「ああ、よく開いているよね。何故だろうね・・」と言うばかり。何か変だが、特に何も起こらないので、毎度引き戸を閉めては首を傾げているだけだった。

 異変を感じたのは5日目のこと。夜中寝ていると、何か部屋に居る雰囲気があり、眼を覚ました。薄暗い部屋の中、誰かがAさんの上に跨っているのが見えた。よく見ると、寝巻きを着た中年のおばさんが、長い顔を垂らし、腰を曲げてAさんの顔を覗き込んでいるのが見えた。
 「うっ、泥棒!」と思って起き上がろうとしたWさんだったが、体が動かない。これがいわゆる金縛りというものなのか・・・。Wさんにとって初めての経験だった。それに、考えてみたら、こんな真っ暗な部屋で、あのおばさんだけがはっきり見えるのはおかしい。
 そう思うと、初めてぞうっとしたという。
暫くして右手指先が動くようになり、それから腕、上半身が動かせるようになったので、Wさんは思い切って上半身を起こし、うあ~っと叫んで、電灯を点けた。するとその瞬間、おばさんは覗き込んだ姿のまま、すうっと消えて行った。そして、その直後、Aさんががばっと起き上がった。汗をびっしょりかいて、眼が飛び出さんばかりに開き切っている。
 Wさんが情況を説明すると、Aさんは「あれは夢じゃなかったのか。」とつぶやくと、うう~っとアタマを抱えた。
Aさんはここに泊まるようになってから、毎夜同じ"夢"を見ていたという。
 それは、あの押入れの隙間から出てきて、Aさんの顔を数分覗き込んでから、反対側の壁に入ってゆく白い寝巻き姿のおばさんの"夢"だったという。
 「いや、それは夢じゃなかったんだよ。実際起きていたんだよ。」
 「・・・そうなんだよね。夢じゃなかったんだよね・・・」
 と言ってから、Aさんは今更ながらがたがた震え始めた。


 (写真は昨年、倉敷の賃貸物件紹介サイトに実際に掲載されていた"異質なもの"が写り込んだ写真です。)
 ご無沙汰していて突然ですが、昨日ある公園に行って、携帯で写真を撮ったら奇妙な写真となったので、その写真を掲載したいと思います。
 まず、この写真。公園の小高い丘にある東屋の前の林を撮影したのです。最初は手ブレの失敗写真と思ったのですが、よく見ると何かの流れのようなものが左右にあるのがわかったのです。左側3分の1が左側に、その右側が手前側から上に行ってぐーっとUターンして右側に流れて行ってるのです。 

$不思議なできごと


 これをエンボス加工するとわかりやすいと思います。
$不思議なできごと


 そして、この直前に撮影した横位置の写真。これも最初はただの失敗写真と思っていたのですが、よく見ると、これも上半分にお椀状の何かの流れがあるのがわかります。
$不思議なできごと


これもエンボスにしてみると、こう。
$不思議なできごと

 とにかく、この携帯は時々妙な写真が撮れます。それも一概に光のせいとか、手ぶれとかで説明できない程度のものがあり、本当に不思議なことです。
 何かお感じになることがありましたら、お気軽にコメください。ダメ出しでもかまいません。冷静に解析したいと思います。よろしくお願いします。


 ちょっと調べてみましたら、どうも携帯カメラのシャッターの中には、シャッターが下りるときにちょっと画面内にタイムラグが発生する場合があることがわかりました。よって今回はこの現象の不具合が画面に出たということのようです。まあ、よかったような、よくなかったような、微妙な感じではありますが、これからもこのカメラとはうまく付き合っていきたいと思っています。
不思議なできごと あの頃、僕はダイエットと運動不足解消のため、ジョギングを始めた。
 でも、走っている姿を他人に見られるのは恥ずかしいので、夜の7時以降になってから走ることにした。
 ここからA橋までは、往復約3キロメートル。数百メール行くと、堤防があり、そこを越えると夜には利用者がほとんどなくなる暗いサイクリングロードがあるので、ここをA橋まで走る姿は全く目立たない。小心者のジョギング初心者にはちょうど良い環境と距離に思えた。
 最初は片道1.5キロでも身体にこたえた。情けないことに、途中時々休みながらのジョギングとなった。
 しかし、徐々に慣れてきたのか、A橋まではノンストップで走ることが出来るようになった。それからはA橋の下で一休みしてから帰る。ということを繰り返した。1ヶ月もすると、一休みしなくても往復できるほど体力が付いてきたが、それでも橋の下で一休みすることはやめなかった。いや、それどころか、一休みの時間が、当初は5分程度だったものが、10分、20分・・と増えてゆき、長いときは3時間を越えることもあった。
 僕は橋の下で何をしていたかというと、ただ、ぼうっとしていただけなのだ。橋の上の喧騒をよそに、橋の下は意外と静かで、人の通りもほとんどない。川のせせらぎが聞こえ、涼やかな風も吹いてきて気持ちがいい、だから僕はコンクリートブロックの上に腰を下ろして、そこに長居をしていたのだ。

 ある日、橋の下で休んでいると、雨がぽつりぽつりと落ち始め、強い風も吹いてきた。そういえば、夜から雨だと言っていたな、と思い出した。普通の雨の時は橋の下は雨宿りにちょうど良いのだが、さすがに風の強い時ばかりはそうはいかない。そう思うと、僕は立ち上がった。時計を見ると、まだ8時を少し過ぎた位だった。いつもよりはずっと早い時間だった。
 本降りになる前にと、川原の道をいつもより早いピッチで走っていると、傍らから僕を呼び止める声がする。見ると、中学時代の同級生Oだった。
 「おう、ひさしぶりだな。元気だったか。」
 僕が声を掛け終わるのを待たず、Oは
「お前、何やってるのさ。」
と怒鳴るように言った。
 おや、こいつ、何を怒っているのだろう。
 とは思ったが、おそらく10年振り位の再会。努めて冷静を装った。
「ジョギングだよ。最近体重がちょっとね。」
「それだけじゃないだろう。変だぞお前。本当は何やってる?」
「だからジョギングだって。」
「違うだろう。それ以外にも何かやってるだろう。」
「何もしてないよ、何言ってるんだ。」
 僕も次第にむかむかしてきた。
「お前、自分の顔、鏡で見たことあるのか、そんな顔して何だ。」
「毎日朝晩顔洗う時に見てるよ。馬鹿にすんな。」
「いいから来てみろ。」
 とO君は僕の左腕を摑んでずんずん歩いていく。その先には彼の営業している喫茶店がある。僕は、そこに強引に連れ込まれた。
「そら!」
 O君はトイレのドアを開き、僕をそこへ突き入れた。否応なく鏡を見る羽目になった僕。気が進まないながらも、仕方なく自分の顔を見た。

 ・・・・真っ青だった。

 いや、真っ青というより土気色というのだろうか、生気が失せていっているような顔色で、不自然に頬がこけ始めていた。体重はほとんど変わっていないのに、顔の痩せ具合はちょっと異常かもしれないと思えた。
「あれ、なんか、不健康そうだな。おかしいなあ、身体にいいと思ってジョギングを始めたのに。」
「お前、ジョギングしながらどこ行ってるんだよ。どっか、まずい場所に寄ったりしてないか。」
「まずいところへなんか行ってないよ。A橋へ行って戻ってくるだけだ。」
「A橋?A橋で折り返してくるのか?」
「ああ、そうだよ。A橋の下で一端休憩して、戻ってくるんだ。」
「休憩?あんな所で?どれくらい?」
「その日によるけどな。気持ちいいんだ。あそこに居ると。ついつい休憩が長くなってしまうんだ。あそこに居ると。」
「まさかお前、あんな所に何時間も居る訳じゃないだろうな。」
「いるよ。気付くと3時間とか平気で過ぎてる。何をやっているというわけじゃないけどな。」
「何もしないで3時間だと。しかもあんな所で。おかしいだろう。何やってたんだ?」
「何やってるって、休憩だって。」
「休憩って、3時間もやらんだろう。何をやってるんだ。誰かを待ってたりとかか?」
「・・・・・・・・・・はて、そういえば、何かを待っていたような気もする。」

 するとOは、僕の左肩を握るようにしながら、また怒鳴り始めた。
「お前、馬鹿か!あそこがどういう場所か、長く住んでいるお前が分からない訳ないだろう。お前憑かれて来てんだぞ。」
「憑かれる?僕が?何に?」
と言いながら、僕は次第に思い出した。

 A橋は今でこそ車通りのよい、明るい橋になっているが、昭和40年代までは暗い橋で、そこから身投げする人も少なくなく、欄干に紐を縛ってぶらさがった人が居たと聞いたこともある。そんな場所だからか、戦前から昭和40年代中ごろまで、タクシーを呼び止める女の亡霊が出ると噂され、実際に新聞に掲載されたこともあった。

「・・・・ああ、あそこは、ちょっとまずい場所だったかなぁ。」
「そうだろう。最近だって、春先の増水時期にあそこから身投げした親子が居るんだ。そういうものたちが集まってくる場所なんだ、あそこは。長居なんてしてちゃいけない場所なんだよ。」
「・・・そうだったな。いや、わかった。分かったよ。もうあそこへは行かないよ。」
「夜のジョギング自体やめろよ。お前、昔から、そのテのことに興味持ってたろ。そういう奴は引っ掛かるんだから。走るんなら、昼間だ。昼間にしなよ。」

 それ以来、ジョギングはしていない。多少太って来てはいるが、肥満とまではいかないし、若い頃とは大分違うが、健康そうに見える太り方なので、これはこれでよし、と今は思っている。


 それにしても、あの頃僕は、何を待っていたのだろう?
 今回は少し長い文になります。コーヒーでも飲みながら読んで頂けると幸いです。

不思議なできごと

 昨年末、Kさんと飲んだ時、この話をした。Kさんはこのテの話をしても、馬鹿にせず最後まで聞いてくれる。聞いてくれた上で的確な意見を述べてくれる。そういう人だから、話そうと思ったのである。

 その頃、私は毎晩同じ夢を繰り返し見るようになっていた。

 気が付くと、霧深い寒い小島をさ迷い歩いている。どこまで歩いても霧は晴れるどころか、所によってはどす黒い煙のような霧に巻かれる時もある。私は何気なく顔に手をやる。すると、頬が濡れているのがわかる。私はどうやら泣きながら歩いているようだ。すると、周囲は真っ黒い霧がますます濃く漂い始める。私はなんとなく、これは、霧ではないのではないか、と思い始める。すると、それから辺りには火薬の焦げた匂いが立ち込める。ここは戦場なのか?そう自問自答すると、黒い霧が薄くなり始め、白い普通の霧となり、やがて霧が薄くなり、その切れ目が覗くようになってくる。そしてその先に薄桃色に染まった地面があるのが見える。私はそこへと早足で向う。そして、そこで見たのは、地面から十センチ程度の高さで咲き誇る小さな薄桃色の花の群落であった。そこで私は「ああ、こんな寒い島にも、こんな可憐な花が咲くんだなぁ」と囁きながら、号泣する。

 この様な夢を連日連夜見るものだから、さすがに不思議に思ってはいたが、自分ではどうしよもないので、そのまま何もすることなく、普通に生活していた。
 夢を見始めて7日は経っていただろうか。ある日、季節外れの桜が中島公園で楽しめるという噂を聞き、見物に行こうと、一人自転車を走らせた。
不思議なできごと 確かに中島公園には桜がまだ咲いていたが、思ったほど多くの花はつけていなかったので、不満に思いながら南へと走っていると、中島公園南端の護国神社の辺りにも桜があることに気づいた。そして、護国神社の前で沢山の花を抱えた桜を楽しむことができた。そうすると、折角だからと神社を拝む気持ちにもなる。境内に入り、お参りし、門を出る。その日は暖かかったので気まぐれ心が更に芽を出し、神社の周囲を巡って見ようと思い立った。すると、神社の西側に「彰徳苑」という場所があることを知る。中には慰霊碑などの石碑や軍艦の錨などが所狭しと並んでおり、その中でひときわ大きく見える碑がありその元へと向う。その前に立ち、説明文を読んであっと息を飲んだ。それは「アッツ島玉砕雄魂之碑」で、玉砕したと記された日はまさに、その当日だったのだ。
 私は電気に打たれたようになり、家へ帰ると、父母へアッツ島玉砕について尋ねたが、アッツ島がアリューシャン列島の小島であることと、昭和18年5月29日に守備隊が全滅した島であるということしかわからず、翌日学校の図書館で歴史や戦記物の本を調べて、また驚嘆させられる。
不思議なできごと アッツ島は1年を通じて晴天の日は少なく、雨・雪・霧 の多い島である、ということ。アッツ島は極寒の地のため高木は育たず、短い夏に背の低い草花が咲くのみであるということ。そして、アッツ島玉砕を悼んでロードヒポキシスという彼岸花科の背の低い花がアッツ桜と名づけられていたということがわかった。(当時は島に背の低い桜のような花が咲くという記述のある文献もあったが、最近の文献には見当たらないようだ。間違いだったのかも知れない)
  アッツ島守備隊員のなかで私と関係性の深い人が居たのかもしれないとも思えるのだが、今となっては調べようもない。


 ここまで話すと、Kさんは感想を言う前に話を始めた。

$不思議なできごと Kさんは数年前に友人を亡くしていた。最初は数日の検査入院の筈だったのだが、意外と長引いてしまった。そこで一度見舞いに行ったが、その時友人はすごく元気で、病室で冗談ばかりを言い合ったそうだ。その時友人は
 「俺にもしものことがあったら、葬式ではこのCDをかけてくれよな、頼むよ」
 と言ってCDをケースごと掲げて見せた。青空をバックにひまわりが咲き誇っているジャケットのCDで、アーティスト名はわからなかったが、冗談だし、万が一最悪の事が起こったとしても、遺品の中から見つけられる。そう考えるのが自然だった。だから覚えたりメモしようとはしなかった。
 「馬鹿言うなよ。検査入院で死ぬなんてことがあるか。それより、お前は入院している時くらい、医者の言うこと聞いて大人しくしていなきゃダメだぞ。」と言って別れた。
 しかし、その3日後、友人の容態は急変し、突然帰らぬ人となってしまった。あまりのことに呆然としつつ、友人との約束を果たさなければと遺族の家を訪れた。遺品の中から友人の指し示したCDを借り受けるためである。が、しかし、遺族の家にそのCDはなかった。それでは、入院していた病室に忘れて来たのだろうと、病院を訪ねたが、見つからない。仕方がないのでCDショップへ行き、片っ端からジャケットを見て探してみたが、見つからない。途方に暮れたKさんは、どうしようか迷いながら車を走らせていた。告別式は明日。時間がない。そう思いながら護国神社前を通っているとき、ふっと
 「そういえば、暫く護国神社にお参りしてなかったな。お参りしてくか。」
 と思い、車を神社の駐車場に向けた。2月も末だが、北国はまだまだ冬。1メートルを越える雪が境内にも残っている。雪道をKさんは神社の門に向けて歩いていた。と、門の数メートル手前の雪の中に何か光るものがある。気にしつつ近付いてゆくと、それがCDケースであることに気づく。更に近付くと、青色のジャケットが入っていると分かる。尚も近付いて見ると、青空をバックにひまわりが咲くジャケットが雪から半分顔を出しているのがわかる。間違いない、友人が指し示したジャケットだ。思わずKさんは飛びつくようにしてそのCDケースを手に取った。CD盤は入っていなかったが、それでアーティスト名とタイトルがわかった。その後CDショップでそのCDを買い求め、友人の遺言を守ったのだ。

 「だからね、護国神社はね、呼ぶんだよ。」
 Kさんは、最後に噛み締めるようにして、語った。
$不思議なできごと 今年もよろしくお願いします。
この正月にあの写真をまた撮ってきましたので、公開したいと思います。
その前に、関連のある前回写真の記事を、改めてお読み下さい。

また変な写真が・・・・

 このページの一番下の写真の場所を、この正月にまた訪れました。
 季節の移ろいにより周囲の状況は異なりますが、同じ建物だということはお分かり頂けると思います。
 今回は青い線は写り込んでいませんが、なんとなく違和感があるのです。
撮影時も、なんというか、(前回あんな写真が撮れたからということもあるのでしょうが、)嫌な何かを感じていました。近所に住んでいる人に聞くと、こちらのご主人は数年前に亡くなっていますが、ご家族はまだお住まいのはずだと言っていました。
 しかし、窓のカーテンが引かれている部分を見ると、どうも夏場と全く同じままのように見えます。
 お正月で外出されていたのかもしれませんが、数日以上除雪されていない状況であるということも、気になりました。
 もし、何かお感じになる方がいらしたら、お伝えいただければ幸いです。
 一応、この下に前の写真も掲載しておこうと思います。
 
$不思議なできごと-また不思議な線が・・・
稲川淳二さんの怪談にこんな話がある。
 ある配管工が依頼を受けて、水道管工事に行った。仕事を終え、家に着いた彼は、現場に臨時ボーナスの袋を忘れてきたことに気づき、夕闇が迫る中現場に戻る。が、そこは昼間見た現場とは違い、廃墟に近い家のように見えた。不審に思いながら家の中に声を掛ける。しかし、返答は無い。おそるおそる中へ入ると、確かに水道管は修理してあり、その傍らに忘れたボーナス袋があった。
 忘れ物は戻った。しかし、そのまま帰るわけにゆかず、家主がいると思える奥の間へ向かい、声をかける。しかし、返答はない。ふすまをあけると、布団が敷きっぱなしになっていた。と、どこからか鐘の音がちーんと聞こえ、驚いた足元には異様な姿の老婆がにじり寄ってきていた。彼は思わず気を失う。
 暫くして警官のかける声に目を覚ます。廃屋の前に車両があるので変に思った警官が中を確かめてみると、彼が倒れていたのを発見したのだ。ここはおばあさんが何年も前に餓死していたのを発見された家だが、あんたは何しにここへ来たのか、という問いに彼は答えた。
 「そのおばあさんに水道管を直すよう頼まれて・・・」

 というようなお話である。実はこれに極めてよく似た話を友人のTさんから聞いた。
 Tさんは畳屋の3代目で、これは先代、つまり彼のお父さんが体験した話である。


 昭和40年代のある日、奥さんが電話を取った。聞くと、畳の表面の破損が激しいので表替えをしたい」という内容だったという。Tさんのお父さんは早速依頼主の元へと向かう。
 依頼主の家は閑静な住宅街にある木造平屋だった。Tさんのお父さんは呼び鈴を鳴らして待ったが、何の音沙汰も無い。もう一度鳴らしたが、返事が全く無い。Tさんのお父さんはドアの取っ手に手をかける。
 かちゃり。
 鍵はかかっておらず、ドアが開いた。Tさんのお父さんは玄関の中へ入ることにした。
「こんにちは。T畳店です」
 奥の方に声を掛けると、男が無言で出てきた。50代の痩せた背の高い男で、Tさんのお父さんをちらりと見遣ると無言のまま奥へと歩き始めた。
「こっちへこい」と解釈したTさんのお父さんは「失礼します」と言って家の中へあがった。
 この時、Tさんのお父さんは、家具などは全部揃っているようだが、なんとなく、生活感のない家だなと思ったという。
 男は北東の薄暗い部屋へ着くと、床の一部を指差した。
 畳二枚にまたがる部分が真っ黒く腐っており、一部は深く凹んでいた。
 Tさんのお父さんは一目見て、
「ああ、これは腐ってしまってますね。ここまで深くダメになっていると、表替えだけでは無理ですね。畳を2枚替えるのがよいと思いますが、どうですか。」
 すると男は黙って頷いたという。
 
 数日後、畳を持って再訪したTさんのお父さんだが、件の家は留守で玄関のドアも鍵がかかっており、
畳を替えることはできなかった。それから2度ほど訪問したが、いずれも留守。中へ入ることすら出来ない。さすがに困ったTさんのお父さんは、家の周囲を回って窓の外から中を覗いてみた。
 そして、違和感を持った。最初に来た時にふと感じた生活感のなさが顕著だった。といよりも、何年もこの家が使われていた雰囲気がしないのだ。
 さすがにあせったTさんのお父さんは、隣の家に訊いてみる事にした。そして、驚くべき情報を得ることになる。

 隣に住む主婦はこう語ったという。
 「お隣?もう何年も空き家よぉ。自殺したの、隣のご主人。奥さんを早くに亡くされてから一人暮らしだったんですけどね。何があったか知らないけれど、何年前かなあ、もう7~8年にはなるかしら。夏にねぇ、お隣からすんごい臭いがしだしたの。そういえば、ここ暫く、ご主人見ないわねぇなんて話してたら、こりゃやばいんじゃないか、っていうことで、警察呼んだのみんなで。そうしたら、あったの、首吊り死体が。縄が切れてたたみの上に転がっていたって。死後数ヶ月経っていたって。腐って部屋がわやだったって。」
 Tさんのお父さんは足ががたがた震えるのを抑えながら尋ねたそうだ。
 「あの、その自殺された方はどんな方だったんですか。その、外見とか。」
 「ああ、背がすらっとして痩せた人ね。無口な人だったわねぇ。50歳位だったかなぁ、当時。」
 「それで、その、自殺された部屋はどこだったんですか。あそこの角の部屋ですか。」
 と言って、例の北東の部屋を指差すと
 「そうよ、あそこの和室。いやよねぇ、自殺なんて。」

 Tさんのお父さんは畳を持って帰ってから、熱が出て3日寝込んだということだった。