私は幽霊を信じた
北原三枝
黄ダンになった弟
疎開中の私にとっで、一つの大きな悩みは一緒に疎開している弟の和男の身体が弱いということでした。
新宿駅を発つ時、母は「まき子ちゃん、和男を頼みますヨ」
と、しっかりと私の手を握っておっしゃいました。
しかし、私は、ただ母に頼まれたというだけではなく、現にこの弟がかわいそうでならなかったのです。また和男ほ幼いながら、一生懸命、なにかと私を慰めたり、かまったりしでくれたのです。
だが、この弟も、いろいろとさびしいことは多かったでしょうが、清い空気と不自由しない食物とでやや元気になり、私もほっと一安心したのです。が、それも束の間、黄ダンにかかっでしまいました。
「しまった」と思ったとたんにのしかかるような責任を感じました。そしてその日から、ひまさえあれば、近くを流れる塩川や、田んぼを流れる小川をさまよっては、シジミをとっで歩きました。この黄ダン療法ほ、だれから教えてもらったというわけではなく、いつとはなしに耳学問で聞き覚えたものでした。秋ならともかく、冬の川は、足がしびれるほどのつめたさでした。しかも一日ぐらい歩いたところで、せいぜい茶わん一杯か二杯が関の山。あまり成績のはかばかしくない時たどは、カラの茶わんを持ったまま、泣きたくなって来ました。
こうしで拾って来たシジミを、私の手製のミソ汁に入れで弟にのませたのです。弟の病気だけは、祖父の家の方々の手をわずらわすことなく、私の手で治したかったのです。
弟が「姉さん、おいしい、おいしい」 とニコニコして飲んでくれる時のうれしさ。そうした弟の笑顔をみるたびに、何かしら生きがいのようなものを感じました。
ショックだった祖父の死
というような次第で何やかやと、忙しい日、悲しい日が過ぎ去っで行きましたが、その年の暮、祖父が突然亡くなりました。祖父の死、兄の戦死、疎開………昭和十九年という年は、ほんとに悪魔に魅入られたような年でした。
それにしでも祖父の死はものすごい衝撃でした。やさしいおじいさんでした。疎開前はもちろんのこと、疎開中も、世間の冷たい目から、私をそっとかばってくれたのはこのおじいさんでした。
私の母が祖父の長女だったからでしょうか、祖父にとっでも、私の母が一番かわいかったようです。そうした母に対する愛情が、そのまま私たち孫にまで注がれたとも考えられます。
こんな祖父でしたから、孫が生れたと聞くと、シンゲン袋に、アズキやカンピョウをいれて、大急ぎで上京して来るのです。これは一番下の弟七郎が生れた時のことですが、この時も、祖父はいち早く上京して参りました。そして生れたばかりの赤ン坊をみるなり、やにわに
「この子の名は七六だ!」
と叫んだから大変です。家中のものは一瞬きょとんとしで顔を見まわすばかり。七六という珍妙な名前の出所がわからないからでした。
「おまんたち(お前たち)は何を考えてる。七六ってのは山本五十六元帥にあやかってつけた」
これには一同あ然としましたがこれじゃこの子が大きくなった時「おい七六!」なんてのはあまりにもかわいそうたという反対にあって、ついに七郎という名前に落着いたわけです。祖父はまことに不本意だという顔をしておりましたが、結局はしぶしぶこれを認めてしまいました。
まあ一事が万事で、祖父が私たちに示した愛情といえば大変なものでした。今この原稿を書きながらも、よきおじいちゃんの在りし日の姿がほうふつとしてよみがえって来ます。今でも、雑誌社のお仕事などで、田舎に行った時など祖母と祖父の話をしまして、泣いたり笑ったりしております。
とにかく、祖父の死はショックでした。
それからというもの、よけいに疎開生活は空虚なものとなって来ました。心の支えがなくなった私は、病弱の弟をかばいつつ、美しい自然を楽しむことが何よりの喜びのような気持がしました。
ウメの木陰に白装束の女
前にも書きましたように、疎開先の山梨県北巨摩郡藤井村というところは、風光の美しいところで
す。住んでいる分には申分のない農村でした。
しかしこの風光明びも、大変迷惑だったこともあります。私の家は、塩川の河原に近かったので、村のうちでも景色のよいところでしたが、困ったことには学校の帰り、お使いの帰りなどには、竹ヤブを抜け、墓場を通らなければならないほどさびしいところにあったのです。夕暮時にここを通る時など、お化けが出るんじゃないかといつもビクビクしていました。
ところが本当に幽霊が出たのです。幽霊など全然信じていなかった私も、あまりにも明白に私の眼底をとらえたこの幽霊には、身の毛もよたつ思いでした。そしてそれ以後私は、幽霊というもの、ひいては霊魂というようなものは存在しないとはいえなくなってしまいました。
それは春雨の降る夜でした。真夜中、ご不浄に起きたのです。農家のご不浄は、別むねの物置小屋にある家が多く、私の家のも、母屋から十メートルくらい離れていました。
私か用を足し終ってご不浄から出て来ると、パサッと何かの物音がしたような感じがしましたので、ふとふり向くと、ご不浄の隣のウメの木の陰に白装束の女の人が立っているではありませんか。透き通るような美しい人で、きちんと日本髪を結い、その毛が二本スーとホオにたれて、ジッと私を見つめているのです。私はその瞬間おそろしさのあまり声も出ず、地にはいながら祖母の床へもぐりこみ、一晩中ふるえていました。
翌朝、このことを家の人に話すのさえこわくて、真っ先に起きてそっと一人でご不浄へ行って見ますと、ちゃんと私か用を足した跡があるのです。ああ、私は確かにご不浄へ行ったんた。とすれば、あの幽霊は本当だったんだ。
それからというもの、私は幽霊の存在をすっかり信じこんでしまいました。心霊術などというものが流行しているそうですが、やはり私たちの世界には、物質的には割切れない何ものかがあるということを知った以上、これを信ぜざるを得なくなって来たのです。
東京が灰になった!
さて学校はと申しますと、授業内容が最初のうちは、ほとんど東京で習った個所ばかりであり、学校へ行っても、友だちは冷淡で、また大部分は防火訓練とか勤労奉仕ばかりでは、まことに不愉快な学校生活でした。こんなことが原因で、授業を甘くみたり、怠け心を起したりしているうちに、学校に対する興味、勉学に対する関心はうすれて行きました。これが私の生涯に大きな影響をおよぼそうとは思いもしませんでした。
そうしているうちにも憎むべき戦争は激烈を極め、昭和十九年十二月二十五日、翌年三月十日の二回を中心にした米空軍の大爆撃によって、東京は全くの灰じんと化してしまいました。「東京がやられている!」私はラジオの情報を聞きながら父母たちを思い、おろおろと泣いておりました。
三月十日、ついに私たちの上目黒の家は焼け出されました。そして母と弟は、隣村の祖母の兄の家に逃げて来ました。その家と私の家とは一里くらいは離れていましたが、母が出かけて来たり、こちらから出かけたり、毎日行き来していました。母が近くにいる。そう思うたけで、私は十万の味方を得たような気がしました。
しかし母は、農家の出身でしたが、当時身体をこわしていましたため畑仕事は手につかず、もっぱらよその家事手伝いなどされておりました。やはり疎開者という気兼ねが、病弱の母にこんな苦しい仕事を押しつけたのです。かさねがさねの心労にガックリ肩のさがった母の後姿を見ては、私はソッと涙をぬぐったものです。
かくして八月十五日、戦争は終りました。
まあ幽霊談というよりは、戦争中の苦労話といった感想のほうが強い内容ですが、当時一流の女優さんがこんな手記を掲載していたのだなぁと思うと、何か、まだまだ隙間のあるのんびりした時代だったのだなぁと、そんなことを思ってしまいます。