新・笑ってでも駆け抜ける‼︎

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探究心のカケラ追い求めて────。


​2024/8/31

台風一過で少しひんやりした月末。
東大阪市民美術センターにて近鉄電車の物品の展示会があるらしく、珍しく電車で大阪平野を東進した。
近鉄奈良線開業110周年記念で奈良線関連の展示をメインに貴重なお宝の数々を見学。
筆者は思い出した。

"
その昔、大阪と奈良の間でインターアーバンの思想の下、社運を賭けて穿った隧道があった"

生駒山に眠る近鉄電車礎の歴史を見るべく、ラグビーの町・東花園から電車に乗った。





   

目指すのは東花園駅から4駅目の石切。
瓢箪山駅から標高を上げていき、車窓から大阪平野が一望できるようになると石切駅に到着する。
現代の線路敷設なら瓢箪山駅から標高を上げずそのままトンネルを掘るのだろうか?
現行の新生駒トンネルも1964年の共用だから、瓢箪山駅から突然進路を北に取り、緩やかな勾配で額田駅や枚岡駅を通り土被りの少なくなる石切まで登っている開業当時の軌道は再利用している。




   

石切駅を下車して駅前通りを北へ。
5分ほど歩くと新生駒トンネルと旧生駒トンネルの分岐部に到着した。
旧生駒トンネルのすぐ手前には奈良線開業時に設置された孔舎衛坂駅跡が残る。
駅名は鷲尾→日下→孔舎衛坂と改名した歴史があり、日下は所在地の大字になっている。
しかし、住所は孔舎"  "であり、駅名の孔舎""坂と異なりややこしい。
ややこしいからか、石塔に刻まれる文字は平仮名なのだろうか。




   

旧線区間は全て近鉄管理の私有地となっていて立ち入りはできないが、旧生駒トンネル内部でワインの貯蔵を行っているらしく、それのイベントで内部が公開される時に入れるみたい。
右の鳥居は工事に携わった殉職者の慰霊碑がある。
孔舎衛坂駅は駅全体がカーブしており、ホームも短ければ、ホームの高さも低い。
低床の3両編成であれば停車できそうだが、旧線時代最後の新造車である900系はこの区間まで入線していたか怪しい。




   

軌道跡の真横には変電所が鎮座。
奈良線開業時から存在しているのか、鉄筋コンクリート黎明期の香りがムンムンする。
ネットサーフィンをしても、この変電所についてのデータはなく、旧生駒トンネルや孔舎衛坂駅跡に比べたらそこまで貴重な史跡ではないのだろう(現役っぽいが…)




   

奈良方面行ホームには錆でボロボロになったフェンスが外れて倒れていた。
最初に見た時は駅名標に見えなくもなかったが、同じようなものが設備の周りを取り囲んでいて一抹の期待も虚しく散り散りに…。
それにしても設備は真新しいのにフェンスはこんなに朽ちていて、本当にフェンスなのだろうか?と疑う自分もいる。




   

現役時代の架線柱が全体の1/4を残して切断・解体されていて、今では日常で見る通信ケーブルの電柱として再利用されている。
2015年ごろまではきちんと架線柱の形を留めていたようだ。孔舎衛坂駅跡に残る遺品はこれぐらいしか見つけることができなかった。




   

駅跡にへばりつく細い通路を生駒山方面へ歩いていくと、ようやく旧生駒トンネルの抗口まで近付けた。
1914年に長さ3,888mで開通。
トンネル断面が小さすぎる!複線の電気鉄道線とは思えない規格である。
大正時代に一企業が穿ったトンネルということもあり、難工事故に資金に悩まされたらしい。
しまいには生駒の宝山寺にお賽銭を借りて掘り進める等、なりふり構っていない様子を今に伝えている。
トンネル開通後は、その宝山寺への返礼も兼ねて生駒山ケーブルカーを開業したとのこと。





   

旧生駒トンネルから振り返って撮影。
カーブが綺麗で、その先にわずかに写る大阪平野の街並みが絶景だ。
この区間のエピソードとして記憶に残るのは戦時中〜戦後すぐの事故だろうか。
トンネル内火災や、ブレーキの故障で追突事故など、資材が全て日本軍に提供されたことで粗末な構造に改造せざるを得なかった当時の車両たちが招いた痛ましい事故だ。
またベテランの男性運転士は戦争へ召集され、運転に不慣れな若い女性たちが常務をしていたというのも原因の一つと言われている。
このような状態は5年ほど続き、間接的に戦争の悲惨さを感じさせられるエピソードであると言える。
新生駒トンネルが開通し、安全に重きを置いた現代の規格の通勤電車で帰路につきながらふと、そのようなことを思い出したのだった。