旅の思い出「茨木市立 川端康成文学館」(大阪府・茨木市) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

茨木市立 川端康成文学館

℡)072‐625-0881

 

往訪日:2024年4月10日

所在地:大阪府茨木市上中条2‐11‐25

開館:9時~17時(火曜定休)

料金:無料

アクセス:JR京都線・茨木駅より約15分

※撮影NG

 

《虚飾のないスクラッチタイル仕上げの建物》

 

ひつぞうです。妙喜庵を辞したあとJRで茨木駅まで移動。向かう先は川端康成文学館でした。鎌倉や伊豆のイメージが強い川端ですが、実は関西生まれ。ゆかりの地、茨木市が顕彰する記念館です。

 

「他にもイロイロ回ったよ」サル

 

★ ★ ★

 

川端康成が大阪生まれであることは理解していたが、小説『十六歳の日記』の舞台となった祖父母と暮らした家の所在地が、現在の茨木市にあたるということなど全く知らなかった。そもそも大阪に暮らして一年たった今だからそんなことを云える訳で、ついこの間まで、吹田、茨木、高槻、枚方の位置関係すら判らなかったのだ。

 

 

駅から徒歩で向かった。オープンして日が浅い伊東豊雄設計の複合施設《おにクル》を途中通過。ここは次回来よう(来場者が多過ぎて撮影できない)。20分ほどで文学館に到着した。ちょうどソメイヨシノが綻びかけて葉桜の兆し。そんな季節だった。

 

「ちょっと遠かったにゃ」サル

 

 

ノーベル賞受賞(1968年)を祝して1985(昭和60)年に開館。展示スペースは一階にある中小の2フロアのみ。生涯を辿るとともに、大阪(特に茨木)における足跡について広く解説されていた。ザッと観るのであれば1時間で足りる内容。しかしそこは無料。贅沢はいえない。

 

 

玄関前の石碑に随筆『茨木市で』からの一節が。“藝のない景色の村”と本人は言っているが。

 

武石勇《爽韻》(1985)

 

ロビーに地元・茨木出身の武石勇(1920-1995)の漆芸壁画が展示されていた。どこかの松原をイメージしたものだろう。

 

内部は撮影禁止なのでメモした内容を独自に再構成する。

 

(犬も好きだったが骨董も大好きだった)

 

川端康成(1899-1972)。大阪市北区(現在の天神橋あたり)に医者・川端栄吉の長男として生を受ける。しかし、幼くして肺病の両親を失い、祖父母に預けられる。資産家の出ながら若い頃に商売で大失敗した祖父三八郎宿久庄(しゅくのしょう)の本家を頼り、その一角に家を建てる。

 

かつての宿久庄の風景(出典)資料館パンフレット

 

これが小説『十六歳の日記』の舞台だ。文学館にはその建物の精巧なミニチュアが展示され、具体的な生活が理解できる仕掛けになっていた。

 

「よくできた模型だよ」サル 判りやすいし

 

 

七箇月の未熟児だった川端。あの腺病質的な風貌と体躯はそのせいだったのだろう。それでも豊川尋常小学校まで毎日1.6㌔を徒歩通学。体力はみるみる向上。虚弱児時代は外で遊べなかったので図書館の本すべてを読破したらしい(蔵書数が判らないがやっぱりすごい)。6年生の時の作文「みのお山」が残っていた。

 

(心は既に小説家だった中学時代)

 

茨木中学(現茨木高校)には首席入学。ずっと孤独だった川端はようやく学友とふれあう喜びを知る。だが、姉、祖母、そして最後の肉親である祖父を喪い、天涯孤独となってしまう。満14歳だった。その後、叔父の家に引き取られて文学だけが残った。

 

「天涯孤独はつらいのー」サル

 

でもね。上昇志向は強かったようだよ。

 

「え!そうなの?」サル

 

17歳の日記には「おれは今でもノベル賞(ママ)を思わぬでもない」と記している。相当の自信家だが、まさか現実になるとはね。しかし、資料を観ていてある事実を発見。成績表があったのだ。

 

図画92 作文53 国語81 漢文90 数学75

 

図画92というのは判る。確かに絵は旨い(書は弟子の三島に軍配が上がるが)。しかし、小説家なのに作文の点が悪いのはどういう訳だ。そして数学75。そう。川端は数学が苦手だった。一高受験を聞かされた担任は「お前の成績では無理だ。考え直せ」と一蹴。それでも合格したのだから凄い。

 

「集中するとすごいタイプなのかも」サル

 

作家を目指したのは中学二年。同級生の清水正光の小説『私生児』が京阪新報に掲載されたことでライバル心に火が点いた。負けじと小説、短歌をバンバン投稿。晴れて第一高校に進学すると石濱金作、鈴木彦次郎らとともに第6次「新思潮」を発刊する。

 

在りし日の京阪新報(出典)資料館パンフレット

 

ところが川端も人の子。この頃から本郷のカフェ・エランに通い、女給の伊藤初代と恋に落ちる。ところが婚約までしたのに伊藤の裏切りによって破談。一方的に送ってきた手紙には有名な言葉があった。

 

“私にはある非常が有るのです”

 

「なんですかな。これ」サル

 

人には言えない或る事情といいたいのかな。ヘンな日本語だね。

 

(初代が身を寄せた岐阜で撮った一枚)

 

ま、こう書いて姿を消した。実は初代、その後カフェの支配人とちゃっかり結婚。羽振りのいい美人マダムとして社交界でブイブイ言わせたそうな。ウブな川端は飽くまで東大生という“将来の担保”。申し訳ないが初代は現実主義者。別れて良かったのかもしれない。

 

しかし、この体験は後の小説に幾度となく描き直されていく。今回のテーマ展示は“「篝火」康成の恋”(2024年2月11日~5月31日)。「篝火」は岐阜を舞台に初代との恋とその終わりを描いた最初の作品。

 

小説家になってからの成功は今更書くまでもない。先日初めて日活版の「伊豆の踊子」を観た。福田家でロケされた作品だ。吉永小百合さんは本当に可憐。美人好きで知られた川端の気持ちが判る。個人的には昭和の母らしい浪花千恵子の演技がすごく好き。

 

「脱線してゆ」サル

 

映画「伊豆の踊子」(1963日活)主演:吉永小百合、高橋英樹(87分)

 

むしろ筆を割くならば、戦中戦後の暗い時代に中山義秀高見順など仲間に声をかけて貸本屋の鎌倉文庫(1945-50)を開設したことや、後進の育成に力を注いだことだろう。三島由紀夫に石濱恒夫。石濱はノーベル賞受賞式(1968)に同行したことで知られるが、作家として残っていない。三島に関してはノーベル賞はカタストロフ。川端自らが招いた破局と言われている。

 

(裃で正装したことも話題になった)

 

さして長命だったわけでもないが、友人や後輩の葬儀委員長を数多く務めた。この“残されてゆく私”という感覚が、再び天涯孤独という虚無感を蘇らせたのではないだろうか。その死が事故でないのだとしたら。

 

死の六日前の画家・安田靫彦充ての手紙に「病とも申しませぬ病ひの心残りに引籠ってをりました」と記している。“病ひの心残り”。川端の心になにかが巣くっていたのだろうか。判らない。

 

「ヒツジの戯言ですた」サル

 

★ ★ ★

 

いい機会なのでゆかりの場所を数箇所歩いてみた(全部は無理)。まずは茨木中学時代に通った本屋《堀廣旭堂》へ。

 

 

没個性的な街の書店になりを変えていた(笑)。

 

かつての堀廣旭堂(出典)資料館パンフレット

 

だが、活字離れの今の時代まで個人経営の店が残っていることに感動を覚えた。折角なので物色してみる。店内に入ると(やはり)川端康成特設コーナーがあった。新潮文庫は(絶版も含めて)全作持っているが…あれ?これ見たことないな。

 

 

『川端康成・三島由紀夫往復書簡』。こんなものが出版されていたのか。知らんかった。最初は殆ど三島からの手紙。ちょうど『花ざかりの森』出版前後で前のめりな19歳の三島と冷静に対応する川端が対照的だった。年降るごとに三島の態度に変化が現れるのが興味深い。

 

次は川端の母校、旧制茨木中学(現県立茨木高校)に向かった。

 

かつての大阪府立茨木中學校(出典)資料館パンフレット

 

 

時期的に春休みだったのだろう。生徒の姿はなかった。最近は学校周辺を徘徊すると通報されるのでここまでね。

 

「そうして」サル そばに寄らないからにゃおサルは

 

このあと阪急・茨木市駅から宿久主方面に出ているバス乗って、川端の暮らした旧家跡に向かった。25分ほどローカルバスに揺られて、宿河原というバス停でおりた。そこから北へ行くと豊川中学に辿り着く。そのグラウンドを回り込むように西へ。小川と並ぶ生活道路を進む。目印は宿久庄会館だ。

 

 

着いた。看板がある。

 

 

古くから続く土地らしく同性の方が多い。かつては豪農の大きな敷地が並んでいたのだろう。

 

「相続で土地を分けていったんだにゃ」サル

 

確かに川端姓のお宅が数軒並んでいるね。

 

 

あの突き当りのようだ。

 

 

おーっ。あったよ本当に。あって当たり前なのだが、フィクションに描かれた架空の舞台を現実の世界に発見したような、そんな感動があった。現在は遠縁の方の敷地になっているようだ。外から撮る分には構わないのだろう。家主の方と少し眼があったが、あっただけで近寄ってくるでもなく、静かに屋内に消えていった。

 

「よくあるんじゃね?」サル 聖地参りだにゃ

 

(外国人を毛嫌いするわけではないが)インバウンドに侵されないことを祈る。

 

「さすがにここはこれないよ」サル

 

 

もちろん川端少年が暮らした時代と較べれば民家の数こそ増えているだろう。だが、他の大阪の下町やベッドタウンにはない、用水路や生垣、細く伸びる生活の道に、摂津の田舎の暮らしを感じることができた。来てよかった。

 

「ワインはどーなっているのちにゃ!」サル

 

(おわり)

 

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