ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

山口県立萩美術館・浦上記念館

℡)0838‐24‐2400

 

往訪日:2024年4月27日

所在地:山口県萩市平安古町586‐1

見学:8時30分~17時(月曜休館)

料金:(常設)一般300円 学生200円

アクセス:小郡萩道路・絵堂ICから約20分

駐車場:50台(無料)

※陶芸館1Fのみ撮影OK

 

《現代陶芸の性(聖)遺物》

 

続いてコレクション展示の備忘録。

 

まずは陶芸館から。一階展示室は《十二代三輪休雪の陶》が期間公開されていた。萩焼の名工として続く三輪家12代・三輪龍氣生(1940-)の活動の記録だ。ちなみに龍氣生の作品は昨年の特別展「走泥社再考」(京都国立近代美術館)で代表作《LOVE》を観ている。

 

三輪龍氣生《白雲現龍気》(1995)

 

龍だね。すごく巨大。高さ210㌢×奥行320㌢。

 

龍氣生の魅力は力強さに満ちた造形と、生々しいまでのエロスとタナトス、そして萩の土や釉の特性をモチーフにした抽象的な表現にある、と思っている。

 

 

展示内容はこんな感じ。一作が巨大。

 

三輪龍氣生《白い夢》No.20(1991)

 

休雪白が美しい。

 

 

歪んだ陶胴、厚く被った白釉。

 

三輪龍氣生《エル キャピタン》(2022)

 

同じものを昨年秋に兵庫県陶芸美術館「未来へつなく陶芸 伝統工芸のチカラ」で拝見。照明と会場のレイアウトの影響か、少し大きく感じた。

 

三輪龍氣生《RING1》(1988)

 

十ニ代の作品は破断や座屈を伴う。だが、完成されたものを破壊するのではなく、“破壊”は造形の延長上にある。意図せずに現れる土の表情。それが魅力だ。

 

 

金や銀などの彩色も特徴。それによって断面の土の荒々しい表情が浮き上がる。

 

 

表面に麻布の文様。太古の記憶。

 

三輪龍氣生《恒久破壊Ⅰ》(1987)

 

タイトルもどこか哲学的。

 

三輪龍氣生《反乱》(2004/2010)

 

溶解と廃墟も繰り返し登場するモチーフ。

 

 

《反乱》の着彩スケッチ。

 

 

更にマケット(試作)。入念な計算のうえに制作されていた。

 

三輪龍氣生《愛》(2004/2010)

 

死の果ての愛。砕けつつある獣神の相手はいったい誰だったのだろう。

 

三輪龍氣生《桜の下にて春…》(2004/2010)

 

どの作品も淡い桜色と灰色を帯びている。桜の老樹の精?

 

三輪龍氣生《蓮華母》(2004/2010)

 

ミケランジェロの傑作《ピエタ》を思わせる大作。ただし男を抱きかかえるのは聖母マリアではなくて巨大な蓮華の花。あるいはボッティッチェッリの《ビーナス誕生》のイタヤ貝にも見える。まあ、貝はその象徴でもあるし、ダブルミーニングか。

 

 

蓮華台の下には廃墟のように割れた瓦のようなオブジェが敷き詰められていて、みれば龍氣生の藝大卒業制作《花子の優雅な生活》も焼き捨てられ…乳房や掌、そして蝶など、フェティッシュなアイコンがそこここに。

 

 

エロスロゴス(文字、ひいては書物)はその形と求められる行為からして近しい存在なのかも知れない。一見無造作にみえて周到に計算された瓦礫。見ていて飽きない。

 

三輪龍氣生《六鈷杵》(2004/2010)

 

密教において煩悩を打ち破り、災いを遠ざけるはずの六鈷杵が、既に虜になっている。

 

三輪龍氣生《絆》(2004/2010)

 

昔、ものすごい数の雄と雌の蛇が体を絡め合って交尾する映像を見て恐ろしいと感じたことがある。僕には最後に雄が精も根も吸い取られて死んでしまうのではないかと思われた。その蛇の大群の塊りに、この《絆》はよく似ている。

 

 

《絆》のスケッチ(2009)。

 

三輪龍氣生《「明日には必ず勝つ」マケット》(2009)

 

なんかいい。このマケット。それまでの作品群と違ってユーモラスで。さすがは萩焼の故郷。ここで龍氣生の大作を一度に見られるとは(そして写真まで撮れるとは)思わなかった。なお二階は萩の伝統工芸品が並んでいた。いずれも名品。

 

「フツーに見て面白かっただよ」サル

 

続いて浮世絵。

 

展示室1(浮世絵)

 

 

こういう説明、欲しかったんだよ。

 

「判りやすいね」サル

 

 

これを見ると師宣亡き後、鈴木春信勝川春草鳥井清長が出てくるまでかなり間が空いていることや、北斎が活動した時代と浮世絵大ブレークの時代が重なっている事もよく判る。

 

「広重は北斎より随分後から出てくるんだにゃ」

 

浮世絵最後の世代、暁斎、芳年、芳幾にバトンを渡す世代だったんだな。今回は安藤広重の名作《富士三十六景》が全品展示されていた。記憶に残った作品を幾つか紹介。

 

歌川広重《富士三十六景 武蔵小金井》(1859)

 

玉川上水だろう。怪物のようにデフォルメされた桜の樹。北斎の影響が感じられる。

 

歌川広重《富士三十六景 武蔵野毛横はま》(1859)

 

やあ。まだ横浜が殆ど海の底の時代だな。半島のように突き出ているのは本牧?

 

歌川広重《富士三十六景 武蔵本牧のはな》(1859)

 

その本牧。近代数寄者・原三溪が築いた三溪園は崖下が海だったというから、まさにそのあたりを描いたものだろう。

 

歌川広重《富士三十六景 相模七里か浜》(1859)

 

ご存知、江の島あたりの風景。近世の洋風画家・亜欧堂田膳も好んで描いた。のちの世代では《鮭》で知られる黎明期の洋画家・高橋由一も。

 

歌川広重《富士三十六景 駿河薩夕之海上》(1859)

 

薩埵峠から見た由比海岸のあたりか。並みの描き方があまりに北斎と違うので気になった。波しぶきというより風に靡く竹叢といった印象。

 

歌川広重《富士三十六景 房州保田ノ海岸》(1859)

 

鋸山のあたりかな。浮世絵の開祖・菱川師宣の故郷が題材ということで取り上げてみた。昔はどこからでも富士山が見えたということだね。

 

 

展示室2(東洋陶磁)

 

 

お次は東洋陶磁器。

 

「げー」サル 焼き物きゃー

 

現在陶芸は好きだけど古陶磁器は僕もいまだによく判らない(笑)。だが、この美術館の良さは、陶磁器にしても浮世絵にしても、典型的な作例をもとに初心者にも判りやすい説明が用意されていること。

 

青花(磁器)

 

素地にコバルトを主成分とする顔料で描き、透明釉を施したもの。起源は元時代(14世紀)の景徳鎮窯。大航海時代と重なり、戦国時代の日本にも伝わった。

 

《青花鳳凰文鶴瓶》中国・景徳鎮窯(元代・14世紀)

 

唐草文とともに精緻な鳳凰が描かれている。縁起物として制作されたのか。

 

《青花吹墨玉兎文皿》中国・景徳鎮窯(明代・17世紀)

 

吹きつけの技法が応用されている。玉兎(ぎょくと)とは月で餅を搗いているウサギのことだ。

 

《青花釉裏紅兎文皿》中国・景徳鎮窯(明代・17世紀)

 

民窯かな。兎と花鳥の線が伸びやか。虫食いも良い味。

 

 

五彩(ごさい)

 

青以外の複数の色(五彩)を釉薬の上に描くようになるのは明代景徳鎮においてと言われている。

 

《五彩龍文壺》中国・景徳鎮官窯(明代・1573~1620年)

 

万歴年間に制作された官窯の名品。日本では“万歴赤絵”として昭和初期に珍重されたそうな。そういえば志賀直哉が書いた同じタイトルの小説があった。内容はまったく覚えていないけど。

 

《五彩松梅文盤(南京赤絵)》中国・景徳鎮窯(明代・17世紀)

 

柿右衛門との違いを観察すると面白い。

 

 

呉州手(ごすて)

 

漳州窯(福建省)で作られた五彩磁器。主に輸出品として製造された。灰色の素地に白釉をかけて絵つけしていることが特徴らしい。

 

《五彩山水楼閣文盤》中国・漳州窯(明代・17世紀)

 

一般に呉州青絵と呼ばれる。初期の伊万里焼の参考にされたそうだ。

 

 

柿右衛門様式

 

江戸時代初期(1640年代以降)に、中国磁器に変わって西洋で大人気になったのが有田柿右衛門。陶芸を知らない人でも柿右衛門の名前は知っているだろう。染付素地に直接彩色するのに対して、色絵釉薬の上に色を落す。柿右衛門の最大の魅力は“濁し手”と呼ばれる乳白色の素地だ。

 

《色絵花鳥文皿》有田焼(江戸時代・17世紀)

 

柿右衛門の魅力はこの余白。そして温かみのある乳白色。そして発色のいい朱色。

 

 

古伊万里金襴手(きんらんで)

 

1690年代以降、柿右衛門に代わってヨーロッパの貴族を虜にしたのが伊万里金襴手染付色絵を隙間なく施し、金彩まで施した(悪く言えば成金趣味的な)豪華絢爛な様式だ。

 

《色絵梅菊文碗・皿》有田(江戸時代・17世紀)

 

そのため、日用の什器なども大量生産された。日本の貿易を支えた名品。

 

「おサルには全部同じにしか見えん」サル

 

僕も同じく(笑)。解説は理解したつもりだけど。

 

 

浦上敏朗記念室

 

浦上敏朗さんは萩市の生まれ。山口専門学校(現山口大)卒業後、清久鉱業の社長を務めた。その傍ら、趣味の骨董蒐集を続け、晩年に2000点あまり、時価総額100億円(!)のコレクションを惜しげもなく寄贈した。

 

 

昔から絵や字が上手だった。

 

 

みずから作陶も。リーチ風のスリップウェア。

 

ということで、この晩は市内の特約店で(都内ではなかなか買えない)ROOMの純米吟醸(八千代酒造)購入。秋吉台の景清洞トロン温泉で汗を流したあと経費節減で車中泊。翌朝に備えることにした。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ84

山口県立萩美術館・浦上記念館

 

往訪日:2024年4月27日

所在地:山口県萩市平安古町586‐1

見学:8時30分~17時(月曜休館)

料金:(常設)一般300円 学生200円

アクセス:小郡萩道路・絵堂ICから約20分

駐車場:50台(無料)

■設計:丹下健三

■施工:佐藤工業・協和建設JV

■竣工:1996年

 

《天気のいい日に撮りたかったね》

 

慌ただしくやってきたのは萩の街。一日二都市はつらいが致し方ない。還暦を前にしてようやく幕末に興味を抱くようになった。ならばつぶさに見学すべきなのだが、今回の旅は“浅く広く”。まずは見知らぬ街を概観することが目的(そのわりには建築と美術に偏っているが)。丹下健三設計の山口県立萩美術館・浦上記念館に立ち寄ることにした。

 

 

美術館に多少詳しい人ならば、ここでひとつの疑問を抱くかもしれない。

 

「山口県立美術館って他になくね?」サル

 

 

そう。鬼頭梓の設計により1979年にオープンしたものが山口市内にある。シベリアシリーズで有名な香月泰男の作品寄贈を契機に設立された。他方こちらは(記念館の別称で判るように)萩市出身の実業家・浦上敏朗氏が寄贈した浮世絵東洋陶磁器の2000点あまりのコレクションが母体となっている。加えて2010年には陶芸館も増築(設計は地場コンサルの金子信建築設計事務所)された。

 

 

早速入ってみる。既に13時近いのだが、殆ど入館者がいない…。陶芸って弱いね。浮世絵は頑張ればかなり集客できるはずなんだけど。勿体ないなあ。

 

「空いていて良い!って喜んでいたの誰よ」サル

 

アンビヴァレントなんだよね。僕って。もひとつ思ったんだけど、幕末関連の観光地ってほぼ外国人いないよね。高知や水戸、会津に佐賀とか。発信が弱いのか、そもそも面白味を感じないのか。

 

「こころを鷲掴みするような観光スポットがあればにゃ」サル

 

話を戻そう。

 

 

本館陶芸館を結ぶ通路がつづく。城下町の鍵曲(かいまがり)の構造を取り入れたそうだ。ただ、それ以外はいつものアルミパネルや石貼りのカーテンウォールに総ガラス張り。デジャヴを感じて丹下作品を観る時の高揚感がない(笑)。

 

 

中庭やギャラリーの踊り場に、素晴らしい現代彫刻の大作があるのだが、すべて撮影NG(泣)。

 

 

竣工した1996年は丹下の晩期。90年代から2000年代、丹下事務所は機能主義的な超高層ビルに力点を置いていたのだろうか。「実験しているな攻めているな」と思える、美術館や図書館などの低層建築は数えるほどしかない。飽くまでビジネスとして手掛けたのだろうか。三島で言えば『複雑な彼』や『夏子の冒険』みたいな。

 

 

こちらが2010年に竣工した陶芸館。本館との調和に気使いながら奇麗に纏めている(ガラスを通して撮影)。

 

 

現在陶芸家・三輪龍氣生(十二代三輪休雪)のオブジェ焼が展示されていた。これは後日詳述。

 

 

展示室内。御覧のように剥き出しのスロープが一階と二階を繋いでいた。

 

 

撮影できるのは一階展示室のみ。二階の出口の先にホワイエとトイレがある。

 

 

杢目を活かした打ちっ放しコンクリート。どこにでもあると言えばあるのだが、これは本館との調和、もっと言えばバリバリのコルビュジエ派だった頃の丹下作品との調和を意識したものかもしれない。そこまで考えなくても奇麗だし、寛げる空間だった。

 

「使いたい放題だしね」サル

 

 

このあたりは現代風。装飾性も機能性も。

 

 

こんな感じで繋がっている。

 

 

次は浮世絵の展示コーナーへ。

 

 

ここだけ鉋目の残る贅沢な和の空間だった。実はこのあとが一番の見せ場だったのかも。

 

 

浦上記念館と一階を繋ぐ長い長い折り返しのあるスロープ。これぞコルビュジエが繰り返し焼き直しを計った構造のひとつ。こんな所にこだわりを魅せたかったのだろうか。

 

 

先には踊場つきの階段も。陶芸館のスロープもこの構造の本歌取りだったのかな。

 

 

最後に浦上敏朗氏の記念室を見学して終了。想像していたよりおとなしい建築だったかな。

 

萩と言えばモダン建築の集積地でもあって菊竹清訓萩市庁舎萩市民会館など眼の前にゴロゴロしていたのだが、時間切れでまたの機会に譲ることにした。あと疲れたし(こっちが本音)。萩までの道程は相当ハードルが高いが、いい海鮮民宿もあるし、酒と魚で釣ればおサルも喜んでついてきてくれるだろう。

 

「くゆくゆ」サル

 

(常設展示につづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

吉川史料館

℡)0827-41-1010

 

往訪日:2024年4月27日

所在地:山口県岩国市横山2-7-3

開館時間:9時~17時(水曜休館)

料金:一般500円 高大生300円 小中学生200円

アクセス:山陽道・岩国ICから約5分

駐車場:なし

■設計:鹿島建設

■施工:鹿島建設

■竣工:1996年

※展示品撮影NG

 

《岩国城を思わせる白壁と白銀の甍》

 

岩国城からくだったあと吉川史料館を訪ねた。吉香公園には他にも観たい資料館が幾つかあったが、次の予定もある。別の機会に譲るとして吉川家の歴史を基礎から学ぶことにした。

 

「サルには全部が同じ」サル どれでもどんぞ

 

 

小雨が降るなか、開館と同時に到着した。勿論まだ誰もいない。

 

 

現在林業関係の会社を経営されている16代当主吉川重幹氏が館長を務めている。余計なことだが、吉川晃司もその傍流にあると思っていたが、全然関係ないみたいね。

 

「モニカ流行った」サル

 

 

林業関係だけに木に関しては気を抜いていない。ほんとにシャレじゃなくて。

 

 

玄関正面の意匠。1997年開館。設計・建築は鹿島建設。

 

 

ちなみに訪れた日は《明治維新と吉川家》と題した企画展が開催されていた。

 

 

ホワイエ。そこから美しい庭園を観ることができた。

 

 

山の上には岩国城も。

 

 

こちらが吉川家の家系図。

 

毛利元就の次男、元春が吉川家の養子となり、更にその息子、広家が岩国時代以降の初代となった。こうしてみると毛利家との繋がりが深いことが判る。今回の企画展では幕末から明治にかけて活躍した吉川家二代(経幹、経健・重吉親子)が取り上げられている。

 

 

よく纏められている。

 

★ ★ ★

 

以下企画展を備忘録(写真の出典はチラシです)。

 

 

吉川経幹(きっかわ つねまさ)(1829-1867)。幕末の激動期に12代岩国領主を務めた。経幹公の功績は藩校・養老館創設にみられる教育熱と、宗家の毛利家すなわち長州藩のための国事周旋の勤めと言われる。この洋風の肖像画にどことなく繊細で学究的な性格がみてとれる。残念ながら維新後の新国家を見ることなく、病魔に倒れた。38歳の生涯だった。

 

《吉川経健・重吉兄弟の写真》

 

こちらはその子息、経健(つねたけ)公、重吉(ちょうきち)公の若かりし時代の写真。最後の殿様となった経健公は藩営岩国英語學所を開設。他方、重吉公は12歳で岩倉遣欧使節団に参加。ハーバード大を卒業し、外交官や貴族院議員として活躍。岩国と吉川家の揺るぎない繋がりを守り続けた。

 

「兄弟で助け合って家を守ったんだにゃ」サル

 

《紅溜塗棗》

 

毛利敬親公が萩(花の江御殿)で歓待した際に経幹公に贈ったとされる。蒔絵のカラス二羽は長州藩を共に護る両家の強い結束の象徴らしいよ。

 

《吉川経幹筆「雨奇晴好」》

 

生真面目そうな書体だね。文字は人柄を表すからね。

 

「おサルの場合は?」サル

 

飛び跳ねている(笑)。

 

「サルだからね」サル

 

《毛利敬親筆 語句》

 

書かれた文字は「窮理果断治乱之要」。やはり、江戸参府のおりに長州藩下屋敷で敬親公が経幹公を始め、家臣一同を歓待した際に揮毫したものと伝わる。意味は「世のなかを治めるのも乱すのも切断力次第。つまり決断力こそ重要」ということらしい。

 

《三条実美筆 語句》

 

かたやこちらは三条実美の書。長州藩と近しい関係にあった尊攘派の中心的存在。

 

《太刀 銘相州秋広》(南北朝時代)

 

経幹公が所持した相州伝の太刀。なお、吉川史料館には逆臣・梶原景時を滅ぼしたとされる吉川家伝来の太刀《狐ヶ崎》(鎌倉時代・国宝)が所蔵されている。今回は観ることができなかった。

「刀剣は渋すぎて判らん」サル

 

以上で史料館は終わり。最後に寄り道したい場所があるんだ。

 

《吉川経家弔魂碑》

 

吉川経家(1547-1581)は早い時代に分家した石見吉川家の悲運の武将なんだ。信長の中国征伐で秀吉の軍が送り込まれるんだけど、鳥取城主山名豊国はあっさり白旗を挙げようとする。怒った重臣は「アホボケ!」と豊国を追い出し、吉川広家に援軍を要請。そこで広家は一門でも武勲の誉れ高き経家を送り込むわけよ。

 

「ふむふむ」サル

 

しかし、奸計を働かせて右に出る者のない秀吉は、予め一帯の米を高値で買い取る戦略に出る。配下の武士が金目につられて売るものだから、いざ籠城となったときに肝心の兵糧米がない。さすがの経家もこれには参り、果ては城内では飢えた兵士が屍人を食らう地獄図が展開。ここに至って経家は降伏。秀吉は(加勢しただけの)経家の命を救おうとするが「いいや、拙者も武士の端くれ、腹を切って責任を取る」と聞かない。最後に家族に遺言を残すんだけど、これが泣かせるんだよ。

 

「好きだよね」サル お涙頂戴もの

 

なかなか充実した史料館だったね。このあと次なる街に向かうことにした。

 

(旅はつづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

錦帯橋

℡)0827‐41‐1477

 

往訪日:2024年4月27日

所在地:山口県岩国市横山

利用時間:8時~17時(夏期19時まで)

料金:一般310円 小学生150円(一往復)

駐車場:(下河原P)300台(無料)

アクセス:山陽道・岩国ICから約5分

 

《雨でもそれなりに絵になるのが錦帯橋》

 

広島観光の翌日。真っ先に訪ねたのが隣県の錦帯橋。日本三大奇橋に数えられている。すでにかずら橋(徳島)と猿橋(山梨)は踏破ずみ。最後に残ったのがこの錦帯橋だった。

 

 

残念ながら終日曇りの予報。雨が止んだだけマシと考えねば。

 

 

山陽道・岩国ICで降りて錦川にそって下ること5分。間もなく「錦帯橋」の看板とともに現物がバーンと視界に入ってきた。駐車場は河川敷きに二箇所。下河原駐車場錦帯橋にも近く、とにかく広い。

 

 

渇水期で河床固めがモロ見え。ちょっと無粋。ちなみに通行料は往復310円。だが時刻は午前7時を回ったところ。8時までスタッフは不在。施錠はされていないので、帰りに払うことにして岩国城までジョギングすることにした。

 

「昨晩好きなだけ飲んじゃったしね」サル

 

錦帯橋は三代領主・吉川広嘉(1621-1679)によって1673年に完成。翌年あえなく洪水に流されてしまうが、その後も幾たびか架け替えられつつも、長らく城下を結んできた。戦後の大規模改修を経て、現在も岩国のシンボルとして輝き続けている。

 

 

アーチ式木橋×3連+桁橋×2連。両サイドは支保工が支えているので厳密にはアーチ橋ではない。

 

 

そのアーチ部を仰いでみた。迫持式の構造がよく判る。

 

「よくこんなこと考えつくよにゃ」サル

 

ほんとだよ。

 

 

そういえばこの上を軽トラで走って逮捕されたバカ者がいたね。26年も前のことだけど。

 

 

雨に濡れていると傾斜部分はちょっと怖い。

 

 

これ。軽トラじゃ走れんやろ。

 

 

右岸側から見てみる。橋長193.3㍍。アーチが綺麗な眼鏡状に映っていた。渡った先は吉香公園という歴史遺構公園が広がっていた。

 

 

吉川広嘉公像。2代から11代まで吉川家歴代藩主の肖像画は残っていない。なので想像の賜物らしい。

 

 

香川家長屋門(17世紀末)重文

 

岩国藩家老の香川家の表門。

 

 

岩国高校記念館(1916)

 

旧制岩国中学の武道場として建設。現岩国高校は向山に移転している。

 

 

徒歩池に大噴水。

 

 

こちらは小川幸造作の吉川広家像。2023年11月4日建立の出来たてホヤホヤ。毛利元就の孫で、秀吉の七本槍として知られる武芸に秀でた初代領主だ。

 

「本当に銅像が好きだね。キミは」サル

 

と観光はこれくらいで、いよいよ山道へ。こんな天気にこんな時間。歩く人なんているものかと思ったが、結構お年寄りが(健康のためだろう)早朝から山道を歩いていた。

 

 

雨上がりで沢筋からはカエルの大合唱。

 

 

その正体を探ってみれば頬を膨らませたタゴガエル。滅多に姿を見せないのでレアな写真。

 

坂を昇りつめるとロープウェイの駅があった。そこでトイレをすませて小休止。再び舗装道路を登っていくと…

 

 

大釣井と呼ばれる築城と同時に作られた井戸だった。

 

 

非常時の武器弾薬庫も兼ねていたそうだ。

 

「むー。確かに落ちたら唯では済まないね」サル

 

 

石垣が見えてきた。ここがかつての天守址。岩国城は言ってみれば悲運の城。関ヶ原の戦いで毛利氏に組した吉川広家米子藩から移封されて築造した新参者の城。しかし、一国一城令が発令されて、さっさと天守は廃止されて、明治維新まで御殿だけの城だったのだ。

 

 

その30㍍南側に再建天守が鎮座していた。ここまで登山口(洞泉寺)から約25分。再建ながら立派な望楼式だった。開城前なので今回は外からの見学だけ。

 

「おサルは再建はいいよ」サル

 

飽くまでホンモノ志向らしい。

 

 

ちょっとした山登り気分。眺望も素晴らしい。もう少し観てまわることにした。

 

(旅はつづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

サルヒツのグルメ探訪♪【第233回】

割烹たこつぼ

℡)082‐247-0101

 

カテゴリ:和食割烹

往訪日:2024年4月26日

所在地:広島市中区堀川町4‐18

営業時間:(水曜定休)

(L)12時~14時

(D)18時~22時

アクセス:広島電鉄・胡町駅から徒歩2分

■23席(カウンター13+座敷10)

■予算:(D)15,000円コース+酒

■予約:可(比較的空いている)

■カード:可

■オープン:創業130年あまり

 

《丁寧に盛りつけされた瀬戸内の幸》

 

幾たびか広島出張しながら、お好み焼き(それはそれで旨い)しか食べたことがない僕は、この夜くらいは瀬戸内の海の幸を突きながら旨い酒を飲みたかった。そこでおサルが数箇月前から調査開始。残念ながら目当ての店は予約が取れず、ならばと候補に挙がったのが、ここ割烹たこつぼだった。

 

「タイミング悪くてさ」サル でもここもヨサゲ

 

 

創業130年あまり。江戸時代開業という情報も入り乱れ、このアバウト感で店の雰囲気が判る。事前に調べすぎないことも美食の作法。それでもミシュランガイド広島愛媛版(2018)で星ひとつという文字が眼に飛び込んでくる。こうした情報に踊らされるときっと後悔する。その点は割り引いて訪ねることにした。

 

予約の6時を少し回ったところで暖簾を潜る。L字の小体なカウンターだった。既に一組奥で小鉢を突いている。予約している旨伝えるとカウンター中央に通された。コースは料金ごとのお任せ。まずは小鉢が四つ。

 

 

鯛胆、わらび、蕗の煮つけ

 

 

青肌豆と白葱の醤油和え

 

完熟しても青い大豆。枝豆だね。

 

 

水蛸と蛍烏賊のヌタ和え

 

 

なまこ酢

 

どれも旨い。早速酒を頼んだ。こだわりの酒がずらりと並ぶ今時の割烹と違って加茂泉一択。潔い。

 

 

小エビと銀杏串焼き

 

次は焼き物。海老も銀杏も香り高い。

 

 

筍の木の芽和え

 

ここで名物あるじ、三代目・田中泰弘氏が登場(三代目で創業130年あまりというのは辻褄が合わないが詮索するのは無粋というもの)。昔気質の棟梁か高校野球の監督といった風情だ。だが料理は相変わらず御弟子(?)の仕事で田中御大は歌舞伎の話で忙しい。一時期入れ込んだ手前ここはひとつ話に加えてもらおうと食らいつくが、あっさり振り落とされる。御園座だろうが博多座だろうが、全国すべての劇場に泊りがけで足を運んでいる様子。

 

「叶いっこないよ」サル

 

 

名物・マガキの香り焼

 

大きさがウリ。熱熱のところを頂こう。

 

「せっかく広島に来たんだしね」サル

 

そうは言うものの、20数年前にオイスターバーで死ぬほど生ガキを喰ったあと、夜中に七転八倒した苦い経験の持ち主のおサル。実は牡蠣は怖いのだった。

 

「火が通ればダイジョウブ」サル

 

 

お造り(蛸、イカ、赤ウニ、ナガニシ、鯛、鰆、シャコ)

 

ナガニシは広島では夜泣貝とも言うそうで、昔は夜泣き疳の虫の薬だったらしい。

 

(参考資料)

(ネットより拝借いたしました)

 

大きなものだと20㌢くらいになる。子供の頃どうしても貝殻が欲しくて鮮魚店で買ってもらった。貝殻に外皮があるのが特徴。適度な歯応えで淡白。酒にあう。

 

ここで女将登場。着物姿の女将もまた強烈なオーラ。一見の客にはちとつらいか(笑)。

 

「お酒頼んでおくり」サル

 

 

ということで同じ加茂泉純米大吟醸をお願いした。未開栓だったので鮮度抜群。

 

 

ツノなし栄螺の壺焼き

 

女将は「ツノなしのほうが美味しいんよ。一回食べてみんさい」と自信満々。しかし栄螺の“ツノ”は海底で転がらないように発達するもので、波の穏やかな瀬戸内海の栄螺は一般に角がない。ただそれだけなのだが、某時代小説の大物物故作家に似た女将が云うと、そうかもしれないと思わせる言い知れぬ迫力があるのだった。だが、確かに旨い。

 

 

新潟産山菜(コシアブラ、独活、コゴミ、フキノトウ)の天麩羅

 

大将一押しの天麩羅。新潟の知人から直送してもらっているとか。長らく越後の山を登り続けた僕らには珍しいものではない。ではないが、それを言うのも無粋というもの。ここは大将の自慢話に耳を傾けながら箸をつけてみる。コロモもサクサクと心地よい。これはいい。香りも850㌔の距離を運ばれたとは思えないほどしっかりしている。

 

「天麩羅が美味しい店は良い店だよ」サル

 

次は煮つけ。

 

 

ムツの煮つけ

 

虚飾なき割烹料理。

 

 

柚子を振った素麺を煮つけのダシで頂戴する。

 

 

鯛の白子

 

酒肴は以上。日によって違ったり、定番があったりなかったりする。飽くまで参考程度に。

 

 

ひつむし

 

これも名物。名古屋で言えばひつまぶし。

 

 

大野アサリの赤出汁

 

最後にデザート二品。甘党にはたまらない。

 

 

青肌豆のきな粉餅

 

粒子の細かい砂糖と黄粉をふんだんにかけて。これは文句なしに旨い。

 

「判らんなー」サル ←甘味全然ダメなひと

 

有難く二人分頂戴した。

 

 

抹茶のソルベ&つぶあん

 

抹茶の香りが馥郁として餡子もネットリ。極上品。

 

おでんも名物なのだが流石にこれ以上は食べられない。お茶を頂き勘定をすませて外に出た。辺り一帯は飲食店が軒を連ねる繁華街。すでに陽も落ちて狂騒の街へと変わりつつあった。

 

広島三越にも鰻料理焼き鳥の専門店を出店しているそう。鰻目的と思しきサラリーマン二人組は女将に栄螺やアワビの姿焼き(もちろん時価)を勧められて面食らっていた。ビギナーはランチか三越の兄弟店から始めた方がいいかも知れない。

 

「旨かったよ」サル

 

(旅はつづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム

℡)0823‐25‐3017

 

往訪日:2024円4月26日

所在地:広島県呉市宝町5‐20

開館時間:9時~18時(火曜休館)

見学料:一般500円 高校生300円 小中学生200円

アクセス:広島呉道路・呉ICから約5分

駐車場:あり(有料)

 

《大迫力の1/10スケール!》

 

ひつぞうです。広島観光のシメは呉市の大和ミュージアムを訪ねました。戦艦大和の誕生と終焉、軍港として栄えてきた呉の歴史、更には日本の海軍史がコンパクトに学べる博物館として人気です。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

広島市から呉市まで高速道路で約30分。

 


2005年オープンした。(来年2月から改修工事で長期休館の予定。行くなら今だ。)

 

 

戦艦陸奥の41㌢主砲身。呉海軍工廠砲碽(ほうこう)部が大正7年に開発。当時世界最大の艦載砲だった。展示品は日本製鋼所室蘭工場製(大正10年)。

 

 

一般客の他に修学旅行生で溢れていた。

 

「広島は修学旅行の定番だしね」サル

 

時間もないので常設展示だけ見学することに。それだけでもかなり内容が濃かった。

 

まずはこれだ。

 

 

大和広場で1/10スケールの模型を観る。めちゃくちゃ精密。

 

 

その姿はまさに宇宙戦艦ヤマト。この球状船首をバルバス・バウと言うそうだ。

 

「バスバウバウ?」サル なんと言いづらい

 

 

スクリュープロペラ。おサルがいないと大きさが判らないね。(飽きてもうどこかにいった)

 

 

2階から見ると甲板の様子が判る。

 

 

3階からだと大迫力。座っているおサルと較べてみよう。

 

ここから展示室へ。

 

 

=呉の歴史=

 

 

軍艦の操船法や航海術など技術を学ぶために、江戸幕府は長崎伝習所を開設。技術だけではなく、数学に解剖学にオランダ語とかなりハイレベル。入所者はエリート中のエリートだったことが判る。そのひとりに勝海舟がいた。

 

そして明治維新。

 

 

明治政府は日本海沿岸を4つの海軍区に分割。横須賀、呉、佐世保、舞鶴に鎮守府を設置する。1889(明治22)年に開設された呉鎮守府は造船の拠点に位置付けられた。

 

 

こうしてみると鹿児島(薩摩藩)出身者が海軍幹部を占めていることが判る。因みに樺山資紀海軍大将のお孫さんが随筆家の白洲正子だ。

 

 

艦船の次は兵器。呉に仮設兵器製造所が置かれ、1897(明治30)年に呉海軍造兵廠に改組され、呉は造船と兵器生産の街として成長する。

 

 

一等巡洋艦「筑波」

 

国産第一号の艦船。日露戦争で活躍するはずだったが終戦。その後、横須賀港での火薬爆発事故で沈没。悲運の船である。

 

 

戦艦「金剛」

 

昭和19年11月、レイテ沖海戦を終えて呉に帰還中にアメリカの潜水艦の魚雷によって轟沈した。軍艦には山の名前がついたものが多い。

 

 

その金剛に搭載されたヤーロー式ボイラー。技術導入のためにイギリスに発注し、大正2年8月に竣功した。

 

 

1910(明治43)年4月15日に呉所属の第六潜水艇が潜水訓練中に沈没した。日本の遭難史において特筆すべき事件。船員の努力の甲斐なく浮上することはなかった。迫りくる死の影に取り乱さず、事故の原因と経過、そして、船員の家族の生活を保障すべく天皇陛下宛ての遺言を残した佐久間勉艦長の態度は、ひとつの美談として語り継がれている。

 

 

こうして呉は一大産業都市に成長する。

 

 

当時の軍港の様子。

 

 

=戦艦大和の最期=

 

 

副電測士として乗組んだ学徒動員兵のひとり吉田満の名著『戦艦大和ノ最期』の一節。

 

 

1985年にその大和が海中に沈んだ姿を初めて捉えた。

 

 

船首をアップしてみる。菊花紋章が海生生物に覆われることなく、まるで生きた人間の眼玉のようにカメラの方を向いている。

 

 

1999年の大和プロジェクトで潜水艇が引き揚げた遺品。

 

史上最大の戦艦大和は遂に戦果をあげることなく、東シナ海の水深430㍍地点の暗黒の世界に、今もひっそりと四散した状態で沈んでいるそうだ。

 

 

だが、大和の建造は無駄ではなかった。戦後、広い分野で応用されることになる。

 

 

この直径1.5㍍の反射鏡が使用された探照灯は予備品として残った。戦後は太陽炉実験の集光器として利用されたが、この技術を低コストで再現することはできないという。戦争はあってはならないが、加速度的に技術が進歩したことは事実だ。

 

 

それを支えたのは旧海軍に結集した頭脳だ。平賀譲は造船工学の権威で戦艦大和の建造はこの人無くしてなかっただろう。アメリカの技術力と資源を知る平賀は、軍部(とりわけ陸軍)のファナティックな拡大主義に否定的で、英米との参戦を否定。特に東条英機を嫌ったそうだ。この態度、廣田弘毅と同じく立派だと感じた。

 

「戦争賛成じゃない人もいたのね」サル

 

 

最終艤装中の大和の様子を拡大してみよう。

 

 

 

甲板に小屋があるよ。巨大さが判る。

 

 

=戦後の呉=

 

 

戦争が終わると海軍工廠としての役目を終えて、アメリカのNBC(National bulk career)㈱呉造船所として再出発。のちに石川島播磨重工業として合併し、更に造船統廃合。そのDNAは現在ジャパンマリンユナイテッドとして生き続けている。

 

 

=大型資料室=

 

 

男子が好きそうなエリアだね。幾つか備忘録しておこう。

 

 

二式魚雷

 

ワシントン条約で主力艦建造を抑えられたために開発された長射程の酸素魚雷。太平洋戦争までに実用化に辿り着いたのは日本海軍だけだったそうだ。開発は呉海軍工廠実験部。

 

 

「大和」型46センチ砲用三式焼霰弾

 

調定時間が来ると空中で爆発。焼夷性の弾が広がる。大砲や機銃の技術は呉海軍工廠で製造された。ということ初めての呉の街。その歴史を存分に知ることのできる博物館だった。館外にもなにかあるらしいので裏に回ってみよう。

 

「ん?なんかあるにゃ」サル


 

これはパブリックアートだな。

 

藪内佐斗司《犬モ歩ルケバ…らぶ・やまと》(2007)


なんと藪内佐斗司だった。

 

 

ワンコ版どこでもドア?

 

 

愉しい旅行初日だった。このあと市内のホテルに投宿。価格帯の割りに広くて奇麗。良い宿だったね。

 

「じゃメシだの」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ83

カトリック幟町教会 世界平和記念聖堂

 

往訪日:2024年4月26日

所在地:広島市中区幟町4‐42

開館:9時~17時

見学:無料

アクセス:広島駅から徒歩7分

駐車場:なし(有料駐車場あり)

■設計:村野藤吾(村野・森建築事務所)

■施工:清水建設

■竣工:1954年

・重要文化財(2006)

・DOCOMOMO(2003)

※内部撮影NG

 

《こんな教会建築みたことない》

 

ひつぞうです。広島城の次に訪ねたのは世界平和記念聖堂。カトリックのカテドラル(司教座聖堂)にあたります。維新後にキリスト教の伝道が許され、幟町天守公教会が建設されました。しかし、原子爆弾の投下により、灰燼に帰してしまいます。犠牲者の追悼と世界平和実現のために、フーゴ・ラサール神父は再建を決意。宗派を超えた世界中からの寄附と支援によって1954年8月6日に完成しました。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

一度車を回収して近くのコイン式駐車場に止めて徒歩で向かった。

 

 

エリザベト音楽大学附属音楽園が見えてきた。その左隣が目指す記念聖堂だ。

 

 

モダンな音楽堂。

 

 

その隣りに強烈な個性を放つ聖堂が佇む。この角度では判りづらいが正門が手前にある。

 

 

これだ。設計は村野藤吾。設計思想的に対照的だった丹下健三広島平和資料館とともに2006年7月に国の重要文化財に指定された。ファザード下層には矩形のロッジアを配置。表現主義的でありつつも飽くまでも基本はロマネスクの匂い。

 

「晴れてればねー」サル 残念ですにゃ

 

そうなんだよ。ついてない。

 

 

そして、石積み風に焼成煉瓦を積み上げ、長方形の白いグリッドで分割する。のちに村野自身が述べているが、ドイツのポール・ボナッツの作品をモデル(というより転用?)にしている。この装飾は関西大学簡文館(1955)や旧横浜市庁舎(1959)も(円柱か長方形かが違うだけで)同系列。記念聖堂での消化不良を認めているので、発展的に焼き直しを計ったのかもしれない。

 

「パクリだったのち?」サル

 

そうあからさまに言うのもどうかと。

 

 

1981年2月25日に広島を訪れたヨハネ・パウロ二世は“過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うこと”だとして、平和のアピールを世界に送った。そして、神にこう訴えた。“私たちがいつでも、憎しみには愛を、不正には正義への全き献身を、貧困には自己の分かち合いを、戦争には平和をもって応えることができるよう、英知と力をお与えください”。

 

「いまだに世界中で戦争が続いているよ」サル

 

この二箇月あまり後の5月13日に起きた教皇暗殺未遂事件は、人間に与えた神の試練のようで強烈に印象に残っている。話を建築に戻そう。

 

 

彫刻の組み合わせもなんとなくガウディ風。ガウディ=今井兼次=表現主義=村野藤吾と連想は広がる。経年劣化でくすんだ色調になっているが、これも村野の計算らしい。

 

「十字架がないと何のための建物か判らないかも」サル

 

 

ロッジア上部には正面に五点、左右に各一点の彫刻が嵌め込まれている。原型は武石弘三郎(1877-1963)の作品で広島平和記念公園に作品が点在している圓鍔勝三が現地制作し、七つの秘蹟を表している。左から「ゆるしの秘跡」「堅信の秘跡」「叙階の秘跡」「洗礼の秘跡」「聖体の秘跡」と続く。

 

 

更に正面右には「病者の塗油の秘跡」。天井はビリジアンの格天井風。所々に和のテイストが加味されているのも見所。たしか簡文館の屋根もこのビリジアンだった。もしかして村野はビリジアン好き?。ちなみにビリジアンは他の色を混ぜて作ることのできない顔料。純粋の象徴だったのだろうか。

 

 

反対側には「婚姻の秘跡」

 

 

青銅の扉にもレリーフが。

 

 

磔刑にふされたキリストが象徴的に意匠化されている。

 

 

アメリカ人実業家トーマス・A・ブラッドレー氏の寄附で後づけされたドーム。花弁状の窓は村野らしいデザイン。

 

 

僕らはこのガラス扉から入る。

 

「喜捨すた」サル

 

 

コンクリートには鑿跡のような意匠も。

 

この設計は審査員に今井兼次、堀口捨巳、吉田鉄郎、そして村野藤吾を迎え、そこにカトリック側も加わる戦後最大級のコンペで競われた。だが最終的に“一位該当者なし”。

 

「なんじゃそりは」サル

 

因みに二位は丹下健三井上典一。その結果、審査員であるはずの村野が「じゃ俺がやるばい」と審査員自ら設計するに至る。実に不可解だがカトリック教会側はOKを出した。謎の多いコンペとしていまだに語り草になっている。

 

「へんなの」サル

 

結果的に素晴らしい教会になったという事実があるだけだね。丹下はこのあと東京カテドラルマリア大聖堂(1964)で鬱憤を晴らすことになるんだ。

 

内部は撮影NGなので借り物で備忘録。

 

(以下ネットより拝借しています)

 

一番の見所のステンドグラス。モンドリアン風。

 

「心が洗われるにゃ」サル

 

 

そして祭壇。キリストの磔刑像や十字架ではなく「キリスト降臨」がモザイク画で描かれているのが特徴。

 

 

後方のパイプオルガン。この日は演奏会ではなかったが、ずっと音楽が奏でられていた。ちょうど平日の昼どきということもあったのだろう。他に信者の女性が一名だけ。静かに祈りを捧げていたのが印象的だった。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

広島城

℡)082‐221-7512

 

往訪日:2024年4月26日

所在地:広島市中区基町21番1号

開館時間:9時~18時(年末休館)

見学料:一般370円 高校生180円

アクセス:市内電車・紙屋町東駅で下車

駐車場:なし

 

《レプリカでも十分カッコイイ》

 

ひつぞうです。広島平和公園を通過して広島城までやってきました。戦国武将・毛利輝元が築城した平城が起点です。その後、毛利氏が関ヶ原の戦いで敗れたのち、福島正則の短い統治をへて、浅野長晟の入城以降、250年にわたり浅野氏の居城となりました。名城と慕われつつも残念ながら空襲で全焼しましたが、広島復興のシンボルとして1958年に再建されました。以下、名城探訪記です。

 

★ ★ ★

 

基本的に再建された城に興味がない。SRCの張りぼては地方の土地成金が造る城モドキと大差ない。そんな風に思っていた。だが、名古屋城を訪ねたあたりから考えが変わった。歴史的に重要な舞台になった城は(であればこそ)レプリカでも場の空気を感じさせる。広島城もその意味で見過ごせない城のひとつだった。

 

「そっかなー」サル ←あくまで本物志向

 

 

まずは二の丸から。平櫓表御門が並ぶ。1994(平成6)年に再建が完了した。

 

 

内堀御門橋が架かる。かつては広島県庁や広島中央公園までの広範囲を外堀が囲っていた。いかに巨大な城郭だったか判る。

 

 

中御門跡。原爆で焼失。櫓台の組み石が赤茶色に灼けている。

 

「もともとこういう色じゃないんだね」サル

 

硬い岩が使われているはずなのに熱線の影響でボロボロ。

 

 

中には護国神社があった。

 

 

広島大本営跡。廃藩置県後は旧陸軍の施設が建設されていった。

 

 

1958(昭和33)年の天守閣再建に際して、掘り越して移設した礎石群。

 

「鉄筋コンクリートの基礎の邪魔になったんだにゃ」サル

 

そういうこと。

 

 

天守閣は一段高い場所に立っていた。

 

 

内部はこんな感じでレイアウトもやや控えめ。平成初期テイスト(笑)。

 

 

毛利家といえば、喧嘩ばかりしていた三人の息子を諭した元就の三矢の訓が有名だね。

 

「三本の矢だと折れないという訓話ね」サル

 

三本でも簡単に折れるというドリフのコントの方が脳裏に焼き付いているな。

 

「でも子供はいっぱいいるにゃ」サル

 

毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三兄弟だよ。

 

毛利輝元書状(1569)個人蔵

 

(福岡市と新宮町を跨ぐ)筑前立花城をめぐる大友氏との戦に関する配下への手紙。宛名の部分が切り取られているため詳細は判らない。

 

 

一代で実権を握った元就、そして覇権を継承した孫の輝元は瞬く間に勢力を広げていった。

 

 

そもそも毛利氏は南北朝に擡頭し、吉田郡山城(現安芸高田市)を居城とする地方領主だった。その後、大友氏を滅ぼし勢力急拡大。三代目の輝元が1588(天正16)年の上洛で眼にした大坂城聚楽第と城下町が一体となった都市機構に衝撃を受けて、翌年に築城したのが広島城なんだそうだ。ちなみに一箇月半の上洛の旅で京都、奈良など名所旧跡を訪れまくっている。好奇心旺盛な御殿様だったらしい。

 

 

天守閣から400㍍離れた武家屋敷跡の井戸から発見された金鯱

 

 

広島藩の藩札。領内だけで利用できた。

 

ここからは写真による振り返りコーナー。

 

 

消失前の天守閣。五層五階望楼型。かつては小天守を従えた連結式だった。1592年~1599年頃に完成したらしいが詳細は判っていない。1931年には旧国宝保存法によって国宝(現在の重文クラスか)に認定されている。残っていれば本当に国宝になった可能性もあったに違いない。

 

「残念だったにゃー」サル

 

維新後も取り壊されなかっただけにね。ちなみに広島城の別名は鯉城(りじょう)。一帯の地名、己斐浦(こいのうら)の転訛ともいわれているが諸説ある。広島東洋カープもここから取っている。

 

「鯉は縁起がいいし」サル

 

食べても美味しい。

 

「…食うんか」サル

 

広島鎮台司令部本館(明治10年代の写真)

 

廃藩置県後すぐに広島鎮台司令部本丸御殿に置かれたが、明治7年に出火で焼失。新たに建てられたのがコロニアル風のこの施設。明治21年には第五師団に改称。日清戦争では大本営として利用されたそうな。また明治天皇が滞在する行在所(あんざいしょ)として利用された。

 

 

その建物が記念施設として一般公開されたので、新たに司令部庁舎を(現在の護国神社のあたりに)建設した。だがそれもまた原子爆弾で吹き飛んでしまった。

 

「残っていたら名建築だったかにゃ」サル

 

どうでしょう。

 

次は茶の湯。

 

「すきだの~」サル 全然判らん

 

 

広島の茶道は浅野長晟が入城に際して連れてきた家老の上田宗箇に始まる。そのため千家の侘茶と違う武家茶が今でも主流なんだとか。

 

次は武具甲冑。

 

「また刀剣~?」サル

 

《刀 銘 防州岩國藩青龍軒盛俊造之文久三年癸亥八月日》(1863)

 

盛俊は岩國の刀工。米沢出身で江戸で活躍した刀工、長運斎綱俊に弟子入りした。評は以下のとおり。“地鉄、小杢目詰み、鎬地がかる。刃文、互の目丁子足入り沸。

 

どうかな?自分で見てみる。

 

 

杢目かなあ。梨子地肌にしか見えん…。互の目は判る。でも丁子入っているか?

 

「まだまだ先は長そうだにゃ」サル

 

でも美しい鋒だったよ。

 

《刀銘丹波守吉道》(江戸時代)

 

関兼道の三男・吉道の作。美濃国関から京都に移住。三品派として名声を博した。

 

評を記しておく。“鎬造、庵棟、反り浅く、中鋒、鍛、板目流れ、所々大肌交じり、地沸つく。刃紋、浅くのたれ互の目交じり、匂い深くよくつき、砂流し頻りにがかり、入る。帽子、突き上げて先小丸掃きかけかかる。茎、生ぶ、先入山形、鑢目筋違、目釘孔ひとつ。”

 

「わかった?」サル

 

細かすぎて…あせ

 

最後に最上階の望楼にあがった。

 

 

結局曇っちゃったな。(実はこの連休の間、西日本は雨もしくは曇りの長期予報(泣))

 

「こっちにヒツが好きそうな建物がある」サル

 

なになに?おおっ!これは!

 

 

市営基町高層アパート

■設計:大高正人

■施工:熊谷組・増岡組・鴻池組・大之木建設・間組・鉄建建設・鹿島建設・安藤建設

■竣工:1978年

・DOCOMOMO(2013)

 

これは高層集合住宅の名作だよ。晴れている時に撮りたかったなあ。建物の白が映えるしね。大高正人といえば美術館建築のイメージだけど、初期の秀作、坂出人工土地(1963)が評価されて起用された。元は陸軍病院があった場所だけど、戦後は原爆スラムと呼ばれる不良住宅街ができてしまい、それを大規模公園&住宅化した。コルヴュジエのユニテの影響など、時間があれば細部を検証するのだが。縁があればまた次回。

 

 

ということで大満足の名城散歩だった。

 

「なんでも大満足するんでしょ」サル 単純すぎゆ~

 

(まだつづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)

 

往訪日:2024年4月26日

所在地:広島市中区大手町1-10

開館:特になし

料金:無料

アクセス:広島電鉄・原爆ドーム前駅下車

■世界文化遺産(1996)

 

《今日はその祈念日だった》

 

ひつぞうです。広島平和記念資料館とともに観て歩いた平和公園関連を。(奇しくも8月6日の更新になりました)

 

★ ★ ★

 

20年以上前に広島の支社に出張したことがあった。JR広島駅から市内電車に乗り換えて、ガタゴト揺られていったことを覚えている。間もなく下車駅というあたりで、窓外に原爆ドームが見えた。写真で見るそれに較べて思いのほか小さく、そして、ひどくよそよそしく視界の外に消えていった。

 

 

あのとき見た原爆ドームはまさにこの角度だった。眼にしたのはその一度きり。物見遊山的に訪れる場所ではないが、この際に訪ねることにした。

 

「それを物見遊山というのよ」サル

 

広島平和記念資料館のすぐ北方に原爆死没者慰霊碑が続く。

 

 

その慰霊碑で一礼した。正式名称は広島平和都市記念碑。1952年8月6日に除幕式が執り行われた。この日も早朝からひとりまたひとりと祈りに向かう人がいる。そして深々と頭を下げて一心に祈りを捧げていた。モニュメントは家型埴輪を象っているそうだ。

 

 

横から見るとよく判る。

 

「知らなかった…」サル

 

 

平和の灯。両の掌の間に永遠の炎が燃える。原爆犠牲者鎮魂のモニュメント。公園内には様々な彫刻や碑が点在していた。

 

菊池一雄《原爆の子の像》(1958)

 

二歳で被爆し、10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんを慰霊するために同級生が寄付を募り、完成したもの。菊池一雄デスピオに学び、穏やかで柔和な古典的作風で知られる。

 

(再掲)

菊池一雄《平和の群像》

 

以前、最高裁判所前で観た《平和の群像》も素晴らしかった。

 

《学徒動員慰霊塔》(1967)

 

学徒動員中に亡くなった全国すべての学生を慰霊している。奥の銅板四枚は圓鍔勝三(えんつば かつぞう)(1905-2003)の制作。尾道出身で日本美術学校卒の圓鍔は、木彫から出発。後年多くのブロンズのパブリックアートを残した。

 

香取正彦《五代目・平和の鐘》(1967)

 

「変わった形の鐘撞堂だにゃ」サル

 

人間国宝の彫金師・香取正彦(1899-1988)が納めたもの。本物は資料館に収蔵。記念式典の際に吊るされる。感のいい人はお気づきだろうが、芥川の友人で明治期の彫金工芸で知られる香取秀真の子息である。

 

 

やあ。いよいよ近づいてきた。

 

 

見あげるとまた違った印象だ。

 

もとはチェコの建築家ヤン・レツルが設計した広島県物産陳列館(1915)。のちに広島県産業奨励館と名を変えた。この建物の南東160㍍の上空600㍍で、アメリカの爆撃機エノラゲイが原子爆弾リトルボーイを投下。閃光とともに炸裂した。

 

「爆心地なのになぜ壊れなかったのかにゃ」サル

 

爆風が垂直に吹きつけたからだよ。建物は垂直の圧縮には比較的強いし。

 

 

しかし、働いていた人々は全員亡くなった。当初、忌まわしい原爆の象徴でもあるドームを壊してしまえという意見もあったが、時代とともに平和の象徴として未来に伝えていこうという意見が主流になり、1967年に最初の補修工事が行われた。

 

 

ご覧のように建物を自立させるために内部に鉄骨の梁を仕込んで倒壊を防いでいる。

 

 

もちろんこれ以上接近することはできない。ここから拝むことにした。

 

圓鍔勝三《鈴木三重吉「紅い鳥」文学碑》(1967)

 

その脇に童話作家・鈴木三重吉の銅像がこちらを観ていた。三重吉は広島市猿楽町に生まれた。長じて東京帝大英文学科に進学。漱石の薫陶を得て雑誌「赤い鳥」を主宰したことは有名だ。ブロンズ制作はやはり圓鍔勝三

 

「ふたりとも広島ゆかりなんだにゃ」サル

 

ここから御幸橋を渡っていく。

 

 

二代目の御幸橋。

 

 

この先でT字に分岐している。

 

 

ジョイント部分と走るおサル。

 

 

対岸から眺めてみる。奥には広島商工会議所。美観上よろしくないという意見があり、移転が決まった。この景色もいずれ観られなくなる。そんなに駄目な建築じゃないけどね。

 

「まだ先まで行くんだっけ?」サル

 

道路を挟んで広島ゲートパークが続いているからね。しばらく(建築史的に重要ではないかもしれないが)面白い建物が続くのでメモ代わりに残しておこう。

 

 

広島市こども文化科学館

■設計:近代設計コンサルタント

■施工:不明

■竣工:1980年

 

プラネタリウムが付随した昭和チックな建築。磯崎新福岡総合銀行本店を思い出すね。もう無いけど。いい建築だったのに…。

 

 

広島市青少年センター

■設計:不明

■施工:不明

■竣工:1965年

 

正面のファザードに陶板のレリーフがあったりして、いかにも昭和40年代チック。設計者を知りたいけれどぜんぜん判らん!

 

 

なんだろうね。

 

「ミジンコ?」サル

 

その後一路北を目指すと、なにやら巨大施設が。

 

 

エディオンピースウイング広島

■設計:上羽一輝(東畑)、伊藤真樹(大成)

■施工:大成・フジタ・広成・東畑・復建調査設計・あい設計・ケイテックJV

■竣工:2024年

 

竣工まもないサンフレッチェ広島の本拠地だ。サッカースタジアムなので内部構造が命なのだが、もちろん観ることはできない。

 

 

この堂々とした構造美。段裏と主梁が織りなすダイナミズムはまさに競技場の名に相応しい。

 

 

デザインビルド方式だったようだね。なのでGCとコンサルの異業種JVで施工している。競技場といえば国内の場合、GC直営か組織系が多いけれど、東京国立競技場(丹下健三)、横浜スタジアム(𠮷原慎一郎)など、個人のセンスあふれる名建築が結構存在する。

 

 

広島グリーンアリーナ(広島県立総合体育館)

■設計:日建設計

■施工:フジタ・大林組・清水建設・五洋建設・大日本土木・増岡組JV

■竣工:1993年

 

大アリーナ、小アリーナ等で構成される。特にこの緑の笠を被ったようなデザインが面白い。

 

 

円形の建物全体をアルミパネルと遮光ガラスが覆う。竣工時は低木だった植樹が少しずつ建物を覆いつつある。

 

「だからグリーンアリーナか」サル

 

様々な意味が込められているのだろう。

 

山口牧生《輪になって》(1995)

 

兵庫県立美術館で観たパブリックアート《日の鞍》の作者、山口牧生の作品が前庭を飾っていた。やはり山口が惚れ込んだ能勢黒を素材にしている。

 

 

「なにこれ」サル カメ?

 

ミズスマシかな。

 

という感じで広島城まで走り回ったのだが、その話はまた後日。鎮魂の思いを抱きつつも、建築、パブリックアートなど脇見ばかり。良いジョギングコースだった。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ82

広島平和記念資料館

 

往訪日:2024年4月26日

所在地:広島市中区中島町1‐2

開館:7時30分~19時(年末及び2月中旬休館)

※季節で閉館時間が変わります

※7時30分~8時30分は事前予約制

料金:一般200円 高校生100円

アクセス:山陽道・広島ICから30分

駐車場:なし(有料駐車場あり)

■設計:丹下健三

■施工:大林組

■竣工:1955年

・重要文化財(2006)

・公共建築百選

・DOCOMOMOモダンムーブメント建築(1999)

※撮影OKです

 

《ついに来た広島!》

 

ひつぞうです。ようやくGWの記録です。人生において殆ど訪れたことのない西日本。思い残しがないように、連休を利用して横断の旅にでました。まずは大阪から広島へ。最初に広島平和記念資料館を訪ねました。以下、建築&現代史探訪記です。

 

★ ★ ★

 

山陽道経由で午前7時に広島市内到着。広島平和公園の南端に面した中島町第二駐車場に止めた。イメージと違ってビルと歩行者通路に挟まれた細長いスペースだったので見つけるのに難儀したが。その裏手にパブリックアートが佇立していた。

 

クララ・アルテール、ジャン=ミシェル・ヴィルモット《平和の門》(2005)

 

芸術家クララ・アルテールと建築家ジャン=ミシェル・ヴィルモットの共作。10基のモニュメントが75㍍に亘って並ぶ。49言語の《平和》の文字が書き込まれているらしい。

 

 

まずは早朝ジョグから。ここから広島城までぐるりと一時間。7時30分開館だが予約制。その時間までに辿りつける自信がなかった(事実迷ったし)ので、8時30分の通常受付にあわせることにした。なおおサルは見ていない。学生時代に見学して激しく打ちのめされたそうだ。

 

「もう悲しい思いをしたくない」サル

 

しかし、丹下健三の作品でもあるし、そもそも現代史を知るうえで当資料館を看過するわけにはいかない。まずは建築散歩から。

 

 

この日の天気は曇りの予報。ただ朝のうちは多少の晴れ間もあった。左手に見えるのが広島国際会議場平和記念資料館とは空中回廊で繋がっている。1955年に広島市公会堂として建設されたものの、丹下のコンペ案と全く似ていなかったため評判が悪かった。それで1989年に広島城築城400周年記念のイベントとして建替えが決まった。

 

 

現在の建物はうまく調和している。

 

(参考資料)

 

ちなみにくだんの広島市公会堂(1955)がこれ。今見ると決して悪くない。設計は柴田齊男(しばたとしお)(1901-1984)。早稲田大建築科卒で旧陸軍省経理課に勤務。広島の住宅、事務所建築、特に東洋工業(マツダ)関連で多くの仕事を残したそうだ。

 

 

1955年竣工時は広島平和会館の名称でオープン。この本館だけだった。階段から出入りしていたのだろう。ピロティ。連続する水平窓。丹下が傾倒したル・コルヴュジエの原則に一見沿っているようだが…。

 

 

水平窓のルーバーと呼応する、幅広でフェアリングのような曲面を含んだ支柱は丹下の独創ではないだろうか。コルヴュジエであれば細い円柱。床は白御影石で覆われて、建築全体が限りなく白に近い灰色の印象だった。

 

 

大改修で変更されている箇所も散見されるが、当初の姿を残すいい建築だった。早朝はさすがに誰もいないが、まもなく団体客を乗せた大型バスが続々と建物前に縦列駐車し始めた。

 

 

時間になったので東館の中で並ぶことにした。すでに並んでいた女性二名が落ち着かない表情で僕に眼で挨拶する。ひょっとして…旅行代理店のスタッフ?予想はあたった。間もなく数十名のオジオバがワイワイと入ってきて、他のスタッフが隊伍を乱さないように宥めすかしている。しかもおのおの別の会社。ふたつある窓口を両方塞いだからたまらない。しばらく茫然と待たされることになる。

 

 

平山郁夫の陶壁画《平和のキャラバン》を観ながら心穏やか(でもなかったが)にして待った。

 

 

20分経過。ようやく僕の番である。

 

 

東館は1994年竣工。これも丹下都市建築設計の仕事だが、“脇役”ということで敢えて石貼りの地味な造りにしたという。

 

 

二階に進む。こんな感じ。

 

 

爆心地を中心に据えた市内のジオラマ。

 

 

原爆ドーム近傍の御幸橋(先代)の写真。T字型に繋がる橋梁は珍しく、原爆投下地点の目印にされた。

 

 

投下後の写真。

 

 

ここから展示室だ。スタッフにおずおず確認すると(平和の拡散目的もあるのだろう)撮影OKだという。しかし、個人に纏わる遺品や記録はあまりに悲しく、そしてあまりに惨く、とてもではないが撮れなかった。

 

 

中国新聞社の報道カメラマン松重美人(まつしげ よしと)が残した言葉だ。自身も被爆しながら軽傷だった松重は手にしていたカメラで爆心地周辺の惨状を撮影して歩いた。有名な作品なので備忘録としてあげておく。

 

 

被爆した市民。千田町御幸橋西詰附近。躊躇いつつ松重はシャッターを切った。

 

 

同上。放射能の影響でみな毛髪が逆立っていた。そして、戦後に被爆者たちがその惨状を絵にした作品がたくさん展示されていた。拙いながら、むしろ拙いが故に淡々と描かれる地獄絵図。そこには真実だけが直截に切り取られていた。「最後は楽にさせてやろう」と瀕死の愛馬から鞍と鐙を外して一緒にこと切れた馬喰の姿に涙を禁じえなかった。

 

 

広島富国館の変形した鉄骨。1936年に竣工。広島市内で当時最高層のビルだった。入居する広島電信局の局員117名中、生存者はわずか10名。電信という重要任務もあり、軍の要請で堅固に設計されたため、倒壊は免れて1982年の建替えまで現役だったそうだ。爆風に煽られてブレースが圧縮力に耐えきれずに破断し、座屈している。凄まじいパワーを立証する貴重な資料だ。

 

 

これは先程の御幸橋の橋名板とレリーフ。左の写真では橋脚を残して上部工が吹き飛んでいる様子が判る。その桁の一部を展示。支承を支点にウェブが水平方向に座屈している。

 

 

有名な人影の石。旧住友銀行広島支店の入り口階段を移設した。開店前に座っていた客に強烈な熱線が照射し、人影以外の部分が白く変色したために残った。

 

 

これは松重が撮影した当時の写真。

 

 

原爆投下後しばらくして、きのこ雲から降ってきた雨が人々を打った。黒い雨だった。井伏鱒二『黒い雨』はそれまでの『本日休診』や『駅前旅館』で見せたユーモアとペーソスとは無縁の淡々とした描写が続く小説だった。作風を異にするこの長篇に当時高校生だった僕は戸惑った。そして存命だった井伏が、いずれ原爆症にやられるのではと本気で心配になった。

 

 

切り出された白壁を眼にすると、これを浴びた人々の計り知れない不安と恐怖が容易に想像できる。原爆は多くの無辜の命を奪った。病気の家族を助けるために医学校進学を目指し、日夜猛勉強に励んだ少年の疎開した兄弟にあてた手紙に胸を打たれた。彼は自分の身になにが降りかかったか、知ることもなく命を失った。どれも平常心で観ることはできなかった。

 

★ ★ ★

 

おサルの忠告どおり、ボロボロにやられて資料館を出た。ちょうど映画「オッペンハイマー」上映の是非が国内で論じられていた頃だった(結局上映されたが)。

 

 

改修前の広島平和会館としての姿。丹下の論考を読んでいないので軽々しく述べることはできないが、建築の水平方向への展開は(コルヴュジエのインフルエンスだけではなく)焼け野原になったヒロシマの記憶を意図したのではないか。この竣工時の写真をみて、ふとそう思った。

 

 

資料館北面の窓からは、平和の灯と更には原爆ドームが、資料館の横軸に垂直に交差するラインを描いていた。公園そのものが鎮魂のクロスだとよく判る。

 

 

光は次第に穏やかになり、曇天の空と化していった。

 

 

最後に東館に戻り、核の歴史や戦争の記憶が展示されていた。語り部がいなくなりつつある今、戦争と核の恐ろしさも抽象的になっている。やはり資料も見学して良かった。

 

「サルは美術館で過ごしゅ」サル

 

まだまだ市内めぐりは続く。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。