ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

名建築シリーズ282

新橋駅前ビル1号館・2号館

 

往訪日:2025年5月13日

所在地:東京都港区新橋2-20-15(1号館)

開館:

(平日)7時~0時30分

(土日祝)7時~21時

アクセス:JR新橋駅の眼の前

駐車場:地下式(有料)

■設計:佐藤武夫設計事務所

■施工:戸田建設

■竣工:1966年

 

《東口に佇立する1号館》

 

2025年4月。建設工業新聞紙上の「新橋駅前ビル取壊し」という記事に愕然とした。たしかに日比谷近傍の建設ラッシュはすごい。遠からぬ日にそういうことが起きてもおかしくない。そう漠然と思っていた。しかし、突きつけられた以上、ジッとしていられない。人流の少ないよく晴れた平日の昼下がり。近在での打ち合わせを口実にチラ見に出た。

 

「さぼったのち?」サル

 

お昼タイムだよ。

 

 

新橋駅前ビルといえばニュー新橋ビルと並ぶサラリーマンの聖地。それが名建築だといわれて戸惑う向きもあるだろう。低層階は有象無象の飲食店やサービス業が犇めく雑居ビルである。しかし、このグリッドライン。ピンとくるものがあった。

 

 

グリッドといえば佐藤武夫だ。60年近くの風雪によってくすんでいるが、当時は画期的なカーテンウォールだったに違いない。ちなみに竪板状に嵌め込まれているのは溝型ガラスらしい。

 

 

「オサルチーヌはまだ生まれてない」サル

 

 

地階にくだる階段側壁には抽象的なレリーフが施されている。

 

 

そして信楽焼の狸の銅像。もともとこの界隈は「狸小路」と呼ばれる大衆酒場街だった。

 

 

寄進に参加した企業。飲食関係のなかに日本ヘラルド映画の名前がある。竣工翌年の1967年にゴダールの代表作「気狂いピエロ」を配給した。高校生の頃に福岡の場末の名画座テアトル天神で観た。そのへラルドが入居していたと思うと万感胸に迫るものがあった。

 

 

普段は何の気なしに利用しているが、無くなると思うと名残り惜しい。

 

 

緑釉じみた焼成タイルがモダンだ。隅角を塗りまわし風に処理している。

 

「細かいところに工夫があるにゃ」サル

 

 

地下街に続く壁にはエンボス加工。

 

 

カラフルな床材は高度経済成長期の勢いを物語っているようだ。

 

 

しかし、なぜデッドスペースが生まれやすい断面になったのだろう。再開発に充てられた用地がこの形に限定されていたのか。であれば、そこから複雑なレゴブロックのような構造を立ち上げた佐藤の想像力に惜しみない拍手を送りたい。

 

 

階段部。この時代の建築ではこの手の防護ネットをよく眼にする。

 

 

鉄筋コンクリート造地上9階・塔屋3階。2号館も同じ仕様。平面の形が小ぶりなだけだ。

 

 

二階。商業フロア。いずれなくなる日のために。

 

「ただの商業ゾーンだにゃ」サル

 

それもまた味。

 

 

化粧材は白色トラバーチン。昭和だ。

 

 

ただ一番の見所は、スリットとポチ窓がついた分離派風の塔屋だと思っている。二号館の塔屋は某信販会社の広告が外されて竣工当時の姿が拝めるようになった。朝夕の通勤の際に眼を細めて見ている男がいたらそれは僕だ。

 

 

それからおよそ一年。今もビルは健在だ。肩透かしを食らったような気もするが、ミキプルーンの三基商事東京本部ビルの例もある。油断はならない。ある日突然のようにバリケードで封鎖され、たちまち重機による破壊が始まる。昭和の建築とは儚い存在なのだ。

 

「昭和ジジイだのー」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

サルヒツの酒【第331回】

新神亀 GAMERA -rebirth- 純米酒

 

製造年月:2025年4月

生産者:神亀酒造㈱

所在地:埼玉県蓮田市

タイプ:純米酒

使用米:阿波山田錦100%

精米歩合:60%

アルコール:15.5%

杜氏:太田茂典氏

販売価格:2,200円(税別)

※特約店限定品

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです

 

今夜の酒は埼玉の神亀。嘉永元(1848)年創業の老舗蔵で、日本で初めて全量純米酒に切り替えた蔵として有名だ。幾たびか飲食店で頂戴しているが、昔ながらの純米酒特有の香気がやや苦手。しかし家飲みはしたい。ということで稀少性の高い新・神亀にチャレンジした。(2025年5月11日賞味)

 

 

映画「GAMERA ーRebirthー」がNHK総合で放映されるのを記念して醸造したそうだ。観てないね。

 

 

表ラベルがカッコいい。ジャケ買いでもあったんだよね。これなら“いつもの”神亀とは違うんではないかと。杜氏は奈良の春鹿(今西清兵衛商店)から2003年に移った太田茂典氏が南部杜氏のわざで醸し続けている。

 

 

基本的に燗酒で飲むことを想定した造りだけに花冷えで飲んでいいのか説もあるのだが。

 

「サルは冷やして飲む!」サル

 

と言って聞かないので。で飲んでみたら、やっぱり強烈にパワフル(笑)。辛口で旨味重視。華やかさはない。ザ・男酒。燗にすればまろやかでバランスも良くなったかもしれないが全てあとの祭り。しかし…

 

 

青豆と赤玉ねぎとチクワの和え物

 

これが癖になるわけで。

 

 

主役は太刀魚のソテー。無塩バターを効かせて。でもなんか痩せっぽちだよ。これ。

 

「いい形のが入ってなかったんだよ」サル

 

海の生態系も変わってきているのかも。

 

 

やっぱり手強かった神亀。いつになったら「うまい!」と手放しに言えるようになるのか。まだまだ修行の日々は続く。

 

「サルヒツの永遠の課題」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

生誕100年 朝倉響子展

 

往訪日:2025年5月10日

会場:上野の森美術館ギャラリー

会期:2025年5月11日~2025年5月21日

開館:10時~17時(会期中無休)

料金:無料

アクセス:JR上野駅から2分

駐車場:なし

※撮影OK

 

 

この数年のアートの旅を経なければ朝倉響子という彫刻家を積極的に知ることはなかっただろう。大袈裟かもしれないが、ひとりの人間がある物事や人物に出逢うには、些細な偶然や時の悪戯がなければ果たせないのだとつくづく実感した。

 

朝倉響子(1925-2016)

 

ミロ展を観た帰り道に、たまたま通った上野の森美術館ギャラリーでその回顧展が開催されていることを知った。響子はあの朝倉文夫の次女で、姉は絵本作家や舞台芸術家と知られる朝倉摂である。写真でみる響子の面立ちは父・文夫からは遠く思われた。ただ、文夫と違った意味での堅固な意思を感じさせた。芸術家ならば必ず持つであろう意思を。

 

《帽子》(1976)

 

わずか10日あまりの会期に偶然出くわした幸運を素直に嬉しく思った。

 

(同上)

 

響子の作品は都内の路上や公共施設の屋外彫刻として身近な存在だ。さすがは一流の彫刻家を父に持つだけに、その血は色濃く受け継がれている。ただ、それは飽くまで技術的素質という意味に留まり、表現のありようは佐藤忠良やその後継・笹戸千津子、あるいは舟越保武の後期の作風を思わせる。

 

《バネッサ》(1977頃)

 

スタイリッシュで無駄な装飾を嫌い、若さとその華やぎを形にしていた。

 

(同上)

 

見る角度で表情も違う。

 

《ツキー》(1977)

 

匿名性を剥ぎ取るタイトルも舟越のそれに似ている。ただ、こうした比較芸術論的な意見を述べたところで理解を深めることにはならない。

 

《ツキー》(1978)

 

響子の彫刻の学校は朝倉彫塑塾。特別にアカデミックな教育は受けていない。1928年に有名な朝倉塾集団脱退が起きた。ときに響子三歳。とすれば安藤照小室達ら、その後の彫刻界を牽引する世代がいなくなった、いわばもぬけの殻のなかで父直伝の教育をうけたのだろうか。

 

《F(憩う)》(1978)

 

今回の展示品は1976年から2005年までの、51歳から80歳までの後半生の作品が中心だった。

 

「布施明がモデルらしいね」サル

 

ファンだったんじゃない?

 

《リサ》(1994)

 

芸術家の最良の作品は(学者の研究成果と同じく)20代前半に占められるというのが持論だ。功成り名を遂げたあとに代表作といわれるものがあっても、やはり悪戦苦闘のすえに生み出された造形こそが傑作だと確信をもっているだけに是非観たかったのだが。

 

「叶いませんでしたな」サル

 

 

圧倒的に女性像が多い。

 

 

遺族から台東区に寄贈された12点を展示。生誕100周年を祝う企画だった。ということは昭和の元号と年齢が同じ。もっと言えば三島由紀夫と同年の生まれということになる。

 

《セーラ》(1999)

 

だから何がどうだという訳ではないが。三島が戦後文化を呪詛とともに否定したのとは逆に、響子は若さと華やぎの発露の時代と捉えたように感じる。

 

 

少なくとも作品を観るかぎり、同世代でも人生の歩み方、いやむしろ、そもそも生まれながらに宿った詩的天分の違いによって世界の見え方は変わるのだと示唆をうける。

 

《無題》(制作年不詳)FRP

 

個人的には一見ぞんざいにみえるこの抽象彫刻にあふれる魅力を感じた。

 

《クリスティン》(2000)

 

「手練れ」の作は好きではない。それはもはや商品に近い。

 

《アリサ》(2005)

 

わずかな時間ではあったが、ひとつの部屋がすべて朝倉響子で埋め尽くされるという僥倖はなにものにも代えがたい体験だった。ときおり雑踏でみかける無垢な若い女性の笑顔のような、ふんわりとした、常温の、春風にのった温かい気持ちを抱いて上野駅に戻った。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

ふ魅惑のパブリックアート⑫

大熊氏廣「小松宮彰仁親王騎馬像」(1912年)

 

往訪日:2025年5月10日

所在地:東京都台東区上野公園8-83

アクセス:JR上野駅から3分

 

《馬と宮様のバランスがいい》

 

美術全般をおさらいし始めて早二年。おかげでパブリックアート鑑賞という愉しみが増えた。東京都美術館の帰路、園内に大熊氏廣(1856-1934)が手がけた銅像があったはずと四方に眼を配ると簡単に見つかった。上野動物園のすぐ手前の広場に。

 

「立派な銅像だね」サル ヒツの好きな皇室関係?

 

大熊といえば靖国神社の天を突くように聳える大村益次郎像で有名だ。現在の埼玉県川口市の農家に生まれ、長じて工部美術学校彫刻科であのラグーザに学び、工部省に入省。技術官僚としてアカデミックな彫像を生み出した。総じて軍人、政治家、啓蒙家などの銅像、胸像をたくさん残している。

 

 

ことにこの小松宮彰仁親王の像は代表作のひとつに数えられている。馬格のある軍馬に跨る小松宮の皇族軍人らしい颯爽たる姿。大熊の旨さをよく語っている。ただ高すぎて仔細に観察できないのが悔しい。

 

「権威の象徴だからの」サル

 

だから手に届かないんだな。

 

 

台座も立派だと思ったら、東京府美術館を設計した岡田信一郎が29歳で手がけた作だった。古典主義的な力のはいった意匠だ。

 

「注意深く観察するといろいろ発見があるにゃ」サル

 

ちなみに小松宮彰仁親王(1846-1903)は仁和寺の第三十世門跡を襲名しながら、幕末の動乱に際して還俗。皇族軍人として征夷大将軍に任ぜられ、鳥羽伏見の戦いや奥羽征討で陣頭指揮をとっている。上野公園といえば光雲の西郷隆盛像が有名だが、他にもすばらしい銅像がたくさんある。探してみてはいかが。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

ミロ展

 

往訪日:2025年5月10日

会場:東京都美術館

会期:2025年3月1日~2025年7月6日

開館:9時30分~17時30分(月曜休館)

常設:一般2,300円 大学生1,300円

アクセス:JR上野駅から7分

駐車場:なし

※一部撮影OK

 

 

今夜は東京都美術館のアート篇。決定版ともいえるジュアン・ミロの大回顧展を観にいった。僕らが子供の頃、まだホアン・ミロという表記が一般的だった。カタルーニャの独立機運と連動してのことだったのだろうか、次第に“正しい”表記に置き換えられるようになった。カタルーニャといえば、ダリ、ピカソ、ガウディといった著名な芸術家を産んだ“国”として知られる。それはカタルーニャの豊穣な大地と、灼きつけるような陽の光が育んだ、生命の汪溢とでもいうべき奇蹟だった。

 

ジュアン・ミロ(1893-1983)

 

一度スペイン全土を二人で旅したことがある。まだオーバーツーリズムなど無縁な時代に。そこで見たカタルーニャ人は酒好きで女好き。陽気な反面、気位の高さもときおり見せる高貴な民だった。きっとミロもそんな男気のある芸術家だったのではないか。と長年勝手に買いかぶってきた。そう。カタルーニャ四騎士のうち、ミロの人と芸術に関しては殆ど無知の領域だったのだ。

 

 

第1章 若きミロ カタルーニャからの出発

(1910年代~20年代)

 

《自画像》(1919)ピカソ美術館

 

金工細工師の家に生まれた若きミロに芸術家としての啓示をあたえたのは、彼が病気療養で滞在したモンロッチ村の風土だったらしい。《スペインの踊り子》とこの自画像はピカソが手許に置き続けた一枚として知られる。

 

共に一時代を築いた関係にありながら、どちらかといえば初期キュビスム風の、やや生硬な構成のこの自画像を好んだという点に、ミロの個性をいち早く見抜き、そして尊んだ先達の思いが透けてみえる。

 

《ヤシの木のある家》(1918)国立ソフィア王妃芸術センター

 

1918年はミロにとって記念すべき年、つまり、ダルマウ画廊で初の個展を開催した年だった。この時代の作品をみるとゴーギャン、ゴッホなど後期印象派の影響や、更にはフォービスム、未来派まで取り込もうとした跡がある。その意味で、この《ヤシの木のある家》は第一のターニングポイントだった。

 

「わりとちゃんとした絵だね」サル

 

それをいかに破壊していくかが画家の本領だ。

 

 

第2章 田園から前衛の都へ シュルレアリスムとの邂逅

(20年代)

 

1920年。ミロはパリに飛んだ。時まさに喧噪の時代。そしてその4年後にはブルトンが『シュルレアリスム宣言』を刊行する。ミロもまたその運動のさなかに飛び込み、自動筆記風の得体のしれない絵画を表した。

 

《パストラル》(1923-24)国立ソフィア王妃芸術センター

 

それが「絵画の詩」と呼ばれる独自の絵画言語だった。画風は更に進化を重ねる。

 

《オランダの室内Ⅰ》(1928)ニューヨーク近代美術館

 

「もうなんかよく判らん」サル

 

僕らが「ミロといえばこれ」的に想像する最初のスタイルだ。この間100点以上の夢の絵を描いている。上の絵はヘントリック・ソルプの《リュートを弾く人》(1661)をベースにした作品で、オランダ旅行で買い求めた絵葉書を下敷きにしたとされる。一見無造作にみえて六段階も素描を重ねた計算のうえに成り立っている。

 

 

第3章 戦禍を逃れて パリ、マヨルカ島

(30年代~1946年)

 

1936年にスペイン内戦が勃発。戦禍を逃れてミロは家族とともにパリへと脱出した。戦争は第一次大戦へと続き、安寧の地を望めて流浪の民さながらの生活を強いられた。ミロの絵もまた陰鬱なタッチに傾斜していく。

 

《明けの明星》(1940)ジュアン・ミロ財団

 

メゾナイト(木質板)が画材に取り入れられた頃だ。またこの頃にマヨルカ島にアトリエを構え、陶芸を守備範囲におさめ、代表的連作のひとつ「星座シリーズ」23点を描いている。

 

 

第4章 アメリカでの名声 巨匠の誕生

(40~60年代)

 

第二次大戦後のアートシーンはアメリカ。

 

 

このコーナーはフルで撮影可能。

 

《夜の風景》(1966~74)ジュアン・ミロ財団

 

当時は抽象表現主義の全盛期。

 

《太陽の前の人物》(1968)ジュアン・ミロ財団

 

それでもミロはミロらしさを失わなかった。そうした潔さがアメリカで受け入れられ、巨匠としての地位を確立していったのだろう。ただ、それをミロ自身が良しとしていたかどうかは知らない。

 

 

年齢を重ねるに従って領域と規模は拡大していった。いずれも1967年を中心にした立体作品。

 

《逃避する少女》(1967)ジュアン・ミロ財団

 

晩年特有の色使い。

 

 

第5章 新たな挑戦

(70年代)

 

1970年代。ミロ80歳の境地である。

 

《焼かれたカンヴァス2》(1973)ジュアン・ミロ財団

 

依然旺盛な創作意欲は止まることを知らなかった。

 

 

画家の筆触。

 

 

画家の爪痕。

 

《花火Ⅰ》《花火Ⅱ》《花火Ⅲ》(1974)ジュアン・ミロ財団

 

アクションペインティングにも挑戦している。オートマティズムに回帰したのだろうか。

 

 

どこか東洋的。こうして通観すると「子供の落書き」と比喩的にいわれるミロの絵も、実は時代によって大きく変貌を遂げていることが判る。そして時代の空気と、生活の場とした大地の呼吸そのものが影響を与えていることも。

 

「子供の絵って逆に描けないよね」サル

 

おとなの絵は作為が出てしまうから。

 

 

若い頃は商業芸術を嫌悪したはずのミロ。実はポスターデザインも手掛けている。

 

 

バルサのポスターも。そりゃそうだよね。

 

 

90歳で亡くなるまで多くの作品をここで創作した。政治的コンクエスト。生命の讃歌。偉大なる画家の思いが籠った絵の数々だった。上野公園の街歩き。もうちょっと続く。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ281

東京都美術館

 

往訪日:2025年5月11日

所在地:東京都台東区上野公園8-36

開館:9時30分~17時30分(第1・第3月曜休館)

入館:無料(展示は企画毎に異なる)

アクセス:JR上野駅から7分

駐車場:なし

■設計:前川國男建築設計事務所

■施工:大林組

■竣工:1975年

 

《何回来ただろう》

 

GW明け最初の街歩きは東京都美術館。過去幾度も往訪しているので今更感もあるが、なおざりにできない建築のひとつでもあり、改めて建築目線で見てみることにした。

 

「いまさらか」サル

 

 

陽気というには既に蒸し暑い。そんな一日だった。

 

「年々加速している気がすゆ」サル

 

夏場の開場待ちはできなくなるかもね。

 

(「京」の字がちょっと変)

 

なお当館は二代目。初代は東京府美術館で設計は岡田信一郎が担当した。6本のオーダーが陸屋根をささえる新古典主義的な優美かつ端正な建築だったが、老朽化と手狭感が問題になり、戦後建て替えに至った。それが今の美術館である。

 

 

設計は前川國男(1905-1986)。コントラストの効いたベンガラ色と黒褐色をみれば誰もが判る。前川は既に70歳。最初のパースはどうか判らないが、さすがにこれも弟子の仕事ではないだろうか。

 

 

エスプラナードを進んで一段くだると正面に中央棟。左に公募棟。右に企画棟が並ぶ。特別展示はこの公募棟で開催されているね。入館だけならば無料。建築ツアー(奇数月の第三土曜)も開催されている。

 

 

ここもはつり加工。

 

 

それでは入館。

 

 

おなじみのアーチ式天井。

 

 

福岡市美術館と違ってリング式の照明。

 

 

ベンチもコルビュジエカラー。

 

 

壁も。

 

 

こんな感じで。

 

 

ホワイエの低い天井も特徴。

 

 

埼玉会館(1966年)あたりからかな。この傾向。

 

 

でも階段部はちょっぴりブルータリスティックで好きなポイント。

 

 

こういうトライアングル式の階段は他の前川建築では見たことがない。

 

 

二階ラウンジ室

 

 

二階ホワイエ

 

 

一階ホワイエ

 

個として観察すれば観るべきポイントはあるのだが、(特に後期作品は)マイナーチェンジの連続という感じがあって、複数の作例を比較してしまうと没個性的な印象になってしまう。ついでに野外彫刻にも触れておこう。

 

五十嵐晴夫《メビウスの立方体》(1978)

 

第6回現代彫刻展出品作。一種の騙し絵的な彫刻。

 

 

観る角度で印象がガラリと変わる。「視る」という行為の不確かさを感じさせる。

 

鈴木久雄《P3824 M君までの距離》(1972)

 

第32回行動美術展出展作。鈴木久雄(1946-)は静岡生まれで武蔵野美大で彫刻を学んでいる。母校で教鞭をとりつつ、海外でも広く活動していたらしい。寝そべって片手をあげた男性のようにみえるが、タイトルの意味が知りたい。

 

保田春彦《堰のみえる遠景》(1975)

 

美術館屋外彫刻でおなじみ保田春彦。

 

堀内正和《三つの立方体 A》(1980)

 

こちらもおなじみの堀内正和。

 

堀内正和《三本の直方体 B》(1978)

 

なんか福岡市美術館のデジャヴだな。

 

井上武吉《my sky hole 85-2 光と影》(1985)

 

そしていよいよ井上武吉の球に接近。

 

「どっかで見たことあゆかも」サル

 

箱根彫刻の森芹ヶ谷公園とかね。

 

 

いつものように覗いてみる。何もないと思うでしょ。でもなにかあるのよ。井上の彫刻は見る側のイマジネーションを問うね。

 

(アート篇につづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

サルヒツの酒【第330回】

✚旭日 麹39 純米生原酒 雄町 R6BY

 

製造年月:2025年3月

生産者:旭日酒造㈲

所在地:島根県出雲市

タイプ:純米生原酒

使用米:倉敷産雄町100%

使用酵母:協会7号

精米歩合:70%

アルコール:17%

杜氏:寺田幸一氏

販売価格:1,778円(税別)

※特約店限定品

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです

 

今夜の酒は島根の✚旭日(じゅうじあさひ)。GW明け最初の週末に頂いた。横浜の蕎麦屋で蕎麦前に併せたのが最初。その後(西日本ではポピュラーなだけに)大阪赴任では馴染みになった。初の家飲みに選んだのはこの純米生原酒。味はいかに。(2025年5月10日賞味)

 


ずいぶんと賑やかな表ラベルだ。島根の酒といえば濃厚な旨口系。とりわけ✚旭日は革新的という意味でその極左にあたる。この麹39シリーズはBYごとに造りが替わり、表ラベルはさながら小学校の黒板のようにその思いが記される。R6BYは「ご縁」。

 

 

ちなみに「39」は精米歩合ではない。麹の量を39%に高めたという意味だ。通常は20%。つまり二倍!要するに糖化の割合も二倍ということだ。するとどうなるか。

 

「甘くなる」サル

 

そういうこと!

 

「甘口きゃ~」サル

 

 

ときは明治。混沌とした中央政界をよそに、出雲では酒蔵がまたひとつ生まれた。旭日酒造の創業は1869(明治2)年。のちに大正天皇巡幸のおりに木戸隆正侍従長より「旭日」の揮毫を拝領。そこに能勢妙見山の紋章・切竹矢筈十字を組み合わせて代表銘柄が誕生した(HPより抜粋)。

 

 

手作り感が伝わる上質なテクスチャー。ええとこどりしたような、つまり、濁り酒の上澄みだけを飲んでいる感じだ。トコトン冷やしたのも効果ありで、甘味はグッと抑え込まれている。

 

 

コクがありながら、奇麗にきれる。

 

「本当だ。あんまり甘くない」サル

 

裏ラベルを確認すると日本酒度ー13。歴とした辛口で旨いはず。おサル手製の棒棒鶏でまた一献と酌み交わす。

 

 

「物足りんと思ったから紫蘇チーズ揚げ春巻も作った」サル うめーら?

 

さすがはおサル。酒飲みの心を鷲掴みだね(笑)。

 

 

初めての火入れではない✚旭日。力強い旨味に満ちた酒だった。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

サルヒツの酒【第329回】

尾ノ下エステートシャルドネ#5

 

ヴィンテージ:2023年

生産者:都農ワイン

所在地:宮崎県児湯郡都農町

タイプ:白・辛口

原料:都農町産シャルドネ100%

酸化防止剤:使用

アルコール:12%

販売価格3,350円(税別)

 

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです

 

朝からビカリアの化石のクリーニングに二時間半かけて満足し、午後は映画「八つ墓村」を視聴。充実した最終日だった。その日は実は僕らの大切な記念日。完全に失念していたが、とっておきの都農ワインで祝福することにした。(2025年5月6日賞味)

 

「やっぱりワインが好き♪」サル

 

 

南国の宮崎でワインなんてできるのか。最初に知ったときは正直そう思った。だが、本場フランスにも負けない仕上がりという評論家の意見を知れば、一度は飲みたくなる。いまだ自分の舌を持つことのできない僕は、他人の評価に振り回されてばかりだが、もう抗うのはやめにした。この歳だし。

 

「ぜんぜんだめじゃん」サル

 

批評家バンザイ!

 

 

銘柄は「尾ノ下地区の第5区の圃場」を表している。都農ワインの醸造所は名峰・尾鈴山山麓の台地に位置し、その気候風土が良質のぶどうを産するという。製法はマロラクティック発酵&シュール・リー。乳酸によって棘のある酸を穏やかに抑え、厚みとコクのある味わいをもたらす。教科書的にはそういうことになりそうだが。

 

「飲もう!飲もう!」サル

 

 

そそいだ瞬間にきめ細やかな泡が。味わいは奇麗な酸。そこに柑橘系のフレーバーが峻烈に弾ける。どちらかといえば北仏のシャルドネに近い感じかな。

 

 

記念日に働かせて悪いねといいつつ、そろそろ家庭料理が恋しいというのもホンネ。

 

「旅行から帰ってすぐできる猪肉鍋にしただよ」サル

 

猪肉の旨味が岡山産コンニャクと舞茸によく染みる。和食でもぶつからないのが国産ワインの好いポイント。

 

 

赤エンドウと新玉葱のオムレツ風。

 

「ちょっと崩れちゃったけど」サル

 

これはこれで旨いよ。というよりなんでも我が家は酒の肴(笑)。

 

 

終わってみればあっという間の連休だった。

 

「ワインもあっという間だった」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

八つ墓村

松竹(1977年)

 

監督:野村芳太郎

原作:横溝正史

脚本:橋本忍

製作:野村芳太郎、杉崎重美、織田明

出演:萩原健一、小川真由美、山崎努、渥美清、市原悦子、中野良子、山本陽子他

音楽:芥川也寸志

公開日:1977年9月23日

鑑賞日:2025年5月6日(amazon prime)

 

(※ネットより節度を持って拝借しました。努めて顛末は伏せてますが一部ネタバレも)

 

2025GWの最終日。荷物の片づけを終えたあと映画「八つ墓村」を視聴した。今回の旅で訪れた津山、安来、そして高梁は少なからずこの映画に関係していて、因縁めいたものを感じたというのがきっかけである。

 

 

封切りされた1977年。TVのゴールデンタイムに映画CMが盛んに流れた時代だ。「八つ墓村」のそれは山崎努演じる狂者・多治見要蔵が日本刀をかざして褌もあらわに駈け寄ってくる姿に「祟りじゃーっ」のセリフがかぶる一度観たら忘れられないものだった。

 

「世代だのー」サル

 

それがドリフのネタになると映画を観た子もそうでない子も何かといえば「たたりじゃー」と言って騒ぎ立てたものだった。残念ながら我が父は映画館に絶対行かない主義。リアルタイムに観ていない。

 

「不憫だのー」サル

 

(多治見家の会席の場で第二の怪死が起きる)

 

製作期間2年3箇月。総製作費7億円。上映時間2時間31分。同じスタッフで挑んだ映画「砂の器」のヒットをうけて松竹が二匹目のドジョウを狙った大作だった。普通は旨くいかないものだが、前作を上回る大ヒットにつながった。

 

あらすじ

 

羽田空港の誘導員として働く青年・寺田辰弥(萩原健一)は、親戚の未亡人・森美也子(小川真由美)の招きで生まれ故郷の八つ墓村に帰る。本家の主・多治見久弥(山崎の二役)が余命幾ばくもなく、このままいけば辰弥が跡取りになるという。その後、関係者の不可解な急死が続く。聞けば久弥の父・要蔵は辰弥の母(中野良子)を強引に妾にし、その母が出奔すると発狂して家人を次々に日本刀と猟銃で惨殺し、行方知れずになってしまう。それが自分の父なのか。辰弥は自分のおいたちに悩み始める。

 

 

この場面は津山三十人殺しと呼ばれる実際の事件をモデルにしている。

 

(尼子一族の居城が安来の月山富田城)

 

美也子の説明によれば多治見家の呪われた歴史は400年前の戦国時代に遡るという。当時、毛利の軍勢に敗れた尼子義孝(夏八木勲)ら落武者八名が村外れで暮らし始めた。多治見の祖先・庄左衛門は褒賞欲しさに彼らを騙して嬲り殺しにする。尼子は「末代まで呪ってやる」と叫んで絶命。その後、庄左衛門は気がふれて自分で首を刎ねて死亡。祟りを恐れた村人は亡骸を懇ろに葬った。それが八つ墓村の由来だ。

 

 

惨たらしい怪死が続くが、なかなか金田一(渥美清)は現れない。現れたかと思うとまたどこかにいってしまう。石坂浩二や古谷一行の金田一を見慣れた客には、無骨で控え目な渥美の金田一に物足りなさを覚えるかもしれないが、原作者の横溝は二枚目の金田一が不満で、渥美を指名したのは他でもない横溝自身だったという。

 

ということでカンタンに脱線したが、実はこの美也子をくさいと睨んだ金田一がその身辺調査に大阪に飛んでいたというのが真相。そう。犯人は美也子。もう幾たびも舞台化、ドラマ化されているからいいだろう。原作は異様に登場人物が多くて複雑な展開なのだが、それをバシッと明快な筋書きにかえたのは名脚本家・橋本忍の技。生臭い人間模様や抜き差しならない業を描かせたら日本一。

 

他方、慶應卒業後に松竹蒲田に入社したインテリの野村も、やはり黒沢組に入っているが、量産タイプの青春ものやコメディが多かった。芸術的志向を持ちながら、映画に関しては職人に徹したひとだったのだろう。評価が定まったのが清張の短編の映画化「張り込み」(1958)だった。

 

 

演出について。双子の老婆、小竹(市原悦子)と小梅(山口仁奈子)は一人二役と長らく思っていた。メイクのなせる業だ。山崎の要蔵しかり、ラストシーンの小川しかり。ドぎついまでのメイクは推理物というよりオカルト。遺産目当ての犯行だったが、実は美也子は尼子の末裔で、知らずして祖先の仇討ちをしていたという設定もオカルトだ。全編を覆うオカルト色は野村と橋本の計算だったそうだ。

 

 

この鍾乳洞での般若顔への豹変シーンは独特の色気とアクの強さをもった小川でしかありえなかった。吉永小百合や栗原小巻ではこうはいかなかっただろう。本篇の要ともいえる場面だ。

 

(ロケは富田城ではなく秋吉台だった)

 

真相を悟った辰弥は美也子に殺されかけるが、突然の地震により美也子は絶命。そして鍾乳洞から一斉に飛び出したコウモリの群れが小竹婆さんが読経をあげる仏間に飛び込み、はずみで倒れたロウソクから引火。多治見の豪邸は劫火に包まれ灰燼に帰していった。そのさまを高台から見ていたのはあの尼子の落武者たちの亡霊だった。

 

 

この映画では脇役にすぎない夏八木勲のこの怨嗟の笑みこそ、本篇の優れた演技のひとつに数えたい。こののち角川映画の常連としてスターダムにのし上がっていく夏八木は、どうしても肉体派のイメージが強いが、無骨と薄皮一枚の演技ながらいい味を出していたと僕は思う。最後の羽田空港のエンディングシーンで流れる芥川也寸志の抒情的かつ哀切なメロディ。メガホン、脚本、音楽が三位一体となった噂に違わぬ名作だった。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

備中松山城

 

往訪日:2025年5月5日

所在地:岡山県高梁市内山下1

開館:【4月~9月】9時~17時30分(年末年始を除き無休)

料金:一般500円 小中生200円 

アクセス:岡山道・賀陽ICから約30分

駐車場:無料(110台)

■国指定重要文化財(1941年)

 

《小ぶりながら秀麗》

 

旅を始めて11日目。今回の旅のテーマのひとつに「城郭」があった。ところが、初日に予定外のビカリアミュージアムを押し込んだばかりに行程修正を迫られ、予定していた備中松山城を泣く泣く捨てることに。だがしかし。折よく新見の山間で朝を迎えることになった。そこからは目と鼻の先。しかも空前絶後の快晴とあってはこのまま帰る法はない。

 

「行こう行こう!」サル

 

(ふいご峠の様子。トイレあり)

 

麓の城見橋公園に停車。早朝だけにほとんど車はない。というのも実質的スタート地点のふいご峠までシャトルバス(往復500円)で坂を登るのだが、8時45分の運行開始だったからだ(平日や閑散期はマイカーでここまで来られる)。

 

 

むしろ誰もいないのは好都合とばかり、ジョグスタイルで先行することにした(徒歩でもここまで20分。そこから天守まで10分。わけはない)。

 

(城内見取り図)

(ネットより拝借しました)

 

標高430㍍の臥牛山山頂に築かれた山城なので城内は地形なりで縦長に細く、ふいご峠から大手門までそれなりに距離がある。

 

 

しばらく階段が続く。

 

 

おサルもトボトボ歩きで参戦。

 

「ちょっとしたハイキングだの」サル

 

備中松山城の開城は鎌倉時代に遡る。最初は砦のようなものだったが、城主の変遷をへて三村元親の代で城郭の体裁に。その後、三村氏を攻め落とした毛利氏も関ヶ原の戦いによって所領は返上。

 

「戦国の世のなかだの」サル

 

徳川幕府の治世になると、城番として小堀正次・遠州親子が入り御根小屋を整備し、のちの水谷氏の大修復によって現在の城郭が完成。その後も藩主は目まぐるしく替わり、最後は板倉勝澄が入城。明治維新までつづくことになる。

 

 

最初の遺構。中太鼓櫓跡だ。

 

 

高梁の町が盆地にあることがよく判る。

 

 

一度くだって先に進む。

 

 

まもなく石垣が見えてきた。

 

 

大手門址だ。

 

 

要塞のような景観に転じる。

 

 

三の平櫓東土塀。重要文化財の残存遺構。

 

 

継ぎ目の先が当時の築造。

 

 

そこから見あげる石垣がまた素晴らしかった。

 

 

三の丸を過ぎれば天守は近い。

 

 

二の丸広場に到着。

 

 

ここで記念撮影。

 

 

天空の山城としても知られ、10月から12月の条件が揃った早朝に、雲海に浮かぶ姿を展望台から観ることができるそうだ。

 

 

まだ時間前なので開いていない。五の平櫓など天守以外は全て復元だ。

 

 

二の丸を見返す。

 

 

時間があるので裏手にまわってみた。

 

 

現存遺構の二重櫓

 

 

時間になったので本丸へ。

 


そして三番目の残存遺構の本丸だ。 唐破風出格子窓竪板張りの腰板がなかなか類をみない特徴。左には六の平櫓と連廓する廊下があったが、再利用できる状態ではなく、石垣だけを残して、独立した本丸として復旧したらしい。

 

 

天守見学の前にさんじゅーろーに挨拶(新選組の谷三十郎にちなむ)。2018年からすみついたお爺さん猫。とても愛想よし。

 

 

痒い痒い痒い🐈

 

 

小ぶりだが、藩主の居室や政庁としての役目は麓の御根小屋が担い、天守はあくまで権威の象徴だったといわれている。

 

 

平成の大修理で漆喰があざやかに。

 

 

天守に囲炉裏がきられるのは珍しい。籠城用だとか。

 

 

造りは望楼式の二層二階。

 

 

突当りには御社壇があった。

 

 

江戸の大修築にあたった水谷勝宗が天照大神や羽黒大権現など十の神様を祀ったという。

 

 

狭間が美しい。

 

 

反対側。まだ誰もいない。そのうち観光客でごった返すのだが。

 

 

堪能したので一階に。

 

 

奥にもうひとつ。装束の間。

 

 

籠城の際に集まる親族専用の部屋。つまり死を迎える場という意味だ。

 

 

この城の狭間は本当に奇麗だね。

 

 

平成の修復の際に撤去された原材。天守にあった蕪懸魚

 

 

こちらは唐破風板裏甲と呼ばれる部材。最初の昭和の大修理で撤去されたものといわれる。

 

「判らないんだ」サル

 

そういうこともある。

 

 

連休中は二重櫓が特別公開中だった。

 

 

行ってみることに。

 

 

狭いながらもしっかりした造り。

 

 

上下二層になっている。

 

 

城が生き残ったいきさつが紹介されていた。僕も長らく不思議に思っていた。失礼ながら他の残存天守は今でいう県庁所在地に位置する大城郭。対する備中松山藩は石高5万から10万程度の小藩。

 

明治6年に名藩主・板倉勝静が無血開城に応じたあと、払い下げ取壊しという案も当然あった。しかし、こんな山の上では取壊しの人件費だけでも馬鹿にならない。加えて利用可能な木材もたいした量にならない。結局放置されてしまった。

 

「不便が命を救ったんだにゃ」サル

 

 

木造建築の宿命で人の済まない城は朽ち果てるしかない。それを再生に導いたのが広島出身の教員・信野友春(1890-1970)だった。旧制高梁中学に赴任した信野は大の歴史好き。1929年に城下町の歴史を一冊の本にまとめる。

 

(ほとんど廃墟)

 

その一冊によって、うち棄てられて40年以上が過ぎ、高梁の人びとすら忘れていた廃城が俄然脚光を浴び始める。

 

 

なんとかしようという声があがり、1940(昭和15)年に大修理が実現。旧国宝保存法の対象となり、現在の重要文化財に指定された。その後も昭和32~35年の部分修理、そして平成15年完工の三度目の大修理が行われた。白アリ被害と石垣の孕みだしに関するものだ。

 

 

天守を裏から見あげて念願の備中松山城をあとにした。こうして今回の旅は岡山に始まり岡山に終わった。あとはひたすら脇目もふらずに渋滞に溜息をつきながら家路についたのである。

 

(2025年GWの旅おわり)

 

ご訪問ありがとうございました。