ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

サルヒツのグルメ探訪♪【第267回】

出雲そば きがる

℡)0852-21-3642

 

カテゴリ:蕎麦

往訪日:2025年4月27日

所在地:島根県松江市石橋町400-1

営業時間:(火曜定休)

11時~16時30分(※閉店は曜日で違います)

アクセス:山陰道・松江東ICから20分

駐車場:6台

■30席(テーブル+座敷)

■予算:1,000円~2,000円

■予約:不可

■カード:可

■開業:1930年

 

《みずみずしい!》

 

足立美術館を辞した後、お昼は出雲そばを食べたいという。蕎麦は好きだし異論はなかった。しかし、安来市内の目当ての店は休業。次の候補に至っては一時間待ち。午後の見学もあるのでそれは勘弁してほしい。などと膠着しているうちに空腹状態のおサルの不機嫌はMAXに。ひとまず松江に移動し、適当に見繕うことを提案した。

 

「もうどこだっていい」サル

 

当てはなかったが、松江城の近くに出雲そばの看板を出している店があるので、感だけを頼りに行ってみることにした。

 

「割りに並んでいるよ」サル

 

 

看板が「きがる」なのでカジュアルな店かと思ったら1930年創業の老舗。そりゃ並ぶわな。時刻はちょうど13時。ピークを過ぎていたことが逆に幸いしたのだろう。並んでいる客は4~5組程度だった。ちなみに駐車場は店が面する三叉路を進んだ建物の裏手に6台。これが一番のハードルかもしれない。

 

 

並んでいる間に入り口前に据えられたメニュー表で選ぶシステム。スマホで店のHPから見た方が早いかもしれない。

 

 

日本酒に力を入れているので夜営業がお薦め。残念ながらこの日は運転があるので。20分ほど店先で待ったあと奥の席に通された。

 

 

折角なのでそば前気取りで二品ほど注文した。出汁巻は箸に力が要らないほどで出汁ひたひた。やはり蕎麦屋の出汁巻は旨い。強張ったままだったおサルの表情筋も緩んできた。

 

「旨いにゃ」

 

 

もう一品。蕎麦粉だけで練り上げた蕎麦豆腐。思いのほか歯応えしっかり。胡麻豆腐とはまるで違う食感がおもしろい。

 

 

そうこうしているうちにメインが。僕はブレずに定番の割子そば(4枚)。丸抜きと挽きぐるみの二種があったが、残念ながら丸抜きは品切れ。

 

「味は?」サル

 

香りは控え目。繊細な歯応えだ。濃い口の甘辛い蕎麦つゆだが、蕎麦の水分でちょうどいい塩梅。それでも濃いという場合は蕎麦湯で割るといい。

 

 

他方おサルは春限定の蛤せいろ。蛤のダシの香りがこっちまで漂ってくる。そばは丸抜き。透明感のあるそばだ。筍と三つ葉を足した貝柱だしで頂戴する。旨いね。

 

「サルのセレクトにミスはない」サル これ以上あげんよ

 

機嫌がなおったようだ。ちょっと安心した。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

足立美術館

 

往訪日:2025年4月27日

所在地:島根県安来市古川町320

開館:9時~17時30分(年中無休)

料金:一般2500円 大学生2000円 高校生1000円 小中生500円

アクセス:山陰道・安来ICから10分

駐車場:400台(無料)

■作庭:中根金作

■施工:不詳

■竣工:1970年

 

《おカネかかっているのがよく判る》

 

ジョギングを終えた僕らは大急ぎでこの日最初の目的地に向かった。日本一の人気美術館といわれる足立美術館だ。計画外の月山富田城に時間を割きすぎてギリギリに。いつものことだが。

 

 

「庭園もまた一幅の絵画である」。その思想をもとに創設者・足立全康(1899-1990)は庭園の魅力を最大限に活かした美術館を設立した。安来の農家に生まれた足立は、戦後に不動産投資で財を築き、48歳で偶々眼にした大観に心酔。絵画収集にのめりこみ、遂には美術館設立に漕ぎつける。コレクションは栖鳳、玉堂、松園、関雪など、明治から昭和初期に活躍した日本画の大家を中心に魯山人の陶芸や画幅に及ぶ。

 

 

年中無休ながら朝から国内外の客でごった返すだけに駐車場は大型イベント施設並み。ちなみに右手前の建物は(魯山人の陶磁器を展示する)新館。本館と地下で繋がっている。施工は安藤ハザマ(2010年)。本館の入り口は通過した奥にある。

 

「間違えないようににゃ」サル

 

 

ここだ。写真は早朝に撮ったもの。開館の30分前には中に入れてくれる。美術品は駄目だが庭園だけ観せるらしい。誰もいない建物と庭園を撮影したい人は、開館40分前には並んだ方がストレスがない。展示品にはカメラを向けないこと。

 

 

参考までにフロアマップを示す。まずは入り口から建物なりに沿って庭園を鑑賞しよう。写真に人が写り込んでも気にならない人はいいが、そうでない人はざっと一階のルートを見て回り、開場の9時にゲートに戻り、改めてゆっくり美術品を鑑賞するといい。なお、大観を始めとする日本画は二階に展示されている。開館直後は入光角度が浅いので日影が多い。気になる人は夏場が好いかも。

 

 

事前チケット購入がお薦めだが、当日でも全然問題なかった。最初の通路の突当りでまず一枚。開館前から大勢の若いスタッフが庭の手入れにあたっているだけに、枯葉一枚落ちていないし、枯山水の砂紋にも一条の乱れすらない。天気が良くないと映えないので、この晴天は僥倖以外の何物でもなかった。

 

「前の年のGWが散々な天気だったからにゃ」サル

 

確率は収束するね。

 

 

第二のビューポイント「苔庭」。杉苔とのコントラストを狙って傾いだ赤松が植えられている。松は傷みやすい庭木。そのため、不慮の枯死を考慮して、館外に広大な植木園があるのをジョグ中に確認した。

 

 

途中新たに建設された魯山人館がある。素晴らしいコレクションだった。ここは最後でいい。焼物はさすがに混雑しない。

 

 

入り口前の赤松と苔がひと際美しかった。

 

 

施工は鴻池組(2020年)。最近できたらしい。

 

「儲かっているにゃ」サル

 

 

ここで大観特別展示館(日本画と童画の展示施設)に入る。

 

 

白砂を前に設立者の銅像が立っていた。

 

北村西望《案内する足立翁》(制昨年不詳)

 

なんと西望の作だった。全康翁との関係は不明。なにか繋がりがあったのだろう。

 

北村西望《将軍の孫》(1918)

 

その向いに同じ西望の代表作。箱根彫刻の森高崎城址公園で観たことがある。

 

 

吉田五十八風のなまこ壁。

 

 

当館の代名詞「枯山水庭」

 

 

まるで一幅の絵画。

 

 

通称「生の額絵」。琳派の構図を狙っているそうな。

 

 

喫茶室「大観」を過ぎると南面に池庭が広がる。地下水を引いているので濁りがない。

 

 

まるまる肥え太った錦鯉は恐らく一匹数百万円だろう。いや、もっとか?

 

「いやねえ。おカネの話ばっかで」サル

 

 

1970年の開館の際はここが入り口だった。

 

 

まあこんな感じで朝一番でダッシュで回れば人混みは気にならない。

 

 

建築的には大味だが大切に維持されている。

 


茶室「寿楽庵」の脇からの風景が最後の見所だ。

 

 

名づけて「白砂青松庭」。大観の大作に因み、全康翁みずから作庭に手を染めている。

 

 

京羅木山を借景にして。女性的な曲線の赤松(左)と力強さを感じる低木の黒松(右)の対象が見事。

 

 

ズームすると細い一条の滝がみえる。亀鶴の滝だ。大観の朦朧体の墨画「那智之瀧」に見立てて造った人工の滝らしい。このあたりはちと俗っぽい。

 

 

坪庭を経て最後の“仕掛け”へ。

 

 

数寄屋の部屋越しにみる「生(なま)の衝立」

 

 

その背後に「生の額絵」。初めての往訪だったが庭園がこれほど広いとは想像もしなかった。これだけの庭を維持するのだから2500円の入館料は妥当だ。「ボッタくり」とか見当違いのコメントを偶に見かけるが、価値の判らない唐変木の戯言など無視していい。この名勝に加えて、大観と魯山人を噫が出るほど鑑賞できるのだから。

 

展示品について

 

往訪した時期は開館55周年記念として企画展「横山大観の軌跡」が開催中で、絶筆「不二」を中心に70点が紹介されていた。しっかり観るならば相応の時間が必要だ。

 

横山大観《不二》(1940)

 

何と言っても生涯に描いた7000点のうち1500点が富士山。しかし、登ったことは一度もない。後年はその自己模倣に対する批判もあったし、作品ごとの出来不出来は否めない。否めないが、最晩年まで精力的に絵筆をとり続けた創作家としての態度は賞讃して余りあると思っている。

 

《紅葉》(1931)は琳派を思わせる紅と青の対比が秀麗な作。五浦海岸を描いた《浦風》(1935)は池之端の自宅が全焼し、経済困窮のさなかにありながら完成させた。その信念は刮目に値する。また、売上を陸海軍に献上するために、当時として破格の1点25,000円で売り切った《山海二十題》(1931)のうちの一枚《雨霽れる》も、大観ならではの豊かな装飾性と詩情が溢れていた。

 

一般展示としては(婚礼調度として好まれた)芝山象嵌の初音蒔絵にまず注目し、武井武雄、川上四郎、林義雄、鈴木寿雄、黒崎義介、井口文秀らの童画コレクションの幅の広さに感服。光雲門下の米原雲海《南海観音立像》と冨田憲二のボリュームあるブロンズ作品《雲》(1986)も良かった。雲海といえば繊細な《仙丹》が有名だが、この観音像は神秘的。「なぜここに」と思ったら雲海は安来出身だった。

 

★ ★ ★

 

美術は好きだし、箱物としての美術館にもほぼ網を張っているつもりだが、近年まで存在すら知らなかった。「2003年以降アメリカの日本庭園ジャーナル誌で連続日本一を獲得」という点がSNSで騒がれる一因なのだろう。枯淡とは程遠いが、オリジナルな作庭の思想は一度は触れる価値ありと思った。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

国指定史跡 月山富田城跡

 

往訪日:2025年4月27日

所在地:島根県安来市広瀬町富田

開館:常時開放

料金:無料

アクセス:安来道路・安来ICから約12分

駐車場:無料(安来市立歴史資料館)

 

《この景色を見た瞬間あの映画を思いだした》

 

2025年西日本の旅三日目。前夜は道の駅奥大山で車中泊した。静かで他に車もないという前評判だったのだが、行ってみて理由が判った。大山の南麓で確かに緑に恵まれているが、車が横一列に停められる程度で、なにより通行量の少なくない車道に面していて落ち着かないのだ。

 

「もうここでいいんじゃね?」サル

 

今更移動する気力もなく、酒を飲んで寝ることにしたのだが、春とはいえ夜間は摂氏8℃。「きっと寒いよ」と出発前に釘を刺したものの、平気を気取ったおサルに従ったのが運の尽き。しかも一枚しかないペラペラのケットまで奪われ、小さく丸まって震えて過ごしたあの日が懐かしい。

 

「いいじゃん。ミートテックがあるし」サル

 

未明に移動し、安来市内に入った。安来といえばドジョウ掬いとあの美術館だ。しかし、まだ間がある。恒例の朝ジョグに繰り出すことにした。そのとき飯梨川越しの丘の上におサルが何かを発見した。

 

「お城?」サル

 

そんなのあったっけ?

 

「調べてみゆ」サル

 

人だかりの正体と未確認施設をそのままにできないおサルのおかげで月山富田城の城址だと判った。富田城といえば戦国武将・尼子氏の居城ではないか。こんな処にあったんだね。

 

 

ということであたりを一周したあと歴史資料館を起点にトレランもどきに登ってみた。

 

「運動すゆ」サル

 

 

初代・高久を祖とする尼子氏は二世・持久の代に出雲の守護代としてここ富田の丘に城を築く。

 

尼子晴久(1514-1561)

 

六世・晴久の代に最盛期を迎えるが、時代は戦国の世。勢力拡大を狙う毛利の軍勢に押されて苦戦。そんなさなかに大将・晴久が急死。あとを継いだ義久は謀略に嵌められて富田城は陥落。義久は幽閉され、尼子氏はここに滅亡する。

 

山中鹿介幸盛(?-1578)

 

家臣団の中には尼子氏再興を期する者もいた。その代表格がこの山中幸盛だ。願いが果たされることはなかったが、明治の頃まで尼子庶流による失地回復の目論見は熾火のように長く続くことになる。そのせいだろうか。尼子にはどこか暗く哀しいイメージがつきまとう。

 

 

そのイメージを醸成したのは他でもない野村芳太郎監督の映画『八つ墓村』(1977)だ。ご存知のように、この物語は尼子一族の滅亡と津山三十人殺しに材を得ている。それによって史実と異なる尼子一族のイメージが生み出されたに違いない。だからだろう。この馬蹄形の山城を見あげた時の既視感。あれは落ち武者たちの亡霊が丘の上に立ち並ぶ映画のラストシーンだったのだ。(ロケ地ではないと思うが)

 

 

花の壇。兵士の待機場所と推測されている。建物が再現されていた。

 

 

因みに建築物の再現遺構はここだけ。基本的に石垣だけだ。

 

 

山中御殿。文字通り御殿があった場所だ。富田城の中心部。

 

 

塩谷口門から七曲りの急登に変わる。

 

 

結構急勾配。この先で下山者の男性とスライド。

 

「すれ違うときだけスピードあげたよにゃ」サル

 

駄目なの?

 

「見栄っ張りだのう」サル ←人のこと云えた義理ではない

 

 

登り切った。いい景色だ。

 

 

西袖ヶ平。

 

 

その一段上が三の丸だ。

 

 

ここもひと際眺望がいい。

 

 

尾根を切り崩して城を建てた様子が見て取れる。

 

 

二の丸。

 

 

ゴールの本丸だ。写真を撮りながら起点の資料館から30分程度だった。

 

 

勝日高守神社だ。標高190㍍。築城前からあったとされる。

 

 

守り神は大国主命だった。このあと急いで下山することにした。麓の馬乗馬場に立ち並ぶ幟たち。その風に揺れる幟のなかに尼子の兵士たちの佇立する姿を見たような気がした。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ257

津山洋学資料館

 

往訪日:2025年4月26日

所在地:岡山県津山市西新町5

開館:9時~17時(月曜休館)

料金:一般300円 高大生200円

アクセス:中国道・津山ICから15分

駐車場:あり

■設計:象設計集団(富田玲子)

■施工:栗本建設工業

■竣工:2009年

※展示室撮影NG

 

《一見するとただの疑洋風建築》

 

西日本横断の旅二日目(まだ二日目か…)の締めくくりは津山洋学資料館。だが、閉館まで一時間しかない。「駆け足で観ても…」という思いもあったが、そうそう来られる場所ではない。ということで足を運んだ。

 

「行こうぜ行こうぜ!」サル

 

 

津山が洋学の町だということは既に書いた。明治になり、輸入学問の中心だった蘭学に取って代わったのが英独仏由来の「洋学」だった。その大家が宇田川三代(玄随、玄真、榕菴)箕作阮甫とその一門。やがて彼らは近代日本の牽引役となっていく。

 

 

その記念館の設計を象設計集団が担当した。吉阪隆正の門下生を中心とした大竹康市、樋口裕康、富田玲子、重村力、有村桂子の五氏によって1971年に結成。住宅建築や公共建築の分野で優れた作品を残している。その俊秀たちも大家になり、ある人は既にこの世にいない。この作品は富田玲子氏(1938-)が主導した晩年の作といえる。

 

「象って可愛らしい名前だの」サル

 

ちなみに吉阪の母方の祖父が箕作一族の末裔で日本動物学の父と云われ、三崎臨海実験所の初代所長を務めた箕作佳吉というのは単なる偶然ではないだろう。

 

 

木造と煉瓦造の洋館が並んでいるようだが、実は一体の鉄筋コンクリート造。周囲の景観との連続性を乱さない工夫で、広場や小道なども建築の一部として緻密に計算されている。

 

 

ここが入り口。内部の五角形をした展示室の連続こそ重要な見所のひとつなのだが、撮影禁止なので掲載できない。間接照明によって浮かび上がった天井の多角形の折り重なり。中庭を囲んだ円型のテラス。その草色や紅色のマットな漆喰の色調は、この日各所で観た先行する建築群へのオマージュらしい。

 

 

フランス積みの美しい煉瓦壁に津山洋学五峰(宇田川三代、箕作阮甫、箕作秋坪)のレリーフ。五が重要なキーワード。

 

 

淡い緑青色で統一されていた。

 

展示について

 

(参考資料)

 

特筆すべき展示物のひとつに星野木骨があげられる。広島の医師・星野良悦が刑死体を蒸して肉を落した人骨を参考に黄楊材で職人に制作させた。学問のためとはいえちょっと猟奇的。但しレプリカだった(現物は広島大医学部蔵)。

 

宇田川榕菴(1798-1846)

 

ちなみに宇田川榕菴というひとは音楽理論、地理、歴史、語学、度量衡を独学で習得した知的スーパーマンで、そのうえ文才と画才にも恵まれていたというから驚きだ。

 

箕作阮甫(1799-1863)

 

もう一派の雄・箕作阮甫も優れた洋学者で、その娘婿・箕作秋坪はのちに蕃書調所の首席教授を務めた東大医学部の父。他にも多くの優れた学者が一族の中から出ている。他にも華岡青洲の娘婿で津山藩主夫人の乳癌手術を執刀した久原洪哉などがいる。

 

と、観始めるとキリがないのはいつもの事だが「そろそろ閉館です」とスタッフにせかされるとマゴマゴしている訳にもいかず、走るようにして奥の図書室に向かった。ここは撮っていい。

 

 

ウィリアム・モリスを思わせる手作りの壁紙で覆われていた。

 

 

コロニアル風のテラス。色ガラスを巧みに嵌め込んだ窓から、市内各所から集められたという銅像たちの淋しい後ろ姿や横顔をみとめることができた。銅像というのは一箇所に集まるとなぜか行き場を失った人の群れように見える。僕だけの拙い連想だろうか。

 

 

建築は空間に取って変わるものである。そう理解していた。だが富田氏が表す(広い意味での)建築は「空間を発見する魅力」に満ちていて、場の表現であると改めて感じさせられた。この日はこれにて終了。大山の麓まで移動して翌朝に供えることにした。

 

「淋しく車中泊だにゃ」サル

 

予算も限られているし(笑)。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ256

中島病院旧本館(現 城西浪漫館)

 

往訪日:2025年4月26日

所在地:岡山県津山市市田町122

開館:9時~17時(月曜休館)

喫茶:10時~16時

料金:無料

アクセス:中国道・津山ICから20分

駐車場:あり

■設計:池田豊太郎

■施工:池田豊太郎

■竣工:1917年

■国登録有形文化財(2010年)

※室内撮影OK

 

《陸屋根折衷式の洋風医院》

 

続いて向かったのは疑洋風建築で知られる岡山県立津山中学校・高校だったが、あいにく改修工事中で拝見できず。再訪を誓って間近にある中島医院旧本館を訪ねた。

 

 

名士で知られた中島琢之(1885-1956)ゆかりの医院だ。敷地内に現役の病院もあるが、旧館は国の重要文化財に認定され、城西浪漫館と名も新たにオープン。一階には喫茶店が入居していた。

 

 

コリント式オーダーが支えるポーチと塔屋のドームが特徴。NHK朝の連続小説「あぐり」のロケに使用されたそうだ。

 

「おサルは連ドラ見ないからのー」サル

 

 

小豆色のモルタル掻き落しの壁が印象的。

 

 

まずは階段を伝って二階へ。

 

 

天井の化粧漆喰は比較的簡素。

 

 

「石垣がみえるね」サル

 

窓から津山城址が観えた。取壊しは1873年なので医院が落成した頃は既に今の状態だった。

 

 

石造り風だが木造二階建て。設計・普請は妹尾銀行林田支店などを手がけた津山の名棟梁・池田豊太郎

 

 

全ての部屋に異なる材質の暖炉があった。

 

 

特別病室。院長室の隣りにあるため、特別な人物の入院に使用された。第35代総理大臣・平沼騏一郎もここに入院している。

 

 

中島家ゆかりの品が展示されていた。

 

(なんとなくおっかない感じ…)

 

医師・中島大次郎の長男に生まれた琢之は東京帝大医科大学を卒業後、日本医科専門学校の教授に就任したのち、内科医としての腕を見込まれて一度は帰郷する。

 

 

だが、研究者魂が疼いてジッとできない。上京の機会を伺っていると知った地元の人びとは「名医を失ってはならない」と、銀行家・妹尾順平が中心となり、琢之のために病院を建てたのだ。

 

「そんなにすごいお医者だったんだ」サル

 

観念したのか、その後は岡山県医師会会長や衆議院議員、津山市長を歴任。医師として人々の救済にあたるだけではなく、政治家としても多くの功績を残したそうだ。

 

 

見学を終えて浪漫館で一服することにした。

 

 

なによりもあんこ好き。やっぱり善哉には大納言だよ。

 

「おサル珈琲飲む」サル

 

津山といえば洋学。洋学と言えば宇田川榕菴。当て字「珈琲」の生みの親がその榕菴だということは意外に知られていない。

 

「もともと知らんもん。よーかん?」サル

 

他にも「水素」や「酸素」などの言葉も榕菴の発案なんだよ。聞けばその榕菴が父・玄真が書き著した文献を参考に珈琲罐を考案。その再現したドリッパーで飲ませてくれるそうな。

 

 

なんと1200円/人。そのうえ二名以上でないと注文できない。よかった。サルがいて。

 

「飲もうって言ったのサルだし」サル

 

抽出にも時間がかかる。待つこと15分。

 

「昔のマシンだしの」サル

 

 

豆は実際に榕菴が飲んでいたジャワマンデリンとアラビカ種をブレンド。珈琲のことはよく判らんが、なんかありがたそう。

 

「どう?」サル

 

うむ。珈琲だね。

 

「やはり味わいの判らない男だった」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ255

津山文化センター

 

往訪日:2025年4月26日

所在地:岡山県津山市山下68

開館:9時~22時(木曜休館)

料金:無料(ホール見学不可)

アクセス:中国道・津山ICから15分

駐車場:あり

■設計:川島甲士

■施工:三井建設

■竣工:1965年

■第8回BCS賞(1967年)

■DOCMOMO選定(2005年)

※室内撮影OK

 

《斗栱を模したモダンな梁の連続》

 

津山城をくだった厩堀のそばに殊更眼を惹く建築がある。建築の街・津山が誇る津山文化センターだ。1965年に市民の声に応えて寄附を募り、津山尋常小学校の跡地に建設された(建設時の仮称は美作産業文化会館だった)。

 

 

設計は川島甲士(1925-2009)。早大理工学部建築学科卒。丹下健三のひと廻り下で篠原一男内田祥哉が同世代にあたる。卒業後は清水建設、逓信省をへて1957年に32歳で独立。主な作品として西都原考古資料館(1968)、松源寺(1969)などがあるが、取り壊されているものも多く、現存作例は貴重といえる。


 

ホールの他に会議室や展示ホールなども併設。2020年に耐震補強をかねた大規模改修を完了。ガラスボックスがデザイン的に不統一だが、バリアフリーのためには仕方がないだろう。

 

 

展示ホールの外壁。粟津潔による手彫りのレリーフが施されている。

 

 

レリーフは生物の躍動するさまを、基台は城壁を模している。

 

 

西側の玄関。

 

 

寺社建築の斗栱造りがこの建築の要。プレキャスト部材を組み上げている。改修前は退色がひどかったようだが、朱色の鮮やかさを取り戻していた。

 

 

西口ゲート。取っ手のデザインは何かを表しているのだろうか。判らん。

 

「岡山のOとか?」サル 知らんけど

 

 

最初にみた時、佐藤武夫かと思った。川島が在学した時期に佐藤は早大の教壇に立っていたはず。どこかで薫陶をうけたのだろうか。あるいはその逆?根拠なき想像だが。

 

この日はイベントもなくホワイエを少し覗ける程度。これでも充分だ。

 

(参考資料)

(※ネットより借用いたしました)

 

やはり座席も緋色。

 

ちなみにこのモザイク画は岡山出身の美術家・白石齊(しらいし ひとし)氏の作品。川島に声をかけたのもこの白石氏だったそうだ。

 

 

「なに?このジェットエンジンみたいの」サル

 

スピーカーらしい。

 

 

よく見えないが側壁はHPシェル構造。逆台形の躯体の強度を確保している。ちなみに構造設計は大御所・木村俊彦

 

 

津山城の面影をデザインしているのだろう。坪庭があった。ここは後づけかと。

 

 

東西にギャラリーが貫いている。

 

 

その途中に螺旋階段がある。これがまたひと際エレガント。

 

 

コンクリートでこれ作るか?川島という人は鉄筋コンクリートの未来を硬く信じて、その可能性を追求した建築家だったのだろう。それなのに忘れられつつあるのは惜しい。

 

「なんか見学会があるって」サル

 

そういうチラシ目聡く見つけるよね。

 

「まーねー」サル

 

5月5日に見学会?残念ながら日程が合わないし、定員に達しているだろう(泣)。

(※一日限定で午前午後の各一回70名限定での見学会だった)

 

武藤順九《CIRCLE WIND 2011 絆》(2012)大理石

 

宮城県出身の彫刻家・武藤順九(1950-)が手がけた3.11鎮魂碑の1/4スケールモデルが陳列されていた。どういう縁なのだろう?

 


本郷新《朝》(1966)

 

そして屋外には本郷新の裸婦像も。充実の建築散歩だった。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

史跡 津山城跡(鶴山公園)

 

往訪日:2025年4月26日

所在地:岡山県津山市山下135

開館:8時40分~19時(年末年始以外無休)

※季節で異なります

料金:一般310円 中学以下無料

アクセス:中国道・津山ICから約15分

駐車場:無料

※撮影OK

 

《唯一再建された備中櫓》

 

見学施設をひと通り観たあと、背後に聳える津山城跡を巡ることにした。森忠政公ゆかりの名城だったが、明治の新政府によって解体され、今は鶴山公園として市民の憩いの場になっている。

 

 

夏場の城郭建築はこたえる。春先が一番だ。

 

 

忠政公の銅像があった。なんとも太々しい。関ヶ原の戦功によって美作一国の国持となった忠政公が城郭建設の候補に選んだのがチョンと聳える鶴山だった。この地名を「津山」に改名したそうだ。

 

 

ここで入場チケットを購入。結構空いている。

 

「天守がないしねー」サル

 

 

江戸城駿府城の築城にも駆り出されたため、竣工まで13年かかっている。

 

 

まずは三の丸

 

「なにかあるにゃ」サル

 

 

鶴山館と扁額が掲げられている。明治4年にできた学問所および稽古場「修道館」だったもの。学制改革によって様々な教育施設に用途をかえて、1904年にこの場に移築された。

 

 

その後も催し物の会場として利用されたそうで、現在はかつての稽古場の内装に戻されている。

 

 

狭い敷地ながら幾つもの御殿がギュウギュウ詰めに建っていた。かなり壮観だったらしい。

 

「結構登るね」サル

 

毎晩飲んでるから運動代わりにね。

 

 

階段の遺構が奇麗に残っている。

 

 

備中櫓がみえてきた。津山のシンボル。

 

 

ここに本丸の表鉄門への通路を仕切る切手門が建っていた。

 

 

東の方角をみる。ほぼ住宅地。

 

 

表鉄門の跡。両脇に立派な櫓が建ち、黒光りする鉄板で覆われた鉄門が外部からの侵入を拒んでいた。

 

 

ようやく本丸に到着。一緒に登ったおばちゃんたちはへたり込んでいた。

 

 

備中櫓には藩主やその家族など限られた人しか入れなかった。櫓といいつつ御殿のような役割を兼ねていたのだろう。

 

 

最後に天守台へ。神殿の基台のようだ。

 

 

愛の奇石ね。そう言われればそう見えないこともない。

 

 

この刳り貫かれた場所から天守にあがる構造になっていたのだろう。

 

 

眼下に見えるのは例の名建築。

 

 

天守台の真下に七番門の遺構が。この虎口(こぐち)から二の丸に直接通じているが、石垣の落差は3㍍。飛び降りたり飛びついたりできるものじゃない。

 

「ではどうやったのち?」サル

 

階段や梯子のようなものがついていたと推測されている。敵が来たら外せばいいしね。

 

 

北端の桜門の遺構だ。結構階段が急勾配。ひとりが登ると他の客もつられてドンドンやってくる。観光地アルアル。

 

「あとカメラを向けていると一様に撮り始めるとか」サル

 

アルアルだね(笑)。判る人には判る建築でも一般人にはただのビル。でも一緒にカメラを向けるんだよね。あれってなんだろね。

 

「あとで調べるんじゃね?」サル

 

 

桜門跡の上は風が強かった。右奥には名峰・那岐山のたおやかな峰が見えた。

 

 

そろそろ飽きてきたので裏中門から裏下門へと下っていく。

 

 

厩堀の前に降りた。反り返った石垣が美しかった。このあとグルリと廻って駐車場に戻るのだが、その前に例の建築を見学するとしよう。

 

「1万歩は稼げるかにゃ」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ254

旧津山市庁舎(津山郷土博物館)

 

往訪日:2025年4月26日

所在地:岡山県津山市山下92

開館:9時~17時(月曜休館)

料金:一般300円 高大生200円

アクセス:中国道・津山ICから15分

駐車場:無料

■設計:磯兼権蔵

■施工:水野鐵五郎

■竣工:1933年

■国登録有形文化財(2006年)

※室内撮影OK

《アールデコ様式のシンプルなデザイン》

 

更に続いて旧津山市庁舎を訪ねた。1933年の竣工で設計は磯兼権蔵。残念ながら詳しい経歴は不明だ。現在は郷土博物館として津山市の歴史を伝えている。

 

 

1982(昭和57)年の三代目新庁舎の落成に伴い、博物館に姿を変えた。アール・デコ様式の鉄筋コンクリート造三階建て塔屋付き。頂部を四囲するスクラッチタイルによるパラペットが印象的だ。

 

 

車寄せは腰板の花崗岩を除いて擬石。

 

桜井敏生《横になる人Ⅲ 涼風》

 

正面に彫刻が一体。鏡野町生まれの彫刻家・桜井敏生(1940-2023)の作品だった。武蔵野美術学校西洋画科を卒業。新制作派協会を舞台に活躍。温かみある具象の石造彫刻が持ち味。

 

 

竣工から殆ど姿を変えていない点は特筆に値する。

 

 

一階中央ホール。博物館では地質時代から近代に至る津山の歴史を知ることができる。

 

 

まずは化石。津山に来て三回目(笑)。

 

「もういいかな。化石は」サル

 

第三紀中新世(約1500万年)に棲息していた哺乳類パレオパラドキシアの化石だ。

 

 

1982年9月。津山市内の工事現場で地元の中学三年生が発見した。なんと同い年だよ。歴史の名前を残すとは羨ましい。なお、この海獣の化石は岐阜、福島、埼玉の地層からも見つかっている。カバのような姿をしていたと推測されている。

 

 

他にも。くどいけど。

 

次は人類史。というより古代史。

 

 

陶棺。古墳の横穴式石室に納められた。その殆どがこの美作に集中していて亀甲型が特徴。

 

 

最初に卵型の陶器を作り、最後に職人が二つに切り分けるのだとか。

 

「珍しいもの見た」サル

 

 

では二階。すっ飛ばして中世へ。

 

 

日本に中央集権国家が完成すると、713(和銅6)年に美作国府が作られて国司が派遣された。そののち疫病平癒を願って国分寺国分尼寺が全国に設置されることになる。国府は現在の津山市総社に造営されたそうな。

 

 

出土する鉄器から朝鮮半島の文化が見て取れるそうだ。

 

《法然上人行状絵図(複製)》(知恩院)

 

鎌倉仏教のひとつ浄土宗を広めた法然上人(1133-1212)は美作国稲岡荘の生まれ。絵図は明石定明夜襲の図である。法然の父・時国はこの時の創が命取りになるが「敵を恨んではならない。仏に帰依し立派な僧侶になるのだ」と強く言い含めて世をさったという。復讐の連鎖を断ち切る英断だった。

 

「立派なお話だの」サル

 

 

津山城本丸を飾った葵の御紋入りの瓦。イオニア式の柱頭みたいだ。津山の歴史は徳川幕府の成立とともに、関ヶ原の戦功により川中島から入城した森忠政の治世に隆盛をみた。秀吉の小姓・森蘭丸兄弟の一人、森兄弟の生き残りだ。それも血筋が絶えて改易。

 

 

替わって松平宣富が入城。長く不遇の時代が続いたが、将軍・家斉の息子斉民が再興を果たすが、間もなく開国。蘭学が栄えた文化の土地柄ながら、領主においては紆余曲折があったらしい。

 

 

1616年に津山城落成を祝って細川家初代・忠興公から贈られた九曜の家紋が入った鐘(複製)。

 

 

小振りながらも名城と謳われたが、残念ながら廃藩置県後に解体された。

 

 

二階ホール。市役所の遺構がよく残っている。ちなみに手前は藩校・修道館の扁額。欅の一枚板に8代藩主・松平斉民(1814-1891)の揮毫を彫起こしている。

 

 

気になるロンドン近衛兵の帽子のようなものは熊毛槍といわれ、文字通り鞘の先を熊毛で装飾したもの。その意味でロンドンのそれと同じだった。ただ、これだけ巨大なものは津山藩独特で藩主は黒、嫡子は白と決まっていた。

 

「目印だったんだろうね」サル 殿様がここにいるっていう

 

行列の際には15㌔もある鞘と槍をお供の者は片腕で支えねばならず、通常二人交代の処を三人で遣り繰りしたそうだ。だんだん実用から家格の象徴になったんだろうと云われている。

 

鍬形蕙斎《江戸名所図会》(1803)

 

次は掛け軸。描いたのは津山藩の御用絵師、鍬形蕙斎(1764-1824)。またの名を北尾政美と呼ぶ。名所図会や絵手本「略画式」のパイオニアとして知られるが、画手本といえば北斎。実は北斎はパクリの名人でもあったようで蕙斎自身「北斎はとかく人の真似をなす」と零している。

 

鍬形蕙斎《諸職画鑑》(1794)

 

確かにこれ、北斎漫画だね。

 

鍬形蕙斎《人物略画式》(1799)

 

いや、北斎漫画が最初に出版されたのが1814年だから、やはりパクったんだな。

 

「そりゃ怒るよにゃ」サル

 

 

ここでお隣の津山観光センターでランチに。

 

 

津山のB級グルメ、津山ホルモンうどんを頂戴した。なかなか美味しかった。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ253

津山基督教図書館(森本慶三記念館)

 

往訪日:2025年4月26日

所在地:岡山県津山市山下98-1

開館:9時~17時(月曜休館・不定休)

料金:一般500円 小中生300円

アクセス:中国道・津山ICから15分

駐車場:無料

■設計:桜庭駒五郎

■施工:桜庭駒五郎

■竣工:1926年

■国登録有形文化財(1998年)

※室内撮影OK

 

《パッと見は石造だが…》

 

次につやま自然のふしぎ館に隣接する森本慶三記念館を訪ねた。慶三翁が私財を投じてキリスト教や歴史、哲学、理工学関係の蔵書を集めた私設図書館としてスタート。今回初めて知ったが、津山は建築の宝庫であり、ここもまた大正末期を代表する名建築だった。

 

 

木造二階建て。時計塔まで含めると四階になる。

 

「石造りかと思った」サル

 

 

設計は桜庭駒五郎(1871-1955)。弘前の鋳物職人の家に生まれ、弘前教会堂(青森)や香登教会堂(岡山)など多くの教会建築を手がけたクリスチャン棟梁である。熱心なキリスト教徒だった慶一翁の依頼に応えたのだろう。

 

 

イオニア式の注頭を戴いたオーダー。羊や山羊が王冠を囲むペディメント。端正ながら存在感ある建築だ。

 

 

「学校があったんだね」サル

 

 

出入りは側面から。

 

 

階段を昇る。

 

 

奢侈性を排除した意匠。慶一翁の人柄と同じ。

 

 

記念館の二階は歴史民俗館。森本家が営んだ商家「錦屋」の歴史、森本慶三の生涯、そして図書館の歴史が紹介されている。

 

「一階は入れないんだね」サル

 

図書館だからね。今も65,000冊が揃っている。

 

 

時計塔への階段がとても狭小。興味をそそる。

 

 

それでは第一室へ。

 

第一室

 

 

錦屋は江戸初期の創業。明治42年まで約300年の歴史を誇る。祖先は加藤清正の家老の血筋で、1603年に入封した初代藩主・森忠政に請われて移住。その後商人になった。

 

 

商いの対象は呉服や時計。両替商も兼ねて明治13年には津山銀行を開業。のちに中国銀行津山支店となった。

 

 

当時、資産家といえば骨董。

 

 

袖師焼(出雲)といえば黄釉と緑釉。

 

 

古丹波焼。天然釉と焼き締めのコントラストが滋味豊か。

 

 

 一般的には地味な内容かもね(笑)。

 

第二室

 

 

松平家からの拝領品や調度などを展示。

 

 

この部屋。もとは講堂だったのだろう。

 

第三室

 

図書館関連資料とともに森本家の歴史も紹介されていた。

 

 

1912(大正元)年11月。津山講演に訪れた内村鑑三を囲んでの一枚。慶三翁は内村の右三人目に並んでいる。この年の初め、内村は最愛の娘・ルツ子を亡くし、間もなく再臨運動を強く推し進めることになる。そんな頃の写真だ。

 

「立ち直るために啓蒙活動に勤しんだのかもね」サル

 

何にしても人生に羅針盤は必要だよ。

 

組織・権威・偶像崇拝を嫌い、聖書のみを信仰の対象としたプロテスタントらしく、この図書館に宗教的な“化粧”はない。優れた建築にそもそも無駄は存在しない。そんな当たり前のことを教えてくれた。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

つやま自然のふしぎ館(津山科学教育博物館)

 

往訪日:2025年4月25日

所在地:岡山県津山市山下98-1

開館:9時~17時(月曜休館・不定休)

料金:一般800円 小中生600円 幼児400円

※歴史民俗館との共通券がお得

アクセス:中国道・津山ICから15分

駐車場:あり

 

《表現が東宝怪獣祭》

 

奥津温泉の仙郷を離れて、初日にいく予定だった津山科学教育博物館をめざした。博物館は僕のテリトリーだが、そのトンデモぶりがSNSで話題ということで、おサルのたっての希望で見学することにした。

 

 

通称「つやま自然のふしぎ館」。硬い名前ではファミリー層を呼び込めない。そう判断したのだろう。ならばいっその事変えてしまえばいいのに。そう思うが、キリスト教と科学を信奉した設立者・森本慶三の思いを忖度すれば安易なこともできないのだろう。

 

 

全部で14室。化石、人体、貝、昆虫に始まり、展示対象は世界中の野生動物の剥製まで網羅。展示総数20,000点。設立は1963(昭和38)年。よく集めたと感心するしかない。なお今上天皇も皇太子時代に来訪されている。

 

 

しかし、絶滅危惧種をどうして剥製にできたのか。動物園で亡くなった個体だろうか。

 

第1室 化石の世界

 

 

化石と現代の珍獣を同レベルで陳列。このあたりが昭和的。

 

 

本家のビカリアミュージアムすら足許にも及ばない完成度と収集の幅。それはこの若くして亡くなった少年の化石愛がなしえたものだった。剥製以外はコレクターの寄贈が多い。

 

第2室 人体の神秘と動物の骨格

 

 

博物学と宗教の接点に万物の霊長たる人類がいる。そういう切り口で人体が語られる。胎児の成長に合わせて造られた子宮や眼球などの解剖模型が陳列されていた。昭和の模型は表面がツルツルで逆にそのプアな仕上がりが生々しさを助長して胸苦しくなる。

 

「目のやり場に困るのー」サル

 

隣りの若い父親は幼い息子に「●●君もこうしてお母さんのおなかに入っていたんだよ」と朗らかに説明するが、想像するとモヤモヤする。なぜ多くの人体模型は女性なのか。猟奇的に感じる僕がおかしいのだろうか。

 

 

「やっぱりヒツは科学者にはなれんね」サル

 

そのうち一つ目の畸形の仔牛や人間の胎児のホルマリン標本が出てくる。刑法上死産の胎児は人格を附与されないからだろう。かなり重いテーマだが、子供に見せていいのか。いや、科学的視点からいえば早くから識るべきかもしれない。

 

「理科の実験室、怖かった」サル

 

実はこの裏側でまさにおサルが実見中なのだが、当館が《トンデモ系》と言われる最大の根拠が展示されていた。それは当館の設立者である篤志家・森本慶三その人の臓器のホルマリン漬けが、脳、肺、心臓と腑分けされて展示されていたのだ。


特定の人間の臓器を展示する。その行為は刑法190条に抵触しかねない。解剖に当たった岡山大の医師は本人の遺志を汲みつつも関係者と十分な議論を交わした。その結果、ホルマリン漬け標本は「死体」ではないという結論にいたった。もちろん、当時の倫理観が現在と違っていたこともある。ここで感じるショックは、モノそれ自体のあまりの生々しさもあるが、戦前の科学思想がそのまま化石化したかのように今も残っている事実にある。

 

「そういえば人体の不思議展は怖くなかったにゃ」サル

 

プラスティネーションを施した人体標本を展示する「人体の不思議展」が20年余り前に大きな話題になり、現在も続いているようだが、あのモノ化した標本とはまるで違う。匿名性の有無も大きい。

 

 

いきなりキリンか。

 

 

ヘンなところで雑。

 

「昭和昭和」サル

 

第3室 世界と日本の珍しい貝

 

 

やっぱり昭和の科学少年には貝だよ。

 

 

ツキヒガイ。幼稚園の砂場でゲットしたときは夢のようだった。

 

 

アオイガイ。貝に似ているけど蛸の仲間。殻を向かい合わせにすると葵の葉に見えるのでこの名がある。

 

 

南の海の貝はどれも美しい。持っていたよ。どれもこれも。きっと亡くなる前にオヤジが勝手に処分したと思うが。

 

第4室 昆虫の世界

 

 

昭和の科学少年は昆虫も好き。

 

 

殆どは寄贈。日本昆虫学会で日本一の折り紙つきだった鴨脚慶夫氏のコレクション。

 

第11室 日本の鉱石・岩石

 

 

観客に一顧だにされない岩石コーナー。雑な扱いでちと不憫。

 

第5室 日本とアジアの動物

 

(左)ベンガルヤマネコ (右)タイワンヤマネコ

 

もうちょっとどうにかならなかったのか。その辺の縫いぐるみより悪い。

 

「足も反対に曲がってるし」サル

 

 

なんでも咆哮すればいいというものではない。

 

第6室 世界の鳥

 

 

全部同じ形。これが昭和の頃のはやりなんだろう。応接間向き。

 

第7室 北米大陸の動物

 

 

そういえば三毛別羆事件で駆除されたヒグマの胃から出てきた子供の足やズタズタにされ切除された成人の腕のホルマリン漬け(写真)なんてのも展示されていて貧血を起こしそうだったが、昨今の熊害騒動なんかにはいい啓発資料だ。

 

「怖すぎゆ~」サル

 

「熊が可愛い可愛くない」というのは人間側の勝手な印象論。熊はただ飢えと本能に突き動かされた野生動物。その本能的行動の拡大が脅威なのであり、害を及ぼすというだけのこと。クランシーではないが“今そこにある危機”は排除するしかない。

 

第8室 日本の野生動物

 

 

エゾシカとニホンジカの体格差。寒い地域では体温放出を減らすために動物は大きくなる。ベルクマンの法則だ。

 

「ちびっこおサルが寒さに弱い理由が判った!」サル

 

でも最近平気じゃん。

 

「慣れた」サル

 

コーカソイドが大柄でアジア人が小柄なのもこれかな。

 

第9室 極地と南米の動物

 

 

昔の剥製らしく縫合痕が痛々しい。

 

第10室 爬虫類・両生類


 

昭和38年8月4日。津山市内の中学生・大上博少年が吉井川の川底からヒゲクジラの仲間の化石を発見した。それまでも部分化石は発見されていたが、ほぼ完全な頭部の化石という学術的価値の高さが話題になったらしい。その再現展示。

 

 

昭和40年前後って空前の化石ブームだったんだよ。

 

 

岩魚を丸呑みして息絶えたオオサンショウウオ(手前)。標本にも物語がある。

 

 

学芸員のセンスを感じる。第11室(日本の鉱石・岩石)、第12(世界の珍鳥)と第13室(オーストラリア)はたいしたことないので省略。

 

第14室 日本及びアジアの野鳥

 

 

昭和50年5月に島根県の日御﨑灯台で起きた大竜巻に巻き込まれて2000羽に及ぶウミネコが墜死した。前代未聞の自然現象を伝えるために、地元の役場から贈られたそうだ。

 

第15室 西アジア・アフリカの動物

 

 

「牛ってジッと見るよね」サル

 

制作者はよく観察してる。

 

ここに載せた剥製はごく一部。モノによっては雑なものもあるが、それも御愛嬌。博物学全書をリアルに再現しようとした慶三翁の執念を感じた。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。