ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

本田宗一郎ものづくり伝承館(旧二俣町役場)

 

往訪日:2025年8月8日

所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町1112

開館:10時~16時30分(月火休館)

料金:無料

アクセス:第二東名・浜松浜北ICから10分

駐車場:無料(5台)

■設計:本島亥三郎

■施工:本島亥三郎

■竣工:1936年

■国登録有形文化財

 

《このデザインで爆発的ヒットに!》

 

秋野不矩美術館の次に訪れたのは本田宗一郎ものづくり伝承館だった。“世界のHONDA”こと本田技研工業が浜松創業ということで勘違いしていたが、本田もまた二俣(旧光明村)の出身だったのだ。

 

 

登録有形文化財の旧二俣町役場を改装して2010年にオープンした。

 

 

緑豊かな街道近傍に記念館はある。南ア深南部登山で幾度通ったかしれない。

 

 

駐車スペースは5台。脇には諏訪神社が建っていた。

 

 

建物の一段上に銅像が。学校建設、橋梁架設、渡船改良など二俣町の発展に寄与した小澤義助だった。台座の題字は犬養毅の毫。戦時中の金属供出で一度は失われたが、町民の熱い要望によって再建された。

 

 

建築は旧二俣町役場庁舎のコンヴァージョン。スクラッチタイルが美しい。

 

 

訪れる客はライダーばかり(笑)。

 

「だろうにゃ」サル

 

バイクには乗らないので価値が判らない。

 

「サル中型免許もってゆ」サル

 

よく実技試験で足が届いたね。

 

「イロイロ手をつくした」サル

 

せっかくなので幾つかメモを。

 

《ホンダカブF型》(1952)

 

A型の後継機。エンジンが後方に設置されたことで衣服の汚れがなくなり、また白いタンクと赤いエンジンのデザインがうけて大ヒット。それまでの特約店限定の販売方法を改めて一般の自転車店にもおろすようになったとか。たしかにまだ自転車だね。これは。

 

《スーパーカブ C100》(1963年モデル)

 

1958年デビューのC100。いまでも誰が見てもカブだと判る。2017年に立体商標を取得した。

 

「天丼屋のおかもちのイメージだの」サル

 

 

広告のデザインもイカシテル。

 

「死語でしょ」サル

 

《ホンダC型》(1949)

 

自社開発した初のモーターバイク。リヤカー用タイヤが使用されているあたりに時代を感じる。日米対抗オートレースに参加してクラス優勝を果たしている。

 

《ホンダ ベンリイJA型》(1954)

 

二人乗りが可能になった。

 

《ホンダ ベンリイ CB92 スーパースポーツ》(1963)

 

市販スポーツモデルの元祖。オヤジが若い頃こんなのに乗っていたよ。

 

 

二階は本田宗一郎の生涯について展示されている。

 

 

本田宗一郎(1906-1991)。鍛冶屋の長男に生まれる。高等小学校(現在の中学校)卒業後に湯島の自動車整備工場「アート商会」に丁稚いり。その後紆余曲折をへて1948年に本田技研工業を設立。つまり42歳で起業したことになる。原動機付自転車の成功以降については誰もが知るところ。僕らが学ばねばならないのはこの前半生にあるのだろう。

 

「創造する力に学歴は関係ないのち」サル

 

短気で強情ながら社員からは「オヤジさん」と呼ばれて慕われていた。厳しい言葉をぶつけてもその情深い人柄に皆ついていったのだろう。だからこそ社員一丸となって会社を成長させることができたに違いない。今の世の中はコンプラだハラスメントだと喧しくなりすぎて社会全体が委縮して組織をどう纏めていいのか判らなくなっている気がする。

 

「悩めるヒツジね」サル

 

 

本田は根っからの技術屋で生涯現場に出ることを望んだ。これは愛用の製図台。晩年はここで絵を描いていた。

 

 

その一枚。とても素人とは思えない出来栄え。本田のクリエイティビティとデザインセンスは生まれ持ってのものだと納得した。

 

 

指先を金槌で潰すってどういうこと…。僕も薬指第一関節の1/4が欠ける怪我を経験しているがとてもではないが、真似できない。

 

 

本田宗一郎という人は名言を多く残した。それだけで一冊の本ができるほどに。心に残った言葉をひとつ引いておこう。

 

“世間でいう悪い子に期待している”

 

はみ出しっ子という者がいる。好奇心豊かな子ほど規則・常識を逸脱してしまう。集団のなかでは鼻つまみ者でしかない。世の中が画一的になり、皆同じものに興味を持ち、同じ格好をする。その先にあるのは危機や変化に対応できない脆弱な社会だ。リーダーたる者は拒むことを知り、新たな価値を想像し、組織を牽引できる、そんな存在であって欲しい。てなことを感じた。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

土木遺産シリーズ7

鹿島橋

 

往訪日:2025年8月8日

所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町

■発注:静岡県

■施工:㈱浅野造船所

■竣工:1937年(昭和12年)

■用途:橋梁構造物

■諸元:橋長216.6m×幅員6.0m

■形式:上曲弦カンチレバートラス橋

■土木学会選奨土木遺産(2013)

 

《知る人ぞ知る名橋!》

 

秋野規矩美術館を観るついでに旧二俣町界隈を走った。途中通過したのが名橋のひとつ鹿島橋。天竜川の川下りエリアの終点に位置する。

 

 

戦前から残るものでは最大スパンの上曲弦カンチレバートラス橋。橋脚上から部材を張り出しながら架設したのだろう。手前に後から歩道橋が附設されているので、車道部のトラス構造がよく見えないのが玉に瑕。

 

 

竣工は昭和12年。国際情勢の雲行きが怪しくなりかけていた時期に、よくこんな場所に長大橋を掛けたものだ。

 

「それだけ地元の悲願だったんじゃね」サル

 

製作・架設は浅野造船所(現JFEエンジニアリング)。まだ高張力鋼のない時代。リベット打ちの部材の小技が涙ぐましい。

 

 

2013年には土木遺産に選定されている。スレンダーで女性的な形式だ。

 

 

下流側には天竜浜名湖鉄道が走っていてちょうど列車が通過するところだった。

 

 

「なんかあるにゃ」サル

 

左岸側に渡った処に筏問屋・田代家の遺構があった。残念ながらこの日は除草作業日で休館。家康の遠州経略に力添えした功績が認められ、筏川下げと諸役免除の特権を与えられた。

 

 

筏の模型。これで上流から木材を運び出して河口部の掛塚集落で船に積み替えて江戸に運んだ。

 

 

船宿もあったそうな。

 

「中も見られるんだにゃ」サル

 

今は時間外だけどね。

 

 

その先にある鳥羽山洞門も1899(明治32)年竣工の煉瓦造り遺構だ。今では殆ど通る人もいない細道だが、かつて二俣西街道と呼ばれた幹線道路。難所だった鳥羽山に穿たれたトンネルは二俣の人びとの生活に貢献した。

 

 

ちなみに車も走れるが一方通行。

 

 

車で訪れるだけでは決して知ることのできない小さな発見。それが旅ジョグの愉しみである。

 

「ぼーっと走ってもつまんないしね」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

令和7年度 第3回 所蔵品展

 

往訪日:2025年8月8日

所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣130

会場:浜松市秋野不矩美術館

開館:9時30分~17時(月曜休館)

常設:一般310円 高校生150円

アクセス:新東名・浜松浜北ICから10分

駐車場:50台(無料)

※展示室内撮影NG

 

訪れた時は常設コレクションの展示期間中。秋野本人の作品をじっくり鑑賞することができた。

 

 

秋野不矩(1908-2001)はここ二俣の生まれ。家は貧しかったが、静岡県女子師範に進んだので優秀だったのだろう。師範学校の縁で京都の西山翠嶂の画塾に通い始めると俄然才能を発揮。官展で連続入選を果たす。ここまでは順調だったが、どこか臍曲がりというのか、負けず嫌いな性分があったのだろう。国家の庇護のもとで描きたくないという日本画仲間(山本丘人、橋本明治、上村松篁、沢比宏靱など)と集い、1948年に創造美術を結成。これが今に続く創画会である。

 

今回のコレクションで異彩を放っていたのがこの絵。数年前に新発見された初期の絵だ。

 

《衣川章子の像》(1950)

 

描かれている人物はのちに生田耕作夫人・章子である。なぜあの異端文学研究者の妻が。まずそう思った。実は京大でフランス文学を学んでいた生田が不矩の息子にフランス語の家庭教師をしていたらしい。その礼として不矩は章子の肖像画を生田に贈ったそうだ。章子は不矩の弟子だった。その章子に生田が恋していた。そのことを不矩は見抜いていたのだろう。

 

「もうちょっと奇麗に描いてやればいいのに」サル

 

余計なお節介だが、思わず苦笑いしてしまった。だが、あの生田のことだ。満更悪い絵と思わなかったのかも知れない。

 

話が一旦逸れた。不矩の人生の話だった。

 

“在野”を決め込んだ不矩は創画会同人のかたわら、京都市立美術専門学校(かつての絵専、のちの京芸)の教師をつとめる。勤続25年。実はこのキャリアが一番長いような気がする。その間に大きな転機が訪れる。インド赴任である。ときに54歳。この衝撃はその後の絵画観におおきなインパクトを与え、代名詞とも云える東アジアを舞台とする名作を多数残すことになる。

 

今回のコレクション展では85年~98年の最晩年の作品が中心だった。

 

《廻廊の壁画》(1986)

 

この壁画をモチーフにしたテンペラのような作品や…

 

《土の家[A]》(1987)

 

まるで漆喰に描いたようなマチエールなど。

 

《女人群像》(1988)

 

創画会14周年記念に出品したこれなど仏画のようだ。インドの異国情緒や大自然を対象とするだけではなく、その風土、気候、精神性を表すために、日本画の枠組みを逸脱し、西洋画の技法も試みたことが(現物を見るといっそう)よく判る。

 

「日本画っぽくないね」サル

 

《ナヴァグラハ(九曜星)》(1991-1992)

 

手漉きの竹紙を使用。ただ黒一色のようだが、木炭、黒朱、象牙墨を使い分けている。

 

《帰牛》(1995)


プラチナ箔と銀箔を用いたインド農村の風景。どっしりした牛の群れが悠久の台地を思わせる。一時創画会が新制作派と合流した時期があり、以来、舟越保武小磯良平とも親交があった。不矩の芸術の多様性はそこからの刺激もあったのだろう。

 

《雨雲》(1996)

 

最後の最後で先祖返りしたような琳派風の大作を観せられた。部分的に銀箔を使用。雄大な異国の台地を感じさせられる。老いても(などという言葉は禁句かもしれないが)盛んな不矩の、絵画に向かう姿勢を見た気がした。長らく京都の美山町にアトリエを構えていたが、亡くなる三年前にここ秋野不矩美術館が完成している。やはり人生の終りの時には故郷に戻りたいと思うものなのだろうか。僕にはいまだその気持ちにいざなわれる気配はない。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ323

浜松市秋野不矩美術館

 

往訪日:2025年8月8日

所在地:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣130

開館:9時30分~17時(月曜休館)

常設:一般310円 高校生150円

アクセス:新東名・浜松浜北ICから10分

駐車場:50台(無料)

■設計:藤森照信+内田祥士

■施工:大林組

■竣工:1997年

 

《見て愉しい藤森式和モダン》

 

昨年の8月8日から「2025西日本夏の旅」と銘打って紀伊半島を中心に長い旅に出た。本当に自分でいうのもおかしいくらい落ち着く暇がない。

 

「旅してるかブログ書いているかだもんね」サル

 

仕事もしてるよ。

 

 

初日は遠州周辺で一日刻んだ。まずは藤森センセが“建築家”として身を固めた初期の作品から。

 

 

建築探偵として名高い建築史家・藤森照信先生が、ひょんなことから設計に携わったのが神長官守矢史料館(91)。デビュー45歳は漱石より遥かに遅い。その後、自邸のタンポポ・ハウス(95)を挟んで、次に手がけたのがここ。

 

 

画家・秋野不矩みずから指命したとか。

 

美術館の正面にも数台分白線が引かれているがこれは身障者用。専用駐車場は長い坂道の起点にある。健康のためも歩こう。

 

 

「見えてきたにゃ」サル

 

 

藤森建築といえば草庵である。望矩楼は開館20周年を記念して2018年の「藤森照信展」にあわせて建設された。

 

 

本体は天竜産の杉、脚には同じ天竜産の檜を使用。屋根の銅板加工は地元の子供たちに手伝ってもらって完成した。たしかにイノシシに見えんこともない。

 

 

本館全景。内田祥士氏の共同設計。

 

(平面図)

 

両脇の方形屋根の二階家を長方形の躯体が飲み込むデザイン。一階が秋野作品の展示室で、隅角を巧く割いてテラス映像ルームを配置。長い階段を昇ると市民ギャラリーにつづく。このあたりも見所。とにかく外観だけでは勿体ない。絵に興味がなくても一度は観ておくべきだろう。

 

 

中世ヨーロッパ城塞の狭間のような小窓。

 

 

一見土壁にみえるが藁と黄土を混ぜた着色モルタル。

 

 

屋根材は鉄平石。

 

 

釿目鮮やかな扉。

 

 

気泡入りの手作り感あふれるガラス。

 

「細かい処にこだわりがあるにゃ」サル

 

 

当館最大の特徴は靴を脱いで裸足で観ること。写真でお見せできないのが残念だが、第一展示室は籐茣蓙敷きで、第二展示室はマケドニア産大理石が床一面に貼られた真っ白な空間となっている。気に留めていただきたいのは床中央の突起。その下には不矩がセンセイと一緒に河川敷で拾った天竜川の石が要石として埋め込まれている。

 

 

木と土の競演。

 

 

テラスに出てみた。

 

 

昇ってきた道と庵がみえる。

 

 

右は二階に通じる廊下。左に映像コーナーと展示室の入り口がある。

 

 

藁入りの床と板間がバリアフリー。

 

 

藁入り漆喰の壁。先生の得意技。

 

 

映像コーナー。写真の加減で狭く見えるが、それほどでもない。

 

 

隅角のアールも健在。

 

 

藤森建築の良さは質感豊かな材質もさることながら、光の使い方にもある。

 

 

二階に向かってみた。

 

 

折り返す。

 

 

長い階段が続いていた。

 

 

床のモルタルが適度に足音を吸収してくれる。

 

 

やはり光。

 

 

異なる材質の組み合わせもいい。

 

 

抜け感最高。

 

 

三角の切り込み窓が存在感を表していた。

 

 

ということで次は絵画篇。

 

「なかなか終わりそうにないにゃ」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

ひつぞうの偏愛的読書【第47回】

小沼純一編『ジョン・ケージ著作選』(ちくま学芸文庫)

2009年刊 207P

 

ジョン・ケージとの出逢いは環境音楽の草分け吉村弘の回顧展においてだった。サティに心酔していた若き日の吉村は1962年に来日したジョン・ケージのライブに衝撃をうけて現代音楽に傾倒していく。間接的に知りえたジョン・ケージという名前。早速ネットで手あたり次第試聴した。その音楽(というより「音」もしくは「音響」)は僕にとってもひとつの啓示であり、その邂逅は慶事であった。駄洒落ではなくて本当に。(2026年5月22日読了)

 

■音楽家の野外採集の友

■合衆国に於ける実験音楽の歴史

■実見的音楽ジョン・ケージ

■ダニエル・シャルルの33の質問に対する60の答え

■インタビュー集 ケージの音楽

■われわれはどこで食べているのか?そしてなにを食べているのか?

■作曲を回顧して

 

★ ★ ★

 

 

本書はそうしたジョンの音楽と思想に関する著述もしくはインタビュー集である。およそ想像していたことだが(文字が斜めに走ったり、さかさまになったり、殊更に小さくなったり、フォントが変わったりと)音楽そのままに活字までが自由だった。そして、限りなく難解だった。だが、我慢して繰り返し読んでいくうちに、その叙述と文体に込めた意図がほのかに判ってくるから不思議だ。もっといえば楽典などより遥かにとっつきやすかった。
 

 

本名、ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(1912-1992)。現代音楽にひとつの革命を起こした音楽家であり、思想家、そしてキノコ研究家である。ロサンゼルスに生まれたジョンは長じてシェーンベルクに師事。しかし、和声のセンスがないことを指摘されてしまう。普通ならばここで挫折だが、それを武器にしたところがジョンのすごさである。のちの代表作「4分33秒」(52年)は演台に上がったピアニストがなにも弾かないまま終わるという衝撃的な“演奏”でタイトルなら知っているという人も多いだろう。

 

「気が狂いそう」サル

 

また建築家バックミンスター・フラーや美術家ラウシェンバーグ、更には鈴木大拙など、さまざまなジャンルの大者と交流。表現の幅をひろげていった。「偶然」を尊重し、作曲家個人の思想や心情を排除した純粋な意味での「音」もしくは「音響」を追求。その意味で近代音楽の約束事を棄て、雑音(もしくは自然音と呼ぶのが正しいのだろう)もまた音楽と規定した。あたかも20世紀の現代美術が「アート」たるものの対象を、純粋な線や色へと突きつめ、あるいは、作り手の思想を剥ぎ取り「造る」という行為そのものの抽象化にむかった様相と重なりあう。ダンサーのカニングハムと終生活動を共にしたためか、その音楽は身体性も取り入れており、多分に演劇的だった。

 

(これが楽譜…)

 

「偶然」を担保するためにチャンスオペレーション(道具を用いてランダムに記譜をコラージュする)や絵画譜など、演奏者に“自由”の枠内で演奏を“強いる”方法を編み出した。そのため、奏者によって音もまた大きく変わる。現代音楽である前に実験音楽だった。だが、ジョンはこの呼び方に異を唱える。実験は「作品」に先行するからだ。そんな屁理屈抜きにして、ジョンの音楽には “当たり前”がない。どのように始まり、展開し、いつ終わるのか誰も知らない。場合によっては本人も知らない。

 

 

ジョン・ケージの音楽は美や真理の探求でも、世俗的な成功や名声もためでも勿論ない。音本来の姿、その誕生に触れることであり、奏者や聴衆が加担することである。作為抜きに「音」が生み出されるその瞬間。それこそがジョンが求めたものなのである。

 

「何を言っているのかさっぱり」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございました。

サルヒツの酒【第350回】

YMW アシッド・デラ 2024

 

ヴィンテージ:2024年

生産者:イエローマジックワイナリー

所在地:山形県南陽市

タイプ:にごり系オレンジワイン

原料:南陽市産デラウェア100%

アルコール:13%

醸造家:卯木康裕氏

酸化防止剤:亜硫酸塩未使用

販売価格:3,300円(税別)

※特約店限定品

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです

 

この夜は久しぶりにワインだった。正確にいえば毎週のように飲んでいるが、特約店で買うようなちょっといいワインという意味で。(2025年8月3日賞味)

 

 

山形県南陽市のイエローマジックワイナリーが自社農園で栽培したデラウェア100%の自然派である。今回で三本目。ちなみに南陽市はデラウェア生産の聖地とか。

 

 

三年程前に発泡白のTEFノブギウギを、そして、アルコール控え目の甲州ハートビートを頂戴した。どちらもピュアで奇麗な味わい、且つフレッシュな口当たりだった。今回はどうだろうか。

 

 

少し濁りを帯びた好い色合いの微発泡系オレンジワインアメリカ製のキャンディのような甘い香りといえば伝わるだろうか。そんなデラウェア由来の香りだが、味は大甘ではない。とてもジュージーでふくよか。確かに梅のニュアンスもする。なによりライトで夏の食事にピッタリだ。

 

 

「でもツマミはthe和食ね」サル

 

茗荷とオクラの梅和えだものね。あんまり考えてないでしょ。

 

「そういうと思って一皿加えた」サル

 

 

「胡瓜とキクラゲの卵とじ」サル

 

美味しいけどこれも和食では?

 

「まだある」サル

 

 

「水餃子だ!」サル 絶品だにゃ

 

確かにウマいね。でも中華でしょ。これ。

 

「豚のひき肉つかっているし」サル

 

ああ。だからオレンジワインか。なるほど。

 

 

足踏みで搾汁され、90日間のセミマシラシオンで醸成された自然派。そのうえお値段控え目。愛好家には頼もしいワインだ。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ322

表参道ヒルズ 同潤館

 

往訪日:2025年8月3日

所在地:東京都渋谷区神宮前4-12-10

開館:ショップによる

アクセス:半蔵門線・表参道駅から2分

■設計:安藤忠雄建築研究所

■施工:大林組

■竣工:2006年

 

《レプリカであっても残ってくれれば》

 

’25年都内建築巡礼もいよいよ最後。国立代々木競技場の次は同潤館。巡礼のシメにしては些か貧相(失礼)なレプリカ建築だが、DOCOMOMO選定された記念碑的建築の余韻を味わうために一度は訪ねなければならない場所だった。

 

「ニセモノきゃあ」サル

 

でもよく再現されているよ。

 

 

関東大震災後に建設された一連の同潤会アパートは耐震・耐火性能に優れた合理性の高い建築として一世風靡した。

 

 

残念ながら2013年の上野下アパートを最後にすべて取り壊されてしまったが、青山アパートの跡地に表参道ヒルズが再開発にともなって、安藤忠雄建築研究所の設計でテナントビルとして復元された。

 

 

設備面での評価が高いが、水平と垂直のラインで端正に纏めたデザインも素晴らしい。

 

 

設計は同潤会理事をつとめた内田祥三とその門下生たち。(二・二六事件慰霊像のくだりでも書いた)川元良一を始め、柘植芳男鷲巣昌など複数名が関与している。

 

 

保存運動も起こったが、なにぶんいずれも一等地。老朽化した容積率の低い賃貸ビルでは再開発もやむなしか。

 

「土地とカネは転がしてナンボよ」サル

 

 

ただ一旦中に入ると(特に階段部分は)レプリカとは思えない佇まい。

 

 

外の喧騒が遮断されたかのような静けさ。

 

 

でも後ろを見れば安藤事務所お得意のパターンが広がっていた。いいんだけどね。表参道ヒルズの本体部分はまた後日に。人が多過ぎて。

 

「まだどっか行くのね」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ321

塔の家

 

往訪日:2025年8月3日

所在地:東京都渋谷区神宮前3-39-4

開館:非公開

アクセス:東京メトロ・外苑前駅から7分

■設計:東環境・建築研究所(東孝光)

■施工:長野建設

■竣工:1966年

■DOCOMOMO選定(No.86/2003年)

 

《安藤忠雄のルーツ?》

 

まだまだ続く’25年都内建築巡礼。次は神宮前まで移動して狭小住宅の傑作・塔の家を訪ねた。設計は東孝光(1933-2015)。

 

 

大阪生まれの東は大阪大学工学部卒業後に坂倉準三建築研究所に約7年勤務。在籍中は名作・新宿駅西口地下広場を担当している。独立後は住宅建築、とりわけ打ち放しコンクリートで造る住宅設計で一躍名を広めた。

 

 

この塔の家は独立間もない東が自邸として設計したもの。わずか6坪弱の敷地。浴室トイレも含めて窓や間仕切りがないペンシルビルのような建物に果たして住めるのか。

 

 

「住めるのち?」サル

 

地下一階+五階建て。一階は車庫として殺している。二階はリビング。隅角にはねだし階段を設けて各階をつなぐ。三階はトイレ+浴室、四階に寝室、五階に子供部屋+テラスという構造になっている。暮らせないことはないけれど、上下の移動は大変そう。それでも愉しき我が家ってことなのだろう。

 

 

ちなみに地下は書庫。事務所を継いだ東理恵さんが暮らしていたが、現在は籤に当たった事務所のスタッフが住んでいるそうな。うらやましい。

 

 

これが全国に広がる楔型にくりぬかれたコンクリート住宅の原型になっているそうだ。

 

「A邸とO邸とかね」サル

 

全国に100以上の住宅を残したそうだが、個人宅は見つけるのがむつかしい。それが魅力でもあるのだが、あまりウロウロすると通報される。建築探偵のハードルは高い。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ320

国立代々木競技場

 

往訪日:2025年8月3日

所在地:東京都渋谷区神南2-1-1

開館:イベントによる

アクセス:JR原宿駅から3分

■設計:丹下健三都市建築設計研究所

■施工:

(第一体育館)清水建設

(第二体育館)大林組

■竣工:1964年

■国指定重要文化財(2021年)

■DOCOMOMO選定(1999年)

 

《64年東京オリンピックの象徴》

 

’25年都内建築巡礼のつづき。NHK放送センターまでくれば次は決まっている。国立代々木競技場だ。人にもよるだろうが、個人的には丹下健三といえばまずここを思いだす。客やキッチンカーがいないオフ日、かつ快晴の日を狙いすぎて実は未踏だった。

 

「こだわりが強いからにゃー」サル

 

 

ところが昼過ぎにも関わらず、なぜか人がいない。第二体育館では全国空手道選手権大会が開催されていたのだが。外はいつもこんな感じなのだろうか。

 

「暑いからなんじゃ?」サル

 

確かにこの日は猛烈な暑さ。かざしたスマホが高温になり、撮影が暫くできなかったほど。

 

(第二体育館)

 

競技場は第一と第二の体育館からなっている。後に丹下の代名詞ともなるセミリジッド吊り屋根構造をともに採用。戦後建築の金字塔の呼び名に恥じない傑作だ。実際にみて予想を超えたスケールに圧倒された。

 

 

第二体育館は円錐形。

 

 

寄ると判るタワーの彫刻のような造形美。

 

 

次は第一体育館。当初は水泳競技施設として建設された。プロムナードの下を抜けていく。競技場の立体的レイアウトも当時は斬新だった。

 

 

上空から見ると巴型をなしている。この吊屋根は競技場内に柱を入れない工夫。二本の主塔にメインケーブル二本を張り渡し、ケーブル端部は地中のアンカーブロックで固定させる仕組み。吊り橋と同じだ。

 

 

連続する格子窓。アンモナイトを思わせる個性的な造形。

 

「すばらしい曲線美だの」サル

 

 

エントランス。ピン構造の支柱が未来派の彫刻みたいだ。

 

志水晴児《岩》

 

館内には岡本太郎ほかアートオブジェも点在する。

 

 

バックステイ。どこを切り取ってもひとつとして同じ顔がない。

 

 

昆虫の触覚のような照明もまた丹下っぽい。

 

 

代々木公園側。やはり最高の現代建築だった。

 

「これは見学ツアーにいかねばなるまい」サル

 

いろいろハードル高いけどね。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

陸軍刑務所刑場跡(二・二六事件慰霊像)

 

往訪日:2025年8月3日

所在地:東京都渋谷区宇田川町1ー10

アクセス:JR原宿駅から約13分

駐車場:なし

 

《街角にひっそりと立つ慰霊像》

 

戸栗美術館を後にして西に向かって緩やかな坂を下り、井の頭通りと交差するあたり底辺にして、NHK放送センターを左手に登り返していった。瀟洒な住宅街から繁華な商業地域に様相を変えた街の姿。日々姿を変えると言っても大袈裟ではない渋谷の一隅に目指すものがあった。

 

「なんじゃらほい?」サル

 

 

ちょうど渋谷税務署交差点の角。

 

 

かつてここに陸軍刑務所刑場があった。ひと月前に彫刻家・安藤照の回顧展を訪ねて、塊人社同人の三國慶一(1899-1980)の彫刻が奇しくも安藤のハチ公像と程遠からぬ場所にあることを知った。それがこの慰霊像だった。

 

 

三國は弘前の生まれで東京美術学校を卒業。後年仏教彫刻に転じた話は既に書いたが、官展を発表の場に選び、のちに無鑑査対象になった。安藤と共に権威に反旗を翻していた時代を考えると、旨く斯界の“重鎮”に収まったという感がしてやまない。基台の設計はやはり弘前生まれの建築家・川元良一軍人会館同潤会アパートを手がけた名建築家である。

 

 

このふたり。実は先行してタッグを組んでいる。故郷・弘前の弘前忠霊塔(1945年竣工)だ。

 

 

「農村の窮状を打開できない原因は政治にあり」と、青年将校らが総理官邸、陸軍省、警視庁を次々に占拠。斎藤實、高橋是清、渡邊錠太郎らの閣僚が凶刃、凶弾の犠牲となり、多くの負傷者を出した。世にいう二・二六事件である。

 

「こんな場所にあったのにゃ」サル

 

刑務所は跡形も残っていないけどね。

 

そしてこの仏像は、自決した野中四郎、河野壽両大尉ほか、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉ら首謀者を含む叛乱の罪で銃殺刑に処せられた19名と事件の犠牲者を悼む鎮魂の碑だった。


もちろん彫刻としての仏像や基台の設計は素晴らしかったが、ふり返える人もなく、悲劇は既に歴史の一頁でしかなくなっていたことに世の無常を感じた。

 

(つづく)

 

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