没後50年 高島野十郎展
往訪日:2025年7月27日
会場:千葉県立美術館
会期:2025年7月18日~9月28日
開館:9時~16時30分(月曜閉館)
料金:一般1000円 高大生500円
アクセス:京葉道路・貝塚ICから20分
※撮影OKあり

(チラシから画像取り込んでます)
今回の“千葉アート&建築の旅”の主眼はこの高島野十郎展にあった。三箇月前に作品の主な収蔵先であり、高島を最初に再評価した福岡県文化会館を訪ねたのだが、あいにく外部貸出し中で鑑賞できたのはごく一部。悲嘆にくれたものの、近々千葉に回顧展が巡回すると知るのにたいして時間はかからなかった。

さすがに内装の古さは否めないが、かつての福岡県文化会館もこんな感じだった。高島の絵を飾るのにぴったりだったかもしれない。しかもこれだけの大回顧展。嬉しさで涙が出そうだった。
「おおげさな」
いや。ほんとだって。
主題① 自画像

高島野十郎《絡子をかけたる自画像》(1920)福岡県立美術館
まずは有名な自画像から。高島野十郎(1890-1975)については以前も詳しく書いたが、福岡県久留米市の裕福な家庭に生まれ、東京帝大水産学科を首席卒業しながら、絵の道を捨てきれず、独学でひたすら描き続けた。群れず、媚びず、そして独り身を貫き、一生を清貧のうちに過ごした。絵も名も売れず、一時は忘れられた画家だったが、福岡県文化会館の学芸員の力で甦った。

この眼力。
「一度見たら忘れられない」
判る人は判るだろう。タッチと光の捉え方に明らかにデューラーの影響が看取できる。野十郎は自分の遍歴について多くを語っていない。だが、大学卒業後の(兄弟の支援で叶った)渡欧体験を通して近代西洋絵画のエキスをわがものにしたに違いない。

(後年の写真より)
肖像写真は穏やかなものが多い。物質的にはどうか知れないが、精神的には充足された人生だったというから、その心持ちの変化が表情を柔和にさせたのだろう。

高島野十郎《傷を負った自画像》(1914-16)福岡県立美術館
他方、これは東大在学中の作品。目も虚ろでヤバそうな感じだ。好きな画家の道を父に拒まれた無念と失意を描いたと言われている。因みに自画像の殆どが学友・大橋祐之助に託されている。

《デッサン「魚介類の観察図」》(c.1915)福岡県立美術館
ちなみにこれは大学時代の魚類のデッサン。たくさん展示されていたが、博物画なみの精緻さ。野十郎のデッサン力を表して余りあった。

高島野十郎《りんごを手にした自画像》(1923)福岡県立美術館
自画像からもう一枚。やはり不敵な表情。世間に背を向けて孤高の世界に活きるという自負の表明か。宗教画的に解釈すれば青りんごは不貞、未熟、罪などを表すが…。判らんね。
主題② 蠟燭

高島野十郎《蝋燭》(1912-26)福岡県立美術館 油彩・板
若き日の作。ファンの心を一番捉えるのがこの蝋燭だろう。生涯を通じて幾枚となく描いたモチーフだが、全て感謝の贈物として描かれた。そのため多くが個人蔵となっている。

高島野十郎《蝋燭》(1948以降)福岡県立美術館 油彩・板
完成度では群を抜くものがあったが、これらを除いて撮影禁止。まあ、良し悪しを占うべきものではなく、どれが一番という評価事体がくだらないのかも知れない。魂を吸い取られそうな妖気がある。
主題③ からすうり

高島野十郎《からすうり》(1935)福岡県立美術館
これも幾たびも描いたモチーフ。人によってはこの「からすうり」を最高傑作とする。何のことはない。僕がその一人なのだ。

単なる写実主義ではない。やはり劉生の影響なのだろうか。生々しい写実という意味ではクールベのエネルギーに近しいものを感じるが。

高島野十郎《静物》(1918)福岡県立美術館
青土社時代の劉生の影響色濃い一作。

高島野十郎《壺とりんご》(1923)福岡県立美術館
初期の静物画。

高島野十郎《イーストリバーとウィリアムズブリッジ》(1930)福岡県立美術館
そんな野十郎だが40歳頃にはイギリス絵画のようなものも描いている。

高島野十郎《洋梨とぶどう》(1941)福岡県立美術館
この頃になると劉生やデューラーの影響は影を潜めて端正になっていく。

高島野十郎《春の海》(1952)福岡県立美術館
戦後の作品。熊本県の長洲あたりに取材したといわれる筑後川河口部の平野の風景。

高島野十郎《すいれんの池》(1949)福岡県立美術館
新宿御苑に取材。野十郎の遠縁にあたる日本ゴム社長・永田清の求めに応じて制作された。現存する最大の作品。

後期の特徴は後期印象派風の色彩分割だ。

高島野十郎《早春》(1921)福岡県立美術館
30代初めの頃を再掲。やはり違うね。
「ウネウネしてゆ」

そう。初期の絵ってどこか生き物みたいで気持ち悪いんだよ。
主題④ 月そして太陽

高島野十郎《田園太陽》(1956)個人蔵
バルビゾン派を思わせる夕暮れ時の闇に暮れゆく田園の風景。主役は農村にあらず、太陽にもあらず。闇に溶けゆく空間だ。

高島野十郎《月》(1962)福岡県立美術館
「闇」を描くために月や太陽を描いたと後年語っている。

高島野十郎《太陽》(1961)福岡県立美術館
宗教的な画題を描く画家は一般に孤独と思われがち。その通説に逆らわず、事実、野十郎は人間嫌いだった。だが、一方では彼を慕う人々もいた。人間ぎらい=孤独ではない。その意味で高島は「孤高の画家」だったとキャプションに記されていた。旨い表現だ。

高島野十郎《岸上鎌吉先生像》(1921-26)東京大学
そうした周囲の人々を野十郎は肖像画として残した。こちらは東大時代の指導教官。

高島野十郎《藤十郎の恋》(1948以降)個人蔵
藤十郎に扮した知人の医者の娘。自身も歌舞伎や日本舞踊に精通していた。

高島野十郎《秋の花々》(1953)個人蔵
《すいれんの池》に次ぐ大作。背景は雲仙と有明海。鶏頭、ハナカンナ、コスモス。秋という季節には不似合いなまでに毒々しい。のちに大学時代の友人の手に渡った。

高島野十郎《さくらんぼ》(1957)個人蔵 板・油彩
サクランボやプラムなど果実もよく描いた。手前の一個に注目。一種のバニタス絵画。

野十郎愛用のイーゼル。

仏教にも傾倒していた。絵画に込めた思いなどを綴る貴重な手記。

古賀春江《観音》(1921)東京国立近代美術館
進んだ方向は違ったが、同郷の古賀とも交流があった。
周辺画家・椿貞雄
劉生と野十郎の関連は美術史的に自明だと思っていたが、確実な証拠はないという。他方、劉生と生涯行動を共にした同時代の画家がいた。

椿貞雄《自画像》(1915)千葉県立美術館
その名は椿貞雄(1896-1957)。この日以降、次々に見る機会を得るようになった椿の自画像だ。タッチはおろか、よく言えば懼れを知らない、悪く云えば己惚れ屋な心情まで劉生に丸写しだ。それほどまでに大正期の劉生は若い画家の憧れだった。椿はこの絵を持参して劉生を訪ねた。劉生はこれを褒めて巽画会への出品を進める。その結果、二等を獲得。画家としての第一歩を歩み始めた。

椿貞雄《春夏秋冬図屏風(春)》(1896-1957)千葉県立美術館
「なんか顔がブキミ」
後年不気味な画風に変化。米沢生まれだが、極貧の椿を見かねた山本鼎の紹介で船橋尋常小学校の図案教師の職を得る。その後生活は安定。没するまで千葉の芸術振興に尽力した。

椿貞雄《黒壺に椿一輪》(1948)千葉県立美術館
その交流は劉生が亡くなるまで続いたという。
初めて通観した高島野十郎。独立不羈なイメージだったが、孤高を極める一方、若い仲間との精神的交流を大切にしたことが判った。本当に見れば見るほど美しく、そして少し怖くなる絵でもあることは今でも変わらない。
(つづく)
ご訪問ありがとうございます。