旅の思い出「大和ミュージアム」(広島県・呉市) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム

℡)0823‐25‐3017

 

往訪日:2024円4月26日

所在地:広島県呉市宝町5‐20

開館時間:9時~18時(火曜休館)

見学料:一般500円 高校生300円 小中学生200円

アクセス:広島呉道路・呉ICから約5分

駐車場:あり(有料)

 

《大迫力の1/10スケール!》

 

ひつぞうです。広島観光のシメは呉市の大和ミュージアムを訪ねました。戦艦大和の誕生と終焉、軍港として栄えてきた呉の歴史、更には日本の海軍史がコンパクトに学べる博物館として人気です。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

広島市から呉市まで高速道路で約30分。

 


2005年オープンした。(来年2月から改修工事で長期休館の予定。行くなら今だ。)

 

 

戦艦陸奥の41㌢主砲身。呉海軍工廠砲碽(ほうこう)部が大正7年に開発。当時世界最大の艦載砲だった。展示品は日本製鋼所室蘭工場製(大正10年)。

 

 

一般客の他に修学旅行生で溢れていた。

 

「広島は修学旅行の定番だしね」サル

 

時間もないので常設展示だけ見学することに。それだけでもかなり内容が濃かった。

 

まずはこれだ。

 

 

大和広場で1/10スケールの模型を観る。めちゃくちゃ精密。

 

 

その姿はまさに宇宙戦艦ヤマト。この球状船首をバルバス・バウと言うそうだ。

 

「バスバウバウ?」サル なんと言いづらい

 

 

スクリュープロペラ。おサルがいないと大きさが判らないね。(飽きてもうどこかにいった)

 

 

2階から見ると甲板の様子が判る。

 

 

3階からだと大迫力。座っているおサルと較べてみよう。

 

ここから展示室へ。

 

 

=呉の歴史=

 

 

軍艦の操船法や航海術など技術を学ぶために、江戸幕府は長崎伝習所を開設。技術だけではなく、数学に解剖学にオランダ語とかなりハイレベル。入所者はエリート中のエリートだったことが判る。そのひとりに勝海舟がいた。

 

そして明治維新。

 

 

明治政府は日本海沿岸を4つの海軍区に分割。横須賀、呉、佐世保、舞鶴に鎮守府を設置する。1889(明治22)年に開設された呉鎮守府は造船の拠点に位置付けられた。

 

 

こうしてみると鹿児島(薩摩藩)出身者が海軍幹部を占めていることが判る。因みに樺山資紀海軍大将のお孫さんが随筆家の白洲正子だ。

 

 

艦船の次は兵器。呉に仮設兵器製造所が置かれ、1897(明治30)年に呉海軍造兵廠に改組され、呉は造船と兵器生産の街として成長する。

 

 

一等巡洋艦「筑波」

 

国産第一号の艦船。日露戦争で活躍するはずだったが終戦。その後、横須賀港での火薬爆発事故で沈没。悲運の船である。

 

 

戦艦「金剛」

 

昭和19年11月、レイテ沖海戦を終えて呉に帰還中にアメリカの潜水艦の魚雷によって轟沈した。軍艦には山の名前がついたものが多い。

 

 

その金剛に搭載されたヤーロー式ボイラー。技術導入のためにイギリスに発注し、大正2年8月に竣功した。

 

 

1910(明治43)年4月15日に呉所属の第六潜水艇が潜水訓練中に沈没した。日本の遭難史において特筆すべき事件。船員の努力の甲斐なく浮上することはなかった。迫りくる死の影に取り乱さず、事故の原因と経過、そして、船員の家族の生活を保障すべく天皇陛下宛ての遺言を残した佐久間勉艦長の態度は、ひとつの美談として語り継がれている。

 

 

こうして呉は一大産業都市に成長する。

 

 

当時の軍港の様子。

 

 

=戦艦大和の最期=

 

 

副電測士として乗組んだ学徒動員兵のひとり吉田満の名著『戦艦大和ノ最期』の一節。

 

 

1985年にその大和が海中に沈んだ姿を初めて捉えた。

 

 

船首をアップしてみる。菊花紋章が海生生物に覆われることなく、まるで生きた人間の眼玉のようにカメラの方を向いている。

 

 

1999年の大和プロジェクトで潜水艇が引き揚げた遺品。

 

史上最大の戦艦大和は遂に戦果をあげることなく、東シナ海の水深430㍍地点の暗黒の世界に、今もひっそりと四散した状態で沈んでいるそうだ。

 

 

だが、大和の建造は無駄ではなかった。戦後、広い分野で応用されることになる。

 

 

この直径1.5㍍の反射鏡が使用された探照灯は予備品として残った。戦後は太陽炉実験の集光器として利用されたが、この技術を低コストで再現することはできないという。戦争はあってはならないが、加速度的に技術が進歩したことは事実だ。

 

 

それを支えたのは旧海軍に結集した頭脳だ。平賀譲は造船工学の権威で戦艦大和の建造はこの人無くしてなかっただろう。アメリカの技術力と資源を知る平賀は、軍部(とりわけ陸軍)のファナティックな拡大主義に否定的で、英米との参戦を否定。特に東条英機を嫌ったそうだ。この態度、廣田弘毅と同じく立派だと感じた。

 

「戦争賛成じゃない人もいたのね」サル

 

 

最終艤装中の大和の様子を拡大してみよう。

 

 

 

甲板に小屋があるよ。巨大さが判る。

 

 

=戦後の呉=

 

 

戦争が終わると海軍工廠としての役目を終えて、アメリカのNBC(National bulk career)㈱呉造船所として再出発。のちに石川島播磨重工業として合併し、更に造船統廃合。そのDNAは現在ジャパンマリンユナイテッドとして生き続けている。

 

 

=大型資料室=

 

 

男子が好きそうなエリアだね。幾つか備忘録しておこう。

 

 

二式魚雷

 

ワシントン条約で主力艦建造を抑えられたために開発された長射程の酸素魚雷。太平洋戦争までに実用化に辿り着いたのは日本海軍だけだったそうだ。開発は呉海軍工廠実験部。

 

 

「大和」型46センチ砲用三式焼霰弾

 

調定時間が来ると空中で爆発。焼夷性の弾が広がる。大砲や機銃の技術は呉海軍工廠で製造された。ということ初めての呉の街。その歴史を存分に知ることのできる博物館だった。館外にもなにかあるらしいので裏に回ってみよう。

 

「ん?なんかあるにゃ」サル


 

これはパブリックアートだな。

 

藪内佐斗司《犬モ歩ルケバ…らぶ・やまと》(2007)


なんと藪内佐斗司だった。

 

 

ワンコ版どこでもドア?

 

 

愉しい旅行初日だった。このあと市内のホテルに投宿。価格帯の割りに広くて奇麗。良い宿だったね。

 

「じゃメシだの」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。