名建築を歩く「国指定名勝 三溪園」(横浜市・三之谷) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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国指定名勝 三溪園

℡)045‐621-0634

 

往訪日:2024年1月8日

所在地:神奈川県横浜市中区本牧三之谷58‐1

開館時間:9時~17時(年末年始以外無休)

拝観料:一般900円 小中学生200円

アクセス:JR根岸駅から徒歩30分

駐車場:有料60台(2時間1,000円+200円/30分)

■国指定名勝:2007年

 

《数寄屋建築の名コレクション》

 

ひつぞうです。一月最初の連休に横浜の三溪園を訪ねました。製糸の輸出業で成功した原三溪こと原富太郎(1868-1939)は、関東大震災で瓦礫と化した横浜を復興に導いた偉人として知られる一方、美術品コレクターや数寄者としても名を残しました。失われゆく古美術と伝統建築の保存に努め、1906(明治39)年に一般公開したのが三溪園です。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

(ダンディで人格者だった三溪翁)

 

原三溪との最初の出逢いは、一年半前に訪ねた橿原考古学研究所附属博物館に収められた旧蔵の伎楽面だった。自宅から車で15分ほどの三溪園は決して遠くはないが、どうも食指が動かない。動かないものを無理して観た処でたいした感動はない。自分の性格は知っている。そこに期せずして訪れた大阪転勤。これを境に古美術や数寄屋建築に興味を抱くようになった。縁とは不思議なもの。時節到来といえた。

 

【園内配置図】

(※頂戴したパンフレットより)

 

建物以外にも花や紅葉など折々の風情が愉しめる当園は、季節を問わず、来場者は少なくない。そこで静かな佇まいを味わいたい僕は、敢えて閑散期の一月初旬を狙った。しかし、この日。和服姿の若い女性を囲んだグループがやけに目立つ。…なんで?

 

「成人式だからじゃね」サル

 

そうか。SNS映え狙って…記念写真?

 

「なんと間の悪い」サル

 

今日だけが快晴だったんだよ。連休のなかで。

 

ベスポジ占拠して皆しつこく撮っている。人物が入らないように撮るのは大変だった。訊けばここ数日は「こんなにガラガラで大丈夫か」とスタッフが危ぶむほどだったのに。

 

気を取り直して観ていこう。

 

《正門門柱》

 

三溪園オープンの1906年に「遊覧御随意三溪園」と表札が掲げられたそうな。貴賤の隔てなく。

 

「本当のお金持ちは違うにゃ」サル

 

 

園内は一般開放ゾーンの《外苑》と三溪私庭の《内苑》に大きく分けられる。中央の大池越しにランドマークの三重塔が見える。来場者が少ないうちに“核心部”の臨春閣を目指そう。

 

《鶴翔閣》1902(明治35)年

内部非公開

 

三溪が自邸として建てた藁葺きの入母屋造りの屋敷。

 

 

2000年に復旧。建築当初の姿に戻った。一般鑑賞は玄関まで。多くの政治家や実業家が来訪し、晩餐会なども催されただけに、10畳間が襖越しに幾つも連なる構造になっている。

 

 

近代的なボイラー室や発電室もあった。

 

《御門》1708(宝永5)年頃

 

京都東山、西方寺薬医門を大正時代に移設した。廃仏毀釈で財政逼迫した寺としては売却も致し方のない措置だったのだろう。

 

《白雲邸》1920(大正9)年

内部非公開

 

御門を潜ると右脇に白雲邸が玄関を構える。三溪夫妻の隠居所として、同郷の棟梁、山田源市の普請によって建設された。

 

 

真っすぐに伸びる石畳の先端に唐様の門が立ちはだかる。この裏手が臨春閣だ。ちょうどこの左側に資料館の三溪記念館があるが、これは後回しにしよう。

 

《臨春閣》1649(慶安2)年 重要文化財

 

江戸初期に紀州徳川家初代、頼宣公が建てた別邸。見所は建築と内部の障壁画だ。

 

 

覗いてみよう。

 

 

典型的な数寄屋風書院造りだね。簡素な造りに侘茶の影響が看て取れる。

 

浪華の間(左) 伝狩野永徳

琴棋書画の間(右) 伝狩野探幽

 

もちろん障壁画は複製。現物は記念館に保存されている。

 

 

細い竹と障子紙で作られた繊細な欄間。

 

 

障子の組子も華奢だね。では次の建物へ。

 

《旧天瑞寺寿塔覆堂》1591(天正19)年 重要文化財

 

母親の長寿祈願のために、秀吉が京都・大徳寺内に建てた生前墓覆堂はその墓を守る建築。

 

 

規模こそ小振りだが、西本願寺大徳寺唐門にも負けない桃山建築の絢爛豪華な彫刻が素晴らしい。

 

 

退色しているが、逆にそれが味になっている。扉には迦陵頻伽のレリーフ。

 

 

亭榭(ていしゃ)を渡る。

 

 

ここから見返す臨春閣も素晴らしい。

 

 

別棟の障壁画を堪能。移築にあたっては、三溪の美意識に従って棟の配置を変えた。

 

 

二階に続く階段は隠し扉になっているのだろうか。天井が少し白くくすんで見えるが、これは胡粉の痕。往時は白一色だったのだろう。

 

 

「少し寂びれた感じがまたよい」サル

 

この奥に月華殿、金毛窟、天授院が続くのだが、生憎改修工事中だった。またいつか来よう。

 

《聴秋閣》1623(元和9)年 重要文化財

 

二条城にあった遺構。三代将軍・徳川家光の居室だった。

 

《春草蘆》江戸時代 重要文化財

 

信長の実弟で大茶人の織田有楽斎の作と言われる。宇治の三室戸寺金蔵院からの移築。

 

 

元の呼び名は九窓亭。角度を変えてみると判るが、左の三畳台目の間に窓が九つ配されている。広間は三溪翁が自分の趣味でくっつけたもの。

 

《蓮華院》 1917(大正6)年

 

三溪の設計による近代茶室。竹林が翳りを帯びて無為の美しさがある。

 

(観られない処もあったが)内苑はこんな感じ。半周して園中央の原三溪翁の碑に戻ってきた。

 

 

この碑があった場所に(三溪が注文した)原家初代、原善三郎(1827-1899)の銅像があった。(三溪は養子なので)妻・屋寿(やす)の祖父にあたる。

 

 

35歳で横浜弁天通りに原商店を開業。生糸輸出業で莫大な富を築いた。その銅像は高村光雲の高弟、米原雲海(1869-1925)の手になる写実的な力作だったが、震災で倒壊して今はない。三溪自身は決して自分の銅像を立てることを良しとしなかったそうだ。

 

 

空が青い。天気そのものは狙い通りだった。

 

 

その隣りに高浜虚子の句碑がある。

 

鴨の嘴 より たらたらと 春の泥

(1933年3月)

 

もとより歌を解する力のない僕に批評することなど土台無理なのだが、旧暦だとすればちょうどこの季節だったのだろうか。餌を求めて泥底を漁る渡り鳥と、寒空のしたで、それを見つめる初老の男の対比。寒そうだ…。

 

「凡庸な解釈だのー」サル

 

いいんです。

 

 

それでは外苑へ。寒椿と蠟梅が咲いていた。

 

《旧燈明寺本堂》 1457(康正3)年 重要文化財

 

京都・木津川市の燈明寺からの移築した。これがなんと昭和62(1987)年。明治以降に寺運が衰退し、台風被害で本堂が倒壊。廃寺となったまま再建されずにいたが、三重塔が移築された縁で後日この地で蘇った。

 

 

実はここ。元は神社だったそうだ。

 

「確かに階段があるにゃ」サル

 

 

この鳥居が動かぬ証拠。

 

「ほんとだ!」サル

 

オープン当初の建築が震災で倒壊しているのも三溪園の特徴だ。

 

 

正面にくだんの三重塔が聳えている。手前の樹は岐阜県根尾谷の銘木、淡墨桜から分枝した桜。三溪自身は美濃国の生まれ。その縁らしい。

 

《旧矢箆原家住宅》 江戸時代後期 重要文化財

内部見学可能:9時~16時30分

 

これも戦後の移築。荘川村合掌造りだ。白川郷や五箇山の切妻合掌造りとは異なり、入母屋式なのが特徴的。御母衣ダム建設に伴い、その多くは水没したが、この住宅は移築で免れた。そもそも合掌造りの維持には大変な手間がかかる。互恵組織、(ゆい)によって、10年に1度葺替えられるが、人手が足りず日頃つきあいの薄い隣の集落まで陳情して回らなければならないことも。そのため、泣く泣く自分の代で潰す家もある(なのでボランティアの力は大きい)。

 

 

矢箆原(やのはら)家飛騨の三長者と言われた豪農だった。現存するものでは最大級。

 

 

囲炉裏には薪がくべられ懐かしい匂いがしていた。

 

 

農家とは思えない立派な接客の間だった。

 

《旧東慶寺仏殿》 1634(寛永11)年 重要文化財

 

東慶寺といえば鎌倉禅宗寺院の古刹。縁切寺として有名だ。余談だが、文化人(特に哲学者、作家)が多く眠っていることでも知られる。

 

「どんなひと?」サル

 

和辻哲郎とか。西田幾多郎小林秀雄とか。

 

「知らんな」サル もきょ?

 

 

ラッパスイセンが見頃だった。その上に臥龍梅が枝を張り伸ばす。この梅をモチーフにしたのが下村観山の名画《弱法師》だ。

 

(参考)

重文 下村観山《弱法師》(1915) 東京国立美術館

 

ここから石段を伝って丘に登る。

 

 

なんてことない石のように見えるが、柱状節理の石は房総鋸山の切り石。左の侵蝕された石は中国産の太湖石だ。登りきった処に三重塔が静かに建っていた。

 

《旧燈明寺三重塔》1457(康正3)年 重要文化財

 

室町時代の作で当園最古の建築。三溪が開園の8年後に購入したもので、オープン当初の写真にこの姿はない。初層から屋根にボリュームが出てくるのが特徴的だ。

 

 

《出世観音》

 

美しい女性的な観音様。

 

 

震災で崩壊した聚星軒があった場所。

 

 

初代原善三郎の建立で、太胡石に支那竹を植えるなど中国趣味にこだわった。

 

 

展望台の松風閣へ。

 

 

当初の建物は震災被害で瓦礫と化したまま。

 

 

1900年代初期の姿。かなりモダンなスタイルで残っていたら面白かっただろう。ノーベル文学賞を受賞したインドの詩人タゴールが二箇月あまり滞在したことで知られる。

 

 

伊勢原方面。富士山がよく見える。

 

 

三浦方面。直下はかつて海だった。三之谷の高台の眺望に惚れて、三溪は広さ53,000坪の大庭園を建設した。

 

あとは見そびれた処を落穂ひろい。

 

《横笛庵》1908(明治41)年

 

内部に納られた(建礼門院につかえた)横笛の像に因む。斎藤時頼との悲恋物語の主人公。

 

《初音茶屋》

 

タゴール、芥川龍之介ゆかりの茶屋。

 

《林洞庵》 1970(昭和45)年

 

茶道の宗徧流林洞会からの寄贈品。

 

時計を見ると間もなく午後一時。さすがに空腹を覚えたので食事処の待春軒で簡単に済ませることにした。(つきあいきれないとばかりに、おサルは先に食事中だった。)

 

「いつまで観てんだよ!」サル 遅すぎゆ

   

気がすむまで?

 

 

名物(という触れ込みの)三溪そば(950円)を食べてみた。三溪翁の考案らしい。

 

「うまい?」サル

 

ほんとに蕎麦なんだよね…。

 

「ぼそぼそでしょ」サル

 

なんで判る?

 

「実はおサルのうどんもそんなだった」サル

 

具はともかく麺が(なんていうのか)山形のソフト麺に限りなく近いような…。

(※ソフト麺の給食提供は今年の二月で惜しまれつつ終了したそうです)

 

ま、話のタネにはなったね(笑)。

 

★ ★ ★

 

池にヒドリガモとキンクロハジロが群れていた。

 

 

「餌やりたい」サル

 

どうぞ。(餌は麩だった)

 

「ほらほら遠慮すんな」サル

 

飽きちゃっているね。

 

「さんざん他の客から貰ったな」サル

 

 

ということで、ひと通り観て回ったので、観心橋を渡って帰ることにした。

 

《三溪園天満宮》

 

最後の古建築。

 

 

横浜市街や軍港横須賀に近いにも関わらず、三溪園は奇跡的に太平洋戦争の影響を受けなかったそうだが、片方の狛犬は機銃掃射で砕け散っていた。戦争の傷跡はやはり残っていた。

 

 

一部ボランティアガイドも利用したので、見学には四時間を費やした。まあ、適当に見て回るのであれば二時間あれば充分かもしれない。三溪記念館のメモは次回。

 

「もう大概忘れた」サル 何箇月前よ

 

(つづく)

 

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