読書をしても頭はよくならないし学力も上がらないぞ!

 

・・・ということを、

今まで生きてきて説教しなかった月はない気がするのだよ、

最高偏差値90台、最高順位全国1位の僕は。

 

 

 

 

そもそもの話だが「読書」という話題になったときに、

たとえば学術書や宗教書のことだと考える人が滅多にいない。

図鑑や百科事典や辞書や写真集を読書に含める人も滅多にいない。

 

冷静になって想像してもらえばおわかりいただけると思うのだが、

ゾウやキリンの絵や写真や生息地・生態が載っている本を読んだ子供と、

文字しかない本を読んだ子供とが、同じ成長をするわけがない

 

本に載っている情報を大雑把にいうなら「絵または字」なわけだが、

ネットだと「音と動き」までついてくるのだから、

もはや学習材料としての本は、それ単体での価値と役割を大きく失っている。

 

なのに読書といえば小説だ、物語だ、随筆だという、

それこそ「昭和の」「カビが生えた」常識で生きてる人が多すぎる。

 

そもそも何のために本を読むのかって、賢くなるため、何かに役立てるためだろ?

ただ読みたがってる人間の趣味であるというなら、

そんなもんを他人に強制してはいけない。

 

賢くなるための手段、賢くなるための勉学において、

文字や活字を読むことは決して避けて通れないからこそ、

文字や活字に対する習熟度、情報伝達効率を高めるために、本を読むのだろう?

 

 

 

 

僕個人としては1冊の本を10日かけて読めるのは一種の才能だと思っているが、

実際に=実用技能として要求される読書はその逆で、

10冊の本を1時間で読むことだろ?

 

人間誰もが1日24時間しか人生がないのだから、

同じ人生=同じ時間でより多くを学ぶには、

より迅速に、「時間効率的に」多くの情報を得る必要がある

 

動画から1秒で得られる情報量は現実的な1秒ぶんの情報しかないが、

文字から1秒で得られる情報量の上限を自力で拡張できるわけだから、

最終的な学習効率の、少なくとも上限は、文字のほうが勝るはず。

 

だからこそ今なお「読み書きそろばん」という概念が提唱され続けるわけだ。

数字に強くなる(1桁の四則暗算を完璧かつ迅速にこなす)ことと、

日本語・母国語をしっかり習得すること。

 

何をするにもまずは文字、

その情報獲得速度を上げるためには、

「じっくり読む」のではダメだと、まあそういうことになる。

 

そして速読のコツなんて、とにかく読み続けるのが確実だ。

 

先ほど「1時間で10冊読む」と書いたが、

もしあなたがその程度で速読とかいってたら、

読書が大嫌いな僕より読書が遅いぞ?

 

読むのが速い人は「ページをめくる速度が追いつかない」から、

電子書籍を愛好している

・・・と思いきや、電子書籍化される程度の本など既に読み尽くしている。

 

読書家にとって1年間で1000冊を読むことは、

子供のうちに実現できていた遊びの延長にすぎない。

図書館にある本を全て読破したというくらいでは自慢にならない。

 

同じ時間内により多くの情報を得ることが、

趣味であれ、目的であれ、手段であれ、

まず情報を得ないことには何も始まらないだろ?

 

だから「じっくり読むこと」の魅力を否定はしないが、

先に「たくさん読むこと」を身につけざるを得ない

 

だいたいの人は「心の中で音読するクセ」がついているから、

読書スピードが音読以上の速度にはならない。

それを取り去るには、練習するよりは経験して慣らすほうがまだ楽だ。

 

というより、

本来はただの学習方法でしかないはずの読書の、

それ自体の技術を習得する苦労なんて、純粋な二度手間でしかない。

 

どうせなら学習しながら鍛錬するべきだ。

心で音読するのではなく、脳で意味だけを追うように。

意識して、一定時間内に多くを読み、多くの情報を得られるように訓練する。

 

 

 

 

勉強が苦手、読書が遅いという人の大半は、

幼少期における親との会話が少ないのではないかなあと思う。

少なくとも、語りかけてもらった言葉の数がとても少ないはず。

 

言葉を認識するってのは、日常的にやることだからな。

 

日々の効率を向上させられない人は、

日々の成長も鈍化するだけだ。

 

読書自体を目的にしろというなら、それは趣味だ。強制してはいけない。

 

読書は情報を得るための手段でしかないし、

読書によって得られるものだけが全てではない。

 

図鑑や絵本や動画や資料集で学ぶべきものはたくさんある。

 

ただ活字を読むだけ、ただ本という物体に触れるだけでは、何の価値もない。

 

その効率を高め、より多くを知り、

より多くを知ったことでさらなる学びを得るために、

手段として、活字や情報を処理する効率を向上させるために、努力をするべきだ。

 

 

 

 

僕より読書を愛する人間が、

僕より学力が高かったことなんて、

過去に一度もないからな。

 

まあそもそも、

読書が大嫌いだと30年以上叫んでる僕よりも多くの本を読んだことのある人間が、

全人類に対して1%もいないはずなんだけどな・・・

 

大事なことは「読書それ自体、本に触れることそれ自体」ではないのさ。

 

「自分の皮膚より内側にあるもの」が増えたかどうかだ。

 

 

 

 

必定、子供にさせるべきことは「活字耐性をつける」ことだ。

そのための手段が読書である必要はない。

一定時間内により多くの文字・情報を読みこなす技能さえあればいいのだ。

 

そのための手段として、読書より身近で確実なものが中々ないというだけで。

 

 

 

 

まずたくさん読めるようになることが最重要で、

そのためなら何を読んだっていい。

漫画でもライトノベルでもいい。

 

たくさん読めるようになって、

読むことが苦痛じゃなくなるまで読む苦行に耐え続けてから(!)、

名作だの古典だのを読んで、表現の多様性を知ればいい。

 

情緒なんてものは、まず知らないことには生まれないからな。

 

歴史や文化を教養として肌で感じられるようになるまでは、

普通は20年や30年、どうかすれば40年という人生経験が要るだろ?

 

修学旅行で本当に修学したバカなんか見たことないぜ?

まあいたとして僕より無学なんだけど。

 

子供はそんなものでいいし、人間は誰だってそんなものだ。

 

教養や知性・品性というものなんか、後からついてくる。

「粋」と「野暮」の違いなんて誰にもわからないのと同じように、

まずはたくさん浴びて、それから試せばいい。

 

 

いきなり「コレこそが至高なんだ!」という、

僕より無能な親や教師の常識を押し付けるよりは、

とにかくたくさん触れることのほうが、よほど価値があると思うがね?

 

経験上、高学歴な子ほどオタク趣味との親和性が高いのは、

真剣に楽しいことを追求した結果、

最後に辿り着くのは、受け取る娯楽ではなく生み出す娯楽だから。

 

彼らの中には幼少期に気に入ったライトノベルのページであれば、

10ページ丸ごと一字一句違えず暗誦できるようなヤツがゴロゴロいる。

 

そんなオツムだから、憲法や法律の条文を丸暗記できるようになる。

そんなことばかりやってきたから。

 

何を読んできたかではなく、

どう読んできたかが重要だから。

 

 

 

 

 

重ねて問うが、

あなたがもし読書を実践として行ってきたのであれば、

「その程度のことなんて本にいくらでも書いてあったはず」だぞ?

 

もし読書しても(僕より)賢くなれてないなら、

「あなたが思う読書」は、

「僕が思う読書」よりも間違ってるってことだ。

 

なんかおかしなこと言った?

 

 

 

 

料理の本を読んでレシピを覚えたって料理はうまくならないだろ?

 

料理は実際に台所に立って、包丁使って煮炊きすることで覚えるもんだ。

 

読書それ自体で何かが得られるとしたら、

読書というひとつの学習方法の効率向上と、その補助でしかない。

 

 

 

 

 

読書それ自体をやって満足してはいけないのです。