「こだわりの●●」と言われたらすごいものに思えるかもしれないが、

本来「こだわる」というのは悪い意味である。

 

「こだわる」という言葉は「拘る」と書き、

手と鉤(かぎ)からなる文字であり、

何かにor何かをひっかけているさまを意味する。

 

拘泥(こうでい)する、という言葉があるくらいだからな。


食べ物でいうなら「こだわりの味」みたいな表現をとるわけだが、

これは「そこまで面倒な調理はしなくてもいいんだけど」という前提に基づき、

「無駄で面倒だけど俺はやりたい!」という結果に続くわけだ。

 

 

 

 

そこそこ食えればメシなんて安いほうがありがたいというのは、

仕事に忙殺されてオシャレにランチなんてやってられない、

まあ僕みたいな人種の感覚ではある。

 

でも本来なら、食事は時間をかけてゆっくり食べるべきなんだよな。

血糖値の急激な上昇を防ぎ、糖尿病や肥満を予防するためにも。

 

それでもそんな綺麗事を、男の僕が言うわけにはいかない。

女たちが綺麗事を抜かして優雅にランチをキメられる世界のほうが、

僕なんかの健康よりも大切であり尊いものだから。

 

そしてその考え方はまさしく、僕の「こだわり」である。

 

あらゆる1人の人間の権利や命の価値は対等であるはずだから、

僕が恋人でも家族でもない女の幸せなんて守る義務も義理もない。

 

むしろそんな綺麗事や理想に「こだわる」ほど、

僕だけが自分で選んだ我慢を強いられて辛いことにばかり直面させられる。

 

まあかくして、

色んな理由でメシをかっこむことしかできなくなった僕は、

ブラック労働と過労とストレスの合わせ技で、めでたく糖尿病になったわけだ。

 

健康管理はしていた、栄養の知識も料理の技術も体調管理の経験もある。

医者の子供で、医者の卵であったはずなのに、わかっていても防げなかった。

他にも理由は色々あるけれども。

 

他人を大事にしたいというこだわりのせいで、

自分を犠牲にしさえすればいいと、

そういう体裁になってしまっていたんだよな。

 

 

・・・こだわりは、悪いことなんだよw

 

 

じゃあなんで、悪いことだとわかっていても、人間はこだわろうとするのか?

 

 

「こだわらない生き方」にこだわっているバカを見るたびに思うけど、

情報の氾濫と呼ばれるIT時代を生きる僕らにとって、

確たる判断基準や自我を得ることは極めて困難であるわけだ。

 

だから、何かにこだわることで、一定の軸や基準点を得る

 

 

 

 

 

・・・とはいえ僕には別に、そんなものは必要なかった。

 

個別の事例に直面するたびに、

自分の知力や判断力で、高い確率で最適解または次善解を得られるからだ。

何かに「拘泥する」よりは、場当たり的に都度見直したほうがかえって楽になる。

 

本当のプロフェッショナルというものは、

流れ作業のように処理しつつも膨大な経験に基づいているからこそ、

小さな差異にすぐ気づけるようになるものである。

 

だから本質的には、

大量にこなして漠然とした感覚をつかむことも、

都度個別に対処していくことも、結果だけを見れば大差はない。

 

でも都度対処できるような人間は稀であり、

だいたいの人間は、

この世の多くのことがらを、同じアプリケーションひとつで処理しようとする。

 

それが生き様とか、価値観とか、あるいは「こだわり」とかって呼ばれるものになる。

 

「二択で迷ったら右を選ぶ」

「好きなものは最後までとっておく」

「四択なら3番」

「黄色信号を見たら必ず止まる」

 

これらは全て、何ら正しさを保証するものではない「こだわり」だが、

そういう「こだわり」が増えれば増えるほど、

かえって面倒になることもあれば、思考の手間が省けて楽になることもある

 

むしろ状況によっては、

交差点に進入し始めてるのに黄色信号を見たから止まるようなことをしたら、

かえって事故リスクが上がりかねないからね。

 

黄色信号を見たら止まるのは絶対に正しいとはいいきれない。

むしろそのまま渡ってしまったほうがいいことは多々ある。

 

状況に即した正解を見出すためには、

道路交通法にこだわっていては不可能だ。

 

しかし道路交通法があるからこそ、

現実的な正解という消極的な次善解を得られる。

 

「黄色信号を見たら止まるべき」なのだ、

「律儀に停止したらかえって危ない状況ではない限り」。

 

 

 

 

こだわりというものは、匙加減の問題でもあるわけよな。

 

完全な中立だの客観だの公平だの、そんなものは不可能だ。

できるわけがない。

 

心臓移植待ちの患者が2人、用意された心臓は1個、半分にしては意味がない。

 

絶対に不可能な状況は必ず訪れる。

ならどちらを選ぶのか、でしかない。

 

中立などありえない。公平なんか不可能だ。

人間は「偏りを選んでこだわる」ことでしか、

それに近いものを得ることができない。

 

中立と公平を否定しないと、

中立や公平には近づくことができない。

 

だってそもそも、

人間ごときが理想としての中立や公平に近づけたとしても、

本当に中立で公平なものが、自分ごときを中立や公平そのものだとは認めはすまい。

 

誰とも交わらないから中立で、

誰にも近寄らないから公平。

 

誰よりも、誰に対してでも冷酷で残虐だからこそ、中立ないし公平でいられる。

 

しかし人間が真に必要としているものは、

公平でも中立でもなく、配慮や優しさ、あるいは結果としての救済や実利だけだ。

 

誰一人として、

理想を守って不幸になるだけの現実なんて望みはしない。

 

それを望めてしまうような「偏りにこだわったバカ」が僕で、

恐らくそうではないのが、あなただ。

 

 

 

 

 

 

 

・・・よく言われることなのだが、

こういう話は坊主の仕事、いわゆる説法の範疇だ。

 

こんなことを考えて何になるのか、

って思うだろ?

 

医者だの官僚だのといういわゆるエリート職を志す人間は、

そういった理不尽や矛盾に、いずれ必ず直面する。

 

自動車にひかれてバラバラのボロクズに成り果てた人体を見ても、

死んでるに決まってるだろとわかっている遺体を見ても、

現実を受け入れられず「きっと助かるよ!」と声をかける遺族は無数に実在する。

 

それでも医者は、わかりきっているただの肉片のことを、

死体であると法的に認定したうえで、遺族に死亡宣告をしなければならない。

既に死んでるから助かるわけがない肉の塊に対して、手を尽くしましたが、と

 

手を尽くしたって助かるわけがない。

こんなふうになってしまった人体は生命活動を維持できない。

心臓も止まってるし血も出すぎているのに助かるわけがない。

 

それでも手は尽くさなきゃいけない。

誰かが死亡宣告をしなきゃいけない。

助かってほしいという遺族の願いを打ち砕かないといけない。

 

ヤブ医者だと罵られて、お前のせいで死んだんだと怒鳴りつけられて、

何も悪いことをしていないのに加害者呼ばわりされる理不尽に耐えてでも、

その遺族の悲嘆と絶望を受け止めなければならない。

 

泣くことは許されないし、嘆くことも怒ることも許されない。

 

そういうときに、

なぜ自分がこんな理不尽に耐えなければならないのかと問うても、正解なんかない。

 

老衰以外の死すべき道理を持たなかったはずの人が死ぬというなら、

その原因が何であれ、結果は常に理不尽な結末であるからだ。

 

理不尽なことは起こりうるし、必ず起こるといってもいい。

 

そうなったときに誰かが、

その理不尽に対する怒りや嘆きを受け止め、

最終処分場として噛み殺さなければならない。

 

 

誰もがやりたがらないそれを、幼稚園に上がる前から率先して引き受けてきた。

 

それが僕だ。

 

僕は誰よりも早く、誰よりも強く「こだわり」続けてきた。

 

 

だからこそ思うのさ。

 

本当に辛いとき、自分の実力だけが問われるときに、

こういう無駄なことをどれだけ考えて想像してきたのかが、イヤでも問われる。

 

それゆえに人類は、知的な早熟さを要求せざるを得ない。

想像しながら生きてきた時間の長さではなく、

想像できた時期の早さのほうが問題になるから。

 

想像したうえで覚悟して生きてきた時間の長さと密度は、

若く幼い頃のほうが、圧倒的に影響が大きいから。

 

 

 

「大人になってから勉強の大切さを理解したアホ」は、「説教臭い大人」になる。

勉強することにこだわるから。

 

だが早熟であった僕らにとって、勉強なんてこだわるほどの価値がない。

目の前に突きつけられた現実に対処するために必要なものは、

勉強ではなく能力、あるいは結果だけだからだ。

 

勉強は手段であって目的ではないし、

勉強そのものが「目的の先」においても有益であるわけじゃない。

 

勉強して得た何かで、この世の別の何かに「こだわる」のだからな。

 

 

 

 

 

 

 

こういう問答や説法のようなものの価値がわからない人ほど、

総じて学力は低いもんである。

 

よくわからないもの、抽象的なものを考えるクセがつくと、想像力が磨かれる。

 

こだわりとはつまり、

想像力の先にあるものへ手を伸ばしてひっかけるための情動なのではなかったか?

 

まあ、そう言ってもいいし、言えなくもないし、そう言うべきではないかもね。

 

僕はそのようにこだわることもできる自分に、こだわっているだけだ。