子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -32ページ目

 

 

ある満州国からの引き揚げ者の体験談です。

 

ご主人は、内務省官僚で土木建設技師として働いており、昭和13年から満州国に赴任していました。

 

そして昭和20年8月の終戦時、満州の営口というところに家族5人で住んでいました。その町は北京と同じ緯度の位置にあり、大連に比較的近い町でした。

 

生まれたばかりの赤ん坊をおんぶして、子供2人を連れて家族5人で、営口から大石橋という町まで48キロ以上を歩くことになりました。

 

その大石橋の駅に着くと、無蓋列車(屋根のない貨物列車)に乗り朝鮮半島から日本へ引き揚げようとしたところ、その無蓋列車は北上して走って行きました。

 

新京まで行ったら危険だというので、途中の奉天駅にて下車しました。

 

そこでソ連兵によって、貴金属から何から何まで、身につけているものすべて略奪されてしまいました。

 

何もかもなくなってしまった家族に、追い打ちをかけるように、ご主人はソ連に強制連行されそうになりました。

 

ご主人は、満州において国立建国大学というところで2年間教師をしていたことがありました。

 

建国大学は新京(現在の長春)にあり、1938年に開校した国立大学でして、森信三氏もいたことがある大学でした。

 

その大学の教え子であった満州人の董明沢という人が現れて、ソ連兵に説得してくれました。

 

その満州人のおかげで、ご主人は強制連行されずに、日本に家族とともに引き上げることができました。

 

常日頃、人のために面倒を見ていると、いつどこで助けてもらえるかわかりません。

人の縁というものは、大切にしていきたいものです。

 

それから約10ヶ月の間、奉天の町をあちこち逃げ回り、昭和21年6月、引揚船に乗り込むことができ、京都の舞鶴港に到着。

 

日本の大地に再び、家族と一緒に帰ることができました。

 

一人1000円の現金支給を許可されていましたので、5人家族で5000円の現金と、しらみだらけの服装で、ご主人の実家である茨城県水戸市に帰郷しました。

 

しかし、そこは空襲のために一面焼け野原でした。

 

(参考図書:「気と骨」平成27年1月号 大久保あい子さん 倫理研究所)

 

 

 

”八俣の大蛇(やまたのおろち)〜古事記 神代の巻

 

須佐之男命(すさのおのみこと)は、いたずらが過ぎたので、高天原(たかあまはら)を追放されました。

 

しかし、もともと須佐之男命(すさのおのみこと)は地球の神ですので、地上の出雲の肥の河上(現在の斐伊川)に戻って来れました。

 

川上から箸が流れてきたので、人が住んでいるに違いないと思って、須佐之男命(すさのおのみこと)は、川に沿って歩いて行きました。

 

一軒家があり、その中でおじいさんとおばあさんと一人の娘が泣いていました。

 

須佐之男命(すさのおのみこと)は、「あなたはどなたですか?」と尋ねました。

 

するとおじいさんが「私は、大山津見神(おおやまつみのかみ)の子供で、足名椎(あしなずち)です。妻は手名椎(てなずち)、娘は、櫛名田比売(くしなたひめ)です。」と答えました。

 

「あなたがたは、なぜ泣いているのですか?」と須佐之男命(すさのおのみこと)は尋ねました。

 

「私たちには、8人の娘がいましたが、高志の国(越前、越中、越後地方)から八俣の大蛇(やまたのおろち)が毎年やってきて、娘を一人ずつ食べてしまいました。

 

そして、娘は櫛名田比売(くしなたひめ)だけとなってしまいました。また、今年も八俣の大蛇(やまたのおろち)がやってきます。」

とおじいさんが答えました。

 

「八俣の大蛇(やまたのおろち)とは、一体どのようなものか」と

須佐之男命(すさのおのみこと)が尋ねました。

 

「大蛇は8つの山、8つの谷を渡るほど胴体が長く大きく、その大きな身一つから8つの頭が出て、8つの尾が出ています。

 

8つの顔の目はまるで熟れたほおずきのように真っ赤に燃えています。身体中には苔が生えて、ヒノキやスギの木が生えています。

 

その腹はいつも爛れて血が滴っています。」

とおじいさんが答えました。

 

「よし、私がその大蛇を退治しよう」と須佐之男命(すさのおのみこと)が言いました。

 

「私は、櫛名田比売(くしなたひめ)を一目で好きになってしまった。大蛇を退治したら、私の妻にしてください。」と須佐之男命(すさのおのみこと)が言いました。

 

「あたな様はどなたですか?」

と今度はおじいさんが尋ねました。

 

「私は、須佐之男命(すさのおのみこと)です。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟です」と答えました。

 

「恐れ多いことです。そのようなお方でしたら、娘を差し上げます。」とおじいさんが答えました。

 

足名椎(あしなずち)と手名椎(てなずち)、そして櫛名田比売(くしなたひめ)も喜びました。

 

須佐之男命(すさのおのみこと)が、櫛名田比売(くしなたひめ)にちょっと手を触れると、姫は櫛になりました。

 

そして、須佐之男命(すさのおのみこと)は、その櫛を自分の髪にしっかりさしました。

 

次に、足名椎(あしなずち)と手名椎(てなずち)に指示しました。

 

「八塩祈りの酒を作ってください。そして、垣根を張り巡らした8つの門を作り、それぞれの門に台を作り、その上に、酒をみさした樽を置いてください」

 

空は急に暗くなり雷が鳴り、得体の知れない地響きとともに、大蛇が現れてきました。

 

大蛇は、酒樽を見つけると、8つの頭をそれぞれ樽に突っ込み、酒をぐいぐい飲み干しました。

 

大蛇は酔っ払い、そのまま眠ってしまいました。

 

その瞬間、須佐之男命(すさのおのみこと)は腰の剣を抜いて、大蛇の8つの頭を次々と切り落として行きました。

 

尻尾も切って行きました。すると、中から、都牟刈(つむかり)の太刀(たち)が出てきました。

 

この剣はのちに草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれ、三種の神器の一つとなり、熱田神宮に祀られています。

 

須佐之男命(すさのおのみこと)は頭から櫛を抜くと、櫛名田比売(くしなたひめ)が現れました。

 

そして、出雲国の国須賀に御殿を建てて、2人で暮らすことになりました。

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古事記では、「八岐大蛇」のことを「八俣遠呂智」(やまたのおろち)と予言的に説明しています。

 

「八俣遠呂智」とは、現代の八俣に広がる、「遠きロシアの智恵」であるマルクス主義のことを表しています。

 

大蛇にはたくさんの頭と尻尾があります。これは、マルキシズム運動のフロントと呼ばれる前衛隊のことを指しています。

 

表の顔としては平和主義、人類愛、環境保護を訴えていますが、その実態は、世界を飲み込もうとしているマルクス主義なのです。

 

共産主義者の侵略方式の巧妙さは最初、純粋な平和運動、環境保護運動に見せかけておいて、だんだんその運動が発展していくに従って、

 

遠呂智(おろち)(おロシアの智恵)が呑み込んでしまって、日本的愛国運動がいつのまにか、ソ連や中国共産党を祖国とする反日運動とすり替えられていくのです。

 

その「八つの頭」すなわち「多数のフロント」の例としては、かつての全学連が支配しているマスメディアがあります。また、日教組もその一つです。

 

櫛名田比売(くしなたひめ)を呑みほそうとしている遠呂智。

 

その遠呂智は8方からその恐怖すべき首を伸ばして日本(櫛名田比売)を飲み込もうとしているのです。

 

しかも、その遠呂智は平和運動、子供を愛する運動、地球環境保護運動という仮面をかぶっています。

 

遠呂智(サタン)は、赤い思想で、世界の君主という君主を7つ滅ぼして、残されたのは日本の天皇のみとなります。

 

その天皇も風前のともしびでいつ大蛇に飲み込まれてしまうかわからない状況です。

 

櫛名田比売(くしなたひめ)は櫛稲田姫(くしいなだ姫)であり、稲田姫とは稲田の栄える瑞穂の国、すなわち日本のことであります。

 

地球の主宰霊である佐之男命(すさのおのみこと)は、櫛名田比売(くしなたひめ)を下さい、と結婚を申し込まれたのです。

 

つまり、地球の主宰霊と日本が結ばれたのです。

 

日本国の使命は、地球の主宰霊の御心と一致しているのです。

 

(参考図書:「日本人なら知っておきたい日本神話」出雲井晶著 産経新聞社、「古事記と現代の予言」谷口雅春著 日本教文社)

 

 

 

「教育に関する勅語」

 

朕(ちん)思うに、我が皇祖皇宗、國を肇(はじ)むること、宏遠(こうえん)に徳を樹(た)つること、深厚(しんこう)なり、

 

我が臣民、克(よ)く忠に、克(よ)く孝に、億兆心(こころ)を一にして、世世(よよ)その美を濟(な)せるは、

 

此(こ)れ我が國體(こくたい)の精華(せいか)にして、教育の淵源亦実(えんげんまたじつ)に此(ここ)に存(そん)す。

 

爾(なんじ)臣民父母に孝(こう)に、兄弟(けいてい)に友(いう)に夫婦相和(ふうふあいわ)し、朋友相信(ほういうあいしん)し、

 

恭倹(きょうけん)己(おの)れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習い、以って智能を啓発し、徳器を成就し、

 

進んで公益を廣(ひろ)め、世務(せいむ)を開き、常に國憲(こくけん)を重んじ、國法(こくほう)に遵(したが)い、

 

一旦緩急あれは、義勇公に奉し、以って天壤無窮(てんじゃうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし、

 

是(かく)の如(ごと)きは、獨り朕(ちん)が忠良の臣民たるのみならず、又以って爾(なんじ)祖先の遣風(いふう)を顕彰(けんしょう)するに足らん。

 

この道は實(じつ)に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所、之を古今に通じて謬(あやま)らず。

 

之(これ)を中外に施して悖(もと)らず、朕(ちん)、爾(なんじ)臣民と倶(とも)に、拳々(けんけん)服膺(ふくよう)して、

 

咸(みな)其(その)徳を一(いつ)にせんことを庶幾(こいねが)う。

 

明治23年10月30日

御名(ぎょめい) 御璽(ぎょじ)

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教育勅語 口語訳

 

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。

 

そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、

 

もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、

 

そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、

 

また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

 

そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、

 

この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、

 

私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

 

(国民道徳協会訳文)

 

 

 

教育勅語の成り立ち(続き)

 

天照大神は、鏡(三種の神器の一つ)を見ることで我が心を見ることとしなさい、と言いました。

 

そこに一切の私心は無い。ただひたすら国民の平安を願っている。それが天皇である。

 

井上毅(こわし)は、天皇の徳によって、日本は始まったのであるという事を、国学を学んでいくうちに理解していきました。

 

井上毅(こわし)は、明治憲法の草案の中で、その第一条に次のように書きました。

 

第一条

大日本帝国憲法は万世一系の天皇の”シラス”ところなり

 

”シラス”とは、天皇という最高権威の元で、君(天皇)と民(国民)とは一体であり、民を宝とする事で、民自身が権力者から自由を得るという統治形態を言います。

 

しかし、近代憲法を発布するにあたり、”シラス”という古語を用いるのはいかがなものかということになり、”シラス”が”統治す”という表現になりました。

 

明治憲法は、明治23年11月29日に発布されましたが、その前に、教育勅語についてまとめることになりました。

 

教育に関する勅語は、他の政治上の勅語とは異なるものである。

 

教育に関する勅語が発布されるにあたり、明治天皇から、これからこの考え方に従って生活をしていく事、と命令されるものと思われていました。

 

君主(天皇)が臣民(国民)の良心の自由に干渉せず。

 

これは政治上の命令では無い、天皇の著作広告でなければならない。

 

例えば、天皇は御歌を発表されます。これは命令ではありませんが、そこから天皇のお考えを知ることができます。

 

教育勅語は、そのようなものでなければならない、と。

 

また、教育に関する勅語を作成するにあたり、次のような条件を井上毅(こわし)自ら定めました。

 

1、この直後には天をうやまり、神を敬うという言葉を慎む事。

これを入れてしまうと、宗教宗派同士で争いが起こってしまうため。

 

1、哲学上の理論を避ける事。

このような文言を入れてしまうと、哲学者同士での争いになってしまう。

 

1、政治的なことを入れないこと。

政治上の言葉を入れてしまうと、これは天皇の言葉ではなく、山縣有朋の言葉ではないかと思われてしまうため。

 

1、見るからに儒教、明らかにキリスト教というような文章を書いてはいけない。

 

1、あれしてはいけない、これしてはいけない、というようなことを書いてはいけない。

 

1、明治天皇からのありがたいお言葉である、というような感激するような文章でなくてはならない。

 

1、長文であってはならない、凝縮された短い文章でなくてはならない。

 

1、天皇のお言葉にふさわしい文章でなくてはならない。

 

このような条件に従って、井上毅(こわし)は草案を作成し、明治天皇に御裁可を仰ぎます。

 

明治天皇は、井上毅(こわし)が作成した草案に対して、当時儒学者の権威であった元田永孚(もとだながざね)に相談します。

 

その後、井上毅(こわし)が作成した草案を元田永孚(もとだながざね)が添削し、その添削された文章を、さらに井上毅(こわし)が、再添削して、お互いに加筆訂正していきました。

 

元田永孚(もとだながざね)と井上毅(こわし)はお互いに儒学という共通思想が土台にあったとはいえ、必ずしも意見が一致していたわけではありませんでした。

 

井上毅(こわし)は元田永孚(もとだながざね)に次のような手紙を送りました。

 

「自説に固執するのは、人間の捨てがたい癖であります。固執心こそ悪魔です。ただただ国家のために考えましょう」、と。

 

元田永孚(もとだながざね)は「その通りです。」と返信します。

 

この二人がお互いを尊重しつつ、意見を出し合い、教育勅語の一字一句を精魂込めて磨いていったのです。

 

(参考図書:「教育勅語の真実」伊藤哲夫著 致知出版)

 

 

 

教育勅語の成り立ちについて(続き) 

 

第1次山縣内閣の下で文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。

 

この草案を閣議決定をするために、内閣法制局長官だった井上毅(こわし)に意見を求めました。

 

井上毅(こわし)は、「この勅語は、陛下のお言葉によるものでなければならない。このようなキリスト教色の強い、学者の書いたような文言では、誰も感激しない」と言って、中村正直の書いた草案を猛反対しました。

 

そこで、山縣は、では井上毅(こわし)が草案を書いてくれと頼み、教育勅語を作成しました。

 

教育勅語を作成した、井上毅(こわし)とはどのような人物だったのでしょうか?

 

井上毅(こわし)は鎖国論者でして、儒教ばかり勉強していましたが、このままではいけないと考えを改め、フランス後を猛勉強しました。

 

欧米列強の文明を日本に取り入れる際、日本にとってどのような副作用があるかを常に考えた。西欧文明をそのまま受け入れるのではなく、日本人にあった形で咀嚼して取り入れる事を重視しました。

 

井上毅(こわし)は、ただ横文字を縦文字に直すだけの学者を軽蔑しました。

日本の伝統風俗にあった形で直す必要があると主張しました。

 

伊藤博文とともに明治憲法の作成に取り掛かりました。そのために、国学の勉強を一から始めました。国学とは古事記、日本書紀です。

 

東京帝国大学の教授であり国学者であった、小中村 清矩(こなかむら きよのり)の婿養子の池辺 義象(いけべ よしかた)を助手として使いました。

 

古事記の中の国譲りの話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の使者として、建御雷神(たけみかずちのかみ)が、大国主命(おおくにぬしのみこと)に対して、出雲国を譲ってほしいと言われた。

 

その時、建御雷神(たけみかずちのかみ)が、大国主命(おおくにぬしのみこと)に次のように言いました。

 

「天照大御神の命もちての使せり。汝(な)が”領(うしは)け”る葦原の中つ国に、我(あ)が御子の”知らさむ”国と言よさしたまへり。かれ汝が心いかに。」

 

”領(うしは)け”(ウシハク)とは、中国の皇帝のような、力でその土地を支配する事であり、主人が私的に支配するという統治の形態のことをいいます。

 

シナ、ヨーロッパでは、一人の豪傑が現れて多くの土地を占領して、一つの政府を立てて、征服して支配する国家を形成します。

 

一方、”知らさむ”(しらす)とは、天皇という最高権威のもとに、民衆を「大御宝(おおみたから)」とすることにより、民衆自身が権力者からの自由を得るという統治形態を言います。

 

自分の心を鏡のようにして、自分の心を無にして、国民の現状を写す、神々の心を写す、つまり、君(皇室)と民(国民)とが一体である、君徳に基づくものであります。

 

”シラス”の国家成立の原理は君民の約束にあらずして、一つの君徳なり。国家の始まりは君徳にあり、という事であります。

 

大国主命(おおくにぬしのみこと)の統治手法は、”ウシハク”でしたので、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、”シラス”の統治手法によって国を納める事にしました。

 

続く

 

(参考図書:「教育勅語の真実」伊藤哲夫著 致知出版、「日本人なら知っておきたい日本神話」出雲井晶著 産経新聞社)

 

 

 

昭和20年8月の終戦を迎えたとき、北朝鮮に滞在していた日本人家族。ソ連兵が突然、蜂屋さんの家にきて、スパイの疑いで逮捕すると言われました。

 

妻には、「何かの間違えだから必ず帰ってくるから、心配しなくていい」と言い残して、そのまま連行されてしまいました。

 

生まれたばかりの赤ん坊を抱えて、その奥さんは日本に引き揚げましたが、夫から、必ず帰ってくるという言葉を信じて、再婚もせずに、子供を育て上げて、なんと51年間待ち続けました。

 

平成9年、51年ぶりに日本に帰国した蜂谷 彌三郎さんは、ソ連での生活を次のように振り返りました。

 

「雲をつかむような微かな希望でしたが、生きてさえすれば必ず帰れるかもしれない、もし死んだとしても、日本人の恥になってはいけない、と心がけていました。

 

服役中は、終始一貫無実を主張しました。しかし、無実を主張すればするほど、ますます、疑惑が生まれ、執拗に取り調べを受けました。

 

KGBの厳しい取り調べに、時折日本人としての心の拠り所を失い、挫折しそうになりました。

 

そんな時は毛布を被り、小声で何回も教育勅語を唱えました。すると日本人としての気概がふつふつと蘇ってきました。

 

教育勅語と五箇条のご誓文は毎朝、毎晩唱えることにしていましたが、一日に何十回繰り返したこともあります。

 

収容所を出て以降は、日本語を話す人は誰一人いない中、日本語を忘れてしまたら、日本人で無くなると漢字の書き取りもしました。

 

今日は木編の字、次の日は言編の字、という具合に100字ずつ、書きました。

 

教育勅語と五箇条の御誓文は月に一度、必ず清書しました。

 

日本の歌もたくさん歌いました。童謡や唱歌、謡曲など覚えていた日本の歌を毎日、林の中で2時間も3時間も歌っていました。

 

そうすると辛いことがあっても心が落ち着きました。」

 

蜂谷 彌三郎さんは、決してエリートではありませんでした。ごく一般の庶民でしたが、教育勅語を空で言うことができ、筆記することができました。

 

戦前の日本人にとって、教育勅語は、それほどまでに心の強い柱となっていたのです。

 

そのような教育勅語は、どのようにして作られていったのでしょうか?

 

岩倉使節団が欧米列強に訪問しましたが、日本と比べ比較にならないほど、文明が発達している現状を目の当たりにします。

 

どうしたら、日本が、この進んだ欧米の文明国家と肩を並べることができるのか、と岩倉使節団の参加者たちは、毎日激論しました。

 

明治の新政府は、江戸時代の学校教科書を全て廃棄して、新しく教科書を作りました。それは全て、米国やイギリス、フランスなどの欧米列強の学校で使っている教科書の翻訳本でした。

 

なぜ、そのように極端に外国の翻訳本を使おうとしたのかと言うと、過去の江戸幕府の権威の破壊を行うという目的もありますし、

 

また、あまりにもかけ離れてしまった欧米列強との産業格差を早く埋めるために、その文明国の真似をして殖産工業をして行こうという考えがあったからです。

 

そして、初代文部大臣となった森 有礼(もり ありのり)らが、日本が遅れているのは、日本語を使っているからだとして、

 

日本の公用語を英語にしようと言う意見も出て(国語外国語化論)、学校教育でも英語を熱心に教えるようになりました。

 

明治天皇が、地方の生活の実態を知るために、まだ鉄道が敷かれていない時代に、日本諸国を御巡幸に回られました。

 

その際、ある小学校の授業参観をされました。そこでは英語の授業を行っていましたが、天皇陛下が、その子供に次のような質問しました。

 

「今話した英語は、日本語ではどう言う意味なの?」

 

その質問された子供は答えられませんせした。

英語を学ぶ前に日本語が理解できていないことを、陛下は心配されました。

 

また、次のように質問されました。

 

「君は将来、どのような人になりたいの?」

 

すると、質問された子供は、「田舎の百姓にはなりたくないので、東京に出て出世したい」とか

 

「親が大工をやっているが、そのような仕事に就きたくないので、知識を身につけて出世したい」といったような答えが返ってきました。

 

自分の親の仕事を軽蔑して、また、自分の生まれ育った故郷を離れ、立身出世することを目的にすることが、本当の教育であろうかという疑問が発せられました。

 

明治天皇の御巡幸に御付きで同行していた、元田 永孚(もとだ ながざね)は次のように語りました。

 

「明治維新以来、教育の趣旨定まらず、国民の方向ほとんど支離滅裂にいたらんとす」

 

このままで行ったら、日本は終わっていたかもしれません。

 

明治天皇は、教育の本末が失われていると憂いました。

 

確かに欧米列強の真似をして追いかけることは必要だけれども、本末が転倒しているのではないかと憂いていました。

 

平成13年、明治神宮鎮座80周年祭に際して、皇后陛下の御歌

「外国(とつくに)の風を招きつつ、国柱(くにはしら)太しくあれと守り給ひき」

 

これは、明治維新の後,明治天皇が広く世界の叡智に学ぶことを奨励なさると共に,日本古来の思想や習慣を重んじられ,国の基を大切にお守りになったことへの崇敬をお詠みになった御歌です。

 

続く

 

(参考図書:「望郷 (二つの国 二つの愛に生きて)」 蜂谷 彌三郎 著 致知出版、「教育勅語の真実」伊藤哲夫著 致知出版)

 

 

 

忠実は幸福の種子 〜 永田佐吉

 

美濃国竹の鼻に永田佐吉という人がいました。

 

9歳の時に紙屋何某の丁稚となるが、心がけのよい人でしたので、主人や番頭の言いつけを少しも背くことなく店の用やら勝手のことまで、まめまめしく立ち働きました。

 

夜は本を読み、字を習い少しの暇をも無駄にせず、首尾よく年期を勤め上げました。

 

家に帰ったあとは、老母を大事になし、小さな紙屋の店を開きましたが、間もなく、以前勤めた主人の店が商売の損失により、大きく落ちぶれてしまいました。

 

佐吉は、以前の恩と思って我が家の事は顧みずに、元主家の回復をはかり数年の辛苦を重ねてしばらく元の店に立ち返らせました。

 

佐吉は、家に戻って自分の商売を再開しますが、佐吉の忠実な商いが言い伝えられて、三里、五里ある遠方から、わざわざ佐吉の店へ買い物に来るような人が増えてきて、

 

店は大いに繁盛して、後には大層なる金持ちとなりました。

 

善い人には善い報いがあり、悪い人には悪い報いがあるものである。

 

父母や主人を大事にして正直に業を励めば、必ず神の助けを得て身の栄達を受けることができる。

 

(参考図書:「国民修身話」高橋光正著 明治25年(1892年)8月)

 

 

 

謝恩 〜高台院(秀吉の夫人)

 

豊臣秀吉の夫人は高台院と言って、夫によくつかえて、内助の功の多かった人であります。

 

夫人は、元織田信長の足軽、杉原助左衛門という者の娘でした。

 

生まれた時から、同じ信長の家来の伊藤右近という人に世話になり、親切に養育されました。

 

大きくなると、良い家に奉公に出してもらい、行儀などを見習いました。

 

その頃、秀吉は、木下藤吉郎と言って、まだ低い身分でしたが、夫人を妻にもらおうと思って、そのことを申し入れました。

 

夫人はまず右近のところへ行って相談すると、右近は、「藤吉郎は知恵の優れた人だから、末のためによろしかろう」

と言って嫁入りさせました。

 

その時、右近は、貧しい中から夫人に夜着・布団・鏡・くし・こうがいなど、色々の支度を整えて与えました。

 

その時、藤吉郎は次第に立身出世し、とうとう太閤秀吉と言って、日本国中の人から敬われる身になりました。

 

太閤夫人となった高台院は昔、世話になった右近夫妻のことを忘れず、方々を探させてやっと訪ね出しました。

 

その頃右近は落ちぶれて、田舎に隠れていました。秀吉夫婦は、それを大阪城に招いて懇ろにいたわり、昔のことなどを語り出し、

 

涙を流して礼を述べ、夫人自ら結構な物をたくさん取り出して与えました。

 

この時、夫人は、右近らのそばに寄って、「御身たちの綿入れは汚れています。昔のお礼に、私に洗濯させてください。」

 

と言って、新しい着物に着替えさせました。それから10日ばかりたつと、また二人を城に招いて、先日の洗濯ができあがったからと言って、夫人が自ら仕立てかえて、綺麗にした綿入れを渡しました。

 

秀吉は、右近に禄を与えて、その後は、大阪に住まわせることにしました。

 

(参考図書:尋常小学校「修身書」)

 

 

 

自分に厳しく 〜 渡辺崋山

 

崋山は、父がいなくなってから、ちちお後を継いで、だんだんと重要な仕事を任せられるようになりました。

 

崋山は、非常に規律正しく生活をする人でした。重要な仕事に任じられて、どれだけ忙しくなっても、家にいるときは、時間割を作って、朝・昼・晩、それぞれの時刻に割りあてた仕事を、その通りに行いました。

 

時間割は、以下のようなものでした。

 

1、午前4時から午前6時まで、これまで読んだ本の復習をすること。また、その日にすべきことを考えること。

 

1、午前6時から午前8時まで、本を読むこと。あるいは子供達に教えること。

 

1、午前8時から午前10時まで 前の続き。あるいは、刀の稽古。

 

1、午前10時から正午(12時)まで、人から頼まれた絵を描くこと。

 

1、正午から午後2時まで、前の続き、あるいは、殿様や親に使えることや、お客に会うこと。

 

1、午後2時から午後4時まで、前の続き。

 

1、午後4時から午後6時まで、昔の名高い絵を手本にして、一心に習うこと。

 

1、午後6時から午後8時まで、読みたい本を読んだり、書き抜いたり、または文章を書いたりすること。

 

このように崋山は、毎日のやることを決めて、規律正しくそれを実行したので、絵がたいそう上手になって、人々にもてはやされただけでなく、

 

学問も進んで、世間のためになったので、立派な人として敬われることになりました。

 

(参考図書:尋常小学校 4年生 「修身書」 昭和12年)

 

 

 

艱難(かんなん)、汝を玉にする 〜 渡辺崋山

 

渡辺崋山は人の勧めで、ある師匠について絵を習うことになりました。

崋山は、母からわずかなお金をもらっては、紙を買い、昼夜を問わず熱心に稽古をしていましたが、師匠に十分なお礼をすることができなかったので、2年ばかりで波門にされてしまいました。

 

崋山は、1日も早く一人前の画家になって、父母を安心させようと思っていましたから、たいそう力を落として、泣き悲しみました。

 

父は、それを見て、

「それくらいのことで力を落とすようではダメだ。他の師匠について、しっかり勉強するが良い」

 

と言って聞かせました。

 

崋山は、父の言葉に励まされて、別の師匠につきました。

 

その師匠は、崋山のことを気の毒に思って、親切に絵を教えてくれ、崋山も懸命に勉強したので、崋山の絵はみるみる上達していきました。

 

そこで崋山は、絵を描いてそれを売り、家計を助けながら、なお熱心に稽古に励みました。

 

その間に、崋山はまた学問にも励みましたが、学問に割く時間がなかったので、毎朝早く起きてご飯を炊き、その火の明かりで本を読みました。

 

艱難、汝を玉にする。

 

(参考図書:尋常小学校 4年生 「修身書」昭和12年)