教育勅語の成り立ち(続き)
天照大神は、鏡(三種の神器の一つ)を見ることで我が心を見ることとしなさい、と言いました。
そこに一切の私心は無い。ただひたすら国民の平安を願っている。それが天皇である。
井上毅(こわし)は、天皇の徳によって、日本は始まったのであるという事を、国学を学んでいくうちに理解していきました。
井上毅(こわし)は、明治憲法の草案の中で、その第一条に次のように書きました。
第一条
大日本帝国憲法は万世一系の天皇の”シラス”ところなり
”シラス”とは、天皇という最高権威の元で、君(天皇)と民(国民)とは一体であり、民を宝とする事で、民自身が権力者から自由を得るという統治形態を言います。
しかし、近代憲法を発布するにあたり、”シラス”という古語を用いるのはいかがなものかということになり、”シラス”が”統治す”という表現になりました。
明治憲法は、明治23年11月29日に発布されましたが、その前に、教育勅語についてまとめることになりました。
教育に関する勅語は、他の政治上の勅語とは異なるものである。
教育に関する勅語が発布されるにあたり、明治天皇から、これからこの考え方に従って生活をしていく事、と命令されるものと思われていました。
君主(天皇)が臣民(国民)の良心の自由に干渉せず。
これは政治上の命令では無い、天皇の著作広告でなければならない。
例えば、天皇は御歌を発表されます。これは命令ではありませんが、そこから天皇のお考えを知ることができます。
教育勅語は、そのようなものでなければならない、と。
また、教育に関する勅語を作成するにあたり、次のような条件を井上毅(こわし)自ら定めました。
1、この直後には天をうやまり、神を敬うという言葉を慎む事。
これを入れてしまうと、宗教宗派同士で争いが起こってしまうため。
1、哲学上の理論を避ける事。
このような文言を入れてしまうと、哲学者同士での争いになってしまう。
1、政治的なことを入れないこと。
政治上の言葉を入れてしまうと、これは天皇の言葉ではなく、山縣有朋の言葉ではないかと思われてしまうため。
1、見るからに儒教、明らかにキリスト教というような文章を書いてはいけない。
1、あれしてはいけない、これしてはいけない、というようなことを書いてはいけない。
1、明治天皇からのありがたいお言葉である、というような感激するような文章でなくてはならない。
1、長文であってはならない、凝縮された短い文章でなくてはならない。
1、天皇のお言葉にふさわしい文章でなくてはならない。
このような条件に従って、井上毅(こわし)は草案を作成し、明治天皇に御裁可を仰ぎます。
明治天皇は、井上毅(こわし)が作成した草案に対して、当時儒学者の権威であった元田永孚(もとだながざね)に相談します。
その後、井上毅(こわし)が作成した草案を元田永孚(もとだながざね)が添削し、その添削された文章を、さらに井上毅(こわし)が、再添削して、お互いに加筆訂正していきました。
元田永孚(もとだながざね)と井上毅(こわし)はお互いに儒学という共通思想が土台にあったとはいえ、必ずしも意見が一致していたわけではありませんでした。
井上毅(こわし)は元田永孚(もとだながざね)に次のような手紙を送りました。
「自説に固執するのは、人間の捨てがたい癖であります。固執心こそ悪魔です。ただただ国家のために考えましょう」、と。
元田永孚(もとだながざね)は「その通りです。」と返信します。
この二人がお互いを尊重しつつ、意見を出し合い、教育勅語の一字一句を精魂込めて磨いていったのです。
(参考図書:「教育勅語の真実」伊藤哲夫著 致知出版)