子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -31ページ目

 

 

ユダヤ人から最も感謝されている、日本人の一人は、誰だかお分かりでしょうか?

 

それは東条英機元首相です。

 

戦前のドイツやロシア(ソ連)などでは、ユダヤ人が迫害されていました。

 

特にナチス党支配のドイツでは、ユダヤ人に対して大虐殺が行われていました。

 

民族抹殺計画により、女子供に関わらず、すべてのユダヤ人をガス室に入れて、大虐殺を行っていたのです。

 

そんな状況でしたので、ユダヤ人たちは、難民としてドイツからポーランド経由でシベリア鉄道を使って極東の満州国にやってきました。

 

当時の満州国は、八紘一宇という建国の精神により、人種差別のない国づくりをしていたのです。

 

八紘一宇とは、世界を一家族とみなして、強いものが弱いものを助けるという精神です。

 

戦前の世界情勢は、ブロック経済を進めて、欧米列強の強い国が弱い国(植民地)から搾取するのが当たり前の世界でした。

 

そこで、日本はそのような欧米列強の白人社会に対抗しました。

 

一番強い家長が弱い家族から搾取するという弱肉強食の世界ではなく、強い家長が、弱い家族を守り助けて、働いてあげるという、人類皆一家族という精神を、日本の進むべき道としました。(清水芳太郎「建国」1938年)

 

 

昭和13年(1938年)1月21日、関東軍司令部は、対ユダヤ民族施策要領というものを定めていました。

 

その第4条には次のように規定されていました。

 

「ドイツその他の列国に対しては我が民族共和、八紘一宇の精神並びに防共の大義に遵由(じゅんゆう)するを、了解せしめ誤解なからむ」

 

これはユダヤ人に対してはあくまで受動的な態度をとること、そして、ドイツをはじめ欧米列強に対しては、八紘一宇の精神で対応することを理解してもらうことを明記したものでした。

 

 

昭和13年(1938年)2月、満州国の国境付近の満州里駅近くのオトポールという町に、大量のユダヤ難民が連日、押し寄せてきました。

 

しかし、そのユダヤ人たちは、ドイツ国のパスポートを持ってましたが、満州国に入国するためのビザを持っていませんでした。

 

そこで、そのオトポールでユダヤ難民たちは、テントを張ったりして、生活をはじめました。

 

オトポールは気温が氷点下まで下がり、そのまま何日も滞在していたら凍え死んでしまいます。さらに、ロシア(ソ連)は、ユダヤ難民たちの受け入れを拒否していましたので、強制連行して、ドイツに連れ戻されてしまうかもしれませんでした。

 

そこで、満州にあったユダヤ人居留民組織であった、極東ハルビン・ユダヤ人協会の幹部たちが、関東軍(日本陸軍)の特務機関の機関長であった、樋口季一郎少将(当時)に、オトポールのユダヤ難民たちを救って欲しいと懇願しました。

 

それを受け、樋口季一郎少将は、関東軍(日本陸軍)の参謀長であった、東条英機中将(当時)にユダヤ難民の受け入れを許可してもらうように懇願しました。

 

東条英機は、ユダヤ難民を満州国に受け入れることを許可する旨、満州国外交部(外務省)に折衝しました。

 

樋口季一郎の部下であり、ユダヤ通の安江仙弘大佐は、満州鉄道(満鉄)が何本もの列車をロシア国境付近の満州里駅まで派遣して、国境を歩いて渡った難民たちを収容しました。

 

そのおかげで、2万人以上とも言われるユダヤ難民たちが満州国に無事に入国することができました。

 

当時、日本はドイツと防共協定を結んでいました。

ドイツ政府は、日本に対して、強行な抗議をしました。

 

関東軍司令部へ伝えられたドイツからの抗議に対し、東条英機は次のように語り、一蹴しました。

 

「当然なる人道上の配慮によって行ったものである」と。

 

当時のイギリスや米国など欧米列強は、ユダヤ難民の受け入れを拒否していました。

 

世界で唯一、ユダヤ難民を受け入れたのは、日本であり満州国だったのです。

 

ユダヤ民族に貢献した人を掲載した、ゴールデンブックというものがあります。

 

このブックに掲載されるには、複数のユダヤ人かユダヤ人団体からの推薦と、ある程度の金額を寄付する必要があります。

 

このゴールデンブックには、樋口季一郎中将と安江仙弘大佐が掲載されていますが、東条英機は掲載されませんでした。

 

なぜかというと、東条英機は、ユダヤ人社会との個人的な交流がなかったからです。

 

終戦後、樋口季一郎中将は、ソ連のスターリンからの要求により、東京裁判でA級戦犯として起訴されることとなりました。

 

ゴールデンブックに掲載されていた樋口季一郎中将に対して、世界中のユダヤ人社会が助命懇願に奔走して、また、ユダヤ人金融家によるロビー活動のおかげで、マッカーサー元帥を動かし、スターリンの要求を拒否。

 

樋口季一郎中将への起訴が取りやめになりました。

 

一方、ゴールデンブックに掲載されなかった東条英機は、同じくA級戦犯として起訴されましたが、ユダヤ人社会からの助命懇願要請もなく、そのまま死刑執行されてしまいました。

 

ユダヤ人から、命の恩人として、最も感謝されている日本人の一人である東条英機。

 

しかし、未だにA級戦犯としての汚名を受けたままです。

 

(参考図書『ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著)

 

 

 

教育勅語を作成した井上毅(こわし)。彼がその作成にあたり、最も重要視したのが、日本の国体、国学でした。

 

その国学では、天皇が国を治める基本思想である『しらす』の精神が始めに出てきます。

 

しらすとは、知るという意味であります。

 

古事記の神代の巻で、天照大神(あまてらすおおみかみ)は邇邇芸命(ににぎのみこと)が地上に降臨される時に、彼に鏡を授けて、

 

「これを見ることは我が心を見るがごとくにせよ」とおっしゃいました。

 

鏡を通して、神の心を知ることです。その鏡を磨き上げて、濁りのない心で、常に神の心と民の心を知ることが、天皇にとって最も大切なこととされています。

 

井上毅は次のように言いました。

 

「支那(中国)、ヨーロッパでは一人の豪族がいて、多くの土地を占領して、一つの政府を立てて支配して、その征服の結果を持って国家の釈義(意味)と為すべきも、

 

日本の天日嗣(あまつひつぎ)(天皇)の大御業(おおみわざ)(なさってこられたこと)の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめすという意義より、成り立ちたるものなり」

 

鏡を通して、民(国民)の心を知る(しらす)ことが大切であるということです。

 

君(天皇)と民(国民)とは一体であります。

 

古事記の国譲りの話では、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受け、建御雷神(たけみかずちのかみ)が、出雲国を納めている大国主命(おおくにぬしのみこと)に次のように言いました。

 

「この葦原の中つ国は、本来、天照大神(あまてらすおおみかみ)が『しらす』ところの国であるので、この国を譲るように」と。

 

それまで、大国主命(おおくにぬしのみこと)は『うしはく』により、国を統治していました。

 

『うしはく』とは、豪族や独裁者が私物化した土地を支配して、武力を持って統治するという意味です。

 

そこには、民(国民)の意見など無視して、搾取したり、奴隷として

扱うことを平気で行なうような統治となります。

 

井上毅(こわし)は、大日本帝国憲法(明治憲法)を草案しましたが、その第一条に「日本帝国は、万世一系の天皇の治す(しらす)所なり」としました。

 

しかし、伊藤博文らから、「『しらす』とは法律用語として如何なものか、外国からも誤解を招く」、として、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」と最終的に改められました。

 

それほどまでに、井上毅(こわし)は、日本の国体の基本中の基本である、『しらす』という精神を重要視していたのです。

 

明治憲法が発布されてから、今度は、いよいよ教育勅語の草案に入ります。

 

明治23年、芳川文部大臣の依頼により、東大教授の中村正直が教育勅語の草案を起草しましたが、法制局長官であった井上毅(こわし)は、この草案を徹底的に批判しました。

 

なぜなら、その内容があまりにもキリスト教色の強いものであったからです。

 

明治23年6月、井上毅(こわし)は、首相の山県有朋から教育勅語の草案の起草を依頼されました。

 

その後、11月1日、陸羯南(りくかつなん)が主催する新聞「日本」で次のような論説を掲載しました。

 

「聖明(天皇の徳)自ら行いてしかして、臣民に及ばさんことを期し、あえて皇威を持って、徳育の標準をたつるに、非ざるを知る。

 

思うに、皇室は人徳の源なり。臣民仰ぎてその光輝を見ること、北辰(北極星)に向かうが如し、王者の道、あに独り、政界のみに行うものならんや」

 

天皇は権力によるのではなく、徳を自ら率先して行い、それを国民に広く及ぼそうとされました。

 

あえて、権力によって徳育の標準をお立てになろうとはされませんでした。

 

皇室は人徳の源でありまして、その光輝を仰ぐ国民は、まさに「北辰」、つまり動かない北極星をそのまま仰ぐことであります。

 

それゆえ、「王道の道」が行われるのは何も政治の世界にのみ限られるものではありません。

 

井上毅(こわし)は、この教育勅語が、権力を背景とした、上からの押し付けにならないように、配慮しました。

 

そのため、他の勅語とは異なり、大臣の副書をつけず、文部省や内閣を経由せずに、政治上の勅語とはしないこととしました。

 

井上毅(こわし)は、元田永孚(もとだ ながざね)に教育勅語の草案を見せて意見を求めました。

 

元田は、当時の儒学者の権威でしたが、明治天皇に帝王学を教えた教育係として、天皇に近い立場にいました。

 

明治天皇にとっては、元田永孚は師匠であり父のような存在でした。

 

「國民新聞」を主宰した徳富蘇峰(とくとみそほう)は、元田永孚のことを次のように語っています。

 

「明治天皇のご人格を作り上げた最親最密の顧問である」と。

 

井上毅(こわし)は、同じ熊本出身であり、また、明治天皇に最も近い元田永孚(もとだ ながざね)に、事前に意見を求めることにしたのです。

 

元田永孚と井上毅は同じ儒学を基礎としていましたが、必ずしも、教育勅語の草案については、同じ意見ではありませんでした。

 

また、元田永孚は、儒学者の権威であり、明治天皇の顧問です。

 

その元田の修正案に対して、井上毅が意見を言うのもなかなか難しいところです。

 

しかし、井上毅は持論を曲げず、元田永孚の修正案に対して、さらに修正案を出し、元田永孚の意見を求めました。

 

井上毅は元田永孚に次のように言いました。

「一点の固執心こそ悪魔と思う」と。

 

元田永孚は井上毅に次のような手紙を送りました。

「貴論(井上の言う)のごとく、どうしても人間固有の癖をあくまでも取り去り、天下萬世に渡り、国家のためを考え申したく」と。

 

そのように何度も、元田永孚と井上毅の間で、修正案が行き来しましたが、最終的には、井上毅(こわし)の案を基礎として、微調整されたものに決まりました。

 

持論を曲げない井上毅(こわし)と、その井上毅に対して理解を示し、自らの修正案を没にした元田永孚との信頼関係によって、教育勅語が作られました。

 

明治24年1月、教育勅語が世に出た(明治23年10月30日発布)2ヶ月後、元田永孚(もとだ ながざね)は病に倒れました。

 

その病床に、井上毅(こわし)が駆けつけ、明治天皇から男爵の爵位が授けられることを告げました。

 

「この篤きご恩は草葉の陰から報い奉る」と元田永孚は繰り返しました。

(「明治の天皇づくりと朝鮮儒学」小倉紀蔵著)

 

(参考図書:「教育勅語の真実」伊藤哲夫著 致知出版)

 

 

 

明治43年(1910年)4月15日、第6潜水艇が訓練中に、乗組員が全員死亡する事故がありました。

 

ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転する訓練のために、岩国から出航して、広島湾に向かいました。

 

しかし、潜航訓練中、第6潜水艇が長時間浮上して来なかったため、母船「歴山丸」は、呉在泊の艦船に遭難を報告。

 

救難作業の結果、17日に第6潜水艇が引き揚げられ、内部調査が行われました。

 

通常、このような潜水艇が遭難した場合、乗組員はハッチ付近で、我先に脱出をしようと修羅場の様相で遺体が重なり合っているのですが、

 

14名の乗組員の遺体のうち、12名はそれぞれの配置について、持ち場を離れることなく、そのままの姿でした。

 

また、残り2名は、故障した箇所の修理のために、最後まで作業していた様子で遺体が見つかりました。

 

そして、艇長の佐久間勉大尉は意識がなくなる最後まで、事故の経緯を詳細に記録し、将来の潜水艦の発展を祈願し、

 

また、天皇に対して、部下の遺族に配慮をしてほしい、という遺書を書き残していました。

 

以下は、佐久間勉大尉の遺書です。

ーーーーーーー

小官の不注意により、陛下の艇を沈め部下を殺す。 誠に申訳無い。 

 

されど艇員一同、死に至るまで皆よくその職を守り、沈着に事を処せり。 

 

我れ等は、国家の為め、職に倒れ死といえども、ただただ遺憾とする所は、天下の士はこれを誤り、

 

よって将来、潜水艇の発展に打撃を与うるに至ることを憂うる。

 

希くは、諸君、益々勉励以て、その誤解なく将来潜水艇の発展研究に、全力を尽くされん事を。

 

そうすれば、我れらも遺憾とする所はない

 

ガソリン潜航の際、過度に深入した為に「スルイス・バルブ」を諦めんとせしも、 

 

途中「チエン」きれ、依ッて手にて之しためるも、後れ後部に満水、約25度の傾斜にて沈降する

 

一、傾斜約仰角13度位

 

一、配電盤浸かりたる為、電灯消え、悪ガスを発生、呼吸に困難を感ずる。 

 

14日午前十時頃沈没する。 

 

此の悪ガスの下に手動ポンプにて排水にかむ。

 

一、沈下と共に「メンタンク」を排水する。 

燈消え ゲージが見えないけれど「メンタンク」は排水終れるものと認める。

 

電流は全く使用することできず、電液は溢るも少々 

 

海水は入らず、「クロリン」ガス発生せず、残気は500ポンド位なり。 

 

唯々頼む所は、手動ポンプあるのみ。 

 

「ツリム」は安全の為め、予備浮量600(モーターの時は、200位)とせり。(右11時45分司令塔の明理にて記す)

 

溢入の水に、溢され乗員大部衣湿ふ寒冷を感ず 

 

余は常に潜水艇員は沈着細心の注意を要すると共に、大胆に行動せざれば、その発展を望む可からず。 

 

細心の余り、畏縮せざらん事を、戒めたり。

 

世の人は、此の失敗を以て、或は嘲笑する物あるでしょう。 

されど、我れは前言の誤りなきを確信する

 

一、司令塔の深度計は52を示し、排水に勉めども、12時迄は底止して動かず、 

 

此の辺、深度は80尋位なれば、正しきものならん。

 

一、潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す かかる時に困る故、 

 

幸に本艇員は、皆よくその職を尽せり。満足に思う。我れは常に家を出ずれば死を期す。 

 

されば遺言状は、既に「カラサキ」引出しの中にあり(これ但、私事に関する事言う必要なし田口、浅見、兄よこれを愚父に致されよ)

 

”謹んで陛下に白す 我、部下の遺族をして窮するもの無からしめ給はらん事を、 我、念頭に懸るもの、これあるのみ。”

 

左の諸君に宜敷(順序不順)

 

一、斎藤大臣  

一、島村中將  

一、藤井中將  

一、名和中將  

一、山下少將

一、成田少將  

一、(気圧高まり鼓まくを破られる如き感あり)  

一、小栗大佐 

一、井手大佐  

一、松村中佐(純一)  

一、松村大佐(龍)  

一、松村小佐(菊)(小生の兄) 

一、船越大佐

一、成田綱太郎先生 

一、生田小金次先生

 

12時30分呼吸が非常に苦しい

 

ガソリンをブローアウトするつもりだけれども、ガソリンに酔った

 

一、中野大佐

 

12時40分ナリ

ーーーーーーーーーー

 

この事故については、小学校で習う道徳の教科書『修身』に”沈勇”として掲載されました。

 

イギリスの新聞『グローブ』紙は、

「この事件でわかることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか、道徳上、精神上にもまた勇敢であることを証明している。

 

今にも昔にもこのようなことは世界に例がない」

と伝えました。

 

また、米国のセオドア・ルーズベルト大統領が、この話に感動して、米国国会議事堂の大広間に、遺書のコピーと英語訳が陳列されました。

 

国立国会図書館の前に、この遺書を刻んだ銅板が設置されました。

 

イギリスの王室海軍潜水史料館には、この話が展示されています。

 

イギリスの潜水艦学校では、この話が”軍人の鑑”として、軍人養成のテキストとなり、いまでも使われています。

 

毎年、命日の4月15日には、佐久間大尉の出身地である、福井県で遺徳顕彰祭が行われています。

 

最後まで、私心を捨てて、任務を全うしようとした帝国軍人たち。

 

そして、意識がもうろうとする中、最後まで部下たちの遺族を救済してほしいと天皇に懇願する指揮官。

 

このような部下への思いやりに溢れた指揮官と、その指揮官への信頼と忠誠心にあふれた部下を生み出した根底にあるのは、一体なんだったのでしょうか?

 

それは、まさしく『教育勅語』の教えそのものでした。

 

この教育勅語の教えが、人としての生き方を国民に教え、その結果、一人の艇長が天皇の篤い御仁慈(じんじ)を願わせたのです。

(参考図書『教育勅語の真実』伊藤哲夫著 致知出版)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦前の日本人は皆、”教育勅語”を暗唱することができました。骨の髄まで身にしみ混んでいました。

 

その教育勅語とは一体何だったのでしょうか?

 

「教育に関する勅語」

 

朕(ちん)思うに、我が皇祖皇宗、國を肇(はじ)むること、宏遠(こうえん)に徳を樹(た)つること、深厚(しんこう)なり、

 

我が臣民、克(よ)く忠に、克(よ)く孝に、億兆心(こころ)を一にして、世世(よよ)その美を濟(な)せるは、

 

此(こ)れ我が國體(こくたい)の精華(せいか)にして、教育の淵源亦実(えんげんまたじつ)に此(ここ)に存(そん)す。

 

爾(なんじ)臣民父母に孝(こう)に、兄弟(けいてい)に友(いう)に夫婦相和(ふうふあいわ)し、朋友相信(ほういうあいしん)し、

 

恭倹(きょうけん)己(おの)れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習い、以って智能を啓発し、徳器を成就し、

 

進んで公益を廣(ひろ)め、世務(せいむ)を開き、常に國憲(こくけん)を重んじ、國法(こくほう)に遵(したが)い、

 

一旦緩急あれは、義勇公に奉し、以って天壤無窮(てんじゃうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし、

 

是(かく)の如(ごと)きは、獨り朕(ちん)が忠良の臣民たるのみならず、又以って爾(なんじ)祖先の遣風(いふう)を顕彰(けんしょう)するに足らん。

 

この道は實(じつ)に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所、之を古今に通じて謬(あやま)らず。

 

之(これ)を中外に施して悖(もと)らず、朕(ちん)、爾(なんじ)臣民と倶(とも)に、拳々(けんけん)服膺(ふくよう)して、

 

咸(みな)其(その)徳を一(いつ)にせんことを庶幾(こいねが)う。

 

明治23年10月30日

御名(ぎょめい) 御璽(ぎょじ)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

教育勅語 口語訳

 

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。

 

そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、

 

もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、

 

そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、

 

また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

 

そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、

 

この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、

 

私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

 

(国民道徳協会訳文)

ーーーーーーーーーーー

 

「職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、

また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。」

 

戦時中、台湾で日本人として教育を受けたあるおばあちゃんは次のようなことを語っていました。

 

「私が台湾にあった台南師範学校付属国民小学校で学んでいた時、日本から来た先生が、黒板に大きく”公(おおやけ)”と書きました。そして、黒板の隅に小さく”私”と書きました。

 

私を小さくして、公のために生きなさいと、それが修身であると。

私事は小さくするのが国民の誉れであり、国家と国民のあるべき精神だと教えられました。」

(「心に秘めたる日本への思い」楊素秋 「致知」2016年3月号)

 

私たち日本人は、公(おおやけ)のために社会に貢献しなければなりません。決して私心のためだけに生きていてはいけません。

 

そのために、日々勉強して、教養を身につけ、人格を養うのです。

 

そして、国の非常事態が起きたならば、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。(いざ鎌倉)

 

戦争末期、沖縄戦において、神風特攻隊が活躍しました。

 

それは、100%死を前提とした体当たり攻撃でした。

 

兵士の命を無駄にした、とても軍事作戦とは言えない大罪であると、戦後非難され続けました。

 

人命軽視、特攻隊員たちは、哀れな戦争被害者である、と。

 

本当にそうだったのでしょうか?

 

「沖縄作戦で米軍が被った被害は、日本との戦争中、他のどの海戦よりも、はるかに大きかった。

 

沈没30隻、損傷300隻以上、9000以上が死亡、行方不明、負傷しました。

 

この大損害は、主として、日本の特攻隊によるものであった。」

(ニミッツ西太平洋艦隊司令長官)

 

「我々はあらかじめ日本空軍は手強いということは知っていたが、これほどまでとは思わなかった。

 

我々は”カミカゼ”が、これほどまでに多数の兵士を殺傷し、多数の艦船を破壊しつつあることを、日本軍に認めさせることを許せなかった。

 

それゆえに我々はそこに留まって、この攻撃を受けなければならなかった。」

(ベイツ海軍中佐)

 

「日本が失った戦闘機のうちわずか12%で、米軍の損傷艦艇の77%、米海軍兵士の死傷者数のうちの80%を、やっつけたことになる。

 

素晴らしい戦果といえよう。

 

もし、カミカゼ攻撃がなかったら、米軍空母は自由に、日本本土を攻撃することができたはずである」

(ウエアマイスター海軍中尉)

 

「特攻隊員に権利欲とか名誉欲などかけらもなかった。

祖国を憂いる尊い情熱があるだけである。

 

母や姉や妻の命に危険が晒されている時、自分が殺されるとわかっていても勇敢に暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。

 

愛するものが殺されるのを、黙って見過ごせるだろうか?」

(アンドレーマルロー フランス文化大臣)

 

「我々の空母の飛行看板を貫いたこの男は、私より立派だ。私には到底このようなことはできない。

(マルコム・マクガバン米海軍大尉)

 

「特攻隊員たちの心の中には、敵への憎しみや復讐心がほとんどなかった。彼らは外国がもたらす汚れから、日本の清らかな土地を守るために、また家族を守るために、命を捧げる義務があると、遺書に書き残している。

 

彼らの遺書からは敵への憎しみや西洋人への人種的敵意が出てこない。

 

むしろ、この世に生まれてからこれまでに与えられてきた数々のご恩に報いなければならないという、責任感や報恩の決意が現れている。」

(アイバン・モリス フランス作家)

 

「お父さん、大切なお父さん、お母さん、大切なお母さん、長い間色々とお世話になりました。

 

靖国でお目にかかります。では、参ります。お身体を大切に」

(永尾博中尉 22歳)

 

「お母さん、よく顔を見せてください。しかし、僕は何にも”かたみ”を残したくないのです。

 

10年も20年も過ぎてから”かたみ”を見て、お母さんを泣かせるからです。」

(茂木三郎中尉 19歳)

 

「母上様 幸光の戦死の報を知っても、決して泣いてはなりません。

靖国で待っています。きっときてくださりますよね。

 

私がやらなければ、父様母様が死んでしまう。いや日本国が大事なことになる。

 

幸光は誰にも負けずにきっとやります。」

(富澤幸光中尉 23歳)

 

「お前が大きくなって、父に会いたくなったら九段へいらっしゃい。そして、心に深く念ずれば、必ずお父様の顔がお前の心の中に浮かびますよ。

素子が生まれた時におもちゃにしていた人形は、お父さんがいただいて自分の飛行機の中にお守りにしています。

 

だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。」

(植村真久大尉 25歳)

 

「懐かしい靜ちゃん!お別れの時が来ました。兄ちゃんはいよいよ出撃します。

 

この手紙が届く頃には、沖縄の海に散っています。

 

思いがけない父母の死で、幼い靜ちゃんを一人残していくのは、とても悲しですが、許してください。

 

もうプロペラが回っています。さあ出撃です。では、にいちゃんは征きます。泣くなよ靜ちゃん。頑張れ。」

(大石清伍長 11歳の妹への遺書)

 

「特攻は我々が最も愛するもの、さらには国民全体を救おうとする我々の決意のあらわれだった。

 

それは「大いなるものに命を捧げる愛」の行動であった。

 

多くの人々の命を救う至上の博愛なのである。

 

人命軽視どころか比類のないほど他に尽くす、「人命の尊重」であった。

 

自分さえよければ良いというエゴイストたちには、特攻などできるはずない。」

(人間魚雷 ”回天” 元搭乗員の証言)

 

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なば、多くの果を結ぶべし。

 

己が命を愛するものは、これを失い、この世にてその生命を憎むものは、これを保ちて永遠の生命に至るべし。」

(ヨハネ伝第12章24節)

 

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、元の通り、ただ一粒でいるだろう。

 

しかし、その麦粒の姿が死んでしまったならば、却って新たなる芽が萌え出て、それが無数に分蘖して多くの実を結ぶのである。

 

己が命を愛するものは却ってこれを失い、この世を救おうと己が命を不惜身命(ふじゃくしんみょう)に捨てるものは、却ってその生命を保って永遠の生命に至るのである。

(「ヨハネ伝講義」谷口雅治著 日本教文社)

 

 

明治31年(1898年)2月15日、米国の軍艦メイン号が、ハバナ沖で爆発炎上して沈没する事件が起きました。

 

事件当時、キューバはスペインの植民地でしたが、砂糖など輸出で米国と経済的な関係が密接でした。

 

米国の関税が高騰すると、キューバの経済が大打撃を受け、スペインからの独立運動が活発となっていきました。

 

メイン号沈没事件の後、米国による秘密裏の爆発原因調査が行われ、またスペイン側の独自の事故調査も行われました。

 

外部から爆発させた証拠もなく、機雷を沈めたという証明もできませんでした。

 

爆発は艦内で起こった痕跡が見られましたが、内部爆発は、外からの衝撃により引き起こされた可能性もありました。

 

艦内でヒューズ箱があり、その中に太い銅線が取り付けられていました。

 

もし、この銅線がショートしたら、発火しているでしょうし、もし、ワイヤが火薬庫近辺を通っていたら、爆発の原因も説明がつくかもしれません。

 

米国海軍審判所は、いずれかの個人や集団の責任を断定する証拠は見つからなかった、と結論を出しました。

 

しかし、新聞各社は、次のように結論を出しました。

 

「メイン号爆発事件はスペインの仕業である」と。

 

米国世論は沸騰しました。

 

ウィリアム・マッキンリー大統領は、米国連邦議会の承認を得て、1898年4月25日、スペインに対し宣戦布告をしました。

 

カリブ海で、スペイン艦隊は米国大西洋艦隊に敗北し、12月10日にフランスのパリで、米国とスペインは講和条約を締結し、キューバの独立が承認されました。

 

もし、米国がスペインからの共同調査の提案を受け入れるか、利害関係のない仲裁法廷に委ねていれば、その裁定により世論の沸騰は収束し、戦争は回避されていたでしょう。

 

一方、昭和6年(1931年)から昭和7年の満州国はどうだったでしょうか?

 

昭和6年(1931年)9月18日、南満州鉄道の線路爆破事件が起きました。

 

この事件は、張学良軍閥軍の仕業であるとして、日本軍(関東軍)が満州に侵攻し、張学良の軍隊を満州から駆逐しました。

 

そして、昭和7年(1932年)3月1日、満州国が建国されました。

 

昭和7年(1932年)3月、国際連盟から派遣された、リットン調査団が満州国に入りました。

 

その後、約半年に渡り、満州各地でそれぞれの国の在留者や宣教師、新聞記者たちから聞き取りを行いました。

 

そして日本陸軍将校たちに対して、厳しい審問を行いました。

 

中国国民党軍側(蒋介石軍閥側)を支持している、外国人記者や宣教師、商人達との証言の食い違いがあると、日本陸軍将校の証言は削除されました。

 

その結果、国民党軍側(蒋介石軍閥側)の都合のいい証言だけが採用されました。

 

国際連盟から派遣された調査団は初めから結論ありきで、証拠を積み上げていきました。

 

日本は、このような圧倒的不利な状況になることをわかっていても、あえて調査団を受け入れて、厳しい尋問を受けたのは、真実を世界に知らせたいという、切なる思いがあった重要な証拠であります。

 

この満州事変が起きるまでの満州では、張学良が独裁政権を取っていました。

 

40万人という軍隊を維持するために、満州人民から搾取しており、満州人民は漢民族(張学良軍閥)の奴隷と成り下がっていました。

 

満州人は、国際連盟やハーグ国際裁判所に訴えることもできたかもしれません。

 

しかし、武器を持たない満州人民にとって、それは死を意味していました。

 

なぜなら、明治44年(1911年)10月10日から起きた辛亥革命のとき、西安、南京、広東など様々な都市で無抵抗の住民が大虐殺されたからです。

 

辛亥革命とは、満州人による清国を倒し、それまでの君主制から、漢民族による共和国を目指した革命です。袁世凱を初代総統とする中華民国が成立しました。

 

この革命の最中、西安で漢民族による、満州人大虐殺を目撃した米国人の記述です。

 

「憐憫という人間の感情は、彼ら(満州人)の悲惨な運命を食い止めることはできなかった。

 

血に飢えた支那人(漢民族)の渇きは、女達への肉欲によってのみ満たすことができた。

 

銃殺され、惨殺され、自殺を余儀なくされ、生きたまま焼かれ、逃げ出せばあらゆるところで滅多斬りにされ、

 

一週間続いた虐殺行為によって、死を免れた女性をのぞいて、2万人から3万人もの人口が消滅した。」

 

(Percy Horace Kent, "The Passing of the Manchus"1912年ロンドンEdward Arnold)

(J.C. Keyte "The Passing of the Dragon" 1913年ロンドン Toddler & Stoughton)

 

満州人は、さらなる迫害、侮辱、死から逃れるために、武器を持たない旗人とその一族は、漢民族の名前を名乗り、漢民族の血筋だと嘘をついて、漢民族の軍隊に入りました。

 

日本は、このような満州人民の惨状を目の当たりにし、張学良独裁政権を倒し、満州人民による国家を建設しようという理想を掲げて、立ち上がったのです。

 

それは、かつてスペインによる圧政に耐えかねて苦しんでいたキューバ人を解放しようと、立ち上がった米国のように。

 

しかし、国際連盟の場で、満州国の独立は認められず、日本の自衛行為も認められることはありませんでした。

 

(参考図書:「満州国の建国は正当である」ジョージ・ブロンソンレー著)

 

 

安永2年(1773年)12月、米国マサチューセッツ州ボストンで、イギリスの東インド会社が船で運んできた大量の紅茶を、愛国市民たち(自由の子供達)が不法投棄しました。(ボストン茶会事件)

 

当時の米国はイギリスの植民地であり、イギリスから輸入された紅茶に課税して植民地支配を維持しようとしました。

 

米国ボストンでは、税逃れのためオランダから紅茶を輸入していましたが、イギリスがそれを認めず、東インド会社に米国での販売独占権を与えました。

 

また、北米の植民地においてはイギリスから税金を徴収されながら、イギリス議会に議員を送ることが許されていませんでした。(代表なくして課税なし)。

 

安永3年(1774年)、イギリス議会で、イギリスの植民地であった北米に対する法律(耐え難き諸法)が制定しました。

 

この耐え難き諸法は、ボストン茶会事件をきっかけとして、植民地におけるイギリスの威信を取り戻すために制定された、米国に対する懲罰的な法律でした。

 

トーマス・ジェファーソン(独立後の第3代米国大統領)は、その耐え難き諸法に反対する決議書「イギリス領アメリカの権利に関する要約」を書き、北米の東海岸13州の代表が集まり、安永3年(1774年)に開催された大陸会議において公表されました。

 

この当時、米国が、イギリスから独立しようと考えていた人は、12人もいませんでした。

 

しかし、その2年後の安永5年(1776年)には、独立こそが米国13州の問題の唯一の解決策であると結論されました。

 

米国独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンは、次のように述べています。

 

「危険や破壊行為に対して、有事の備えができていないような国に対して、人は反乱を起こすものである。

 

したがって、権限を委譲されていた国の代表機関が倒壊すれば、権限は人民の手に戻り、人民は結集するか、代理を指名するか、適切と考えられる方法で、無制限にその権限を行使できる。

 

米国民がそうした状況に置かれ、大英帝国との関係を断ち切ることになっても、英国と決裂する権利やその有効性にあえて反対する者は誰もいない。」と。

 

米国の自由を築いた建国者たちが、横暴を極めたイギリスから分離独立する理由として定めた原則は、世界中で適用されるべきであります。

 

話を、昭和6年(1931年)中国東北部にある満州に変えます。

 

満州人民は、一度は北支那を支配していた軍閥の張作霖に満州地区の統治を委ねました。

 

しかし、張作霖は軍隊による圧力により人民を服従させ、高い税率の税金を徴収して、満州人民から搾取し続けていました。

 

張作霖が死亡した後、息子の張学良が後継者として満州を統治しましたが、昭和6年(1931年)9月、日本軍(関東軍)が満州国に進駐すると、あまり抵抗もせずに、北京に慌てて逃げて行きました。

(満州事変)

 

張学良から解放された満州人民たちは、自分たちの自由の権限を再び手にしました。

 

その自由の権限を再び他の軍閥に奪われないように、満州人民は最善の方法を考えました。

 

昭和7年2月18日、「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言されました。

 

その後、昭和7年(1934年)3月1日、満州民族である溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行しました。

 

昭和7年(1932年)3月にリットン調査団が、国際連盟から派遣され満州国に入りました。

 

そこで、3月から6月まで、多くの満州人民に対してインタビューがされました。

 

そして、その後、昭和7年9月に報告書がまとめられて、国際連盟に提出され、昭和8年(1933年)2月に国際連盟において総会が開催されました。

 

リットン報告書では「柳条湖事件における日本軍の活動は自衛とは認められず、また、満州国の独立も自発的とはいえない」と結論しました。

 

柳条湖事件とは、昭和6年(1931年)9月18日、日本軍が満州へ侵攻するきっかけとなった鉄道爆破事件です。

 

この柳条湖事件以前は、満州人民による独立の気配は全くなく、張学良軍閥政権からの分離を求める運動が起きたのは、その日の夜以降からだった、とリットンは報告しています。

 

しかし、独裁者である張学良を倒す企ては、それまであちこちで起きていましたが、いずれも残忍な手法により弾圧されて、全て押さえ込まれていました。

 

もし仮に、独立の気配がなかったという話が本当であったとしても、だからと言って、満州人民や政権内部の集団が、自らの安全が確保されると判断したその時に、独立を宣言する権利は奪わるものではありません。

 

ほとんどの独立革命の歴史がそれを証明しています。

 

(参考図書:「満州国建国は正当である」ジョージ・ブロンソン・レー著 PHP)

 

 

モンロー米国大統領は1823年(文政6年)12月2日の年次教書の中で、次のように述べました。

 

「欧州に対する我が国(米国)の政策は、長く地球の4分の1をかき乱したいくつもの戦争の初期段階で採用されたが、今日でも変わらず同じである。

 

つまり、欧州のいずれの国の国内問題にも干渉せず、事実上の政府を我が国にとって正当な政府とみなし、

 

その政府との友好関係を築き、公明で揺るぎない、断固とした政策でその関係を維持し、

 

正当であればいずれの国からの要求にも全て応じ、またいかなる国からの侵害行為にも屈しない、という政策である。」

 

この年次教書で、モンロー大統領が示した米国の基本方針は、後にモンロードクトリン(主義)と呼ばれています。

 

モンロー主義とは、外国の国内問題に干渉しない、という方針です。

 

ウイルソン米国大統領は、モンロー主義に反して、メキシコに干渉しました。

 

1913年(大正2年)、メキシコのマデロ大統領に対して、米国の工作により、ウエルタ将軍がクーデターを起こしました。

 

米国は当初、ウエルタ将軍に武器援助していましたが、その後、独裁政権を取るようになったため、政権を支援しない方針をとりました。

 

さらに1914年(大正3年)、ウエルタ政権を打倒すべく海兵隊を派兵しました。

 

そして、ウエルタ政権の反対勢力であった、ヴェヌスティアーノ・カランサ反革命派を支援しました。

 

しかし、ヴェヌスティアーノ・カランサは米国の助言を受け入れなかったので、今度は、パンチョ・ヴィリャを支援するようになりました。

 

この米国によるメキシコへの干渉によって、反米感情が高まり、内乱状態は1917年(大正6年)まで続きました。

 

その一方で、ウイルソン大統領は、中国大陸で袁世凱が総統となった「中華民国」に対してどのような行動をとったのでしょうか?

 

1912年(大正元年)2月12日、清国の最後の皇帝・宣統帝が退位することで、清国が滅亡しました。

 

袁世凱は、清国を引き継いだ中華民国の臨時政府の総統となりました。

 

国民党を率いる宋教仁は、これからは議院内閣制を採用するべきと主張し、1912年(大正元年)12月に選挙を行いました。

 

この選挙で国民党は圧勝しましたが、1913年(大正2年)3月、袁世凱は、国民党党首である宋教仁を暗殺。

 

1913年(大正2年)9月、孫文らが、袁世凱政権に対してクーデター(第二革命)を起こしましたが、袁世凱の軍隊により制圧されてしまい、さらに、国民党を解散させてしまいました。

 

その後、孫文ら指導者たちは、日本に亡命しました。

 

「中華民国」は、反対勢力である国民党指導者を暗殺することによって排除し、軍隊によってのみ国土を支配している国家でした。

 

袁世凱は、暗殺と大虐殺によって政権を掌握した軍閥の長であります。

 

ウイルソン米国大統領は、そのような袁世凱により建国された中華民国を、承認したのです。

 

このように、中南米では違法行為であり、とても国家として承認できないような方法で建国された国を、米国は承認し援助していました。

 

(参考図書:「満州国建国は正当である」ジョージ・ブロンソン・レー著 PHP)

 

 

 

 

大国主命(おおくにぬしのみこと)が、八上比売(やかみ姫)を妻としました。

 

八上比売(やかみ姫)を意中の女性と狙っていた、八十神たちは面白くありません。

 

そこで、八十神たちは、大国主命を騙して、殺してしまおうと企みました。

 

崖の上からイノシシを追い詰めるから、崖の下でそのイノシシを受け止めるようにと、大国主命に伝えました。

 

素直な大国主命は、崖の下で手を広げて、イノシシを受け止めようとましたが、それはイノシシではなく、火で熱く熱した大きな岩でした。

 

大国主命は、大きな岩に押しつぶされて死んでしまいました。

 

現代において、大国主命を象徴しているのは、西側陣営の大国である米国であります。

 

そして、八十神を象徴しているのは、ソ連側陣営諸国となります。

 

昭和10年(1935年)7月から8月、モスクワでコミンテルン(第3インターナショナル)大会が開催されました。

 

そこでは、日本を標的にして共産主義革命を起こすこと、そのためにフランス、米国、英国と手を結び、中国を重要視することが決められました。

 

米国政府内部にソ連スパイたちが潜伏して行きました。

 

その代表格が、ジョージ・マーシャル国務長官(日本でいう外務大臣)であり、その後任のディーン・アチソン国務長官であります。

 

また、ルーズベルト大統領の側近であった、アルジャー・ヒスであり、ハリー・ホプキンスらであります。

 

彼らはいずれも、ソ連スパイとして活動していたと、ヴェノナ文書にて明らかにされています。

 

昭和20年8月まで日本と戦っていた国民党軍(蒋介石)を支援していた米国でしたが、日本降伏後、今度は、共産党軍(毛沢東)に軍事物資の支援を行い、国民党軍(蒋介石)への武器供与を事実上止めてしまいました。

 

その結果、昭和24年(1949年)10月に中国大陸を共産党国家が支配することとなってしまいました。

 

日本降伏後、米国の武器弾薬などの軍事物資や資金援助を、共産党軍(毛沢東)にだけ与えるように仕向けた張本人は、ジョージ・マーシャル国務長官でした。

 

現代において、大国主命(おおくにぬしのみこと)を象徴している米国。その米国は、ソ連陣営を象徴している八十神たちに騙されて、殺されてしまいました。

 

ジョージ・マーシャル国務長官など、ソ連スパイたち(八十神)に騙されて、中国大陸での国共内戦で共産党軍が勝利しました。

 

また、昭和24年、朝鮮半島では、共産国である北朝鮮と中国共産党が、米国が統治している南朝鮮(韓国)に侵略。

 

昭和20年2月、戦後の勝利品の分け前を、米国とソ連と英国でどのように分配するかを話し合った、ヤルタ会談が行われました。

 

その会談で、スターリンが欲しがった要求を全て満たしてあげた、ルーズベルト。しかし、その後、スターリンに裏切られてしまいました。

 

ルーズベルトが一番信頼していた側近は、アルジャー・ヒスであり、ハリー・ホプキンスでした。

 

彼ら、八十神たちによって、大国主命(米国)は殺されてしまいましたが、また、その母親に助けられて、生き返りました。

 

八十神(やそがみ)(ソ連、中国共産党など)がそこまで大国主命(米国)を邪魔者にしたがったのは、大国主命(米国)が、八上比売(やがみ姫)(日本)を妻にしたからです。

 

(参考図書:「古事記と現代の予言」谷口雅春著 日本教文社、「共産中国はアメリカがつくった」ジョセフ・マッカーシー著)

 

 

 

須佐之男命(すさのおのみこと)を父親として、大国主命(おおくにぬしのみこと)が誕生しました。須佐之男命は多くの子供を産みました。(八十神(やそがみ))

 

そして最後に生まれたのが、大国主命でした。

 

大国主命(おおくにぬしのみこと)は5つの名前を持っていました。

 

大穴牟遅神(おおなむちの神)、又の名は、芦原色許男神(あしはらしこおの神)、又の名は、八千矛神(やちほこの神)、又の名は、宇都志国玉神(うつしくにたまの神)

 

名前にはそれぞれ意味があります。

 

大国主命(おおくにぬしのみこと)とは、大国の主人という意味で、現代でいうと米国に該当します。

 

大穴牟遅神(おおなむちの神)とは、神名は、多名持神(おおなもちのかみ)であり、多くの名前を持っているという意味でして、多くの富を持っているという意味があります。

 

芦原色許男神(あしはらしこおの神)とは、色男という意味で、豊葦原(とよあしはら)で一番多くの女性を妻にしていました。

 

八千矛神(やちほこの神)とは、武器である矛を多く持っていたという意味で、軍事力が強い国という意味であります。

 

現代で例えると、多くの軍事力を持ち、西側陣営の国々に強い影響力を持っている米国を象徴しています。

 

それに対し八十神(やそがみ)は、ソ連を中心とした共産国、東欧諸国を象徴しています。

 

古事記では「かれこの大国主神の兄弟、八十神、然れども、皆国は大国主神に避りまつりき」

とあります。

 

”避りまつりき”、とは、退いて譲ったという意味です。

 

米国の民主主義陣営に、ソ連側陣営が指導権を譲ったということを表しています。

 

ではなぜ、八十神を象徴しているソ連陣営は、米国陣営に指導権を譲ったのでしょうか?

 

それは、八十神たちが狙っていた意中の女性である、稲羽(いなば)の八上比姫(やかみ姫)の争奪戦がありました。

 

その八上比姫(やかみ姫)は、八十神たちに見向きもせずに、大国主神の妻になりました。

 

実は、この八上比姫(やかみ姫)は、豊葦原(とよあしはら)の稲原にいる八百万の神の中で、もっとも優れた姫神であり、現代の日本を象徴しています。

 

現代において、日本は中立国になるべきだ、と主張する方々がいます。

 

しかし、日本は八上比売(やかみ姫)のように、ソ連側陣営を象徴している八十神たちから狙われているのです。

 

かつての大日本帝国でしたら、自力で対抗することができましたが、今となっては、大国主命である米国の妻となり保護してもらわないと、八十神たちに飲み込まれてしまいます。

 

地政学的にも魅力のない国でしたら、中立国として生きていくことができますが、日本は、八上比姫(やかみ姫)のように、八百万の国々において優れた魅力があるのです。

 

ですので、日本は米国と手を結ばなければ、ソ連は中国共産党などの八十神たちが、手を伸ばしてくるのです。

 

(参考図書:「古事記と現代の予言」谷口雅春著 日本教文社)

 

  

 

 

 

1980年代の日本の経済は、米国を席巻していた時代。米国に大量の企業が進出し、不動産や企業を買いあさり、ジャパン アズ ナンバーワンという本が注目されました。

その当時のレーガン政権が日本のパワーの根底にあるものは何かと、研究に研究を重ねた。その結果、若年層の教育に原因があると結論が出されます。

当時の米国の中学高校は暴力と麻薬が蔓延していて、荒れ果てていました。

 

その理由として、当時の最高裁判所が「生徒規則や学校規則で生徒の自由を束縛してはならない」と決めたことでした。

 

自由奔放で、やりたい放題で、規律や道徳教育不在では、まともな人物は育ちませんし、学校教育は成り立ちません。

 

学級崩壊という問題にも悩まされていました。

 

このままで行ったら米国は崩壊してしまう、とレーガン大統領以下政府高官は真剣に悩みました。

 

米国を崩壊させてしまう要因は、外国からの侵略ではありません。

米国内部の青少年教育の荒廃によるのです。

 

いかに強力な軍事力を維持していたとしても、国内の青少年教育が荒廃してしまうと、その国は滅びてしまうのです。

 

そこで、平成5年(1993年)、日本にある'ある本'をモデルにして英語版の道徳本(The Book of Virtues)を発行。

830ページもある本が、発行部数3000万本という第二に聖書と言われるほどのベストセラーになった。

 

そのある本とは一体何でしょうか?

 

「これが修身だ」という本が昭和45年5月(1970年)に小池松次著により出版されました。

 

内容は、明治37年から昭和20年までの国定小学校修身教科書と、国語教科書の中から現代でも立派に通用する92編を選び出して編集したものになります。

 

有力な全国紙が、芥川賞作家と直木賞作家の2人を使い、「古い道徳を集めた悪書だ」「保守反動だ」などと大々的に批判されてしまいましたので、売れ行きは散々でした。

しかし、日本のマスメディアに散々叩かれてしまった「これが修身だ」を、なんと米国のレーガン政権下の教育長長官 W.ベネットが注目しました。

 

東京のアメリカ大使館が、ワシントンのアメリカ国立図書館に「これが修身だ」の本を送付しました。

 

捨てる神あれば拾う神あり、です。

 

そして、この「これが修身だ」をモデルとして、教育改革の切り札として、英語版のThe Book of Vertuisを出版。

 

3、000万部という驚異的なベストセラーになったのです。

 

それ以来、米国の家庭では道徳教育の副読本として、低学年児童に対して広く普及しています。

 

今現在の日本の教育現場はどうでしょうか?

 

教育勅語や修身といった道徳教育をないがしろにしているような国は、いずれ滅びでしまうことでしょう。

 

(参考図書:「マッカーサーの呪いから目覚めよ日本人」目良浩一等著)