子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -30ページ目

 

三島由紀男は、国民に無制限な自由を与えるならば、どんな政治体制でも崩壊してしまうと述べています。

 

「例えば、もしセックスの安全な自由ということが許されるとすれば、強姦、輪姦くらいですむならいいが、快楽殺人というものがあって、どうしても人を殺してしまわなければ、満足しない人だっているに違いない。

 

そういう人もセックスの権利を自由に許したならば、快楽殺人が横行することになって、殺人も許される。

 

一つの社会が殺人を許し、何を許すということになれば、どんな政治体制でも崩壊してしまう。」

(「文化防衛論」三島由紀男著)

 

今の日本が有効としている日本国憲法の24条には次のように規定されています。

 

日本国憲法 第24条

 婚姻は”両性の合意のみに基づいて”成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

2、配偶者の選択、財産権、相続、住居の選択、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

これは、性的快楽を味わうために誰とでも”両性さえ合意すれば”、結合する、ということを認めています。

 

それが基本的人権であると規定しています。

 

その結果、妊娠した子供は、現行の母体保護法(優生保護法)では、経済的な理由により自由に殺して堕胎しても良いということになっています。

 

これは、性的快楽の続きとして生じた子供を殺すことですので、快楽殺人ということになります。

 

それが現在の日本では許された行為となっております。

 

果たしてこのような国家が永続するのでしょうか?

 

占領憲法(日本国憲法)の第24条”両性の合意のみに基づいて”を改正し、母体保護法による、簡単に人工中絶ができてしまう制度を改めることです。

 

子宮の中で、母親の慈愛に安心しきって眠っている子供を、突然、引っ掻き回されて、闇から闇に葬る行為は、悪質な殺人であります。

 

現在、有効とされている憲法24条と母体保護法で、これが合法化されているのが今の日本なのです。

 

闇から闇に葬られた赤ん坊の魂は、肉眼では見ることができませんが、乗り物の運転手の心に影響を与えることができます。

 

交通信号を見誤らせたり、運転のハンドルを切り損なわせたり。交通事故での死傷者は、毎年かなりの数にのぼります。

 

昔は、交通戦争をいう言葉があったくらい、たくさんの死傷者が出ていました。

 

車の安全性や道路交通の整備などのおかげもありますが、闇から闇に葬られてしまい、さまよっている霊魂の恨みによる影響は、計り知れません。

 

その証拠に、年間の交通事故死傷者数の減少と、人工中絶の減少は、ほぼ同じ曲線を描いています。

 

「減少しているならいいじゃない?」と思う人がいるかもしれません。

しかし、未だに中絶が合法化されていることが問題なのです。

 

マザーテレサは、次のように行っています。

「富める国で中絶を合法化しているのなら、その国は、世界中で一番貧しい国です。」

 

参考図書

「愛国は生と死を超えて」谷口雅春著 日本教文社

動画 

子宮の中で遊んでいる赤ちゃん 13週目

 

台湾在住の楊素秋さんからのメッセージです。

 

日本人は世界で一番素晴らしい人種です。

なぜかというと律儀、嘘を言わない。

 

でも今の日本人と昔の日本人を比べると雲泥の差です。

日本の軍隊は外国に行くときは一番いい軍隊を派遣します。

 

ゲートルを巻いてきちんとした制服、鉄砲をきちっと持って足並みを揃えて歩きます。

 

威風堂々と。

その姿が人々に与えるのは信頼していい、信頼感を与えます。

ところがその兵隊さんたちは、子供達に非常に優しいです。

 

今の人達は、昔の人間が悪かったとか、兵隊さんが悪かったとか言っていますけど、今の人たちの頭の中をもう一度、さらってあげたいくらいです。

 

なぜかというと兵隊さんは国を守るために、命を捨て、家族を捨て、両親や妻や子供を捨てて、敵地に派遣されていきました。

 

自ら戦争をしたくてしたのではありません。

国を守るため故郷を守るためです。

 

その兵隊さんたちがなくては、今の日本はとっくの昔に白人の植民地となっていたでしょう。

 

第二次世界対戦があったからこそ、東洋が守られたのです。

第二次世界大戦というのは、西洋と東洋との戦争でした。

 

白人が東洋人を攻めてきて、自分の国にしたいがために、日本に対して全ての食料とか石油とかインフラの原料をストップしました。

 

そのとき日本本土に住んでいる日本人は非常に貧しかった。

お金がなかった。食物がなかった。そのために世界大戦が起こったのです。

 

その大元は、有色人種と白色人種との戦いだったのです。

 

日本があって初めて東洋が救われたのです。

 

それに比べると、今のシナ人、国民党が台湾に来たときの大変さと比較してみたら、エンジェルと悪魔の違いくらいありました。

 

皆さんはそういう目にあったことがないから、ウワサ話だけを聞いて、日本の兵隊は悪かったと思うけれども、日本の兵隊ほど素晴らしい兵隊はこの世にないと思います。

 

なぜ、日本が戦ったら悪いのですか?

白人が戦っても当たり前。

 

自虐史観を教えている人間に、日本の兵隊は悪いことをした、悪かったというけれども、その証拠を出せますか?

 

今の日本人は、昔国を守った人たちのことを考えたことはないでしょう。

 

靖国神社参拝がなぜいけない?

 

国を守ってくれた守り神になぜ、ありがとうと言えない?

 

そのような方たちは、動物です。人間ではありません。

 

(自分のご先祖様を守ってくれた人たち、自分の生まれ育った国を守ってくれた人たちに対して、感謝できない人は、動物です。

 

その守り神がいなければ、あなたは今この世に生まれていないかもしれないのです。)

 

昔の兵隊が悪い悪いを教えている人たちは、自分がその時代の当時の人間になってみて、戦いに行かなければならない時に、脱走兵になりますか?それとも外国に逃げますか?

 

仮に外国に逃げたとしても、あなたは死んでしまいます。なぜなら、その当時、諸外国は、連合して日本いじめをしていました。

 

そのような時代、立って守ったのは日本の兵隊さんじゃなかったのでしょうか?

 

国家を歌ってはいけない。教育勅語は捨てろ、とは一体なんですか?

 

仮に日本が悪いというならば、そうぞ好きな国に行ってください。

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戦時中、台湾で日本人として教育を受けた楊素秋さんは次のようなことを語っていました。

「私が台湾にあった台南師範学校付属国民小学校で学んでいた時、日本から来た先生が、黒板に大きく”公(おおやけ)”と書きました。そして、黒板の隅に小さく”私”と書きました。

私を小さくして、公のために生きなさいと、それが修身であると。

 

私事は小さくするのが国民の誉れであり、国家と国民のあるべき精神だと教えられました。」

 

参考図書

「心に秘めたる日本への思い」楊素秋 「致知」2016年3月号

「日本の兵隊さんは本当に素晴らしかった」The FACT

 

 

勝つ見込みのない相手に対して、決起した高杉晋作。

討ち死に覚悟で、彼をそこまで行動させたものとは、なんだったのでしょうか?

 

嘉永7年(1854年)2月、高杉晋作は、父と共に黒船が来て騒然としている江戸を訪れました。

 

その後、萩藩に戻り藩校である明倫館に通いました。また、松下村塾に通うようになり、吉田松陰から指導を受けました。

 

文久2年(1862年)、清国の上海を、幕府の派遣団の一人として、視察しました。

 

そこで、高杉は日記(遊清語録)に次のように記しました。

「シナ人は、外国人の役(使役)するところとなれば、憐れむべし。我が邦、ついにかくのごとくからざるを得ず、務めて、これを防がんことを祈る」

 

それまで東アジアの宗主国として君臨していた、清国は、英国など外国の奴隷のような扱いを受けている状況を目の当たりにして、日本も、そうならないようにしなければ、との思いを持ちました。

 

また、「我が日本も末に覆轍(ふくてつ)を踏むの兆しあり」と語りました。

 

覆轍(ふくてつ)とは前任の過ちを繰り返すという意味ですが、このまま江戸幕府に日本の舵取りを任せていては、清国のように欧米の植民地奴隷となってしまうと、痛感しました。

 

高杉は、本来、藩主(殿様)への忠義や親への孝行を重んじていた人であります。

 

「毛利家のための忠臣となりたい」と木戸孝允に手紙を書き送っていたほどです。

 

しかし、江戸での黒船の衝撃、吉田松陰との出会い、そして上海視察を経験して、高杉を倒幕の革命家に変えていきました。

 

元治元年(1864年)7月19日、倒幕を掲げる長州藩が京都に進軍。それに対抗したのは、京都御所を守る薩摩藩、会津藩の軍勢でした。

(禁門の変、蛤御門の変)

 

元治元年7月23日、朝廷は長州藩を追討するように江戸幕府に命じて、江戸幕府は長州征伐に乗り出しました。

 

長州征伐軍に負けた長州藩は責任と取らされ、家老などが切腹させられました。

 

そして、長州藩の中で、長州征伐軍に謝罪して恭順しようとする派閥(俗論党)が台頭しました。

 

高杉は、この俗論党政権を打倒するため、決起しました。

しかし、奇兵隊は高杉の意見に賛同しませんでした。

 

高杉に賛同するもの約80名を率いて、元治元年(1864年)12月15日、下関にあった萩藩の出先機関である会所を襲撃。

(馬関挙兵、功山寺挙兵)

 

下関を制圧した高杉は、20名の決死隊を率いて、三田尻(現在の山口県防府市)にて海軍局を襲撃。

軍艦を手に入れました。

 

元治2年(1865年)1月6日、高杉の決起に対して、それまで傍観していた奇兵隊なども一斉に立ち上がりました。

 

鎮圧に乗り出した俗論党の萩藩の軍勢と衝突して、高杉は勝利しました。

 

高杉の機を見た決起によって、長州藩を幕府に従う方針から、倒幕一辺倒に転換することになりました。

 

慶応2年(1866年)6月、江戸幕府は長州藩と激突しました。

(第二次長州征伐)

 

慶応3年(1867年)4月13日、高杉新作は29歳で亡くなりました。

 

「ここまでやったから、これからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」と死の間際、見舞いに来た同士に繰り返しました。

 

それから半年後の慶応3年(1867年)10月に江戸幕府の15代将軍徳川慶喜が政権返上を朝廷に奉上しました。

(大政奉還)

 

12月に江戸幕府が廃止され、新政権が樹立しました。

(王政復古の大号令)

 

高杉晋作は吉田松陰に次のような質問をしました。

 

「男児たるもの、どんな時に死ねば良いでしょうか?」

 

安政の大獄にて投獄されていた吉田松陰は、その質問に対する答えを次のように書き残しました。

 

「世に身生きて、心死する者あり、身亡びて、魂存する者あり。心、死すれば、生きるも益なきなり。魂、存すれば、亡ぶも損なきなり」

 

たとえ肉体が生きていても、心が死んでいる人がいます。その一方、肉体が亡骸となっても、魂が生きている人もいます。

 

心が死んでいるのなら、肉体が生きていても意味がない。しかし、魂が生きているのなら、たとえ肉体が亡骸となっても価値がある、と。

 

また、吉田松陰は次のように書き残しました。

 

「死して、不屈の見込みがあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし。

 

僕の所見にては、生死は度外におきて、ただ、言うべきをいうのみ」

 

肉体が死んでも、不屈の見込みがあるのなら、いつでも死ぬべきである。

 

また、肉体が生きることで、大業をする見込みがあるのなら、いつまでも長生きするべきである。

 

僕(吉田松陰)は、肉体の生死は度外視して、言うべき意見を幕府に対して遠慮なく言うだけである、と。

 

その遺言通り、吉田松陰は、処刑されることを覚悟の上、幕府に言いたいことを述べて、切腹させられました。(享年 満29歳)

 

しかし、吉田松陰の肉体は亡骸となっても、その魂は高杉晋作など、弟子たちの中に生き続けました。

 

萩藩2、000名の軍勢に対して、わずか80名で決起した晋作。

 

奇兵隊の賛同も得られず、とても勝つ見込みがないとわかっていても、彼は立ち上がりました。

 

「死して、不屈の見込みがあらば、いつでも死ぬべし。」

 

高杉新作は、挙兵して討ち死にしたとしても、そのあとに志を引き継いでくれる人が現れるはずだ、と考えたのでしょう。

 

(参考図書「致知」2017年5月号 致知出版社)

 

昭和21年2月13日、占領軍側として、ホイットニー准将、ケージス大佐、他2名の民政局スタッフ、日本側は、吉田茂、松本烝治、白州次郎が、東京麻布にある外務大臣官邸に集まりました。

 

議題は、憲法改正草案についてです。

 

前年の昭和20年10月25日、マッカーサーの要請により、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)が設置されました。

 

昭和21年2月1日、憲法改正案をまとめた、松本草案が毎日新聞にスクープされました。

 

その記事を見たマッカーサーが激怒。

 

昭和21年2月3日、マッカーサーは、松本草案ではなく、占領軍の民政局に憲法草案をまとめるように指示しました。

 

1週間かけて民政局の職員により憲法草案が作成され、12日マッカーサーに提出されました。

 

ホイットニー准将は、この憲法草案を受託するように日本側に言い渡しました。

 

ホイットニー准将のこの発言に、日本側に人々ははっきりと、呆然たる表情を示した。特に吉田茂の顔は、驚愕と憂慮の色を示した。この時の全雰囲気は、劇的緊張に満ちていた。

 

ホイットニー准将は言いました。

「あなた方がご存知かどうかわかりませんが、マッカーサーは、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています。

 

これまでマッカーサー最高司令官は、天皇を守ってまいりました。それは彼が、そうすることが正義に合すると考えていたからであり、今後も力の及ぶ限りそうするでありましょう。

 

しかしみなさん、マッカーサー最高司令官といえども、万能ではありません。

 

マッカーサー最高司令官は、私に、この憲法をあなた方の政府と党に示し、その採用について考慮を求め、またお望みなら、

 

あなた方がこの案をマッカーサー最高司令官の完全な支持を受けた案として国民に示されても良い旨を伝えるよう、指示されました。

 

もっとも、マッカーサー最高司令官はこのことをあなた方に要求されているのではありません。

 

しかし、マッカーサー最高司令官は、この案に示された諸原則を国民に示すべきであると確信しております。

 

マッカーサー最高司令官は、できればあなた方がそうすることを望んでいますが、もしあなた方がそうされなければ、自分でそれを行うつもりでおります。

 

マッカーサー最高司令官は、これが数多くの人々によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の機会であると考えています。

 

そしてそれは、あなた方が左に急旋回してこの案を受諾することによってのみ、なされうると考えています。

 

そして、もしあなた方がこの憲法草案を受け入れるならば、マッカーサー最高司令官が、あなた方の立場を支持することを期待されて良いと考えております。

 

この憲法草案が受け入れられることが、あなた方が生き残る期待をかけうるただ一つの道であるということは、いくら強調しても強調しすぎることはありません。」

 

松本烝治国務大臣と吉田茂外務大臣は、最後までこの憲法草案の妥協を拒否しました。

 

閣議はまとまらず、天皇陛下の御聖断を仰ぐこととなりました。

 

昭和21年4月10日、戦後初の衆議院議員の選挙が行われました。

戦前の政友会が自由党と改名されて、鳩山一郎を党首にして出馬。

 

自由党は141議席を獲得して、第1党となりました。

 

しかし、鳩山一郎は、公職追放されてしまいましたので、その後任として、吉田茂が党首(総理大臣)となりました。

 

昭和21年6月20日、帝国議会が開会されました。

今のところ、この帝国議会が、大日本帝国憲法下の最後の議会となっております。

 

この議会で、新憲法草案について審議されました。

そこでの最大の争点は、日本の国体についてであり、9条の戦争放棄ではありませんでした。

 

貴族院での審議では、問題の本質に迫る白熱の審議が繰り広げられました。

 

貴族院には有名な憲法学者がおり、彼らは、マッカーサーの圧力に屈せず、良心に従って質疑に参加しました。

 

天皇陛下を”国家元首”、あるいは”主権者”とせず、”象徴”とするのはポツダム宣言の条件に違反するのではないか? 

というのが最大の争点でした。

 

貴族院は昭和21年10月6日に、衆議院は10月7日に新憲法を採択しました。

(戦前の国会は、貴族院と衆議院の2院制でした)

 

昭和21年11月3日公布、昭和22年5月3日、新憲法が施行されました。

 

ところで、それまで施行されていました日本の憲法は、大日本帝国憲法(明治憲法)であります。

 

この明治憲法では、条項改正について次のように規定されています。

 

「明治憲法第73条

 将来、この憲法の条項を改正するの必要あるときは、勅命をもって議案を帝国議会の議に付すべし。

 

2、この場合において、両議院は各々その総員3分の2以上出席するに非されば、議事を開くことを得ず。

出席議員の3分の2以上の多数を得るに非されば、改正の議決をなすことを得ず。」

 

これは、条項の改正であって、憲法改正ではありません。

 

従いまして、憲法の大綱であります「統治の大権」の所在まで変更したり、憲法全文を全て変更してしまうことは、この明治憲法第73条「条項改正」の範囲でできることではありません。

 

しかし、昭和22年5月3日、この明治憲法第73条「条項改正」に基づいて、憲法が改正され施行されてしまいました。

 

実は、昭和22年5月3日の新憲法の施行自体、明治憲法第73条「条項改正」に規定するところと異なるため、「違憲」であるのです。

 

また、明治憲法第75条には次のように規定しています。

 

「憲法及び皇室典範は摂政を置くの間、これを変更することを得ず」

 

占領下において、天皇陛下は統治の大権を完全に遂行することができない状況下に、おかれていました。

 

明治憲法第17条の2項には、次のように規定しています。

 

「摂政は天皇の名において大権を行う」

 

占領期間中、マッカーサー元帥が摂政として、天皇に指示または助言を与え、「人間宣言の詔」や色々の政治上の助言を与えて勅令を出させていた期間であります。

 

マッカーサー元帥は外国人でありますが、事実上、摂政として日本に君臨していたのです。

 

その摂政を置くの間、これを変更することを得ず、と明治憲法第75条に規定してあるのですから、米国製の作文である「新憲法」はこの第75条にも抵触してしまうため、「違憲」となります。

 

よって、この米国製の翻訳憲法は、占領期間中の米軍の圧力下によってのみ有効なものであって、サンフランシスコ講和条約が締結された時点で、実は無効となっているのです。

 

しかし、その翻訳憲法が、まるで今現在も有効であるかのように通用しています。

 

なぜでしょうか?

 

あなたがいつも使っているお札。このお札にはなんと書いてあるでしょうか?

 

「日本銀行券」と書いてあります。

 

”日本銀行”は、”日銀”と省略して言われます。

 

しかし、あなたがお使いのお札には”日銀券”とは書かれていません。

 

もし、”日銀券”と書かれていたら、そのお札は、偽札ということになります。

 

一方、現在通用していると言われている憲法には、なんと書かれているでしょうか?

 

「日本国憲法」と書かれています。

 

しかし、実は、今の日本の正式な国号は「大日本帝国」であります。

「日本」でもなければ「日本国」でもありません。

 

国号を「大日本帝国」から「日本国」に改正することは、国会で今まで一度も議決されたことはありません。

 

従いまして、今でも日本の正式な国号は、「大日本帝国」なのです。

 

でも、パスポートには、”日本国”と書いてあるから、国号は’日本国”でしょう、と思う人がいると思います。

 

天皇が、国家の表徴として外国文書など、国家の重要文書に押印する印鑑を、国璽(こくじ)と言います。

 

その国璽(こくじ)には、明治7年から使われているものを今でも使用しています。

 

そこ国璽(こくじ)の印影は、”大日本国璽”となっています。

 

では、:大日本”が国号かと言うとそうではありません。

 

大日本帝国憲法が発布されていた時代を通して、使われていました国璽ですので、印影は”大日本国璽”となっていても、その意味合いは、”大日本帝国”と言うことになります。

 

普段、新聞やテレビ、会話においては、略称である”日本国”とか”日本”と言うことはありますが、憲法という国の根本基本法には、俗称ではなく正式名称をつける必要があります。

 

日本の国号である「大日本帝国」を省略して記載された「日本国」憲法は、偽札ならぬ、偽憲法ということになります。

 

また、先ほどの明治憲法第73条「条項改正」には、「将来、この憲法の条項を改正するの必要あるときは、勅命をもって議案を帝国議会の議に付すべし」とあります。

 

これは、憲法を改正するには、帝国議会の議決を必要としているのです。

 

しかし、今の日本国憲法の憲法前文には次のように書かれています。

 

「日本国民は、正当に選挙された”国会”における代表者を通じて行動し、………この憲法を確定する」と書かれています。

 

”帝国議会”の議に付さなければならないのを、「国会における代表者を通じて行動し」と書いてあるのです。

 

もっとも、昭和21年6月20日から10月6日にかけて、帝国議会の貴族院にて、この新憲法の草案について審議をしました。

 

しかし、貴族院議員たちは、この草案を通過させないつもりでいました。

 

時間稼ぎをして、時間切れで審議未了とし、流してしまう計画だったのです。

 

ところが、時間切れとなるその日の午後12時5分前になった時に、帝国議会の全ての時計が、全部止まってしまいました。

 

これは、議事の進行を見守っていた占領軍が、意図的に全ての時計を止めてしまったのです。

 

これにより、いつまでたっても時間切れにならない、ということになりました。

 

このような占領軍による妨害や押し付けにより、形式的にですが、無理やり議会を通過させてしまったのです。

 

明治憲法の発布の告文(おつげふみ)には、次のように書かれています。

 

「皇祖、皇宗の遺訓を明徴にし、典憲を成立し条章を昭示し、内はもって、子孫の卒由するところなし、外はもって臣民翼賛の道を広め、永遠に遵行せしめ益々国家のひ基を強固にして、八洲民生を慶福を増進すべし」

 

現代語訳

「皇祖、皇宗が遺して下さいました訓戒をはっきりと明らかにしたうえでさまざまな規則を作り、

 

条章を明らかにして、国内に対しては子孫がこれらの規則から外れないようにし、外国に対しては臣民の一人一人が私を補佐してくれることが大事なのだということを広め、

 

永遠に遵行を行いさらなる国家の基盤を確固たるものにし、この日本に住む臣民の生活レベルの幸せを増進するべきでしょう。」

 

 

また、大日本帝国憲法 上諭には次のように規定してます。

 

「ここに、大憲を制定し、朕が率由するところを示し、朕が後嗣傘及び臣民親び臣民の子孫たる者をして永遠に循行する所を知らしむ」とあります。

 

現代語訳

「それを行うために天皇大権を制定し、私が前例にそむくようなことがないことを示し、

 

私か、私の後継ぎである天皇に対して、臣民か、その子孫は、永遠に命令にそむくようなことがないことだと理解してほしい。」

 

明治憲法は永遠に引き継がれて子々孫々に至るまで、それに従い実践すべき根本法であります。

 

大日本帝国憲法 発布勅語には次のように書かれています。

 

「朕、国家の隆昌と臣民の慶福とを以て中心の欣栄とし、朕が祖宗に承来るの大権に依り、現在及将来の臣民に対し、此の不磨の大典を宣布す。

 

惟ふに我が祖我が宗は、我が臣民祖先の協力輔翼に倚り我が帝国を肇造し以て無窮に垂れたり。

 

此れ我が神聖なる祖宗の威徳と並に臣民の忠実勇武にして国を愛し、公に殉ひ以て此の光輝ある国史の成跡を貽したるなり。

 

朕我カ臣民は、即ち祖宗の忠良なる臣民の子孫なるを回想し、其の朕が、意を奉体し朕が事を奨順し相与に和衷協同し、

 

益々我が帝国の光栄を中外に宣揚し、祖宗の遺業を永久に鞏固ならしむるの希望を同くし、此の負担を分つに堪ふることを疑はざるなり」

 

現代語訳

「私は、国家のさらなる発展と、日本臣民の幸せをもって、喜ばしき栄光の中心を占めるものとし、

 

これまでの歴代天皇の方々から、私に授けられた大権によって今生きており、将来生まれているすべての日本臣民に対して、この不磨の大典を広くすべての者たちへ発表する。

 

考えてみれば、私の先祖の方々は、今いる臣民の祖先の協力や助けを信頼し、この大日本帝国を創造し永久の模範としてくだされた。

 

このことは、私の神聖である祖先の威厳と人徳が高かったのと同時に、臣民の忠実で勇武で国を愛し、

 

国のためならば命を捨てることもいとわない、という行いによって、この光り輝かしい栄光に満ちた日本国史を作り上げた。

 

私は、臣民が祖宗の良き臣民の子孫であるということを思い開始、その私がその意味を理解し実行し、私が種々雑多なことを導き、互いに心より打ちとけ合い、

 

互いに同行し、さらなるこの帝国の光栄を国の内外に対して示していき、祖宗がいまだに未完成ながらも残してくださったものを永久に強くしていくことを希望し、

 

これらの負担を互いに分かち合っても耐えられるということは、疑いの余地がない」

 

大日本帝国憲法は、不磨の大典であり、不朽、不滅のものであります。

 

大日本帝国憲法 上諭「統治の大権」には次のように示されています。

 

「国家統治の大権は朕がこれを祖宗に承けて、これを子孫に伝うる所なり。朕及び朕が子孫は将来この憲法の条章に従い、これを行うことを誤らさるべし」

 

現代語訳

「国家統治の大権は、私の祖宗から私が受け継いだもので、私から私の子孫へ受け継がせるものである。

 

私と私の子孫は、将来にわたりこの憲法の条文に従い、実行を続けていくことに関して、間違えることがないことを願っている。」

 

明治憲法の大綱には、決して改正してはならないということが、根本的に明記されているのです。

 

参考図書

「続 占領憲法下の日本」谷口雅春著 日本教文社、

「国のいのち 人のいのち」谷口雅春著 日本教文社、

「日本永久占領」片岡鉄哉著 講談社

 

 

 

唯物論教育を受けた、ある成績優秀の高校生が、弟を殺害した事件がありました。

 

少女の名はダイアナ。彼女の父親は慢性の胃潰瘍を患っていました。

 

いつも痛い痛いと言いながら、仕事に出かけて、夜帰宅すると、疲れたと言って、とても辛そうにしていました。

 

母親は、夫が病弱でいつ死ぬかわからなかったので、少しでも蓄えをしようと、働きに出て、夕方帰宅して夕飯の支度をするという多忙な日々を送っていました。

 

両親とも、辛い、疲れた、くたびれた、痛い、と言ってため息ばかりついていました。

 

唯物論の教育を受け、学校でも成績の良いダイアナは、両親のこのような状況をいつも見ていて、かわいそうでたまりませんでした。

 

ある時、”父母を救済しよう”、と考えました。

 

彼女は父親が健康な時に使っていた猟銃を取り出し、実弾を込めました。

 

これで”父母を救済しよう”と考えたのです。

 

彼女は父母が苦しんでいるのは、脳髄という組織が複雑に組織されているからだ。だから、その物質を銃殺によって破壊さえすれば、父母は苦しまなくてすむ、と考えたのです。

 

玄関にて帰りを待っていたら、弟が帰宅してきました。

ダイアナは、まず両親の前に弟を救済しようと、猟銃で射殺しました。

 

弟の遺体を毛布でくるみ隠しました。

次に母親が帰宅しました。

 

母親はいいました。

「さっき弟が帰ってきたはずだけど、どこにいるの?」

 

ダイアナは答えました。

「弟はいないよ」

 

母親は、そんなはずはない、さっき家の近くから弟が帰宅するのを見た、と言いました。

 

家の中を探すと、部屋の片隅に毛布が置いてあるのに気づきました。

 

その中を開けると血塗れになった弟の姿がありました。

全てを悟った母親の前に、ダイアナはひざまずき泣きました。

 

唯物論者が平気で残虐なことをするのは、物質としての人間は殺されてしまえば、それでそのひと自身は平和を得て救済されることになると考えるからです。

 

 

平成28年7月、相模原にある障害者施設にて19人を殺害する事件が起きました。

 

犯人は「重複障害者が生きていくのは不幸。不幸を減らすためやった」「障害者は不幸を作る」などと供述。

 

彼は、唯物論を学校で学んてきために、このような発想を持ってしまったのでしょう。

 

昭和34年(1959年)から、サリドマイドが入った薬を、つわり防止に妊婦が服用したために、腕が未発達の奇形児(サリドマイド児)が生まれてきました。

 

その製薬会社と、そのような薬剤を発売することを許可した厚生省(当時)の責任が問われました。

 

一方、終戦後、唯物論の学校教育を受けることで、精神的な奇形児(殺人事件を起こすような人)が生まれるようになりました。

 

その発生原因となっているのは、「学問の自由」(唯物論教育の自由)を規定している日本国憲法(占領憲法)であります。

 

このような憲法を、占領時に制定した当時の内閣閣僚及び国会議員は、19人殺人事件の被害者家族と、そのような精神的奇形児に教育させられてしまった両親に対して、賠償責任があるのではないでしょうか?

 

肉体的奇形児を生み出す物質的薬剤の害毒よりも、精神的奇形児を生み出し続けている、赤教育を放任している占領憲法(日本国憲法)の害毒は、

 

数百人の災害ではなく、国家を崩壊にまで導いてしまうほどの影響力があります。

 

「あなたたちは、両親の快楽の結果、副産物として生まれてきたのです。両親が快楽を満たすために、この辛く厳しい競争社会に生まれてきたのです。

 

したがって、あなたたちは被害者であり、両親を訴えても良いくらいなのです。」

 

などと、学校で教育している唯物論教師もいるそうです。

 

そのような赤教育を放任している、学問の自由を規定した占領基本法(日本国憲法)。

 

占領軍は、この憲法さえ日本に押し付けておけば、やがて日本民族は精神的及び生理的に敗退し、私利私欲を公(おおやけ)よりも優先させるだろう。

 

そして、内部闘争を次第に一層激化させて、ついに内部から自己崩壊するに違いない、と考えて憲法に仕組みました。

 

このような憲法は、占領者の定めた日本国崩壊法に過ぎないので、速やかに無効であると宣言して、明治憲法を復元した上で、現在の状況に合う形に補筆すれば大丈夫であります。

 

そうすれば、唯物論による学校教育によって、生み出されている精神的奇形児がいなくなり、凶悪な殺人事件も防止することができるでしょう。

 

(参考図書「国のいのち 人のいのち」、「いのちの革命」谷口雅春著 日本教文社)

 

 

昭和20年8月9日、長崎に原爆が落とされました。

 

終戦後の昭和20年9月22日、海兵隊が、占領軍として長崎県佐世保市に上陸しました。

 

そして、海兵隊の中の記録班が、長崎の原爆の投下された街(グラウンド ゼロ)を写真撮影して周りました。

 

その記録班の中で、軍規に違反して、決められたカメラではない自分のカメラを持ち込んで、長崎の街の様子を写真撮影した兵隊がいました。

 

彼は、許可なく日本人を撮影してはならないと決められていましたが、密かに爆心地にいた日本人を撮影していきました。

 

多くの子供が、親を亡くしていました。

 

生き延びた子供は、幼い弟や妹を親代わりに育てていました。

 

彼は、救護所に行きました。そこにいたけが人は、耳も鼻も眉毛も髪の毛もありませんでした。そのけが人は米兵をみて言いました。

 

「あなたは敵の兵隊ですね。私を殺してください。」

 

その米兵は言葉を失い、その場を離れました。

 

彼(ジョー・オダネル)は語りました。

「傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に対する憎しみが消えていった。憎しみから憐れみに変わっていった」

 

彼は、多くの米国人同様、日本の真珠湾攻撃を聞いて、日本に憎しみを持ち、海兵隊に志願しました。

 

しかし、長崎の惨状を見て回るうちに、日本人への感情が変わっていったのです。

 

彼は語りました。

「川のほとりにあった火葬場に、少年が歩いてきました。彼は背中に幼い弟を背負っていました。

 

その火葬場にいた二人の男が、弟を背中から外し、そっと炎の中に置いた。彼は黙って立ち続けていた。

 

まるで敬礼をしているかのように。

 

炎が彼のほおを赤く染めていた。

彼は泣かず、ただ唇を噛み締めていた。

 

そして、何も言わず立ち去っていった」

 

また、次のように語りました。

「被爆者たちの体をうごめくウジ虫。助けを求める声。鼻を突く異臭。私は、長崎でみた光景を思い出すまいとした。

 

しかし、私の頭から離れることはできなかった。眠ろうとしても眠れない。私は長崎で撮影した写真を見ることができなかった。」

 

彼は戦後40年以上もの間、長崎で撮影した写真を、家族にも見せることなく封印してきました。

 

トルーマン大統領は、日本への原爆投下について次のように声明を発表しました。

 

「原爆投下は、戦争を早く終結させるために使用した。多くの若い米兵の命を救うためだった。」

 

ジョー・オダネルは、トルーマン大統領に質問しました。

「大統領、あなたは日本に原爆を投下したことを、後悔したことありませんか?」

 

トルーマン大統領は次のように答えました。

「それはある。しかし原爆投下については、私のアイデアではない。単に、前大統領であるルーズベルトの決断を引き継いだだけだ。」と。

 

今でも、多くの米国人は、原爆投下は正しかったと考えています。

 

なんの罪のない民間人を、一度に10万人も大虐殺した米軍。

 

長崎大虐殺、広島大虐殺、焼夷弾の空襲による東京大虐殺など、数えればキリがないほど、米軍による日本の民間人に対して行われた、大虐殺。

 

亡くなった弟を背中に背負い、無言で直立不動の姿勢をとっていた兄。

 

歯を食いしばり、立ち尽くしていた兄。

 

母親も亡くし、父もいなくなり、弟も亡くし、一人だけ生き残りました。

 

彼は、一人、爆心地で何を思っていたのでしょうか?

 

 

 

 

昭和8年2月、ジュネーブにある国際連盟は、満州国の主権を国民党政府(蒋介石軍閥政府)にあると判決しました。

 

これは、合法だったのでしょうか?

 

1644年、満州人が万里の長城以北から南下してきて支那地域を侵略し、清国を建国しました。

 

その後、清国は蒙古、満州(現在の中国東北部)、チベット、東トルキスタン、支那(現在の華北、華中、華南)の地域を支配下に納めてました。

 

満州人は清国の首都を北京に定めると、故郷である満州を封禁の地として厳しい移民法を定めて、漢民族の立ち入りを制限しました。

 

しかし、明治37年(1904年)の日露戦争以降、支那地域から満州に漢民族が大量に移住してきました。

 

満州と支那との法的な関係は、明治44年までは、何も問題ありませんでした。

 

明治45年(1912年)2月11日、清国の崩壊に伴い、清国政府と孫文(支那共和国臨時政府)との間で、”清国皇帝退位協定”というものが調印されました。

 

この”清国皇帝退位協定”とは一体どういうものでしょうか?

 

清国皇帝の優待条件について規定されたものであり、また、満州族、蒙古族、イスラム教族(回族)、チベット族の権利についても規定されました。

 

第1条 退位後、清国皇帝はその尊号をなお有し、支那共和国は外国君主としての礼を持って待遇する。

 

第2条 退位後、清国皇帝の位にあるものは、支那共和国より年4百万両の年金を受領するものとし、新貨幣改寿後は、その金額を4百万ドルとする。

 

第3条 退位後、清国皇帝は当面紫禁城に居住し、その後、頤和園に映るものとし、護衛兵は従来のままとする。

 

第4条 退位後、清国皇帝は宗廊寝陸において、永遠に祭事を執り行うものとし、支那共和国より、護衛兵を置き保護する。

 

第5条 徳宗皇帝の陸は未だ竣工せず、造営は元の計画通り遂行されるものとし、先帝のご遺体を新陸へ移御する祭事は、原案通り行われるものとし、かかる経費は支那共和国がこれを負担する。

 

第6条 皇室の使用人は従来通り雇用するが、新たな臣官は任命できない。

 

第7条 退位後、全ての私有財産は、支那共和国によって尊重され、保護されるものとする。

 

皇族について

 

第1条 清国王公その他の爵位の称号は従来通りとする。

 

第2条 清国皇族は、支那共和国において他の市民と同等に、公私の権利を有する。

 

第3条 清国皇族の私有財産は適切に保護される。

 

第4条 清国皇族は、兵役の義務を免ぜられる。

 

満州族、蒙古族、イスラム教族(回族)、チベット族の権利について

 

第1条 各族は、漢族と完全に同等とする。 

 

第2条 各族はその私有財産を保護される。

 

第3条 王公その他の爵位の称号は従来通りとする。

 

第4条 生計困難の王公は生活費を支給される。

 

第5条 八旗の生計に関する定めは速やかに決定するものとするが、かかる定めがなされるまでの間は八旗の俸給は従来通り支払われる。

 

第6条 各族に対する交易及び居住制限は廃止され、今後各省県に自由に居住することを認められる。

 

第7条 満州族、蒙古族、回族、チベット族、各族は、完全に信仰の自由を有する。

 

この清国皇帝退位協定は、北京に駐在していた日本を含む欧米列強各国に伝達されました。

 

つまり、漢民族と満州族など他の部族の立場は同等であり、支配者、被支配者という従属関係はないと規定されています。

 

また、清国皇室は、その身分が保証され、当面、北京にある紫禁城に滞在することを認められていました。

 

その後、大正10年(1921年)12月13日、米国ワシントンにて開かれた軍縮会議にて、”支那に関する9カ国条約”が締結されました。

 

9カ国とは、米国、英国、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、支那(Republic of China)となります。

 

9カ国条約の第一条には次のように規定されています。

 

第一条(1)支那国の主権と独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること。

 

(2)支那国が実効性を有し、かつ安定した政府を自ら確立し、維持するために、最も安全で、かつ最も障壁のない機会を提供すること。

 

(3)”支那国の国土全体において”、あらゆる国による商取引及び工業の機会を均等する原則を有効に確立し、維持するために各国は尽力すること。

 

この支那に対する9カ国条約における”支那”とは一体どの地域を指すと思われますか?

 

かつて清国が統治していた、蒙古、満州(現在の中国東北部)、チベット、東トルキスタン、支那(現在の華北、華中、華南)の地域でしょうか?

 

実は、この”支那”についての定義を明確に規定しないまま、9カ国条約は調印されてしまいました。

 

第一条(3)に、”支那国の国土全体において”と規定されており、これは無制限の拡大解釈の余地を与えてしまう危険がありました。

 

日本国全権の幣原喜重郎はこのことに気づき、ワシントン会議の議長であるヒューズ(米国国務長官)に質問しましたが、曖昧な回答で終わってしまい、幣原もそれ以上深く追求することをせずに、条約を受け入れてしまいました。

 

また、フランス全権ブリアン首相が、「”支那”とはどこを指すのか明確に定義すべきである」と提案しましたが、ヒューズ米国国務長官はこの提案を拒否。

 

この結果、その後、日本が満州で行った行為を全て、9カ国条約に違反するとして、欧米列強から断罪されてしまうこととなりました。

 

清国が崩壊したのち、清国が統治していた地域は、複数の軍閥による軍事独裁政権によって内乱状態となっていました。

 

その一つが国民党政府(蒋介石軍閥政府)となります。

また、満州を支配していたのは張作霖軍閥であり、その死後は、張学良軍閥でした。

 

欧米列強は、この国民党政府(蒋介石軍閥政府)を支那全土を統治している支那共和国(Republic of China)として、承認していました。

 

昭和6年(1931年)、柳条湖事件をきっかけにして日本陸軍(関東軍)が、満州を支配していた張学良軍を追い払い、満州全土を制圧。(満州事変)

 

昭和7年3月1日、満洲国の建国が宣言され、国家元首にあたる「執政」には、清朝の遜帝である、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が就任しました。

 

昭和7年3月9日に、溥儀の執政就任式が新京で行なわれました。

 

昭和7年(1932年)3月、国民党政府(蒋介石軍閥政府)の提訴により、国際連盟により派遣されたリットン調査団が、満州に入り約5ヶ月間調査して、9月に報告書を国連に提出。

 

昭和8年(1933年)2月、ジュネーブの国際連盟の特別総会において、審議(裁判)が開始されました。

 

漢民族である国民党政府(蒋介石軍閥政府)は、満州へ移住してきた漢民族による、満州の土地の所有権を盾にして、満州の領土の主権を主張しました。

 

当時の満州国の人口は2800万人であり、そのうち移住してきた漢民族は約500万人でした。

 

国民党政府(蒋介石軍閥政府)は、満州の住民のうち、漢民族の割合は9割8分であると主張しました。

 

国際連盟における審議(裁判)の結果、その主張が認められて、昭和8年2月24日、満洲国の存続を認めない勧告案(「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」)が採択。

 

満州は国民党政府(蒋介石軍閥政府)の領土である、という審判が下されたのです。

 

欧米列強は、漢民族である国民党政府(蒋介石軍閥政府)を、9カ国条約において、支那の統一した中央政権であるとみなしていました。

 

そして、かつて清国へ忠誠を誓っていた、蒙古族、満州族、チベット族、イスラム教族、トルキスタン族など、独立した民族が、その独立権を国民党政府(蒋介石軍閥政府)に譲渡したとみなしました。

 

しかし、清国政府と孫文(支那共和国臨時政府)との間で締結された、”清国皇帝退位協定”において、蒙古族、満州族、チベット族、イスラム教族(回族)、トルキスタン族は、漢民族と同等であると規定されています。

 

欧米列強が、”清国皇帝退位協定”を無視して、特定の民族(漢民族)の軍閥である蒋介石軍閥政府を、支那を統一した国家とみなした、9カ国条約。

 

この9カ国条約を根拠として、日本が建国した満州国は違法であると断罪されました。

 

そして、蒋介石軍閥政府が満州の領土を保有することを、合法化されてしまったのです。

 

(参考図書「満州国建国は正当である」ジョージ・ブロンソン・レー著 PHP)

 

 

 

昭和15年(1940年)リトアニアの領事代理であった杉原千畝は、ナチスドイツから逃れてきたユダヤ人へ、日本を通過するビザの発給(命のビザ)をしました。

 

その数、約6、000名。

 

しかし、そのビザにより許可された日本滞在期間は、わずか3日から10日間でしかありませんでした。

 

その間に、日本から米国や上海などへの出国手配などをしなければなりませんでした。

 

現在のようにインターネットもなく、代行業者もほとんどいない時代、しかも戦時中です。言葉もわからず文化も異なる日本で、ユダヤ難民たちが、そのような手配をすることは極めて困難でした。

 

もし、許可された滞在期間中に、日本から出国手配ができなかったら、ドイツへの強制送還されてしまう可能性がありました。

 

その先は、強制収用所へ入れられ、シャワー室という名の毒ガス室にて大虐殺が待っています。

 

そのような状況にあったユダヤ難民を助けた、ヒーローがいました。

 

その人の名は、小辻節三博士です。

 

彼は、どのような人だったのでしょうか?

 

日本の旭川にあるキリスト教の教会の牧師として働いていましたが、ユダヤ教に興味を持ち、聖書を一から学びたいと米国留学を決意しました。

 

渡航費用や留学費用はありませんでしたが、妻が着物を売ってその費用を捻出しました。

 

生まれたばかりの赤ん坊を連れて、ニューヨークに渡り、そこの宗教大学に通いました。

 

その後、中古車で東海岸から家族で大陸横断して、西海岸のカルフォルニア州に渡り、バークレーにあるパシフィック宗教大学に通いました。

 

まだフリーウエイが整備されていない時代に、途中で何度も故障した車を修理しながらの旅でした。

 

小辻さんは、パシフィック宗教大学で4年間通い、博士号を取得した後、日本へ帰国しました。

 

昭和9年(1934年)10月から銀座の聖書館ビル8階で、「聖書原典研究所」を設立し、都内の大学生たちにヘブライ語と旧約聖書を教え始めました。

 

しかし、これをよく思わない人たちから嫌がらせを受け、3年後に閉鎖することになりました。

 

しばらくして、「国際政経学会」という団体から頼まれ、翻訳の手伝いをするようになりました。

 

しかし、この団体は、反ユダヤ主義の目的のために、ナチスドイツによって作られた宣伝(プロパガンダ)組織でした。

 

日本人に反ユダヤ思想を植え付けようとしていたのです。

 

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人が世界征服を陰謀しているという、根も葉もないものでした。

 

小辻は、そのことに気づき、その「国際政経学会」からの仕事を辞めました。

 

昭和13年(1938年)南満州鉄道(満鉄)の総裁であった、松岡洋右から満鉄総裁のアドバイザーとして招かれました。

 

当初、小辻は固辞しましたが、約半年近く松岡から執拗に依頼が届いたので、その申し入れを受けました。

 

松岡がなぜそこまでして、小辻を必要としたかというと、昭和13年2月に満州とロシア(ソ連)との国境付近のオトポールという町で、ユダヤ難民約2万人がナチスドイツから逃れて、押し寄せてくる事件がありました。

 

関東軍(日本陸軍)の樋口季一郎少将と東條英樹中将の働きにより、ユダヤ難民は満州国に入国することができて、満州国のハルビンや、上海に住むようになりました。

 

満州国にとってユダヤ問題は大きな問題となっていたのです。

そこで、松岡は、ユダヤ教やユダヤ人が話すヘブライ語に詳しい小辻を、アドバイザーとして招聘しようとしたのです。

 

昭和13年10月小辻は、家族とともに満州の大連に移住しました。

 

昭和14年(1939年)12月、満州国のハルビンで、第3回極東ユダヤ人大会が開催されました。

 

この大会は毎年開催されていましたが、この第3回大会において、小辻は満鉄を代表してスピーチしました。

 

そのスピーチは、ユダヤ人でも理解しにくい古典的な言い回しを流暢に使ったヘブライ語で行われました。

 

ヘブライ語を流暢に使う日本人学者が極東にいるという話が、世界中のユダヤ人社会に瞬く間に広がりました。

 

この時のスピーチの日本語訳原稿は以下の通りです。

ーーーー

カウフマン会長、極東ユダヤ代表諸賢、満場の紳士淑女の皆様。

 

極東ユダヤ大会に今年もまた出席して、素晴らしき過去の歴史を有する、みなさんの父祖の言語たるヘブライ語をもって、一場の演説をなし得ることは私の誉れとするところであります。

 

世界が騒乱に満ちている現下において、本大会がかくも平和なる環境の下に開かれたることは、誠にみなさんにとって意義深いことであるのみならず、

 

また、全世界のユダヤ人にとっても何物かを暗示するものでなくてはなりません。

 

もちろん、この一回の大会が複雑なユダヤ問題をたちまち解決するものではありません。

 

しかし、私は、ここに預言者イザヤのメイクを引用してみなさんを慰めたいと思います。

 

「見よ、暗き地を覆い、闇は諸処の民を覆わん。

されど、汝の上にはエホバ照りいて給いて、

エホバの栄光、汝の上に現るべし。」

(旧約聖書 イザヤ書60章2節)

 

「我シオンの義、朝日の輝きのごとくにいて

エルサレムの救い、燃ゆる松火のごとくになるまでは

シオンのために黙さず、

エルサレムのために休まざるべし」

(旧約聖書 イザヤ書62章1節)

 

私は、みなさんが「幻なければ民滅ぶ」という古典の格言を記憶せらんことを希望し、世界の現状に失望することなく、「心を強くしかめつ勇め」と申し上げたい。

 

私は、また、今後とも大いなる同情を持って、ユダヤ人問題を眺めるでありましょう。

 

願わくば、有意義な行動において繁栄を致され、この極東において正順なる一大集団となられんことを希望するものであります。

 

私は、また皆様が日満両帝国の秩序と法制とを愛し、これに従うことによって、安居栄楽し、長く極東において恩恵によくされんことを望んで止みません。

 

終わりに臨み、ユダヤの旗が近き将来に独立国としてのイスラエルの地に誇らしく翻るにいたらんことを心から希望するものであります。」

ーーーーー

 

昭和14年(1939年)松岡は満鉄を退任して、日本に帰国し、近衛内閣の外務大臣となりました。

 

小辻も、松岡の後を追うように、満鉄調査部顧問の職を辞して、日本に帰国しました。

 

昭和15年(1940年)7月19日、リトアニア国カウナス日本領事館に、ポーランドからナチスを逃れてきたユダヤ難民たちが押し寄せてきました。

 

領事代理の杉原千畝は、日本外務省にビザ発給の打診をしますが、当時の外国人入国取締規則において、渡航費用と日本での滞在費用を所持していること、行き先国の入国許可があることが、ビザ発給の条件とされていました。

 

しかし、杉原は、渡航費用が確認できない場合や日本への入国許可がない場合でも、独断で、日本への通行ビザの発給を開始しました。(命のビザ)

 

そのため、外務省から注意を受けることとなりましたが、譴責処分を受けたことはありませんでした。

(外務省が、出先の領事館に対して、注意をすることは珍しいことではありませんでした)

 

このユダヤ難民の中に、ミール神学校の生徒たち350人が含まれていました。

 

神学校は当時のヨーロッパに多数作られており、そこでは旧約聖書を学び、ユダヤ教(タルムード)を学ぶエリート集団でした。

 

しかし、ナチスドイツは、その神学校を徹底的に破壊して、その教員と生徒たちを虐殺してしまいました。

 

このことはユダヤ民族の死を意味していました。

 

その中で奇跡的に、ポーランドのミールという町にあった、ミール神学校のほぼ全員が極東に逃れることができたのです。

 

ユダヤ難民はシベリア鉄道に乗って極東に向けて大陸を横断していきました。

 

途中、ソ連の秘密警察NKVDに捕まり、シベリア強制収容所に送られた人もいました。

 

11日目にようやく、ウラジオストクに到着。ここから船に乗り、日本の福井県敦賀に向かいました。

 

しかし、ウラジオストクからユダヤ難民を乗船させないようにと、駐在ウラジオストク日本総領事に、日本外務省から次のような通達が送られていました。

 

「日本の官憲がヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、あなたのところやソ連の大使館でもう一度調べて、

 

行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗る許可を与えること」

 

ユダヤ難民たちは、ナチスドイツに強制送還されてしまう危機に陥りました。

 

その時、根井三郎総領事代理が外務省からの通達を無視して、乗船を許可しました。そればかりか通行ビザを持っていない難民に対しても日本への渡航許可証を発行しました。

 

「逃げてきた人たちがここにまでやって来たからには、もう引き返すことができないというやむを得ない事情があります。

 

日本の領事が出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどりついたというのに、行先国が中南米になっているというだけの理由で一律に船に乗る許可を与えないのは、

 

日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになるのでまずいと思います」と根井領事代理は日本外務省へ電信しました。

(1941年3月30日付 本省への抗議の電信)

 

根井三郎の人道的な英断によって、ユダヤ難民を乗せた船は、日本の敦賀に向かいました。

 

リトアニアからの命のビザは繋がれました。

 

敦賀に上陸したユダヤ人の一人は、「敦賀のまちが天国に見えた」と回想しています。(「自由への逃走」(中国新聞社会部編)

 

何日もシャワーに入っていない難民たちのために、銭湯の主人が一日解放しました。

 

食べ物がなくお腹をすかせた難民にリンゴを与えた少年もいました。

 

船の中で出産した女性と赤ん坊に対して、適切な処置を施した医師と看護婦がいました。

 

敦賀に上陸したユダヤ難民たちの多くは汽車で神戸に向かいました。

神戸には、少数ですがユダヤ人コミュニティがあったからです。

 

ユダヤ難民たちが手にしていたビザの渡航先は、オランダ領キュラソーという場所になっていましたが、多くのユダヤ人が米国への渡航を希望していました。

 

しかし、日本滞在期間はわずか数日から10日間しかありません。

 

ユダヤ人代表が、日本の行政に滞在期間の延長を申し入れましたが、却下されてしまいました。

 

途方にくれたユダヤ人たち。せっかく日本までたどり着けたのに、ここで滞在期間をすぎてまで日本に残るということは、ナチスドイツへの強制送還されてしまう可能性が迫ってきてしまいます。

 

なぜなら、当時の日本はドイツと同盟を結んでいました。ナチスドイツから、これ以上、ユダヤ人の受け入れをしないようにと圧力をかけられていたからです。

 

外務省が、ユダヤ難民の受け入れに消極的だったのはそのためです。

 

その時、あるユダヤ人代表であるポネビジスキーが、一人の日本人の名前を思い出しました。

 

それは小辻節三でした。

 

彼は、満州国ハルビンで行われた極東ユダヤ人大会に参加しており、そこで小辻のヘブライ語での演説を聞いていました。

 

彼からの手紙を受け取った小辻は、直ちにユダヤ人代表と会い、今までの経過の説明を受けました。

 

問題は3つに集約されました。

 

一つは、滞在期間の延長です。

 

もう一つは、ウラジオストクから日本への通過ビザを持たない難民72名が、渡航許可証を発行してもらったけれども、敦賀港に上陸することができずに船の中に滞在している。

 

その人たちの日本への入国を許可してほしいということ。

 

もう一つは、ユダヤ人と日本人の文化の違いによる、住民との摩擦の解消でした。

 

「義を見てせざるは勇なきなり」

 

これは、小辻が子供の頃に武士道を通して学んだことわざでした。

 

問題から逃げてはならない。

小辻は早速、行動を開始しました。

 

小辻は東京の外務省内を駆け回り、なんとか72名のユダヤ難民の敦賀上陸の許可を取り付けました。

 

次の問題は、滞在期間の延長です。

満鉄でお世話になった松岡外務大臣と面会をしました。

 

松岡は、ドイツとの同盟関係があるので、あからさまにユダヤ人を保護することはできないと言われてしまいました。

 

外務大臣としての松岡洋右の立場は微妙でした。

 

しかし、これからは外務大臣としてではなく、個人的に話すと松岡は切り出し、

 

「避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部(現在の警察庁に該当)に管轄が変わり、滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている。

 

各地方長官の行うことには外務省は見て見ぬ振りをする。」と。

 

早速、小辻は神戸に飛び、ビザ延長の権限を持っている神戸管轄の警察署に対して、どのように説き伏せようか思案を巡らしました。

 

何度も警察署に通い、ユダヤ人の窮状を説いたおかげで、10日間のビザを1回につき15日ずつ延長する許可を出してもらうことになり、その申請を数回すれば、ユダヤ難民たちは長期間、日本に滞在することが可能となりました。

 

三つ目の文化の違いによる問題は、個別対応で、地元の人に説明することで理解がえられるようになっていきました。

 

昭和16年4月ごろから、徐々に難民たちは日本を出国し始めました。ビザがある人は米国に、ビザがない人はビザの必要がない上海に向かいました。

 

また、ナチスドイツの親衛隊将校である、ヨーゼフ・マイジンガーが、1941年4月に東京の駐日ドイツ大使館に派遣されてきました。

 

「ワルシャワの屠殺人」の異名を取ったマイジンガーは、ポーランドのワルシャワで、10万人とも言われるユダヤ人を大虐殺しました。

 

彼は、日本の憲兵隊と緊密に連絡を取り合い、反ユダヤ人活動を行いました。

 

特に、上海に渡ったユダヤ人を虐殺するように日本政府に要求しましたが、日本政府はその要求を拒否しました。

 

昭和16年5月に日本海軍から神戸ユダヤ人協会に招請状が届きました。難民の代表者2名が、東京に来るようにというものでした。

 

アミッシュノーバ老師とモーゼス・シャクス氏が東京の海軍省に向かうことになりました。

小辻が通訳として同席しました。

 

その席で、アミッシュノーバ老師は言いました。

 

「日本人はご存じないかもしれないが、ナチスは、他民族に激しい憎しみを抱いているのです。どうか、ヨーロッパに出ている書籍をドイツ語の原文のままで呼んでください。黒人も日本人も劣等民族として扱われています。」と。

 

「民族の純潔を守るためにドイツでは劣等民族との結婚は認められていません。」

 

「ナチスはドイツ民族以外の存在は認めていないのです。ナチスはユダヤ人を地球上から抹殺したら、次は日本民族を抹殺しようとするでしょう。なぜ、そのことに気がつかないのですか?」と、そのアミッシュノーバ老師は話しました。

 

その話を聞いた海軍将校は、大きくうなずきました。

海軍ではドイツとの三国同盟に反対派の将校がおり、ユダヤ難民からドイツの実情を聞きたかったのでしょう。

 

また、同席していた外務大臣の松岡は次のように話しました。

「あなたたちユダヤ難民を日本人は温情を持って遇します。一切の心配は無用です。

 

日本人はユダヤ人と良好な関係を持続させたいと願っている。願わくば、ユダヤ人も日本に対して良い印象を持ってほしいと思う。」と。

(「From Lublin To Shanghai」デビット・マンデルバウム著)

 

ナチスドイツからの圧力がかけられていた当時の日本において、ユダヤ難民が、無事日本から米国や上海に渡ることができました。

 

それも、昭和16年12月、太平洋戦争が始まる前に全てのユダヤ難民を、渡航させることができました。

 

これが、米国との戦争が始まってしまった後だったら、米国への渡航は困難だったでしょう。

 

全て、小辻の働きによるところが大きかったです。

 

命のビザが、リトアニアの杉原からウラジオストクの根井三郎にそして、神戸の小辻へとバトンが繋がれました。

 

小辻はその後、憲兵隊からスパイ容疑で狙われたので、昭和20年6月、再び満州国ハルビンに移住することにしました。

ハルビンにはユダヤ人がたくさん住んでいたからです。

 

その満州国ハルビンで終戦を迎えます。関東軍が崩壊した満州では、ソ連兵から命の危険と、シベリアへの強制労働に行かされる危険がありましたが、ユダヤ人から何度も助けられました。

 

かつて、小辻が助けたユダヤ人難民から、今度は小辻が助けられることとなったのです。

 

旧満州のハルビンで1年ほど逃亡生活をして日本に帰国。

 

その後、昭和34年(1959年)小辻は日本人で初めてユダヤ教に改宗しました。

 

小辻は、改宗するために、イスラエルのエルサレムに向かいました。

 

宗教審議会を経て、病院で割礼を受けて、アブラハム小辻となりました。

 

その時、小辻はイスラエルのミール神学校に招かれました。

 

ミール神学校は、ポーランドから奇跡的に生徒と教職員全員が、ナチスドイツから日本に逃れることができた神学校です。

 

小辻の改宗のニュースは、世界中のユダヤ人社会に伝えられました。

 

サンデーニュースに、「ユダヤ難民の天使が今ここに」と題して次のような記事が掲載されました。

 

 

「リトアニアに住んでいたウオーキン氏は兄弟姉妹をナチスによって殺されました。二人の子供と妻を連れて日本へと渡りました。

 

彼は、杉原千畝の発給したビザを持っていたが、それは3日しか持たないものであった。

 

その時、彼らを救ったのが、小辻であった。

 

当時、日本にもナチスの将校たちがいて、ユダヤ人を即刻日本から出すようにと要求したが、ユダヤのことを熟知していた小辻は地元警察に掛け合い、彼らの気持ちを揺り動かした。

 

そのため、小辻は、憲兵隊に捕まり尋問を受けるめにもあったのだ。」

 

ウオーキン氏は紙面上でこのように語り、彼の妻も、「戦時中、一番落ち着けたのが、日本で過ごした日々だった」と語りました。

 

ジューウイッシュ・ポスト・アンド・オピニオン紙には、「改宗したアブラハム小辻は我々の英雄だ」と題して、次のような記事を掲載しました。

 

「第二次大戦中、ポーランドのルブリンにあった神学校の職員だった私は、ナチスのホロコーストから逃れるために、350人の仲間とともに日本へと逃れた。

 

この時、私たちは小辻の働きによって、日本にとどまる許可を得ることができた。

 

日本を発つ時、小辻は上海への特別な許可証の手続きをとり、広島から軍用船に乗って出航できる手配をしてくれた。そのおかげで安全に上海に渡ることができたのである。」

 

その後、小辻は米国のユダヤ人社会から招聘されて全米を講演して周りました。

 

昭和48年(1973年)10月31日、アブラハム小辻は亡くなりました。

 

小辻の遺言により、遺体は、イスラエルのエルサレムに運ばれることとなりました。

 

しかし、当時のイスラエルは、第4次中東戦争の真っ最中であり、空港も閉鎖されて、厳戒態勢にありました。

 

イスラエル大使館に連絡しても繋がらないため、諦め掛けていた時、ゾラフ・バルハフティク宗教大臣と連絡がとれ、小辻のために特別に空港を解放してくれ、イギリス経由で、小辻の遺体を運ぶことができました。

 

ゾラフ・バルハフティク宗教大臣は、かつて、神戸に逃れてきたユダヤ難民の一人でした。

 

イスラエルの空港に着いた小辻の遺体を、神戸で救われたミール神学校の学生だった人たちなど、数千人が集まり出迎えました。

 

この時、ニューヨークとイスラエルの新聞各紙が、一斉に小辻の死を報道しました。

 

イスラエルでは小辻の遺体が空港に到着してから、埋葬までの経過をラジオで放送しました。

 

ゾラフ・バルハフティク宗教大臣が弔辞を述べました。

 

「私たちが初めてあったのは、第二次世界大戦中、私たちがヨーロッパ各地から難民としてロシアを通り、東の果て日本に辿り着いた時のことでした。

 

この時、私たちの前に現れたのが小辻でした。彼は、その時40歳。非常に教養が高く、頭脳明晰、宗教学に興味を示し、高いレベルでの知識を持っていました。

 

私は、彼とたくさんの話をしました。個人的にも親しくなり、信頼関係を結ぶことができました。

 

その時点で小辻は改宗について何も言っていませんでした。だから、私たちは彼のことを改宗者としてではなく、「正義の人」としてみていました。

 

小辻は、いつも私たちに寄り添い、通訳をし、政府とのいざこざに巻き込まれそうになると助けてくれました。

 

彼こそが私たちの代表者だったのです。私たちにはビザの問題がありましたが、彼は助け、私たちが出国するまで、見守ってくれたのです。

 

その頃から、彼はユダヤに深い思いがあったのかもしれません。

 

20年後、彼は改宗しました。私たちの親密な友情関係は途絶えることなく続き、私は娘の結婚式にも参加してくれました。

 

彼といると、いつも質の良い有意義な時間を過ごせました。私は、ああ、なんと偉大な人だろうと感じたものです。

 

彼は常に、人にとって正しい道というものを宗教学的見地から見出そうとしていました。

 

それが彼の人生の究極の目標だったのかもしれません。

 

彼はこれまで3度この地を訪れ、そして4度目の今、無言の帰国を果たしました。

 

私たちは尊敬の念を持って、彼が愛したこの国に彼を迎え、聖なる場所に葬るため力添えをしました。

 

愛する人が亡くなり、この世を去るということは、本当に嘆かわしいことです。」

 

京都の賀茂神社の神官の家に生まれながらキリスト教に転校し、その後、ユダヤ教に改宗したアブラハム小辻。

 

彼の祖先は代々、賀茂神社の宮司でした。

賀茂神社は、秦氏の一族長を記念して建てられた神社です。

 

ヘブライ語と旧約聖書の研究者であった小辻は、秦氏は、ユダヤ人であったと考えていました。

 

小辻節三は、自分のルーツであるユダヤ人の国、イスラエルの地に眠ることを希望したのでしょう。

 

(参考図書「命のビザをつないだ男 小辻節三とユダヤ難民」山田純大著、「日本・ユダヤ封印の古代書」ラビ・M・トケイヤー著、「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著)

 

 

 

かつて日本がロシアと戦った日露戦争で、その戦争費用のための資金調達に奔走した、当時の日銀の副総裁、高橋是清。

 

高橋是清に手を差し伸べたのは、あるユダヤ人銀行家でした。

 

日本の戦争継続のために、どうしても必要な戦費調達を引き受けてくれる金融機関を、探さなくてはなりませんでした。

 

日露戦争開戦の前年、明治36年(1903年)12月には、日本銀行には円を含めて、1億6、796万円しかなく、開戦3ヶ月後の5月には、6、744万円まで大きく落ち込んでいました。

 

高橋是清は、第一回の戦費調達として、1、000万ポンドの資金調達の任務を受けました。

 

彼の肩に、日本の国運が重くのしかかっていました。

 

まず米国のサンフランシスコとニューヨークの金融機関を回りましたが、日本の国債を買ってくれる銀行はなく、全く相手にしてくれませんでした。

 

それも当然の結果でした。当時、世界の大国ロシアを相手に、小国日本が勝つ見込みはないと誰もが判断していたからです。

 

次にイギリスに渡りましたが、そこでも同じでした。

日英同盟が2年前に締結されていたので、好意的に迎えてくれるかと思ったのですが、日本に投資するとなると、誰もが尻込みしました。

 

それでも、イギリスの銀行団に500万ポンドの日本国債を引き受けてくれる約束を取り付けることができました。

 

しかし、1、000万ポンドにままだ足りません。

高橋是清は焦りました。

 

ほとんど諦めかけていた時に、たまたまイギリスの銀行家の友人が自宅での晩餐会に招待されました。

 

そこでたまたま隣に座ったある米国の金融家が熱心に、日本の現状を聞いてきました。

 

日本軍の士気は高いのか?とか、細かく質問されましたが、高橋是清はその質問に対して、丁寧に回答しました。

 

高橋是清は自伝の中で、その金融家との最初の出会いを次のように回想しています。

 

「食事中、彼はしきりに日本の経済上の状態、生産の状態、開戦後の人心について細かく質問するので、私もできるだけ丁寧に応答した。

 

そうして、この頃ようやく500万ポンドの公債を発行することに銀行者との間に内約ができて満足はしているが、政府からは、年内に1000万ポンドを募集するように、申しつけられている。

 

しかし、ロンドン銀行家たちがこの際、500万ポンド以上は無理だと言うので、止むを得ぬと合意した次第であると言うような話もし、食後にもまた色々な話をして別れた。」

(「高橋是清自伝」)

 

次の日の朝、イギリスの銀行家が高橋を訪ねてきて、昨晩の宴会で隣に座った米国の銀行家が、日本の国債を引き受けようと言っている、と連絡を受けました。

 

なんと、残り500万ポンドの日本国債を引き受けてくれるというのです。

 

その金融家の名前は、ヤコブ・ヘンリー・シフといいました。

 

シフは、ドイツ生まれのユダヤ人で、米国ニューヨークでクーン・ローブ商会と言う大きな投資銀行を経営していました。

 

明治37年(1904年)5月の時点では、日本軍はまだ大きな戦果をあげていませんでした。

 

それでも、シフは国債を引き受けてくれたのです。

そればかりか、全世界のユダヤ人に対して日本の戦時国債を買うように呼びかけてくれました。

 

そのおかげで、日本が日露戦争の期間中、発行した戦時国債7、200万ポンドのうち、半分以上の4、100万ポンドをユダヤ人が引き受けてくれました。

 

なぜ、シフは、初対面の高橋是清に500万ポンドもの国債を引き受けてくれたのでしょうか?

 

なぜ、シフは、誰も勝ち目はないと思っていた日本の最大の支援者となってくれたのでしょうか?

 

高橋是清の自伝には次のようにあります。

「シフ氏が何故に自ら進んで、残りの5、000万円を引き受けようと申し出てきたのであるか?

 

当時、私にはそれが疑問で、どうしてもその真相を解くことができなかった。何しろ、私はこれまでにシフという人については、名前も聞いたことがなく、わずかに前夜ヒル氏の家で、ただ一度会ったきりである。

 

ことに2ヶ月前、日本から米国に渡り、ニューヨークの銀行家や資本家に当たってみて、米国では到底公債発行の望みはないと見切りをつけ、英国へと移ったくらいであるから、

 

米国人のシフがしかも欧州大陸からの帰路、一夜偶然に出会って雑談したのが因となり、翌日、すぐに5、000万円を一手で引き受けてくれようとは、まるで思いもかけぬところであった。

 

しかるに、その後シフ氏とは非常に別懇となり、家人同様に待遇されるようになってから、段々、シフ氏の話を聞いているうちに、初めてその理由が明らかになってきた。

 

ロシア帝政時代、ことに日露戦争前には、ロシアにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、官公史に採用されざるはもちろん、国内の旅行すら自由にできず、圧政その極みに達していた。

 

故に、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシアのユダヤ人を、その苦境から救わねばならぬと、種々物質的に助力するとともに、直接ロシア政府に対しても色々と運動を試た。」

(高橋是清自伝」)

 

ロシアでは、1881年から1884年にかけてと、日露戦争の前年の明治36年(1903年)から明治39年(1906年)にかけて、ロシア政府黙認の下、ロシア全土でユダヤ人大虐殺が行なわれました。(反ユダヤ主義・ポグロム)

 

明治36年(1903年)4月に起きたポグロムは、ロシア官憲が先導して、ユダヤ人街が襲撃され、49人のユダヤ人が虐殺され、500人以上が重軽傷を追いました。

 

600軒以上のユダヤ人商店と700件以上のユダヤ人住居が略奪されて、放火され、焼き払われました。

 

この襲撃にはキリスト教神学校の教師や、学生たちも銃や棍棒を持って、加わりました。

 

ヤコブ・ヘンリー・シフは、次のように述懐しました。

 

「ロシア帝国に対して立ち上がった日本が、ロシアを罰する、”神の杖”であるに違いない、と考えた」と。

 

このような歴史的背景があったので、全世界のユダヤ人にとっても、日露戦争での日本の勝利に、狂喜しました。

 

もしシフが高橋是清と出会っていなかったら、また、もし、シフが高橋是清に手を差し伸べてくれなかったら、日本は日露戦争を継続することができず、勝利することもできなかったかもしれません。

 

(「参考図書「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著)

 

 

 

ユダヤ人国家であるイスラエル。そのイスラエルの建国に多大な影響を与えたのは、実は教育勅語など日本精神でした。

 

イスラエルの建国の志士として尊敬されているユダヤ人で、ヨセフ・トランペルドール(Joseph Trumpeldor) という人がいます。

 

ヨセフ・トランペルドールはロシアで生まれ育ちましたが、ロシアはユダヤ人に対して差別して迫害していました。

 

高校に進学できなかったり、自由にロシア国内を移動することも許されていませんでした。

 

ユダヤ人の地位向上を図るには、ロシア軍に入隊して貢献するしかない、と考えたヨセフ・トランペルドールは、シベリア連隊に配属されました。

 

そして、旅順にて日本と戦争をしました。

 

戦闘の前、危険な任務に就くために、ロシア人の小隊長がいいました。

 

「貴様たちの中で、ジット(ユダヤ人の蔑称)のような臆病者はいないだような」

 

ヨセフ・トランペルドールは真っ先に志願していいました。

「小隊長、しかし私はユダヤ人であります。」

 

すると小隊長が言いました。

「そうか、貴様は、ジット(ユダヤ人の蔑称)らしくないジットだな」と。

 

その後もヨセフ・トランペルドールはユダヤ人の地位向上を図るためにも、積極的に危険な任務に着きました。

 

負傷したヨセフ・トランペルドールは右腕を切断しましたが、傷病兵として安全な後方に就くことなく、危険な前線に志願して戦いました。

 

そのため、ヨセフ・トランペルドールは旅順守備軍のステッセル司令官から「ロシア将兵のお手本である」と称賛されました。

 

日露戦争時、ロシア兵200万のうちユダヤ人は3万人いましたが、ユダヤ人将校は一人もいませんでした。

 

これは、ロシア国において、ユダヤ人に対する差別がどれほど強かったかを物語っています。

 

明治38年(1905年)1月1日、旅順守備隊は日本軍に降伏。

 

1万人のロシア兵捕虜たちは日本に向かいました。

その中に500名のユダヤ人がおり、ヨセフ・トランペルドールもその一人でした。

 

大阪の浜寺に捕虜収容所が設けられ、滞在することとなりました。

 

捕虜たちはそれぞれ宗教別に棟が分けられ、ユダヤ人たちは同じ棟に割り当てられました。

 

まだ、当時の日本の一般家庭で電灯が通っていない時代、どの収容所の棟にも電気が通っていました。

 

新鮮や野菜や肉がたくさん配給され、さらに、将校には月3円、兵士には月50銭が支給されました。

 

ヨセフ・トランペルドールは、日本人所長に相談して、収容所の中で、学校を開きました。

 

ロシア人に対して、ロシア語の読み書きや算数、地理、歴史などを教えました。ほとんどのロシア兵は、ロシア語の読み書きができませんでした。

 

また、床屋、鍛冶屋、靴職人などを捕虜から探して、職業訓練を行いました。

 

ヨセフ・トランペルドールは、パレスチナにイスラエル(ユダヤ人の国)を建国しようという志を持っていました。

 

米国ニューヨークに、イスラエルを建国することを目的とした協会である、シオニスト協会がありました。

 

ヨセフ・トランペルドールは、日本の収容所内にシオニスト協会の日本の浜寺支部を設立し、125名のユダヤ人捕虜を会員にして、組織化しました。

 

ヨセフ・トランペルドールは収容所内で、ロシア語の機関紙まで発行しました。

 

日本の収容所に滞在中、ユダヤ教の大祭である、過越の祭(ペサハ)(pesach) が行われました。

 

ユダヤ人が食べる、酵母のないパンであるマッツア(matztzāh)を入手するために、横浜のユダヤ教会(シナゴーク)(synagogue)に行きたいと所長に懇願しましたが、さすがに捕虜の身分でそれは許可されませんでした。

 

しかし、所長は特別に、横浜のユダヤ人社会と連絡をとり、マッツア(matztzāh)を取り寄せてくれました。

 

ヨセフ・トランペルドールは、イスラエルの建国を志していたので、日本が、開国してからわずか38年で、なぜ世界の一等国であるロシアに勝利することができたのかを研究しました。

 

そのために、日本の所長から日本のことを色々と教えてもらいました。

 

日本人は勤勉であるとか、私利私欲を捨てて、公(おおやけ)のために協力し合うとか、愛国心が強いとか、祖先を敬うとか、家族の団結が強いなど、教わりました。

 

そして、日本人の根底にあるのは、万世一系の天皇を中心とした国体であり、また、”教育勅語”というものであるということも教わりました。

 

明治38年(1905年)9月、米国東海岸のポーツマスにて講和条約が締結されたので、日本に滞在していた捕虜たちは順次、ロシアに帰国しました。

 

ヨセフ・トランペルドールは12月に帰国しましたが、間も無く、ユダヤ人で初めての将校として、陸軍少尉に任命されました。

 

ヨセフ・トランペルドールは、祖国の建設するためには教育を受ける必要性を感じ、サンクトペテルブルグ大学に進学しました。

 

当時のロシアでは、ユダヤ人が、ロシアの首都であるサンクトペテルブルグに出入りすることを許されていませんでしたが、ヨセフ・トランペルドールはロシア兵将校でしたので、特別に許可されました。

 

ヨセフ・トランペルドールはロシア在住のユダヤ人を募り、パレスチナに移住しました。

 

当時のパレスチナはオスマントルコ帝国の領土でした。1914年、オスマン・トルコ帝国とドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国は、同盟して、ロシア、イギリス、フランスなどの連合国と戦争をしました。(第一次世界大戦)

 

パレスチナ在住のユダヤ人たちは、オスマン・トルコの国籍をとるように強要されましたが、ヨセフ・トランペルドールたちは拒否して、イギリス領のエジプトに向かいました。

 

ヨセフ・トランペルドールはイギリスにユダヤ人部隊を創設するように働きかけました。

 

この提案が受け入れられ、ユダヤ人による部隊が結成されました。(シオン騾馬(ラバ)部隊)(シオンとはイスラエルの別名)

 

ヨセフ・トランペルドールにとっては将来、イスラエルの独立をするにあたり、ユダヤ人の軍隊を持つ必要があったので、そのための布石と考えていました。

 

しかし、このユダヤ人部隊(シオン騾馬(ラバ)部隊)(Zion Mule Corps)は、イギリス軍として戦いました。

 

そして、1915年12月から、トルコのチャナッカレ海峡の岬にある、ガリポリ攻略戦に従軍しました。

 

世界大戦が終わると、オスマン・トルコ帝国は中東の広大な領土を失い、パレスチナはイギリスの委託統治下となりました。

 

1919年、ヨセフ・トランペルドールは、ロシアからイスラエルに再び戻りました。

 

パレスチナでは、アラブ人により、ユダヤ人は絶えず襲撃されていました。

 

1920年10月29日、ヨセフ・トランペルドールはガリレア地方の北部のタルハイ農場にて、アラブ武装集団に襲撃されて、命を落としました。

 

ヨセフ・トランペルドールは、息を引きとる最後に次のようにいいました。

 

「アイン・ダバル トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ」

(ヘブライ語)

 

「国のために死ぬほど、名誉なことはない」(日本語訳)

 

この言葉は、ヨセフ・トランペルドールが日本の浜寺の収容所に滞在していた時に、日本兵士から教わった言葉でした。

 

(参考図書「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著)