ユダヤ難民を助けた英雄 小辻節三 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

昭和15年(1940年)リトアニアの領事代理であった杉原千畝は、ナチスドイツから逃れてきたユダヤ人へ、日本を通過するビザの発給(命のビザ)をしました。

 

その数、約6、000名。

 

しかし、そのビザにより許可された日本滞在期間は、わずか3日から10日間でしかありませんでした。

 

その間に、日本から米国や上海などへの出国手配などをしなければなりませんでした。

 

現在のようにインターネットもなく、代行業者もほとんどいない時代、しかも戦時中です。言葉もわからず文化も異なる日本で、ユダヤ難民たちが、そのような手配をすることは極めて困難でした。

 

もし、許可された滞在期間中に、日本から出国手配ができなかったら、ドイツへの強制送還されてしまう可能性がありました。

 

その先は、強制収用所へ入れられ、シャワー室という名の毒ガス室にて大虐殺が待っています。

 

そのような状況にあったユダヤ難民を助けた、ヒーローがいました。

 

その人の名は、小辻節三博士です。

 

彼は、どのような人だったのでしょうか?

 

日本の旭川にあるキリスト教の教会の牧師として働いていましたが、ユダヤ教に興味を持ち、聖書を一から学びたいと米国留学を決意しました。

 

渡航費用や留学費用はありませんでしたが、妻が着物を売ってその費用を捻出しました。

 

生まれたばかりの赤ん坊を連れて、ニューヨークに渡り、そこの宗教大学に通いました。

 

その後、中古車で東海岸から家族で大陸横断して、西海岸のカルフォルニア州に渡り、バークレーにあるパシフィック宗教大学に通いました。

 

まだフリーウエイが整備されていない時代に、途中で何度も故障した車を修理しながらの旅でした。

 

小辻さんは、パシフィック宗教大学で4年間通い、博士号を取得した後、日本へ帰国しました。

 

昭和9年(1934年)10月から銀座の聖書館ビル8階で、「聖書原典研究所」を設立し、都内の大学生たちにヘブライ語と旧約聖書を教え始めました。

 

しかし、これをよく思わない人たちから嫌がらせを受け、3年後に閉鎖することになりました。

 

しばらくして、「国際政経学会」という団体から頼まれ、翻訳の手伝いをするようになりました。

 

しかし、この団体は、反ユダヤ主義の目的のために、ナチスドイツによって作られた宣伝(プロパガンダ)組織でした。

 

日本人に反ユダヤ思想を植え付けようとしていたのです。

 

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人が世界征服を陰謀しているという、根も葉もないものでした。

 

小辻は、そのことに気づき、その「国際政経学会」からの仕事を辞めました。

 

昭和13年(1938年)南満州鉄道(満鉄)の総裁であった、松岡洋右から満鉄総裁のアドバイザーとして招かれました。

 

当初、小辻は固辞しましたが、約半年近く松岡から執拗に依頼が届いたので、その申し入れを受けました。

 

松岡がなぜそこまでして、小辻を必要としたかというと、昭和13年2月に満州とロシア(ソ連)との国境付近のオトポールという町で、ユダヤ難民約2万人がナチスドイツから逃れて、押し寄せてくる事件がありました。

 

関東軍(日本陸軍)の樋口季一郎少将と東條英樹中将の働きにより、ユダヤ難民は満州国に入国することができて、満州国のハルビンや、上海に住むようになりました。

 

満州国にとってユダヤ問題は大きな問題となっていたのです。

そこで、松岡は、ユダヤ教やユダヤ人が話すヘブライ語に詳しい小辻を、アドバイザーとして招聘しようとしたのです。

 

昭和13年10月小辻は、家族とともに満州の大連に移住しました。

 

昭和14年(1939年)12月、満州国のハルビンで、第3回極東ユダヤ人大会が開催されました。

 

この大会は毎年開催されていましたが、この第3回大会において、小辻は満鉄を代表してスピーチしました。

 

そのスピーチは、ユダヤ人でも理解しにくい古典的な言い回しを流暢に使ったヘブライ語で行われました。

 

ヘブライ語を流暢に使う日本人学者が極東にいるという話が、世界中のユダヤ人社会に瞬く間に広がりました。

 

この時のスピーチの日本語訳原稿は以下の通りです。

ーーーー

カウフマン会長、極東ユダヤ代表諸賢、満場の紳士淑女の皆様。

 

極東ユダヤ大会に今年もまた出席して、素晴らしき過去の歴史を有する、みなさんの父祖の言語たるヘブライ語をもって、一場の演説をなし得ることは私の誉れとするところであります。

 

世界が騒乱に満ちている現下において、本大会がかくも平和なる環境の下に開かれたることは、誠にみなさんにとって意義深いことであるのみならず、

 

また、全世界のユダヤ人にとっても何物かを暗示するものでなくてはなりません。

 

もちろん、この一回の大会が複雑なユダヤ問題をたちまち解決するものではありません。

 

しかし、私は、ここに預言者イザヤのメイクを引用してみなさんを慰めたいと思います。

 

「見よ、暗き地を覆い、闇は諸処の民を覆わん。

されど、汝の上にはエホバ照りいて給いて、

エホバの栄光、汝の上に現るべし。」

(旧約聖書 イザヤ書60章2節)

 

「我シオンの義、朝日の輝きのごとくにいて

エルサレムの救い、燃ゆる松火のごとくになるまでは

シオンのために黙さず、

エルサレムのために休まざるべし」

(旧約聖書 イザヤ書62章1節)

 

私は、みなさんが「幻なければ民滅ぶ」という古典の格言を記憶せらんことを希望し、世界の現状に失望することなく、「心を強くしかめつ勇め」と申し上げたい。

 

私は、また、今後とも大いなる同情を持って、ユダヤ人問題を眺めるでありましょう。

 

願わくば、有意義な行動において繁栄を致され、この極東において正順なる一大集団となられんことを希望するものであります。

 

私は、また皆様が日満両帝国の秩序と法制とを愛し、これに従うことによって、安居栄楽し、長く極東において恩恵によくされんことを望んで止みません。

 

終わりに臨み、ユダヤの旗が近き将来に独立国としてのイスラエルの地に誇らしく翻るにいたらんことを心から希望するものであります。」

ーーーーー

 

昭和14年(1939年)松岡は満鉄を退任して、日本に帰国し、近衛内閣の外務大臣となりました。

 

小辻も、松岡の後を追うように、満鉄調査部顧問の職を辞して、日本に帰国しました。

 

昭和15年(1940年)7月19日、リトアニア国カウナス日本領事館に、ポーランドからナチスを逃れてきたユダヤ難民たちが押し寄せてきました。

 

領事代理の杉原千畝は、日本外務省にビザ発給の打診をしますが、当時の外国人入国取締規則において、渡航費用と日本での滞在費用を所持していること、行き先国の入国許可があることが、ビザ発給の条件とされていました。

 

しかし、杉原は、渡航費用が確認できない場合や日本への入国許可がない場合でも、独断で、日本への通行ビザの発給を開始しました。(命のビザ)

 

そのため、外務省から注意を受けることとなりましたが、譴責処分を受けたことはありませんでした。

(外務省が、出先の領事館に対して、注意をすることは珍しいことではありませんでした)

 

このユダヤ難民の中に、ミール神学校の生徒たち350人が含まれていました。

 

神学校は当時のヨーロッパに多数作られており、そこでは旧約聖書を学び、ユダヤ教(タルムード)を学ぶエリート集団でした。

 

しかし、ナチスドイツは、その神学校を徹底的に破壊して、その教員と生徒たちを虐殺してしまいました。

 

このことはユダヤ民族の死を意味していました。

 

その中で奇跡的に、ポーランドのミールという町にあった、ミール神学校のほぼ全員が極東に逃れることができたのです。

 

ユダヤ難民はシベリア鉄道に乗って極東に向けて大陸を横断していきました。

 

途中、ソ連の秘密警察NKVDに捕まり、シベリア強制収容所に送られた人もいました。

 

11日目にようやく、ウラジオストクに到着。ここから船に乗り、日本の福井県敦賀に向かいました。

 

しかし、ウラジオストクからユダヤ難民を乗船させないようにと、駐在ウラジオストク日本総領事に、日本外務省から次のような通達が送られていました。

 

「日本の官憲がヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、あなたのところやソ連の大使館でもう一度調べて、

 

行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗る許可を与えること」

 

ユダヤ難民たちは、ナチスドイツに強制送還されてしまう危機に陥りました。

 

その時、根井三郎総領事代理が外務省からの通達を無視して、乗船を許可しました。そればかりか通行ビザを持っていない難民に対しても日本への渡航許可証を発行しました。

 

「逃げてきた人たちがここにまでやって来たからには、もう引き返すことができないというやむを得ない事情があります。

 

日本の領事が出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどりついたというのに、行先国が中南米になっているというだけの理由で一律に船に乗る許可を与えないのは、

 

日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになるのでまずいと思います」と根井領事代理は日本外務省へ電信しました。

(1941年3月30日付 本省への抗議の電信)

 

根井三郎の人道的な英断によって、ユダヤ難民を乗せた船は、日本の敦賀に向かいました。

 

リトアニアからの命のビザは繋がれました。

 

敦賀に上陸したユダヤ人の一人は、「敦賀のまちが天国に見えた」と回想しています。(「自由への逃走」(中国新聞社会部編)

 

何日もシャワーに入っていない難民たちのために、銭湯の主人が一日解放しました。

 

食べ物がなくお腹をすかせた難民にリンゴを与えた少年もいました。

 

船の中で出産した女性と赤ん坊に対して、適切な処置を施した医師と看護婦がいました。

 

敦賀に上陸したユダヤ難民たちの多くは汽車で神戸に向かいました。

神戸には、少数ですがユダヤ人コミュニティがあったからです。

 

ユダヤ難民たちが手にしていたビザの渡航先は、オランダ領キュラソーという場所になっていましたが、多くのユダヤ人が米国への渡航を希望していました。

 

しかし、日本滞在期間はわずか数日から10日間しかありません。

 

ユダヤ人代表が、日本の行政に滞在期間の延長を申し入れましたが、却下されてしまいました。

 

途方にくれたユダヤ人たち。せっかく日本までたどり着けたのに、ここで滞在期間をすぎてまで日本に残るということは、ナチスドイツへの強制送還されてしまう可能性が迫ってきてしまいます。

 

なぜなら、当時の日本はドイツと同盟を結んでいました。ナチスドイツから、これ以上、ユダヤ人の受け入れをしないようにと圧力をかけられていたからです。

 

外務省が、ユダヤ難民の受け入れに消極的だったのはそのためです。

 

その時、あるユダヤ人代表であるポネビジスキーが、一人の日本人の名前を思い出しました。

 

それは小辻節三でした。

 

彼は、満州国ハルビンで行われた極東ユダヤ人大会に参加しており、そこで小辻のヘブライ語での演説を聞いていました。

 

彼からの手紙を受け取った小辻は、直ちにユダヤ人代表と会い、今までの経過の説明を受けました。

 

問題は3つに集約されました。

 

一つは、滞在期間の延長です。

 

もう一つは、ウラジオストクから日本への通過ビザを持たない難民72名が、渡航許可証を発行してもらったけれども、敦賀港に上陸することができずに船の中に滞在している。

 

その人たちの日本への入国を許可してほしいということ。

 

もう一つは、ユダヤ人と日本人の文化の違いによる、住民との摩擦の解消でした。

 

「義を見てせざるは勇なきなり」

 

これは、小辻が子供の頃に武士道を通して学んだことわざでした。

 

問題から逃げてはならない。

小辻は早速、行動を開始しました。

 

小辻は東京の外務省内を駆け回り、なんとか72名のユダヤ難民の敦賀上陸の許可を取り付けました。

 

次の問題は、滞在期間の延長です。

満鉄でお世話になった松岡外務大臣と面会をしました。

 

松岡は、ドイツとの同盟関係があるので、あからさまにユダヤ人を保護することはできないと言われてしまいました。

 

外務大臣としての松岡洋右の立場は微妙でした。

 

しかし、これからは外務大臣としてではなく、個人的に話すと松岡は切り出し、

 

「避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部(現在の警察庁に該当)に管轄が変わり、滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている。

 

各地方長官の行うことには外務省は見て見ぬ振りをする。」と。

 

早速、小辻は神戸に飛び、ビザ延長の権限を持っている神戸管轄の警察署に対して、どのように説き伏せようか思案を巡らしました。

 

何度も警察署に通い、ユダヤ人の窮状を説いたおかげで、10日間のビザを1回につき15日ずつ延長する許可を出してもらうことになり、その申請を数回すれば、ユダヤ難民たちは長期間、日本に滞在することが可能となりました。

 

三つ目の文化の違いによる問題は、個別対応で、地元の人に説明することで理解がえられるようになっていきました。

 

昭和16年4月ごろから、徐々に難民たちは日本を出国し始めました。ビザがある人は米国に、ビザがない人はビザの必要がない上海に向かいました。

 

また、ナチスドイツの親衛隊将校である、ヨーゼフ・マイジンガーが、1941年4月に東京の駐日ドイツ大使館に派遣されてきました。

 

「ワルシャワの屠殺人」の異名を取ったマイジンガーは、ポーランドのワルシャワで、10万人とも言われるユダヤ人を大虐殺しました。

 

彼は、日本の憲兵隊と緊密に連絡を取り合い、反ユダヤ人活動を行いました。

 

特に、上海に渡ったユダヤ人を虐殺するように日本政府に要求しましたが、日本政府はその要求を拒否しました。

 

昭和16年5月に日本海軍から神戸ユダヤ人協会に招請状が届きました。難民の代表者2名が、東京に来るようにというものでした。

 

アミッシュノーバ老師とモーゼス・シャクス氏が東京の海軍省に向かうことになりました。

小辻が通訳として同席しました。

 

その席で、アミッシュノーバ老師は言いました。

 

「日本人はご存じないかもしれないが、ナチスは、他民族に激しい憎しみを抱いているのです。どうか、ヨーロッパに出ている書籍をドイツ語の原文のままで呼んでください。黒人も日本人も劣等民族として扱われています。」と。

 

「民族の純潔を守るためにドイツでは劣等民族との結婚は認められていません。」

 

「ナチスはドイツ民族以外の存在は認めていないのです。ナチスはユダヤ人を地球上から抹殺したら、次は日本民族を抹殺しようとするでしょう。なぜ、そのことに気がつかないのですか?」と、そのアミッシュノーバ老師は話しました。

 

その話を聞いた海軍将校は、大きくうなずきました。

海軍ではドイツとの三国同盟に反対派の将校がおり、ユダヤ難民からドイツの実情を聞きたかったのでしょう。

 

また、同席していた外務大臣の松岡は次のように話しました。

「あなたたちユダヤ難民を日本人は温情を持って遇します。一切の心配は無用です。

 

日本人はユダヤ人と良好な関係を持続させたいと願っている。願わくば、ユダヤ人も日本に対して良い印象を持ってほしいと思う。」と。

(「From Lublin To Shanghai」デビット・マンデルバウム著)

 

ナチスドイツからの圧力がかけられていた当時の日本において、ユダヤ難民が、無事日本から米国や上海に渡ることができました。

 

それも、昭和16年12月、太平洋戦争が始まる前に全てのユダヤ難民を、渡航させることができました。

 

これが、米国との戦争が始まってしまった後だったら、米国への渡航は困難だったでしょう。

 

全て、小辻の働きによるところが大きかったです。

 

命のビザが、リトアニアの杉原からウラジオストクの根井三郎にそして、神戸の小辻へとバトンが繋がれました。

 

小辻はその後、憲兵隊からスパイ容疑で狙われたので、昭和20年6月、再び満州国ハルビンに移住することにしました。

ハルビンにはユダヤ人がたくさん住んでいたからです。

 

その満州国ハルビンで終戦を迎えます。関東軍が崩壊した満州では、ソ連兵から命の危険と、シベリアへの強制労働に行かされる危険がありましたが、ユダヤ人から何度も助けられました。

 

かつて、小辻が助けたユダヤ人難民から、今度は小辻が助けられることとなったのです。

 

旧満州のハルビンで1年ほど逃亡生活をして日本に帰国。

 

その後、昭和34年(1959年)小辻は日本人で初めてユダヤ教に改宗しました。

 

小辻は、改宗するために、イスラエルのエルサレムに向かいました。

 

宗教審議会を経て、病院で割礼を受けて、アブラハム小辻となりました。

 

その時、小辻はイスラエルのミール神学校に招かれました。

 

ミール神学校は、ポーランドから奇跡的に生徒と教職員全員が、ナチスドイツから日本に逃れることができた神学校です。

 

小辻の改宗のニュースは、世界中のユダヤ人社会に伝えられました。

 

サンデーニュースに、「ユダヤ難民の天使が今ここに」と題して次のような記事が掲載されました。

 

 

「リトアニアに住んでいたウオーキン氏は兄弟姉妹をナチスによって殺されました。二人の子供と妻を連れて日本へと渡りました。

 

彼は、杉原千畝の発給したビザを持っていたが、それは3日しか持たないものであった。

 

その時、彼らを救ったのが、小辻であった。

 

当時、日本にもナチスの将校たちがいて、ユダヤ人を即刻日本から出すようにと要求したが、ユダヤのことを熟知していた小辻は地元警察に掛け合い、彼らの気持ちを揺り動かした。

 

そのため、小辻は、憲兵隊に捕まり尋問を受けるめにもあったのだ。」

 

ウオーキン氏は紙面上でこのように語り、彼の妻も、「戦時中、一番落ち着けたのが、日本で過ごした日々だった」と語りました。

 

ジューウイッシュ・ポスト・アンド・オピニオン紙には、「改宗したアブラハム小辻は我々の英雄だ」と題して、次のような記事を掲載しました。

 

「第二次大戦中、ポーランドのルブリンにあった神学校の職員だった私は、ナチスのホロコーストから逃れるために、350人の仲間とともに日本へと逃れた。

 

この時、私たちは小辻の働きによって、日本にとどまる許可を得ることができた。

 

日本を発つ時、小辻は上海への特別な許可証の手続きをとり、広島から軍用船に乗って出航できる手配をしてくれた。そのおかげで安全に上海に渡ることができたのである。」

 

その後、小辻は米国のユダヤ人社会から招聘されて全米を講演して周りました。

 

昭和48年(1973年)10月31日、アブラハム小辻は亡くなりました。

 

小辻の遺言により、遺体は、イスラエルのエルサレムに運ばれることとなりました。

 

しかし、当時のイスラエルは、第4次中東戦争の真っ最中であり、空港も閉鎖されて、厳戒態勢にありました。

 

イスラエル大使館に連絡しても繋がらないため、諦め掛けていた時、ゾラフ・バルハフティク宗教大臣と連絡がとれ、小辻のために特別に空港を解放してくれ、イギリス経由で、小辻の遺体を運ぶことができました。

 

ゾラフ・バルハフティク宗教大臣は、かつて、神戸に逃れてきたユダヤ難民の一人でした。

 

イスラエルの空港に着いた小辻の遺体を、神戸で救われたミール神学校の学生だった人たちなど、数千人が集まり出迎えました。

 

この時、ニューヨークとイスラエルの新聞各紙が、一斉に小辻の死を報道しました。

 

イスラエルでは小辻の遺体が空港に到着してから、埋葬までの経過をラジオで放送しました。

 

ゾラフ・バルハフティク宗教大臣が弔辞を述べました。

 

「私たちが初めてあったのは、第二次世界大戦中、私たちがヨーロッパ各地から難民としてロシアを通り、東の果て日本に辿り着いた時のことでした。

 

この時、私たちの前に現れたのが小辻でした。彼は、その時40歳。非常に教養が高く、頭脳明晰、宗教学に興味を示し、高いレベルでの知識を持っていました。

 

私は、彼とたくさんの話をしました。個人的にも親しくなり、信頼関係を結ぶことができました。

 

その時点で小辻は改宗について何も言っていませんでした。だから、私たちは彼のことを改宗者としてではなく、「正義の人」としてみていました。

 

小辻は、いつも私たちに寄り添い、通訳をし、政府とのいざこざに巻き込まれそうになると助けてくれました。

 

彼こそが私たちの代表者だったのです。私たちにはビザの問題がありましたが、彼は助け、私たちが出国するまで、見守ってくれたのです。

 

その頃から、彼はユダヤに深い思いがあったのかもしれません。

 

20年後、彼は改宗しました。私たちの親密な友情関係は途絶えることなく続き、私は娘の結婚式にも参加してくれました。

 

彼といると、いつも質の良い有意義な時間を過ごせました。私は、ああ、なんと偉大な人だろうと感じたものです。

 

彼は常に、人にとって正しい道というものを宗教学的見地から見出そうとしていました。

 

それが彼の人生の究極の目標だったのかもしれません。

 

彼はこれまで3度この地を訪れ、そして4度目の今、無言の帰国を果たしました。

 

私たちは尊敬の念を持って、彼が愛したこの国に彼を迎え、聖なる場所に葬るため力添えをしました。

 

愛する人が亡くなり、この世を去るということは、本当に嘆かわしいことです。」

 

京都の賀茂神社の神官の家に生まれながらキリスト教に転校し、その後、ユダヤ教に改宗したアブラハム小辻。

 

彼の祖先は代々、賀茂神社の宮司でした。

賀茂神社は、秦氏の一族長を記念して建てられた神社です。

 

ヘブライ語と旧約聖書の研究者であった小辻は、秦氏は、ユダヤ人であったと考えていました。

 

小辻節三は、自分のルーツであるユダヤ人の国、イスラエルの地に眠ることを希望したのでしょう。

 

(参考図書「命のビザをつないだ男 小辻節三とユダヤ難民」山田純大著、「日本・ユダヤ封印の古代書」ラビ・M・トケイヤー著、「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著)