満州国の建国を否定されてしまった日本 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

昭和8年2月、ジュネーブにある国際連盟は、満州国の主権を国民党政府(蒋介石軍閥政府)にあると判決しました。

 

これは、合法だったのでしょうか?

 

1644年、満州人が万里の長城以北から南下してきて支那地域を侵略し、清国を建国しました。

 

その後、清国は蒙古、満州(現在の中国東北部)、チベット、東トルキスタン、支那(現在の華北、華中、華南)の地域を支配下に納めてました。

 

満州人は清国の首都を北京に定めると、故郷である満州を封禁の地として厳しい移民法を定めて、漢民族の立ち入りを制限しました。

 

しかし、明治37年(1904年)の日露戦争以降、支那地域から満州に漢民族が大量に移住してきました。

 

満州と支那との法的な関係は、明治44年までは、何も問題ありませんでした。

 

明治45年(1912年)2月11日、清国の崩壊に伴い、清国政府と孫文(支那共和国臨時政府)との間で、”清国皇帝退位協定”というものが調印されました。

 

この”清国皇帝退位協定”とは一体どういうものでしょうか?

 

清国皇帝の優待条件について規定されたものであり、また、満州族、蒙古族、イスラム教族(回族)、チベット族の権利についても規定されました。

 

第1条 退位後、清国皇帝はその尊号をなお有し、支那共和国は外国君主としての礼を持って待遇する。

 

第2条 退位後、清国皇帝の位にあるものは、支那共和国より年4百万両の年金を受領するものとし、新貨幣改寿後は、その金額を4百万ドルとする。

 

第3条 退位後、清国皇帝は当面紫禁城に居住し、その後、頤和園に映るものとし、護衛兵は従来のままとする。

 

第4条 退位後、清国皇帝は宗廊寝陸において、永遠に祭事を執り行うものとし、支那共和国より、護衛兵を置き保護する。

 

第5条 徳宗皇帝の陸は未だ竣工せず、造営は元の計画通り遂行されるものとし、先帝のご遺体を新陸へ移御する祭事は、原案通り行われるものとし、かかる経費は支那共和国がこれを負担する。

 

第6条 皇室の使用人は従来通り雇用するが、新たな臣官は任命できない。

 

第7条 退位後、全ての私有財産は、支那共和国によって尊重され、保護されるものとする。

 

皇族について

 

第1条 清国王公その他の爵位の称号は従来通りとする。

 

第2条 清国皇族は、支那共和国において他の市民と同等に、公私の権利を有する。

 

第3条 清国皇族の私有財産は適切に保護される。

 

第4条 清国皇族は、兵役の義務を免ぜられる。

 

満州族、蒙古族、イスラム教族(回族)、チベット族の権利について

 

第1条 各族は、漢族と完全に同等とする。 

 

第2条 各族はその私有財産を保護される。

 

第3条 王公その他の爵位の称号は従来通りとする。

 

第4条 生計困難の王公は生活費を支給される。

 

第5条 八旗の生計に関する定めは速やかに決定するものとするが、かかる定めがなされるまでの間は八旗の俸給は従来通り支払われる。

 

第6条 各族に対する交易及び居住制限は廃止され、今後各省県に自由に居住することを認められる。

 

第7条 満州族、蒙古族、回族、チベット族、各族は、完全に信仰の自由を有する。

 

この清国皇帝退位協定は、北京に駐在していた日本を含む欧米列強各国に伝達されました。

 

つまり、漢民族と満州族など他の部族の立場は同等であり、支配者、被支配者という従属関係はないと規定されています。

 

また、清国皇室は、その身分が保証され、当面、北京にある紫禁城に滞在することを認められていました。

 

その後、大正10年(1921年)12月13日、米国ワシントンにて開かれた軍縮会議にて、”支那に関する9カ国条約”が締結されました。

 

9カ国とは、米国、英国、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、支那(Republic of China)となります。

 

9カ国条約の第一条には次のように規定されています。

 

第一条(1)支那国の主権と独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること。

 

(2)支那国が実効性を有し、かつ安定した政府を自ら確立し、維持するために、最も安全で、かつ最も障壁のない機会を提供すること。

 

(3)”支那国の国土全体において”、あらゆる国による商取引及び工業の機会を均等する原則を有効に確立し、維持するために各国は尽力すること。

 

この支那に対する9カ国条約における”支那”とは一体どの地域を指すと思われますか?

 

かつて清国が統治していた、蒙古、満州(現在の中国東北部)、チベット、東トルキスタン、支那(現在の華北、華中、華南)の地域でしょうか?

 

実は、この”支那”についての定義を明確に規定しないまま、9カ国条約は調印されてしまいました。

 

第一条(3)に、”支那国の国土全体において”と規定されており、これは無制限の拡大解釈の余地を与えてしまう危険がありました。

 

日本国全権の幣原喜重郎はこのことに気づき、ワシントン会議の議長であるヒューズ(米国国務長官)に質問しましたが、曖昧な回答で終わってしまい、幣原もそれ以上深く追求することをせずに、条約を受け入れてしまいました。

 

また、フランス全権ブリアン首相が、「”支那”とはどこを指すのか明確に定義すべきである」と提案しましたが、ヒューズ米国国務長官はこの提案を拒否。

 

この結果、その後、日本が満州で行った行為を全て、9カ国条約に違反するとして、欧米列強から断罪されてしまうこととなりました。

 

清国が崩壊したのち、清国が統治していた地域は、複数の軍閥による軍事独裁政権によって内乱状態となっていました。

 

その一つが国民党政府(蒋介石軍閥政府)となります。

また、満州を支配していたのは張作霖軍閥であり、その死後は、張学良軍閥でした。

 

欧米列強は、この国民党政府(蒋介石軍閥政府)を支那全土を統治している支那共和国(Republic of China)として、承認していました。

 

昭和6年(1931年)、柳条湖事件をきっかけにして日本陸軍(関東軍)が、満州を支配していた張学良軍を追い払い、満州全土を制圧。(満州事変)

 

昭和7年3月1日、満洲国の建国が宣言され、国家元首にあたる「執政」には、清朝の遜帝である、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が就任しました。

 

昭和7年3月9日に、溥儀の執政就任式が新京で行なわれました。

 

昭和7年(1932年)3月、国民党政府(蒋介石軍閥政府)の提訴により、国際連盟により派遣されたリットン調査団が、満州に入り約5ヶ月間調査して、9月に報告書を国連に提出。

 

昭和8年(1933年)2月、ジュネーブの国際連盟の特別総会において、審議(裁判)が開始されました。

 

漢民族である国民党政府(蒋介石軍閥政府)は、満州へ移住してきた漢民族による、満州の土地の所有権を盾にして、満州の領土の主権を主張しました。

 

当時の満州国の人口は2800万人であり、そのうち移住してきた漢民族は約500万人でした。

 

国民党政府(蒋介石軍閥政府)は、満州の住民のうち、漢民族の割合は9割8分であると主張しました。

 

国際連盟における審議(裁判)の結果、その主張が認められて、昭和8年2月24日、満洲国の存続を認めない勧告案(「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」)が採択。

 

満州は国民党政府(蒋介石軍閥政府)の領土である、という審判が下されたのです。

 

欧米列強は、漢民族である国民党政府(蒋介石軍閥政府)を、9カ国条約において、支那の統一した中央政権であるとみなしていました。

 

そして、かつて清国へ忠誠を誓っていた、蒙古族、満州族、チベット族、イスラム教族、トルキスタン族など、独立した民族が、その独立権を国民党政府(蒋介石軍閥政府)に譲渡したとみなしました。

 

しかし、清国政府と孫文(支那共和国臨時政府)との間で締結された、”清国皇帝退位協定”において、蒙古族、満州族、チベット族、イスラム教族(回族)、トルキスタン族は、漢民族と同等であると規定されています。

 

欧米列強が、”清国皇帝退位協定”を無視して、特定の民族(漢民族)の軍閥である蒋介石軍閥政府を、支那を統一した国家とみなした、9カ国条約。

 

この9カ国条約を根拠として、日本が建国した満州国は違法であると断罪されました。

 

そして、蒋介石軍閥政府が満州の領土を保有することを、合法化されてしまったのです。

 

(参考図書「満州国建国は正当である」ジョージ・ブロンソン・レー著 PHP)