ある長崎原爆孤児 亡くなった弟を背負い直立不動の兄 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

昭和20年8月9日、長崎に原爆が落とされました。

 

終戦後の昭和20年9月22日、海兵隊が、占領軍として長崎県佐世保市に上陸しました。

 

そして、海兵隊の中の記録班が、長崎の原爆の投下された街(グラウンド ゼロ)を写真撮影して周りました。

 

その記録班の中で、軍規に違反して、決められたカメラではない自分のカメラを持ち込んで、長崎の街の様子を写真撮影した兵隊がいました。

 

彼は、許可なく日本人を撮影してはならないと決められていましたが、密かに爆心地にいた日本人を撮影していきました。

 

多くの子供が、親を亡くしていました。

 

生き延びた子供は、幼い弟や妹を親代わりに育てていました。

 

彼は、救護所に行きました。そこにいたけが人は、耳も鼻も眉毛も髪の毛もありませんでした。そのけが人は米兵をみて言いました。

 

「あなたは敵の兵隊ですね。私を殺してください。」

 

その米兵は言葉を失い、その場を離れました。

 

彼(ジョー・オダネル)は語りました。

「傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に対する憎しみが消えていった。憎しみから憐れみに変わっていった」

 

彼は、多くの米国人同様、日本の真珠湾攻撃を聞いて、日本に憎しみを持ち、海兵隊に志願しました。

 

しかし、長崎の惨状を見て回るうちに、日本人への感情が変わっていったのです。

 

彼は語りました。

「川のほとりにあった火葬場に、少年が歩いてきました。彼は背中に幼い弟を背負っていました。

 

その火葬場にいた二人の男が、弟を背中から外し、そっと炎の中に置いた。彼は黙って立ち続けていた。

 

まるで敬礼をしているかのように。

 

炎が彼のほおを赤く染めていた。

彼は泣かず、ただ唇を噛み締めていた。

 

そして、何も言わず立ち去っていった」

 

また、次のように語りました。

「被爆者たちの体をうごめくウジ虫。助けを求める声。鼻を突く異臭。私は、長崎でみた光景を思い出すまいとした。

 

しかし、私の頭から離れることはできなかった。眠ろうとしても眠れない。私は長崎で撮影した写真を見ることができなかった。」

 

彼は戦後40年以上もの間、長崎で撮影した写真を、家族にも見せることなく封印してきました。

 

トルーマン大統領は、日本への原爆投下について次のように声明を発表しました。

 

「原爆投下は、戦争を早く終結させるために使用した。多くの若い米兵の命を救うためだった。」

 

ジョー・オダネルは、トルーマン大統領に質問しました。

「大統領、あなたは日本に原爆を投下したことを、後悔したことありませんか?」

 

トルーマン大統領は次のように答えました。

「それはある。しかし原爆投下については、私のアイデアではない。単に、前大統領であるルーズベルトの決断を引き継いだだけだ。」と。

 

今でも、多くの米国人は、原爆投下は正しかったと考えています。

 

なんの罪のない民間人を、一度に10万人も大虐殺した米軍。

 

長崎大虐殺、広島大虐殺、焼夷弾の空襲による東京大虐殺など、数えればキリがないほど、米軍による日本の民間人に対して行われた、大虐殺。

 

亡くなった弟を背中に背負い、無言で直立不動の姿勢をとっていた兄。

 

歯を食いしばり、立ち尽くしていた兄。

 

母親も亡くし、父もいなくなり、弟も亡くし、一人だけ生き残りました。

 

彼は、一人、爆心地で何を思っていたのでしょうか?