日露戦争の戦費調達のため、高橋是清に手を差し伸べてくれた、ユダヤ人金融家シフ | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

かつて日本がロシアと戦った日露戦争で、その戦争費用のための資金調達に奔走した、当時の日銀の副総裁、高橋是清。

 

高橋是清に手を差し伸べたのは、あるユダヤ人銀行家でした。

 

日本の戦争継続のために、どうしても必要な戦費調達を引き受けてくれる金融機関を、探さなくてはなりませんでした。

 

日露戦争開戦の前年、明治36年(1903年)12月には、日本銀行には円を含めて、1億6、796万円しかなく、開戦3ヶ月後の5月には、6、744万円まで大きく落ち込んでいました。

 

高橋是清は、第一回の戦費調達として、1、000万ポンドの資金調達の任務を受けました。

 

彼の肩に、日本の国運が重くのしかかっていました。

 

まず米国のサンフランシスコとニューヨークの金融機関を回りましたが、日本の国債を買ってくれる銀行はなく、全く相手にしてくれませんでした。

 

それも当然の結果でした。当時、世界の大国ロシアを相手に、小国日本が勝つ見込みはないと誰もが判断していたからです。

 

次にイギリスに渡りましたが、そこでも同じでした。

日英同盟が2年前に締結されていたので、好意的に迎えてくれるかと思ったのですが、日本に投資するとなると、誰もが尻込みしました。

 

それでも、イギリスの銀行団に500万ポンドの日本国債を引き受けてくれる約束を取り付けることができました。

 

しかし、1、000万ポンドにままだ足りません。

高橋是清は焦りました。

 

ほとんど諦めかけていた時に、たまたまイギリスの銀行家の友人が自宅での晩餐会に招待されました。

 

そこでたまたま隣に座ったある米国の金融家が熱心に、日本の現状を聞いてきました。

 

日本軍の士気は高いのか?とか、細かく質問されましたが、高橋是清はその質問に対して、丁寧に回答しました。

 

高橋是清は自伝の中で、その金融家との最初の出会いを次のように回想しています。

 

「食事中、彼はしきりに日本の経済上の状態、生産の状態、開戦後の人心について細かく質問するので、私もできるだけ丁寧に応答した。

 

そうして、この頃ようやく500万ポンドの公債を発行することに銀行者との間に内約ができて満足はしているが、政府からは、年内に1000万ポンドを募集するように、申しつけられている。

 

しかし、ロンドン銀行家たちがこの際、500万ポンド以上は無理だと言うので、止むを得ぬと合意した次第であると言うような話もし、食後にもまた色々な話をして別れた。」

(「高橋是清自伝」)

 

次の日の朝、イギリスの銀行家が高橋を訪ねてきて、昨晩の宴会で隣に座った米国の銀行家が、日本の国債を引き受けようと言っている、と連絡を受けました。

 

なんと、残り500万ポンドの日本国債を引き受けてくれるというのです。

 

その金融家の名前は、ヤコブ・ヘンリー・シフといいました。

 

シフは、ドイツ生まれのユダヤ人で、米国ニューヨークでクーン・ローブ商会と言う大きな投資銀行を経営していました。

 

明治37年(1904年)5月の時点では、日本軍はまだ大きな戦果をあげていませんでした。

 

それでも、シフは国債を引き受けてくれたのです。

そればかりか、全世界のユダヤ人に対して日本の戦時国債を買うように呼びかけてくれました。

 

そのおかげで、日本が日露戦争の期間中、発行した戦時国債7、200万ポンドのうち、半分以上の4、100万ポンドをユダヤ人が引き受けてくれました。

 

なぜ、シフは、初対面の高橋是清に500万ポンドもの国債を引き受けてくれたのでしょうか?

 

なぜ、シフは、誰も勝ち目はないと思っていた日本の最大の支援者となってくれたのでしょうか?

 

高橋是清の自伝には次のようにあります。

「シフ氏が何故に自ら進んで、残りの5、000万円を引き受けようと申し出てきたのであるか?

 

当時、私にはそれが疑問で、どうしてもその真相を解くことができなかった。何しろ、私はこれまでにシフという人については、名前も聞いたことがなく、わずかに前夜ヒル氏の家で、ただ一度会ったきりである。

 

ことに2ヶ月前、日本から米国に渡り、ニューヨークの銀行家や資本家に当たってみて、米国では到底公債発行の望みはないと見切りをつけ、英国へと移ったくらいであるから、

 

米国人のシフがしかも欧州大陸からの帰路、一夜偶然に出会って雑談したのが因となり、翌日、すぐに5、000万円を一手で引き受けてくれようとは、まるで思いもかけぬところであった。

 

しかるに、その後シフ氏とは非常に別懇となり、家人同様に待遇されるようになってから、段々、シフ氏の話を聞いているうちに、初めてその理由が明らかになってきた。

 

ロシア帝政時代、ことに日露戦争前には、ロシアにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、官公史に採用されざるはもちろん、国内の旅行すら自由にできず、圧政その極みに達していた。

 

故に、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシアのユダヤ人を、その苦境から救わねばならぬと、種々物質的に助力するとともに、直接ロシア政府に対しても色々と運動を試た。」

(高橋是清自伝」)

 

ロシアでは、1881年から1884年にかけてと、日露戦争の前年の明治36年(1903年)から明治39年(1906年)にかけて、ロシア政府黙認の下、ロシア全土でユダヤ人大虐殺が行なわれました。(反ユダヤ主義・ポグロム)

 

明治36年(1903年)4月に起きたポグロムは、ロシア官憲が先導して、ユダヤ人街が襲撃され、49人のユダヤ人が虐殺され、500人以上が重軽傷を追いました。

 

600軒以上のユダヤ人商店と700件以上のユダヤ人住居が略奪されて、放火され、焼き払われました。

 

この襲撃にはキリスト教神学校の教師や、学生たちも銃や棍棒を持って、加わりました。

 

ヤコブ・ヘンリー・シフは、次のように述懐しました。

 

「ロシア帝国に対して立ち上がった日本が、ロシアを罰する、”神の杖”であるに違いない、と考えた」と。

 

このような歴史的背景があったので、全世界のユダヤ人にとっても、日露戦争での日本の勝利に、狂喜しました。

 

もしシフが高橋是清と出会っていなかったら、また、もし、シフが高橋是清に手を差し伸べてくれなかったら、日本は日露戦争を継続することができず、勝利することもできなかったかもしれません。

 

(「参考図書「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著)