子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -29ページ目

 

 

最後の李氏朝鮮の王妃となった、李方子(梨本宮家)王妃のお話です。

 

大正5年(1916年)8月3日の早朝、避暑のため大磯の別邸に滞在していた際、方子様が、手元にあった新聞を何気なく開いたら、

 

「李王世子のご慶事ー梨本宮方子女王陛下と御婚約ご内定」

 

との大見出しとともに、ご自身の袴姿の写真と大韓帝国皇太子・垠殿下の写真が並んで掲載された記事が書かれていました。

 

この新聞記事を読んで、方子様は、両手を震わせるほどの衝撃を受けました。

 

東京に戻った方子様は、父から正式に婚約の話を聞かされ次のようにはっきりと答えました。

 

「よくわかりました。大変なお役だとは思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます。」と。

(「朝鮮王朝最後の皇太子妃」本田節子著)

 

当時は皇室に限らず、本人同士の恋愛結婚より、親や親戚などの話し合いによる見合結婚が多かったのです。

 

方子様はまだ15歳でした。

 

夏休みが終わり、通っていた学習院では、当時の朝鮮人女性の特徴であった髪を、中心から分けてゆい合わせる髪型で、方子様は出席しました。

 

周りのご学友は、方子様の朝鮮の皇太子妃となる決意を感じました。

 

明治40年、11歳になる大韓帝国の皇太子である垠殿下は、日本に留学に来ました。

 

明治42年7月6日、「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」が閣議決定されました。

 

当時の米国は歓迎し、イギリス、ロシア、ドイツ、フランスもこれを了承しました。

 

垠殿下の太子大師(皇太子の主任教師)を勤めていた伊藤博文は、明治42年10月26日、ハルビンにて、朝鮮のテロリストに暗殺されてしまいました。

 

その後、垠殿下は「伊藤公が生きておられたら」と、よく、語っていました。

 

明治43年8月29日の日韓併合後も、李王家は、日本の皇室の一員として、高い地位を与えられていました。

 

終戦時の日本の首相の年俸が1万円だったのに対して、李王家の皇族費として支給されていた金額は、120万円でした。これは日本の皇室に次ぐ巨額のお金でした。

 

さらに4千万円の貯金も所有していました。

 

大正9年4月28日、東京の鳥居坂の李王邸にて結婚式が執り行われました。

 

この時、方子様は、

「王冠を乗せた瞬間、思わず身が引き締まり、同時に旧朝鮮王妃としての責任が、重くのしかかってきたのを感じました。」と自伝に書かれました。

 

2年後、王子が誕生。大正11年(1922年)4月、家族で朝鮮に帰国することとなりました。

 

しかし、王子は、朝鮮での最後の晩餐会の後、急に青緑色のものを吐き続けて、八ヶ月で亡くなってしまいました。

 

方子様は、この時の様子を次のように書かれています。

 

「2週間にわたる数々の行事も終わって、いよいよ明日はこの地を去ると思えば、名残りが惜しまれてきて、何とは無しに寂しさを覚えたのは、

 

殿下のみならず、私にとっても晋王子にとっても、この国(朝鮮)、この地が故郷であることを、心でも、肌でも、確かめることができたからでしょう」と。

 

昭和6年12月29日、待望の男子誕生。

 

皇室典範では、男子がいないときは、王家廃絶となっていたので、朝鮮王家の存亡の危機の重圧が、方子様にものしかかっていたのです。

 

方子様は次のような歌をうたわれました。

 

「つもりたる ととせ(10年)のなやみ 今日晴れて 高き産声 きくぞ嬉しさ」

 

垠殿下は昭和10年、栃木県宇都宮の日本陸軍の連隊長として赴任。家族とともに宇都宮に移り住みました。

 

昭和20年8月15日、終戦。

 

占領軍は皇室の解体に取り掛かりました。

 

それまで宮内庁から支給されていた歳費は停止され、財産も財産税として、ほとんど取り上げられて、皇族の身分も剥奪されてしまいました。

 

この時期、方子様は次のように決心しました。

 

「これからは私が強くなって殿下はそっと静かに、したいように暮らしていただこう。戦うのも私、守のも私なのだ」と。

 

昭和25年、来日していた韓国初代大統領、李承晩(リ・ショウバン)と垠殿下は会談の機会をえました。

 

「帰国したいなら帰って来なさい」と、李承晩から冷たく言い放たれたので、垠殿下は韓国への帰国を諦めました。

 

昭和36年クーデターにより政権奪回に成功した朴正煕(ボク・セイキ)が、脳梗塞で療養中の垠殿下の容体を心配して、療養費を韓国政府が負担するので、韓国に帰国するように連絡しました。

 

昭和38年11月22日、垠殿下と方子様は韓国に渡りました。

 

終戦後、李承晩(リ・ショウバン)政権による反日政策のため、反日感情に渦巻いている韓国の渦中に、方子様は飛び込みました。

 

「チョッパリ女、出て行け!」

 

と罵倒されたりしました。

 

”チョッパリ”とは、豚足のことであり、足袋で草履を履いていた日本人のことを、豚の足の蹄のようだと揶揄した、侮辱用語になります。

 

昭和45年、垠殿下は亡くなりましたが、その意思を受け継ぎ、反日感情に渦巻く四面楚歌の生活で、方子様は、知的発達障害児のための教育を行うことをはじめました。

 

ポリオなどで小児麻痺の子供がいると聞くと、その家庭に訪問していきました。

 

大学の一室を借りて、交通費だけで引き受けてくれた先生を見つけ、机などは古道具屋で安く買取り、細々と障害児学校を始めました。

 

学校運営のための資金集めのために、方子様は、それまで趣味で作っていた七宝焼の陶器を売りに出たり、朝鮮王朝衣装ショーを海外で行なったりしました。

 

その甲斐あって、あらたに土地を探し、建物を立てて、「慈恵学校」が出来上がり、生徒数も150名にまで増えました。

 

昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇が崩御されました。享年87歳。

 

その約4ヶ月後の平成元年(1989年)4月30日、方子妃殿下が逝去されました。享年87歳。

 

平成元年5月8日、古式に則って、千人の従者を伴った葬礼の行列が、旧朝鮮王朝王宮から王家の墓まで、2キロの道を進みました。

 

準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列しました。

 

日韓の架け橋になろうと、15歳の時に決意された方子様。

 

「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と述べられました。

 

方子様は、昭和天皇が皇太子時代に、お妃候補として名前が上がった方でした。

 

日本の皇室と、朝鮮王朝は対等な関係だったのです。

 

もし、方子様が朝鮮王妃ではなく、昭和天皇のお妃となられていたら、どんな人生を歩まれたのでしょうか?

 

参考図書

「世界が賞賛する国際派日本人」伊勢雅臣著 扶桑社

 

 

 

インドネシアは、350年間にわたり、オランダによって植民地支配されていました。

 

昭和17年(1942年)3月1日、日本軍5万5千人がインドネシアのジャワ島に上陸。

 

350年間もの間、インドネシアに君臨していたオランダ軍を、たったの7日間で駆逐してしまいました。

 

オランダ軍を駆逐した日本軍は、祖国防衛義勇軍(PETA)を創設して、インドネシア人の青年たちに軍事教練をして、厳しい規律や忍耐心を教えて、勇猛心を植え付けました。

 

また、日本軍は、それまでインドネシアで高い地位を占めていたオランダ人を一掃して、インドネシア人に高い地位を与えました。

 

それまで公用語であったオランダ語を禁止して、インドネシア語を公用語として普及させました。

 

ジャワに民族結集組織(プートラ)や奉公会(ホーコーカイ)を全土に作り、組織運営の方法をインドネシア人に指導しました。

 

祖国防衛義勇軍(PETA)は、3万8千人に膨れ上がりましたが、昭和20年8月15日、日本軍が降伏。

 

その2日後の昭和20年8月17日、ハッタとスカルノによって、インドネシア独立宣言が行われました。

 

ハッタとスカルノはともに、祖国防衛義勇軍(PETA)で、日本軍による厳しい軍事教練を受けていました。

 

オランダ軍は、インドネシアの独立を認めず、再度インドネシアに侵略して、植民地化しようと試みました。

 

オランダ軍は、日本軍が降伏後のインドネシアを侵略し、植民地化することは、とても容易いことと考えていました。

 

ところが、それまで日本軍によって厳しい軍事教練を受けていた祖国防衛義勇軍(PETA)が立ち上がったのです。

 

日本軍は、連合国に対して武装解除をしていたので、武器弾薬を連合国によって接収されてしまいました。

 

そのような中、日本兵は、武器を奪われたふりをして、意図的にインドネシア独立軍に、武器を置き忘れてきたりしました。

 

日本軍は、終戦前に航空兵の練習のために、多くの初級練習機をインドネシアに運び込んでいました。

 

そして、祖国防衛義勇軍(PETA)に飛行操縦も教えていました。

 

インドネシア独立軍は、日本軍の初級航空機と、日本兵が、意図的に置き忘れていった武器弾薬を使って、オランダ軍と戦いました。

 

日本軍は武装解除しているので、イギリス、オランダ連合軍に間違われないように、練習機に描かれていた日の丸の半分を、白に塗って戦闘に参加しました。

 

インドネシアの国旗が紅白なのは、この時の戦闘機のマークが由来と言われています。

 

ジャワ島では、インドネシア共産党過激派が、武装解除して無抵抗の日本兵を襲撃。

 

民間人合わせて日本人400名あまりが、刑務所に拉致監禁されてしまいました。

 

止むを得ず、降伏した日本兵が、日本人救出のため再び戦闘を開始して、300名を救出することができましたが、すでに130名は虐殺されていました。

 

共産党過激派は、日本人たちを、小さな部屋に35人ずつ押し込め、日本軍から略奪した機関銃を使い、虐殺しました。

 

どの部屋も血の海に日本人の死体が折り重なっていました。

 

壁には、息をひきとる寸前に、「大義に死す」「インドネシア独立万歳」など、血で文字を書き残していました。

 

大東亜戦争を戦った日本軍は、アジアの植民地を解放して独立させることを大義としていました。

 

日本降伏後に起きたインドネシア独立戦争には、約2、000名の日本兵が、インドネシア人とともに戦いました。

 

そのうち、約1、000名の日本兵が戦死しました。彼らはインドネシアの英雄として、ジャカルタのカリバタ英雄墓地に埋葬されました。

 

1949年8月23日に、オランダの首都ハーグで会議が開催され、

1949年12月27日、オランダは、インドネシアの主権をインドネシア連邦共和国に移譲。

 

独立戦争が終結しました。

 

インドネシアには昔から次のような神話がありました。

 

”北方から馬にまたがる黄色い皮膚をした英雄が現れ、白人たちを追い払い、インドネシアの独立を助けて、救ってくれる。

 

そしてトウモロコシを実をつける頃には、その英雄たちは立ち去っていく。”

 

昭和20年8月17日に、ハッタとスカルノのが著名したインドネシア独立宣言書は、”05年8月17日”となっています。

 

この年は、西暦でいうと1945年であり、イスラム歴(ビジュラ歴)では1364年となります。

 

イスラム教徒であるインドネシア人は、その大切な独立記念日としてイスラム暦を使わず、05年8月17日と記録しました。

 

この「05年」とは、日本の皇紀2605年の意味でした。

 

参考図書

「なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか」

 加瀬英明、ヘンリーストークス著 祥伝社

 

 

 

韓国 天安市生まれの、在日である成田豊氏は、平成5年(1993年)に電通の社長就任。

 

韓流ブームを作った成田豊氏は、平成23年(2011年)に死去するまで、電通を支配していました。

 

電通とはどのような会社かといいますと、日本最大手の広告会社でありますが、全国放送をしている大手テレビ局のほか、新聞やラジオ、雑誌すべてを実効支配しています。

 

事実上、日本のテレビ局やそのほかの報道機関は、電通の子会社である、ということができるほどです。

 

平成14年(2002年)のサッカー・ワールドカップ日韓共同開催されました。この時の日本のマスメディアは、韓国を持ち上げるような番組制作の傾向が、より一層強くなりました。

 

平成15年(2003年)、「冬のソナタ」のNHKの放送をきっかけとして、韓流ブームが始まりました。

 

海老沢勝二氏は、在日韓国人などに支配されている報道機関から、日本を守ろうと必死に考えていました。

 

日本の民放は、報道といっても視聴率を優先しがちであり、結局は金儲けを優先してしまう、と海老沢勝二氏は語っていました。

 

その民放を支配している電通。

 

その電通をNHKの力で封じ込めなければならない、と海老沢勝二氏は考えていました。

 

マスメディアを事実上支配している電通。その電通の皇帝とまで言われていた成田豊氏に対して、圧力をかけることができる唯一の報道機関は、当時、海老沢勝二氏が支配していたNHKだけでした。

 

しかし、海老沢勝二NHK会長は、平成17年(2005年)1月、芸能部の不正追及をされたため辞任。

 

その後、NHKと民放で共同制作する放送機構である、ジャパンコンソーシアム(JC)は、2012年のロンドンオリンピックの放送権料を、325億円で合意しました。

 

4年前の2008年の北京オリンピックの放送権料が、198億円、トリノ冬季オリンピックが45億3千万円で、合計243億3千万円でした。

 

4年間での価格上昇は、通常約1割と言われているので、北京の次のロンドン夏季オリンピックとバンクーバー冬季オリンピック合計で、270億円位が妥当でした。

 

それが、なんと325億円で合意したと報道されたのです。

 

差額の約55億円はどこへいってしまったかというと、IOCの代理店である電通に流れたと言われています。

 

ジャパンコンソーシアム(JC)が支払う負担割合は、NHKが70%ですので、これにより、NHKもついに、電通に乗っ取られていたことが明らかとなりました。

 

在日韓国・朝鮮人たちに支配されている電通に、乗っ取られてしまったNHK。

 

かつて、電通にとって目の上のたんこぶ的存在であった、海老沢勝二NHK会長。

 

海老沢勝二氏を不正追及して辞任に追い込んだ、電通に支配されているマスメディアの勝利でした。

 

参考

You Tube番組 立花孝志氏(元NHK職員)より

 

 

 

昭和20年8月15日、日本が降伏しました。

 

それから間も無く、国鉄深川駅構内の貨物列車を襲撃して、配給物資を略奪。

日本全国に滞在していた在日朝鮮人たち(三国人)は、略奪、暴力、婦女暴行(レイプ)を繰り返していました。

 

三国人は、特攻隊員の特攻服を好んで身につけていました。

 

袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、 腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引さげていました。

 

通報を受けて、日本の警察官が現場に行っても、在日朝鮮人たちは、「俺たちは戦勝国民だ、敗戦国のくせに生意気だ」と言って、全く太刀打ちできませんでした。

 

終戦時、日本国内には、在日朝鮮人と在日台湾人は、約200万人住んでいました。

 

兵庫県には、日本全国の在日(三国人)のうち、7%に当たる13万5千人が住んでいました。

 

在日たちは、三国人連盟を日本全国に300箇所作り、テロや略奪を繰り返して、その略奪した品物を闇市で売ってぼろ儲けしていました。

 

そんな無法地帯と化した神戸の街を救った、ある男がいました。

 

彼は、昭和20年8月末、人通りもすくない病院の裏手で女の悲鳴を聞きました。

途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。

 

「どないしたんや」

「おかあちゃんが、おかあちゃんが」

 

少女は泣きじゃくりながらその男にしがみついた。

この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。

 

「ここにいるんやで。ええな」

 

男は、少女をその場において一目散に走った。

少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。

 

その在日たちは、不敵な笑いを浮かべて、女の手足を押さえつけて、一人が、その女の上に乗っかっていました。

 

女はひたすら絶叫していました。

 

「汚ねえ」

 

男は、その光景を見た瞬間、とっさに目潰しを、相手の在日朝鮮人たちに与えました。

目から血を流しながら、在日たちが逃げ去って行きました。

 

レイプされていた女性は、ぼろきれのようになって、その場で放心状態になっていました。

 

「しっかりするんや、わかるか」

 

と体を揺り動かしても、虚ろな瞳孔を開いたまま、突然けたたましい笑いました。

精神的ショックのために、精神に異常をきたしてしまったのでしょう。

 

この女性の娘は、遠くからじっとこちらを凝視して立ちすくんでいました。

 

「許せん!」

 

男の血は激しく燃えちぎりました。

 

「このまま、在日たちに神戸の街をのさばらしておいていいのか!

 

報復を恐れて誰も立ち上がらないのなら、俺一人でも立ち上がり、在日の奴らの前に立ちふさがってやろう。

 

私は許せないのだ!」

 

無法地帯と化した神戸の街を救おうと、男は自警団を組織しました。

そして警察の代わりに神戸の街の治安維持に努めました。

 

その男の名は、田岡一雄。

 

のちの山口組三代目組長となる人でした。

 

参考図書

「山口組三代目 田岡一雄自伝」

 

 

 

昭和20年8月、北朝鮮に住んでいた方の日本への引揚の体験談です。

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彼は、終戦当時10歳で羅南中学に通っていました。弟が二人の三人兄弟で家族5人で、朝鮮半島に暮らしていました。

 

彼の父は、鉄道員でした。

 

昭和20年8月9日前後、ソ連軍が満州や北朝鮮に空爆を開始しました。

 

清津という町にいた彼は、無蓋列車で吉州駅に向かいました。

駅では、「日本人帰れ」とか「朝鮮独立」などのプラカードを掲げた朝鮮人たちがいました。

 

日本人たちは、それまで住んでいた家を捨てて、避難を始めました。

朝鮮人は、空き家になった日本人住宅に残っていた家財道具を、盗んでいきました。

 

白昼堂々と行われている泥棒行為。しかし、それを取り締まる警察もありませんでした。

 

少年は、それまで味わったことのない恐怖を感じました。

 

終戦に伴い朝鮮半島、特に北朝鮮は無政府状態になっていました。

それまで存在していた、大日本帝国は滅びてしまったからです。

 

それまで、警察という存在があり、大日本帝国という国家権力が存在していたからこそ、命と生活の安全が守られていたのです。

 

少年は、この時、目に見えない国家の力が、その民族にとってどんなに大切なことかということを、つくづく思い知らされました。

 

家族と合流し、20人ほどの日本人とともに、機関車で、南下することにしました。

 

すると、鉄橋の下で、ソ連兵の戦車が待ち構えていました。止まれと合図しているように見えましたが、そのまま汽車は走っていると、車輪めがけて砲撃され、汽車は脱線してしまいました。

 

やがてソ連兵が汽車のところにきて、「ヤポンスキー?」と聞いてきました。

 

そして、日本人たちが持っている腕時計や万年筆、ボールペン、果物ナイフまで奪っていきました。

 

ソ連兵は、大人の男たちを日本兵と思い込み、捕虜として拘束しようとしましたが、我々は鉄道員であると、身振り手振りで必死に訴え、やっと解放されました。

 

危うく、シベリアに強制連行されるところでした。

 

それから、一行は、城津という町まで歩いていきました。そこで、別荘のような建物にしばらく滞在することになりました。

 

しばらくするとソ連兵がやってきました。

日本人たちが持っていた荷物を片っ端から奪っていきました。

 

日本人たちは、何も抵抗することができません。抵抗したら、射殺されてしまうからです。

 

それから、ソ連兵たちは、毎日のようにやってきて、金目のものを奪っていきました。

 

また、ソ連兵はものを奪っていくだけではありませんでした。

 

「マダム、イッソ?(女性はいるか?)」

「マダム、ダワイ(女をくれ)」

「ヤポンスキーマダム、イッソ?(日本人女性いるか?」

 

と日本人たちに聞いて回りました。

 

その間、日本人は皆、正座をして、両手を上げていました。

 

そして、日本人女性を見つけると、強制的に連行していきました。

ソ連兵の目的は、婦女暴行(レイプ)です。

 

その日のうちに帰ってくる人もいれば、何日も帰ってこない人もいました。

 

皆半病人のようになって帰ってきました。

 

女性たちは皆、髪の毛は丸坊主にし、男性の服装をし、顔にも炭を塗って浅黒くしていました。

 

それでも、何度もソ連兵は、

 

「マダム、イッソ?」

 

とくるので、次第に男装した日本人女性も見破られるようになり、レイプの被害者も続出しました。

 

ある日、ソ連兵に連行されようとした妻をかばい、抵抗したご主人が射殺されました。

 

そのあと、残された奥さんと、小さな娘さんは、夫の亡骸の前で、放心状態でした。

 

また、ある日、朝鮮人たち30名ほどが庭から一斉に家の中に入って来ました。

 

彼らは、日本人が持っている持ち物を片っ端から持ち逃げしていきました。

 

すでに、ソ連兵から金目のものの多くを盗み取られていたのですが、それに追い打ちをかけるように、今度は朝鮮人から、盗み取られていきました。

 

病人の寝ている布団から、少年の中学校で使っていたカバンまで、取れれていきました。

 

少年の父親が、保安隊に連絡に行きましたが、保安隊も朝鮮人です。

日本人難民を保護するようなことはしませんでした。

 

城津の町に、他の地域から何十里も歩いてたどり着いた日本人がたくさんいました。

 

ある母親は、別荘の玄関にたどり着いたけれども、そこでボロ布のように倒れて、6歳の少年がその母親のそばで、ポツンの座っていたこともありました。

 

その母親は、「この子だけ、お願いします。」と言い残して、亡くなってしまいました。

 

ある日、朝鮮人の保安隊が、宿舎にやって来て、ある少年の父親が連行されて行きました。

 

保安隊の宿舎では朝鮮人数名が待ち構えて、殴る蹴るの暴行を加えました。

 

理由は、鉄道員として勤務していた時、機関車の上から、その朝鮮人が立ち小便をしました。

 

それを注意して殴ったことがあったのですが、そのことを根に持っていた朝鮮人による復讐でした。

 

城津から成興府に移動しました。少しでも南下しようとしたのです。

そこで鉄道員の教習所として使われていた建物に、生活することになりました。

 

成興府に来てからもソ連兵による、「マダム、イッソ?」は続きました。

 

女子トイレの壁には、大きな穴が開けられており、夜、用をたしにトイレに入ると、待ち伏せしていたソ連兵が覗きこみ、女性とわかると、近くの畑に強制連行して行きました。

 

女性の悲痛な叫び声が夜中に聞こえて来ましたが、誰もなすすべがありませんでした。

 

ある雨の日、朝鮮人の保安隊が数人やって来て、荷物をまとめて外に出ろと命令しました。

 

雨の中、日本人たちは荷物をまとめて、外に整列すると、その朝鮮人は演説を始めました。

 

「36年の長い間、日本統治に苦しめられてきた朝鮮は、日帝から解放された。長年、日帝と戦って来た朝鮮人民の勝利である。

 

いいか、よく聞け、お前たち日本人は敗戦国民である。お前らが、過去にどんな非道を行なって来たか、よく考えろ。過去の思い上がった考えを捨てろ。」と。

 

彼らは共産主義者でした。

 

その後も共産主義を宣伝した朝鮮人の保安隊は、しばらくして、日本人避難民たちに対し、近くの宿舎への移動を命じました。

 

その宿舎に移動していると、地元の朝鮮人たちが入って来て、床や壁を引っ掻き回して出て行きました。

 

日本人に使わせるものはないと主張するように。

 

8月20日に38度線の軍事境界線が引かれ、南は米軍が管理し、北はソ連軍が管理することとなりました。日本軍は、それぞれの地域で、米軍とソ連軍に対して武装解除しました。

 

北朝鮮にある日本の軍事施設や、民間の工場の設備は全て、ソ連軍が接収して、ソ連に持ち帰って行きました。

 

日本人避難民たちは、38度線を超えて南下することができず、コジキ同然の暮らしをしなければなりませんでした。

 

コジキと言っても、ただのコジキではありません。

 

いつソ連兵や朝鮮人の保安隊から命を奪われてしまうかもしれません。

 

また、女性は、常に婦女暴行(レイプ)される危険と隣り合わせで暮らしていました。

 

ホームレスや被災者のために、ボランティアで炊き出しが支給されることはありません。毛布や布団が支給されることもありません。病院で治療を受けることもできません。

 

また、日本人避難民たちは、行動範囲も制限されていたので、働きに出ることも制限されました。

 

日本人避難民たちに待ち受けていたのは、飢餓との戦いであり、凍死との戦いであり、発疹チフスという伝染病との戦いでした。

 

宿舎での共同生活をしていた避難民たちは、冬が近づくにつれて、徐々に亡くなって行きました。

 

少年のお父さんも衰弱がひどく、とうとう亡くなってしまいました。

 

死者のための棺桶はなく、ムシロに巻かれて、日本人共同墓地に埋葬されていきました。

 

冬を越えた頃、ソ連兵は、日本人難民のために、消毒を無料で施すようになりました。

 

難民たちの衣服には、縫い目にぎっしりとシラミがたかっていましたので、その衣類を消毒するのですが、消毒しても、他からまたシラミが続々とやって来て、またシラミだらけになるので、意味がありませんでした。

 

また、ソ連兵は衰弱のひどい日本人を病院に入るように命じましたが、その病院と言っても、板の上に毛布一枚があるだけで、十分な治療も施されることはありませんでした。

 

少年が、シラミの大群を避けようと、隣に寝ていた女の子の頭を持ち上げたが、ひたいが冷たくなっていました。

 

すでに亡くなっていたのですが、何事もなかったかのように、また、横になって休みました。

 

死はすぐ隣あわせの暮らしをしていると、隣の子が亡くなっていても、気にならなくなっていました。

 

感覚が麻痺してしまっていたのです。

 

今まで生活していた家を奪われ、身の回りの手荷物も奪われ、日本内地への引き揚げもできず、働くこともできずに、ただ死を待つような暮らしでした。

 

これは、ソ連人と朝鮮人が、日本人難民のジワリジワリと死んで行くのを待っている、としか思えませんでした。

 

これは、日本人難民大虐殺です。

 

日本人難民たちは、誰にもこの惨状を訴えることができず、その日暮らしをしていました。

 

成興日本人世話会は、昭和21年2月時点で、成興地区の日本人難民の死者は2万人を突破した、と発表しました。

 

冬を越し、春になった頃、少年の家族四人とそのほかの生き残った人たちで、イチかバチかで、38度線を突破することになりました。

 

このまま収容所(宿舎での生活を例えて言っていました)暮らしをしていても、いつまで生き延びることができるかわからなかったためです。

 

荷物をまとめて、夜の1時に宿舎からこっそり脱出しました。

 

夜通し歩き続けて、日中も歩きました。2日目の夜が明けた頃、突然、止まれと命令されました。

 

日本兵の服装と日本刀を手に持った朝鮮人が、前に立ちふさがり、「金を出せ」と、要求しました。

 

「何もない」と答えると、手荷物を一つ一つ調べ始めました。そして、演説を初めました。

 

「お前たち日本人が、朝鮮にやってきた時を考えろ。皆手ぶらできたではないか。そして、お前たちは朝鮮人をこき使い、搾取して行っただろ。

 

お前たち日本人が朝鮮で得た地位も財産も、皆、朝鮮人が血と汗の犠牲の上にあるんだぞ。

 

だから、お前たち日本人を元の裸にしてやるんだ」と。

 

追い剥ぎは立ち去って行きました。

 

今度は、朝鮮人の保安隊に出会いました。

 

「お前たち凶器を持っていないだろうな」と聞かれましたが、持ってないと答えましたが、体温計を没収されました。

 

今度は二人の体格のいい男性に向けて、「日本兵だな」と聞かれたので、「違います。鉄道員です」と必死に説明しました。

 

しかし、「噓をつけ」と脅され、殴られました。

 

必死に懇願して、やっと、その保安隊から釈放されました。

日本兵に間違われていたら、シベリア送りとなるところでした。

 

5日目にまた保安隊に捕まり、身体検査が行われました。

一人一人個室に入れられて念入りに調べられました。

 

日本人難民は皆、わずかばかりの紙幣をみつからないように、衣類の間に縫い合わせていました。

 

ある日本人女性が個室に入ると、朝鮮人の保安隊員に辱めを受けたので、悲鳴をあげて出てきました。

 

その保安隊の検問を突破して、また歩いて行きました。

いつのまにか、少年の靴底は剥がれてなくなり裸足で歩いていました。

弟たちも同じでした。

 

皆、意識が朦朧とする中、足だけが動いていました。

 

その晩は、ある朝鮮人農家の家に宿泊させてもらいました。

 

38度線近くの朝鮮人農家では、同じような日本人難民たちを、お金を受け取って、短時間、泊めたりしてました。

 

しかし、あまり長く日本人を滞在させて、朝鮮人の保安隊に見つかってしまったら、拷問にかけられて、最悪、死刑となってしまいます。

 

ですので、日本人難民から、しばらく休ませてくれと頼まれても、断る朝鮮人が多かったです。

 

そんな中、ある朝鮮人農家が、暖かく日本人たちを受け入れてくれました。しかもお金はいらないと言うのです。さらに、お茶やキムチまで振舞ってくれました。

 

その農家は、もしかして保安隊に通報するのではないか。かえって怪しい、と感じましたが、とりあえず、休ませてもらうことにしました。

 

子供達含め、皆、爆睡していると、朝鮮人保安隊がやってきました。

 

やっぱり、と思いましたが、一通り身体検査が終わると、明日、また来るから、それまでここに留まるようにと命令されました。

 

保安隊が立ち去ってから、農家の主人がやってきました。

この農家に騙されたと、皆、思いました。

 

しかし、その主人はいいました。

 

「私は、戦前、日本人に大変よくしてもらいました。日本人にとても感謝しています。だから、今度は私が、あなた方日本人を助けたいと思っています。」と。

 

あっけにとられていると、次のようにいいました。

 

「明日、保安隊が来たら、皆さんを平壌に連行していくそうです。

平壌に連れて行かれた日本人は、生きて帰ってこれないと聞いています。

 

ですので、夜明けまえに、裏山に避難してください。

そこで、38度線を越えるまでの案内人を連れてきます。

 

あとはその人に従ってください。」と。

 

その朝鮮人農家の人は、地獄の中の仏様でした。

 

あくる日、裏山に隠れてからしばらくして、案内人が来ました。

 

彼は、今まで、日本人難民を連れて、何度も38度線を往復して来たそうです。

 

とても心強い案内人が来たと思いきや、3千円を要求されてしまいました。

 

全員の有り金全てを集めても足りません。仕方なく、その案内人は、日本人たちが来ていた服を剥ぎ取りました。

 

いよいよ、38度線越境です。

 

38度線を超えさえすれば、食料も医療設備も整った米軍が保護してくれます。そして、日本内地まで、無料で引き揚げさせてくれます。

 

まさに、38度線は生と死の境界線です。

この38度線を超えさえすればいいのです。

 

夜中に、はるか下に川が流れている崖っぷちを歩いていきました。その幅は、肩幅くらいしかなかったので、皆、這って進みました。

 

幸い、誰も崖の下に落下することなく通りすぎ、一山超え、二山超えて進んでいくと、土手の向こうに煙が登る町が見えて来ました。

 

ついに、危険区域を突破しました。気がついたら、案内人の姿がいなくなっていました。

 

その後、昭和21年5月14日、少年の母親と兄弟3人は、山口県仙崎港に到着しました。

 

日韓併合時代、多くの朝鮮人が日本内地に移住しまたし。また、日本人も朝鮮半島に移住しました。

 

日韓併合時代は、朝鮮半島は日本でしたので、国内移動でした。

 

しかし、終戦後、朝鮮半島に住んでいた日本人たちは、財産を全て剥ぎ取られた上に、飢餓と、凍死と、発症チフスの伝染病、それから、ソ連兵、朝鮮人からの婦女暴行(レイプ)と暴力の危機に怯えながら、難民として日本内地に帰って来ました。

 

その一方、日本内地に住んでいた在日朝鮮韓国人たちは、その多くは朝鮮半島に帰還しましたが、一部は「特別永住者」として、終戦後も、日本国内に暮らしています。

 

飢餓と、凍死と、発症チフスの伝染病、それから、日本人からの婦女暴行(レイプ)と暴力の危機に怯える心配もなく。

 

参考図書

「忘却のための記録」清水徹著 ハート出版

 

 

ブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王からのメッセージ 

(2011年11月17日 国会議事堂にて)

ーーーーーーーーーー

天皇皇后両陛下、並びに日本国民の皆様に、深い敬意を評しますとともに、この度、日本国国会で演説をすることを、賜りましたことを、謹んでお受けいたします。

 

 

衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、ご列席の皆様、世界史において、かくも傑出し重要性をもつ機関である日本国国会の中で、私は偉大なる叡智、功績を持つみなさまに対して、一人の若者として立っております。

 

皆様のお役に立てるようなことを、私から多くを申し上げられるとは思いません。それどころか、歴史的多くを得ようとしているのは私の方です。

 

このことに対して感謝申し上げます。

妻と私は、結婚のわずか一ヶ月後に日本に、お招きいただき、ご厚情を賜りましたことを、心から感謝申し上げます。

 

これは両国間の長年の友情を支える、皆様の寛大な精神の現れであり、特別のおもてなしであると、認識しております。

 

ご列席の皆様、先代国王、ブータン政府、ブータン国民からの、皆様への祈りと祝福の言葉をお伝えしなければなりません。

 

ブータン国民は、常に日本に強い愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を心情的に分かち合ってきました。

 

3月の壊滅的な地震と津波のあと、ブータンのいたるところで大勢のブータン人が寺院を訪れ、日本国民に対して慰めと支えを与えようとして、供養のための、お祈りを捧げつつ、ささやかながら心のこもった勤めを捧げるのを目にし、私は深く心を動かされました。

 

私は、押し寄せる津波のニュースを、なすすべもなく見ていたことを覚えております。

 

その時からずっと、私は愛する人々をなくした人々の苦しみ、生活基盤を失った人々、人生が完全に変わってしまった若者たち、大災害から復興しなければならない、日本国民に対する深い同情を、直接お伝えすることができる日を、待ち望んでまいりました。

 

いかなる国も国民も、決してこのような苦難を体験するべきではありません。

 

しかし、このような不幸からより強く、より大きく立ち上がることができる国が、ひとつあるとすれば、それは日本と日本国民であります。

 

私は、そう確信しております。

 

皆様が生活を再建し、復興に向けてあゆむ中で我々ブータン人は、皆様とともにあります。

 

我々の物質的支援は、我々に友情は思いやりは、心からの支援

 

ご列席の皆様、我々ブータンに住む人々は、常に日本国民を親愛なる兄弟姉妹であると考えてまいりました。

 

両国民を結びつけることは、家族の誠実さ、そして、名誉を守り個人の欲望よりも、地域社会や国家の望みを優先し、自己よりも公益を高く持ち続ける強い気持ち、であります。

 

2011年は、両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。

 

しかし、ブータン国民は常に公式な関係を超えた、特別な愛着を、日本に対して抱いておりました。

 

私は、我が父と、その世代のものが、何十年も前から、日本が、アジアを近代化に導いていくのを、誇らしくみていたのを知っています。

 

すなわち、日本は、当時、発展途上国であったアジアに自信と、その進むべき道の自覚をもたらし、以降、日本の後に続いて、世界経済の最先端に躍り出た、数多くの国々に希望を与えてきました。

 

日本は過去にも、そして現在においてもリーダーであり続けます。

 

このグローバル化した世界経済に置いて、日本は技術と革新の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。

 

世界は、常に日本のことを、大変な名誉と誇り、規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた、誇り高き伝統をもつ国民、不屈の精神、断固たる決意、

 

そして秀でることへの願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や、友人揺るぎない強さを併せ持つ国民であると認識してきました。

 

これは神話ではなく、事実であると謹んで申し上げたいと思います。

 

それは近年の洪水や経済不況、そして、3月11日の自然災害への皆様の対応にも示されています。

 

皆様は日本及び日本国民の素晴らしい資質を、示されたのです。

 

他の国であれば、国家を打ちのめし、無秩序、大混乱、悲惨をもたらしたであろう自体に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえも、静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。

 

文化、伝統、価値にしっかり根付いた、このような卓越したこのような資質の組み合わせは、我々の現代の世界では、他に見いだすことはほぼ不可能です。

 

全ての国が、そうありたいと切望しますが、これは日本人の特性であり、不可能な要素です。

 

このような資質は昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものです。

 

それが数年、数十年で失われることはありません。

 

そうした力を備えた日本には、素晴らしい未来が待っていることでしょう。

 

このような力を持つ日本は、歴史を通じて、あらゆる苦境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国の一つとして、築いてきました。

 

さらに注目に値すべきは、日本がためらうことなく、世界中の人々と自国の成功を、常に分かち合ってきた、ということです。

 

ご列席の皆様、私はすべてのブータン人に代わり、心からお話をしています。

 

私は歴史の専門家でも学者でもなく、日本に深い親愛の情を抱く、ごく普通の人間に過ぎません。

 

その私が申し上げたいのは、世界は、日本から大きな貢献を受けるであろうということです。

 

卓越性や技術革新がなんたるかを示す日本。偉大な決断と業績をなし続けても、静かな尊厳と、謙虚さを兼ね備えた日本国民。

 

そして他の国々の模範となる日本から、世界は大きな恩恵を受けるであろうと思います。

 

日本がアジアを世界に導き、世界情勢における日本の存在が、日本国民の偉大な業績と歴史を繁栄するにつけ、ブータンは、皆様を応援してまいります。

 

国連安全保障理事会の議席拡大の必要性だけではなく、日本がその中で指導的な役割を果たさなければならない、と思います。

 

日本はブータンの全面的支持を受けています。

 

ご列席の皆様、ブータンは、人口約70万人の小さなヒマラヤの国です。

 

魅力的外形的特徴と、豊かで人の心を捉えて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作っています。

 

面積の小さいながらも、国土全体に広がる異なる地形に、数々の寺院が存在し、何世代ものブータン人の精神性を反映しています。

 

我々の文化と伝統は、今も強靭に活気を保っています。

 

ブータン人は何世紀も続けてきたように、人々の間に深い調和の精神を生む、質素で謙虚な生活を送り続けています。

 

今日の目まぐるしく変化する世界において、国民が何よりも調和を重んじる社会、若者の優れた才能、勇気や品位を持ち、先祖の価値観によって導かれる社会。

 

そうした思いやりのある社会に生きている我々のあり方を、私は最も誇りに思います。

 

我が国は、有能な若きブータン人、我々は歴史ある価値観を持つ、若々しい現代的国民です。

 

小さな美しい国でありますが、強い国でもあります。

 

ブータンの成長と発展における日本の役割は、大変特別なものです。

 

我々が独自の願望を満たすべく努力をする中で、日本からは貴重な援助や支援だけでなく、力強い励ましをいただいてきました。

 

両国民の寛大さ、大きな自然の絆、言葉では言い表せない非常に深い精神的な絆によって、ブータンは常に日本の友人であり続けます。

 

日本は、かねてよりブータンの最も重要な開発パートナーであります。

 

それゆえ、ブータンに暮らし、我々とともに働いてくれた日本人の方々の、ブータン国民への揺るぎない支援と善意に対し、感謝の気持ちを伝えることができ、大変嬉しく思います。

 

両国民の間の絆をより深めるために、努力を行うことを誓います。

 

改めて、ここに、ブータン国民から日本国民に、祈りと祝福をお伝え申し上げたいと思います。

 

私たちの国の言葉でお祈りしたいと思います。

 

ご列席の皆様、今、私は祈りを捧げました。小さな祈りですけれども、日本、日本国民が常に平和と安定、調和を経験し、これからも繁栄を享受していくことを、という祈りでした。

 

本日はありがとうございました。

ーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

米国陸軍で史上最強であり、最多の勲章を受賞した部隊があります。

 

それは、なんと日系アメリカ人部隊(442部隊)です。

 

その日系アメリカ人部隊に所属して、のちに米国上院議員になった人物がいます。

 

彼の名は、ダニエル・イノウエ氏です。

 

彼の両親は、ハワイ州に移住した日系アメリカ人1世でした。

 

ハワイ州で生まれ育ったダニエル・イノウエ氏は、地元の高校に通い、将来は医師になることを夢見ていました。

 

しかし、昭和16年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が起こりました。

 

彼は、この時、人生が終わったと感じました。

 

日系アメリカ人は、”敵性外国人”というレッテルを貼られることになりました。

 

真珠湾攻撃後、米軍の徴兵委員会がすべての徴兵センターにおいて、日系アメリカ人を4C(敵性外国人)扱いにすると、言いました。

 

”敵性外国人”とは敵国民ということです。

 

米国に生まれ、米国人として教育を受けてきた2世たちは、祖先は確かに日本人であっても、自分たちは忠誠な米国人であるという認識が強くありました。

 

ですので、敵国民として扱われてしまったことに大変屈辱を受けました。

 

その後、ルーズベルト大統領が、”アメリカニズム”という声明を発表しました。

 

アメリカニズムとは、心と魂の問題であって、決して人種や肌の色ではない、

 

そして、希望するなら日系アメリカ人も兵士として志願できる、というものでした。

 

 

ダニエル・イノウエはこの声明を聞いてすぐ、通っていた大学の退学手続きし、ボランティア活動していた赤十字の仕事も辞め、徴兵センターに向かいました。

 

父は、出征する前に息子に次のように語りました。

 

「米国はこれまで、私たちに随分とよくしてくれた。暮らしができるようにしてくれ、お前たちには教育も与えてくれた。

 

だから、お前はこの国の恩に報いなければならない。

きちんと義務を果たすのだ。必要とあれば命を捨ててでも。

 

決して、お国の名誉を傷つけるな。絶対に家の名を汚すのではない」と。

 

「恥を持って帰ってくるな」と、父は息子のダニエルに伝えました。

 

日系アメリカ人だけで編成された442部隊に、約3、800人の定員に対して、10、000人以上もの志願者が殺到しました。

 

当時、ハワイ州に住んでいた日系アメリカ人男性の85%が、442部隊に志願しました。

 

志願兵たちは、米国本土のミシシッピ州で、基礎訓練を始めました。

 

そこでは、ハワイ州出身者と米国本土出身者がいました。

 

本土出身者は、ハワイ出身者に対して言葉の訛りをバカにして、お互いに争いを繰り返していました。

 

あまりにその争いがひどいので、米国人の上官たちは部隊の解散を検討するほど、悩みました。

 

そして、ある案が出されました。それは、ハワイ出身者を、アーカンソー州にあるジェローム日系人収容所の見学に連れて行くというものでした。

 

ダニエル・イノウエは、他のハワイ出身者と共に、アーカンソー州に向かいました。目的地だけを知らされていましたが、そこに何があるのかを知らされませんでした。。

 

目的地に着いた時、ダニエルは、軍の収容施設(キャンプ)かと思いました。

 

しかし、その中に入った途端に、そこで何が起こっているのかわかりました。

 

有刺鉄線が張り巡らされたところで、銃を持った兵士が監視塔にいる中、老若男女の日系アメリカ人たちが生活していました。

 

誰が見ても、そこが収容所であることがわかりました。

 

ハワイ州には、そのような収容所での人種隔離政策が行われていませんでしたので、その光景を見たハワイ出身者たちは、声を失いました。

 

ダニエル・イノウエは、このとき思いました。

「自分だったら、あの環境から米国兵に志願していただろうか?」と。

 

その日から、ハワイ出身の日系人兵士たちが、本土出身の日系人兵士たちを見る目が変わりました。

 

彼らは英雄の中の英雄となったのです。

 

なぜなら、財産をすべて没収された上に、収容所生活を強要している国に対して、忠誠を誓い、志願して、命をかけて戦場に向かうことなど、並大抵の人間のできることではありません。

 

昭和19年(1944年)5月 442連隊は、欧州戦線に派兵されました。

 

日系人2世たちで編成された442部隊の合言葉は、「当たって砕けろ!(Go for Broke)」でした。

 

 

欧州戦線で、それまでどの米国人部隊も突破することができなかった戦場を、442部隊は、突破して行きました。

 

バンザイ突撃を何度も何度も繰り返し、ドイツ兵の陣地を突破していきました。

 

ダニエル・イノウエは、戦場で何人ものドイツ兵を倒しました。

 

ある時、ドイツ兵が手を上げて「同士、同士」と叫びながら近づいてきました。そして、そのドイツ兵が胸ポケットに手を入れようとしたので、とっさにライフル銃の底で頭を殴りました。

 

そのドイツ兵は即死しました。その時、ドイツ兵のポケットから出てきたのは、ピストルではなく写真でした。

 

その写真には妻と子供が写っていました。

 

彼は、私は結婚していて、妻も子供もいるということを見せたかったのです。だから殺さないでくれと、伝えようとしたのです。

 

しかし、ダニエル・イノウエは殺してしまいました。そのことを戦後もずっと忘れることができないと語っていました。

 

1944年10月フランスとドイツの国境付近で、米国テキサス大隊がドイツ軍に囲まれて孤立してしまいました。

 

そのテキサス大隊を救出しようと、他の2つの部隊が試みましたが、失敗を繰り返しました。

 

そこで、442部隊にその救出命令が出されました。

 

救出されたテキサス大隊の兵士211名。それに対し、442部隊は、814人の死傷者を出しました。

 

442連隊の日系人兵士たちは、理解していました。

自分たちは”使い捨ての消耗品”であるということを。

 

常に、敵の最前線への突撃隊として、呼ばれました。

 

それでも、日系アメリカ人の名誉をかけ、米国人として忠誠を示すために、むしろチャンスであると考え、”当たって砕けて”行ったのです。

 

1946年7月15日 442連隊は米国本土の帰還しました。

 

442連隊は、のべ13、000名のうち、死傷者は9、400人にも上りました。

 

トルーマン大統領は、帰還した442連隊に対して、次のように述べました。

 

「君たちは敵だけではなく、偏見とも戦った。そして勝利した。」

 

戦後、ハワイの民主党のジョン・バーンズに説得されて、ハワイ州議員選挙に出馬しました。

 

1954年、見事当選したイノウエは、その後、1963年、米国上院議員になりました。

 

その後、ニクソン大統領のウオーターゲート事件の、上院調査特別委員会で活躍するなど、民主党上院議員の中でも存在感を増していきました。

 

そして、2010年、米国上院仮議長にまで上りつめました。

 

ダニエル・イノウエは、語りました。

 

「私たち日系アメリカ人は、真珠湾攻撃の後、敵性外国人と扱われ、国に使えることができませんでした。

 

それを思うと、大統領の承継順位第3位の地位にいることが信じられません。」と。

 

大統領の承継順位とは、大統領に万が一のことがあった時に、大統領の代理として仕事をする人の順位を言います。

 

ダニエル・イノウエの父と祖父が、大切にしていた3つの言葉があります。

 

「義務、名誉、祖国」

 

この言葉は、ダニエル・イノウエの人生観を支配していました。

 

終戦後、米国本土に帰還したダニエル・イノウエは、ある散髪屋に入りました。

 

そこの店主から言われました。

「お前はジャップか?」

 

ダニエル・イノウエは答えました。

「私はアメリカ人です」

 

店主は、いいました。

「ジャップの髪を切ることはできない」と。

 

ダニエル・イノウエの右腕は、切断されていました。

 

兵役に就いて、米国人として忠誠を示すために戦った結果、名誉の負傷をしたのです。

 

それでも、人種差別は無くなりませんでした。

 

2012年12月、88年の生涯を閉じました。

 

オバマ大統領は、「真の英雄を失った」「彼が示した勇気は万人の尊敬を集めた」との声明を発表。

 

2017年4月27日に、ホノルル国際空港の正式名称が「ダニエル・K・イノウエ国際空港」となりました。

 

(参考DVD 「ワシントンへの道」FCI)

 

 

2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が突っ込むという、世界同時多発テロが起きました。

 

この事件の犯人グループが、イスラム過激派テロリストだったことで、事件後、米国内に住むイスラム教徒やアラブ系の人たちに対する、誹謗中傷が高まっていきました。

 

米国内の愛国心が高まって行く中で、人種プロファイリングの実地が、多くの人たちから支持されていきました。

 

人種プロファイリングとは、特定の人種(この時は、イスラム教徒やアラブ系)の人たちに対して、旅客機への搭乗拒否などを行う、人種差別政策です。

 

当時、米国運輸長官を務めていたノーマン・ミネタ氏は、この人種差別政策を断固拒否しました。

 

ノーマン・ミネタ運輸長官は語りました。

 

「アラブ系、イスラム系アメリカ人は、全ての国民と同じだけの尊厳と敬意をもって接せられます。

 

外見や肌の色で、判断されることについて私は実体験として知っています。

 

日本人が祖先である私の歴史は、両親の精神力と強い志、そして日系アメリカ人が直面した不当な扱いの数々から成り立っています。」と。

 

マスメディアや政治家や一般市民など、多くの米国人は、ノーマン・ミネタ運輸長官の考えに批判的でした。

 

事件当時、米国内に住むイスラム人やアラブ系の人たちは、怖くて外出ができませんでした。

 

その状況を知り、ノーマン・ミネタ氏は、周りからどんなに非難されても、自分自身の硬い信念を貫いたのです。

 

彼の中に、そこまで強い信念を作ったものは、一体何だったのでしょうか?

 

彼は、日系アメリカ人2世として、米国で生まれました。

 

まだ10歳だった頃、日本軍の真珠湾攻撃の後の、昭和17年(1942年)11月、ワイオミング州ハートマウンテンに作られた日系人強制収容所に連行され、家族とともに約1年ほど生活しました。

 

冬は、マイナス30度にもなる砂漠の中、バラック小屋で共同生活を強いられました。

 

米国への移民1世である両親が、苦労して築いてきた仕事や家などすべての財産を没収されてしまいました。

 

さらに、戦前にも増して強くなった日系人に対する人種差別のため、その苦労は相当なものでした。

 

収容所内では、昭和18年(1943年)2月に、アンケート調査が行われました。

 

その質問事項の中に、質問27「命令があればどこであろうと進んで米軍で戦闘任務に就くか?」、

 

質問28「米国に無条件で忠誠を誓い、日本国天皇や他の外国政府への忠誠を拒否するか?」

 

というものがありました。

 

これは、米国に対する忠誠度を図るチェックでした。

 

内容をよく理解せずに、両方の質問に”ノー”と答えた人たちは、

シアトルに近いマクニール島連邦刑務所に送られました。

 

同じ日系人の中で、”ノー”と答えた人たちと”イエス”と答えた人たちの間で、溝ができてしまいました。

 

ノーマン・ミネタ氏は、そのような苦い経験をしていたので、米国が、再び同じ過ちを犯してはならないと考えたのです。

 

彼は、1988年、「市民の自由法(Civil Liberties Act of 1988)」の法案制定に深く関わりました。

 

この法案は、米国が日系人を強制収容所に閉じこめたことは、過ちであることを認めて謝罪し、賠償金を払い、日系人の名誉を回復させて、同じ過ちを繰り返さないように学校教育で徹底する、という内容です。

 

当時のレーガン大統領が、この法案に署名しました。

 

2001年9月11日のテロ以降に、ノーマン・ミネタ運輸長官がとった言動には、全くブレがありませんでした。

 

政治家でしたら、次の選挙のことを考えて、世論に反する言動は慎むかもしれません。

 

しかし、ノーマン・ミネタ運輸長官には、自分の私利私欲ではなく、再び、米国が同じ過ちをおかさないように、世論に反して強いリーダーシップをとったのです。

 

事件発生してから、米国内に入ってくるすべての民間航空機の緊急着陸を命令しました。

 

また、それまで各空港ごとに低賃金で雇われた人で行われていた安全チェックを、運輸保安庁(TSA)を創設することで、全米の空港の安全チェックを一元的に管理することにしました。

 

もし、同時テロ発生当時、ノーマン・ミネタ氏が運輸長官でなかったら、イスラム系、アラブ系の人たちを対象にした、人種隔離政策が行われていたかもしれません。

 

そして、かつて日系アメリカ人が経験したことが、再び米国内で再現されていたかもしれません。

 

 

 

昭和16年12月8日、日本軍が真珠湾攻撃をしました。

 

この攻撃を受けて、米国大統領ルーズベルトは、昭和17年(1942年)2月19日、大統領令9066号という法令にサインをしました。

 

その結果、米国本土に移住していた、ほとんどの日本人たちが、米国政府により、収容所へ強制連行されていきました。

 

何の罪もない家族が、裁判にかけられることもなく、ただ、日本人というだけで、収容所に送られて行ったのです。

 

これは、極端な人種隔離政策です。

 

のちにカルフォルニア州知事となったアール・ウォーレンは、日系アメリカ人について、次のように語りました。

 

「ジャップ(日本人蔑視表現)は、アメリカの価値観や伝統になじもうとせず、受け入れようともしない」

 

「ジャップが破壊活動を行わないのは、攻撃開始予定時間を待っているからだ」

 

昭和18年(1943年)6月には、「ジャップを解放するとカリフォルニア州内で破壊活動を行う」

 

「ジャップどもを再びカリフォルニアに舞い戻らせるつもりはありません。どんな法的手段を使ってもです。」と語りました。

 

この収容所への強制連行は、昭和17年の春ごろから始まり、日本人社会の90%にあたる、12万人の人たちが強制移住させられました。

 

その多くはカルフォルニア州など、米国西海岸に住んでいましたが、それまで営んでいた会社や家などすべての財産を没収されてしまいました。

 

収容所に持って行って良いのは、スーツケース2個だけでした。

 

この収容所は全米に10箇所作られ、それぞれの収容所に、7、318名から18、789名の日本人たちが、共同生活をすることになりました。

 

一方、ハワイ州では、当時、日系人が15万人住んでおり、島全体の37%を占めていたので、日系人をすべて強制的に収容所に入れてしまうと、島の経済が成り立たなくなってしまうという理由で、強制収容は実施されませんでした。

 

食料は配給となり、食堂で列を作って食事をもらい、共同で食事をとりました。

 

この共同生活により、家族の絆が次第に破壊されていきました。

 

なぜなら、家族で一緒に食事をして団欒することで、その絆が深

まっていきますが、共同生活では、その家族の団欒の場がなくなってしまったからです。

 

収容所は個室がなく、間仕切りも簡単なカーテンくらいでした。

女子トイレの便器は、個室はなく、個々の仕切りもありませんでした。

 

また、収容所は砂漠の中など住民がいない場所に作られ、冬は氷点下30度にもなるようなところや、砂埃がたくさん舞うようなところで、簡易なバラック小屋の中で暮らしていました。

 

子供達もたくさんいたので、収容所の中に学校もありました。

 

また、診療所もありましたので、収容所内での死者は、日本兵を、極寒のシベリアに強制連行したソ連の収容所に比べれば、少なかったです。

 

(ちなみに、ナチスドイツが、ユダヤ人を強制連行した収容所では600万人が大虐殺されました。ただ、これは最初からユダヤ人全員を殺害することを目的にした収容所でした。)

 

昭和20年8月の日本降伏とともに、収容所も閉鎖されていき、それまで隔離されていた日本人家族は、解放されました。

 

しかし、すでに帰る家もなく、職場もなく、お金もないので、しばらく収容所に残っていた人たちもいました。

 

日本から移住してきた1世の人たちとその家族たちは、3年以上にもわたる、収容所生活での深い心の傷と、全財産没収という経済的打撃を受けてしまいました。

 

子供達は、このような環境の中、どんな思いで暮らしていたのでしょうか?

 

写真は、マンザナー収容所で子供たちがおもちゃを取りに来た様子です。

 

 

 

三島由紀夫は、昭和45年11月25日に、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて切腹しました。

 

なぜ、彼はそのような行動とったのでしょうか?

 

切腹自害の前に自衛隊員に向けて撒いた檄文の中に、次のような記載があります。

 

「自衛隊は敗戦国の国家の不名誉な十字架を追い続けてきた。

 

自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。

 

我々は、戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。

 

自衛隊が目覚める時こそ、日本が目覚める時だと信じた。自衛隊が自ら目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのだ。

 

憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。」

 

三島由紀夫は、憲法によってその存在を否定された自衛隊は、その憲法を守るための護憲の軍隊となってしまった、と嘆いていました。

 

憲法改正して、自衛隊を真の日本国軍として認めるべきであると訴えたのです。

 

そこで、憲法改正の唯一の希望であったのが自民党でした。

なぜなら、日本の政党の中で唯一、自民党だけがその党是に、”憲法を改正する”と定めてあったからです。

 

しかし、当時の総理であった、佐藤栄作は、「今の憲法は日本に定着している、私が総理在任中には決して、憲法改正をしない」と宣言していました。

 

三島由紀夫は、もう我慢できないと言って、古武士の作法に則って、切腹自害しました。

 

三島由紀夫は、自分がそのような行動をとった後、日本の中で理解してくれる人はいないだろう、と悟っていました。

 

残された子供や家族を世間の非難から守ってください、と友人に託していました。

 

三島事件の後、佐藤栄作首相(当時)は、「狂気である」と非難しました。

 

中曽根康康弘防衛庁長官(当時)は、「迷惑千万なことだ。三島らが国家の民主的秩序を破壊し、常軌を逸したことは厳しく糾弾されなければならない」と暴言しました。

 

かつて、キリストが十字架に磔にされました。キリストは、多くの悩める人を救ってきました。

 

そして、イエスは言いました。

「我、世に勝てり」と。

 

しかし、自らの命を救うことができずに、磔にされました。

 

その姿を見たユダヤ人がいいました。

 

「あれを見よ、人を救いて己を救い得ざるものよ」

(言い換えれば犬死するものよ)

 

とユダヤ人が言って笑いました。

 

イエスの”未来”は祝福されたものではありませんでした。

 

イエスの死後、イタリアはキリスト教を弾圧しました。

 

しかし、今の世界ではどうでしょう?

 

キリスト教は、世界の主要な宗教の一つとなっています。

 

イエスの”未来”は祝福されたものではなかったけれど、”後世”が、イエスが磔にされた時に言った言葉「われ世に勝てり」は真実であったことを証明しました。

 

三島由紀夫は、陽明学で言うところの”知行合一”でないといけないと考えていました。

 

陽明学を起こした王陽明は、「知って行わないのは、未だ知らないのと同じである。知っている以上は必ず実践することである。」と主張していました。

 

知行合一は、行動を伴わないものは未完成である、とも言い表されています。

 

一方、高杉新作も行動の人でした。

 

吉田松陰から陽明学を学び、「いま行動しなければ、いつ行動するのだ!」、と言って、勝つ見込みのない相手に対して、決起しました。

 

たとえ討ち死にしても、その志を引き継いでくれる人が必ず、”後世”に現れるはずだ、と思ったのでしょう。

 

男子というもの、肉体を活かして、魂を死するのでは、生きている意味がない。

 

たとえ肉体が亡骸となっても、その魂が生き続けるのであれば、死ぬ価値がある。

 

と、高杉晋作は、吉田松陰から教わりました。

 

三島由紀夫は、ノーベル文学賞候補にもなった才能を活かして、憲法改正の世論を醸成することもできたかもしれませんが、あえて、切腹自害という行動を選びました。

 

それによって、三島由紀夫の志を引き継いでくれる人が、”未来”ではなく、”後世”にきっと現れるはずであると信じていたのでしょう。

 

昭和45年11月25日、三島由紀男は、それまで書き続けていた「豊穣の海』の最終原稿を出版社に送付した後、市ヶ谷駐屯地に向かい切腹しました。

 

11月25日は、旧暦に直すと10月27日であり、その日は、安政6年に吉田松陰が小塚原で切腹された日でした。

 

参考図書

「愛国は生と死を超えて」谷口雅春著 日本教文社

「続 占領憲法下の日本」谷口雅春著 日本教文社

「致知」2017年5月号 致知出版社