米国陸軍で史上最強であり、最多の勲章を受賞した部隊があります。
それは、なんと日系アメリカ人部隊(442部隊)です。
その日系アメリカ人部隊に所属して、のちに米国上院議員になった人物がいます。
彼の名は、ダニエル・イノウエ氏です。
彼の両親は、ハワイ州に移住した日系アメリカ人1世でした。
ハワイ州で生まれ育ったダニエル・イノウエ氏は、地元の高校に通い、将来は医師になることを夢見ていました。
しかし、昭和16年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が起こりました。
彼は、この時、人生が終わったと感じました。
日系アメリカ人は、”敵性外国人”というレッテルを貼られることになりました。
真珠湾攻撃後、米軍の徴兵委員会がすべての徴兵センターにおいて、日系アメリカ人を4C(敵性外国人)扱いにすると、言いました。
”敵性外国人”とは敵国民ということです。
米国に生まれ、米国人として教育を受けてきた2世たちは、祖先は確かに日本人であっても、自分たちは忠誠な米国人であるという認識が強くありました。
ですので、敵国民として扱われてしまったことに大変屈辱を受けました。
その後、ルーズベルト大統領が、”アメリカニズム”という声明を発表しました。
アメリカニズムとは、心と魂の問題であって、決して人種や肌の色ではない、
そして、希望するなら日系アメリカ人も兵士として志願できる、というものでした。
ダニエル・イノウエはこの声明を聞いてすぐ、通っていた大学の退学手続きし、ボランティア活動していた赤十字の仕事も辞め、徴兵センターに向かいました。
父は、出征する前に息子に次のように語りました。
「米国はこれまで、私たちに随分とよくしてくれた。暮らしができるようにしてくれ、お前たちには教育も与えてくれた。
だから、お前はこの国の恩に報いなければならない。
きちんと義務を果たすのだ。必要とあれば命を捨ててでも。
決して、お国の名誉を傷つけるな。絶対に家の名を汚すのではない」と。
「恥を持って帰ってくるな」と、父は息子のダニエルに伝えました。
日系アメリカ人だけで編成された442部隊に、約3、800人の定員に対して、10、000人以上もの志願者が殺到しました。
当時、ハワイ州に住んでいた日系アメリカ人男性の85%が、442部隊に志願しました。
志願兵たちは、米国本土のミシシッピ州で、基礎訓練を始めました。
そこでは、ハワイ州出身者と米国本土出身者がいました。
本土出身者は、ハワイ出身者に対して言葉の訛りをバカにして、お互いに争いを繰り返していました。
あまりにその争いがひどいので、米国人の上官たちは部隊の解散を検討するほど、悩みました。
そして、ある案が出されました。それは、ハワイ出身者を、アーカンソー州にあるジェローム日系人収容所の見学に連れて行くというものでした。
ダニエル・イノウエは、他のハワイ出身者と共に、アーカンソー州に向かいました。目的地だけを知らされていましたが、そこに何があるのかを知らされませんでした。。
目的地に着いた時、ダニエルは、軍の収容施設(キャンプ)かと思いました。
しかし、その中に入った途端に、そこで何が起こっているのかわかりました。
有刺鉄線が張り巡らされたところで、銃を持った兵士が監視塔にいる中、老若男女の日系アメリカ人たちが生活していました。
誰が見ても、そこが収容所であることがわかりました。
ハワイ州には、そのような収容所での人種隔離政策が行われていませんでしたので、その光景を見たハワイ出身者たちは、声を失いました。
ダニエル・イノウエは、このとき思いました。
「自分だったら、あの環境から米国兵に志願していただろうか?」と。
その日から、ハワイ出身の日系人兵士たちが、本土出身の日系人兵士たちを見る目が変わりました。
彼らは英雄の中の英雄となったのです。
なぜなら、財産をすべて没収された上に、収容所生活を強要している国に対して、忠誠を誓い、志願して、命をかけて戦場に向かうことなど、並大抵の人間のできることではありません。
昭和19年(1944年)5月 442連隊は、欧州戦線に派兵されました。
日系人2世たちで編成された442部隊の合言葉は、「当たって砕けろ!(Go for Broke)」でした。
欧州戦線で、それまでどの米国人部隊も突破することができなかった戦場を、442部隊は、突破して行きました。
バンザイ突撃を何度も何度も繰り返し、ドイツ兵の陣地を突破していきました。
ダニエル・イノウエは、戦場で何人ものドイツ兵を倒しました。
ある時、ドイツ兵が手を上げて「同士、同士」と叫びながら近づいてきました。そして、そのドイツ兵が胸ポケットに手を入れようとしたので、とっさにライフル銃の底で頭を殴りました。
そのドイツ兵は即死しました。その時、ドイツ兵のポケットから出てきたのは、ピストルではなく写真でした。
その写真には妻と子供が写っていました。
彼は、私は結婚していて、妻も子供もいるということを見せたかったのです。だから殺さないでくれと、伝えようとしたのです。
しかし、ダニエル・イノウエは殺してしまいました。そのことを戦後もずっと忘れることができないと語っていました。
1944年10月フランスとドイツの国境付近で、米国テキサス大隊がドイツ軍に囲まれて孤立してしまいました。
そのテキサス大隊を救出しようと、他の2つの部隊が試みましたが、失敗を繰り返しました。
そこで、442部隊にその救出命令が出されました。
救出されたテキサス大隊の兵士211名。それに対し、442部隊は、814人の死傷者を出しました。
442連隊の日系人兵士たちは、理解していました。
自分たちは”使い捨ての消耗品”であるということを。
常に、敵の最前線への突撃隊として、呼ばれました。
それでも、日系アメリカ人の名誉をかけ、米国人として忠誠を示すために、むしろチャンスであると考え、”当たって砕けて”行ったのです。
1946年7月15日 442連隊は米国本土の帰還しました。
442連隊は、のべ13、000名のうち、死傷者は9、400人にも上りました。
トルーマン大統領は、帰還した442連隊に対して、次のように述べました。
「君たちは敵だけではなく、偏見とも戦った。そして勝利した。」
戦後、ハワイの民主党のジョン・バーンズに説得されて、ハワイ州議員選挙に出馬しました。
1954年、見事当選したイノウエは、その後、1963年、米国上院議員になりました。
その後、ニクソン大統領のウオーターゲート事件の、上院調査特別委員会で活躍するなど、民主党上院議員の中でも存在感を増していきました。
そして、2010年、米国上院仮議長にまで上りつめました。
ダニエル・イノウエは、語りました。
「私たち日系アメリカ人は、真珠湾攻撃の後、敵性外国人と扱われ、国に使えることができませんでした。
それを思うと、大統領の承継順位第3位の地位にいることが信じられません。」と。
大統領の承継順位とは、大統領に万が一のことがあった時に、大統領の代理として仕事をする人の順位を言います。
ダニエル・イノウエの父と祖父が、大切にしていた3つの言葉があります。
「義務、名誉、祖国」
この言葉は、ダニエル・イノウエの人生観を支配していました。
終戦後、米国本土に帰還したダニエル・イノウエは、ある散髪屋に入りました。
そこの店主から言われました。
「お前はジャップか?」
ダニエル・イノウエは答えました。
「私はアメリカ人です」
店主は、いいました。
「ジャップの髪を切ることはできない」と。
ダニエル・イノウエの右腕は、切断されていました。
兵役に就いて、米国人として忠誠を示すために戦った結果、名誉の負傷をしたのです。
それでも、人種差別は無くなりませんでした。
2012年12月、88年の生涯を閉じました。
オバマ大統領は、「真の英雄を失った」「彼が示した勇気は万人の尊敬を集めた」との声明を発表。
2017年4月27日に、ホノルル国際空港の正式名称が「ダニエル・K・イノウエ国際空港」となりました。
(参考DVD 「ワシントンへの道」FCI)