米国の人種隔離政策の再現を防いだ男 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が突っ込むという、世界同時多発テロが起きました。

 

この事件の犯人グループが、イスラム過激派テロリストだったことで、事件後、米国内に住むイスラム教徒やアラブ系の人たちに対する、誹謗中傷が高まっていきました。

 

米国内の愛国心が高まって行く中で、人種プロファイリングの実地が、多くの人たちから支持されていきました。

 

人種プロファイリングとは、特定の人種(この時は、イスラム教徒やアラブ系)の人たちに対して、旅客機への搭乗拒否などを行う、人種差別政策です。

 

当時、米国運輸長官を務めていたノーマン・ミネタ氏は、この人種差別政策を断固拒否しました。

 

ノーマン・ミネタ運輸長官は語りました。

 

「アラブ系、イスラム系アメリカ人は、全ての国民と同じだけの尊厳と敬意をもって接せられます。

 

外見や肌の色で、判断されることについて私は実体験として知っています。

 

日本人が祖先である私の歴史は、両親の精神力と強い志、そして日系アメリカ人が直面した不当な扱いの数々から成り立っています。」と。

 

マスメディアや政治家や一般市民など、多くの米国人は、ノーマン・ミネタ運輸長官の考えに批判的でした。

 

事件当時、米国内に住むイスラム人やアラブ系の人たちは、怖くて外出ができませんでした。

 

その状況を知り、ノーマン・ミネタ氏は、周りからどんなに非難されても、自分自身の硬い信念を貫いたのです。

 

彼の中に、そこまで強い信念を作ったものは、一体何だったのでしょうか?

 

彼は、日系アメリカ人2世として、米国で生まれました。

 

まだ10歳だった頃、日本軍の真珠湾攻撃の後の、昭和17年(1942年)11月、ワイオミング州ハートマウンテンに作られた日系人強制収容所に連行され、家族とともに約1年ほど生活しました。

 

冬は、マイナス30度にもなる砂漠の中、バラック小屋で共同生活を強いられました。

 

米国への移民1世である両親が、苦労して築いてきた仕事や家などすべての財産を没収されてしまいました。

 

さらに、戦前にも増して強くなった日系人に対する人種差別のため、その苦労は相当なものでした。

 

収容所内では、昭和18年(1943年)2月に、アンケート調査が行われました。

 

その質問事項の中に、質問27「命令があればどこであろうと進んで米軍で戦闘任務に就くか?」、

 

質問28「米国に無条件で忠誠を誓い、日本国天皇や他の外国政府への忠誠を拒否するか?」

 

というものがありました。

 

これは、米国に対する忠誠度を図るチェックでした。

 

内容をよく理解せずに、両方の質問に”ノー”と答えた人たちは、

シアトルに近いマクニール島連邦刑務所に送られました。

 

同じ日系人の中で、”ノー”と答えた人たちと”イエス”と答えた人たちの間で、溝ができてしまいました。

 

ノーマン・ミネタ氏は、そのような苦い経験をしていたので、米国が、再び同じ過ちを犯してはならないと考えたのです。

 

彼は、1988年、「市民の自由法(Civil Liberties Act of 1988)」の法案制定に深く関わりました。

 

この法案は、米国が日系人を強制収容所に閉じこめたことは、過ちであることを認めて謝罪し、賠償金を払い、日系人の名誉を回復させて、同じ過ちを繰り返さないように学校教育で徹底する、という内容です。

 

当時のレーガン大統領が、この法案に署名しました。

 

2001年9月11日のテロ以降に、ノーマン・ミネタ運輸長官がとった言動には、全くブレがありませんでした。

 

政治家でしたら、次の選挙のことを考えて、世論に反する言動は慎むかもしれません。

 

しかし、ノーマン・ミネタ運輸長官には、自分の私利私欲ではなく、再び、米国が同じ過ちをおかさないように、世論に反して強いリーダーシップをとったのです。

 

事件発生してから、米国内に入ってくるすべての民間航空機の緊急着陸を命令しました。

 

また、それまで各空港ごとに低賃金で雇われた人で行われていた安全チェックを、運輸保安庁(TSA)を創設することで、全米の空港の安全チェックを一元的に管理することにしました。

 

もし、同時テロ発生当時、ノーマン・ミネタ氏が運輸長官でなかったら、イスラム系、アラブ系の人たちを対象にした、人種隔離政策が行われていたかもしれません。

 

そして、かつて日系アメリカ人が経験したことが、再び米国内で再現されていたかもしれません。