日系人強制収容所 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

昭和16年12月8日、日本軍が真珠湾攻撃をしました。

 

この攻撃を受けて、米国大統領ルーズベルトは、昭和17年(1942年)2月19日、大統領令9066号という法令にサインをしました。

 

その結果、米国本土に移住していた、ほとんどの日本人たちが、米国政府により、収容所へ強制連行されていきました。

 

何の罪もない家族が、裁判にかけられることもなく、ただ、日本人というだけで、収容所に送られて行ったのです。

 

これは、極端な人種隔離政策です。

 

のちにカルフォルニア州知事となったアール・ウォーレンは、日系アメリカ人について、次のように語りました。

 

「ジャップ(日本人蔑視表現)は、アメリカの価値観や伝統になじもうとせず、受け入れようともしない」

 

「ジャップが破壊活動を行わないのは、攻撃開始予定時間を待っているからだ」

 

昭和18年(1943年)6月には、「ジャップを解放するとカリフォルニア州内で破壊活動を行う」

 

「ジャップどもを再びカリフォルニアに舞い戻らせるつもりはありません。どんな法的手段を使ってもです。」と語りました。

 

この収容所への強制連行は、昭和17年の春ごろから始まり、日本人社会の90%にあたる、12万人の人たちが強制移住させられました。

 

その多くはカルフォルニア州など、米国西海岸に住んでいましたが、それまで営んでいた会社や家などすべての財産を没収されてしまいました。

 

収容所に持って行って良いのは、スーツケース2個だけでした。

 

この収容所は全米に10箇所作られ、それぞれの収容所に、7、318名から18、789名の日本人たちが、共同生活をすることになりました。

 

一方、ハワイ州では、当時、日系人が15万人住んでおり、島全体の37%を占めていたので、日系人をすべて強制的に収容所に入れてしまうと、島の経済が成り立たなくなってしまうという理由で、強制収容は実施されませんでした。

 

食料は配給となり、食堂で列を作って食事をもらい、共同で食事をとりました。

 

この共同生活により、家族の絆が次第に破壊されていきました。

 

なぜなら、家族で一緒に食事をして団欒することで、その絆が深

まっていきますが、共同生活では、その家族の団欒の場がなくなってしまったからです。

 

収容所は個室がなく、間仕切りも簡単なカーテンくらいでした。

女子トイレの便器は、個室はなく、個々の仕切りもありませんでした。

 

また、収容所は砂漠の中など住民がいない場所に作られ、冬は氷点下30度にもなるようなところや、砂埃がたくさん舞うようなところで、簡易なバラック小屋の中で暮らしていました。

 

子供達もたくさんいたので、収容所の中に学校もありました。

 

また、診療所もありましたので、収容所内での死者は、日本兵を、極寒のシベリアに強制連行したソ連の収容所に比べれば、少なかったです。

 

(ちなみに、ナチスドイツが、ユダヤ人を強制連行した収容所では600万人が大虐殺されました。ただ、これは最初からユダヤ人全員を殺害することを目的にした収容所でした。)

 

昭和20年8月の日本降伏とともに、収容所も閉鎖されていき、それまで隔離されていた日本人家族は、解放されました。

 

しかし、すでに帰る家もなく、職場もなく、お金もないので、しばらく収容所に残っていた人たちもいました。

 

日本から移住してきた1世の人たちとその家族たちは、3年以上にもわたる、収容所生活での深い心の傷と、全財産没収という経済的打撃を受けてしまいました。

 

子供達は、このような環境の中、どんな思いで暮らしていたのでしょうか?

 

写真は、マンザナー収容所で子供たちがおもちゃを取りに来た様子です。