三島由紀夫は、昭和45年11月25日に、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて切腹しました。
なぜ、彼はそのような行動とったのでしょうか?
切腹自害の前に自衛隊員に向けて撒いた檄文の中に、次のような記載があります。
「自衛隊は敗戦国の国家の不名誉な十字架を追い続けてきた。
自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。
我々は、戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。
自衛隊が目覚める時こそ、日本が目覚める時だと信じた。自衛隊が自ら目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのだ。
憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。」
三島由紀夫は、憲法によってその存在を否定された自衛隊は、その憲法を守るための護憲の軍隊となってしまった、と嘆いていました。
憲法改正して、自衛隊を真の日本国軍として認めるべきであると訴えたのです。
そこで、憲法改正の唯一の希望であったのが自民党でした。
なぜなら、日本の政党の中で唯一、自民党だけがその党是に、”憲法を改正する”と定めてあったからです。
しかし、当時の総理であった、佐藤栄作は、「今の憲法は日本に定着している、私が総理在任中には決して、憲法改正をしない」と宣言していました。
三島由紀夫は、もう我慢できないと言って、古武士の作法に則って、切腹自害しました。
三島由紀夫は、自分がそのような行動をとった後、日本の中で理解してくれる人はいないだろう、と悟っていました。
残された子供や家族を世間の非難から守ってください、と友人に託していました。
三島事件の後、佐藤栄作首相(当時)は、「狂気である」と非難しました。
中曽根康康弘防衛庁長官(当時)は、「迷惑千万なことだ。三島らが国家の民主的秩序を破壊し、常軌を逸したことは厳しく糾弾されなければならない」と暴言しました。
かつて、キリストが十字架に磔にされました。キリストは、多くの悩める人を救ってきました。
そして、イエスは言いました。
「我、世に勝てり」と。
しかし、自らの命を救うことができずに、磔にされました。
その姿を見たユダヤ人がいいました。
「あれを見よ、人を救いて己を救い得ざるものよ」
(言い換えれば犬死するものよ)
とユダヤ人が言って笑いました。
イエスの”未来”は祝福されたものではありませんでした。
イエスの死後、イタリアはキリスト教を弾圧しました。
しかし、今の世界ではどうでしょう?
キリスト教は、世界の主要な宗教の一つとなっています。
イエスの”未来”は祝福されたものではなかったけれど、”後世”が、イエスが磔にされた時に言った言葉「われ世に勝てり」は真実であったことを証明しました。
三島由紀夫は、陽明学で言うところの”知行合一”でないといけないと考えていました。
陽明学を起こした王陽明は、「知って行わないのは、未だ知らないのと同じである。知っている以上は必ず実践することである。」と主張していました。
知行合一は、行動を伴わないものは未完成である、とも言い表されています。
一方、高杉新作も行動の人でした。
吉田松陰から陽明学を学び、「いま行動しなければ、いつ行動するのだ!」、と言って、勝つ見込みのない相手に対して、決起しました。
たとえ討ち死にしても、その志を引き継いでくれる人が必ず、”後世”に現れるはずだ、と思ったのでしょう。
男子というもの、肉体を活かして、魂を死するのでは、生きている意味がない。
たとえ肉体が亡骸となっても、その魂が生き続けるのであれば、死ぬ価値がある。
と、高杉晋作は、吉田松陰から教わりました。
三島由紀夫は、ノーベル文学賞候補にもなった才能を活かして、憲法改正の世論を醸成することもできたかもしれませんが、あえて、切腹自害という行動を選びました。
それによって、三島由紀夫の志を引き継いでくれる人が、”未来”ではなく、”後世”にきっと現れるはずであると信じていたのでしょう。
昭和45年11月25日、三島由紀男は、それまで書き続けていた「豊穣の海』の最終原稿を出版社に送付した後、市ヶ谷駐屯地に向かい切腹しました。
11月25日は、旧暦に直すと10月27日であり、その日は、安政6年に吉田松陰が小塚原で切腹された日でした。
参考図書
「愛国は生と死を超えて」谷口雅春著 日本教文社
「続 占領憲法下の日本」谷口雅春著 日本教文社
「致知」2017年5月号 致知出版社