子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -28ページ目

 

昭和60年(1985年)3月17日、イラクのフセイン大統領が「今から48時間以降に、イラン上空を飛行する航空機全てを、攻撃対象とする。」と声明を発表。

 

イランに取り残され、救出される見込みがない在留日本人215名を、なんとトルコ人たちが救ってくれました。

 

なぜでしょうか?

 

明治20年(1887年)、小松宮彰仁新王・妃殿下が、オスマン帝国のイスタンブールに訪問し、皇帝アブデュル・ハミット二世に謁見。

 

その訪問に応えるためと航海訓練を兼ねて、オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、木造フリゲート艦のエルトゥールル号を、大日本帝国(当時)へ派遣しました。

 

明治22年(1889年)7月14日、オスマン帝国のイスタンブールを出港して、11か月をかけて、明治23年(1890年)6月7日に日本の横浜港に到着。

 

オスマン・パシャ海軍少将を特使とする一行は、6月13日にオスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世の親書を、明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として、歓迎を受けました。

 

明治23年(1890年)9月15日に横浜港を出港しましたが、9月16日夜、台風による強風にあおられ、和歌山県の串本沖で岩礁「船甲羅」に激突して沈没。

 

これにより、司令官オスマン・パシャ海軍少将をはじめとする600名以上が海へ投げ出されました。この事故で、死者行方不明者587名、生存者69名。

 

生き残った乗組員は、串本に浮かぶ大島にたどり着きました。

そして、灯台までの断崖絶壁をよじ登り、救援を求めました。

 

知らせを聞いた大島村(現在の串本町)の住民たちは、総出で救援活動をしました。

 

その大島の住民は、貧しい村でした。特に、この年の漁獲量が少なく、村民たちが飢えをしのぐのに精一杯という状況でした。

 

しかし、遭難者たちを見て、サツマイモや卵、さらに非常食の鶏などを与えたり、冷え切った体を温めたりして、看護しました。

 

その後、大島付近を航行中だった船に寄港してもらい、生存者2名を乗せ、神戸港に向かいました。

 

神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が、大島に急行し、生存者全員を神戸に搬送して病院に収容されました。

 

大島村長の沖周(おき しゅう)は、和歌山県を通じて大日本帝国政府に通報し、その知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示。

 

各新聞は衝撃的なニュースとして伝えられました。

 

明治23年(1890年)10月5日、日本海軍のコルベット艦、「比叡」と「金剛」が、神戸港にて生存乗員69名を乗せて出港。

 

翌年の明治24年(1891年)1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブールに送り届けました。

 

後日、トルコ政府は、治療に当たった医師たちに治療費の請求を求めましたが、日本人医師たちは、「お金なら、被災したトルコ人に差し上げてください」と言って、お金を受け取りませんでした。

 

昭和55年(1980年)9月22日、イランとイラクの間で戦争が勃発。

 

昭和60年(1985年)3月12日、イラク軍が、停戦合意を破り、イランの首都テヘランへ空爆を開始。

 

3月17日夜、イラクのフセイン大統領が次の声明を発表しました。

 

「48時間の猶予期限以降(3月19日20時半以降)、イラン上空を飛ぶ全ての飛行機を、イラク空軍の攻撃対象とする」と。

 

突然の無差別攻撃の予告に、世界中が大パニックになりました。

 

イラン在住の外国人たちは、それぞれ自国の軍隊が派遣されて、イランからの脱出を行いました。

 

しかし、イランに住む日本人駐在員とその家族たちは、憲法上の理由で、自衛隊が救助に向かうことができず、生命の危機に陥ってしまいました。

 

また、日本航空にチャーター便の派遣を依頼しましたが、同社のパイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、組合員の安全が保障されないことを理由に、イランの在留日本人救出を拒絶。

 

(この時、海上自衛隊出身の日本航空、高濱雅巳機長は、真っ先に救援便の運行乗務員に志願していたと言われています。)

 

3月19日20時半のタイムリミットは、すぐそこまできていました。

 

イランの日本大使館は、他国の軍隊に救援を依頼しますが、どの国も自国民の救出を最優先しているので、断られてしまいました。

 

そのような逼迫した中、野村豊イラン駐在大使が、トルコ共和国のビルレル駐在大使へ、藁をもすがる思いで連絡しました。

 

「日本人のためにトルコ航空の特別便を飛ばせないか?」と。

 

トルコ共和国のトゥルグト・オザル首相が、ビルレル駐在大使から報告を受け、2機のトルコ航空機をテヘランに飛ばすことを決断。

 

政府の要請を受けたトルコ航空では、すぐ、この危険なフライトをしてくれるパイロットがいないか、募りました。

 

すると、その場にいたパイロット全員が志願しました。

 

オルハン・スヨルジュ機長らが操縦する2機のトルコ航空機が、テヘランのメヘラーバード国際空港に向かい、在留邦人215人を乗せ、再び、トルコに向け離陸。

 

そして、3月19日18時45分、トルコ領内に入りました。

タイムリミットまで、あと1時間45分という間一髪のところでした。

 

しかし、トルコ航空機に搭乗することができなかったトルコ人約500名たちは、イランにとり残されました。

 

テヘランに飛行機を飛ばすということは、イラク軍に撃墜されてしまう危険がありました。

 

それでも、トルコ共和国のトゥルグト・オザル首相は、日本人救出のために決断し、また、トルコ人パイロットたち全員が、命をかけた日本人救出に志願したのです。

 

トルコ航空機に乗ることができずに、イランに取り残されてしまったトルコ人たちは、その後、どうなったのでしょうか?

 

トルコ人たちは、その後、3日間もかけて自動車で脱出しました。

 

このような日本人救出を優先したことに、トルコ人の誰一人、不満を言わなかったそうです。

 

なぜでしょうか?

 

ネジアティ・ウトカン駐日トルコ大使は、次のように語りました。

 

「エルテュールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れません。

 

私も、小学生の頃、歴史の教科書で習いました。トルコでは、子供達でさえ、エルテュールル号のことを知っています。

 

それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」と。

 

平成11年(1999年)8月、トルコで大地震が発生。

死者は1万7千人以上。

 

この時、かつて、トルコ航空機で救出された日本人たちが、日本政府に働きかけて、人命救助、物資援助、医療など救援活動を行いました。

 

平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災が発生。

この時、トルコ人たちはすぐ行動を起こしてくれ、被災地に救援物資を届けたり、炊き出しなどを行ったりしてくれました。

 

この時、トルコ人たちは日本人に言いました。

 

「喜びも困難も共に分かち合おう」と。

 

参考図書
「人生に悩んだら日本史に聞こう」 白駒妃登美&ひすいこたろう著 祥伝社

 

 

 

 

大正時代、極寒のシベリアで、ポーランド孤児たちが、身寄りもなく放浪していました。

 

孤児たちに手を差し伸べる国は、どこもありませんでした。

しかし、孤児たちを助けた唯一の国がありました。

 

それは日本です。

 

大正3年(1914年)から始まった第一次世界大戦では、ロシアの属国となっていたポーランド国内で、ドイツとロシアが戦闘を繰り広げました。

 

ドイツの猛攻に対して、ロシアがポーランド住民の民家を焼き払い、住民を追い払ったので、ポーランド人は、混乱のため、家族がバラバラになり必死にシベリアに逃げました。

 

その数、15万人から20万人と言われています。

 

シベリアは、ロシア帝国による、厳しいポーランド属国統治に逆らった、政治犯とその家族たちの流刑地でした。

 

そこで、鉄道敷設などの作業に従事していましたが、極寒の地であり、食料や医療設備も十分ではなく、飢餓や凍死、病死などにより、多くのポーランド人が亡くなっていきました。

 

さらに、大正6年(1917年)に2度のロシア革命が起き、その後の内戦と混乱が続いたので、シベリアでのポーランド人の生活環境は悲惨でした。

 

特に、親と死別した子供たちは、腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、まさにこの世の地獄のような極限状態でした。

 

大正7年(1918年)11月、ポーランド共和国がロシアから独立したので、祖国へ引き揚げ計画があったのですが、その後、大正8年(1919年)2月より、ソビエトとポーランドとの間で戦争が勃発により、その計画を断念。

 

せめて、両親が亡くなってしまった孤児たちを救済しようと、大正8年(1919年)10月、ポーランド孤児救済委員会がウラジオストクに設立され、米国やイギリスなど主要国に嘆願しました。

 

しかし、どの国もポーランド人の孤児救済に協力してくれる国はなく八方塞がりで途方に暮れていました。

 

そのような状況を見て、当時、日本からシベリアに出兵していた日本陸軍の浦塩(ウラジオ)派遣軍が手をさしのべました。

 

浦塩(ウラジオ)派遣軍参謀であった長谷部照悟陸軍少佐、浦塩(ウラジオ)派遣軍司令部のハルビン特務機関長であった石坂善次郎中将 、浦塩(ウラジオ)派遣軍政務部部長であった松平恒雄です。

 

大正7年(1918年)8月から「ロシア革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」との名目で、同盟国であったイギリスからの要請で、日本陸軍7万3000名がシベリアに派遣されていたのです。

 

そして、大正9年(1920年)6月18日、ウラジオストクのポーランド孤児救済委員会の会長アンナ・ビルケウィッチ女史は、東京の外務省を訪問。

 

彼女は、在ウラジオストク総領事であり、浦塩(ウラジオ)派遣軍政務部部員を兼任していた渡邊理恵からの紹介状を持参していました。

 

外務省で、彼女の嘆願を聞いた、武者小路公共政務局第二課長は、上司である埴原事務次官の相談しました。

 

人道上の理由で協力したいが、国としての予算が難しいという理由で、2日後の6月20日に埴原事務次官は、日本赤十字社の石黒忠悳社長に書状で協力を要請。

 

7月5日、日本赤十字社は、ポーランド孤児救済に協力することを理事会で正式に決定しました。

 

アンナ・ビルケウィッチ女史が外務省に嘆願した日からわずか17日という迅速な対応でした。

 

次の課題は、極寒のシベリアの大地で放浪するポーランド人孤児を探して、ウラジオストクの港まで連れてくることでした。

 

その自然環境も治安も劣悪なシベリア各地で放浪していた、見知らぬポーランド人孤児たちを探し出すのに、シベリア出兵中の日本陸軍が全面協力しました。

 

ポーランド孤児救済委員会のヤクブケヴィチ副会長は、「日本陸軍の保護の下で、シベリアの奥地からウラジオストクに至るまで、ある時は陸軍の自動車で、ある時は汽車で児童を輸送してくれた」と回想しています。

 

大正9年(1920年)7月からの1年間で、児童375名が福井の敦賀港に上陸。(第1次)

 

大正11年(1922年)8月7日から29日まで3回に分けて、児童388名、付添い39名の計427名が、敦賀港に上陸しました。(第2次)

 

第1次と第2次で計765人のポーランド孤児たちが、来日しました。

 

敦賀町では、菓子・玩具・絵葉書等を差し入れ、宿泊・休憩所などの施設の提供を行いました。

 

また地元の有志をはじめ、婦人会でも菓子・果物などの差し入れを行い子供たちを慰めました。

 

9歳の時に上陸したポーランド・ワルシャワ在住のハリーナ・ノビツカさん(故人)は、

 

「到着した敦賀の美しい花園のある浜辺の民家。バナナやみかんなど見たこともない果物を食べ、日本の子供たちと一緒に遊んだ」と語りました。

 

大正9年(1920年)から大正10年(1921年)に収容された、第1次の孤児たち375名は、東京府下豊多摩郡渋谷町(現東京都渋谷区広尾4丁目)の「福田会育児所」に収容されました。

 

大正11年(1922年)に助け出された第2次の孤児たち388名は、大阪府東成郡天王寺村(現大阪市阿倍野区旭町の大阪市立大学医学部附属病院)の「大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎」が用意されました。

 

収容された時の孤児たちの多くは、栄養不良で痩せ細り、青白い顔色をして下腹がふくれ、歩いてもフラフラする状態でした。

 

また、子供たちの多くは腸チフス、感冒、百日咳などの病気にかかっており、すぐに治療が施されました。

 

さらに、長い放浪のため、着ている物はボロボロで、靴を履いている子供はほとんどいませんでした。

 

そこで日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や菓子、果物を支給しました。

 

看護婦の松澤フミさんは腸チフスに感染した子供に対して、「せめて私の胸の中で死なせてあげたい」と、そのこのそばを離れませんでした。

 

彼女の献身的な看護により、その子は奇跡的に回復しましたが、代わりに松澤フミさんは腸チフスに感染してしまい、23歳の若さで殉職しました。

 

ある子供は当時を次のように回想しました。

「私はひどい皮膚病にかかっていたので、全身に薬を塗られて、ミイラのように白い布に包まれて看護婦さんのベッドに運ばれました。

 

その看護婦さんは、私をベッドに寝かせると布から顔だけ出している私の鼻にキスをして、微笑んでくれました。

 

私は、このキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出してしまいました」

 

このような暖かい看護のおかげで、順調に孤児たちは回復し、健康を取り戻していきました。

 

そして、それは同時に、ポーランドへの帰国を意味していました。

 

ポーランド孤児たちの中には、このまま日本にいたいと、泣いて駄々をいう子供もいました。

 

第1次の孤児たちは、横浜から6回にわたり、諏訪丸で150名、香取丸で114名、伏見丸で106名の合計370名がアメリカを経由して、ポーランドへ送られました。

 

また、大阪に収容されていた第2次の孤児たちは、神戸から2回にわたり、香取丸で191名、熱田丸で199名の合計390名が香港、シンガポール、マルセイユ、ロンドンなどを寄港し、ポーランドへ送られました。

 

港では、両国の旗と赤十字旗を千切れんばかりに打ち振り、「アリガトウ」「サヨウナラ」と叫びました。

そして、「君が代」や「さくら」など日本で覚えた歌を歌いました。

 

その時、見送る人や送られる子供たちの顔には別れを惜しむ涙がありました。

 

日本船の船長は、毎晩、子供達の寝室を巡回して、一人一人の毛布を首までかけてあげて、頭を撫でて熱がでていないか確かめていました。

 

「お父さんの手はきっとこんなに大きくて暖かいんだろうな」と薄眼を開けて、船長の巡回を楽しみにしていた子供もいたそうです。

 

ポーランド帰国後、昭和3年(1928年)、イエジ・ストシャウコフスキ少年が先頭に立って、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織。

 

昭和14年(1939年)9月1日、ナチスドイツがポーランドを侵攻。

 

極東青年会など、ポーランドの青年たちがレジスタンス運動(抵抗運動)を開始。

 

戦災孤児たちが続々と参加して、その数1万人に上る組織になり、この組織はリーダーであるイエジの名をとり、イエジキ部隊と呼ばれました。

 

ある日、イエジキ部隊のアジトにナチス兵が乱入。イエジは日本大使館に助けを求めました。

 

日本大使館の井上益太郎書記官は、ナチス兵に毅然と言いました。

 

「ここは、日本帝国大使館が保護している孤児院である。勝手な行為は認められない。子供達に謝罪しなさい。」

 

ナチス兵は言いました。

「日本大使館の申し出であっても、聞くことはできない。直ちに立ち去るように」

 

すると、井上書記官はイエジたちに言いました。

「ドイツ人たちに日本と君たちの信頼の証として、日本の歌を聴かせてやってくれ」

 

イエジたちは日本語で、「君が代」、「さくら」などを大合唱しました。

 

これを聞き、ナチス兵たちは、立ち去っていきました。

 

井上益太郎書記官の毅然とした態度、そして、イエジたちが日本の歌を覚えていたことが幸いして、ナチスからの危機を逃れることができました。

 

平成7年(1995年)1月17日、阪神淡路大震災が起きたました。

 

その年の夏、被災した子供たち30名がポーランドに招かれました。

 

各地で交流やホームステイが行われ、チャリティなどの協力が相次ぎました。

 

翌年の夏にも、ポーランドに被災した子供たちが招待されました。

 

そして、75年前に孤児として日本に救済してもらった人たちが、お別れパーティで次のように語りました。

 

「かつて自分たちがどのように助けられたか、日本の人たちにどんなに親切にされたかを話して、子供達に勇気を与えたい」と。

 

平成14年(2002年)、天皇皇后両陛下がポーランドを公式訪問されました。

 

ある85歳のポーランド老婦人、アントニーナ・リロさんが、両陛下に謁見しました。彼女は、ポーランド孤児で、日本に救済された人でした。

 

当時3際だった彼女には、大正天皇の后、貞明皇后が、ポーランド孤児たちを慰問に訪れてくれた際、貞明皇后から抱いて励ましてくれた思い出がありました。

 

彼女は、美智子皇后の手をずっと握りしめていたそうです。

82年前に貞明皇后から受けた優しさを、思い出していたのかもしれません。

 

平成18年(2006年)、アントニーナ・リロさんはポーランド孤児の最後の一人として、その生涯を閉じました。

 

死の間際、次のように語りました。

 

「日本は天国のようなところだった」と。

 

参考図書

「人生に悩んだら日本史に聞こう」 白駒妃登美&ひすいこたろう著 祥伝社

 

 

 

 

昭和20年3月、硫黄島玉砕。

 

その島で戦死したある司令官の遺書が、全米で話題となりました。

 

彼は、大正15年、霞ヶ浦海軍航空隊で訓練中に墜落事故により負傷しましたが、4年間の療養生活を過ごした後、復帰しました。

 

予科練の初代校長として、「兵としてよりも人間たれ」を旨とし、人間教育を重視して、少年航空兵を教育していきました。

 

その後、昭和19年(1944年)8月に硫黄島の海軍航空隊司令官として赴任しました。

 

陸軍司令官は栗林忠道陸軍中将であり、陸海軍合わせて、21、000名の兵隊が硫黄島を守備していました。

 

彼は、ルーズベルト大統領宛ての遺書(ルーズベルトニ与フル書)を書き、ハワイ出身の日系アメリカ人2世の、三上弘文兵曹に英訳させ、村上治重大尉に渡しました。

 

村上治重大尉はその遺書を胸にしまい、突撃。

 

昭和20年(1945年)3月26日、硫黄島守備隊の最後の数百名が、敵陣へバンザイ突撃して玉砕。

 

戦闘が終了した後、日本兵の遺体をチェックしていた米兵が、遺書を見つけて、米国本土に持ち帰りました。

 

その遺書は、昭和20年7月11日付けの米国大手各新聞に「死に臨んだ日本の一提督の米国大統領宛の手紙」というタイトルで、遺書の全文が掲載されました。

 

しかし、すでにルーズベルト大統領は4月に死亡しており、この遺書を目にすることはありませんでした。

 

昭和45年(1970年)に世界的ベストセラーとなった本『昇る太陽―日本帝国滅亡史』(ジョン・トーランド著、1971年ピューリッアー賞受賞)の中に、その遺書の全文が紹介されました。

 

また、彼が大切に持っていた刀が、戦利品として米兵によって米国本土に持ち帰られました。

 

その刀は、「硫黄島」(リチャード・ニューカム著)という本の中で紹介されており、たまたまその本を読んだ人が所有していた日本兵の刀がまさしくそれでした。

 

後日、彼のご家族の元にその刀は届けられました。

 

その刀の持ち主であり遺書を書いた司令官は、市丸利之助海軍少将と言います。

 

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『ルーズベルトニ与フル書』

 

日本海軍市丸海軍少将が 「フランクリン ・ルーズベルト」 君に書を宛てる。

 

私は今、我が戦いを終えるに当たり一言貴方に告げることがある。

 

日本国が 「ペルリー(ペリー)」提督の下田入港を機とし、広く世界と国交を結ぶようになった時より約百年の間、

 

国の歩みは困難を極め、自ら欲しないにも関わらず日清戦争、日露戦争、第一次欧州大戦(第一次世界大戦)、満州事変、支那事変を経て、不幸にも貴国と交戦することになった。

 

そして貴方は我々を、あるいは好戦的国民であるとし、あるいは黄禍論を用い貶め、あるいは軍閥の独断専行であるとする。

 

思いよらぬもの甚だしいと言わざるを得ない。 貴方は真珠湾攻撃の不意打ちを理由に対日戦争(大東亜戦争) 唯一の宣伝資料とするが、

 

そもそもにおいて日本国が自滅を免れるためこの行動に出る他ないという程の窮地にまで追い詰めたような諸種の情勢というのは、貴方の最も熟知するものであると思う。

 

畏れ多くも日本天皇は皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、養成(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三鋼(秩序)とする

 

八紘一宇(天下を一つの屋根の下に)の文字によって表される皇謨に基づき、

 

地球上のあらゆる人間はその分に従い、その郷土においてその生を生まれながらに持たせ、それによって恒久的平和の確立を唯一の念願になさったのに他ならない。

 

これは 「 四方の海皆はらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ 」 (意訳:人は皆家族であるのに、なにゆえ争わねばならないのか)

 

という明治天皇の御製(天皇の詩)は貴方の叔父セオドア・ルーズベルト閣下が感嘆したものであるが故に、貴方もよく熟知しているのは事実であろう。

 

私たち日本人はそれぞれ階級を持ち、また各種の職業に従事するけれども、結局はその職を通じ皇謨、つまりは天業(天皇の事業)を翼賛(補佐)しようとするのに他ならない。

 

我ら軍人は交戦を以て天業を広めることを承るに他ならない。

 

我らは今、物量に頼った貴方の空軍の爆撃、艦隊の射撃の下、外形的に後ろへ退くもやむなきに至っているが、

 

精神的にはついに豊かになり、心地ますます明朗になり、歓喜を抑えることができなくもある。

 

この天業翼賛の信念が燃えるのは、日本国民共通の心理であるが、貴方やチャーチル君は理解に苦しむところであろう。

 

今、ここに貴方達の精神的貧弱さを憐れみ、以下の一言を以て少しでも悔いることがあれば良いと思う。

 

貴方達のなすことを見れば、白人、とくにアングロサクソン(アメリカとイギリスの主な民族)が世界の利益を独占しようとして、

 

有色人種をその野望実現のための奴隷として扱おうということに他ならない。

 

この為に邪な政策をとり有色人種を欺き、所謂悪意の善政を行うことで彼らを喪心無力化しようとしている。

 

近世に至り日本国が貴方達の野望に抗し有色人種、特に東洋民族を貴方達の束縛より解放しようと試みたところ、

 

貴方達は少しも日本の真意を理解しようと努めることなくただ貴方達に有害な存在となし、かつて友邦とみなしていたにも関わらず仇敵野蛮人であるとし、

 

公然として日本人種の絶滅を叫ぶに至った。
これは決して神意にかなうものではないだろう。

 

大東亜戦争によって所謂(いわゆる)大東亜共栄圏が成立し、所在する各民族はわれらの善政を謳歌しているから、貴方達がこれを破壊することが無ければ、

 

全世界にわたる恒久的平和の招来は決して遠くは無いだろう。 貴方達はすでに成した。

 

十分な繁栄にも満足することはなく数百年来にわたるあなた方の搾取から免れようとするこれらの憐れむべき人類の希望の芽をどうして若葉のうちに摘み取ろうとするのか。


 

ただ東洋のものを東洋に返すに過ぎないではないか。


あなた方はどうしてこのように貪欲で狭量なのか。

 大東亜共栄圏の存在は少しも貴方達の存在を脅威するものではない。 むしろ世界平和の一翼として世界人類の安寧幸福を保障するものであって、

 

日本天皇の真意はまったくこれに他ならない。 
このことを理解する雅量(器)があることを希望してやまないものである。

 

翻って欧州の事情を観察すると、また相互無理解に基づく人類闘争がいかに悲惨であるかを痛感し嘆かざるをえない。

 


今ヒトラー総統の行動の是非を云々するのは慎むが、彼の第二次世界大戦開戦の原因が第一次世界大戦の終結の際、その開戦責任の一切を敗戦国ドイツに押し付け、

 

その正当な存在を極度に圧迫しようとした貴方達の処置に対する反発に他ならないということは看過できない。

 

貴方達の善戦によって力を尽くしてヒトラー総統を倒すことができたとして、どうやってスターリン率いるソヴィエトと協調するのか。

 


世界を強者が独専しようとすれば永久に闘争を繰り返し、ついに世界人類に安寧幸福の日はないだろう。

 

あなた方は今世界制覇の野望が一応、まさに実現しようとしている。あなた方は得意げに思っているに違いない。

 

しかし貴方達の先輩ウィルソン大統領はその得意の絶頂において失脚した。

 

願わくば私の言外の意を汲んでその轍を踏まないで欲しい。

 

市丸海軍少将 

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豊臣秀吉による朝鮮征伐(唐入り)がありました。

(文禄、慶長の役)

 

これは、秀吉が天下統一を果たした後、年老いた秀吉のお戯れであったと思っていますか?

あるいは征服欲の発作だったのでしょうか?

 

実は、秀吉が朝鮮出兵してくれたおかげで、日本が列強の植民地にされるところを救ってくれたのです。

 

天文18(1549)年、スペインから宣教師フランシスコ・ザビエルが来日しました。

 

彼に与えられた役目は、日本にキリスト教を宣教することと言われています。

 

当時の宣教師たちは、キリスト教の布教を目的に、世界中に派遣されていきました。そして、ある程度、布教活動が住民に浸透していくと、反キリスト教集団の抵抗に遭います。

 

そして、それを口実に、軍隊を派遣して、一気に侵略していき、住民を虐殺して植民地化していくと言う流れでした。

 

当時のスペイン帝国は、フェリペ2世が君臨しており、ポルトガル国王も兼任して、世界を支配していた時代でした。

 

北米、中南米大陸、アフリカ、アジアと次々に植民地化していった、「太陽の沈まぬ帝国」スペインの次の狙いは、中国大陸を支配していた明国と日本でした。

 

しかし、天正16年(1588年)7月、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊がイギリス軍に敗れました。

 

戦力の落ちたスペイン軍は、極東まで手を伸ばすことに余裕がなくなってきていました。

 

秀吉は、天正19年(1591年)9月15日、スペインの植民地であるフィリピン総督府に、密使として商人の原田孫七郎(ガスパル・ハラダ)を送りました。

 

そして、スペイン領フィリピン総督府に対し、日本への臣下の礼を取るようにと要求しました。

 

いくら、イギリスとの戦いに敗れ、無敵艦隊が壊滅的打撃を受けたとはいえ、相手は、多くの植民地を支配していた「太陽の沈まぬ帝国」スペインです。

 

その大国に対して、極東の小さな島国の天下を統一したばかりの秀吉が、遠慮することなく堂々と外交交渉を行ったのです。

 

弱肉強食の時代、支配されるか支配するかとどちらかの選択肢しかありませんでした。

 

秀吉は、スペインの極東への派遣軍と仮に戦争となったとしても、勝てる自信があったのでしょう。

 

なぜなら、それまで、長い戦国時代を戦ってきた日本には、屈強な武士たちがたくさんいました。その数200万人と言われています。

 

また、鉄砲が日本の種子島に伝来してから、それをわずかな期間で国産化してしまい、世界有数の鉄砲保有国となっていたからです。その鉄砲の保有数は、なんと50万丁。

 

そのような背景もあり、秀吉は、臆することなく堂々と、スペイン帝国と外交交渉をしようとしたのです。

 

天正19年(1591年)年7月、スペイン領フィリピン総督府は、宣教師フアン・コボを日本に派遣し、友好関係を樹立したいとする書信を届けました。

 

秀吉は、重ねて、”スペインは、日本に臣下としての礼をとること”、という要求を書いた書簡を、宣教師フアン・コポスに渡しました。

 

天正19年(1591年)8月23日、秀吉が「唐入り」と称する明国遠征の決意が、全国の諸大名に発表されました。

 

秀吉は、遠征軍の宿営地として名護屋城築造を指示。

 

文禄元年(1592年)4月、26万人に上る大遠征軍を組織して、そのうち16万人の軍勢が朝鮮半島に渡りました。

 

文禄2年(1593年)、明国との間で、講話が結ばれ、停戦。

 

秀吉は、再度、文禄2年(1593年)4月、スペイン領フィリピン総督府に対して、原田孫七郎の主人にあたる原田喜右衛門を派遣して書簡を届けさせました。

 

文禄3年(1594年)4月に、新たに宣教師ペドロ・バプチスタ、ゴンザロ・ガルシア等3名が来日し、名護屋で秀吉と謁見。

 

秀吉は、あくまで”スペイン領フィリピンは、日本に臣下としての礼をとること”を要求しました。

 

文禄5年(1596年)8月28日、スペインのガレオン船(帆船)、サン・フェリペ号が日本の土佐国で遭難。

(サン=フェリペ号事件)

 

その海難事故を調査するために、増田長盛が派遣されました。

 

そこで、サン・フェリーペ号の水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは増田長盛に世界地図を示して、次のように説しました。

 

「スペインは広大な領土をもつ国であります。それに比べて日本がどれだけ小さい国であるか」と。

 

増田長盛はデ・オランディアに問いかけました。

「何故スペインが、かくも広大な領土を持つにいたったのか?」

 

デ・オランディアは答えました。

「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。

 

それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」と。

 

この報告を受けた秀吉は、文禄5年(1596年)12月8日、禁教令を再び発布。キリシタン26名を逮捕して長崎に送りました。

 

長崎のイエズス会は、その26名を死罪とするように長崎奉行に申請して、慶長元年(1596年)12月19日処刑されました。

(日本二十六聖人殉教)

 

この処刑の9年前の天正15年(1587年)、秀吉はバテレン追放令を発布していましたが、これはキリスト教の布教のみを禁止するものであり、キリスト教の信仰は認められていました。

 

よって、キリシタン(キリスト教信徒)は迫害されることはありませんでした。

 

しかし、サン=フェリペ号事件をきっかけとして、スペイン帝国による世界植民地支配のシナリオを知った秀吉は、キリシタン弾圧を行ったのです。

 

慶長2年(1597年)、14万の遠征軍を組織して、再び朝鮮半島に渡りました。

 

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去。

 

慶長3年(1598年)10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が遠征軍に発令され、順次、朝鮮を撤退していきました。

 

もし、秀吉が、キリシタン弾圧をせず、また「唐入り」を称する明国との戦争(朝鮮征伐)をしていなかったらどうなっていたでしょうか?

 

スペイン帝国による世界植民地支配のシナリオ通り、日本はキリスト教宣教師が日本国内にて活発に布教活動をし、その後、スペイン軍を日本に派遣して、植民地にされていたかもしれません。

 

あるいは、日本には戦い慣れた屈強な武士200万人と、鉄砲50万丁があることを、宣教師たちの報告から知っていたスペイン帝国は、侵略の矛先を明国にして、明国を植民地にしていたかもしれません。

 

明国が植民地となるということは、明国の属国であった朝鮮半島も自動的に植民地となるということです。

 

そして、朝鮮半島経由で、明国と朝鮮連合軍による、日本征伐が行われていたかもしれません。

 

なぜなら、明治時代、ロシア帝国がかつてのスペイン帝国と同じように、朝鮮半島の植民地化を狙い、その後の日本侵略を計画していたからです。

 

このように考えると、豊臣秀吉の朝鮮征伐により、日本のみならず、明国、朝鮮半島を、スペイン帝国の植民地となる危機から救ってくれたのです。

 

 

 

かつての社会党の機関紙「社会新報」に’日本社会主義と護憲運動’というタイトルで、次のような記事が掲載されました。

 

「今は護憲闘争を展開するが、革新勢力が国会で安定した多数を占めて、革新政府を打ち立て、この政府を終局的に社会主義権力に転化させると同時に、

 

全面的な社会主義的改革と取り組む過程で、国民の同意を得て、社会主義憲法を作る」

(「社会新報」昭和38年5月3日付)

 

これは、何を意味しているのでしょうか?

 

革新勢力による、日本国憲法を擁護する運動(護憲運動)というのは、日本を弱体化させて、軍備復活を阻止することなどのための戦術でしかなく、真の目的は、『共産革命』にあるということです。

 

もし、日本に共産革命が起こったらどのようなことが起きるでしょうか?

 

共産革命で粛清された人は、ソ連では、4、700万人(1917年〜1960年にかけて)、中共では、4、794万人(1949年〜1966年にかけて)となります。

(フランス人の共産運動の研究家 スザンヌ・ラバン女史による)

 

元々の人口が日本と比べて多いので、人口比率で言うと、1960年時点の中国の人口が約6億6、700万人(世界銀行より)に対して、4、794万人粛清となると、約7%となります。

 

1959年時点のソ連は、2億800万人(ソ連国勢調査より)に対して、4、700万人の粛清ですので、約22%となります。

 

2015年時点の日本の人口が1億2,700万人(世界銀行より)ですので、889万人(7%)から2、794万人(22%)の日本人が粛清されると言うことになります。

 

粛清とは、政治犯の死刑執行や追放をはじめ、暗殺、強制収容所への送致などです。

 

また、共産革命の過渡期では、婦女暴行(レイプ)や略奪、破壊などは日常茶飯事に起こるでしょう。

 

それは、戦後の日本で、闇市が幅を利かせた混乱期に、三国人によって行われましたし、満州や朝鮮半島から引き揚げしてきた日本人が、ソ連兵や朝鮮人保安隊から受けた歴史が、証明しています。

 

共産党の機関紙「赤旗」には、憲法9条について次のように記載しました。

 

「ここで共産党が主張するように現在の安保条約も駐留軍もなくなり、そして、自衛隊も解散して完全な空白状態になってしまったのちになって、

 

その日本の安全は一体どうやって保証するのかと言う大きな疑問がある。

 

そして、我々革新陣営の中でも、今はそんなことを取り上げて、論ずべきではない。

 

今の段階でそんなことを言い始めたら、結局は共産党の本音を吐かざるを得なくなり、それはひいては必ず自民党を利するに終わるだけだから、

 

そんな問題は今しばらく棚上げにしておくほかはないと主張するものがあるが、それは大変な間違いである。

 

そんな姑息な態度をとっていると、逆にかえって保守政党の利用するところとなり、結局は、共産党の信用を落とすことになりかねない。

 

我々、マルクス・レーニン党は、そう言う将来のことまで勇気を持って、今のうちからはっきり国民の前にその見解を披瀝して、お互いに覚悟のほどを固めあっておく必要がある。

 

国民の間につまらぬ誤解があるといけないから、この機会にはっきり申し述べておくが、

 

日本共産党は未だかつて、”日本に自衛権がないなどと主張したことは一度もない。”

 

駐留軍帰れ、自衛隊やめろ、と言っているのは、それは今の日本がろくろく主権も回復しておらぬ対米追従属国国家だからである。

 

従って、安保条約を破棄して米軍を追い払い、日本が完全に独立を回復したのちになってまで、

 

”この9条を擁護したりするつもりは毛頭ない。”

 

そうなった暁には、世間並みの他の主権国家と同じように、自衛のための必要適切な措置を講ずることは理の当然である。

 

はじめにも述べたように、自衛隊や駐留軍がいなくなって日本が一時真空状態になったからと言って、

 

自民党が宣伝しているようにソ連や中共が侵略してくるような恐れは少しもない。

 

かえって、逆にアメリカのような帝国主義国家が現存している以上、侵略の危険はむしろそちらの方からある。

 

独立を回復した後の日本が、そちらの方の危険から身を守るための必要適切な措置を講ずることは、これはもう当然至極の話で、その期に及んで、

 

”まだ9条がどうしたの戦争放棄だなどと、たわけたことを抜かすつもりは共産党には全然ない。”」と。

(「赤旗」昭和43年1月8日付)

 

日本共産党は、日米安保条約があり米軍基地がある限り、9条がある日本国憲法を擁護する。

 

しかし、米軍が日本から去り、日本が真の独立国家となった時には、現在の憲法を擁護つもりは全くない。

 

つまり、日本共産党が護憲運動を行なっているのは、米軍を日本から追い出す方便に過ぎない、と言うことになります。

 

また、日本共産党は、「ソ連や中共は絶対に日本に侵略してこないが、アメリカは侵略してくるかもしれないから、日本共産党が、将来、社会主義政権を取ったら、防衛力を持たなくてはならない。」と主張しています。

 

ソ連や中共は絶対に日本に侵略してこない、と主張しています

が、本当でしょうか?

 

昭和20年8月9日、日本が、原爆を落とされて消耗していると見限った時、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄して、160万人の大群で侵略してきました。

 

昭和20年8月9日の前日まで、満州や蒙古、樺太、朝鮮半島に在住していた日本人居留民たちは、まさかソ連が侵略してくるとは思ってもいませんでした。

 

その日は、ある日突然やってきます。

 

そして、共産軍の日本侵略の後、共産革命が日本に起きて、あなたの身の回りの人たちが、粛清されてしまうのです。

 

それでも、占領憲法(日本国憲法)を守りますか?

それとも、自主憲法を作り、日本を守りますか?

 

参考図書

「占領憲法下の日本」谷口雅治著 日本教文社

画像 防衛庁を襲撃した三派全学連(昭和43年10月)

 

 

昭和11年(1936年)12月12日、張学良により蒋介石が拉致監禁されてしまいました。(西安事件)

 

この事件で、蒋介石が生きて解放される条件として、毛沢東の八路軍と戦闘することを止め、抗日戦に共に戦うということを約束させられました。

(国共合作)

 

昭和12年(1937年)朱徳が引率した八路軍(共産党軍)の幹部に対し、毛沢東は次のように極秘指示しました。

 

「70%は我が党(共産党)の発展のために使い、20%は国民党(蒋介石)との妥協のために使う。残りの10%だけを抗日戦に使う。」

 

つまり、蒋介石と共に抗日戦に団結して戦おうと協定を結んだにもかかわらず、それは建前であり、実は、日本軍と戦うつもりはほとんどなく、その先に待っている蒋介石との戦い(国共内戦)のために、備えていたということになります。

 

事実、日本軍と正面から対峙して戦ったのは蒋介石率いる国民党軍でした。

 

八路軍はゲリラ戦に徹するといっても、一度、日本軍と正面から大規模に戦闘したことがありました。

 

昭和15年(1940年)8月、山西省・河北省周辺一帯で起きた戦闘で、八路軍が、40万人という大規模な兵隊が正面から攻撃して戦い、日本軍の補給路に大打撃を与え、日本兵276名が戦死するというものでした。(百団大戦)

 

対支那派遣軍司令官となる岡村寧次大将は、八路軍が以外にも強かったので、その指揮した彭徳懐(ほう・とくかい)を高く評価しました。

 

しかし、毛沢東は、彭徳懐を激しく非難。その理由は、いたずらに軍備を消耗させたことと、八路軍が強いと日本軍が認識してしまうと、今度は、八路軍を徹底的に殲滅しようと、日本軍が本気になってしまう恐れがあるためでした。

 

(彭徳懐は、中共誕生後の1958年の廬山会議で粛清され、文化大革命(1966年~1976年)の中、激しい暴行を受けたのち獄死しています。)

 

毛沢東は、中国統一のために3段階にシナリオを作っていました。

 

第一段階:国民党との妥協段階

表面上はあたかも国民党政府(蒋介石)に服従しているように見せかける。

 

第二段階:競争段階

2、3年かけて政治力と軍備力を拡張し、国民党政府(蒋介石)に対抗し壊滅できるまで、継続する。

 

第3段階:進撃段階

国民党軍(蒋介石)の各地区の交通手段を寸断し、孤立して連携できないようにする。そして、最後に国民党から指導的地位を奪う。

 

毛沢東は、国民党軍に日本軍と戦わせ、国民党軍の戦力を消耗させたのち、日本降伏後の国共内戦に勝利するというシナリオでした。

 

このような徹底した戦略により、毛沢東はシナリオ通り、昭和24年(1949年)10月1日、中国統一を果たしました。

 

毛沢東が生きていた時代、中国人民は、次のように刷り込まれていました。

 

「抗日戦争を戦ったのは勇猛な八路軍や新4軍(後の人民解放軍)であり、国民党軍(蒋介石)は山に逃げ、特に蒋介石は日本敗戦の後、初めて山から降りてきて、国共内戦(毛沢東と蒋介石との内戦)を始めた。」と。

 

中共は、「毛沢東は神のごとく神聖で偉大であり、蒋介石は日中戦争において戦わなかった売国奴である」と骨の髄まで染み渡るほど徹底的に、中国人民に刷り込んでいきました。

 

共産党一党独裁政権である中共では、情報統制をすることは、それほど難しくありません。

 

中国国内からは、FaceBookなどソーシャルメディアにアクセスできません。

 

また、中国国内のテレビでは、毎日、抗日ドラマが放送されています。

 

これは、善玉である毛沢東率いる八路軍(共産党軍)が、悪玉である日本軍をやっつけるという、決まったシナリオの番組であり、中国共産党指導のもと、大量に制作されています。

 

このようにして、中共は、中国人民に対して、”毛沢東は日本軍と正面から戦争して勝利した”と、『歴史を歪曲』し、毛沢東の戦争を『美化』して教えているのです。

 

平成27年(2015年)5月23日、二階俊博自民党議員が会長を務める「全国旅行業協会」の関係者ら約3、000人が、北京で行われた日中観光交流イベントに参加しました。

 

その席で、中国の習近平国家主席は、次のように話しました。

 

「中国人民抗日戦争、世界反ファシスト戦争の勝利70周年の年に当たって、日本軍国主義が犯した侵略の罪を隠すこと、歴史の事実を歪曲(わいきょく)するようなことがあってはならない。

 

軍国主義による侵略の『歴史を歪曲』し、『美化』しようとするいかなる言動も、中国人民とアジアの被害国の国民は決して許すことはない。正義と良識を持つ日本国民もきっとこれを許さないだろう」と。

 

平成27年(2015年)9月3日、北京市の天安門広場で中国人民抗日戦争70周年記念式典を大々的に行いました。

 

これは、抗日戦争における中国の勝利から70年を経過したことを祝う記念行事でした。

 

9月3日という日は、昭和20年に日本が、戦艦ミズーリの艦上で、連合国に対して降伏文書を調印した9月2日の翌日という意味になります。

 

しかし、この降伏文書に調印したのは、中華民国(蒋介石)全権の徐 永昌であり、中華人民共和国は、まだ、昭和20年9月2日時点では建国されておりませんでした。

 

つまり、中共が、抗日戦争70周年式典を行った、平成27年9月3日というのは、中華民国(蒋介石)にとっての抗日戦争70周年だったのです。

 

このように中共は、自国の人民に対して、そればかりでなく世界に向けて、『歴史を歪曲』し、『美化』しているのです。

 

「軍国主義による侵略の『歴史を歪曲』し、『美化』しようとするいかなる言動も、中国人民とアジアの被害国の国民は決して許すことはない。」

 

と、中共から繰り返し恫喝されても、全く反論することなく、「ハハアー、中国共産党様のおっしゃる通りでございます」、とひれ伏して中共に服従するのが、日本という国なのです。

 

参考図書

「毛沢東ー日本軍と共謀した男ー」遠藤誉著

 

 

日本海軍が真珠湾を攻撃と同時に、日本陸軍がマレー半島上陸作戦を行いました。

 

イギリスの統治下にあったマレー半島には、インドから派遣された英インド軍が駐屯していました。

 

英インド軍は、将校のみがイギリス人で、将校以下全ての兵隊がインド人で構成されていました。

 

日本陸軍の進撃で、数万人規模のインド人兵士が捕虜となりました。

 

そして、このインド人兵士に対して、イギリスからインドを独立されるために、説得に当たったのが、F機関でした。

 

F機関とは、タイ王国公使館附武官の、田村浩大佐の下に設置された特務機関であり、機関長は、陸軍参謀本部から派遣された、藤原岩市少佐でした。

 

10人足らずの構成員でしたが、皆、陸軍中野学校出身でした。

 

F機関の人たちは、丸腰のままインド人捕虜たちと寝起きを共にし、同じアジア人同士が戦うことは愚かなことであると諭しました。

 

そして、イギリスなど白人帝国主義者をアジアから追放して、「アジア人のためのアジア」を復興するという大アジア主義を説きました。

 

共通の敵であるイギリスに対して、共に戦おうと説得しました。

 

藤原少佐は、ある食事の際、インド人兵士と会食しました。インド人たちと地べたに車座に座り、カレーをインド式に手づかみに食べました。

 

その様子を見ていたインド人兵士たちは衝撃を受けました。

 

なぜなら、それまで統率していたイギリス人将校たちは、皆、テーブルクロスの上に並べられた食器に、西洋式にナイフとフォークを使って食事をしていたからです。

 

イギリス人とインド人の間には、人種差別の壁がはっきりと存在していました。

 

このカレー事件がきっかけとなり、インド人捕虜たちが、次第にF機関の説得に応じるようになっていきました。

 

最終的には5万人規模の組織となり、インド国民軍が創設されました。

 

その最高司令官に、チャンドラ・ボーズが就任しました。

 

F機関は、岩畔豪雄陸軍大佐を機関長とする250名の人数を抱える岩畔機関に発展し、その後、山本敏大佐が機関長となる、光機関となりました。

 

その数、500名となり、インド国民軍を支援していきました。

 

インド国民軍は日本陸軍と共に、ビルマからインドに向かい進軍していきました。(インパール作戦)

 

この行軍は、雨季の時期の猛烈なスコールと、マラリア、食料補給が途絶えてしまったこのなどのため、途中で退却することになりました。

 

チャンドラ・ボーズは、最後の一兵まで残って戦う、と退却を拒否しましたが、日本将校に説得されて、仕方なく撤退せざるを得ませんでした。

 

しかし、無駄なことはありません。

 

このインパール作戦のおかげで、インドは独立を成し遂げることができたのです。

 

昭和20年(1945年)11月に、インド国民軍がエリザベス女王に銃を向けた反逆罪の罪で、将校3名が代表に選ばれて、軍事裁判にかけられました。

 

その裁判で、証人として、藤原岩市元少将が呼ばれました。

 

その裁判中、インド国内では10万人規模のデモが起こったため、刑の執行は行われませんでした。

 

昭和21年(1946年)3月、シンガポールのチャンギー刑務所に送られ、厳しい尋問を受けた後、クアラルンプールに送られました。

 

そこで、藤原岩市元少将は、イギリス軍から、”輝かしい功績”と評価されて、F機関とインド国民軍との関わりについて、取り調べを受けました。

 

イギリス軍は、なぜ、捕虜として捉えられたインド人兵士が、インド国民軍を結成して、日本軍と共にインパール作戦を戦うまでになったのか、とその理由を知りたがったのです。

 

日本降伏の2年後である、昭和22年8月14日、パキスタンが、15日にインドが、それぞれイギリスから分離独立することができました。

 

参考図書

帝国陸軍見果てぬ「防共回廊」関岡英之著 祥伝社

 

 

 

 

韓国軍は、ベトナム戦争に米軍の傭兵として参戦。

 

昭和41年(1966年)2月26日には、南ベトナムビンディン省のゴザイ集落で韓国軍が住民380人を虐殺しました。(ゴダイの虐殺)

 

韓国軍は、女性、こども、老人など村人を一箇所に集めると、一斉に射撃して、1時間以内に一人残らず虐殺しました。

 

これと並行して、昭和41年(1966年)1月23日から2月26日にかけて、南ベトナムビンディン省タイソン県タイヴィン村の15集落の村民1,200人を韓国軍が虐殺しました。(タイヴィン虐殺)

 

昭和43年(1968年)2月12日に、南ベトナムのフォンニィ・フォンニャット村で、韓国軍によって、無抵抗の女性や老人と子供たち、69-79人が虐殺されました。

(フォンニィ・フォンニャット虐殺)

 

婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。

 

両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女。写真撮影後に病院に徹送され、「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で絶命した

(ハンギョレ. (2001年4月24日)

 

妊婦や子供は井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだ。

 

生き残った村人はバラバラになった遺体を井戸から引き上げ、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬りました。

(「私の村は地獄になった」ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号)

 

昭和43年(1968年)2月25日には、南ベトナムのハミ村で韓国軍によって無抵抗の女性や老人と子供たち、135人が虐殺されました。

(ハミの虐殺)

 

村民を広場に集め、一斉に射撃を加えたり、手榴弾を投げつけて虐殺しました。

 

ハミの虐殺の追悼碑には次のように記載されました。

 

「ここは血に染まり、砂と骨が入り混じり、

家は焼かれ、火に焼かれた死体をアリがかじり、

血のにおいが満ち満ちていた。

 

爆風が吹き抜けると、さらに悲惨だった。

破壊された家では年老いた母や父が呻きながら死に、

子どもたちは恐怖におびえた。

 

逃げた人は銃撃されて死に、

子どもは死んだ母親のもとに這って行きお乳を吸った。

もっとひどいのは、戦車で遺体を踏みつぶしたことである。」

 

その後、この追悼碑は韓国政府の圧力により、全文削除されてしまいました。

 

米軍では、無抵抗の民間人を大虐殺してしまう韓国軍に、頭を悩ましました。

 

そこで韓国軍を完全な後方部隊とするか、ベトコンが完全に支配していている地域に、配置転換することが米軍内部で検討されました。

 

なぜ、韓国軍兵士は、このような残虐行為を平気で行うことができるのでしょうか?

 

昭和25年(1950年)6月25日、北朝鮮軍がソウルに侵略。

(朝鮮戦争)

 

2日後の6月27日、李承晩大統領はソウルから逃亡。

 

その逃亡の際、韓国国軍や韓国警察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺しました。

(保導連盟事件)

 

その虐殺数は、114万人と言われています。

 

このように、同胞であるはずの朝鮮人、114万人を、平気で虐殺してしまう韓国人。

 

他民族であるベトナム人を虐殺するのに、なんの抵抗もないのでしょう。

 

 

 

 

昭和40年、41年に、インド、パキスタンでは小麦の大凶作に苦しみ、致命的な食料不足に陥っていました。

 

米国の食料援助がなければ、数千万人規模の飢餓が発生して、第二次世界大戦での死者に匹敵する悲劇が起きるだろう、と米国の環境活動家のレスターブラウンが報道しました。

 

実は、このインドとパキスタンで起きた食糧危機を救ったのは、日本人が作った、ある小麦の品種でした。

 

当時、インドとパキスタンは、カシミール地方の領土の主権争いで、紛争していました。

 

そんな中、ある小麦の品種が注目を浴びました。その小麦をメキシコから大量に運び込み、インドの穀倉地帯であるパンジャブ地方を中心に、その小麦は急速に広まっていきました。

 

昭和45年(1970年)には、それまでのインド国内の小麦の収穫の2倍近くの収穫量をあげました。

 

あまりの収穫量のため、従来の倉庫では間に合わず、野ざらしにされている写真が、世界中の新聞に掲載されました。

 

パキスタンでも、この小麦の栽培を始めたことにより、飛躍的に収穫量が上がり、昭和43年(1968年)には、小麦の国内での自給率が100%近くまでになりました。

 

トルコでも、同様に収穫量をあげていきました。

 

昭和43年(1968年)、米国の国際開発機構のウイリアム・ゴード博士が、次のようなレポートを発表しました。

 

「ほんの数年前まで、人々が飢え苦しんでいたインドとパキスタンに、もはや明日はない、と誰もが報告していました。

 

ところが、突然、小麦の収穫量と生産量に劇的な変化が起きたのです。

 

インドとパキスタンでは”緑の革命”が起きています。」と。

 

このレポートから、ある小麦の品種の普及により、インドとパキスタンの食糧危機を救った出来事は、”緑の革命”と呼ばれるようになりました。

 

昭和43年8月に開催された、国際小麦遺伝子シンポジウムにて、ノーマン・ボーローグ博士が、「”小麦農林10号(NORIN TEN)”が世界の食料危機を救っている」と報告しました。

 

また、その食糧危機を救った小麦の品種改良の貢献により、昭和45年、米国のノーマン・ボーローグ博士が、ノーベル平和賞を受賞しました。

 

ボーローグ博士が、品種改良した小麦とはどのようなものだったのでしょうか?

 

昭和23年、米国ワシントンにある農業試験場に「小麦農林10号(NORIN TEN)」が日本から届きました。

 

フォーゲル博士が、その「小麦農林10」と米国在来種と交配することで、新品種「ゲインズ」を作りました。

 

その新品種の小麦を米国の農家に配布されて、それまでに比べて驚異的な収穫量をあげました。

 

昭和28年にボーローグ博士は、「小麦農林10号」を米国のフォーゲル博士から送ってもらい、メキシコ在来種との交配により、半矮性(はんわいせい)メキシコ小麦ができました。

 

半矮性(はんわいせい)とは、植物の背丈を低くする遺伝子のことです。

 

それまでの小麦の背丈は、人の身長ほどもありましたが、災害に弱く、凶作の原因とされていました。

 

それを、背丈を低くすることで、風雨や雪の災害に強く、倒れにくい品種となったのです。

 

この半矮性(はんわいせい)メキシコ小麦により、メキシコの小麦の生産高が、2倍から3倍に上がりました。

 

このインド、パキスタンの食料危機を救った、奇跡の小麦「半矮性メキシコ小麦」の親である、「小麦農林10号」。

 

その「小麦農林10号」を作ったのは、稲塚権次郎氏でした。

 

昭和3年、埼玉県鴻巣市にある国立農事試験場から「ターキーレッド」という小麦と「フルツ達磨」という小麦を交配した第4世代の種が、岩手県の農地試験場に配布されました。

 

「ターキーレッド」は背丈が高く、「フルツ達磨」は背丈が53Cmと低い小麦でした。

 

この2つの小麦の交配を繰り返すことで、たくさんの子供が生まれました。

 

稲塚権次郎氏は、この中から、背丈が低く、早熟で、品質が優良で、耐寒雪害性が強く、穂が大きく、粒の充実が良好のものを、新品種決定試験に選別しました。

 

それが、「東北34号」となり、のち昭和10年「小麦農林10号」と命名されました。

 

その後、稲塚権次郎氏は、岩手県立農事試験場から、中国に転勤を命じられました。

 

中国の華北産業科学研究所に就任し、中国の農業の発展に貢献しました。

 

そして、昭和20年8月15日、中国大陸で終戦を迎えましたが、終戦後2年間、中国大陸に残りました。

 

稲塚権次郎氏が、まだ中国大陸に残っている頃、昭和21年2月、占領軍の農業顧問として、日本に調査に来ていたサーモン博士が、京都大学の木原教授を訪ねました。

 

サーモン博士は、日本の小麦研究について質問すると、木原教授から「小麦農林10号」の話を聞きました。

 

その「小麦農林10号」に興味を持ったサーモン博士は、「小麦農林10号」の生みの親である、稲塚権次郎氏が研究していた、岩手県立農事試験場を訪ねました。

 

そこで収穫前の「小麦農林10号」を見たサーモン博士は、衝撃を受けました。

 

「盛岡で見た、”NORIN TEN”は、十分な肥料と水を施された地面に、50CM程度の間隔で、きちんとした列に植えられていた。

 

ところが、このような好条件で栽培されているにもかかわらず、これらの小麦の背丈はわずか60CMで、倒れる傾向もない。

 

しかも、分けつ(茎の根元から新しい茎が生まれ、その茎からまた次々と茎が増えていくこと)も多く、たわわな穂をつけているため、50CMも離して植えてあるのに、地面が見えないほどである。

 

米国では通常、小麦は15CMから20CMの間隔で、栽培されている。その常識から考えても、”NORIN TEN”は、際立った特徴を持つものだった。」

(サーモン博士 昭和43年)

 

サーモン博士が、米国に持ち帰った”NORIN TEN”が、ノーマン・ボーローグ博士に渡り、それを親として交配した新品種が、食糧危機を救ったのです。

 

現在、”NORIN TEN”から、500種類以上もの品種が生まれ、50カ国以上に配布されているそうです。

 

また、”NORIN TEN”は、世界の小麦の90%の祖先と言われています。

 

平成2年6月、ノーマン・ボーローグ博士が稲塚権次郎氏が生まれた町、富山県南砺市を訪れ、村人に次のように語りました。

 

「稲塚博士は幸せな農学者だったと思います。このような素晴らしい、美しい環境で生れ育ったという幸運に恵まれて本当に良かったと思います。

 

ここに座っておられる皆様、ほとんどの方が若い方、中年の方ですが、皆様方のご両親、それからおじいちゃん、おばあちゃん、その方達が、

 

このように素晴らしい環境を作られたからこそ、稲塚博士のように立派な科学者がお生まれになったのだと思います。

 

世界の数千万の人たちで小麦を主食としている人たち、いや、数千万では足りませんね、何十億という人たちを代表いたしまして、ありがとうございました。

 

若い人たちに申し上げたいと思います。星を目指して、絶対に手がとどくことはないですが、星を目指して努力してください。

 

いいですか、星屑が手につくようになります。今にきっと」

 

参考図書

「NORIN TEN 世界を飢えから救った日本人 稲塚権次郎物語」

稲塚秀孝編著

 

 

 

 

インドは、長い間、イギリスの植民地にされていました。

 

1600年、イギリスは、東インド会社を設立。

 

その後、プラッシーの戦い(1757年)、3回にわたるカーナティック戦争(1744年 - 1763年)にイギリス軍は勝利し、フランスのインドにおける植民地を奪いました。

 

ブクサールの戦い(1764年)で北インドを侵略し、4次にわたるマイソール王国との戦い(1767年−1799年)で南インドを侵略しました。

 

インド最大の政治勢力であった、マラーター王国とマラーター諸侯によるマラータ同盟との戦い(1818年)にイギリス軍は勝利し、広大なインド領を手に入れました。

 

インドで最後の抵抗勢力であった、インド北西部を支配していたシク王国との戦い(1845年)にイギリス軍が勝利。

 

最後の抵抗組織との戦い(第二次シク戦争)に勝利したことで、1849年3月、イギリスによるインド侵略計画は完成して、インド全土がイギリスの植民地となりました。

 

チャンドラボーズが、イギリス植民地支配からインド独立のため、義勇軍を組織しました。

 

チャンドラボーズはイギリス軍により投獄されましたが、脱走し、アフガニスタンからドイツまで逃れました。

 

ドイツでヒトラーと会見する機会があり、インド独立のため支援を要請しましたが、「インドが独立するまで、あと150年はかかるだろう」と、ヒトラーから冷たくあしらわれてしまいました。

 

ヒトラーは、徹底的な白人優越主義者であり、日本などアジア人を劣等民族(ウンターメンシュ)として見下していたので、インドが独立することなど、興味なかったのです。

 

その一方、東條英機首相は、次のような声明を出しました。

 

「インドもイギリスの暴虐なる圧政から脱出して、大東亜共栄圏に参加すべき絶好のときである」と。

 

昭和17年(1942年)2月、イギリスによる植民地支配されていた、難攻不落のシンガポール要塞に、日本軍が侵攻。

 

日本軍の2倍の兵力があったにもかかわらず、たったの10日足らずでイギリス軍は降伏。

 

昭和17年(1942年)8月、イギリス植民地支配に反対する大規模のデモがインド全土で起きました。 

 

イギリス軍は、戦闘機からデモ行進している民衆に対して機銃掃射を行い、940人が死亡、6万人を逮捕しました。

 

日本政府は、チャンドラボーズのインド独立運動を支援することを決定。

 

昭和18年5月、東京に到着したチャンドラ・ボースは、日比谷公会堂で次のような演説をしました。

 

「約40年前に、私がようやく小学校に通い始めた頃、アジア民族である日本が世界の巨大な白人帝国のロシアと戦い、大敗させました。

 

このニュースがインド全土に伝わると、興奮の波が全土を覆った。

 

インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦や、日本海海戦の勇壮な話によって、沸き立しました。

 

インドの子供達は、東郷元帥や、乃木大将を慕いました。

 

親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしても、それができず、その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、”アジアの希望の光”のシンボルとして家に飾りました。

 

その間、インドの革命家たちは、どうして日本が白人の超大国を打ち破ることができたのか、学ぶために、日本を訪れた。

 

日本から、岡倉天心を始めとする先覚者がインドを訪れ、アジアを救う精神を説きました。

 

岡倉こそ『アジアは一つ』と断言した。

 

偉大な先覚者でした。

 

この度、日本はインドの仇的であるイギリスに対して、宣戦布告しました。

 

日本は我々インド人に対して、独立のための千歳一隅の機会を与えてくれました。

 

我々はそれを自覚し、心から感謝しています。

 

一度、この機会を逃せば、今後、100年以上にわたって独立の機会が訪れることはないでしょう。

 

勝利は我々のものであり、インドが念願の独立を果たすことを確信しています」と。

 

この演説は、インドへ向けてラジオ放送されました。

 

昭和18年10月、チャンドラ・ボースを代表とする、自由インド仮政府が成立し、10月24日、イギリス、米国に対して、宣戦布告をしました。

 

昭和18年11月5日から、東京で大東亜会議が開催されました。

 

この大東亜会議は、有色人種によって初めて開催されたサミットでした。

 

日本、満州国、中国南京政府、フィリピン、ビルマ、タイ、そして自由インド仮政府代表としてチャンドラ・ボースが参加しました。

 

大東亜共同宣言が採択されたとき、チャンドラ・ボースは次のように述べました。

 

「この宣言が、アジア諸国民のみならず、全世界にわたる被抑圧民族の憲章となることを願う」と。

 

昭和19年3月、日本軍がインド国民軍(INA)とともに、インドビルマ国境から、インパールを目指して進軍しました。(インパール作戦)

 

「チャロ、チャロ、デリー!」(進め、進め、デリーへ)を合言葉に、「我らの国旗を、デリーのレッドフォードに掲げよ!」とチャンドラボーズは激励して、進軍していきました。

 

「チャロ、デリー!」は軍歌となって、今でも多くのインド人が歌っているそうです。

 

しかし、この戦いで日本軍とインド国民軍(INA)は敗れました。

 

日本兵の死体が白骨化して、山道にたくさん屍がさらされました。(白骨街道)

 

昭和19年11月、チャンドラ・ボースが再来日して、日比谷公会堂で次のように演説しました。

 

「アジアに住むインド人は、人的、物的資源を総動員して、、日本と生死を共にする」と。

 

日本の力無しに、アジアの解放は成し遂げられなかったのです。

 

しかし、昭和20年8月15日、日本降伏。

 

日本が武器をおいても、チャンドラ・ボースは、インド独立を諦めませんでした。

 

インパール作戦の残存兵を中心として、今度はソ連の支援を取り付け、再びインドのデリーを目指して進撃する計画を立てました。

 

ソ連に向かうため、サイゴンから台北に到着し、そこから日本の輸送機に乗って大連に向かう際、輸送機が墜落。

 

この事故で重傷を負ったチャンドラ・ボースは、しばらくして亡くなりました。

 

死の間際に、チャンドラ・ボースはハブビル・ラーマン大佐に言いました。

 

「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。

 

私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。」と。

 

イギリスは、インド国防軍(INA)の将校たちを、エリザベス女王に銃を向けた反逆罪として、軍事裁判を行いました。

 

インドの三大宗教であるイスラム教、ヒンズー教、シーク教別にそれぞれの信徒の将校たちを一人ずつ選び、被告席に座らせました。

 

昭和20年11月5日、軍事裁判が始まりました。しかし、この不当な裁判の中止を求めた運動が、インド全土にに起こりました。

 

証人としてインドのデリーに派遣されていた、沢田駐ビルマ大使が、被告人たちに対して提案しました。

 

「みなさんは、INAは日本軍の手先として、インド将兵は自由意志によらず、日本軍によって強制されたと主張して、罪を軽くするのが良策だと思います。」と。

 

この提案を聞いて、インド人たちは怒り出して、次のようなことを口々に言いました。

 

「インド人を侮らないでほしい。INAは、日本軍と対等な立場で、共同作戦を行った独立軍である。日本軍の傀儡では決してない。

 

そのようなことを、絶対に言って欲しくない。その結果として被告全員が死刑となっても、インド国民に悔いはない」と。

 

裁判が行われたレッドフォード周辺では、不当な裁判に対する抗議行動を行っていた市民に対して、警官が発砲して、数百人の死傷者が出ました。

 

この抗議行動は、インド全土に広がっていきました。

 

「彼らは戦犯などではない、愛国者だ!」

 

インド民衆が一斉に蜂起。

 

昭和21年1月3日、イギリスは、事態の収拾ができなくなったため、被告への刑の執行停止を発表しました。

 

ニューデリーでは、釈放祝賀会が大規模に行われ、会場には、今は亡き、チャンドラ・ボーズの巨大な肖像画が飾られました。

 

しかし、イギリスは、「被告については問責しないが、イギリス軍に対する殺人の被人道的犯罪については、裁く」と発表。

 

イギリス軍が、それまでの数百年にわたり行ってきた、インド人に対する被人道的な拷問虐殺については、一切不問としてです。

 

抗議デモが、インド全土で再び起こりました。

 

イギリスはこのような状況にもかかわらず、昭和21年2月7日ニューデリーにて盛大な対日戦勝祝賀パレードを行う計画でした。

 

しかし、ニューデリーでは全戸に弔旗が掲げられ、商店も学校も工場も全て休みとなり、数万人規模のデモ行進が行われました。

 

昭和22年8月15日、イギリスはインドの統治権を放棄。ついに悲願であった、インド独立を果たすことができました。

 

チャンドラボーズの志が、死んだ後も引き継がれたのです。

 

そして、200年以上にわたるイギリスの植民地支配から終止符が打たれました。

 

軍事(報復)裁判のインド側の弁護団長だったデサイ氏は、インド独立後に次のように語りました。

 

「日本軍がインド国民軍を編成して、武器を取って進軍させてくれた。(インパール作戦)

 

この進軍が、インド全土で国民運動となって、イギリスに独立を認めさせる契機となった。インド独立をもたらしたのは、日本軍であった。」と。

 

元インド国民軍デロン中佐は、手紙に次のように書きました。

 

「日本はチャンドラボーズとともに、インド独立のために戦ってくれました。

 

インドは、日本軍の犠牲のもとに独立することができたのです。

 

もし、あんなに犠牲者を出すことなく、また、インド国民軍と協力しないでインドに侵攻したならば、イギリス軍のインド部隊は、自分たちの方針を変えなかったでしょう。

 

25万のインド部隊が方針を変えたことにより、イギリスから独立することができたのです。」

 

元インド国民軍ヤダバ大尉

「我々インド国民軍将兵は、インドを解放するためにともに戦った戦友として、インパールの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して、最も甚大なる敬意を表します。

 

インド国民は大義のために命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代に至るまで、決して忘れません。」

 

元インド国民軍ヤダフ大尉

「インドが日本おおかげを被っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。

 

 偉大な日本国は、インドを解放するために可能な限りの軍事援助を提供しました。

 

何十万に上る日本軍兵士がインド国民軍の戦友として、ともに血と汗と涙を流してくれました。

 

インド国民軍は、日本帝国陸軍がインドの大義のために払った尊い犠牲を、永久に忘れません。

 

インドの独立は、日本陸軍によってもたらされました」

 

ロンドン大学教授である、エリック・ホプスバウ博士は次のように語りました。

 

「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した、非暴力の独立運動によるものではない。

 

日本軍と、チャンドラボーズが率いたインド国民軍(INA)が協力して、ビルマを経由してインドへ侵攻した、インパール作戦によって成し遂げられたものである」

 

日本軍参謀の無謀な作戦によって、多くの犠牲を出したインパール作戦。

 

しかし、この戦いは無謀な作戦でもなく、この戦いによる犠牲者は犬死でもありませんでした。

 

日本陸軍とインド国民軍との連合軍による、インパール作戦があったおかげで、インドが独立することができたからです。

 

参考図書

「なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか」加瀬英明、ヘンリーストークス著