世界を飢餓から救った男 稲塚権次郎 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

昭和40年、41年に、インド、パキスタンでは小麦の大凶作に苦しみ、致命的な食料不足に陥っていました。

 

米国の食料援助がなければ、数千万人規模の飢餓が発生して、第二次世界大戦での死者に匹敵する悲劇が起きるだろう、と米国の環境活動家のレスターブラウンが報道しました。

 

実は、このインドとパキスタンで起きた食糧危機を救ったのは、日本人が作った、ある小麦の品種でした。

 

当時、インドとパキスタンは、カシミール地方の領土の主権争いで、紛争していました。

 

そんな中、ある小麦の品種が注目を浴びました。その小麦をメキシコから大量に運び込み、インドの穀倉地帯であるパンジャブ地方を中心に、その小麦は急速に広まっていきました。

 

昭和45年(1970年)には、それまでのインド国内の小麦の収穫の2倍近くの収穫量をあげました。

 

あまりの収穫量のため、従来の倉庫では間に合わず、野ざらしにされている写真が、世界中の新聞に掲載されました。

 

パキスタンでも、この小麦の栽培を始めたことにより、飛躍的に収穫量が上がり、昭和43年(1968年)には、小麦の国内での自給率が100%近くまでになりました。

 

トルコでも、同様に収穫量をあげていきました。

 

昭和43年(1968年)、米国の国際開発機構のウイリアム・ゴード博士が、次のようなレポートを発表しました。

 

「ほんの数年前まで、人々が飢え苦しんでいたインドとパキスタンに、もはや明日はない、と誰もが報告していました。

 

ところが、突然、小麦の収穫量と生産量に劇的な変化が起きたのです。

 

インドとパキスタンでは”緑の革命”が起きています。」と。

 

このレポートから、ある小麦の品種の普及により、インドとパキスタンの食糧危機を救った出来事は、”緑の革命”と呼ばれるようになりました。

 

昭和43年8月に開催された、国際小麦遺伝子シンポジウムにて、ノーマン・ボーローグ博士が、「”小麦農林10号(NORIN TEN)”が世界の食料危機を救っている」と報告しました。

 

また、その食糧危機を救った小麦の品種改良の貢献により、昭和45年、米国のノーマン・ボーローグ博士が、ノーベル平和賞を受賞しました。

 

ボーローグ博士が、品種改良した小麦とはどのようなものだったのでしょうか?

 

昭和23年、米国ワシントンにある農業試験場に「小麦農林10号(NORIN TEN)」が日本から届きました。

 

フォーゲル博士が、その「小麦農林10」と米国在来種と交配することで、新品種「ゲインズ」を作りました。

 

その新品種の小麦を米国の農家に配布されて、それまでに比べて驚異的な収穫量をあげました。

 

昭和28年にボーローグ博士は、「小麦農林10号」を米国のフォーゲル博士から送ってもらい、メキシコ在来種との交配により、半矮性(はんわいせい)メキシコ小麦ができました。

 

半矮性(はんわいせい)とは、植物の背丈を低くする遺伝子のことです。

 

それまでの小麦の背丈は、人の身長ほどもありましたが、災害に弱く、凶作の原因とされていました。

 

それを、背丈を低くすることで、風雨や雪の災害に強く、倒れにくい品種となったのです。

 

この半矮性(はんわいせい)メキシコ小麦により、メキシコの小麦の生産高が、2倍から3倍に上がりました。

 

このインド、パキスタンの食料危機を救った、奇跡の小麦「半矮性メキシコ小麦」の親である、「小麦農林10号」。

 

その「小麦農林10号」を作ったのは、稲塚権次郎氏でした。

 

昭和3年、埼玉県鴻巣市にある国立農事試験場から「ターキーレッド」という小麦と「フルツ達磨」という小麦を交配した第4世代の種が、岩手県の農地試験場に配布されました。

 

「ターキーレッド」は背丈が高く、「フルツ達磨」は背丈が53Cmと低い小麦でした。

 

この2つの小麦の交配を繰り返すことで、たくさんの子供が生まれました。

 

稲塚権次郎氏は、この中から、背丈が低く、早熟で、品質が優良で、耐寒雪害性が強く、穂が大きく、粒の充実が良好のものを、新品種決定試験に選別しました。

 

それが、「東北34号」となり、のち昭和10年「小麦農林10号」と命名されました。

 

その後、稲塚権次郎氏は、岩手県立農事試験場から、中国に転勤を命じられました。

 

中国の華北産業科学研究所に就任し、中国の農業の発展に貢献しました。

 

そして、昭和20年8月15日、中国大陸で終戦を迎えましたが、終戦後2年間、中国大陸に残りました。

 

稲塚権次郎氏が、まだ中国大陸に残っている頃、昭和21年2月、占領軍の農業顧問として、日本に調査に来ていたサーモン博士が、京都大学の木原教授を訪ねました。

 

サーモン博士は、日本の小麦研究について質問すると、木原教授から「小麦農林10号」の話を聞きました。

 

その「小麦農林10号」に興味を持ったサーモン博士は、「小麦農林10号」の生みの親である、稲塚権次郎氏が研究していた、岩手県立農事試験場を訪ねました。

 

そこで収穫前の「小麦農林10号」を見たサーモン博士は、衝撃を受けました。

 

「盛岡で見た、”NORIN TEN”は、十分な肥料と水を施された地面に、50CM程度の間隔で、きちんとした列に植えられていた。

 

ところが、このような好条件で栽培されているにもかかわらず、これらの小麦の背丈はわずか60CMで、倒れる傾向もない。

 

しかも、分けつ(茎の根元から新しい茎が生まれ、その茎からまた次々と茎が増えていくこと)も多く、たわわな穂をつけているため、50CMも離して植えてあるのに、地面が見えないほどである。

 

米国では通常、小麦は15CMから20CMの間隔で、栽培されている。その常識から考えても、”NORIN TEN”は、際立った特徴を持つものだった。」

(サーモン博士 昭和43年)

 

サーモン博士が、米国に持ち帰った”NORIN TEN”が、ノーマン・ボーローグ博士に渡り、それを親として交配した新品種が、食糧危機を救ったのです。

 

現在、”NORIN TEN”から、500種類以上もの品種が生まれ、50カ国以上に配布されているそうです。

 

また、”NORIN TEN”は、世界の小麦の90%の祖先と言われています。

 

平成2年6月、ノーマン・ボーローグ博士が稲塚権次郎氏が生まれた町、富山県南砺市を訪れ、村人に次のように語りました。

 

「稲塚博士は幸せな農学者だったと思います。このような素晴らしい、美しい環境で生れ育ったという幸運に恵まれて本当に良かったと思います。

 

ここに座っておられる皆様、ほとんどの方が若い方、中年の方ですが、皆様方のご両親、それからおじいちゃん、おばあちゃん、その方達が、

 

このように素晴らしい環境を作られたからこそ、稲塚博士のように立派な科学者がお生まれになったのだと思います。

 

世界の数千万の人たちで小麦を主食としている人たち、いや、数千万では足りませんね、何十億という人たちを代表いたしまして、ありがとうございました。

 

若い人たちに申し上げたいと思います。星を目指して、絶対に手がとどくことはないですが、星を目指して努力してください。

 

いいですか、星屑が手につくようになります。今にきっと」

 

参考図書

「NORIN TEN 世界を飢えから救った日本人 稲塚権次郎物語」

稲塚秀孝編著