イギリスからの独立を果たしたインド、それは日本軍、インド国民軍によるインパール作戦のおかげでした | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

インドは、長い間、イギリスの植民地にされていました。

 

1600年、イギリスは、東インド会社を設立。

 

その後、プラッシーの戦い(1757年)、3回にわたるカーナティック戦争(1744年 - 1763年)にイギリス軍は勝利し、フランスのインドにおける植民地を奪いました。

 

ブクサールの戦い(1764年)で北インドを侵略し、4次にわたるマイソール王国との戦い(1767年−1799年)で南インドを侵略しました。

 

インド最大の政治勢力であった、マラーター王国とマラーター諸侯によるマラータ同盟との戦い(1818年)にイギリス軍は勝利し、広大なインド領を手に入れました。

 

インドで最後の抵抗勢力であった、インド北西部を支配していたシク王国との戦い(1845年)にイギリス軍が勝利。

 

最後の抵抗組織との戦い(第二次シク戦争)に勝利したことで、1849年3月、イギリスによるインド侵略計画は完成して、インド全土がイギリスの植民地となりました。

 

チャンドラボーズが、イギリス植民地支配からインド独立のため、義勇軍を組織しました。

 

チャンドラボーズはイギリス軍により投獄されましたが、脱走し、アフガニスタンからドイツまで逃れました。

 

ドイツでヒトラーと会見する機会があり、インド独立のため支援を要請しましたが、「インドが独立するまで、あと150年はかかるだろう」と、ヒトラーから冷たくあしらわれてしまいました。

 

ヒトラーは、徹底的な白人優越主義者であり、日本などアジア人を劣等民族(ウンターメンシュ)として見下していたので、インドが独立することなど、興味なかったのです。

 

その一方、東條英機首相は、次のような声明を出しました。

 

「インドもイギリスの暴虐なる圧政から脱出して、大東亜共栄圏に参加すべき絶好のときである」と。

 

昭和17年(1942年)2月、イギリスによる植民地支配されていた、難攻不落のシンガポール要塞に、日本軍が侵攻。

 

日本軍の2倍の兵力があったにもかかわらず、たったの10日足らずでイギリス軍は降伏。

 

昭和17年(1942年)8月、イギリス植民地支配に反対する大規模のデモがインド全土で起きました。 

 

イギリス軍は、戦闘機からデモ行進している民衆に対して機銃掃射を行い、940人が死亡、6万人を逮捕しました。

 

日本政府は、チャンドラボーズのインド独立運動を支援することを決定。

 

昭和18年5月、東京に到着したチャンドラ・ボースは、日比谷公会堂で次のような演説をしました。

 

「約40年前に、私がようやく小学校に通い始めた頃、アジア民族である日本が世界の巨大な白人帝国のロシアと戦い、大敗させました。

 

このニュースがインド全土に伝わると、興奮の波が全土を覆った。

 

インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦や、日本海海戦の勇壮な話によって、沸き立しました。

 

インドの子供達は、東郷元帥や、乃木大将を慕いました。

 

親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしても、それができず、その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、”アジアの希望の光”のシンボルとして家に飾りました。

 

その間、インドの革命家たちは、どうして日本が白人の超大国を打ち破ることができたのか、学ぶために、日本を訪れた。

 

日本から、岡倉天心を始めとする先覚者がインドを訪れ、アジアを救う精神を説きました。

 

岡倉こそ『アジアは一つ』と断言した。

 

偉大な先覚者でした。

 

この度、日本はインドの仇的であるイギリスに対して、宣戦布告しました。

 

日本は我々インド人に対して、独立のための千歳一隅の機会を与えてくれました。

 

我々はそれを自覚し、心から感謝しています。

 

一度、この機会を逃せば、今後、100年以上にわたって独立の機会が訪れることはないでしょう。

 

勝利は我々のものであり、インドが念願の独立を果たすことを確信しています」と。

 

この演説は、インドへ向けてラジオ放送されました。

 

昭和18年10月、チャンドラ・ボースを代表とする、自由インド仮政府が成立し、10月24日、イギリス、米国に対して、宣戦布告をしました。

 

昭和18年11月5日から、東京で大東亜会議が開催されました。

 

この大東亜会議は、有色人種によって初めて開催されたサミットでした。

 

日本、満州国、中国南京政府、フィリピン、ビルマ、タイ、そして自由インド仮政府代表としてチャンドラ・ボースが参加しました。

 

大東亜共同宣言が採択されたとき、チャンドラ・ボースは次のように述べました。

 

「この宣言が、アジア諸国民のみならず、全世界にわたる被抑圧民族の憲章となることを願う」と。

 

昭和19年3月、日本軍がインド国民軍(INA)とともに、インドビルマ国境から、インパールを目指して進軍しました。(インパール作戦)

 

「チャロ、チャロ、デリー!」(進め、進め、デリーへ)を合言葉に、「我らの国旗を、デリーのレッドフォードに掲げよ!」とチャンドラボーズは激励して、進軍していきました。

 

「チャロ、デリー!」は軍歌となって、今でも多くのインド人が歌っているそうです。

 

しかし、この戦いで日本軍とインド国民軍(INA)は敗れました。

 

日本兵の死体が白骨化して、山道にたくさん屍がさらされました。(白骨街道)

 

昭和19年11月、チャンドラ・ボースが再来日して、日比谷公会堂で次のように演説しました。

 

「アジアに住むインド人は、人的、物的資源を総動員して、、日本と生死を共にする」と。

 

日本の力無しに、アジアの解放は成し遂げられなかったのです。

 

しかし、昭和20年8月15日、日本降伏。

 

日本が武器をおいても、チャンドラ・ボースは、インド独立を諦めませんでした。

 

インパール作戦の残存兵を中心として、今度はソ連の支援を取り付け、再びインドのデリーを目指して進撃する計画を立てました。

 

ソ連に向かうため、サイゴンから台北に到着し、そこから日本の輸送機に乗って大連に向かう際、輸送機が墜落。

 

この事故で重傷を負ったチャンドラ・ボースは、しばらくして亡くなりました。

 

死の間際に、チャンドラ・ボースはハブビル・ラーマン大佐に言いました。

 

「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。

 

私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。」と。

 

イギリスは、インド国防軍(INA)の将校たちを、エリザベス女王に銃を向けた反逆罪として、軍事裁判を行いました。

 

インドの三大宗教であるイスラム教、ヒンズー教、シーク教別にそれぞれの信徒の将校たちを一人ずつ選び、被告席に座らせました。

 

昭和20年11月5日、軍事裁判が始まりました。しかし、この不当な裁判の中止を求めた運動が、インド全土にに起こりました。

 

証人としてインドのデリーに派遣されていた、沢田駐ビルマ大使が、被告人たちに対して提案しました。

 

「みなさんは、INAは日本軍の手先として、インド将兵は自由意志によらず、日本軍によって強制されたと主張して、罪を軽くするのが良策だと思います。」と。

 

この提案を聞いて、インド人たちは怒り出して、次のようなことを口々に言いました。

 

「インド人を侮らないでほしい。INAは、日本軍と対等な立場で、共同作戦を行った独立軍である。日本軍の傀儡では決してない。

 

そのようなことを、絶対に言って欲しくない。その結果として被告全員が死刑となっても、インド国民に悔いはない」と。

 

裁判が行われたレッドフォード周辺では、不当な裁判に対する抗議行動を行っていた市民に対して、警官が発砲して、数百人の死傷者が出ました。

 

この抗議行動は、インド全土に広がっていきました。

 

「彼らは戦犯などではない、愛国者だ!」

 

インド民衆が一斉に蜂起。

 

昭和21年1月3日、イギリスは、事態の収拾ができなくなったため、被告への刑の執行停止を発表しました。

 

ニューデリーでは、釈放祝賀会が大規模に行われ、会場には、今は亡き、チャンドラ・ボーズの巨大な肖像画が飾られました。

 

しかし、イギリスは、「被告については問責しないが、イギリス軍に対する殺人の被人道的犯罪については、裁く」と発表。

 

イギリス軍が、それまでの数百年にわたり行ってきた、インド人に対する被人道的な拷問虐殺については、一切不問としてです。

 

抗議デモが、インド全土で再び起こりました。

 

イギリスはこのような状況にもかかわらず、昭和21年2月7日ニューデリーにて盛大な対日戦勝祝賀パレードを行う計画でした。

 

しかし、ニューデリーでは全戸に弔旗が掲げられ、商店も学校も工場も全て休みとなり、数万人規模のデモ行進が行われました。

 

昭和22年8月15日、イギリスはインドの統治権を放棄。ついに悲願であった、インド独立を果たすことができました。

 

チャンドラボーズの志が、死んだ後も引き継がれたのです。

 

そして、200年以上にわたるイギリスの植民地支配から終止符が打たれました。

 

軍事(報復)裁判のインド側の弁護団長だったデサイ氏は、インド独立後に次のように語りました。

 

「日本軍がインド国民軍を編成して、武器を取って進軍させてくれた。(インパール作戦)

 

この進軍が、インド全土で国民運動となって、イギリスに独立を認めさせる契機となった。インド独立をもたらしたのは、日本軍であった。」と。

 

元インド国民軍デロン中佐は、手紙に次のように書きました。

 

「日本はチャンドラボーズとともに、インド独立のために戦ってくれました。

 

インドは、日本軍の犠牲のもとに独立することができたのです。

 

もし、あんなに犠牲者を出すことなく、また、インド国民軍と協力しないでインドに侵攻したならば、イギリス軍のインド部隊は、自分たちの方針を変えなかったでしょう。

 

25万のインド部隊が方針を変えたことにより、イギリスから独立することができたのです。」

 

元インド国民軍ヤダバ大尉

「我々インド国民軍将兵は、インドを解放するためにともに戦った戦友として、インパールの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して、最も甚大なる敬意を表します。

 

インド国民は大義のために命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代に至るまで、決して忘れません。」

 

元インド国民軍ヤダフ大尉

「インドが日本おおかげを被っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。

 

 偉大な日本国は、インドを解放するために可能な限りの軍事援助を提供しました。

 

何十万に上る日本軍兵士がインド国民軍の戦友として、ともに血と汗と涙を流してくれました。

 

インド国民軍は、日本帝国陸軍がインドの大義のために払った尊い犠牲を、永久に忘れません。

 

インドの独立は、日本陸軍によってもたらされました」

 

ロンドン大学教授である、エリック・ホプスバウ博士は次のように語りました。

 

「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した、非暴力の独立運動によるものではない。

 

日本軍と、チャンドラボーズが率いたインド国民軍(INA)が協力して、ビルマを経由してインドへ侵攻した、インパール作戦によって成し遂げられたものである」

 

日本軍参謀の無謀な作戦によって、多くの犠牲を出したインパール作戦。

 

しかし、この戦いは無謀な作戦でもなく、この戦いによる犠牲者は犬死でもありませんでした。

 

日本陸軍とインド国民軍との連合軍による、インパール作戦があったおかげで、インドが独立することができたからです。

 

参考図書

「なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか」加瀬英明、ヘンリーストークス著