韓国軍は、ベトナム戦争に米軍の傭兵として参戦。
昭和41年(1966年)2月26日には、南ベトナムビンディン省のゴザイ集落で韓国軍が住民380人を虐殺しました。(ゴダイの虐殺)
韓国軍は、女性、こども、老人など村人を一箇所に集めると、一斉に射撃して、1時間以内に一人残らず虐殺しました。
これと並行して、昭和41年(1966年)1月23日から2月26日にかけて、南ベトナムビンディン省タイソン県タイヴィン村の15集落の村民1,200人を韓国軍が虐殺しました。(タイヴィン虐殺)
昭和43年(1968年)2月12日に、南ベトナムのフォンニィ・フォンニャット村で、韓国軍によって、無抵抗の女性や老人と子供たち、69-79人が虐殺されました。
(フォンニィ・フォンニャット虐殺)
婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。
両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女。写真撮影後に病院に徹送され、「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で絶命した
(ハンギョレ. (2001年4月24日)
妊婦や子供は井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだ。
生き残った村人はバラバラになった遺体を井戸から引き上げ、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬りました。
(「私の村は地獄になった」ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号)
昭和43年(1968年)2月25日には、南ベトナムのハミ村で韓国軍によって無抵抗の女性や老人と子供たち、135人が虐殺されました。
(ハミの虐殺)
村民を広場に集め、一斉に射撃を加えたり、手榴弾を投げつけて虐殺しました。
ハミの虐殺の追悼碑には次のように記載されました。
「ここは血に染まり、砂と骨が入り混じり、
家は焼かれ、火に焼かれた死体をアリがかじり、
血のにおいが満ち満ちていた。
爆風が吹き抜けると、さらに悲惨だった。
破壊された家では年老いた母や父が呻きながら死に、
子どもたちは恐怖におびえた。
逃げた人は銃撃されて死に、
子どもは死んだ母親のもとに這って行きお乳を吸った。
もっとひどいのは、戦車で遺体を踏みつぶしたことである。」
その後、この追悼碑は韓国政府の圧力により、全文削除されてしまいました。
米軍では、無抵抗の民間人を大虐殺してしまう韓国軍に、頭を悩ましました。
そこで韓国軍を完全な後方部隊とするか、ベトコンが完全に支配していている地域に、配置転換することが米軍内部で検討されました。
なぜ、韓国軍兵士は、このような残虐行為を平気で行うことができるのでしょうか?
昭和25年(1950年)6月25日、北朝鮮軍がソウルに侵略。
(朝鮮戦争)
2日後の6月27日、李承晩大統領はソウルから逃亡。
その逃亡の際、韓国国軍や韓国警察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺しました。
(保導連盟事件)
その虐殺数は、114万人と言われています。
このように、同胞であるはずの朝鮮人、114万人を、平気で虐殺してしまう韓国人。
他民族であるベトナム人を虐殺するのに、なんの抵抗もないのでしょう。
