子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -33ページ目

 

 

親孝行は自分の身も助ける 〜 渡辺崋山

 

渡辺登は、田原藩(愛知県東部)の藩士で、号を崋山と言いました。

小さい時から素直な人物で、よく父母の言いつけを守り、父母に心配をかけるようなことは少しもありませんでした。

 

14歳の頃、家が貧しい上に、父親が病気にかかってしまったので、暮らしは一層苦しくなりました。

 

崋山は、父の背中をさすったり、薬を飲ませたりして、懸命に父を看病しました。

 

また、看病の看病の合間には、母親の手伝いをしました。それだけではありません。

 

崋山は、「何か仕事をして、家の暮らしを助け、父母を安心させたいものだ」と、いつも考えていました。

 

崋山は、最初学者になろうと思って、学問を熱心に行っていましたが、ある時、親しい人に訪ねて、身の上相談をしたところ、

 

「君は学問が好きなようだから、学者になろうと思うことは良いことだが、それでは、今すぐ生活の助けにはならない。君は絵が上手だから、絵を描くことを稽古した方が良くないか」

 

と、親切に勧められました。崋山は、それを聞いて、「なるほど、そうだ」と思って、すぐにある師匠について絵を学び始めました。

 

父の病気は長引いて、20年ばかりも床についていました。時にはたいそう苦しんで、何日も食事ができないようなこともありました。

 

崋山は、その長い間、生活を助けながら、全く看病を怠けることなく、一心に父の病気が治ることを祈っていました。

 

しかし、その甲斐もなく、父は亡くなってしまいました。

 

崋山の悲しみは例えようもありませんでした。崋山は、父を慕うあまりに、泣きながら絵筆をとって父の顔形を写しました。

 

お葬式が済んだ後も、崋山は朝晩、着物を整えて、謹んで父の絵姿に礼拝をしました。

 

孝行は、親を安んずるより、大いなる話。

 

(参考図書:尋常書学校 4年生 「修身書」)

 

 

なかよき兄弟 「修身唱歌」

 

(1)ぶんちゃん 大人よ これをみや

ためたる カネの そのうちで

めいめい もとめて きましたよ

かよーに なか良い 兄弟を

産みたる 父母 嬉しかろう

 

(2)みなさん 一緒に おさらいな

勉強すれば 兄さんが

もらった お菓子を あげますよ

かよーに 正しい 子供らを

育てる 親たち 嬉しかろう

 

(3)ババさん お出かけ 手を引こう

私が 雪駄を 揃えましょう

私は お杖を いたしましょう

かよーに いたわる 孫どもを

連れたる年寄り 嬉しかろう

 

(4)朝夕 決まりの 仕事ぞと

縁側 庭の 掃き掃除

かよーに 働く 姉妹

をしふる 親御は 楽しかろう

 

(5)出るにも 入るにも 礼欠かず

道より(寄り道) などは 耐えてせず

互いに 助けて 行き来する

かよーに 素直な 兄弟

持ちたる ふたおや 嬉しかろう

 

(参考図書:尋常科 第一学年 「修身唱歌」)

 

 

親を敬う 〜 松平好房(まつだいら よしふさ)

 

松平好房は、小さい時から行儀の良い人で、自分の居間にいる時でも、父母のおられる方へ足を伸ばしたことは、決してありませんでした。

 

よそへ行く時には、そのことを父母に告げ、帰ってきた時には、必ず父母の前へ出て、

「ただいま帰りました」

 

と行って挨拶をし、それからその日にあったことを話しました。

 

好房は、父母から物をもらうときには、丁寧にお辞儀をしてそれを受け、いつまでも大切に持っていました。

 

また、遠くへ出られた父母から手紙をもらったときは、まずいただいてから開き、読み終わると、またいただいてそれをしまいました。

 

父母が何かおっしゃるときには、好房は行儀よく聞いて、おっしゃることにそむかないようにし、また人が好房の父母の話をするときでも、座り直して聞きました。

 

好房は、このように父母を敬って行儀がよかったばかりでなく、親類の人にも、お客にも、いつも行儀よくしましたので、好房を褒めないものはありませんでした。

 

尋常小学校 唱歌

「松平好房」

 

(1)まつだひらの よしふさは

よってで じもしり れいもしり

おやの まへには あしのべず

そとに でるには つげしらず

われらもそれに ならいましょう

 

(2)まつだひらの よしふさは

よそで もらった ものはみな

いつも おやごに おめにかけ

さらに たまへは おじぎする

われらもそれに ならいましょう

 

(参考図書:尋常小学校 「修身書」、尋常科第一学年「修身教典唱歌」)

 

 

 

新天地に挑む 〜 山田長政

 

今から320年ばかり前に、山田長政は、シャムの国へ行きました。シャムというのは今のタイ国のことです。

 

その頃、日本人は、船に乗って盛んに南方の島々国々に往来し、たくさんの日本人が移り住んで、いたるところに日本町というものができました。

 

シャムの日本町には5千人ぐらいが住んでいたということです。

 

20何歳かでシャムへ渡った長政は、やがて日本町の頭になりました。

 

勇気に満ち、しかも正直で、義気のある人でした。

 

シャムの国王(アユタヤー王朝)は、ソンタムと言ってたいそう名君でありました。

 

長政は、日本人の義勇軍を作り、その隊長になって、この国のために度々手柄を立てました。

 

国王は、長政を武官に任じて、のちには、最上の武官の位置に進めました。

 

日本人の中で、武術に優れ、勇気のある者6百人ばかりが、長政の部下としてついていました。

 

長政は、これら日本の武士と、たくさんのシャムの軍兵を率いて、いつも、堂々と戦いに出かけました。

 

 

長政が、緋縅(ひおどし)の鎧を身につけ、立派な車に乗り、シャムの音楽を演奏しながら、都に凱旋するときは、見物人で、町という町がいっぱいだったということです。

 

長政は、こうして、この国のために、しばしば武功を立て、高位高官に登りました。

 

その間も、日本町のために活動し、日本へ往来する船の世話をし、海外貿易を盛んにすることに勤めました。

 

身分が高くなってからは、ほとんど毎年のように、自分で仕立てた船を日本へ送っていました。

 

長政がシャムへ渡ってから、、20年ばかりの年月が過ぎました。名君の誉れ高かったソンタム王も亡くなり、年若い王子が、相次いて国王になりました。

 

こうした好きに乗じたのか、その頃、シャムの属地であったナコンという地方が、よく治りませんでした。

 

そこで、国王は、新たに長政をナコン王に任命しました。

 

そのため、王室では、盛んな式が挙げられました。まだ、10歳でった国王は、特に国王の用いるのと同じ形の冠を長政に授け、金銀や宝物を、山のように積んで与えました。

 

長政は、いつものように、日本の武士とたくさんのシャムの軍兵を連れて、任地へ赴きました。

 

すると、ナコンは、長政の遺風を恐れて、、たちまち王命を聞くようになりました。

 

惜しいことに、長政は、ナコン王になってから、わずか1年ばかりで亡くなりました。寛永7年(1630年)

 

長政は、日本のどこで生まれたのか、いつシャムへ行ったかもはっきりしません。

 

それが、一度シャムへ渡ると、日本町の頭隣、海外貿易の大立者となったばかりか、彼の地の高位高官に任じられて、日本の武名を、南方の天地に轟かせました。

 

外国へ行った日本人で、長政ほど高い地位にのぼり、日本人のために気を履いた人は、他にはないといっても良いでしょう。

 

(参考図書:国民学校 教科書「修身」)

 

 

 

進取の気性 〜 牛島 謹爾(うしじま きんじ)(ジョージ・シマ)

 

牛島 謹爾は久留米在住の古くからある農家に生まれ、明治21年(1888年)、25歳のとき、志をたてて米国に渡った。

 

その頃の渡米者は、大抵修学を目的とし、将来は日本に帰って官途にでもつこうという者が多かった。

 

その中で、謹爾は一人で田舎の農園に行き、馬鈴薯(ばれいしょ)(じゃがいも)作りの名人と言われる人に従って、農事を習った。

 

さて、この経験をもとに自分の農園を経営したいと思って、寝異国カルフォルニア州中部(ストックトン地方)にある村で、6ヘクタールばかりの土地を借り、そこに馬鈴薯や豆などを作り始めた。

 

元来、この地方は、二つの大河がまさに合流遷都する間に挟まれた広大な沼地で、人をも隠す水草がぼうぼうと生い茂り、中には野草が住んでいたほどで、

 

30年来、白人が幾度か開拓を試みたが、到底望みがないと放棄した土地であった。

 

謹爾は、ここに鍬を入れたのである。それよりのちは、毎年、風害、水害、などに合わないことはないと言って良いくらい。

 

あるいは、不作で幾日もかぼちゃばかりを食っていたこともあり、また豊作を喜んでいると一夜ですっかり作物を洗い流されたこともある。

 

けれども、失敗に会うごとにその勇気はますます加わり、去年よりも今年、今年よりも来年と次第に手を広げて、渡米の10年目には150ヘクタールの耕地を得る。

 

その年初めて事業の基礎を確立することができた。

 

謹爾は、それになお満足せず、ますます耕地を広げ、主として馬鈴薯の栽培をなし、あるいは天災により、あるいは財界の影響によってしばしばつまずいたけれども、

 

不撓不屈よく万難を排して、ついに土地を開拓すること4万ヘクタールに及び、洪水の憂いを除き、地方の開発を促した。

 

そうして、馬鈴薯の生産額は年100万俵にのぼり、カルフォルニア州の馬鈴薯の年生産額の8割以上をその農園で占め、州の市場を左右するまでになった。

 

このようにして謹爾の産業上の功績はあまねくかの地の人に認められ、「馬鈴薯王(ばれいしょおう)」と呼ばれるようになった。

 

謹爾が巨万の富を作ったのち、錦をきて故郷に隠退することを進める人もあったが、

 

「それはびく一杯に子魚を釣って満足するような者だ。自分は願わくば幽谷の熊を捕まえたい」

 

と言って従わなかった。

 

晩年には、さらにメキシコや南米に発展の地を求めていたが、その計画の実現を見ない中、大正15年(1926年)、63歳で病に倒れて、米国の地の土となった。

 

スタンフォード大学のジョルダン教授名誉総長は、彼の死を悼んで、

 

「君は多年カルフォルニア州における最も信用あり、かつ尊敬せられた実業家の一人であった。

 

君は、15年間、在米日本人会会長として活躍したが、付近の日本人間におけると同様に、米国人間にもなかなか勢力があった。

 

君は、事業に関する契約については証書を用いなかったけれども、決してその信用を毀損することがなかったそうだ」

 

と言った。謹爾は多年、(排日運動の緩和など)日米両国の親善のために力を尽くした。

 

(参考図書:尋常小学 教科書「修身」)

 

 

「友を信じる」〜杉浦重剛

 

杉浦重剛先生は、安政2年3月(1855年4月)近江の膳所に生まれ、大正13年(1924年)2月、満68歳で亡くなられた。

 

若い時から教育の事に携わり、終生後進を教え導いてうまなかった。

 

大正3年、東宮御学問所が設けられた時、召し出されてご用係を仰せつけられ、倫理科を担任して、至誠一貫、ご進講の大任を果たした。

 

杉浦先生は、高潔で重厚、また、友情に熱く交友も少なかった。

 

明治初年、まだ、東京の開成学校に学んでおられた頃、小村寿太郎と親しくし、最後までその交わりを変えられなかった。

 

後年には、国運を双肩に担うほどの重大任務について小村寿太郎も、初めて外交官として世に出た頃は、父の残した負債のために、少なからず困窮に陥った。

 

杉浦先生は、小村寿太郎のこの苦しみを見るに忍びず、友人と相談し、連帯保証で金を借りて、これを救おうとされた。

 

連帯保証は、ややもすると、自分まで災いに巻き込まれる恐れがある。

 

友人の中には、このことについて、先生に注意を与え、方法を誤らないようにと、諭した者もいました。

 

しかし杉浦先生は、今、小村寿太郎の目前の急を救うため、少しもためらってはいられないと思われた。

 

そこで、連帯保証の止むを得ないことを、その友人に告げて、了解を求められた。

 

これには友人も、最もと頷き、先生の友情に深く感じて、自分自身も、進んで保証に立とうと言い出した。

 

このようにして、杉浦先生を中心とする数名の友人は、小村寿太郎の差し迫った困窮を救った。

 

小村寿太郎が、貧乏のどん底に落ちて、なおその志を伸ばすことができたのは、杉浦先生の友情に負うところが、少なくなかったのである。

 

明治38年7月、外務大臣であった小村寿太郎は、米国における日露講和会議に、全権委員の重任を帯び、国民の歓喜の声の間に、東京を出発された。

 

小村寿太郎は、かねて戦局の実情を深く察して、会議の条件が国民の期待にに沿わず、きっと非難を受ける結果になるであろうと、覚悟を定めておられた。

 

杉浦先生は、長く病床にあって、友の門出を見送ることができず、人に頼んで送別の言葉を伝えてもらわれたが、なお小村寿太郎の胸中を察するあまり、

 

「たとえ、どんなことがあろうとも、あくまで自己の所信を貫け。事の成否は、あえて恐るるに足らない」

 

と文書にして励ました。

 

ポーツマスで行われた会談では、国民の期待に沿わなかったので、激しい非難の声が小村寿太郎の身辺を包むようになった。

 

杉浦先生の塾にいる人たちでさえ、その非難をし始めた。けれども、小村寿太郎を信じていた先生は、

 

「小村君は、君国のあることを知って、少しも私心のない男だ。しかも今、日本第一の外交官である。日本一の外交官がやったことだ。あれで良いのだ。」

 

と言って、小村寿太郎を弁護し続けました。しかし、非難の声は高まるばかりで、小村寿太郎を弁護するのは、杉浦先生の他は、誰もいなくなってしまいました。

 

小村寿太郎の同窓生の人たちまでも、外務大臣に辞職勧告しようと息巻いて、杉浦先生のところに押しかけてきました。

 

杉浦先生は、言いました。

「小村君なればこそ、あれだけやれたのだ。辞職勧告どころか、総理大臣にもなれる者だと思っている。」

 

と答えられた。

 

朋友はよく選ばなければなりません。良い友と交われば、知らず知らずの間に、良い風に感化せられ、悪い友と交われば、いつのまにか、その悪い風の染まってしまいます。

 

古語に、「朱に交われば赤くなる」

「ヨモギ、麻の中に生ずれば、助けずして自ずから直し」

という言葉があります。

 

(参考図書:国民学校 高等科 教科書「修身」)

 

 

教えを請う(松坂の一夜)

 

本居宣長は、伊勢の国、松坂の人である。若い頃から読書が好きで、将来学問を持って身を立てたいと一身に勉強していた。

 

ある夏の中ば、宣長が兼ねて買い付けの古本屋へ行くと主人は愛想よく迎えて、

 

「どうも残念なことでした。あなたが、よくお会いになりたいと言われていた江戸の賀茂真淵(かものまぶち)先生が、先ほどお見えになりました。」

 

という。思いがけない言葉に宣長は驚いて、

「先生が、どうしてこちらへ」

 

「なんでも、山城・大和方面のご旅行が住んで、これから参宮をなさるそうです。あの新上屋にお泊まりになって、さっきお出かけの途中、『何か珍しい本はないか』と、お寄りくださいました。」

 

「それは惜しいことをした。どうにかしてお目にかかりたいものだが」

 

「後を追っておいでになったら、大抵追いつけましょう」

 

宣長は、大急ぎで真淵の様子を聞き取って跡を追ったが、松坂の街のはずれまでいっても、それらしい人は見えない。

 

次の宿の先まで行ってみたが、やはり追いつけなかった。宣長は力を落としてすごすご戻ってきた。

 

そうして新上屋の主人に、万一お帰りにまた泊まられることがあったらすぐ知らせてもらいたいと頼んでおいた。」

 

望みが叶って、宣長が真淵を新上屋の一室に訪ねることができたのは、それから数日ののちでした。二人は、ほの暗い行灯の元で対面した。真淵はもう70歳に近く、色々立派な著書もあって、天下に聞こえた老大家。

 

宣長はまだ30歳あまりで、温和な人となりのうちに、どことなく才気のひらめいている少壮の学者。

 

年こそ違え、2人は同じ学問の道を辿っているのである。

 

だんだん話をしているうちに、真淵は宣長の学識の尋常でないことを知って、非常に頼もしく思った。

 

話が古事記のことに及ぶと、宣長は、

「私は、かねがね古事記を研究したいと思っています。それについて、何かご注意くださることはございますか」

 

「それは、良いところにお気づきでした。私も、実は早くから古事記を研究したい考えはあったのですが、それには万葉集を調べておくことが大切だと思って、その方の研究に取り掛かったのです。

 

ところが、いつのまにか年をとってしまって、古事記に手を伸ばすことができなくなりました。

 

あなたは、まだお若いから、しっかり努力なさったら、きっとこの研究を大成することができましょう。

 

ただ、注意しなければならないのは、順序正しく進むということです。これは、学問の研究には特に必要ですから、まず土台を作って、それから一歩一歩高く登り、最後の目的に達するようになさい」

 

夏の夜は、ふけやすい。家々の戸は、もう皆閉ざされている。老学者の言葉に深く感動した宣長は、未来の希望に胸を躍らせながら、ひっそりとした町筋を我が家へ向かった。

 

その後、宣長は絶えず文通して真淵の教えを受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加えたが、面会の機会は、松坂の一夜以降とうとう来なかった。

 

宣長は真淵の志を受け継ぎ、35年の間、努力に努力を続けて、ついに古事記の研究を大成した。有名な『古事記伝』という大著述は、この研究の結果で、わが国の学問の上に不滅の光を放っている。

 

(参考図書:尋常小学校(国民学校) 教科書「修身」、

「賀茂真淵と本居宣長」佐佐木信綱著 大正6年4月10日)

 

昭和20年8月9日まで、満州の新京で暮らしていた、ある日本人親子の引き揚げの物語です。

 

それまで平穏に暮らしていた日本人たちは、夜中の10時すぎに叩き起こされました。

 

そして、夜中の1時30分までに必要最小限の荷物だけを持って、新京駅に集合するように伝えられました。

 

ソ連軍が、中立条約を破り満州に侵略してきたので、急遽、避難することとなったのです。

 

まだ、生まれて数ヶ月の赤ん坊と、3歳と6歳の息子を連れて、リュックに非常食と飯盒と水筒を持って、慌てて駅まで走るように向かいました。

 

大同大街を通って新京駅に着くと、そこは日本人でごった返していました。父親はしばらく、新京に留まることになったので、母子4人で、貨物列車に乗ることに。

 

朝7時に出発した屋根のない無蓋列車(貨物列車)に乗って、どんどん南下して行き、北朝鮮の宣川駅に到着しました。

 

宣川駅で降ろされた日本人約300名が、街外れの宣川農学校に避難しました。

 

そのほとんどが女子供たちで、そこで終戦を知りました。

家から持ち出した満州銀行券を、町の郵便局に行って朝鮮銀行券に換金しました。100円が50円と半額になってしまいました。

 

8月18日、父親が避難所に合流。そこで数日間、共同生活を送りますが、ここで止まっていても仕方がないと思い、希望者を募り南下することに。

 

しかし8月24日に駅に行くと、今日から平壌より南には列車は行きません、と伝えられたので、農学校の避難所に引き返すことにしました。

 

38度線が封鎖されてからは、満州に戻ろうと北上する人や、無理してでも南下して行く人もいました。

 

疎開団は、農学校の近くにあった一軒家に移動を命じられました。

 

8畳、6畳が2部屋、4畳半が2部屋の家に、17家族49名の日本人家族が共同生活を送ることになりました。

 

10月28日、18歳から40歳までの日本人男性は全員、平壌に強制的に連行されて行きました。

 

それから5日後、今度は45歳までの日本人男性が強制的に連行されて行きました。

 

疎開団からは11名の男性が平壌に連行されて行きました。

その後、平壌から満州の延吉に連行されて行きました。

 

「お父さん!、お父さん!」と14歳の娘から、叫ぶように泣きながら見送られて出て行く人もいました。

 

大人の男性がいなくなった疎開団にある日、地元の朝鮮人の子供から石を投げつけられた事件がありました。

 

窓ガラスは破られ、大切な飯盒や食料が盗まれて行きました。

 

たった一つの飯盒を盗まれてしまい、これからどうやって食事をしていけば良いか、途方にくれる人もいました。

 

保安隊に連絡して取り締まってもらおうと思いましたが、途中で殺されてしまうかもしれないので、黙って、無抵抗主義で耐えました。

 

全ての朝鮮人に対して、無抵抗主義を貫くことにしました。そうしないと、日本人に対して何をしてくるかわからなかったためです。

 

また、朝鮮人に対して、”朝鮮人”というと、彼らは非常に腹をたてるので、”こちらの人”、と呼ぶように気をつけました。

 

11月中旬、宣川の北に位置する安東という街に夫がいる、4家族10名が北上して行きました。

 

連行されて行った男性と、北上して行った家族のために、残った疎開団は、29名となりました。

 

12月に入ると寒さが厳しくなり、北側の3部屋を捨てて、オンドル(暖房)のある6畳間に19名、オンドルのない6畳間に10名が過ごすことになりました。

 

米2合が配給されるようになりましたが、十分な食料は手に入らず、子供達は栄養失調で常に病気がちでした。

 

そのような状況で死亡してしまう子供も珍しくありませんでした。

 

昭和21年1月に入ってから、満州の延吉(えんきつ)に連行されて行った男性のうち4名が、八路軍(中国共産党軍)の強制労働から解放されて、宣川に戻ってきました。

 

しかし、彼らはほとんど死人のような状態で帰ってきました。

 

よほど延吉での捕虜生活が過酷だったのでしょう。

 

彼らは皆、発疹チフスを持っていましたので、隔離しなくてはならず、それまで共同生活をしていた一軒家を離れ、少し離れた空き家に引っ越して行きました。

 

その空き家はとても人が住めるような家ではなかったのですが、破れ口に板をはるなど補修して、雨風をしのげるようにしました。

 

満州の延吉から戻ってきた人たちは、しばらくして死亡して行きました。他の疎開団でも同様で、日本人共同墓地には、連日のように棺桶が運ばれて行きました。

 

当時、発疹チフスに感染したら、80%は死亡すると言われていました。

 

また、着ていた衣服は、衣類の縫い目がわからないほど、シラミの卵を産み付けていました。

 

八路軍の強制収用所は、よほど衛生状態が悪かったのでしょう。

 

共同生活を送っていた母親は、食料不足のため、赤ん坊への乳が出ませんでした。それを見かねて、4歳の息子が言いました。

 

「僕のお芋をあげるよ、お母ちゃんがお腹が空いて、おっぱいが出ないでしょう」

 

自分もお腹が空いているのに、お母さんにお芋をあげました。

それを見ていた7歳になった長男も、半分食べかけのお芋をお母さんにあげました。

 

自分たちも飢えで苦しんでいるのに、母親を気にかけてくれた息子たちの気持ちを感じて、お母さんは涙が止まりませんでした。

 

ある日、息子が”ジフテリア”にかかってしまいました。

血清のある大きな病院に連れて行きますが、治療代を払うお金がありません。

 

そこで、金策に走り回りましたが、血清代金の1000円を集めることができませんでした。

 

病院で診察を受けると、そこの日本人医師は、血清を打ちましょうと行って、治療を始めようとしました。

 

母親は慌てて、お金が払えないことを伝えます。

しかし、その医者はかまわず、治療を施しました。

 

その母親が、新京から持ってきたロンジンの懐中時計を売ろうとしたのですが、どこへ行っても250円でしか買わないと言われたので、売れることができずに手に持っていました。

 

その日本人医師がその懐中時計を見て、いいました。

「私が、その時計を1000円で買いましょう。」

 

その病院の朝鮮人の会計係りは納得していませんでしたが、医師がそのように行ってくれたおかげで、清算は済みました。

 

昭和21年5月15日から、それまで続けられていた一人1日2合のお米の無料配給が止められました。

 

持参してきたお金はほとんどありませんでしたので、その日から、働きに出て行かなくてはなりませんでした。

 

赤ん坊と小さな息子2人を抱えながらの仕事探しは、困難を極めました。

 

一軒家での共同生活は、そのまま継続されましたが、共同炊事は終わったので、それぞれの家族単位で、生活費を捻出していかなくてはなりませんでした。

 

タバコを4円で買って5円で売ったり、石鹸を8円で売って10円で売ったり、人形を作って15円で売ったりしてなんとか食費を賄っていきました。

 

昭和21年7月15日、宣川に住んでいる他の日本人疎開団が南下したと情報が入ると、日本への引き揚げが具体的に話し合われるようになりました。

 

色々な方面から情報が入るが、大抵がデマだったりして、何を信用して良いのかわからない状況が、昨年から続いていました。

 

そのうちに1年近くが経過していました。

狭い宿泊施設で共同生活をして、わずかな食料で生き延びてきた30名の日本人婦女子たちでした。

 

7月28日に疎開団が分裂して、12名が先に出発して行きました。

 

続いて7月30日に、残りの18名が出発することに決まりました。それまでの生活用品を全て売り払い、宣川駅に向かいました。

 

宣川駅に行くと、平壌で多くの日本人が足止めされていると聞いて、一旦出発を延期しましたが、すでに生活用品を全て処分しているので、このまま止まって宣川で死ぬのも、平壌で死ぬのも同じと思い、8月1日に再出発。

 

平壌駅まで行くと、噂通り日本人難民でごった返していました。

多くの日本人難民は平壌駅前で数日を過ごしていました。

 

数日を過ごして、北朝鮮の新幕駅まで屋根のある有蓋列車(貨物列車)が出ることになりました。

 

しかし、その有蓋列車の中には馬糞が高く積み上げられており、悪臭で充満し、その中に日本人がすし詰めに乗っていたので、吐き気を催しました。

 

横殴りの雨が貨車の中に吹き込み、馬糞のぬかるみの中で新幕駅まで過ごしました。

 

新幕駅に着くと、そこからは38度線まで歩いて進むことになりました。ここからは最も危険な場所を通過すると言われ、荷物を軽くし、雨の夜中を出発しました。

 

「前の人についてきてください。列から離れたら置いていかれますよ。落語したらおしまいですよ」とリーダーの人が声をかけながら日本人難民たちは黙々と歩いて行きました。

 

逃げるんだ、逃げるんだ、逃げ遅れたら、朝鮮人に殺されると心に言い聞かせながら、雨の中を歩いて行きました。

 

しばらく行くと、丘の上で、たくさんの日本人たちが、リュックを背負ったまま、死んだように眠って休んでいました。

 

小休止すると、また歩き出します。小さな子供は

「もう歩けない」「寒いよ」、

 

と行って泣き言を言いますが、母親がその度に、

「死にたいのか」

と叱責しながら歩き続けました。

 

そんな泥にぬかるんだ夜道を雨の中歩いていると、息を引きとったばかりの赤ちゃんを抱えて、慟哭して泣き叫ぶ母親がいました。

 

地面を掘って亡骸を埋めると、手を引いて歩くように諭しましたが、「坊やと一緒に死ぬ、一緒に死ぬ」と言って、お墓にもどって行きました。

 

人のことを気にかける余裕などありませんでした。そのまま、子供2人とおんぶした赤ちゃんとともに、ひたすら歩き続けました。

 

息子と母親の靴の底は破れて、小石が足の平の肉に食い込んで行きます。血と泥と小石のめり込んだ足で歩き続けました。

 

「お母ちゃん、次男が寒いと言っている」と長男が言った。もうすぐ凍死寸前だったようです。

 

近くの農家の家に立ち寄ると、その子供の状態を見て、牛小屋にしばらく入れてもらいました。

 

濡れた服を脱がして裸にして、体を摩擦していたら心臓の鼓動が動きだしました。

 

お湯を使っていいとヤカンを渡されたので、オムツを洗いました。

赤ちゃんは、まだ息をしていました。

 

しばらくすると、その農家がやってきて、すぐに出て行くように言われましたので、再び雨の夜道を歩き出します。

 

昭和21年8月7日、子供達を牛車に乗せて歩いて行きました。途中の農家で瓜などを買って、飢えをしのぎました。

 

川を渡りました。赤ちゃんをおんぶして川を渡り、また戻り、次男を抱えて川を渡るとまた戻って、長男をおんぶして川を渡りました。

 

このようにして、何度も川を渡りましたので、先に行く日本人難民たちから置いてかれてしまいました。

 

途中、同じ疎開団だった親子と会い、2家族で歩きました。

田んぼがあったので、そこの泥水を飲みました。

 

38度線の白い木戸が見えてきました。ようやく、1年間待ちに待った38度線を越えることができました。

 

しばらく行くと、ある農家の人がおにぎりを持って「パンモグラ」(食べなさい)と言って渡してくれました。

 

涙を流してそのおにぎりを食べました。

 

しばらく歩くと大きな川にぶつかりました。

もうだめだと弱音を吐くと、同じ疎開団の人から

 

「死にたいなら死んだらいい、もうすぐだというのに死ぬバカがあるか!」

 

と叱責されてしまい、手を引いて歩き出しました。

川沿いを歩くと橋がかかっていたのでその橋を渡ると、意識が朦朧となり倒れてしまいました。

 

しばらくして保安隊がきて、「ここで休ませてください。もう歩けません」というと、

 

「日本人はここに留まることはできない」と言われたので、再び歩き出しました。

 

38度線を超えたとはいえ、その近くにある開城という町まで行かないと安全地帯ではなかったのです。

 

しばらくして、意識を失い道端に倒れているところを、米軍のトラックに乗せられて、開城の難民キャンプまでたどり着くことができました。

 

そこは医療設備が整っていて、お粥などの食料も配給されました。

やっと生命の危機から脱出することができたのです。

 

そこで、足の裏の小石を全て抜き取ってもらい、しばらく這って移動しました。

 

開城の難民キャンプには次から次へと日本人難民が到着してきました。5日ほど滞在して後、今度は議政府へ向かうことにしました。

 

この難民キャンプは開城より整っており、食事もご飯とコンビーフが支給されました。

 

5日ほど経過した後、釜山へ向けて貨物列車で出発しました。

 

釜山から引き揚げ船に乗り、博多港に到着。しかし湾内で約20日間も閉じ込められて上陸許可がなかなかおりませんでしたが、昭和21年9月12日、上陸許可がおりました。

 

8月1日に宣川を出発してから40日あまりで、日本内地の土を踏むことができました。

 

たくさんの引き揚げ船が博多湾に停泊している間、毎日のように誰かが、船の中で死んでいきました。死亡していく人の多くは子供でした。

 

せっかく日本本土までたどり着いたというのに、その土を踏むことなく死んで行った子供達。

 

満州で生まれて、日本を知らないまま亡くなって行った子供もたくさんいたことでしょう。

 

(参考図書:「流れる星は生きている」藤川てい著)

 

 

 

 

 

終戦後、南極観測船として活躍した砕氷船「宗谷 」や「ふじ」。その砕氷船技術の元となった砕氷船「大泊」を救った、ある海軍機関兵のお話です。

 

昭和5年6月1日 横須賀鎮守府(横鎮)にある横須賀海兵団へ入団。4等機関兵の新兵として6ヶ月間教育を受ける。

 

昭和5年12月 海兵団卒業して、重巡洋艦「加古」に乗艦、3等機関兵となる。

 

昭和6年8月 2等機関兵に昇進し、昭和6年10月、戦艦「比叡」 に乗艦。

 

昭和7年4月 - 横須賀にある海軍工機学校に入校して、昭和7年年9月海軍工機学校を卒業。1等機関兵に昇進(後の兵長)。

 

昭和7年10月 軽巡洋艦「多摩」に乗艦する。

 

昭和10年2月 海軍工機学校高等科に入校。同年5月、3等下士官に昇進。

 

昭和10年11月 海軍工機学校高等科卒業して、指名により軽巡洋艦「多摩」に再び乗艦する。昭和11年2等下士官に昇進。

 

昭和12年7月に日華事変勃発。その後、8月半ばから第二次上海事変が勃発。同時期に約500名の陸軍兵を、第三艦隊に編成された軽巡洋艦「多摩」に乗せて、上海南方60キロの杭州湾の敵前上陸作戦に参加。

 

クーソン砲台を占領するために艦砲射撃を行う。負傷兵が100名ほど戻ってきたので、赤十字の病院船に引き渡す。

 

揚子江河口に戻り、3個師団の陸軍兵の杭州湾の敵前上陸を援護する。その後、台湾に向かい、第四艦隊に編入された軽巡洋艦「多摩」は、重巡洋艦「妙高」とともに南シナ海沿岸の海上封鎖を行う。

 

昭和13年5月 海上封鎖に当たっていた軽巡洋艦「多摩」は、香港沖で台風の影響で遭難寸前となる。修理のために日本に一時帰国する。1等下士官(後の上等下士官)に昇進。

 

昭和14年3月 千歳海軍航空隊設立準備委員を命ぜられ机上準備のため大湊海軍航空隊に赴任する。

 

昭和14年6月 千歳海軍航空隊設立地に赴任。

 

昭和14年10月 千歳海軍航空隊の開隊式を行う。次に、樺太の大泊港にて、故障して動かなくなった砕氷艦「大泊」の機関修理を命ぜられる。その際、次の3つの条件を機関長に提出。

 

1つ目は面倒な手続きをしなくても要求するものはすぐに揃えてくれること。

 

2つ目は、必要な部品は要求通りすぐに作ってくれるように工作科の了解を取り付けてくれること。

 

3つ目は、必要な人数は何人でも派遣してくれること。この要求を受け入れてくれるなら1ヶ月で直してみせます。と機関長に報告。

 

このような要求は前例がないと反対をする人もいましたが、艦長の判断により、全て受け入れてもらうことになり、修理に取り掛かりました。そして1ヶ月で見事修理完了。

 

次に試運転を行い、問題なく運行することができました。

 

艦長から呼ばれ「横須賀鎮守府から派遣されてきたのが君のような若造で、実は、がっかりしていた。だから修理が終わっても試運転でガタガタにならなければ良いがと思っていた。

 

ところが結果は大成功。ありがとう。ありがとう」と感謝されました。

 

この砕氷艦「大泊」は、大正10年の竣工。排水量は2、300トンの小船でしたが、厚さ2メートルの砕氷能力がありました。

 

終戦まで日本海軍唯一の砕氷艦として活躍しました。

 

終戦後、この砕氷船の技術が、南極観測船「宗谷 」(海上保安庁)や「ふじ」 (海上自衛隊)に引き継がれました。

 

その後、北樺太のオハ付近で、遭難した食料運搬船「乾山丸」の救出のために出航。

 

当時は、大正9年に起きた尼港事件の賠償として、北緯50度以北の樺太での石炭採掘権をロシアから割譲していたため、多くの石炭採掘の労働者が北樺太に出稼ぎに出ていました。

 

砕氷艦「大泊」は救出に向かいましたが、予想以上に流氷が多く、断念。遭難した食料運搬船は幸い陸地に近く、命に別条はないということだったので、春を待つことに。

 

食料を満載して再び救出に向かい出航。待っていた人たちは、歓喜の声をあげて迎えてくれました。現地の領事もわざわざお礼を言いに船まで来ました。

 

寒い場所で、少ない食料を食いつないでいたそうで、心細かったことでしょう。

 

炭鉱労働者を救出して、6月に青森の大湊港に帰港しました。

 

昭和17年4月 横須賀海兵団教官(分隊士)を命ぜられ着任。准士官に昇進。 昭和17年6月士官としての教育のため海兵団に入校。

 

昭和17年8月 呉港のドッグにて修理をしている戦艦「山城」に乗艦して、機械長を命じられる。

 

昭和18年2月 戦艦「山城」は、駆逐艦4隻を連れて、呉港から横須賀港に向けて出航。

 

昭和19年2月 横須賀鎮守府(横鎮)にある、横須賀防備隊の本部に転勤となる。

 

この転勤は戦艦「山城」の田原艦長の計らいで、昇進具申をして転勤命令を出されたためでした。

 

防備隊とは、沿岸警備隊です。横須賀防備隊は、岩手県の三陸から伊勢湾までを担当地域としていました。70隻の警戒艇を使い沿岸警備にあたりました。少尉に昇進。

 

昭和19年4月 - 横須賀防備隊勤務2ヶ月後、重巡洋艦「高雄」への転属命令が出される。数日間、実家の墓参を済ませて東京の羽田へ出発。

 

出発の日、妻と一緒に、まだ何もわからない4歳の長男と2歳の長女から正装した姿の父に向かって「おとうちゃん、いってらっしゃい」とニコニコはしゃいで見送られました。

 

泣いて別れるより、むしろ胸を締め付けられました。

 

シンガポールに停泊中の重巡洋艦「高雄」への乗艦のために、羽田から飛行機で台湾経由で赴任。

 

シンガポールの根拠地隊司令部に挨拶に行くと重巡洋艦「高雄」がどこにいるか不明と聞かされる。

 

当時、重巡洋艦「高雄」は極秘行動をとっており、司令部でもその消息を掴むことができませんでした。しばらく海軍士官専用の旅館や喫茶を経営する水交社の宿泊施設に滞在。

 

ジャワ島のスラバヤへ行くように司令部から連絡があり行って見るが、重巡洋艦「高雄」の居場所は不明。

 

再び、水交社に戻る。今度は司令部からボルネオ島のバリクパパンへ行くよう連絡入る。そこから艦隊所属の補給船に乗り、ミンダナオ島のタウイタウイ島に到着。

 

やっとの事で、重巡洋艦「高雄」を含む数十隻の機動部隊を見つける。

 

昭和19年6月12日 内火艇から 重巡洋艦「高雄」に乗艦 掌機長となる。 

 

昭和19年6月17日 マリアナ沖海戦に参戦。その後、沖縄経由で呉港に寄港し、損傷箇所を修理。

 

家族に死を覚悟して「子供たちをくれぐれも頼む」と手紙を送る。その後、シンガポールに向かい、リンガ沖に停泊。

 

昭和19年10月 栗田艦隊第一部隊として、ブルネイに集結して重油を満載して、レイテ沖海戦に参戦。

 

昭和19年11月 重巡洋艦「高雄」は、敵魚雷により損傷。修理のためシンガポールに入港。修理が不可となり陸に上がって陸軍と共同戦線。中尉に昇進。

 

昭和20年8月15日 終戦。シンガポールに進駐して来た英軍の捕虜となる。重巡洋艦「高雄」はイギリスに接収される。

 

昭和21年2月 引き揚げが開始される。赤と白と黄色のテントに分けられ、160名の部下とともに全員白テントへ。この色分けは、赤テントが縛首刑、黄色テントが再調査、白テントが無罪でした。

 

昭和21年3月 日本内地への引き揚げ船にて広島の大竹海兵団に到着。そこから列車で、妻の実家である栃木県黒羽(現在の大田原市)へ。 

 

海軍兵学校 (エリート)出身ではなく、海兵団出身(4等兵)からのたたき上げにもかかわらず、終戦時には中尉まで昇進しました。

 

(参考図書:「海軍かまたき出世物語―四等機関兵から中尉までの15年間の泣き笑い人生」斎藤兼之助著 講談社 1983年6月)

 

昭和20年8月朝鮮半島で終戦を迎えた日本人たち。南朝鮮に住んでいた、ある日本人家族の引き揚げの体験談です。

 

南朝鮮の全羅南道の羅州という町で、小学校の教員をしていた彼女は、学校で終戦の日を迎えました。

 

その日は、学校が放火されないように、職員が学校に宿泊することになりました。

 

8月17日、学校に警察署長が訪ねてきました。

目的は”御真影”を回収することでした。

 

御真影とは、昭和天皇と皇后両陛下の写真のことです。

当時の学校には全て、御真影が大切に飾られていました。

 

回収された御真影は、まとめて焼却処分されました。

 

敗戦後、日本人は皆、朝鮮人によって土手の上に並ばせれて、銃殺されてしまうという噂が学校内で流れました。

 

ある先生が、理科室から”青酸カリ”を持って職員に配りました。

「いざとなったら、これを飲んで潔く死にましょう」

といって。

 

(南樺太の真岡郵便局で電話交換手をしていた9人の女性が、8月20日、ソ連兵がすぐ近くまで侵略してきた際、青酸カリを飲んで自害しました。ソ連兵にレイプされることを避け、自害することを選んだのです。)

 

彼女の父親は、朝鮮での終戦後の様子を、次のように日記に書き残していました。

 

「日本敗戦とともに朝鮮人の態度が一挙に変わり、昨日までの優越感に浸っていた日本人も、敗戦国民として、処遇されるようになった。

 

昨日まで従僕的な朝鮮人も態度を改め、排日主義者を幹部とし、独立委員を組織し、保安隊を編成し、警察の武器を横領して武装した。

 

彼らは日ごとに排日思想を撒き散らし、態度を変えていき、無政府状態となっていった。日本人に対しての圧迫は日増しに危険となり、命を奪われるような人も出てきた。

 

しかし、ここ羅州には日本人軍隊がまだ駐屯していたので、命を奪われる危険はなく、安全である。

 

しかし、朝鮮を永住の地と定めて居住していた人たちも不動産など資産は全て没収され、わずかばかりの荷物を持って引き揚げていかなければならない。」

 

引き揚げにあたり、日本人の家財道具は全て朝鮮に残すことになりました。また、現金は一人1、000円まで持ち帰ることが許されました。

 

しかし、1、000円だけでは、日本に帰ってからの生活に困ることは目に見えていました。

 

そこで、紙幣や通帳は、服を解いて中に縫いこむことにしました。

現地の銀行から顔を覚えられないように、家族で交代で少しずつお金を引き下ろしていきました。

 

終戦後の朝鮮の銀行は、引き出しをするのに制限をかけていました。

 

11月17日、南朝鮮の全羅南道にある木浦(もっぽ)という駅から貨物列車に乗り、釜山に向かいました。

 

汽車の切符を買う時、朝鮮人の駅員から「これで日本は5等国だね。切符は打ってやらないよ」とつっけんどんに言われました。

 

「いいえ、かならず1等国になってみせます」と彼女は強く言い返しました。

 

仕方なく、日本人の駅長に頼み切符を売ってもらいました。

敗戦したとはいえ、この時はまだ、日本人駅長の権威はありました。

 

客車車両には米軍兵士が乗車しており、日本人引揚者たちは貨物車両でした。

 

その貨物車両にはトイレはなく、男子は走行中でも用を足すことできましたが、女性は列車が停車するたびに線路脇におり、羞恥心もなく、平然と股を開いて用を足しました。

 

38度線以南の南朝鮮には米軍が進駐して統治していました。

列車が停車すると、若い米軍兵が、チョコレートやタバコをくれたりしました。

 

途中、列車の運転する朝鮮人が、日本人から荷物を略奪しようと列車を止めて、日本人の乗っている貨物車両にやってきました。

 

しかし、その度に米軍兵士が、その朝鮮人に銃を突きつけて、運転を続けるように即すのでした。

 

米軍兵士のおかげで、日本人引揚者たちは安全を確保することができました。

 

進駐軍(米軍)がいなければ、間違いなく朝鮮人によって、列車は襲撃されていただろうと、その家族の父親は語っていました。

 

北朝鮮から南へ向かった日本人引揚者たちはみんな、朝鮮兵から虐殺されて荷物を略奪されました。また、女性は強姦(レイプ)されました。

 

それに比べて南朝鮮からの引揚者は、米軍の進駐軍がいたおかげで、まだ安全だったのでしょう。

 

釜山港に到着すると荷物検査を受けました。検査ゲートには、米兵の進駐軍が立っていました。

 

次に身体検査です。朝鮮人女性が体の上から入念にチェックしました。

 

身体検査の時には、衣服の中に隠した紙幣が見つからないかとヒヤヒヤしたそうです。

 

次に荷物の中身検査がありました。荷物を広げて、米兵が欲しいものがあると、取り上げていきました。

 

釜山港から博多行きの船に乗船して、米軍が敷設した機雷を避けるようにジグザグ運行をしながら、博多港に到着することができました。

(参考図書:「木槿の国の学校」上野 瓏子著)