満州からの引き揚げ体験記 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

昭和20年8月9日まで、満州の新京で暮らしていた、ある日本人親子の引き揚げの物語です。

 

それまで平穏に暮らしていた日本人たちは、夜中の10時すぎに叩き起こされました。

 

そして、夜中の1時30分までに必要最小限の荷物だけを持って、新京駅に集合するように伝えられました。

 

ソ連軍が、中立条約を破り満州に侵略してきたので、急遽、避難することとなったのです。

 

まだ、生まれて数ヶ月の赤ん坊と、3歳と6歳の息子を連れて、リュックに非常食と飯盒と水筒を持って、慌てて駅まで走るように向かいました。

 

大同大街を通って新京駅に着くと、そこは日本人でごった返していました。父親はしばらく、新京に留まることになったので、母子4人で、貨物列車に乗ることに。

 

朝7時に出発した屋根のない無蓋列車(貨物列車)に乗って、どんどん南下して行き、北朝鮮の宣川駅に到着しました。

 

宣川駅で降ろされた日本人約300名が、街外れの宣川農学校に避難しました。

 

そのほとんどが女子供たちで、そこで終戦を知りました。

家から持ち出した満州銀行券を、町の郵便局に行って朝鮮銀行券に換金しました。100円が50円と半額になってしまいました。

 

8月18日、父親が避難所に合流。そこで数日間、共同生活を送りますが、ここで止まっていても仕方がないと思い、希望者を募り南下することに。

 

しかし8月24日に駅に行くと、今日から平壌より南には列車は行きません、と伝えられたので、農学校の避難所に引き返すことにしました。

 

38度線が封鎖されてからは、満州に戻ろうと北上する人や、無理してでも南下して行く人もいました。

 

疎開団は、農学校の近くにあった一軒家に移動を命じられました。

 

8畳、6畳が2部屋、4畳半が2部屋の家に、17家族49名の日本人家族が共同生活を送ることになりました。

 

10月28日、18歳から40歳までの日本人男性は全員、平壌に強制的に連行されて行きました。

 

それから5日後、今度は45歳までの日本人男性が強制的に連行されて行きました。

 

疎開団からは11名の男性が平壌に連行されて行きました。

その後、平壌から満州の延吉に連行されて行きました。

 

「お父さん!、お父さん!」と14歳の娘から、叫ぶように泣きながら見送られて出て行く人もいました。

 

大人の男性がいなくなった疎開団にある日、地元の朝鮮人の子供から石を投げつけられた事件がありました。

 

窓ガラスは破られ、大切な飯盒や食料が盗まれて行きました。

 

たった一つの飯盒を盗まれてしまい、これからどうやって食事をしていけば良いか、途方にくれる人もいました。

 

保安隊に連絡して取り締まってもらおうと思いましたが、途中で殺されてしまうかもしれないので、黙って、無抵抗主義で耐えました。

 

全ての朝鮮人に対して、無抵抗主義を貫くことにしました。そうしないと、日本人に対して何をしてくるかわからなかったためです。

 

また、朝鮮人に対して、”朝鮮人”というと、彼らは非常に腹をたてるので、”こちらの人”、と呼ぶように気をつけました。

 

11月中旬、宣川の北に位置する安東という街に夫がいる、4家族10名が北上して行きました。

 

連行されて行った男性と、北上して行った家族のために、残った疎開団は、29名となりました。

 

12月に入ると寒さが厳しくなり、北側の3部屋を捨てて、オンドル(暖房)のある6畳間に19名、オンドルのない6畳間に10名が過ごすことになりました。

 

米2合が配給されるようになりましたが、十分な食料は手に入らず、子供達は栄養失調で常に病気がちでした。

 

そのような状況で死亡してしまう子供も珍しくありませんでした。

 

昭和21年1月に入ってから、満州の延吉(えんきつ)に連行されて行った男性のうち4名が、八路軍(中国共産党軍)の強制労働から解放されて、宣川に戻ってきました。

 

しかし、彼らはほとんど死人のような状態で帰ってきました。

 

よほど延吉での捕虜生活が過酷だったのでしょう。

 

彼らは皆、発疹チフスを持っていましたので、隔離しなくてはならず、それまで共同生活をしていた一軒家を離れ、少し離れた空き家に引っ越して行きました。

 

その空き家はとても人が住めるような家ではなかったのですが、破れ口に板をはるなど補修して、雨風をしのげるようにしました。

 

満州の延吉から戻ってきた人たちは、しばらくして死亡して行きました。他の疎開団でも同様で、日本人共同墓地には、連日のように棺桶が運ばれて行きました。

 

当時、発疹チフスに感染したら、80%は死亡すると言われていました。

 

また、着ていた衣服は、衣類の縫い目がわからないほど、シラミの卵を産み付けていました。

 

八路軍の強制収用所は、よほど衛生状態が悪かったのでしょう。

 

共同生活を送っていた母親は、食料不足のため、赤ん坊への乳が出ませんでした。それを見かねて、4歳の息子が言いました。

 

「僕のお芋をあげるよ、お母ちゃんがお腹が空いて、おっぱいが出ないでしょう」

 

自分もお腹が空いているのに、お母さんにお芋をあげました。

それを見ていた7歳になった長男も、半分食べかけのお芋をお母さんにあげました。

 

自分たちも飢えで苦しんでいるのに、母親を気にかけてくれた息子たちの気持ちを感じて、お母さんは涙が止まりませんでした。

 

ある日、息子が”ジフテリア”にかかってしまいました。

血清のある大きな病院に連れて行きますが、治療代を払うお金がありません。

 

そこで、金策に走り回りましたが、血清代金の1000円を集めることができませんでした。

 

病院で診察を受けると、そこの日本人医師は、血清を打ちましょうと行って、治療を始めようとしました。

 

母親は慌てて、お金が払えないことを伝えます。

しかし、その医者はかまわず、治療を施しました。

 

その母親が、新京から持ってきたロンジンの懐中時計を売ろうとしたのですが、どこへ行っても250円でしか買わないと言われたので、売れることができずに手に持っていました。

 

その日本人医師がその懐中時計を見て、いいました。

「私が、その時計を1000円で買いましょう。」

 

その病院の朝鮮人の会計係りは納得していませんでしたが、医師がそのように行ってくれたおかげで、清算は済みました。

 

昭和21年5月15日から、それまで続けられていた一人1日2合のお米の無料配給が止められました。

 

持参してきたお金はほとんどありませんでしたので、その日から、働きに出て行かなくてはなりませんでした。

 

赤ん坊と小さな息子2人を抱えながらの仕事探しは、困難を極めました。

 

一軒家での共同生活は、そのまま継続されましたが、共同炊事は終わったので、それぞれの家族単位で、生活費を捻出していかなくてはなりませんでした。

 

タバコを4円で買って5円で売ったり、石鹸を8円で売って10円で売ったり、人形を作って15円で売ったりしてなんとか食費を賄っていきました。

 

昭和21年7月15日、宣川に住んでいる他の日本人疎開団が南下したと情報が入ると、日本への引き揚げが具体的に話し合われるようになりました。

 

色々な方面から情報が入るが、大抵がデマだったりして、何を信用して良いのかわからない状況が、昨年から続いていました。

 

そのうちに1年近くが経過していました。

狭い宿泊施設で共同生活をして、わずかな食料で生き延びてきた30名の日本人婦女子たちでした。

 

7月28日に疎開団が分裂して、12名が先に出発して行きました。

 

続いて7月30日に、残りの18名が出発することに決まりました。それまでの生活用品を全て売り払い、宣川駅に向かいました。

 

宣川駅に行くと、平壌で多くの日本人が足止めされていると聞いて、一旦出発を延期しましたが、すでに生活用品を全て処分しているので、このまま止まって宣川で死ぬのも、平壌で死ぬのも同じと思い、8月1日に再出発。

 

平壌駅まで行くと、噂通り日本人難民でごった返していました。

多くの日本人難民は平壌駅前で数日を過ごしていました。

 

数日を過ごして、北朝鮮の新幕駅まで屋根のある有蓋列車(貨物列車)が出ることになりました。

 

しかし、その有蓋列車の中には馬糞が高く積み上げられており、悪臭で充満し、その中に日本人がすし詰めに乗っていたので、吐き気を催しました。

 

横殴りの雨が貨車の中に吹き込み、馬糞のぬかるみの中で新幕駅まで過ごしました。

 

新幕駅に着くと、そこからは38度線まで歩いて進むことになりました。ここからは最も危険な場所を通過すると言われ、荷物を軽くし、雨の夜中を出発しました。

 

「前の人についてきてください。列から離れたら置いていかれますよ。落語したらおしまいですよ」とリーダーの人が声をかけながら日本人難民たちは黙々と歩いて行きました。

 

逃げるんだ、逃げるんだ、逃げ遅れたら、朝鮮人に殺されると心に言い聞かせながら、雨の中を歩いて行きました。

 

しばらく行くと、丘の上で、たくさんの日本人たちが、リュックを背負ったまま、死んだように眠って休んでいました。

 

小休止すると、また歩き出します。小さな子供は

「もう歩けない」「寒いよ」、

 

と行って泣き言を言いますが、母親がその度に、

「死にたいのか」

と叱責しながら歩き続けました。

 

そんな泥にぬかるんだ夜道を雨の中歩いていると、息を引きとったばかりの赤ちゃんを抱えて、慟哭して泣き叫ぶ母親がいました。

 

地面を掘って亡骸を埋めると、手を引いて歩くように諭しましたが、「坊やと一緒に死ぬ、一緒に死ぬ」と言って、お墓にもどって行きました。

 

人のことを気にかける余裕などありませんでした。そのまま、子供2人とおんぶした赤ちゃんとともに、ひたすら歩き続けました。

 

息子と母親の靴の底は破れて、小石が足の平の肉に食い込んで行きます。血と泥と小石のめり込んだ足で歩き続けました。

 

「お母ちゃん、次男が寒いと言っている」と長男が言った。もうすぐ凍死寸前だったようです。

 

近くの農家の家に立ち寄ると、その子供の状態を見て、牛小屋にしばらく入れてもらいました。

 

濡れた服を脱がして裸にして、体を摩擦していたら心臓の鼓動が動きだしました。

 

お湯を使っていいとヤカンを渡されたので、オムツを洗いました。

赤ちゃんは、まだ息をしていました。

 

しばらくすると、その農家がやってきて、すぐに出て行くように言われましたので、再び雨の夜道を歩き出します。

 

昭和21年8月7日、子供達を牛車に乗せて歩いて行きました。途中の農家で瓜などを買って、飢えをしのぎました。

 

川を渡りました。赤ちゃんをおんぶして川を渡り、また戻り、次男を抱えて川を渡るとまた戻って、長男をおんぶして川を渡りました。

 

このようにして、何度も川を渡りましたので、先に行く日本人難民たちから置いてかれてしまいました。

 

途中、同じ疎開団だった親子と会い、2家族で歩きました。

田んぼがあったので、そこの泥水を飲みました。

 

38度線の白い木戸が見えてきました。ようやく、1年間待ちに待った38度線を越えることができました。

 

しばらく行くと、ある農家の人がおにぎりを持って「パンモグラ」(食べなさい)と言って渡してくれました。

 

涙を流してそのおにぎりを食べました。

 

しばらく歩くと大きな川にぶつかりました。

もうだめだと弱音を吐くと、同じ疎開団の人から

 

「死にたいなら死んだらいい、もうすぐだというのに死ぬバカがあるか!」

 

と叱責されてしまい、手を引いて歩き出しました。

川沿いを歩くと橋がかかっていたのでその橋を渡ると、意識が朦朧となり倒れてしまいました。

 

しばらくして保安隊がきて、「ここで休ませてください。もう歩けません」というと、

 

「日本人はここに留まることはできない」と言われたので、再び歩き出しました。

 

38度線を超えたとはいえ、その近くにある開城という町まで行かないと安全地帯ではなかったのです。

 

しばらくして、意識を失い道端に倒れているところを、米軍のトラックに乗せられて、開城の難民キャンプまでたどり着くことができました。

 

そこは医療設備が整っていて、お粥などの食料も配給されました。

やっと生命の危機から脱出することができたのです。

 

そこで、足の裏の小石を全て抜き取ってもらい、しばらく這って移動しました。

 

開城の難民キャンプには次から次へと日本人難民が到着してきました。5日ほど滞在して後、今度は議政府へ向かうことにしました。

 

この難民キャンプは開城より整っており、食事もご飯とコンビーフが支給されました。

 

5日ほど経過した後、釜山へ向けて貨物列車で出発しました。

 

釜山から引き揚げ船に乗り、博多港に到着。しかし湾内で約20日間も閉じ込められて上陸許可がなかなかおりませんでしたが、昭和21年9月12日、上陸許可がおりました。

 

8月1日に宣川を出発してから40日あまりで、日本内地の土を踏むことができました。

 

たくさんの引き揚げ船が博多湾に停泊している間、毎日のように誰かが、船の中で死んでいきました。死亡していく人の多くは子供でした。

 

せっかく日本本土までたどり着いたというのに、その土を踏むことなく死んで行った子供達。

 

満州で生まれて、日本を知らないまま亡くなって行った子供もたくさんいたことでしょう。

 

(参考図書:「流れる星は生きている」藤川てい著)