「友を信じる」〜杉浦重剛
杉浦重剛先生は、安政2年3月(1855年4月)近江の膳所に生まれ、大正13年(1924年)2月、満68歳で亡くなられた。
若い時から教育の事に携わり、終生後進を教え導いてうまなかった。
大正3年、東宮御学問所が設けられた時、召し出されてご用係を仰せつけられ、倫理科を担任して、至誠一貫、ご進講の大任を果たした。
杉浦先生は、高潔で重厚、また、友情に熱く交友も少なかった。
明治初年、まだ、東京の開成学校に学んでおられた頃、小村寿太郎と親しくし、最後までその交わりを変えられなかった。
後年には、国運を双肩に担うほどの重大任務について小村寿太郎も、初めて外交官として世に出た頃は、父の残した負債のために、少なからず困窮に陥った。
杉浦先生は、小村寿太郎のこの苦しみを見るに忍びず、友人と相談し、連帯保証で金を借りて、これを救おうとされた。
連帯保証は、ややもすると、自分まで災いに巻き込まれる恐れがある。
友人の中には、このことについて、先生に注意を与え、方法を誤らないようにと、諭した者もいました。
しかし杉浦先生は、今、小村寿太郎の目前の急を救うため、少しもためらってはいられないと思われた。
そこで、連帯保証の止むを得ないことを、その友人に告げて、了解を求められた。
これには友人も、最もと頷き、先生の友情に深く感じて、自分自身も、進んで保証に立とうと言い出した。
このようにして、杉浦先生を中心とする数名の友人は、小村寿太郎の差し迫った困窮を救った。
小村寿太郎が、貧乏のどん底に落ちて、なおその志を伸ばすことができたのは、杉浦先生の友情に負うところが、少なくなかったのである。
明治38年7月、外務大臣であった小村寿太郎は、米国における日露講和会議に、全権委員の重任を帯び、国民の歓喜の声の間に、東京を出発された。
小村寿太郎は、かねて戦局の実情を深く察して、会議の条件が国民の期待にに沿わず、きっと非難を受ける結果になるであろうと、覚悟を定めておられた。
杉浦先生は、長く病床にあって、友の門出を見送ることができず、人に頼んで送別の言葉を伝えてもらわれたが、なお小村寿太郎の胸中を察するあまり、
「たとえ、どんなことがあろうとも、あくまで自己の所信を貫け。事の成否は、あえて恐るるに足らない」
と文書にして励ました。
ポーツマスで行われた会談では、国民の期待に沿わなかったので、激しい非難の声が小村寿太郎の身辺を包むようになった。
杉浦先生の塾にいる人たちでさえ、その非難をし始めた。けれども、小村寿太郎を信じていた先生は、
「小村君は、君国のあることを知って、少しも私心のない男だ。しかも今、日本第一の外交官である。日本一の外交官がやったことだ。あれで良いのだ。」
と言って、小村寿太郎を弁護し続けました。しかし、非難の声は高まるばかりで、小村寿太郎を弁護するのは、杉浦先生の他は、誰もいなくなってしまいました。
小村寿太郎の同窓生の人たちまでも、外務大臣に辞職勧告しようと息巻いて、杉浦先生のところに押しかけてきました。
杉浦先生は、言いました。
「小村君なればこそ、あれだけやれたのだ。辞職勧告どころか、総理大臣にもなれる者だと思っている。」
と答えられた。
朋友はよく選ばなければなりません。良い友と交われば、知らず知らずの間に、良い風に感化せられ、悪い友と交われば、いつのまにか、その悪い風の染まってしまいます。
古語に、「朱に交われば赤くなる」
「ヨモギ、麻の中に生ずれば、助けずして自ずから直し」
という言葉があります。
(参考図書:国民学校 高等科 教科書「修身」)