子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -34ページ目

昭和20年8月15日終戦を迎える前から、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州や蒙古、北朝鮮、樺太、千島を侵略してきました。

 

そのような時期に、北朝鮮に住んでいた日本人居留民はどのようにして、日本に引き上げてきたのでしょうか?

 

以下は、北朝鮮の羅南(ラナン)に住んでいた、ある母娘3人と長男の体験談です。

 

このまま朝鮮にいたら命が危ないという情報を聞きました。

 

軍事工場に働きに言っている長男がまだ家に戻っていませんので、約5日後に帰って来る長男を待ってから家を出ようと思いました。

 

しかし、その情報をくれた人からは、危険だから明日にでも家を出なさいと急かされ、母親と娘2人で大きな風呂敷とリュックに、飯盒と水筒、わずかな食料と着替えだけを持って、日本に向けて家を出ました。

 

最寄りの駅まで歩いて行くと、赤十字の貨物車が待機しており、病気や怪我をした人たちでごった返していました。

 

健康な日本女性3人は、必死に列車に乗せてもらうように駅長に頼みます。

 

朝鮮人の駅長は、許可をしようとしませんでしたが、たまたまその3人と知り合いだった日本人軍医が許可するように指示。

 

運よく、赤十字の貨車に乗ることができました。目的地は京城(ソウル)です。

 

途中、北朝鮮の共産党兵により、3人の健康な日本人を探していると言って検問を受けましたが、同乗していた衛生兵が嘘を言って庇ってくれたおかげで、捕まらずにすみます。

 

しかし、航空機からの爆撃で、先頭車両の汽車が破壊されてしまい、列車が動かなくなってしまいました。

 

仕方なく、自力で歩ける母子3人は、線路伝いに京城(ソウル)に向けて歩くことにしました。

 

日中は、北朝鮮の共産党兵に捕まる可能性があったので、藪の中で隠れて昼寝をして、夜になってから線路伝いに歩くことにしました。

 

ほとんど飲まず食わずであるき続けます。そのような日々を何日も続けてひたすら京城(ソウル)に向けてあるき続けました。

 

ある日、朝鮮の共産党兵に見つかってしまいました。

長女は年齢16歳。その朝鮮兵は今日の楽しみに丁度いいと朝鮮語で話し、彼女を連れて行こうとしました。

 

丁度その時、航空機が低空飛行ですぐ近くに爆弾を投下。とっさに地面に伏せた母子3人は、怪我を負いましたが、命にべつじょうはありませんでした。

 

しかし、先ほどの朝鮮兵は死んでいました。母親はその朝鮮兵の死体から軍服を脱がして、娘たちに着るように言います。

 

そして母親は、娘たちの髪の毛を丸坊主に切りました。

 

なぜ、そのようなことをしたかというと、兵隊に見つかると、12歳から70歳位までの老婆まで、見境なく婦女暴行(レイプ)をされたからです。

 

男性の格好をしていないと、いつ強制的に連行されて、レイプされるかわからなかったのです。

 

これは、満州でも樺太でも同じでした。ソ連兵と朝鮮の共産党兵は軍規というものがなかったのです。

 

しばらく歩くと貨物列車に乗ることができ、なんとか京城(ソウル)駅に到着しました。

 

そこで怪我をした、次女の治療を赤十字の人たちから受け、しばらく滞在していました。

 

赤十字の人たちが人先早く釜山に向け出発しましたが、母子3人は京城(ソウル)に残ることにしました。

 

なぜなら、長男がまだ、北朝鮮に残っていたからです。

その長男が京城(ソウル)に来るのを待つことにしました。

 

その京城(ソウル)駅での生活というと、食べ物はないので、ゴミを漁り、残飯をリュックに詰めて、それを少しずつ食べて繋いでいました。

 

宿泊施設はないので、駅のベンチやコンクリートの地面の上で寝ていました。

 

今のホームレスの方と同じような生活です。

 

しかし、ホームレスと違うのは、いつ命が奪われるかわからないというのと、いつ婦女暴行(レイプ)されるかわからないという危険と隣り合わせでした。

 

あちこちで強姦(レイプ)されて「助けて!」と金切り声をあげている日本人女性が、目につくようになったので、釜山行きの貨物列車に乗ることにしました。

 

貨物列車の中での食料は、駅のゴミ箱から漁ってきた、カビの生えたパン、みかんの皮、腐りかけたりんごなどでした。

 

釜山につくと、釜山港は日本へ引き上げる人たちでごった返していました。

 

ある日、駅の近くの倉庫で、独立祝賀会が開かれました。独立祝賀会というのは、日本が降伏したことにより36年間の日帝支配から解放されたということを祝う会です。

 

その場で、長女は、酔った朝鮮人から、「お前は男か、女か」と聞かれました。「男だ」と答えると、「女のような声だ、胸を触らせろ」と言われました。

 

これは女性の胸を触って満足するということではなく、男装した女性を女かどうか確かめるために、胸を触って確かめていたのです。

 

そして、胸が大きいとその場で連行され、婦女暴行(レイプ)が行われました。

 

長女は、京城(ソウル)駅に着いた時、赤十字の衛生兵から包帯をもらい、きつく胸を縛っていましたので、先ほどの朝鮮人から胸の検査を受けた時、「平らだ。男には興味ない」と言って立ち去って行きました。

 

次女が、川に水を汲みに行くとその河原のところで、日本人女性の上に乗って強姦(レイプ)している朝鮮人がいました。

 

「助けて!」と金切り声をあげて必死に抵抗しているのを目撃しました。

 

それを母親に告げると、もうここにいるのは危険と感じて、日本行きを決意。引き揚げ船に乗船する列に並び、数日待って、船に乗ることができました。

 

3日間かけて 日本の博多港に到着。ふるさとの土を踏むことができました。

 

しばらく博多港に長男の帰りを待って滞在していましたが、次から次へと引揚者がくるので、あまり長期間滞在することができずに、青森の実家に向かうことにしました。

 

青森の電報を送ると戻ってきてしまいました。

 

親子3人で電車に乗り東北に向けて満員電車を揺られていましたが、母親が何を思ったか、京都で降りて学校に通おうと言い出しました。

 

京都は大都市で唯一、空襲にあっていなかったので、そこで娘たちに教育を受けさせようと考えたのです。

 

学校の入学の手配を済ませると、母親一人で青森の実家に向かうことにしました。その間5日間、娘たちだけで過ごすことになりました。

 

今まで、生きるか死ぬかの瀬戸際の中、母親と家族3人で過ごしてきたので、たとえ数日でも、母親がいなくなるということは、とても心細いことでした。

 

京都の学校なんか行きたくないと次女は駄々をいいますが、きっと学校が気にいるようになるよ、と母親に言われて、仕方なく京都の女学校に通うようになりました。

 

住まいは、京都駅のベンチです。食料はゴミ箱の残飯でした。

 

数日後、母親が青森から戻ってきました。実家の両親は空襲に遭い、みんな死亡していました。

 

電報が戻ってきた時点で、母親は薄々感づいていたのでしょう。

娘たちにもその現場を見せたくなかったのでしょう。

 

娘たちの将来を思って、空襲の受けていない街、京都で教育を受けさせようと考えたのでしょう。

 

京都駅のベンチで娘に会うとしばらくして、母親は、息を引き取りました。

 

警察が来て事情を調べ、次に葬儀屋が来て火葬しました。そして、そのお骨を入れる骨壺は、今まで朝鮮から大切に持って来た飯盒にすることにしました。

 

次女が、それまでの道中、お母さんがいつも大きな風呂敷を、盗まれないように大切にしていたことを思い出します。

 

気になって、風呂敷を調べてみると布と布の間にポケットが付いていて、その中身を開けると現金と通帳が入っていました。

 

一方、長男はどのようにして日本に渡ったのでしょうか?

 

羅南の自宅に戻ると誰もいませんでした。そして、玄関の扉は開け離れていて、家の中に入るとほとんど全ての家財道具がなくなっていました。

 

当時の満州や北朝鮮などに住んでいた日本人の家には、ソ連兵や朝鮮共産党兵たちがいきなり乱入してきて、容赦無く金になるような家財道具を全て持ち去って行きました。

 

まるで追い剥ぎのように。

 

長男は母親が筆記体で書いた伝言を見つけました。

そこには「京城(ソウル)にて待つ」と書かれていました。

 

なぜ、筆記体だったかというと、漢字がわかる朝鮮兵に見つかってしまうと大変なので、わからないように筆記体で書いたと思われます。

 

そして、長男も京城(ソウル)目指して、家を出ることにしました。

 

その前に、仲良くしていた朝鮮人の李さんの自宅に相談に行きましたが、その荒らされた家の中で、李さん一家は殺害されていました。

 

朝鮮共産党兵は同じ朝鮮人でも、日本人と仲が良かった人たちを容赦なく殺害して言ったのです。

 

長男は線路沿いを徒歩で京城(ソウル)に向け出発しました。

 

途中、朝鮮共産党兵を見かけると、茂みや木の上に隠れていました。

 

ある時、森の中に隠れていたら、日本人たちが北朝鮮から南に向けて歩いてる集団に向けて、朝鮮共産党兵が銃を乱射。

 

多くの日本人が虐殺されて、その身につけていた衣類や靴、荷物、そして口の中の金歯まで、全て奪い取って行きました。

 

まさしく、追い剥ぎ(盗賊)です。

 

このような日々を数週間続けて、ひたすら京城(ソウル)に向けてほとんどまともに飲まず食わずで歩いていました。

 

ある雪が降る寒い夜、光が灯る家を見つけたので、意識が朦朧とする中をその光に向かって歩いていましたが、その家の前で倒れてしまいました。

 

その家の人が何か物音に気づき、外に出て見ると男の子が倒れているのに気づきます。

 

その家は朝鮮人家族の家でした。意識を失っている男の子を、家の中に入れて体を温めて、唐辛子を体にさすりながらマッサージをしてあげました。

 

身につけているものから、その男の子が日本人であるとわかると、朝鮮人家族は考えます。

 

なぜなら、日本人をかくまっているとわかると、朝鮮兵によって、一族皆殺しにされてしまうからです。

 

そこでこの男の子は、朝鮮人の孤児であり、縁あって一緒に住んでいるということにしようとなりました。

 

同じ朝鮮人でも、日本人に対して好意的な人もいたのです。

 

やがて、男の子は意識が戻り、朝鮮人家族の看病のおかげで、体調も良くなってきました。

 

しばらくその家でお手伝いをして過ごしていましたが、家を出ることにしました。

 

その朝鮮人家族は、一緒の暮らして行こう、お前は家族だ、と必死に引き止めます。

 

南に逃げようと、北から渡ってきた日本人引揚者たちはみんな、共産軍によって虐殺されていると話しました。

 

しかし、京城(ソウル)で待っている母と妹たちのところに向かうと言って、その家族と涙の別れをしました。

 

その家は、38度線を横切っているイムジン川まで6キロのところにありました。

 

38度線以南は米軍が統治しており、その川を越えて南に渡る人たちが多くいました。

 

しかし、夜間でも探照灯を水面に照らしており、人影が見えると機関銃で掃射していました。

 

長男はそのイムジン川を決死の覚悟で泳ぎ渡りました。

 

途中、機関銃で掃射されましたが、荷物を頭の上につけていたので、その荷物が守ってくれました。

 

そこから60キロ先の京城(ソウル)まで歩いて行き、やっとのことで駅に到着しますが、家族は見つかりません。

 

仕方なく、釜山行きの貨物列車に乗り込み、釜山へ。

 

そこから、定期的に出航している引き揚げ船に乗り込みました。

 

以前は引き揚げ船の到着地は博多でしたが、舞鶴に変更になっており、長男は日本の舞鶴に到着することができました。

 

長男は、舞鶴港で、兄の帰りを待っていた妹たちが新聞紙に書いて貼り付けていた伝言を見つけて、京都で再会を果たしました。

 

(参考図書:「竹林はるか遠く」ヨーコ・川島著 ハート出版)

 

 

 

 

昭和12年12月26日、満州国のハルビンのモデルン・ホテルで極東ユダヤ人大会が開催されました。

 

モデルン・ホテルは、ユダヤ人大富豪のヨゼフ・カスペ所有のホテルでした。

 

この会議には、ハルビン、天津、奉天、大連、海拉爾(ハイラル)、さらには神戸からもユダヤ人グループの代表が集まりました。

 

また、陸軍中央部も陸軍におけるユダヤ問題専門家であった安江仙弘(のりひろ)大佐をオブザーバーとして参加させた。

 

また、極東ユダヤ人協会のアブラハム・カウフマンは、ハルビン特務機関長に就任した、樋口 季一郎中将の紹介を安江仙弘に希望。

 

樋口 季一郎特務機関長は、極東ユダヤ人大会の開催に積極的に協力することを約束しました。

 

会議の冒頭、極東ユダヤ人協会のアブラハム・カウフマンは、「世界各地でユダヤ民族が悲惨な状態におかれているにもかかわらず「日本と満州の両国に居住するユダヤ人は平等の権利を享有」している、と謝辞を述べました。

 

この大会で採択された宣言では、

「日満両国においては人類の共同文化を害する弱小民族への圧迫がないので、両国在住のユダヤ民族は「この国家に対する義務を自覚して一切の力と才能をこの国の発展に捧げ」ることを謳った。

 

その会議で樋口季一郎ハルビン特務機関長は、ヨーロッパの一部の国でユダヤ人に対して、「物質主義的」、あるいは「社会主義的」であり、

 

「非同化的」傾向を有するとの批判があるが、これらはユダヤ民族の先天的正確ではなく、「ユダヤ民族が数千年の久しきにわたって国家を失い各民族間に無限の苦悶を」

 

味わったことから派生した後天的なものであるとして、民族国家再興の暁には、いわゆるユダヤ問題など容易に解消すると断じた。

 

そして、日満両国においては「勤勉善良なるユダヤ民族の個々に対しては充分、これを庇護し平和なる生活を営なみ、相共に王道楽土」

の建設に協力しようと呼びかけた。

 

この時、日本人とユダヤ人が共存共栄を図るための大きな一歩が刻まれました。

 

当時は、ナチスドイツがユダヤ人迫害を行なっていたので、ユダヤ人から共感を得ました。

 

ところで、日本もこの時すでに、ドイツと日独防共協定を結んでおり、ドイツとはまだ同盟国ではないが、お互いに協力して、共産国に対抗しようという協定を結んでいました。

 

そして、三国軍事同盟を結ぶことになりますが、それでも日本政府は、ユダヤ人に対して、迫害をすることはありませんでした。

 

昭和13年3月8日、ユダヤ人が、シベリア鉄道で満州国境のオトポールまで避難してきました。

 

目的地は上海にある米国租界地区でしたが、満州国の入国ビザの発給の許可がおりず、オトポール駅で足止めとなっていました。

 

樋口 季一郎特務機関長は、極東ユダヤ人協会のアブラハム・カウフマンから依頼を受けます。

 

満州鉄道の総裁であった松岡洋右に特別列車の手配を要請。そして、樋口の部下であった安江仙弘(のりひろ)大佐、河村愛三少佐に現場での指揮を指示しました。

 

その後ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続けました。

 

上海まで彼らを乗せる列車を手配した東亜旅行社(現在のJTB)の記録によると、満州から入国したユダヤ人の数は、

 

昭和13年(1938年)には245名、昭和14年(1939年)には551名、昭和15年(1940年)には3,574名まで増えています。

 

この件に関して、ドイツからはヒトラーの腹心であるリッペントロップ独外相から、オットー駐日大使を通じて抗議が行われました。

 

外務省、陸軍省でも樋口の独断を問題視する声が出て、ドイツからの抗議書は関東軍司令部へまわり、樋口は関東軍指令植田謙吉大将に次のような文書を送ります。

 

「小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。

 

法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」

 

樋口季一郎特務機関長は、関東軍司令部に出頭し、東條英機参謀長と会い次のように訴えました。

 

「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」

 

東條英機は、樋口の訴えを聞き入れて、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」とドイツ側に打診しました。

 

終戦後の東京裁判において、樋口がソ連から戦犯として裁くようにGHQに強く要望が出ました。

 

ソ連がなぜ樋口を戦犯として裁くように強く要請したのでしょうか?

 

それは、昭和20年8月18日、千島列島の占守島を侵略したソ連軍に対し、札幌の第5方面軍司令官であった樋口が、現地の第91師団に徹底抗戦を命じたために、ソ連軍に多大な被害が出たためです。

 

また、この戦闘により、9月1日までに北海道北部を占領する計画も中止となってしまいました。

 

この時の恨みのために、スターリンは戦犯として裁くように、樋口を強く要望したのです。

 

 

それを知った、世界ユダヤ人協会(本部はニューヨーク)が、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も活発に行われました。

 

世界規模の樋口救出作戦が展開されたおかげで、マッカーサーはソ連の要求を拒否。

 

樋口季一郎中将は、戦犯として裁かれることはなく保護されました。

 

樋口季一郎中将は安江仙弘大佐とともに、ユダヤ民族に貢献した人物を記録するゴールデンブックに、その名前を記録されています。

 

(参考図書:「歴史読本」”樋口季一郎とユダヤ人脈” 白石仁章 中経出版、

「指揮官の決断ー満州とアッツの将軍 樋口季一郎」早坂隆著 文藝春秋)

 

 

 

 

 

昭和20年8月、樺太駐留軍では、ソ連軍による侵略ではなく、米国からの侵略を想定していました。

 

なぜなら、ソ連とは中立条約を結んでいたためです。

 

日本の感覚からですと、中立条約を結んでいる国とは戦争しないという考えになりますが、ソ連にはその考えは通用しませんでした。

 

樺太を守備していた日本の第88師団(峰木十一郎中将)は約2万人の兵隊が配備されていました。

 

千島列島の4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞島)には、第89師団の2万人が配置され、

 

千島列島の北端(占守島(シュムシュ)、幌莚島(パラムシル))には、91師団(堤不さ貴(つつみふさき)中将)の2万6千人が配置されていました。

 

8月15日、ソ連のワシレンスキー司令官は、プルカーエフ第二極東司令官とユマシェフ司令官に対し、

 

北千島(占守島(シュムシュ)、幌莚島(パラムシル)、阿頼度(アライト)、志林規(シリンき))を占領するよう命じました。

 

トルーマン大統領は8月15日、マッカーサーに出した命令書(一般命令第一号)をスターリンにも知らせました。

 

その中で、「満州、北緯38度線以北の朝鮮、樺太」の日本軍はソ連軍司令官に降伏する旨が規定されていました。

 

これに対し、スターリンは、「ヤルタ協定の従ってソ連軍に日本軍が降伏すべき地域に、千島諸島全てと、北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ線より北側)を含める事」、を要求しました。

 

8月16日、スターリンは、ワシレフスキー極東ソ連軍司令官に北海道北部と南千島を9月1日(降伏文書調印式の前日)までに占領することを指示していました。

 

樺太の第88師団と千島の91師団は、15日正午の玉音放送に続き、札幌の第5方面軍から「18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣」

 

「その場合も、なお敵が戦闘をしかけて来たら、自衛のための戦闘は妨げず」との命令を受け、戦車の備砲を撤去したり、化学兵器を廃棄したりして武装解除の準備をしていました。

 

8月18日早朝、カムチャッカ半島からソ連軍が占守島(シュムシュ)の竹田浜から上陸。

 

札幌の第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、千島の第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出した。

 

第91師団(堤不夾貴(つつみ・ふさき)中将)は国籍不明の軍隊に対し反撃。日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢となった。

 

しかし、18日正午、札幌の第5方面軍司令部は、樺太の第88師団の峰木十一郎師団長と、第91師団の堤不夾貴師団長に正当防衛以外の軍事行動を禁じたため、16時以降、積極的戦闘を停止しました。

 

そして、8月18日、トルーマン米国大統領は、スターリンから要求されていた北海道北部(留萌と釧路を結ぶ線より北側)の占領を拒否。

 

もし、18日の日本の第91師団の反撃と、トルーマン大統領の拒否回答がなかったら、北海道北半分はソ連領となっていました。

 

8月20日に第5方面軍司令部は、第88師団に停戦交渉を命令。

 

8月21日にソ連軍と日本の第91師団との間で休戦協定が成立。

翌22日に知取(しるとる)でソ連軍と日本の第88師団との間で停戦協定が成立。

 

8月22日、スターリンは、「北海道北部の占領を拒否されるとは期待していなかった」、とトルーマンに回答し、ワシレフスキーへ北海道北部の占領命令を撤回しました。

 

樺太では、地上戦と空爆によって2、000人の居留民が殺害されました。

 

また、8月22日、樺太から北海道に向けて運行中の避難民を乗せた輸送船(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)が、留萌沖で撃沈され1、700人が殺害されました。

 

ソ連軍は24日に樺太の豊原、25日に樺太の大泊を占領しました。

 

一方、ソ連太平洋艦隊司令部は、26日、北太平洋艦隊に択捉と国後への上陸を命じました。

 

南千島には千島北部、中部とは別の舞台を担当させたこと自体が、南千島の位置付けを物語っていると言えます。

 

8月28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島、9月5日までに歯舞諸島に上陸。

 

択捉島でも国後島でも、上陸したソ連軍はまず、「この島にはアメリカ兵はいるか?」と聞いたことは、

 

ソ連がアメリカ軍の動向を気にしながら南千島作戦を強行したことを裏付けていました。

(「我らの北方領土・ソ連占領編」千島歯舞諸島居住者連盟)

 

9月2日、戦艦ミズーリの降伏文書調印式の日に、「同志、スターリンの国民への呼びかけ」という声明を発表しました。

 

その内容は、

「1904年日露戦争におけるロシア軍の敗北は国民に苦しい記憶を残した。その敗北は我が国家の不名誉となった。

 

我が国家は日本を撃破しその恥を拭う日が来ることを信じ、その日の来るのを待っていた。

 

我々前世代の人間は40年間その日の来るのを待っていたが、今その日は来たのである。」と。

 

日本への報復の機会を伺っていたソ連に対して、日本は日ソ中立条約を結びました。

 

そして、ドイツ降伏後、ソ連が、ヨーロッパからシベリア方面に、大規模な軍事移動をおこなっている、という報告を受けていながら、ソ連が日本に攻めて来ることはないと、8月8日の宣戦布告の時まで、日本は信じていました。

 

さらに、日本は、ソ連に対して、米国との講和を仲介してほしいと依頼していたのです。

 

日本人居留民に対するソ連軍の蛮行は、凄まじいものがありました。

それが12歳であろうと70歳近い老婆であろうと。

 

そして、人前でも白昼でも堂々と、また雪の上であろうと、そういうことは全く頓着しなかった。

 

女性たちは頭は丸坊主になり、顔に墨を塗り、男装して難を逃れようとしたが、彼らは一人一人旨を触って女であることを確かめると引き立てていった。(「戦後引き揚げの記録」岩槻泰雄著)

 

樺太庁はソ連侵略後の8月13日から22日まで住民の緊急疎開を行い、7万6千人の人が、北海道に避難しました。

 

8月23日以後は渡航が禁止されてしまいましたが、その後も2万4千人あまりの人が北海道に避難し、合わせて約10万人の人たちが避難しました。

 

樺太に残された住民、約28万人(民間人26万7千人、軍人1万2千人)は、米ソ協定に基づき、昭和21年12月から24年7月までに真岡から函館港へ引き上げて来ました。

(「樺太終戦史」全国樺太連盟 著)

 

南千島(北方領土)からの引き上げは、米ソ協定により、9、600人の一般住民が北方領土から、樺太経由で函館に、強制的に退去させられました。

 

(参考図書:「シベリア抑留」長勢了治著)

 

 

 

 

 

昭和20年5月8日ドイツ降伏の3ヶ月後の8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本に宣戦布告。

 

8月9日の午前0時に160万に上るソ連軍が満州と南樺太の国境を越えて怒涛のごとく侵略してきました。

 

9月2日ミズーリ号の艦上での降伏文書調印までの、たった24日間の参戦で、満州、千島列島、南樺太を日本からぶん取って行きました。

 

24日間と言っても、日本軍は8月10日にポツダム宣言を受諾する旨をスイスを通じて連合国に打電し、8月15日に降伏して武装解除してましたので、数日間という極めて短期間に、広大な領土をぶん取って行ったことになります。

 

この国際法を無視した蛮行を行ったソ連。

 

また、国際法無視の蛮行はソ連だけではなく米国も行いました。

 

それは、日本の主要都市を軍事施設だけでなく、民間人を含め無差別爆撃したこと。さらに、広島、長崎に原爆を投下したこと。

 

これはホロコーストであり、国際法を完全に無視した蛮行であります。

 

米国はこの件について、過去70年以上にわたり、日本に対し、一度も謝罪と賠償をしたことがありません。

 

戦後の日本は、国際法をまともに守ることができないような米国、ソ連、中国共産党が常任理事国となっている国際連盟に盲従することを国是としています。

 

では、戦前までの日本はどうだったでしょうか?

 

鎖国政策をとっていた江戸幕府が開国し、その幕府を倒した明治政府は、欧米列強に追いつけ追い越せと、富国強兵政策をとっていきました。

 

明治38年(1905年)9月5日、日露戦争に勝利するほどに近代国家を建設した日本は、世界の欧米列強の中で一等国として認識されるようになりました。

 

大正8年(1919年)、日本は、第一次世界大戦後に開かれた、パリ講和会議の国際連盟委員会で「人種的差別撤廃提案」の議案を提出しましたが、4月に米国、イギリスなどの反対で否決。

 

世界会議の場で、人種的差別撤廃の提案をしたのは日本が初めてでした。

 

大正9年(1920年)に発足した国際連盟の加盟国は、63カ国。これはアジアやアフリカのほとんどが植民地支配を受けていたため、独立国家が少なかったためです。

 

そのような中、同じアジアの有色人種である日本は、国連に独立国として加盟。

しかも常任理事国として加盟しました。

 

その後も日本は軍事力の拡大方針を緩めなかったため、大正10年(1921年)11月11日から、ワシントンにて開かれた海軍軍縮会議で、米国、英国との艦艇の保有比率を日本が不利となるように決められてしまいました。

 

その後、大正13年(1924年)7月1日、米国で排日移民法が成立し、米国への日系移民が禁止されてしまいます。

 

昭和16年12月8日、米国、イギリスと宣戦布告。

その”米国及び英国に対する宣戦の詔”には次のように書かれています。

 

ーーーーーーー

米国及び英国に対する宣戦の詔(口語訳)

「天祖の助けを得、万世一系、皇統普遍を持って皇位につく大日本帝国天皇は、明らかに至誠忠勇なる国民に示します。

 

私は、ここに、米英2国に対して、宣戦を布告します。わが陸海の将兵は全力を振るって交戦に従事し、全ての官吏は訓令を遵守して職務を全うし、

 

国民はそれぞれにおいて本文を尽くし、すべての国民が心を一つにして総力を結集し、戦果に見込違いが生じないよう戦時体制を整えてください。

 

そもそも、東亜の安定を確保し、もって、世界の平和に寄与することは、元より明治天皇の御心(四方の海皆同胞と思う世なぞ波風の立ちさわぐらむ)であり、

 

大正天皇がその訓を継承し、その教えを皇道となすべきことは、私の硬く心に刻むところであります。

 

しかも、世界各国と外交を盛んにし、共に繁栄と平和を享受することは、これまた、我が国が常に外交の基本としてきたところであります。

 

今や、不幸にして米英両国と戦闘を開くに至ったことは、止むに止まれぬものがあってのことであり、この戦争がどうして私の望むところでありましょうか?

 

中華民国政府はかねてより、我が国の真意を理解しようとせず、みだりに事を構え、東亜の平和を撹乱し、ついに、我が国が武器を取るに至らしめ、ここに4年余りが経ちました。

 

幸いにも、国民政府に政権交代があったので、我が国は、これと友好関係を結び、お互いに協力関係を築くこととなりましたが、重慶に残存する蒋介石は、米英に庇護を頼み、内乱を続け兄弟喧嘩を改めず、

 

また、米英両国は、残存政権を支援して東亜の撹乱を助長し、平和の美名に隠れて、東洋制覇の野望をあらわにし、そればかりか、同盟国を誘い、我が国周辺において軍備を増強して挑戦し、

 

さらに、我が国の平和的通商に対してもあらゆる妨害を講じ、ついに経済断交に及び、我が国の生存に重大なる脅威を加えてきました。

 

我が日本政府は、事態を平和的に回復させようと、隠忍自重を持って堪えてきましたが、彼ら(米国)には譲歩の精神は微塵もなく、

 

いたずらに時局の解決を引き伸ばし、この間、かえって経済的、軍事的脅威を増幅し、持って、我が国を屈服させようとしてきました。

 

このような事態に直面して、もはや進退窮まり、東亜の安定に関する我が国の積年の努力は、悉く水泡に帰し、我が国の存立もまた、

 

絶体絶命の時を迎え、事ここに到り、我が国は、今や、自存自衛のため、決然と立って一切の障害を破砕する以外に生き延びる道はなくなりました。

 

先祖・歴代の天皇の神霊を仰ぎ、私は、国民の忠誠心と勇気を信じ、皇祖皇宗の遺徳をおし広め、速やかにこの禍根を取り除き、

 

東亜に永遠の平和を確立させ、持って、我が国の名誉を世界に示していく所存であります。

ーーーーーーーー

以上、米国及び英国に対する宣戦の詔。

 

米国による経済封鎖と、日米交渉において全く妥協する考えがない、米国側の態度(ハルノート)により、

 

”窮鼠(キュウソ)猫を噛む” 状態になってしまった日本は、米国、英国に対し宣戦布告をしました。

 

窮鼠(キュウソ)猫を噛むとは、猫に追い詰められたネズミが、黙って食べられる前に、最後の一撃を加えるという意味です。

 

その後、昭和18年11月6日、東京で、自由インド仮政府、タイ、ビルマ、フィリピン、満州国などの代表を招いて大東亜会議を開催し、”大東亜共同宣言”を発表しました。

 

その大東亜共同宣言には、次のように書かれています。

 

ーーーーーーー

大東亜共同宣言

「世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。

けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、

東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。

つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。

そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、

その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与したいと考えます。

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。

3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。

4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。

5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。」

ーーーーーーー

以上が、大東亜共同宣言となります。

 

この宣言が発表された当時は、東南アジア諸国(ASEAN)は、欧米列強からの侵略を受け、植民地化されて搾取されていました。

 

そして、東南アジア諸国の人々は、白人国家に対して独立することができるなどと考えてもいませんでした。

 

それほど、力関係が明らかであり、黄色人種は白人に逆らうことができない、ということが常識でした。

 

その常識を打ち破った世界で唯一の国が、日本だったのです。

 

大東亜共同宣言では、欧米列強からの侵略を受け搾取されている東南アジアの国々から、欧米列強を駆使くし、独立を勝ち取るという内容となっています。

 

昭和20年8月15日、日本は力及ばず、連合国に対し無条件降伏。

 

しかし、その後、東南アジア諸国は次々に欧米列強に対して独立戦争を行い、独立していきました。

 

昭和18年11月6日、日本主導でおこなった大東亜共同宣言は、その目的が達成されたのです。

 

しかし、昭和20年9月から7年間、マッカーサーGHQの、2分法による思想改造(ウォー ギルト インフォメーション プログラム)(WGIP)により、見事に覚醒した方々(左翼)は、日本はアジア諸国に対して侵略をして、多くの犠牲を出して迷惑をかけた、と主張しています。

 

「反省と努力」

 

広瀬淡窓(ひろせ たんそう)先生は、豊後(大分県)の人であります。「咸宜園」(かんぎえん)という家塾を開いて、80年間で4、800人の人が学びました。

 

「咸宜園」とは、文化2年(1805年)、長福寺というお寺の一角を借りて塾を開いたのが始まりで、江戸時代の中でも日本最大級の私塾に発展しました。

 

塾生は遠方からの者も多かったため、寮も併設された。全国68ヶ国の内、66ヶ国から学生が集まった。

 

身分・出身・年齢などのバックグラウンドにとらわれず、全ての塾生が平等に学ぶことができるようにされて、明治30年(1897年)まで存続しました。

 

幼い時から学問を好み12、3歳の頃には、もう一通り漢籍を読み、詩文も上手に作れるようになりました。

 

ところが、15、6歳の頃から、とかく病気がちになっていきました。病床にありながら、よくよく考えてみると、これまで気づかなかった自分の性質や行いに、いろいろよくないところがあります。

 

この反省が元になって、18歳の時に、心身を錬磨し、是非とも国家のお役にたつ人物になろうと、固い決心をしました。

 

24歳の時から、家塾を開いて弟子を教えるようになりました。これがのちの咸宜園であります。

 

しかし、その後も、やはり病気がちであったので、40歳になった時に、その志の十分に果たされないのを深く恥じ、「自新録」という書を作って、その中に自分の戒めになることを書き記し、絶えずこれを机上に置いて、朝夕その通り実行するように努められました。

 

それでもまだ、満足することのできなかった先生は、54歳になって、もっと厳しく自分を鞭打つため、日々の行いを、必ず記録にとどめておくこととし、善行1万に達するのを目当てに、自分を練上げようと、心に誓われました。

 

こうして、「万善簿」という帳簿を作り、その日その日の言行を反省して、一々書き留めました。

 

人に善業を勧め、人のために世話をし、親切に人を教え、親類と親しむことなどを善と教え、過食・病気・怒り・殺生などを悪と教えました。

 

善は白丸、悪は黒丸で書き入れ、月末になると、その功過を調べるようにされました。

 

うまずたゆまず、善行を積むことに努めて、12年7ヶ月がたちました。

 

善の数から、悪の数を差し引いてみると、残りの善の数は、果たして1万を超えています。

 

先生の年来の望みは、こうして達することができました。

 

その時、67歳の高齢であった先生は、それでもまだ安心することができず、さらに同じ方法で反省の工夫を続け、75歳で亡くなる(2年ほど前)まで、1日として怠ることがありませんでした。

 

半生は、病気がちであった先生も、こうした努力によって、その長寿を保つことができ、しかも、その人柄が次第に円熟したものとなったのであります。

 

(参考図書:『国民学校 高等科 教科書「修身」』)

 

 

 

”国を思う心”

 

寛政11年(1799年)、間宮林蔵は、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され同地に来ていた、伊能忠敬に測量技術を学びました。

 

そして、享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製しました。

 

文化5年(1808年)春、間宮林蔵は、江戸幕府の命令により松田伝十郎に従って樺太(からふと)を探索することとなりました。

 

樺太の南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌ人を雇い、松田伝十郎は西岸から、間宮林蔵は東岸から樺太の探索を進めました。

 

間宮林蔵は、多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、

 

再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸の”ノテト”で松田伝十郎と合流しました。

 

松田と共に北樺太西岸ラッカに至り、樺太が島であるという推測をします。

 

そして、そこに「大日本国国境」の標柱を建て、文化6年6月(1809年7月)、北海道の宗谷に戻りました。

 

この時の調査報告書を提出した、間宮林蔵は翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身樺太へ向かいました。

 

間宮林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで、黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸”ナニオー”まで到達しました。

 

民家が5、6戸ほどしかない、寂しい集落です。少し南の”ノテト”

を4月にたって、ここまで来るの間に調べたところでは、樺太とダッカンの陸地とが、両方から迫りあっていました。

 

海の水は、みんな南へ南へと流れています。小さなサンタン船を使って乗り出しても、格別、骨が折れるというほどではありません。

 

潮の流れはいたって緩やかだからでした。

ところがナニオーから先は、だんだん海が広がっています。

 

海水は北のほうへと流れます。しかも、山のような大波が激しく噛み合って、船をここから進めることはもうできなくなってしまいました。

 

間宮林蔵は、ちょうど池の底からでも沸き起こって来るような、轟々という、ものすごい海鳴りを聴きながら、この大自然の姿をじっと見つめて動こうとしませんでした。

 

「そうだ、やっぱり海峡だ」

 

と、間宮林蔵は顔を輝かせながら、思わず心の中で叫びました。

 

文化5年(1808年)春、松田伝十郎といっしょに渡ってから、2回目の樺太探検です。

 

しかも今度は一人でした。

 

今初めて、間宮林蔵は黒竜江(アムール川)の濁流が狭い海峡に流れてきて、ここから北と南へ潮流を二分させている光景を目の当たりに見たのでした。

 

その上、海峡を越えて海が次第に広く開ける様子も、はっきりと突き止めることができたのです。

 

2年目を数える、長い苦しい旅の疲れも、飢えを忍んだことも、みんな、このひとときの感激によって、消え失せました。

 

けれども、林蔵はここで気を緩めるような男ではありません。

 

「ロシアの国境まで、奥地を探検するのが北辺の風雲急なこの時勢に、自分に与えられた使命ではないか?」

 

そう思うと、すぐにでも境界を見定めるために、出発したいという気持ちに駆り立てられました。

 

もう、船も進まない先へ行くのですから、手落ちなく準備をしなければなりません。

 

色々な事情で、間宮林蔵はしばらくの間、樺太北部に居住するギリヤーク人(ニヴフ)たちと一緒に暮らすことに決めました。

 

魚も取れば狩りもしました。木も切れば、網もすきました。

 

こうして、現地人たちと暮らして話をしている間に、樺太が離れ島であって、他の国と境界を隣り合わせにしている土地ではないということが、いよいよ確かになりました。

 

ギリヤーク人(ニヴフ)たちは、海を越えてダッタンへ渡れば、ロシアの国境がわかるといいます。

 

「よし、それではダッタンへ行こう」

 

と、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、間宮林蔵は固く決意しました。

 

土地の酋長コー二が、品物交換のために大陸へ渡ろうとしていました。この良い機会を逃しては、二度と大陸へ行くことはできないと思ったので、行く度となく、林蔵はコーニに、

 

「どんなことをしても、我慢して見せる、ぜひ、連れて行ってもらいたい」

 

と熱心に頼み込みました。そうして、やっとの事、林蔵が船をこぐという約束で遠くダッタンまで出かけました。

 

途中の苦しみは、これまでにも増して、例えようのないものでした。

 

ギリヤーク人らと共に海峡を渡って調査した結果を、文化8年(1811年)1月、『東韃地方紀行』、『北夷分界余話』としてまとめて、地図と共に江戸幕府に提出しました。

 

林蔵は生死を越えて、ただ国を思う真心から、外敵に侵されようとしている北辺の守りのために、身を投げ出したのでした。

 

間宮林蔵の願いは、見事に達せられました。

 

(参考図書:「国民学校修身教科書 初等科』

 

朝鮮で使われているハングル文字。

 

実はこのハングル文字は日本人によって普及されたのです。

 

日韓併合前の1880年代、李氏朝鮮から特命全権大臣として朴泳孝、金玉均ら一行が日本を訪問。

 

彼らは、日本の殖産興業、富国強兵、文明開化に興味を持ち、日本の官僚や欧米諸国の領事とも交流し、積極的に交流をしました。

 

一行のうち何人かは、そのまま慶應義塾や同志社に留学生として残りました。

 

一行は福沢諭吉の元を訪れました。

 

福沢諭吉は、朴泳孝(ぼく・えいこう)に対し朝鮮の開化のための優先課題について語り、朝鮮の独立のためには、日本への留学生の派遣と、”朝鮮語による新聞発行”が不可欠と指摘しました。

 

明治13年(1880年)12月、朴泳孝から”朝鮮語による新聞発行”のための支援を依頼されたので、福沢諭吉は、牛馬卓蔵、高橋正信、井上角五郎を推薦し、3名は朝鮮に派遣されることになりました。

 

福沢諭吉は、井上角五郎の朝鮮への出国に際して、次のように語りました。

 

「僕は朝鮮を独立させたいと思う。たとえ独立できるとも、あるいはできないとしても、ともかくも日本以外の国々をして断じて朝鮮に手を出させるわけには行かぬ。

 

日本が一人これに当たるのが日本の権利であって義務である。

 

少なくとも朝鮮をわが勢力範囲の下において、緊密に連携し、万一にも支那と同一の運命に陥らしムルようなことがあってはならぬ」

(「井上角五郎先生伝」1943年)

 

このように、福沢諭吉は、朝鮮の独立支援をするのは日本の権利であり義務であると考えていました。

 

また、朝鮮が、清国のように欧米列強の植民地となるようなことはあってはならない、と強い決意を持っていました。

 

一方の井上角五郎は、朝鮮へ出国する際に送別会を開いてくれたみんなに次のように語りました。

 

「諸君、朝鮮を開発し誘導して日本と同じく文明開化の進路に向かわせるのは、我々の今回の渡韓の目的である。

 

朝鮮は日本と同じく開化に進み日本流となり、日本化し、支那より今日のごとく干渉を受けずに、いわゆる独立の一国たらしむる。

 

もし彼に独立の資力がないなら、むしろ日本の善政を敷き、日本の徳教を行う。これが我々の結局の目的である。

僕が今日渡韓するのはこの目的を果たしたいためである。」

(「故紙羊存」1908年)

 

井上角五郎自身も、朝鮮が独立し自立していくことを支援していきたいと仲間に夢を語りました。

 

明治16年(1883年)10月1日、教育・文化を扱うために設立された博文局から「漢城旬報」という官報に近い新聞を創刊しました。

 

「漢城旬報」は朝鮮における最初の近代的新聞でした。

 

当初は、漢文での掲載でしたが、福沢諭吉から、

「朝鮮には諺文(ハングル)があるはずだ。諺文を使えば多くの人が読めるようになるだろう」という指摘を受け、ハングル文字を使って掲載することを検討しました。

 

当時の朝鮮で使われた文字はどのようなものがあったのでしょうか?

 

以下の数種類の文章形態がありました。

 

1、純漢文

2、朝鮮的漢文

3、吏頭文(りとう文)

4、吏頭(りとう)混じり漢文

5、諺文(おんもん)(ハングル)

6、漢字混じり諺文(おんもん)

 

純漢文は、わずかに学者の間で用いられているだけでしたが、役所の訓令などは全て、この文体を用いていました。

 

諺文(おんもん)は小説、伝記、手紙などに用いれれていました。

吏頭文(りとう文)は、日本の万葉仮名文です。ほとんど用いられていませんでした。

 

吏頭混じり漢文は、金銭貸借証書や中流人の手紙などに使われていました。

 

漢字混じり諺文(おんもん)は、ほとんど使われていませんでした。

(「朝鮮雑記』本間九介著)

 

明治17年(1884年)12月4日に起きた甲申政変(こうしんせいへん)により、井上角五郎も巻き込まれ、他の日本人とともに命からがら帰国しました。

 

甲申政変(こうしんせいへん)についてはこちらを参照ください。

甲申政変

 

翌年早々、井上角五郎は、「行く必要はあるまい」と福沢諭吉が止めたのを聞かずに、

 

「先生がお教え下さったハングルの普及のため是非とも行かなければなりません」と言って漢城(ソウル)へ再び渡りました。

 

漢城(ソウル)に戻ったけれども、博文局は焼け落ちていて、復旧に手間取りました。

 

また、ハングル文字で製版するための、活字を作る職人が朝鮮にいなかったので、日本に一度戻って、活字職人を連れて再び朝鮮に渡りました。

 

井上は朝鮮国王宛てにハングル使用の新新聞を発行する要望書を金允植へ提出した。

 

金允植はこの要望書に姜韓が案出した漢字・ハングル混合文の写しを添えて高宗に提出したところ、明治18年(1885年)5月12日、新聞復刊の許可が出された。

 

明治19年(1886年)1月25日「漢城旬報」の後継として「漢城周報」が創刊されました。

 

この「漢城周報」は、政府公認の公文書(官報)として、初めてハングルによる朝鮮文が使用されました。

 

ここでは、国漢文という日本の漢文訓読体をモデルにした新しい文体(ハングル創製以来使用されていた、単なる漢字交じり文とは別)が採用。

 

発行部数は約3000部。22.5×16.5cmの大きさで、16面または18面ありました。

 

読者は主に役人でこの新聞自体は庶民には浸透せず、「漢城周報」は、明治21年(1888年)7月7日廃刊となりました。

 

日本は、日清戦争で清国に勝利した後、明治28年(1895年)の下関条約で朝鮮の独立を清国に認めさせました。

 

下関条約第一条には次のように規定されています。

「清国は、”朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し”、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。」

 

この条約は、陸奥宗光と共に伊藤博文が、起草・調印したものになります。

 

これにより、朝鮮は中華帝国からの長い属国時代を終えましたが、今度はロシアからの支配力が強くなっていきました。

 

このような背景の中、自主独立を願う徐載弼(じょ・さいひつ)が、ロシアの保護国化・植民地化を危惧し、明治29年(1896年)に「独立協会」を設立。

 

明治29年(1896年)4月に『独立新聞』が創刊された。

これ漢字を用いずハングルのみによる初めての新聞でした。

第1~3面まではハングルで第4面は英語で書かれていた。

 

また「独立協会」は、下関条約によって、清国から独立を勝ち取ったことを祝い、明治30年(1897年)独立門を建設した。

 

明治30年(1897年)、「独立協会」は、高宗を朝鮮初の皇帝に即位させて、国号を大韓帝国と改め、李氏朝鮮の自主独立を世界に宣言しました。

 

明治31年(1898年)12月25日に「独立協会」は、対立組織の皇国協会によって「独立協会は王政を廃止し朴定陽を大統領とする共和制に移行させようとしている」との噂をでっち上げられて弾圧され、強制解散となる。

 

その後、明治37年(1904年)8月8日に独立協会系の尹始炳らと共に、政治結社「一進会」を設立する

 

明治38年(1905年)9月5日、ロシアと日本との間で、ポーツマス条約が締結。

 

ポーツマス条約第一条には次のように規定されています。

 

「ロシアは韓国(大韓帝国)における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと。」

 

当時は、清国による属国関係が終了したかと思ったら、ロシアによる朝鮮への干渉が強くなり、韓国の一進会は、ロシアによる屈辱的な干渉を非難していました。

 

日本は、日露戦争で10万人の尊い日本兵の犠牲を払い、朝鮮半島からロシアを駆除したのです。

 

明治38年(1905年)11月、韓国に韓国統監府が設けられて大日本帝国の保護国となった。

 

その後、韓国を保護国扱いから合併とする意見が出始めました。

 

明治40年(1907年)7月29日、伊藤博文は、ソウルで「日本は韓国を合併するの必要なし。合併は甚だ厄介なり。韓国は自治を要す。」

と新聞記者たちを前に演説。

 

伊藤博文は、韓国に対し、保護国化による一時的な統治で充分であると考え、併合反対の立場を取っていた。

 

しかし、明治42年(1909年)10月26日、その日韓併合に反対派の伊藤博文が、韓国のテロリストによって暗殺されてしまいました。

 

伊藤博文が暗殺された後、一進会は、明治42年(1909年)12月、韓日合邦建議書を大韓帝国の首相李完用に送り、日本と韓国の合邦を要請。

 

一進会の李容九(り・ようきゅう)は、一進会の会員100万人の声明と称して、次のように述べています。

 

「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。

 

また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。

 

韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。

 

今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。

 

我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、我々も一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」

と。

 

そして、韓国と日本の対等合邦を要求しました。

 

その結果、明治43 年(1910年)8月29日、日韓併合が実現します。

 

話をハングルに戻します。

 

大正元年(1912年)から「ハングル」という呼称が文献上に初めて現れます。

 

朝鮮総督府は、ハングルではなく「諺文」(おんもん)と呼び、大正元年(1912年)に普通学校用諺文綴字法(おんもんていじほう)を制定。

 

これは、朝鮮語の初めての正書法でした。

 

大正9年(1920年)からは併合下でタクチ本が多数出版。

読書が朝鮮半島で大衆化・近代化する決定的な契機になった。

 

タクチ本とは、日韓併合時代に、朝鮮で普及した安い本で、表紙がめんこ(タクチ)のようにカラフルだったので、このように呼ばれました。

 

大正10年(1921年)には周時経の弟子らが朝鮮語研究会を結成。

同じ年に、朝鮮総督府は「普通学校用諺文綴字法(おんもんていじほう)大要」を定めました。

 

さらに、児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のため、新正書法の作成作業にとりかかり、昭和5年(1930年)、朝鮮総督府は、諺文綴字法(おんもんていじほう)を制定。

 

昭和8年(1933年)、朝鮮語学会(現・ハングル学会)が、朝鮮語綴字法統一案を定めました。

 

現在の韓国でのハングル正書法(1988年)は、この統一案をもとに改定したものとなります。

 

井上角五郎の蒔いた種が、日韓併合期間中に育っていき、朝鮮全土に、ハングルが普及することになりました。

 

かつて、師匠の福沢諭吉に反対されたのにもかかわらず、

「先生がお教え下さったハングルの普及のため是非とも行かなければなりません」

と語り、ソウルに渡った井上角五郎。

 

彼の朝鮮独立とハングルの普及にかける思いが、見事に形となりました。

 

中国共産党は、かつて日本に対する戦争賠償請求を放棄すると発表しました。

 

中国共産党は、とても懐の深い尊大な政府であると考える人もいるようです。

 

しかし、それは本当でしょうか?

 

昭和47年(1972年)9月29日、日本と中国共産党との間で、”日中共同声明”が発表されました。

 

その声明の第5条には次のように書かれています。

 

「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」

 

日本が大東亜戦争を戦っていた連合国は、米国、英国、中華民国(蒋介石)、フランス、ソ連の5カ国となります。

 

そのうちのソ連は、8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して侵略。

 

翌日10日に日本がポツダム宣言を受諾する旨をスイスを経由して連合国に打電したにもかかわらず、その後も降伏し武装解除した日本に対して侵略を続けました。

 

中国については、蒋介石率いる国民党軍を相手に日本軍は戦っていたのであり、その蒋介石が建国した中華民国政府が、連合国の一員として認められていました。

 

昭和20年9月2日の戦艦ミズーリの艦上で行われた降伏文書調印式において、著名したのは、中華民国政府の代表徐永昌(じょ・えいしょう)でした。

 

降伏文書とは、大日本帝国と連合国との間で交わされた、休戦協定です。

 

したがって、戦争賠償請求権は、中華民国政府にあり、中国共産党政府にはありません。

 

また、国連の常任理事国にも、中華民国政府が入っており、中国共産党政府は、常任理事国ではありませんでした。

(中国共産党政府が常任理事国に入ったのは、ニクソン米国大統領の働きにより、昭和46年(1971年)10月になってからです。)(ニクソン・ショック)

 

昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約の締結においても、中国共産党政府は会議への参加の招待をされませんでしたので、署名をしてません。

 

昭和27年(1952年)8月5日に日華平和条約が発効。

 

この条約の議定書において、次のように規定されています。

「中華民国は、日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、サン・フランシスコ条約第14条(a)1に基づき、日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する。」

 

役務の利益とは戦争補償のことを言います。

 

「中国には『怨みに報ゆるに徳を以てす』という伝統がある。」

と論語から引用した言葉を使って、蒋介石は、戦争賠償請求権を放棄したと言われています。

 

怨みに報ゆるに徳を以てすとは、ひどい目にあって怨みを抱くような相手であっても、仕返しをするのではなく、 許しの心で、あたたかく接するべきである、という意味です。

 

昭和47年(1972年)9月29日、”日中共同声明”に基づき、昭和53年(1978年)8月、日中平和友好条約が締結。

 

この平和条約締結より、日本は、中国共産党に対して、ODA(政府開発援助)や円借款など、莫大なお金を援助することになりました。

 

中国共産党は当初、戦争賠償請求を日本に要求していました。

 

しかし、それではいつまでたっても日本との交渉がまとまらないと判断したため、一転して、戦争賠償請求を放棄するという態度に出ました。

 

それにより、日中国交正常化交渉がまとまり、日中共同声明、それに続く日中平和友好条約の締結のなったのです。

 

中国共産党は、かつて日本に対する戦争賠償請求を放棄すると発表した背景には、その先にある、ODA(政府開発援助)や円借款などによる莫大な経済援助を見込んでいたのです。

 

昭和47年(1972年)9月29日、日本と中国共産党との間で、”日中共同声明”が発表されました。

 

この声明は、日本の田中角栄首相、大平外相と、中国共産党の毛沢東、周恩来らとの間で交わされ、日中国交正常化に向けた交渉が行われた際に、発表されたものです。

 

この声明は9項目からなり、その第3項には次のように書かれています。

 

「中華人民共和国は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国の立場を十分理解し、尊重し、”ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する”。」

 

”ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する。”

とあります。

 

ポツダム宣言第8項には、”カイロ宣言の条項は履行され”、また、日本の主権は本州、北海道、九州、四国並びに我らが決定する諸小島に局限されなければならない。」

とあります。

 

カイロ宣言には、「台湾および澎湖島のような日本国が清国から盗み取った全ての地域を中華民国に返還することにある。」

と書いてあります。

 

つまり、中国共産党は、このカイロ宣言を盾にして、台湾は中国のものである、と主張しているのです。

 

それを、日本にも認めされたのがこの”日中共同声明”ということになります。

 

しかし、カイロ宣言はその宣言自体が、有効な公式文書とは言えません。

 

くわしくは、

http://ameblo.jp/hirohirobbb2000/entry-12249573715.html

を参照。

 

昭和30年(1955年)2月1日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは英国の国会答弁で、

 

「『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できない」

と述べています。

 

カイロ宣言の当事者の一人であるチャーチルが、その宣言の内容を否定しているのです。

 

この日中共同宣言により、昭和27年(1952年)8月5日に、日本と台湾が結んだ日華平和条約が失効してしてしまい、国交が断絶してしまいました。

 

日本は、”日中共同声明”により、台湾との国交を断絶したばかりでなく、”1つの中国”という中国共産党の主張を認めてしまったのです。

 

日本は、”日中共同声明”により、親日国である台湾を切り捨ててしまったのです。

 

そして、”日中共同声明”に基づき、昭和53年(1978年)8月12日、反日国である中国共産党と、日中平和友好条約を締結しました。

 

 

大東亜戦争において、日本は世界征服を企んでいたという人がいます。

本当でしょうか?

 

昭和20年5月にドイツが降伏。その後の7月に、ドイツ郊外のポツダムという地域で、連合国首脳が集まりました。

 

4月に死亡したルーズベルトに引き継いで大統領となったトルーマンとチャーチル、スターリンらが、ドイツの戦後処理について話し合いました。

 

蒋介石はドイツと戦っていなかったので、ポツダムには行きませんでした。

 

この会談では、日本については主要議題とはなりませんでしたが、トルーマンは、少しでも早く日本に対して降伏勧告をしたいと考えていました。

 

その後、チャーチルは選挙で敗退したので英国に急遽帰国。チャーチル帰国後の昭和20年7月26日、トルーマンは、日本に対する戦争終結を宣言したポツダム宣言を発表。

 

そのポツダム宣言は、チャーチルの後任のアトリー英国首相と蒋介石の署名を、トルーマンが代理署名しました。

 

スターリンは、7月26日の時点では日本に参戦していなかったので、著名しませんでした。

 

ポツダム宣言は13か条からなりますが、そのうちの第6条には次のように書かれています。

 

「我々は無責任な軍国主義が世界中から一掃されるまでは、平和、安全及び正義の新たな秩序が生まれることはありえないと主張するものである。

 

それゆえに、日本国民を騙し、これによって世界征服をしようという過ちを犯したものどもから、その権力や勢力を永久に取り除かなければならない。」

 

”日本国民を騙し”というのは、日本降伏後、占領政策の基本方針となった、「2分法」の発想になります。

 

「2分法」とは、日本軍国主義の犠牲者となった日本国民とアジアの人々は被害者である。そして、日本軍国主義は、平和を脅かす危険な侵略思想を持った、加害者である。

 

米国を始めとする連合国は、その加害者である日本軍国主義を駆除した解放軍である。

 

というものです。

 

この「2分法」のモデルとなったのは、中国で、日本兵士反戦同盟(のち日本人民解放連盟に名称変更)が、昭和15年(1940年)に延安に設置され、「日本労農学校」や「第二学校」などの捕虜収容所において、日本兵捕虜に対して行われていた思想改造でした。

 

日本共産党の野坂参三はそこで校長を務めていました。

 

「2分法」により、戦後の占領期間、日本国民は、思想改造を施され、70年以上経過した今でも、その思想改造(マインドコントロール)を抜け出すことができずにもがき苦しんでいます。

 

また、”世界征服をしようという過ちを犯したものどもから、その権力や勢力を永久に取り除かなければならない。”

とあります。

 

大東亜戦争を戦っていた日本は、その大義名分を次のように宣言しています。(昭和18年11月6日 大東亜共同宣言)

 

「世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。

けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、

東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。

つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。

そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、

その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与したいと考えます。

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。

3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。

4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。

5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。」

 

以上の”大東亜共同宣言”にあるように、かつての日本は東南アジア諸国(現在のASEAN諸国)を、植民地にして搾取していた欧米列強に対し、そのアジアの解放を実現するために、勇敢に戦っていたのです。

 

決して、世界征服を企んで戦っていたのではありません。