”国を思う心”
寛政11年(1799年)、間宮林蔵は、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され同地に来ていた、伊能忠敬に測量技術を学びました。
そして、享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製しました。
文化5年(1808年)春、間宮林蔵は、江戸幕府の命令により松田伝十郎に従って樺太(からふと)を探索することとなりました。
樺太の南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌ人を雇い、松田伝十郎は西岸から、間宮林蔵は東岸から樺太の探索を進めました。
間宮林蔵は、多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、それ以上進む事が困難であった為、
再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上、北樺太西岸の”ノテト”で松田伝十郎と合流しました。
松田と共に北樺太西岸ラッカに至り、樺太が島であるという推測をします。
そして、そこに「大日本国国境」の標柱を建て、文化6年6月(1809年7月)、北海道の宗谷に戻りました。
この時の調査報告書を提出した、間宮林蔵は翌月、更に奥地への探索を願い出てこれが許されると、単身樺太へ向かいました。
間宮林蔵は、現地でアイヌの従者を雇い、再度樺太西岸を北上し、第一回の探索で到達した地よりも更に北に進んで、黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸”ナニオー”まで到達しました。
民家が5、6戸ほどしかない、寂しい集落です。少し南の”ノテト”
を4月にたって、ここまで来るの間に調べたところでは、樺太とダッカンの陸地とが、両方から迫りあっていました。
海の水は、みんな南へ南へと流れています。小さなサンタン船を使って乗り出しても、格別、骨が折れるというほどではありません。
潮の流れはいたって緩やかだからでした。
ところがナニオーから先は、だんだん海が広がっています。
海水は北のほうへと流れます。しかも、山のような大波が激しく噛み合って、船をここから進めることはもうできなくなってしまいました。
間宮林蔵は、ちょうど池の底からでも沸き起こって来るような、轟々という、ものすごい海鳴りを聴きながら、この大自然の姿をじっと見つめて動こうとしませんでした。
「そうだ、やっぱり海峡だ」
と、間宮林蔵は顔を輝かせながら、思わず心の中で叫びました。
文化5年(1808年)春、松田伝十郎といっしょに渡ってから、2回目の樺太探検です。
しかも今度は一人でした。
今初めて、間宮林蔵は黒竜江(アムール川)の濁流が狭い海峡に流れてきて、ここから北と南へ潮流を二分させている光景を目の当たりに見たのでした。
その上、海峡を越えて海が次第に広く開ける様子も、はっきりと突き止めることができたのです。
2年目を数える、長い苦しい旅の疲れも、飢えを忍んだことも、みんな、このひとときの感激によって、消え失せました。
けれども、林蔵はここで気を緩めるような男ではありません。
「ロシアの国境まで、奥地を探検するのが北辺の風雲急なこの時勢に、自分に与えられた使命ではないか?」
そう思うと、すぐにでも境界を見定めるために、出発したいという気持ちに駆り立てられました。
もう、船も進まない先へ行くのですから、手落ちなく準備をしなければなりません。
色々な事情で、間宮林蔵はしばらくの間、樺太北部に居住するギリヤーク人(ニヴフ)たちと一緒に暮らすことに決めました。
魚も取れば狩りもしました。木も切れば、網もすきました。
こうして、現地人たちと暮らして話をしている間に、樺太が離れ島であって、他の国と境界を隣り合わせにしている土地ではないということが、いよいよ確かになりました。
ギリヤーク人(ニヴフ)たちは、海を越えてダッタンへ渡れば、ロシアの国境がわかるといいます。
「よし、それではダッタンへ行こう」
と、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、間宮林蔵は固く決意しました。
土地の酋長コー二が、品物交換のために大陸へ渡ろうとしていました。この良い機会を逃しては、二度と大陸へ行くことはできないと思ったので、行く度となく、林蔵はコーニに、
「どんなことをしても、我慢して見せる、ぜひ、連れて行ってもらいたい」
と熱心に頼み込みました。そうして、やっとの事、林蔵が船をこぐという約束で遠くダッタンまで出かけました。
途中の苦しみは、これまでにも増して、例えようのないものでした。
ギリヤーク人らと共に海峡を渡って調査した結果を、文化8年(1811年)1月、『東韃地方紀行』、『北夷分界余話』としてまとめて、地図と共に江戸幕府に提出しました。
林蔵は生死を越えて、ただ国を思う真心から、外敵に侵されようとしている北辺の守りのために、身を投げ出したのでした。
間宮林蔵の願いは、見事に達せられました。
(参考図書:「国民学校修身教科書 初等科』