「反省と努力」
広瀬淡窓(ひろせ たんそう)先生は、豊後(大分県)の人であります。「咸宜園」(かんぎえん)という家塾を開いて、80年間で4、800人の人が学びました。
「咸宜園」とは、文化2年(1805年)、長福寺というお寺の一角を借りて塾を開いたのが始まりで、江戸時代の中でも日本最大級の私塾に発展しました。
塾生は遠方からの者も多かったため、寮も併設された。全国68ヶ国の内、66ヶ国から学生が集まった。
身分・出身・年齢などのバックグラウンドにとらわれず、全ての塾生が平等に学ぶことができるようにされて、明治30年(1897年)まで存続しました。
幼い時から学問を好み12、3歳の頃には、もう一通り漢籍を読み、詩文も上手に作れるようになりました。
ところが、15、6歳の頃から、とかく病気がちになっていきました。病床にありながら、よくよく考えてみると、これまで気づかなかった自分の性質や行いに、いろいろよくないところがあります。
この反省が元になって、18歳の時に、心身を錬磨し、是非とも国家のお役にたつ人物になろうと、固い決心をしました。
24歳の時から、家塾を開いて弟子を教えるようになりました。これがのちの咸宜園であります。
しかし、その後も、やはり病気がちであったので、40歳になった時に、その志の十分に果たされないのを深く恥じ、「自新録」という書を作って、その中に自分の戒めになることを書き記し、絶えずこれを机上に置いて、朝夕その通り実行するように努められました。
それでもまだ、満足することのできなかった先生は、54歳になって、もっと厳しく自分を鞭打つため、日々の行いを、必ず記録にとどめておくこととし、善行1万に達するのを目当てに、自分を練上げようと、心に誓われました。
こうして、「万善簿」という帳簿を作り、その日その日の言行を反省して、一々書き留めました。
人に善業を勧め、人のために世話をし、親切に人を教え、親類と親しむことなどを善と教え、過食・病気・怒り・殺生などを悪と教えました。
善は白丸、悪は黒丸で書き入れ、月末になると、その功過を調べるようにされました。
うまずたゆまず、善行を積むことに努めて、12年7ヶ月がたちました。
善の数から、悪の数を差し引いてみると、残りの善の数は、果たして1万を超えています。
先生の年来の望みは、こうして達することができました。
その時、67歳の高齢であった先生は、それでもまだ安心することができず、さらに同じ方法で反省の工夫を続け、75歳で亡くなる(2年ほど前)まで、1日として怠ることがありませんでした。
半生は、病気がちであった先生も、こうした努力によって、その長寿を保つことができ、しかも、その人柄が次第に円熟したものとなったのであります。
(参考図書:『国民学校 高等科 教科書「修身」』)