昭和20年5月8日ドイツ降伏の3ヶ月後の8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本に宣戦布告。
8月9日の午前0時に160万に上るソ連軍が満州と南樺太の国境を越えて怒涛のごとく侵略してきました。
9月2日ミズーリ号の艦上での降伏文書調印までの、たった24日間の参戦で、満州、千島列島、南樺太を日本からぶん取って行きました。
24日間と言っても、日本軍は8月10日にポツダム宣言を受諾する旨をスイスを通じて連合国に打電し、8月15日に降伏して武装解除してましたので、数日間という極めて短期間に、広大な領土をぶん取って行ったことになります。
この国際法を無視した蛮行を行ったソ連。
また、国際法無視の蛮行はソ連だけではなく米国も行いました。
それは、日本の主要都市を軍事施設だけでなく、民間人を含め無差別爆撃したこと。さらに、広島、長崎に原爆を投下したこと。
これはホロコーストであり、国際法を完全に無視した蛮行であります。
米国はこの件について、過去70年以上にわたり、日本に対し、一度も謝罪と賠償をしたことがありません。
戦後の日本は、国際法をまともに守ることができないような米国、ソ連、中国共産党が常任理事国となっている国際連盟に盲従することを国是としています。
では、戦前までの日本はどうだったでしょうか?
鎖国政策をとっていた江戸幕府が開国し、その幕府を倒した明治政府は、欧米列強に追いつけ追い越せと、富国強兵政策をとっていきました。
明治38年(1905年)9月5日、日露戦争に勝利するほどに近代国家を建設した日本は、世界の欧米列強の中で一等国として認識されるようになりました。
大正8年(1919年)、日本は、第一次世界大戦後に開かれた、パリ講和会議の国際連盟委員会で「人種的差別撤廃提案」の議案を提出しましたが、4月に米国、イギリスなどの反対で否決。
世界会議の場で、人種的差別撤廃の提案をしたのは日本が初めてでした。
大正9年(1920年)に発足した国際連盟の加盟国は、63カ国。これはアジアやアフリカのほとんどが植民地支配を受けていたため、独立国家が少なかったためです。
そのような中、同じアジアの有色人種である日本は、国連に独立国として加盟。
しかも常任理事国として加盟しました。
その後も日本は軍事力の拡大方針を緩めなかったため、大正10年(1921年)11月11日から、ワシントンにて開かれた海軍軍縮会議で、米国、英国との艦艇の保有比率を日本が不利となるように決められてしまいました。
その後、大正13年(1924年)7月1日、米国で排日移民法が成立し、米国への日系移民が禁止されてしまいます。
昭和16年12月8日、米国、イギリスと宣戦布告。
その”米国及び英国に対する宣戦の詔”には次のように書かれています。
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米国及び英国に対する宣戦の詔(口語訳)
「天祖の助けを得、万世一系、皇統普遍を持って皇位につく大日本帝国天皇は、明らかに至誠忠勇なる国民に示します。
私は、ここに、米英2国に対して、宣戦を布告します。わが陸海の将兵は全力を振るって交戦に従事し、全ての官吏は訓令を遵守して職務を全うし、
国民はそれぞれにおいて本文を尽くし、すべての国民が心を一つにして総力を結集し、戦果に見込違いが生じないよう戦時体制を整えてください。
そもそも、東亜の安定を確保し、もって、世界の平和に寄与することは、元より明治天皇の御心(四方の海皆同胞と思う世なぞ波風の立ちさわぐらむ)であり、
大正天皇がその訓を継承し、その教えを皇道となすべきことは、私の硬く心に刻むところであります。
しかも、世界各国と外交を盛んにし、共に繁栄と平和を享受することは、これまた、我が国が常に外交の基本としてきたところであります。
今や、不幸にして米英両国と戦闘を開くに至ったことは、止むに止まれぬものがあってのことであり、この戦争がどうして私の望むところでありましょうか?
中華民国政府はかねてより、我が国の真意を理解しようとせず、みだりに事を構え、東亜の平和を撹乱し、ついに、我が国が武器を取るに至らしめ、ここに4年余りが経ちました。
幸いにも、国民政府に政権交代があったので、我が国は、これと友好関係を結び、お互いに協力関係を築くこととなりましたが、重慶に残存する蒋介石は、米英に庇護を頼み、内乱を続け兄弟喧嘩を改めず、
また、米英両国は、残存政権を支援して東亜の撹乱を助長し、平和の美名に隠れて、東洋制覇の野望をあらわにし、そればかりか、同盟国を誘い、我が国周辺において軍備を増強して挑戦し、
さらに、我が国の平和的通商に対してもあらゆる妨害を講じ、ついに経済断交に及び、我が国の生存に重大なる脅威を加えてきました。
我が日本政府は、事態を平和的に回復させようと、隠忍自重を持って堪えてきましたが、彼ら(米国)には譲歩の精神は微塵もなく、
いたずらに時局の解決を引き伸ばし、この間、かえって経済的、軍事的脅威を増幅し、持って、我が国を屈服させようとしてきました。
このような事態に直面して、もはや進退窮まり、東亜の安定に関する我が国の積年の努力は、悉く水泡に帰し、我が国の存立もまた、
絶体絶命の時を迎え、事ここに到り、我が国は、今や、自存自衛のため、決然と立って一切の障害を破砕する以外に生き延びる道はなくなりました。
先祖・歴代の天皇の神霊を仰ぎ、私は、国民の忠誠心と勇気を信じ、皇祖皇宗の遺徳をおし広め、速やかにこの禍根を取り除き、
東亜に永遠の平和を確立させ、持って、我が国の名誉を世界に示していく所存であります。
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以上、米国及び英国に対する宣戦の詔。
米国による経済封鎖と、日米交渉において全く妥協する考えがない、米国側の態度(ハルノート)により、
”窮鼠(キュウソ)猫を噛む” 状態になってしまった日本は、米国、英国に対し宣戦布告をしました。
窮鼠(キュウソ)猫を噛むとは、猫に追い詰められたネズミが、黙って食べられる前に、最後の一撃を加えるという意味です。
その後、昭和18年11月6日、東京で、自由インド仮政府、タイ、ビルマ、フィリピン、満州国などの代表を招いて大東亜会議を開催し、”大東亜共同宣言”を発表しました。
その大東亜共同宣言には、次のように書かれています。
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大東亜共同宣言
「世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。
けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、
東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。
つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。
そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、
その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与したいと考えます。
1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。
3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。
4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。
5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。」
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以上が、大東亜共同宣言となります。
この宣言が発表された当時は、東南アジア諸国(ASEAN)は、欧米列強からの侵略を受け、植民地化されて搾取されていました。
そして、東南アジア諸国の人々は、白人国家に対して独立することができるなどと考えてもいませんでした。
それほど、力関係が明らかであり、黄色人種は白人に逆らうことができない、ということが常識でした。
その常識を打ち破った世界で唯一の国が、日本だったのです。
大東亜共同宣言では、欧米列強からの侵略を受け搾取されている東南アジアの国々から、欧米列強を駆使くし、独立を勝ち取るという内容となっています。
昭和20年8月15日、日本は力及ばず、連合国に対し無条件降伏。
しかし、その後、東南アジア諸国は次々に欧米列強に対して独立戦争を行い、独立していきました。
昭和18年11月6日、日本主導でおこなった大東亜共同宣言は、その目的が達成されたのです。
しかし、昭和20年9月から7年間、マッカーサーGHQの、2分法による思想改造(ウォー ギルト インフォメーション プログラム)(WGIP)により、見事に覚醒した方々(左翼)は、日本はアジア諸国に対して侵略をして、多くの犠牲を出して迷惑をかけた、と主張しています。