子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -35ページ目

昭和18年カイロにて、連合国のルーズベルトとチャーチル、蒋介石が集まり、日本に対する戦後処理や世界秩序について話し合われました。

そこで、カイロ宣言が発表されました。

 

昭和20年5月にドイツが降伏。その後の7月に、ドイツ郊外のポツダムという地域で、連合国首脳が集まりました。

 

4月に死亡したルーズベルトに引き継いで大統領となったトルーマンとチャーチル、スターリンらが、ドイツの戦後処理について話し合いました。

 

蒋介石はドイツと戦っていなかったので、ポツダムには行きませんでした。

 

この会談では、日本については主要議題とはなりませんでしたが、トルーマンは、少しでも早く日本に対して降伏勧告をしたいと考えていました。

 

その後、チャーチルは選挙で敗退したので英国に急遽帰国。チャーチル帰国後の昭和20年7月26日、トルーマンは、日本に対する戦争終結を宣言したポツダム宣言を発表。

 

そのポツダム宣言は、チャーチルの後任のアトリー英国首相と蒋介石の署名を、トルーマンが代理署名しました。

 

スターリンは、7月26日の時点では日本に参戦していなかったので、著名しませんでした。

 

ポツダム宣言は13か条からなりますが、そのうちの第6条には次のように書かれています。

 

「我々は無責任な軍国主義が世界中から一掃されるまでは、平和、安全及び正義の新たな秩序が生まれることはありえないと主張するものである。

 

それゆえに、日本国民を騙し、これによって世界征服をしようという過ちを犯したものどもから、その権力や勢力を永久に取り除かなければならない。」

 

”日本国民を騙し”というのは、日本降伏後、占領政策の基本方針となった、「2分法」の発想になります。

 

「2分法」とは、日本軍国主義の犠牲者となった日本国民とアジアの人々は被害者である。そして、日本軍国主義は、平和を脅かす危険な侵略思想を持った、加害者である。

 

米国を始めとする連合国は、その加害者である日本軍国主義を駆除した解放軍である。

 

というものです。

 

この「2分法」のモデルとなったのは、中国で、日本兵士反戦同盟(のち日本人民解放連盟に名称変更)が、昭和15年(1940年)に延安に設置され、「日本労農学校」や「第二学校」などの捕虜収容所において、日本兵捕虜に対して行われていた思想改造でした。

 

日本共産党の野坂参三はそこで校長を務めていました。

 

「2分法」により、戦後の占領期間、日本国民は、思想改造を施され、70年以上経過した今でも、その思想改造(マインドコントロール)を抜け出すことができずにもがき苦しんでいます。

 

また、”世界征服をしようという過ちを犯したものどもから、その権力や勢力を永久に取り除かなければならない。”

とあります。

 

大東亜戦争を戦っていた日本は、その大義名分を次のように宣言しています。(昭和18年11月6日 大東亜共同宣言)

 

「世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。

けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、

東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。

つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。

そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、

その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与したいと考えます。

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。

3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。

4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。

5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。」

 

以上の”大東亜共同宣言”にあるように、かつての日本は東南アジア諸国(現在のASEAN諸国)を、植民地にして搾取していた欧米列強に対し、そのアジアの解放を実現するために、勇敢に戦っていたのです。

 

決して、世界征服を企んで戦っていたのではありません。

 

また、ポツダム宣言の第8条には次のように書かれています。

 

「カイロ宣言の条項は履行され、また、日本の主権は本州、北海道、九州、四国並びに我らが決定する諸小島に局限されなければならない。」

 

”カイロ宣言の条項は履行され”とありますが、カイロ宣言はその宣言自体が、有効な公式文書とは言えません。

 

くわしくは、

http://ameblo.jp/hirohirobbb2000/entry-12249573715.html

を参照。

 

昭和30年(1955年)2月1日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは英国の国会答弁で、

「『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できない」

と述べています。

 

カイロ宣言の当事者の一人であるチャーチルが、その宣言の内容を否定しているのです。

 

昭和47年(1972年)9月29日、日本と中国共産党との間で、日中共同声明が発表されました。

 

この声明は、日本の田中元首相、大平元外相と、中国共産党の毛沢東、周恩来との間で交わされ、日中国交正常化に向けた交渉が行われた際に、発表されたものです。

 

この声明は9か条からなり、その第3条には次のように書かれています。

 

「中華人民共和国は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する。」

 

”ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する。”

とあります。

 

 

ポツダム宣言第8項には、”カイロ宣言の条項は履行され”

とあります。

 

カイロ宣言には、「台湾および澎湖島のような日本国が清国から盗み取った全ての地域を中華民国に返還することにある。」

と書いてあります。

 

つまり、中国共産党は、このカイロ宣言を盾にして、台湾は中国のものである、と主張しているのです。

 

それを、日本にも認めされたのがこの”日中共同宣言”ということになります。

 

この日中共同宣言により、それまで、日本と台湾が結んでいた平和条約が失効してしまいました。

 

また、日中共同宣言の第5条には次のように書かれています。

 

「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」

 

この条文を読む限り、中国共産党はとても懐の深い尊大な政府であると思いがちです。

 

しかし、それは本当でしょうか?

 

日本が大東亜戦争を戦っていた連合国は、米国、英国、中華民国(蒋介石)、フランス、ソ連の5カ国となります。

 

そのうちのソ連は、8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して侵略。翌日10日に日本がポツダム宣言を受諾する旨をスイスを経由して連合国に打電したにもかかわらず、9月2日まで降伏した日本相手に侵略を続けました。

 

中国については、蒋介石率いる国民党軍を相手に日本軍は戦っていたのであり、その蒋介石が建国した中華民国政府が、連合国の一員として認められていました。

 

昭和20年9月2日の戦艦ミズーリの艦上で行われた降伏文書調印式において、著名したのは、中華民国政府の代表徐永昌(じょ・えいしょう)でした。

 

降伏文書とは、大日本帝国と連合国との間で交わされた、休戦協定です。

 

したがって、戦争賠償請求権は、中華民国政府にあり、中国共産党政府にはありません。

 

また、国連の常任理事国にも、中華民国政府が入っており、中国共産党政府は、常任理事国ではありませんでした。

 

(中国共産党政府が常任理事国に入ったのは、ニクソン米国大統領の働きにより、昭和46年(1971年)10月になってからです。)(ニクソン・ショック)

 

昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約の締結においても、中国共産党政府は会議への参加の招待をされませんでしたので、署名をしてません。

 

昭和27年(1952年)8月5日に日華平和条約が発効。

この条約の議定書において、次のように規定されています。

 

「中華民国は、日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、サン・フランシスコ条約第14条(a)1に基づき、日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する。」

 

役務の利益とは戦争補償のことを言います。

 

「中国には『怨みに報ゆるに徳を以てす』という伝統がある。」

と論語から引用した言葉を使って、蒋介石は、戦争賠償請求権を放棄したと言われています。

 

怨みに報ゆるに徳を以てすとは、ひどい目にあって怨みを抱くような相手であっても、仕返しをするのではなく、 許しの心で、あたたかく接するべきである、という意味です。

 

日本は、朝鮮を併合した36年の間、朝鮮人を奴隷として扱い、搾取したと主張する人がいます。

本当でしょうか?

そのような事を言う人が、根拠としてあげるのが、カイロ宣言です。

カイロ宣言とは、昭和18年11月にチャーチルとルーズベルトと蒋介石が集まり、今後、連合国として対日戦略をどのようにとっていくかということを決めた会談となります。

ただ、この宣言には日付も時間もなく、参加した3首脳の署名もなければ、事後による追認もないので、コミュニケではなく、単なるプレスリリース(報道機関に向けた発表)に過ぎないと指摘されています。
(“陳水扁総統「カイロ宣言」は署名がないニセモノ”. 台北駐日経済文化代表処 (2008年3月18日)).

また、昭和30年(1955年)2月1日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは国会答弁で、
「『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できない」
と述べています。

カイロ宣言の当事者の一人が、このように宣言の内容を否定しているのです。

カイロ宣言という公式文書は存在せず、会談の内容を書いたメモが残っているのみです。

そのメモには次のように書かれています。

「三大同盟国は、日本国の侵略を抑制し、かつこれを罰するために、今次の戦争を行なっている。

同盟国は、自国のためには何らの利得も求めず、また領土拡張の何らの念も有しない。

同盟国の目的は、1914年の第一次世界大戦の開始以後、日本国が略奪し、または占領した太平洋における全ての島々を日本国から剥奪すること、

並びに満州、台湾および澎湖島のような日本国が清国から盗み取った全ての地域を中華民国に返還することにある。

日本国は、また、暴力および強欲により日本国が略奪した他の全ての地域からも駆逐される。

前期の三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものにする決意を有する。

以上の目的で、三同盟国は、同盟諸国中の日本国と交戦中の諸国と協調し、日本国の無条件降伏をもたらすのに必要な重大かつ長期間の行動を続行する。」

以上のように、日本が昭和18年(1943年)当時、自国の領土としていた地域で、本州、四国、北海道、九州の4島以外の全てを、略奪し、盗み取ったと決めつけています。

また、台湾や渤海諸島、太平洋の島々、満州と言った、日本が不当に略奪した地域から日本を追い払い、それぞれの元々の国に返還する、と書かれています。

略奪し盗み取った地域とありますが、本当に日本が略奪し、盗み取ったのでしょうか?

まず、台湾や渤海諸島は、日本が清に勝利した後、明治28年(1895年)4月17日に締結された下関条約にて、日本に割譲すると正式に認められた、日本の領土となります。

下関条約の第一条は次のように定められています。

「清国は、朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国であることを確認する。よって独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は、永遠に廃止する。」

朝鮮国は、中華帝国による長年の冊封政策により、中国(清国)に対して、貢や献上などを行っていました。

冊封政策とは、称号や任命書などの授受を仲介として、中華帝国と近隣諸国との君臣関係を言います。

朝鮮国は、宗主国である、中華帝国(清国や明国など)に対する朝貢国でした。

つまり、中国の属国ということになります。

それを日本政府は、はっきりと”朝鮮国は独立国家である”と明示し、従来の冊封政策をとらないこと、と条約の条文に明らかにしたのです。

そこまでして、日本政府は朝鮮の独立を支援していたのです。

下関条約の第二条は次のように定められています。

「清国は、遼東半島、台湾、膨湖諸島など付属施設の主権並びに当該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割譲する」

つまり、日本政府は、下関条約において、遼東半島、台湾、膨湖諸島など付属施設の主権の割譲を、永遠に認められたのです。

この下関条約の締結にあたり、明治天皇は次のように条約案を奏上(そうじょう)(天皇の意見)しています。

「将来、日清両国人民の間において怨恨の後を絶ち、従って我が国一視同仁(いっしどうじん)の主義を広く世界に発揚セシムルの趣意に基づきたり」と。

一視同仁とは、すべての人を平等にみて仁愛を施すこと、です。

”朝鮮国は独立国家である”

それまでの清国の属国であった朝鮮国を、「一視同仁」の心で当時の日本政府は、この条文の第一条に明記したのです。

次に中国大陸の大連や旅順などは、日露戦争に勝利した後の、明治37年(1904年)8月29日に締結されたポーツマス条約において、日本に割譲すると正式に認められた、日本の領土となります。

ポーツマス条約の第2条には次のように定められています。

「ロシア政府は、日本国が韓国において政治上、軍事上、経済上、極めて大きな利益を持つことを承認する。

そしてロシア政府は、日本政府が韓国に対して必要と考える指導、保護及び監督を行うことを邪魔、もしくは干渉しない。」

この条文に基づいて、日本政府は韓国(朝鮮半島)を保護国としました。

このことは、カイロ宣言時の連合国の一員であったロシア(ソ連)が承認したことでした。

ポーツマス条約の第5条から第7条には次のように定められています。

第5条
「ロシア政府は、清国政府の承認を得た上で、遼東半島の旅順、大連とその付近の領土と領海の租借権、またそれに関連するすべての権利を、日本政府に譲り渡す」

第6条
「ロシア政府は、長春、旅順間の鉄道、それに付随するすべての権利、また鉄道に属するすべての炭鉱を、清国政府の承認を得た上で、すべて日本政府に譲りわたす」

第7条
「ロシア政府は、サハリン(樺太)島南部を、そこにおける公共施設、財産を含めて永久に日本政府に譲渡し、そこにおける日本政府の観山な主権を認める。譲渡される北方の境界線は北緯50度と定める。」

下関条約で日本に割譲された遼東半島ですが、その後の三国干渉により、ロシアにとられてしまい、再び、ポーツマス条約において、遼東半島始め、大連、南樺太などを割譲しました。

決して、略奪や盗み取った訳ではありません。

それまでドイツが領有していた赤道以北の南洋諸島は、第一次世界大戦でドイツとの戦いで勝利した日本が、大正8年(1919年)6月28日に締結されたヴェルサイユ条約において、

その後大正9年(1920年)に新設される国際連盟の委託により、正式に統治することが決まりました。

また、ドイツが持っていた山東省の租借権も日本に引き継がれました。

カイロ宣言において、連合国が日本と戦う大義名分を、次のように宣言しています。

「同盟国の目的は、1914年の第一次世界大戦の開始以後、日本国が略奪し、または占領した太平洋における全ての島々を日本国から剥奪すること、

並びに満州、台湾および澎湖島のような日本国が清国から盗み取った全ての地域を中華民国に返還することにある。」

とあります。

しかし、これらの地域はすべて、ヴェルサイユ条約、ポーツマス条約、下関条約において定められた条文に従って、正式に日本が割譲し、統治していた領土であります。

一体なにを根拠として、日本が略奪し、盗み取ったと宣言したのでしょうか?

特に第一次世界大戦は日本は連合国側にいましたので、そのヴェルサイユ条約において、ドイツから割譲され、統治することが正式に決められたのに、それが、一体どうして、”日本が略奪し、占領した”となるのでしょうか?

また、ポーツマス条約の際、日本とロシアとの講和を仲介したのは、フランクリン・ルーズベルトの5従弟(12親等)である、セオドア・ルーズベルト米国大統領でした。


フランクリン・ルーズベルトは認知症だった?

コミンテルン(第3インターナショナル)は、米国共産党員に対し、米国政府の主要な人物と信頼関係を結ぶことを指示。

民主党に潜り込んでいたアルジャーヒスらは、徐々に政府高官と信頼関係を結んでいき、ついに米国大統領からの信頼を勝ち取ることができました。

ルーズベルトは、側近においたアルジャー・ヒスや、ハリー・ホプキンスの助言だけを信頼して、戦時中、様々な決断をしていったのです。

その後、アルジャー・ヒスや、ハリー・ホプキンスは、ヴェノナ(Venona)文書でソ連スパイであったことが明らかとなりました。

ヴェノナ(Venona)文書とは、第二次世界大戦中に米国陸軍が、ソ連(モスクワ)と米国内に潜伏していた共産党スパイたちとの暗号通信を傍受していて、それを記録した文書となります。

また、コミンテルンは次のようなシナリオを描いていました。

まず日本軍と蒋介石軍を徹底的に戦わせること。決して中途半端に和平をさせてはならい。

次に、日本軍と米国を戦わせ、大日本帝国を崩壊させる。

次に中国共産党軍が、日本軍との戦いに疲弊しきった蒋介石軍と
の内戦に勝利して、中国大陸を中国共産党が支配する。

というものです。

そのシナリオ通りに実際の物事が運ぶように、ソ連スパイが活動をした結果、カイロ宣言というものが生まれたのでしょう。

ルーズベルトが日本との戦いを行う大義名分は、平和を脅かす、危険な侵略国家である日本を、中国大陸と南洋諸島から退治するというものでした。

しかし、カイロ言言にある内容はすべて、条約や国際法規といった何の根拠もない、根も葉もないデタラメなものであります。

しかも、その参加者であったチャーチルが、昭和30年2月1日の英国議会の答弁で、カイロ宣言の内容を否定しているのです。

このような史実に反する”嘘”だらけのカイロ宣言ですが、それはポツダム宣言に引き継がれ、日本はそのポツダム宣言を受託するという形で、無条件降伏をしたのです。

そして、朝鮮人は未だに、そのカイロ宣言に書いてある、
”3大国(米国、英国、中華民国)は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものにする決意を有する”
という内容を盾にして、朝鮮から搾取したと、日本を非難しています。

(参考図書:「条約で読む日本の近現代史」藤岡信勝著)
 
 
明治9年(1876年)日本と朝鮮との間で日朝修好条規が結ばれました。


これは不平等条約と言われていますが、本当でしょうか?


明治元年(1868年)12月、明治政府は、「明治天皇が徳川大君にかわり日本国を統治する」旨の外交文書を、対馬藩の宗氏を経由して釜山にある、朝鮮政府の出先機関である東ネイ府使へ届けました。

江戸幕府時代、朝鮮との外交は全て対馬藩の宗氏が行なっていましたので、明治政府が成立してしばらくの間、前例にならって対馬藩経由で交渉に当たりました。

しかし、同役所は、その外交文書の受け取りを拒否しました。
理由は、「皇上、奉勅」という文字がその文書の中で使われていたからです。

当時の李氏朝鮮は、冊封体制の下で、中華帝国を盟主とした華夷秩序の中で、第二位の位階を占めているという自尊史観(小中華思想)に凝り固まっていました。

したがって、「皇上、奉勅」という文字を使えるのは、当時の中華帝国である清国のみと考えていたのです。

明治2年(1869年)12月、日本の外務省は、佐田白茅と森山茂を朝鮮に派遣して、国書への回答を即しました。

しかし、朝鮮側は相変わらずの態度で、日本への回答をしませんでした。
日本帰国後、佐田白茅は、「朝鮮人は、固陋頑迷で、目覚める気配はない。武力を持って説得しなければ交渉はできない」と建言しました。

当時の朝鮮政権を握っていた興宣大院君は、

「西洋蛮人の侵犯に、戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てました。

現在、南朝鮮各地に慰安婦像を建てていますが、発想が似ています。

明治6年(1873年)外務省の相良正樹は、外出を禁じられていた倭館(日本公館)から東ネイ府使へ出向いて直接の会見を求めました。

倭館(日本公館)とは、江戸幕府時代の長崎の出島のようなもので、鎖国政策をとっていた朝鮮は、原則、その倭館(日本公館)からの外出を禁じていました。

東ネイ府使はその行動に激怒し、日本公館への食料停止や防疫活動の取り締まりなどを行い、日本に対し反日行動をとりました。

その結果、日本政府内では、西郷隆盛などによる「征韓論」論争が巻き起こりました。

明治8年(1875年)6月に日本政府は森山茂理事官を朝鮮に派遣しましたが、やはり交渉は決裂してしまいました。

明治8年9月20日、軍艦「雲揚」を派遣して、朝鮮半島沿岸を測量していましたが、草芝鎮台からの砲撃を受けたので、それに応戦して砲台を破壊しました。(江華島事件)

この江華島事件をきっかけとして、明治9年(1867年)2月、黒田清隆を全権大使として任命して、軍艦6隻を連れて江華島に派遣し、朝鮮側と交渉を迫りました。

朝鮮側は、清国の衙門総理からの勧めもあり、ようやく日本との交渉に応じることになりました。

条約の内容は12条からなりますが、その第一条には次のようにあります。

「第一条 ”朝鮮国は自主の国であり”、日本と平等の権利を保有する。これから、両国和親の成果を上げるため、互いに礼儀を持って接し、いささかなりとも相手国を侵略したり忌み嫌ったりしてはならない。」

”朝鮮国は自主の国であり”とあります。
これは日本側からの強い要望により第一条に記載されました。

日本側からの朝鮮に対する思いは、今までの中国(清)との冊封体制から脱却して、中国(清)の属国であることから抜け出して、自立した国として歩んでいってほしい、という願いがあったのです。

しかし、朝鮮はその意味をよく理解していませんでした。

第9条には次のようにあります。

「第9条 両国はすでに友好的な通商を経験してきた。これからも日朝商人同士の合意のもとに貿易をさせること。

両国の官史はこれにいささかも干渉しないこと。また貿易の制限をしないこと。

両国の商人が売買で相手を騙したり、貸し借りをうまく行ったりしない場合は、両国の官史が関係商人を厳重に取り調べて決済させること。ただし、両国政府は商人に代わって弁償しないこと。」

これは日本と朝鮮の商人同士が自らの意思で貿易を自由に行うことを定めたものです。

ただし、日朝間の商人の間でトラブルが起きた時だけ、官が商人の間に入って調整するとし、その損失補填も政府はしないと定められました。

12条からなる条約は2月27日に批准され、その後、条約に付随した付録と貿易規則に関する交渉が8月5日から行われました。

宮本小一から朝鮮側全権代表の趙寅熙に渡された公文で、関税について次のように通知しました。

「日本から朝鮮に輸出するものについては日本の税関では輸出税をかけず、一方朝鮮から日本への輸出するものにも輸入税をかけない。」

これに対し、朝鮮側全権代表の趙寅熙からは同意する旨の書簡が届いたので、「修好条規付録に付属する往復文書」の中に取り入れられました。

これは、関税自主権を放棄するというものになります。

関税自主権とは、自国の貿易品目のうち、外国と比べて国際競争力が弱い品目について関税を高く設定し、自国の産業を守るというものです。

したがって、日朝間でこの関税自主権をすべての品目で放棄したことによって、不平等条約であるという見方もあります。

なぜなら、当時の日本と朝鮮の産業を比較すると、その多くは近代化を果たしていた日本の方に競争力があったためです。

しかし、関税自主権の放棄というのは、現在のTTP交渉と同様なものです。

TTP交渉も経済界にとって参加した方がいいという人もいれば、そうでないという人もいますので、関税自主権を放棄したからといって、それが直ちに不平等条約になるとは言えません。

この条約の批准により朝鮮は、それまでとっていた鎖国政策から開国をすることになりました。

しかし、朝鮮国内では儒学者など開国反対派がおり、激しい闘争を繰り広げました。

明治14年(1881年)、日本は、開化派の閔妃政権に武器供与して、日本軍人を教官として派遣して、別技軍(べつき)を編成しました。

明治15年(1882年)、別技軍に不満を持つ在来軍兵士が、ソウルで反乱を起こしました。

日本公使館や閔妃一族の屋敷を襲撃し、日本の軍事教官や巡査、語学留学生たちが殺害されました。(壬午(じんご)事件)

日本政府は、朝鮮に対し、暴動の被害を受けた日本人に対して謝罪と賠償を要求しましたが、朝鮮は拒否。

朝鮮の大院君は清に軍隊の派遣を要請し、その要請を受けた清が軍隊を仁川の近くまで進駐させ、ソウルに駐留しました。

これに対し、日本側も軍隊を仁川に派遣しました。

明治15年(1882年)10月、清は朝鮮に対し、「清国朝鮮商民水陸貿易章程」という条約を結ばせました。

これにより、清国は袁世凱を派遣して朝鮮の軍事権を掌握。そして通商権も獲得しました。

この条約の中には、”朝鮮は清国の属国”であることが明記されていました。

”朝鮮国は自主の国であり”という日本側の思いを理解することができず、事大主義にこだわった結果、改めて、”朝鮮は清国の属国”であると明記されてしまったのです。

現在の韓国の状況と似ています。

(参考図書:「条約で読む日本の近現代史」藤岡信勝著)
 
 
大正4年(1915年)5月25日、「山東省に関する条約」と「南満州及び東部内蒙古に関する条約」の2条約と13の交換公文が、日本と中華民国(袁世凱)との間で結ばれました。

(21か条の要求)

一般的にこの"21か条の要求"は、日本が武力を背景として、中国の主権を踏みにじった、不当な要求をしたことにより、抗日運動が高まった。というように認識されています。

しかし、それは本当でしょうか?

日本の中学校の歴史教科書には、次のように記載されています。

「中国政府は、この要求に激しく抵抗しました。

しかし日本は、大正4年(1915年)5月9日、ヨーロッパ諸国が戦争に全力をそそいでいるすきに、軍事力を背景として中国にせまり、日本人顧問を採用する条項を除く要求の大部分を認めさせました。

これを知った中国の民衆は、この日を国恥記念日として、はげしい排日運動を起こし、中国の民族主義運動はいっそう高まりました」(「中学校歴史教科書」大阪書籍)

21か条の要求というものは、5つの項目に分かれています。

1つ目の項目は、山東省に関する件です。

ーーーーー
第1号 山東問題の処分に関する条約案

日本国政府及支那国政府(袁世凱の中華民国政府)は、偏に極東における全局の平和を維持し、且両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し、ここに左の条款を締結せり。

1、支那国政府は、ドイツが山東省に関し条約その他により、支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府がドイツ政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約束する。

2、支那国政府は、山東省内若くはその沿海一帯の地又は島嶼を、何等の名義を以てするに拘わらず、他国に譲与し又は貸与せざるべきことを約束する。 

3、支那国政府は、芝盃(しふう)又は龍口(りゅうこう)と膠州湾(こうさいワン)から済南に至る鉄道とを連絡すべき鉄道の敷設を日本国に允許す。

4、支那国政府は、成るべく速に外国人の居住及貿易の為、自ら進で山東省に於ける主要都市を開くことを約束する。
その地点は別に協定すべし。
ーーーー

1898年にドイツと清国との間で結ばれた条約において、膠州湾(こうさいわん)を99年間租借する権利をドイツが持っていました。

その後、第一次世界大戦において、イギリスと同盟を結んでいた日本が、イギリスの要請によりドイツと戦いました。

日本軍が、青島との戦いにおいて、ドイツ軍に勝利。その後、欧州戦線での講和が成立するまで、日本軍は、戦時国際法に基づいて、山東半島に駐留していました。

そして、ドイツが持っていた膠州湾(こうさいわん)の租借権利を日本が引き継ぐことになりました。

それに対し、中華民国は、それは不当であり、直ちに中華民国に返還するようにいってきました。

日本はドイツと戦ったのであり、その戦いに勝利した日本は、ドイツが持っていた租借権を満期まで引き継ぎ、その後中国に返還するつもりでいました。

この件に関して、イギリスは全く問題ないとして、租借権を日本が引き継ぐことを承認していました。

2つ目の項目は、南満州と蒙古に関する事項です。
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第2号 南満東蒙における、日本の地位を明確ならしむる為の条約案

日本国政府及支那国政府は、支那国政府が南満州及東部内蒙古における日本国の優越なる地位を承認するに依り、ここに左の条款を締結する。

1、両締約国は、旅順大連の租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九九カ年づつ延長すべきことを約束する。

2、日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、各種商工業上の建物の建設又は耕作の為必要なる土地の賃借権又は其所有権を取得することを得る。

3、日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、自由に居住往来し各種の商工業及其他の業務に従事することを得る。

4、支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける鉱山の採掘権を日本国臣民に許与す。其採掘すべき鉱山は別に協定すべし。

5、支那国政府は、左の事項に関しては予め日本国政府の同意を経べきことを承諾する。

 南満州及東内蒙古に於て他国人に鉄道敷設権を与え、又は鉄道敷設の為に他国人より資金の供給を仰ぐこと

 南満州及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起こすこと

6、支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける政治財政軍事に関し顧問教官を要する場合には、必ず先ず日本国に協議すべきことを約束する。

7、支那国政府は本条約締結の日より99年間、日本国に吉長鉄道の管理経営を委任する。
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この遼東半島は、日清戦争で勝利した日本が、下関条約により手に入れた領土でしたが、明治28年4月23日に三国干渉(ドイツ、ロシア、フランス)により手放さざるを得なくなりました。

この時、”臥薪嘗胆(がしんしょうたん)”という言葉が、後に、ロシア帝国に復讐するために、今は耐えようというスローガンとして使われました。

その後、日本は日露戦争に勝利したのち、明治38年(1905年)9月4日、ポーツマス条約ににより、南満州鉄道と遼東半島の租借権を手に入れました。

しかし、日露戦争の勝利で手にした遼東半島(大連と旅順)の租借期限は、1923年で満了。満州鉄道は、1933年で満了してしまいます。

そこで、この租借期間を99年間に延長しようと要求しました。

なぜ99年間かというと、当時のイギリスなど欧米列強は中国大陸の各地に租借地を持っており、その期限を99年間と設定したいたからです。

99年間の租借権の期限というのは、当時の世界基準だっったのです。

また、鉄道周辺には日本人居留民が移住してきましたが、地元の中国人との争いが頻繁に起きてきたので、両国間で取り決めが必要となってきていました。

3つ目の項目は、漢冶萍公司(かんやひょう こうし)に関する件です。
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第3号 漢冶萍公司(かんやひょう こうし)に関する取極案

日本国政府及支那国政府は、日本国資本家と漢冶萍公司との間に存する密接なる関係に顧み、且両国共通の利益を増進せんが為、左の条款を締結せり。

1、両締約国は、将来適当の時機において、漢冶萍公司を両国の合弁となすこと、

並びに、支那国政府は日本国政府の同意なくして、同公司に属する一切の権利財産を自ら処分し、又は同公司をして処分せしめざることを約束する。

2、支那国政府は、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近に於ける鉱山に付ては、同公司の承諾なくしては、これが採掘を同公司以外のものに許可せざるべきこと、

並びに、その他直接間接同公司に影響を及ぼすべき虞ある措置をとらんとする場合には、まず同公司の同意を経べきことを約束する。
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漢冶萍公司(かんやひょう こうし)とは、揚子江中流にある製鉄所です。明治31年に設立され、当初は日本から石炭を運び、製鉄していました。

明治44年(1911年)に辛亥革命が起きるまで、日本からは多くの資金を使って投資していました。その出資金は、日本興業銀行から300万円、三井物産から100万円、横浜銀行から1、000万円の巨額にのぼりました。

その後も貸付総額は3、500万円(うち政府関連は3、300万円)でした。

しかし、辛亥革命により、この漢冶萍公司は接収されてしまい、事業活動ができないくらいに破壊され、略奪されてしまいました。

さらに国有化されようとしていたので、日本政府は、それまでの投資を保護するために、このような要求を出さざるを得ませんでした。

4つ目の項目は、
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第4号 中国の領土保全の為の約定案

日本国政府及支那国政府は、支那国領土保全の目的を確保せんが為、ここに左の条款を締結せり。

支那国政府は、支那国沿岸の港湾及島嶼を他国に譲与し若くは貸与せざるべきことを約束する。
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これは、外国に中国の海岸線にある港湾を欧米列強に割譲しないようにという要求になります。

当時の中国は主要都市や港湾などを欧米列強に割譲したり租借したりしていました。

それは、欧米列強からの圧力に屈したためですが、日本はそれをしないようにと、釘を刺したのです。

なぜかというと、日本からすると中国の海岸線はとてっも近く、特に日本領だった台湾から、中国の福建省はとても近い距離でした。

そこの土地が、欧米列強に割譲されてしまうと、日本にとっては脅威だったためです。

これは、日本に対して中国の領土を提供しろという要求ではなく、欧米列強に対して、安易に中国の領土を提供しないでほしいという要求ですので、これが中国の主権を侵害した要求となるのでしょうか?

5つ目の項目は、
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第5号 中国政府の顧問として日本人傭聘方勧告、その他の件

1、中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること。

2、支那内地に於ける日本の病院、寺院及学校に対しては、其土地所有権を認むること。

3、従来日支間に警察事故の発生を見ること多く、不快なる論争を醸したることも少からざるに付、

此際必要の地方に於ける警察を日支合同とし、又は此等地方に於ける支那警察官庁に多数の日本人を傭聘せしめ、以て一面支那警察機関の刷新確立を図るに資すること。

4、日本より一定の数量(例えば支那政府所要兵器の半数)以上の兵器の供給を仰ぎ、又は支那に日支合弁の兵器廠を設立し日本より技師及材料の供給を仰ぐこと。

5、武昌と九江南昌線とを聯絡する鉄道及南昌杭州間、南昌潮州間鉄道敷設権を日本に許与すること。

6、福建省に於ける鉄道、鉱山、港湾の設備(造船所を含む)に関し外国資本を要する場合には、先ず日本に協議すべきこと。

7、支那における本邦人の布教権を認むること。
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1つ目から4つ目の項目は、条約に基づく権利として同意を求めるものでしたが、この5つ目の項目は、要求というよりは、提議という形で提出されました。

したがって事実上、21か条ではなく、5番目の項目の中の7か条を差し引いた、14か条の要求ということになります。

交渉の経緯では、中華民国は、欧米に対し、宣伝を積極的に行いました。それも過大に宣伝し、内容も歪曲してです。

この”21か条の要求”という呼称も、中華民国がつけた名称でありますが、実際には、14か条からなる要求であり、その要求内容も条約に基づいた確認事項ということになります。

したがって、武力を背景とした不当な要求、というのは言いがかりであります。

日中の交渉過程はどのように行われたのでしょうか?

大正4年(1915年)1月18日、日本側から以上のような14か条からなる要求と7か条からなる提議を提出し、それに対し中華民国が意見を述べる形となりました。

中華民国は面子(メンツ)を保つために、わざと交渉を長引かせたり、一度決まった案件も、次回の交渉の場で撤回するなど、日本側が諦めるように仕向けて行きました。

また、袁世凱は、ドイツや米国に盛んに宣伝活動を行い、日本側から中国の主権を著しく損なう不当な要求をしてきたと干渉(同情)を得るように、宣伝していきました。

在中ドイツ系機関紙である北京ガゼットや、独華日報は山東問題に関して、日本と袁世凱と直接交渉を非難したり、排日派や宣教師らは日本軍の暴行を喧伝し日本軍の撤兵を要求しました。
(大阪朝日新聞 1915年1月28日付け、1915年1月21日付け)

日本側は仕方なく、満州や山東省に駐屯している日本軍の交代時期を少しずらして、一時的に駐屯軍が増えた形にして、圧力を加えました。

3月3日、日置駐華公使は第6回交渉会議で、
「元来、(辛亥)革命の乱が勃発した当時、シナの大半は粉々としてあたかも鼎の沸くような情勢であったにもかかわらず、

南満州と東部蒙古が乱離の禍から免れえたのは、まったく日本が何らの野心をも抱かないで、終始公明正大な態度を持し、努めてこの両地方の秩序維持に留意したことと、

日本がこの方面において特殊の地位を保有していた結果にほかならない。

もし万一、日本がこの機会に乗じてある種の行動をとった場合には、南満州も東蒙もあるいは今日の外蒙古と同様の運命に遭遇したかもわからない。

ついては日本国のこの公明正大な心事とその優越する特殊地位に顧みて、中国政府は速やかに満蒙におけるわが優越なる地位を確認し、第2号から東蒙を除外する考えを翻してほしい」と述べました。

これに対し、中華民国全権の陸徴祥(りく・ちょうしょう)外交総長は
「(辛亥)革命の乱当時における事情、ならびに日本国の態度は、まことに貴説の通りである。

これらの事情からして中国は、今回南満洲に関し条約締結の商議に応ずる次第である」と答えました。
(『満洲事変の国際的背景』渡辺明著1989年)

3月8日、イギリスのグレイ外相は、加藤外相に対し次のように述べました。

「自分が非常に懸念しているのは、日中問題から生起すべき政治上の事態進展にある。

ドイツが中国において盛んに陰謀をたくましくしつつあるはもちろん事実であって、中国をそそのかして日本の要求に反抗させるために百方手段を講じつつあるのみならず、

これによって日中両国間に衝突を見るようなことがあれば、ドイツの最も本懐とするところであろう。

自分は今回の問題について何か質問を受ける場合、できる限り日本の要求を支持して同盟の友好関係を全うしたい精神である」と。

また、駐日英大使グリーンは、加藤外相に次のように語りました。

「中国側の態度はまことに了解しがたい、駐華英公使は日中両国が不幸な衝突を見るに至らないよう、北京政府に注意しており、袁大総統に直接申しいれてもいる」と。

4月26日に25回目の交渉で、日本側は最終修正案を提出しました。中華民国に妥協したものでしたが、それに対し、中華民国が5月1日に最終修正案に対する回答をしてきました。

その内容というと、日本人は満州で中国警察行政に従わなければならない、また、裁判も中国側の裁判所で審理しなければならないというものでした。

もし、中華民国政府が、法治国家としての機能を整っているのなら、この提案は、特に問題ないものとして受け入れられたでしょう。

しかし、当時の中国は、鞭打ちの刑があったり、現場の警察官の勝手な裁量により、好き勝手に逮捕や拘束が行われており、監獄においても、賄賂やリンチなどを強要されるといった状況でした。

(現在の中国共産党において、日本からの企業進出をサポートしている方にお話をお伺いしました。

「中国政府の示した法律に則り、企業活動をしていても、定期的に監査が入り、その役人に賄賂を渡さないと、共産党からひどい仕打ちを受けてしまう。

その賄賂の金額が少ないと、また営業妨害活動を受けてしまう。

日本からの企業誘致のために税制優遇をしてきたが、ある程度、企業の業績が安定して利益が出るようになると、いきなり税率を上げてくる。

とても、それでは企業活動をやっていけないために撤退か税制優遇をしている内陸に移転するしかない」、と話していました。

 
法律はあってないようなものであり、すべてワイロがないと商売ができないというのでは、すでに法治国家とは言えないでしょう。

袁世凱の時代と今現在の中国は、何も変わっていないといえるでしょう。)

とても法治国家の体をなしていないので、最後通牒を出さなければならないと、5月3日、日置(ひおき)駐中国公使は加藤高明外務大臣に打電しました。

これを受け、日本政府は、日夜会議を開き、井上馨や山県有朋などを招いて元老会議を開いて協議しました。

5月5日の夜、北京政府の李盛鐸(り・せいたく)が、日本公使館に訪れ、船津辰一郎書記官に次のように話しました。

「交渉がこのように難局に陥ったのは、わが中華民国政府がイギリス、米国に頼りすぎ、交渉内容を外部に漏らして、その干渉(同情)を得ようとしたからである。

その結果、わが中華民国政府は進退の余地を失ってしまった。

修正案も強硬なものにしないと、袁世凱総統のメンツに関わり、
反体制派が中華民国政府を攻撃する。

日本が最後の決意を示すことになれば、中華民国は譲歩するしかない。」と。

つまり、中華民国政府から、「日本側から強硬な最後通牒を出してほしい」と要請してきたのです。

それに対して、中華民国が渋々仕方なく、受諾した形を取れば、袁世凱のメンツも保たれるし、反体制派が中華民国政府を攻撃してくることもなくなると計算して、そのような要請をしてきたのです。

5月6日、ロシアのマレヴィッチ大使は、加藤高明外相に次のように述べました。

「充分了解した。真に今度のご措置は賢明なる方法と考える。必ずや北京政府は承諾するだろう。袁世凱は最後通牒を待っているものと思われる」と。

5月7日、日本政府はその要請を受け、最後通牒を世界に向けて公表しました。

5月7日、イギリスのグレイ外相は、駐英井上勝之助大使に対し、次のように述べました。

「北京政府が強硬に反対してきたのは主として第5号の各項であるが、日本がこれを本交渉から引き離したことは日本側の大きな譲歩といえる。

北京政府は速やかにこれを受諾して、時局の妥協を計ることが得策である旨を、駐華公使に自分の勧告として述べておいた」と。

また5月7日、イギリスのグレイ外相は、イギリスのジョルダン駐華公使に電報して、

「日本の最後の提案は非常に寛大であるから直ちにこれを承諾し、妥協を図るほうが利益である旨、中華国民政府に対し、非公式に強い勧告を与えるように」と伝えました。

フランスのデルカッセ外相は、石井菊次郎大使に、次のように述べました。
「今更内容をうかがうまでもなく、貴国の成功を祝す」と。

中華民国は、この最後通牒を受諾する旨を回答しました。

このように、日本の対華21か条の要求は、イギリス、フランス、ロシアからは好意的に受け止められました。

その一方、5月13日、米国のブライアン国務長官は、次のように通告してきました。

「中国の領土保全、門戸開放の原則、および中国におけるアメリカやアメリカ人の権利と抵触する条約・協定・了解はすべて、アメリカとして承認しない」と。

米国は、中国におけるわが国の権益を、日本が脅かそうとしているという認識を持つようになっていきました。

その後の日米開戦の伏線は、このあたりにあったのかもしれません。

大正4年5月25日、「山東省に関する条約」と「南満州及び東部内蒙古に関する条約」の2つの条約と、13の交換公文が、北京にて調印されました。

この取り決めにより、その後の日中関係はどのようになったのでしょうか?

締結直後の6月22日、中華民国は”懲弁国賊条例”を公布した。これは日本人に土地を貸したものは、公開裁判なしに死刑に処すもので、土地商租権は調印と同時に早くも空文と化し、中国は条約に違反した。

(この”懲弁国賊条例”は、1929年に強化され「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」などおよそ59の追加法令となり、日本人に対する土地・家屋の商租禁止と、従前に貸借している土地・家屋の回収が図られた。(「「満州国」の法と政治」山室信一著))

孫文は、「21ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」、と断言した。

中華民国は、この日(5月25日)を屈辱の日として、日本を恨むようになりました。

日本と中国がトラブルが起きると、必ずといって良いほど、この21か条の要求の話が出されて、「侵略行為だ!」と非難するようになりました。

しかし、その対華21か条の要求の中身はというと、日本がドイツに勝利した際の正当な権利、ロシアに勝利した際の正当な権利を、中華民国に対して、明確にすることを目的にした条約であり、

また、日本がそれまで投資してきた製鉄会社について、正当な権利を要求しただけだったのです。

しかも、最後通牒を出すように日本に要請したきたのは、中華民国(袁世凱)だったのです。

(参考図書:『満洲事変の国際的背景』渡辺明著1989年、
「条約で読む日本の近現代史」藤岡信勝著2014年)
 
 

古事記 神代の巻より。
「天(あめ)の岩屋戸 2」

すずや太鼓を持った神様たちが岩屋の前に陣取りました。お神楽の舞の上手な”天のウズメ”様も、出てきました。

天児屋命(あまのこやねのみこと)が、岩屋の前に柏手を打って
「かけまくも、かしこき アマテラスオオミカミの おおまえに かしこみ かしこみ もうす」

と祝詞(のりと)を読み上げ創り主、ご先祖の神様に天照大神様が姿を顕してくださいますように祈りました。

周りの神様方は声を張り上げて歌いだしました。

「天照大神様は、日の神様。いっときも陰ることなく、世界を照らす。闇は消えて良いことばかり。嬉し、楽し、わっはっは」

天宇受売神(アメノウズメの神)は、笹の枝を振りながら、たらいの上にたちました。トントン、と足を踏みならして、踊りだしました。
ウズメ様は着物の裾をひらひらさせて、手拍子をとり、笹をふりタライのそこを踏みとどろかせて、踊りました。

あまり夢中で、踊りましたから、着物がずり落ちそうになりなりました。それでも、辞めずに踊りました。

周りの神様たちは、おかしくて笑い転げました。その声は高天原(たかあまはら)も揺れ動くほどでした。

かがり火はパチパチと音を立てて燃えて、この様子を明るく照らし出しました。

岩屋の中で、天照大神(アマテラスオオミカミ)は何事だろうと、不思議に思われました。岩屋の戸を少しそっと開けられました。

そして、天照大神は聞かれました。
「天宇受売神(アメノウズメの神)、私が岩戸に篭ったので、天の世界も地の世界も皆暗かろうに、なぜ、楽しそうに踊り、神々は高笑いしているのですか?」

「あなた様より尊い神様が現れましたので、皆喜んで歌い踊っています。そのお方はこちらにいらっしゃいます。」と、天宇受売神(アメノウズメの神)は答えました。

この時を見計らって、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのミコト)はお供えの榊を天照大神の前へ軍と近づけました。

榊の中枝についていた八咫の鏡(ヤタノカガミ)の中には、眩しい金色の光に包まれた神々しい天照大神の顔がありました。

天照大神は不思議に思って、岩屋戸から身を乗り出しました。

さっと、光が戸の隙間からさしました。戸の脇に隠れていた天手力男神(あめのたじからおの神)はすかさず岩戸を引きあげました。

鶏が声を張り上げました。
「夜明けだ、夜明けだ。コケコッコー」

「天照大神様、どうかお出ましください。一番、尊いあなた様が御隠れになりますと、天も地も真っ暗闇で、この世はおしまいになってしまいます。」

神様たちは声を揃えてお願いしました。、天手力男神(あめのたじからおの神)が、天照大神の手をとって岩屋戸の外に出られました。

高天原(たかあまはら)(大宇宙のこと)にも、中つ国(なかつくに)(日本のこと)にも日は照り渡ました。

木も草も鳥も虫も子供達はみんなみんな、生き生きと元気になりました。

布刀玉命(ふとたまのミコト)はすぐに岩屋の出口に尻久未縄(しりくめなわ)を張り巡らして申しました。

「もう決して、これより内にはお戻りになりませぬように」と。

この尻久未縄(しりくめなわ)が変形したものが、現在のしめ縄となります。

この騒動の原因となったのは須佐之男命(スサノオノミコト)です。

ヤオロズの神様たちが相談して、”千位の置戸”を罰として負わせることにしました。そして、高天原(たかあまはら)から追放されました。

このお話は、たとえどんなに真っ暗闇のような状況になっても、明るい心を持ち、笑いながら歌って踊っていると、自然と光が差してきて、道がひらけてくると言うようなことを、教えてくれているように思います。

「笑うかどには福きたる」と言います。これは真実でしょう。重い病気で入院している人でも、笑いを実践していたら治ってしまった、という話もよく聞きます。

人生を好転させる秘訣が”笑い”にはあるのです。

明るい心を持って、願いは必ず聞かれると信じて、祈り続ける。
そして、あらゆる努力する。

最後は、すかさずチャンスを逃さず実行。

「榊を天照大神の前に出し、身を乗り出してきたところを、すかさず岩戸を引き上げた」、とありますのは、このことを伝えているのだと思います。

神話というものは虚構である、と唯物論者は主張します。
そんなものは信用することはできない、創り話である、と。

しかし、この世に存在するものは、すべて神話から始まります。

例えば、東京タワーがあります。

これはもともとあったわけではありません。
建築設計家が心の中で想像して、それを具体的に図面に表して、建築して行った結果、今の東京タワーが存在しているのです。

このことは、唯物論者でも理解できます。

神話とは、「未だに現実世界に現れていないものを心の中に想像し、心の中に描いたもの」になります。

想像力によって、心に描いたものを神話というのです。

これをプランとか設計とかアイデアとか言ったりしますが、これを「神話」というと、唯物論者は批判します。

古代ご先祖様たちは、宇宙真理を直感で感じ取って生活していました。
現代のような物質文明にあふれた生活をしておらず、自然の中で生きていました。

朝、東の空から太陽が昇ってくると、手を合わせて拝みました。
「ありがとうございます。今日も命の恵みを与えてくださり、ありがとうございます」と。

地球上に住む命はすべて、太陽の恵みを受けて生きています。
もし、朝、東の空から太陽が昇って来なかったとしたらどうなるでしょうか?

曇りかな、と思いますか? あれ、時計が狂っているのかな? と思いますか?

太陽が昇って来ない世界は想像できません。
当たり前のように、毎朝昇ってくるからです。

この太陽がもし、現れなくなってしまったら、大地は凍ってしまうでしょう。すると作物が作れなくなってしまうでしょう。草木も枯れてしまうでしょう。

 
なぜなら、光合成ができなくなってしまうからです。光合成ができなくなると、大気は二酸化炭素で充満してしまうでしょう。なぜなら光合成は、二酸化炭素を吸って、酸素を出してくれるからです。

海洋生物も死んでしまうでしょう。暖流と寒流のバランスが崩れてしまうからです。

地球環境問題を議論して、異常気象とかCO2の問題を議論する人たちがいますが、太陽が毎朝東の空から現れてくれるということを前提にしています。

もし、太陽が岩戸に隠れてしまった場合のことなど、誰も議論しません。

それほど、当たり前に思っているのです。

しかし、古代ご先祖様たちは、当たり前と思っていませんでした。
毎朝、お日様に感謝して生活していました。

実は、私たち人間は、お日様(天照大神様)の分け御霊(みたま)なのです。

お日様の分け御霊(ミタマ)だからこそ、命の恵みの元であるお日様を拝んで、感謝して生活していたのです。

男の子を日の子、日子(ひこ)といい、女の子を日女(ひめ)と言っていました。つまり、お日様の子ということです。

言い換えると、天照大神の子、略して「神の子」ということになるのです。

今、あなたは、ご先祖様のお墓まいりをしているとします。
お墓に行って目をつぶり、手を合わせています。

その時、ふと頭に浮かびました。
それは、学校で教わったことがある、”ダーウインの進化論”です。

ダーウインの進化論では、人間は猿から進化したのであると説明しています。
つまり、あなたのご先祖様は”猿”ということになります。

今、あなたの目の前には、”先祖代々の墓”と書かれた暮石があります。
あなたのご先祖様はお猿さんです。

どうです?
想像できますか?

ダーウインの進化論は唯物論者にとっては、絶対真理です。
そして、マルクス・レーニン信者にとっても絶対真理です。

彼らは、絶対にその真理を譲りません。

でも、今あなたは”先祖代々の墓”と書かれた暮石の前で手を合わせています。つまり、あなたのご先祖様である、”お猿さん”に手を合わせているということになります。

あなたは、あなたはお猿さんから進化して生まれたのではありません。
あなたは、天照大神の分け御魂として生まれてきたのです。

つまり、”神の子”なのです。
決して”猿の子”ではないのです。

今から約170年前にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが作った’神話’(設計書)に基づいて作られたソ連や中国共産党。
(「資本論」カール・マルクス著1867年、「共産党宣言」カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス共著1848年)

また、今から2、677年以上前に古代ご先祖様が、直感で宇宙の真理を感じ取り、その直感で感じとった”神話”(設計書)に基づいて作られた日本。(今年は皇紀2677年)

古代ご先祖様が作られた”神話”に基づいて成り立っている日本は、マルクスとエンゲルスが作った”神話”に基づいて、新たに創造されようとしています。

(参考図書:「親子で読める日本の神話」出雲井晶著)
(「古事記と現代の予言」谷口雅治著)
(「日本人なら知っておきたい日本神話」出雲井晶著)
 

 

 

古事記のお話です。
天(あめ)の眞名井(まない)の誓い2

 

須佐之男命(スサノオのミコト)は、お姉さまの天照大神から、悪い心がないことをわかってもらったので、もう嬉しくて仕方がありません。

 

好きなお酒をたっぷり飲んで、馬(天の斑馬)(あめのふちこま)に乗って走り回りました。

 

田んぼの畦も、溝も、いねの穂も、畑の青い野菜も、踏みにじってしまいました。

天照大神は、お酒で酔っ払っているから、酔いが覚めれば大人しくするでしょう、と暖かい目で須佐之男命(スサノオのミコト)の行為を許していました。

 

しかし、須佐之男命(スサノオのミコト)は調子に乗って、暴れていました。

はた織り姫が、はた織り機を使って糸を紡いで織物を追っていました。

 

須佐之男命(スサノオのミコト)はその小屋の中にいきなり馬を押し込み、驚いた馬はその小屋の中で暴れだしました。

 

機織り機を壊すは、美しく織ったきれを破るは、大変な騒ぎとなりました。

逃げ出そうとした織姫ははた織り機にお腹をついて死んでしまいました。

 

(参考図書:「親子で読める日本の神話」出雲井晶著)
ーーーーーーー

 

須佐之男命(スサノオのミコト)が暴れ馬に乗って、田んぼを荒らしましたが、天照大神はその行為を咎めることをしませんでした。

 

そして、「田んぼの畦を壊し、溝をうめたのは、畑にできるのに田んぼにしておくのは勿体ない、と考えたのでしょう」と言って、須佐之男命(スサノオのミコト)の行為を、いいように解釈して許しました。

 

このように、性善説で物事を明るい良い方に解釈して、それを言葉に出して言うことをしました。

 

言葉に出して言うことで、言霊の力を使って、世の中を明るく良い方向にしていこうと言う知恵が古代ご先祖様にはあったのです。

 

天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天の衣を織姫にはたを織らせることは、目に見えない天から地上へとまっすぐに連なる縦の真理と、

目に見える現世の横の真理が正しく運行されて世の中が明るい方法に進むようにとの、天照大神(あまてらすおおみかみ)の祈りを込めた仕事をさせているのでした。

 

須佐之男命(スサノオのミコト)は、(天の斑馬)(あめのふちこま)の皮を尻尾の方から強引に剥ぎ取り、その皮を織姫の小屋に投げ込み、血まみれの(天の斑馬)(あめのふちこま)も小屋に入れました。

 

(天の斑馬)(あめのふちこま)とは、インド神話に出てくる斑牛のようなもので、時の流れを正しく流れるようにする役目を持っていました。

 

その馬の皮を逆さまから剥ぎ取る行為は、時の流れを逆さまに流れるようにしてしまったと言うことです。

 

これで世の中の秩序がめちゃくちゃになります。須佐之男命(スサノオのミコト)の行為は、天地の正しい動きまで破壊するところまでいってしまったのです。

 

それでも、天照大神(あまてらすおおみかみ)は、弟の須佐之男命(スサノオのミコト)を咎めたりしませんでした。

 

全ては、私の責任にあると感じて、自分の心が汚れているから、須佐之男命(スサノオのミコト)がこのような乱暴狼藉を働いてしまうのだ、と考えてしまうのです。

 

なんて優しい、お姉さまでしょうか。

 

そして、天の石屋に入り、石戸を閉めてしまいました。
(天の岩屋戸)

 

(参考図書:「日本人なら知っておきたい日本神話」出雲井晶著)

 

 

 

古事記のお話です。

「天のいわや戸1」

 

天照大神(アマテラス大神)は、須佐之男命(スサノオノミコト)があまりにも暴れ回るので、天のいわやという石の部屋に入られて、ぴしゃりと戸を閉めてしまいました。

大変です。日の神様がいわやに入ってしまったのです。
 

高天原(たかあまはら)も豊葦原(とよあしはら)の中つ国(日本のこと)も、真っ暗になり、夜ばかりが続くようになりました。

 

子供達は泣きました。

「いつ夜が明けるかわからない。寒い、寒い」
「あの子も変えを引いてしまった」

 

「お米も麦も何もできない」
「ハエや蚊や悪い虫ばかりが大量に発生してしまった」

 

「このままではみんな死んでしまう。日の神様に早く出てもらわないと」

八百万(ヤオヨロズ)の神様たちが、天安之河原(あめやすのかわら)に集まってきました。

 

「どうしたら出てくれるだろう」
 

神様たちはみんな考え込んでしまいました。

 

「困った時こそ明るいことを考えなくては」
「そうだ、いわやの前でお神楽をあげよう。みんなで明るく賑やかに」

 

「それはいい。早くお神楽の用意をしましょう」

天(あめ)のかぐ山から榊の木を一本引き抜いてくる神さま。
 

榊にかける八咫の鏡(ヤタノカガミ)を作る神さま。
触れ合うと良い音がする八坂の勾玉(ヤサカのマガタマ)を作る神さま。

 

元気よく「コケコッコー」となく鶏を探してくる神さま。
薪を集めてきて火を焚いて昼魔のように明るくする神さま。

 

みんな一生懸命働きました。

 

岩屋の前の榊の木には、一番上の枝には八坂の勾玉(ヤサカのマガタマ)を、中の枝には八咫の鏡(ヤタノカガミ)を、下の枝には白い布を何本も垂らし、立派に飾り付けができました。

 

大きなたらいが岩屋の前に伏せておかれました。
すっかり用意が出来上がりました。

 

(参考図書:「親子で読める日本の神話」出雲井晶著)
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高天原(たかあまはら)と葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)(日本)も真っ暗闇となって、あらゆる災難が沸き起こってきました。

 

太古の昔、火山噴火とか地震などで立ち上った煙や雲霧で、太陽が陰り見えなくなった大事件があって、天の石屋戸の神話が生まれたのかもしれません。

 

古代ご先祖様は、太陽がいかに地球上の全ての生き物たちにとって、偉大な存在であるかということを感じとっていたのかもしれません。

 

全ての生命の元である太陽がなくなってしまったら、地球上の生物は生きていくことができない。だから太陽の恵みに対して感謝を忘れずにしていました。

 

そのような気持ちで生活することが、幸せへの道であることを教えてくれたのでしょう。

 

数え切れないほどのの神様たちが、天安之河原(あめやすのかわら)で燃やすかがり火を目指して集まってきました。

 

そこで、この問題の解決のために、話し合いが行われたのです。

戦後の教育では、戦前までの日本は軍国主義であり、民主主義など存在しなかった、と教えられています。

 

これは米国でも同じです。
 

米国人の日本に対する一般的な考え方は、

「戦前までは危険な軍国主義国家であり侵略国家であったが、戦後GHQが民主主義を教えたやったおかげで、戦後の日本は平和で民主主義国家になった」

と認識しています。
(「アメリカにはめられた日本」マックス・フォン・シュラー著)

 

でも本当でしょうか?

 

明治元年(1868年)4月6日に発布された「五箇条のご誓文」には次のように書かれています。

 

五箇条のご誓文とは、明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針です。

 

ご誓文の一つに、
「広く会議を起こし、万機公論に決すべし」
とあります。

 

これは、広く会議を起こし(民選議会により)、あらゆる重要事項を、公開された議論(みんなの意見)によって決めていくべきである、という意味になります。

 

これが軍国主義になるのでしょうか?

 

すでに明治元年(1868年)時点で、日本は民主主義国家であることを宣言していたのです。

 

昭和21年1月1日、昭和天皇より「年頭、國運振興の詔書」が発表されました。(人間宣言)

 

この詔の冒頭に、明治天皇の五箇条のご誓文が挿入されています。

 

昭和天皇は、天安之河原(あめやすのかわら)にたくさんの神々が集まって、話し合いが行われた情景を思い浮かべて、深い教えを述べられたのではないでしょうか?

 

以下、「年頭、國運振興の詔書」
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『詔書』 

 

ここに新年を迎う。かえりみれば明治天皇、明治のはじめに、国是として五箇条の御誓文(ごせいもん)を下し給(たま)えり。 
いわく、 

 

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。 
一、上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし。 

一、官武一途庶民に至るまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。 

一、旧来の陋習(ろうしゅう:悪い習慣の事)を破り、天地の公道に基づくべし。 

一、知識を世界に求め、おおいに皇基を振起すべし。 

 

叡旨公明正大、また何をか加えん。朕(ちん:天皇の自称)は個々に誓い新たにして、国運を開かんと欲す。

 

すべからくこの御趣旨にのっとり、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生の向上をはかり、新日本を建設すべし。 

 

大小都市のこうむりたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は、まことに心をいたましむるものあり。

 

しかりといえども、わが国民が現在の試練に直面し、かつ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束をまっとうせば、ひとりわが国のみならず、全人類のために輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。

 

それ、家を愛する心と国を愛する心とは、わが国において特に熱烈なるを見る。いまや実に、この心を拡充し、人類愛の完成に向かい、献身的努力をいたすべきの時なり。 

 

思うに長きにわたれる戦争の敗北に終わりたる結果、わが国民のややもすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈綸(ちんりん)せんとするの傾きあり。

 

詭激(きげき)の風ようやく長じて、道義の念すこぶる衰え、ために思想混乱あるは、まことに深憂にたえず。

 

しかれども、朕は汝(なんじ)ら国民とともにあり。常に利害を同じうし、休戚を分かたんと欲す。

 

朕と汝ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。

 

天皇をもって現御神(あきつかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず。 

 

朕の政府は、国民の試練と苦難とを緩和せんがため、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。

 

同時に朕は、わが国民が時難に決起し、当面の困苦克服のために、また産業および文運振典のために、勇往せんことを祈念す。 

 

わが国民がその公民生活において団結し、あいより助け、寛容あい許
すの気風を作典興するにおいては、よくわが至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。

 

かくのごときは、実にわが国民が人類の福祉と向上とのため、絶大なる貢献をなすゆえんなるを疑わざるなり。 

 

一年の計は年頭にあり。朕は朕の信頼する国民が、朕とその心を一にして、みずから誓い、みずから励まし、もつてこの大業を成就せんことをこいねがう。 

 

御名 御璽 
昭和21年1月1日
ーーーーーー
以上、「年頭、国運振興の詔」

 

さて、神々は高御産巣日神(たかみむすびの神)の子である、思金神(オモイカネの神)に、どうしたらこの状況を解決できるかと問いました。

 

思金神(オモイカネの神)は答えました。

 

「この真っ暗闇に再び陽の光、天照大神の光がさし、明るい世の中が蘇る。それには、今ここに集まっているヤオロズの神々も、その他の神々もみんな、アマテラス大神の心に振り向き帰ることです。

 

天照大神はまったく私心がありません。慈悲の愛のみです。

このことに思いを巡らして、その真理の世界はすでに有る。
 

闇が消えている真理の世界はすでに今ここに有るのだ、と祈りましょう。」と。

そして天之御中主神(アメノミナカヌシの神)の理想郷の長鳴き鳥に「コケコッコー、暗い世の中は開けるよ。明るい世の中はくるよ」と伝えさせました。

 

言葉に出して伝えることが大切です。

 

「はじめに言葉あり。言葉は神なり」とヨハネ伝にもありますように、言葉によって周りの世界は作られていくからです。

 

伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)は鍛治と共に鉄を真っ赤に熱しては石でうち、大きな鏡を作りました。

 

玉祖命(たまのおやのみこと)は、勾玉を集めて皆でつなぎ合わせて、八坂の勾玉の5百津(いほつ)の御須麻流の珠(みすまるのたま)を作ります。

 

天児屋根命(あめのこやねのミコト)と布刀玉命(ふとたまのみこと)は、葦を束ねて火をつけ、灯りとして天香山に入り、朱桜の木と男鹿の肩骨を探し、これを炊いてでるヒビで占いました。

 

”暗がりでも、皆よく頑張るから、あと一息”
と出ました。

 

天香山の榊の木を根をつけたまま、引き抜いて来ました。

 

榊の一番高い枝には、八尺の勾玉(ヤサカのマガタマ)の5百津(いほつ)の御須麻流(ミスマル)の珠をかけました。

 

この玉飾りはこの世に生きている全ての人々の魂を意味します。
ですから現在70億の世界の人々の魂のシンボルです。

 

この魂は玉の緒(創造主である天之御中主神(アメノミナカヌシ神))から天照大神の命の光で繋がっているという、真理が込められています。

 

この真理に世界中の人々が気付き始めると、世界の人々はそれぞれ手を結ぶことができるようになります。

 

人の和という一番大事な理念なので、上枝に御須麻流(ミスマル)の珠をかけたのです。

 

中枝には、八咫の鏡(ヤタノカガミ)をかけました。
これは、自分の心を写して、我がなく、心が澄んでいるか省みる鏡となります。

 

もし、あなたの心に我(”ガ”)がなくなったら、鏡(”カガミ”)に映ったあなたは、”ガ”がなくなり、”カミ”となります。

 

我を捨てる(捨我)ということは、神さまに近づくこととなるのです。

下枝には、白丹寸手(白和幣)(しらにぎて)と青丹寸手(青和幣)(あおにぎて)をつけたらします。

 

これは、ニコニコ笑顔、暖かい言葉を出し合いましょうという意味です。

布刀玉命(ふとたまのみこと)が、神々が心を込めた榊を岩屋の前にお供えしました。

 

(参考図書:「日本人なら知っておきたい日本神話」出雲井晶著)

 

明治17年(1884年)12月4日、朝鮮半島で暴動が起きました。(甲申の政変(こうしんのせいへん))

 

閔妃をはじめとする李氏朝鮮政府首脳(閔氏一族)は、清への事大主義政策をとっており、その事大政策に抵抗して、日本と通じる金玉均ら開化派(独立党)が起こしたクーデターになります。

 

事大主義(じだいしゅぎ)とは、小が大に事(つか)えること、強い勢力に付き従うという考え方であり、長い間、朝鮮では、中国の属国として生きていく政策がとられていました。

 

金玉均(キム・オッキュン)・朴泳孝(ぼく・えいこう)(日本名は山崎 永春)・徐載弼(じょ さいひつ)らの開化派(独立党)は、清朝への事大政策を取っていては、朝鮮は近代化することはできないと感じていました。

 

明治12年(1879年)李東仁(り・とうじん)を日本に密入国させ、福澤諭吉や後藤象二郎など日本の政財界の人たちや、アーネスト・サトウ(英国大使)と接触して交流を深め、翌年の明治13年に帰国します。

 

福澤諭吉は、朴泳孝(ぼく・えいこう)や金玉均(キム・オッキュン)ら開化派を全面支援しました。

 

開化派は、日本と同じような近代立憲君主制国家を理想としました。

金玉均(キム・オッキュン)らは、国王であった高宗を取り込む計画であり、高宗もその計画に了承しました。

 

ただし、このクーデター計画には清国がどう出てくるかが問題でした。

事件当時、清国はフランスとベトナムを巡って戦争をしており(清仏戦争)、朝鮮に駐留している清国の軍隊は手薄でした。

 

よって、朝鮮への軍隊を派遣することはできないだろうと楽観視してました。

そこで計画通り、12月4日にクーデターを実行します。
 

しかし、事件直前に、清国はフランスに敗北し、その軍隊を朝鮮へ注入してきていました。

 

竹添進一郎在朝鮮公使などの協力によりクーデターは成功し、開化派が新政府樹立を宣言しました。

 

しかし、閔妃(びんひ)(明成皇后)は、清国に密使を送り、国王の高宗の救出を要請。

 

それを受けた、袁世凱率いる清軍1,500人が王宮を守る日本軍150人と銃撃戦となりました。

 

竹添公使は日本公使館に火を放って長崎へ敗走し、クーデター派は敗退。

日本公使館に逃げ込まなかった日本人居留民、特に婦女子30余名は清兵に婦女暴行(レイプ)され虐殺された。その有様は通州事件に似ていたといいます。

 

結局、金玉均(キム・オッキュン)ら開化派は3日天下に終わってしまいました。

残った開化派(独立党)の家族たちは、三親等までの近親者が残忍な方法で処刑されました。(族誅(ぞくちゅう))

 

族誅(ぞくちゅう)とは、封建時代の中国において、重罪を侵した者について、本人だけでなく一族についても処刑することである。族滅もしくは三族/九族皆殺しとも呼ばれる。

 

金玉均への復讐に燃えていた朝鮮王妃の閔妃は、洪鍾宇(ホン・ジョンウ)を金玉均暗殺の刺客に抜擢。洪鍾宇(ホン・ジョンウ)は、金玉均を上海に誘引して東和洋行ホテルにおいてピストルで暗殺。

 

金玉均の死体は清国軍艦で朝鮮に返され、死後に死刑宣告を受け、凌遅刑(りょうちけい)に処され、四肢を裂かれ、頭は市場に晒されました。

 

凌遅刑(りょうちけい)とは、生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間にわたって激しい苦痛を与えたうえで死に至らす刑であり、中国や朝鮮で行われていた処刑方法です。

 

金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉らは、クーデターが3日天下に終わってしまったことに、失望感を感じました。

 

また、その幼児等も含むその近親者への残酷な処刑を聞いて、福澤が主宰する『時事新報』に、社説を掲載しました。

 

「この国がいよいよ滅亡するものとして考ると、国の王家たる李氏にとっては誠に気の毒であり、

 

また、その直接の臣下である貴族や士族にとっても甚だ不利益とはいえ、国民一般の利益を論ずるならば、滅亡こそがむしろ国民の幸福を向上するための方便だといわざるを得ない。」

 

「現在の朝鮮の状況をみれば王室の無法、貴族の跋扈、税法さえ紊乱の極に陥り、民衆に私有財産の権利はなく、政府の法律は不完全であり、罪なくして死刑になるだけでなく、

 

貴族や士族の輩が私欲や私怨によって私的に人間を拘留し、傷つけ、または殺しても、国民は訴える方法がない。

 

またその栄誉の点にいたっては、身分の上下間ではほとんど異人種のようであり、いやしくも士族以上で直接に政府に縁がある者は無制限に権威をほしいままにして、下民は上流の奴隷であるに過ぎない。

 

すでに国民はこのように国内では軽蔑され、なおその国外に対して独立国民としての栄誉はどうかと尋ねられるなら、答えるのも忍びない。」

 

「中国に属領視されても汚辱を感じず、イギリスに土地を奪われても憂患を知らず、ただそのように無感覚なだけでなく、あるいは国を売っても私的に利益があれば憚らないもののようである。

 

すなわち、かの事大党の輩がいちずに中国に従おうとし、また韓圭穆、李祖淵、閔泳穆の一派が私的にロシア政府と内通して物事を運ぼうとしているようなことは、自分のことを考えて国のことを考えないものである。

 

ゆえに朝鮮人の独立した一国民としての外国に対する栄誉は、既に地を払って無に帰したのである。」
(明治18年(1885年)8月13日、社説「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」)

 

事大党とは、李氏朝鮮末期の保守的な党派です。

 

福澤諭吉は、李氏朝鮮政府の「滅亡こそがむしろ国民の幸福を向上するための方便だといわざるを得ない。」と断言しています。

 

腐敗し切った李氏朝鮮政府は、自主的に国を運営していくことができず、清国(中国)への事大主義(小が大に事(つか)えること)に安心感を感じているようでは、独立国家として生きていくことはできない。

 

むしろ、朝鮮人として生きるのではなく、ロシアやイギリスの属国として生きていく道が、朝鮮人にとって幸福であろうと語っています。

 

また「中国に属領視されても汚辱を感じず」と言い切っています。
朝鮮人は、昔も今も変わらず、中国の属国として生きていくことが心地よいのでしょう。

 

今から132年前の明治18年(1885年)に書かれた福沢諭吉の論文は、現在でも通用するものとなっています。

 

 

 

古事記のお話です。

 

天のまな井のちかい

 

天照大神と須佐之男命は”天のヤスの川”の両方の岸に別れて立たれました。

優しい天照大神は、「私が弟のあなたを大切に思っている心を先に見せてあげましょう」

 

天照大神は、須佐之男命の差し出す剣を三つにおると、それを”天のまな井”の水で清めました。

そして口に含みました。
 

よく噛んで「ぷう」と吹き出しました。

あたりは白い霧が立ち込めたと思うと、霧の中から愛らしい3人の女の子が現れました。

 

「今度はあなたの番ですよ」
 

天照大神はにっこり笑っておっしゃいました。

「では、お姉様の髪の毛に巻いてある玉飾りを僕に貸してください」
須佐之男命は天照大神から八尺の勾玉(ヤサカのマガタマ)の玉飾りを受け取ると、まな井の水で清めました。

 

これを口に入れるとよく噛んでほっぺたを膨らませて、吹き飛ばしました。

あたりに霧が立ち込めました。その霧の中から一人の男の子が現れました。”天のオシホミミの尊”です。
 

そのあとに次々と4人の男の子が現れました。

3人の女の神様は、水の神、5人の男の神様は火の神でした。天照大神は子供たちをみわたして、

 

「男の子は、元はと言えば私の玉飾りですから、私のみ子です。
女の子はあなたの剣からですから、あなたのみ子ですね」

お言葉できちんとおわけになられました。須佐之男命は
 

「どうです。わかってくださったでしょう。僕に悪い心がなかったから、優しい女の子でした。」

 

「須佐之男命よ、よくわかりました。ではしばらくここで遊んでいらっしゃい」と天照大神は弟に言いました。

 

(参考図書:「親子で読める日本の神話」出雲井晶著)

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天(あめ)の眞名井(まない)の誓い

 

”宇気比”とは正しい髪の御心そのままを教えてくださいと祈り、神の御心をいただくことです。

 

天照大神の陽の気、天の気を、須佐之男命の地の気、地球がいただくことで地球の生物は生じるのだという思いです。

 

天照大神と須佐之男命の2人の神が、天(あま)の川を挟んで”宇気比”を行いました。

”宇気比”とは、受気日(うけひ)、受霊(うけひ)とも書きます。
物質の塊である地球だけでは生きた生物は存在しないので、命の霊気を受けられたのです。

 

大宇宙の法則である天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。その人格神である天照大神(アマテラスオオミカミ)。
 

その天照大神(アマテラスオオミカミ)から、陽の霊気を須佐之男命(スサノオノミコト)は受けられました。

 

地球に陽が吹き込まれる儀式が受気日(うけひ)でした。

須佐之男命(スサノオノミコト)の剣を、天照大神(アマテラスオオミカミ)が、天の眞名井の聖水で振りすすぎ、邪悪な心を清め三つに折って口の中に入れます。

 

その息吹の霧から、多紀理毗売命(タギリビメノミコト)、市寸嶋比売命(イチキシマヒメノミコト)、多岐都比売命(タギツひめのみこと)の3姫命が現れました。

 

次に、天照大神(アマテラスオオミカミ)の”八尺の勾玉(マガタマ)の五百津の美須麻流(みすまる)の珠”を、須佐之男命(スサノオノミコト)が、天の眞名井の聖水で振りすすぎ、邪悪な心を清めガリガリと口の中に入れます。

 

その息吹の霧から、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)が生まれました。
 

この神様はのちに葦原の中つ国(日本)に天降られた邇邇芸命(ニニギノミコト)のお父様です。

 

天照大神(アマテラスオオミカミ)の神霊を宿らされた、天照大神の直系のお方、我が皇室のご先祖様です。

 

そのほか、天之菩卑の尊(アメノホヒノミコト)、天津日子根命(アマツヒコネノミコト)、活津日子根命(イクツヒコネノミコト)、熊野久須毗命(クマヌクスビノミコト)の5男命が現れました。

 

天照大神(アマテラスオオミカミ)は、須佐之男命(スサノオノミコト)に申されました。

 

「5柱の男の子は、神霊の元になったのが私の須麻流の珠(みすまるのたま)で、その珠により成られたから私の子です。

 

3柱の姫子はあなたのものにより成られたので、あなたの子です。」と言葉できちんと分けられました。

 

言葉には霊力があります。言霊の働きにより、人も国も良い言葉で幸せになったり、繁栄したりします。

 

息吹から子供が生まれたと聞くと、荒唐無稽のように感じてしまいます。

神話の世界だからと、仮想世界の話のように感じてしまうでしょう。

でもここに真理が込められています。

 

人は皆、単純に精子、卵子が結合して生まれてくるという、唯物論的な考え方では、理解できません。

 

人は肉体という物質から生まれてくるのではありません。
まず、神の霊気、天の気、地の気の霊気の交流があり、それが肉体に現れてくるのです。

 

魂が宿るという言葉があります。
それはこのことを言っているのです。

 

古代のご先祖様はこのように、生命の誕生を考えていました。

 

このような話を聞くと、何か宗教臭いなと思われるかもしれませんが、これは宗教とかができる以前のお話です。

 

また、精子、卵子の結合で生まれてくるという唯物論者はマルクス、レーニン主義者に多いです。

 

学校で、マルクス信仰者の先生が、生徒に向かって次のように教えていた事例がありました。

 

「君たちは、親のセックス遊びの副産物として生まれてきたのだ。だから、親を恨んでも良い。損害賠償を請求しても良いくらいだ。」と。

 

このように学校の先生から教えられた子供たちは、どのように感じるでしょうか?

 

”自分は汚れたい人間である”、とか”生きていてもつまらない存在である”、とか”自分は生まれてこなければよかっった”、というように感じるのでしょう。

 

そして自分に自信が持てずに、本来持って生まれた才能を発揮することができずに一生を終わってしまうかもしれません。

 

あなたは、この世にうまれてくることはとても奇跡的なことなのです。

 

あなたは、生まれる前に、”幸せに生きてね”、”楽しんできてね”、”たくさんの人に親切にしてきてね”、と神様と約束して生まれてきたのです。

 

あなたは、地球上で必要とされているのです。あなたの持って生まれた才能を活かして、たくさんの人を幸せにすることができるのです。

 

(参考図書:「日本人なら知っておきたい日本の神話」出雲井晶著)

 

 

 

すると、須佐之男命が天に向かって駆け上がって来られます。
荒々しい足取りでです。

 

「きっと、須佐之男命は、お姉さまの住んでいる国を取ってしまおうと上って来られるんです」と神々は話しました。

 

天照大神(アマテラス大神)の髪を男の髪型に結い直しました。

髪の毛にも手にも”八尺の勾玉(ヤサカのマガタマ)”という玉飾りをつけました。

 

神様達は、須佐之男命(スサノオノミコト)が来るのを待ち構えていました。

そのようなことを知らない須佐之男命(スサノオノミコト)は、ただお姉さんに会えることを楽しみにしながら、上って来ました。

 

「お姉様、ご機嫌よう、やっとお会いできました」
「須佐之男命よ、なぜ、天に上って来たのですか?」

 

「僕は、泣いてばかりいました。お母様に会いたいと。そして、お父様にひどく叱られてしまいました。それで、お姉様に会いたいとたまらなくなってやって来たのです」と須佐之男命は答えました。

 

「みんな、心配そうな顔をしてますね。僕が悪い考えがないことを証明してみせます」と須佐之男命がいうと、

 

「わかりました。ではあなたの心が美しいということをみんなに見せてあげて」と天照大神(アマテラス大神)は言いました。

 

(参考図書:「親子で読める日本の神話」出雲井晶著)
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凄まじい音は、天上まで鳴り響きました。

 

「これはただ事ではない。地球という治めなければならない国があるのに、それが気に入らなくて高天原をほしいのかもしれない」
とお姉さんは思いました。

 

髪を男髪に結いあげ、両耳あたりに束ねた髪(御美豆羅)(ミミズラ)にも、髪飾りにも両手にも、”八尺の勾玉(マガタマ)の5百津(いほつ)の美須麻流(みすまる)の珠”を巻き付けられました。

 

この玉飾りは全てを丸く幸せにという愛のシンボルです。
これをたくさん巻きつけられたのは、慈愛の祈りを込められたのです。

 

背中には5百本の入る筒と千本の矢が入る筒をつけられました。
男装で応戦の構えを示して、神々も一斉に弓矢を放つ準備をして待ち構えていました。

 

これは、自分の国は自分で守らなければならないという、覚悟を示したのでした。

そのようなことを知らないで須佐之男命は、お姉様に会いたくて上って来られました。

 

須佐之男命は天上を奪おうなどというよこしまな心を持っていないことを伝えました。

そして「私にやましい心がない、その証に神の御霊(みたま)をいただいて、み子を産みましょう」と申しました。

 

(参考図書;「日本人なら知っておきたい日本神話」出雲井晶著)