子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -36ページ目

 

古事記のお話です。

須佐之男命(スサノオノミコト)は、天照大神(アマテラス大神)の住んでいる高天原(たかあまはら)に向かいました。

天照大神は、須佐之男命のお姉さんです。
おねえさんに会えると思うと元気が出て来ました。

川や山を飛び越えて、その振動で大地が揺れ動きました。
何が起きたのだろうと、天照大神の周りの神様達も下をみてみました。

(参考図書:「親子で読める日本の神話」出雲井晶著)

 

 

 

 

 

大東亜会議というものが昭和18年11月6日に東京で開催されました。

 

参加者は、東条英機(日本)、
自由インド仮政府(チャンドラ・ボーズ)、

 

インドはこの時期、まだイギリスから独立しておらず、独立を目指した亡命政府の代表として、チャンドラ・ボーズ氏が出席さレました。

 

タイ(ワンワイタヤーコーン親王(首相代理))、
ビルマ(バー・モウ内閣総理大臣)、
フィリピン(ホセ・ラウレル大統領)、
満州国(張景恵国務総理大臣)、
中華民国(汪兆銘南京政府)

 

その会議で、”大東亜共同宣言”というものが採択されました。
これは、昭和16年(1941年)8月9日から12日にかけておこなわれた太平洋会談において、チャーチルとルーズベルトが調印した、大西洋憲章を参考にして作成されました。

 

”大西洋憲章”とは、日米開戦前の時期に、終戦後の世界構想を定めるものでした。

 

特にこの検証の中で、「政府形態を選択する人民の権利」というものが規定されましたが、これは、あくまで東ヨーロッパの白色人種に対してのみ適用されるものであり、

 

イギリスがアジアやアフリカに所有している、植民地に対して適用されることをチャーチルは拒みました。ルーズベルトもこの検証は有色人種のためのものではないと側近に語っていました。

 

それに対し、”大東亜共同宣言”は以下の通りになります。

 

「世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。

 

けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、

 

東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。

 

つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。
そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、

 

その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与したいと考えます。

 

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

 

2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。

 

3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。

 

4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。

 

5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。」

 

大東亜戦争前の世界秩序というものはどのようなものだったのでしょうか?

 

東南アジア諸国、今のASEAN加盟国は、ほぼ全て、米国、イギリス、フランス、オランダの植民地支配下に置かれていました。

つまり独立国家と認められていませんでした。

 

植民地支配の東南アジアの国々も、自分たちが白人国家に抵抗して独立できるとは思っていませんでした。

 

そのような時代背景において、日本が主催した大東亜会議において採択された”大東亜共同宣言”には、どのよな内容だったのでしょうか?

 

それは、「東亜諸国の繁栄を推進」「人種差別の撤廃」「自主独立を尊重」といった、植民地支配からの自主独立や有色人種が構成している東亜諸国の繁栄などを宣言したものであります。

 

以下は、大東亜会議に出席された、チャンドラ・ボーズ氏の演説になります。

 

「議長(東條首相)閣下、私が昨日及び本日、この大東亜会議の議事を傾聴している際、私の目の前には「パオラマ」のごとく世界の歴史が去来してきました。

 

私は過去100余年もの間、開催された数多くの国際会議を回想しました。そしてかつて私がインドの自由の叫びに耳を傾けてくれる者を求めて、幾日も虚しくさまよったことのある国際連盟の会議。

 

そして、その廊下やロビーを想起しました。

加えてさらにこの歴史的会議(大東亜会議)の議事を聞いていて、私はこの会議とかつて、世界史上に現れた類似の諸会議との間に、大きな差があることを思います。

 

議長閣下、本会議は、戦勝者間で行われる戦利品分割の会議ではないのです。

それは弱小国家の犠牲に供する、陰謀、謀略の会議でもなく、また弱小である隣国を騙そうとする会議でもないのです。

 

本会議は解放された諸国民の会議であり、正義、主権、国際関係における互恵主義、及び相互扶助等の原則に基づき、世界のこの地域に新秩序を創建しようとする会議です。

私はこのような原則に基づく会議が、日出ずる国(日本)にて開催されたことは、偶然ではないと考える者です。

 

そもそも世界が光明と指導とを東洋に求めたということは、これを持って初めてではないからです。

 

世界新秩序建設は、過去において、かつ他の地域において、何度も試みられてきましたが、全て失敗に終わりました。

 

それは新秩序創建の指導的立場に立つべきものに利己欲、強欲、及び猜疑心があったためです。

 

それゆえに、ここに世界が再び光明を東亜に仰がなければならないことになったのは、誠に当然の理であり、歴史的必然なのです。」

 

ボーズ氏は、
「本会議は、戦勝者間で行われる戦利品分割の会議ではないのです。」と言っています。

 

昭和18年11月6日の大東亜会議のあと、
昭和18年11月22日、カイロ会議が行われました。

 

この会議には、ルーズベルト(米国)、チャーチル(英国)、蒋介石(中国国民党)が参加しました。

 

日本の無条件降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。

 

昭和20年2月4日から11日、当時のソ連クリミア自治のヤルタ近郊で、ヤルタ会談が行われました。

 

ルーズベルト(米国)、チャーチル(イギリス)、スターリン(ソ連)が集まり、ドイツと日本の敗戦後、勝ち取った領土をどのように、山分けしようかと話し合われました。

 

ほとんど、スターリンの要求通り、満州、千島列島、南樺太がソ連の持分と決まりました。
 

そして、ドイツ降伏後の3ヶ月後に日本に参戦するという、参戦時期まで決まりました。

 

参戦した後に北方領土も、この時のルーズベルトとの約束に基づき、占領してしまいました。

 

なぜ、ルーズベルトはスターリンの要求をほぼ全て受け入れたのでしょうか?

 

ルーズベルトの側近に、アルジャーヒスとハリー・ホプキンスという人物がいました。彼らは、ヴェノナ(Venona)文書でソ連スパイであったことが明らかとなりました。

 

ヴェノナ(Venona)文書とは、第二次世界大戦中に米国陸軍が、ソ連(モスクワ)と米国内に潜伏していた共産党スパイたちとの暗号通信を傍受していて、それを記録した文書となります。

 

ルーズベルトは、ソ連スパイであるアルジャー・ヒスや、ハリー・ホプキンスを信頼して側近におき、その助言だけを聞き入れ、様々な決断をしていったのです。

 

 

その約束どおり、5月8日ドイツ降伏の3ヶ月後の8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本に宣戦布告。9日の午前0時に160万に上るソ連軍が満州と南樺太の国境を越えて怒涛のごとく侵略してきました。

 

9月2日ミズーリ号の艦上での降伏文書調印までの、たった24日間の参戦で、満州、千島列島、南樺太を日本からぶん取って行きました。

 

24日間と言っても、日本軍は8月10日にポツダム宣言を受諾する旨を連合国に打電し、8月15日に降伏して武装解除してましたので、数日間という極めて短期間に、広

大な領土をぶん取って行ったことになります。

 

ボーズ氏は、大東亜会議について次のように語りました。
 

「本会議は、戦勝者間で行われる戦利品分割の会議ではないのです。」と。

 

カイロ会談、ヤルタ会議など、連合国が戦利品の分け前を話し合った会議とは、全く次元が異なります。

 

また、つぎのように言っています。
 

「それは弱小国家の犠牲に供する、陰謀、謀略の会議でもなく、また弱小である隣国を騙そうとする会議でもないのです。」

 

このような”大東亜共同宣言”にある理想を元に日本は大東亜戦争を戦いました。

 

しかし、米国の小学生が学ぶ歴史教科書では次のように書かれています。

「日本では軍人の一派が権力の座につきました。ナチスがヨーロッパを支配するのを夢見たのと全く同じように、

 

この新しい軍事政権はアジアを統治したいと夢見ていました。1937年に日本人は中国を侵略したのです。

 

蒋介石率いる中国軍は強硬に抗戦しましたが、3年間の血なまぐさい戦争の後、1940年には日本は、中国東部をほとんど支配したのです。

 

ルーズベルトは強い懸念を持ち、日本はドイツと同じくらい危険な侵略国であると断じました。」(「アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書」ジェームス・M・バーダマン)

 

米国では多くの人が、日本はかつて侵略国家であったが、終戦後、GHQにより民主主義を教えたやったので、戦後の日本は平和民主国家となったという認識でいます。(「アメリカにはめられた日本」マックス・フォン・シュラー著)

 

しかし、戦前の日本は侵略国家であったという認識は、この”大東亜共同宣言”を読めば、”嘘(プロパガンダ)”であることが明らかになります。

 

現在、中国共産党は、ウイグル、チベット、モンゴルを植民地支配しています。そしてその少数民族を浄化(抹殺)する計画で、大量虐殺し続けています。

これは、決して日本のマスメディアでは報じられない、現在進行中の事実です。

 

東南アジア諸国を白人支配からの独立を支援した、かつての日本。
その一方で、アジア諸国を植民地支配して大量虐殺している中国共産党。

 

しかし、米国、日本、中国、韓国の学校では、「日本はかつて危険な侵略国家であって、その残虐な日本に対抗したかわいそうな中国」というように教えられているのです。

 

 

古事記のお話です。

 

お父様の伊邪那岐神(イザナギの神)とお母さまの伊邪那美神(イザナミの神)の間に、長女の天照大神様(アマテラス大神)と長男の須佐之男命(スサノオノミコト)が生まれました。

 

須佐之男命(スサノオノミコト)と宇気比(うけひ)のお話です。

 

天照大神様(アマテラス大神)(太陽)と月よみの尊様(お月様)は、お父様の伊邪那岐神(イザナギの神)仰せの通り、大空(昼)と夜の国をお治めになりました。

 

ところが、須佐之男命(スサノオノミコト)はなぜか毎日、大声で泣いてばかりいました。
 

口髭やあごひげが生えるほど、体は大きくなりました。

それでも、まだ、地団駄踏んで激しく泣いて泣きやまないのです。
 

大きな鳴き声は、風を巻き起こし嵐を呼びました。

嵐は山を枯れ山にして原っぱの緑の草も枯らしてしまいました。
熱い息を吐いて泣き続けるので、川の水も干上がってしまいました。

 

それでも、須佐之男命様は、泣きやみませんから海の水まで干上がりそうになりました。

 

国の中が荒れて暗くなると、いろんなよくないことが、起こりました。

 

「なぜ、そんなに小さい子供のように泣いてばかりいるのだ?」

お父様の伊邪那岐神(イザナギの神)は聞かれました。

 

「僕は、お母様に会いたいのです。」

 

お父様の伊邪那岐神(イザナギの神)はとても怒りました。

 

「では、黄泉の国へ行ってしまいなさい。黄泉(よみ)の国(地下の国)へ行けばもう帰っては来れないぞ」

 

須佐之男命(スサノオノミコト)は泣きながら、家を出ました。

 

「お母様に会いたいけれど、行ったら2度と帰ってこれなくなってしまう。どうしよう」

 

余計に悲しくなりました。野原に大の字に寝て泣いてばかりいました。

青い空を雲が移動しています。
 

須佐之男命(スサノオノミコト)は泣くのをやめて、移動していく雲をじっと眺めていました。

 

「そうだ、僕も行こう」

 

須佐之男命(スサノオノミコト)は、跳ね起きました。
 

お姉様の天照大神様(アマテラス大神)のところへ行こうと思いついたのです。

須佐之男命(スサノオノミコト)は、もう泣きませんでした。

 

(参考図書:「親子で読める日本の神話」出雲井晶著)
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天照大神(アマテラス オオミカミ)(太陽)と月読神(ツクヨミ神)は、お父様の伊邪那岐神(イザナギの神)から命じられた通り、高天原(たかあまはら)と月の照る夜の国をつかさどっていました。

 

しかし、須佐之男命(スサノオノミコト)だけは、伊邪那岐神(イザナギの神)から命じられた海原(地球)を治めるどころか、泣いてばかりいました。

 

当初の地球は、「国稚く(わかく)浮き、油のごとく」(国土がまだできたばかりで固まっておらず、水に浮く油のようだ)と神話に出てきます。

 

地球のほとんどが海であったので、”海原”とは”地球”のことを指します。

 

お父様の伊邪那岐神(イザナギの神)はグッと我慢して、その様子をみていましたが、ついに須佐之男命(スサノオノミコト)に尋ねました。

 

「お前は、私の命じた地球を治めようとしないばかりか、なぜ赤子のように泣いてばかりいるのだ」と。

 

「私はお母さんが住んでいる地下の黄泉(よみ)の国に行きたいのです。お母さんに会いたいのです。」

 

須佐之男命(スサノオノミコト)の言葉に、お父様の伊邪那岐神(イザナギの神)は怒って言いました。

 

「では、お前はこの国(地球)には住むな!出て行け!」と。

 

須佐之男命(スサノオノミコト)は、お父様に大声で叱られてしまいましたが、次に思いました。

 

「そうだ、お姉さんの天照大神のいる高天原(タカアマハラ)に行こう」

須佐之男命(スサノオノミコト)は泣くのをやめ、高天原(タカアマハラ)に上って行かれました。

 

地球を治めていた神がものすごい勢いで、地球を抜け出して、天上へ上って行ったのです。

 

山も森も川も大揺れに揺れ、地上のものはひっくり返るようでした。

 

実際に、地球ができたばかりの時代、火山の噴火や地震や津波など太古の昔の地球は大きな地殻変動があったと言われています。

 

須佐之男命(スサノオノミコト)が向かった、お姉さんの天照大神がいる、高天原(たかあまはら)とはどんなところでしょう?

 

仏教の言う極楽浄土でもあり、天上高いところにある神様が住む世界という考え方もあります。

 

でもそこだけではありません。
 

目に見える世界と、目に見えない世界とがぴったり重なり合った世界が、高天原(たかあまはら)です。

目に見える世界は、縦横厚みの三次元の世界であり、肉眼で見ることができる世界です。
 

目に見えない世界とは、太古の昔から永久に続いている世界です。

無限空間であり、大宇宙であります。古代のご先祖様たちは、目に見えない世界を直感で感じていたのです。

 

唯物論者や目に見える物質世界しか信じようとしない人たちは、神代の世界を信じることはできないでしょう。

 

太陽とその周りを回っている地球などの惑星、そして地球の周りを回っている月。一体誰がこの一糸乱れぬ星たちの運行をオペレーションしているのでしょうか?

それは天之御中主神(アメノミナカヌシの神)です。
 

目に見えない高天原に存在していた、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。

太古の昔から、あらゆる生き物や物質にもこの天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は生きておられます。

 

人間は、大宇宙から見ればちっぽけな存在かもしれませんが、太古の昔から、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)に生かされているのです。

 

なんてもったいないことでしょう。
なんてうれしいことでしょう。
なんてありがたいことでしょう。

 

(参考図書:「日本人なら知っておきたい日本神話」出雲井晶著)

 

 

昭和3年(1928年)6月4日、東清鉄道(のちの満州鉄道)皇姑屯付近で、列車に乗っていた張作霖が爆殺される事件が起きました。
(張作霖爆殺事件)(皇姑屯事件)

 

この事件は、関東軍(日本軍)の河本大佐らの犯行であると言うのが定説ですが、本当でしょうか?

 

馬賊出身の張作霖は、日露戦争で日本に協力したため、日本の庇護を受け、関東軍による支援の下、満洲での実効支配を確立していました。

 

張作霖は、満州だけでは飽き足らず、中国大陸を南下していきます。

 

1927年4月、張作霖は、北京のソビエト連邦大使館を襲撃したため
、中華民国(北京政府)とソ連の国交は断絶。

 

昭和3年(1928年)4月、蒋介石国民党軍は、欧米の支援を得て、再度の北伐(共産党軍や中華民国北京政府との戦い)をおこなう。

 

昭和3年(1928年)6月4日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、本拠地である満州の奉天(現在の瀋陽)へ列車で移動する。

この移動中に、爆破事件が起きました。

 

1つ目の犯行説は、関東軍(日本軍)犯行説です。

 

事件当時の田中義一首相は、陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出します。

 

その一方、関東軍は、軍閥を通した間接統治には限界があるので、傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。

 

その際、「張作霖の東三省復帰は満州国建国の障害になる」として、排除方針を打ち出しました。

 

昭和3年4月19日、国民党軍による北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次山東出兵を決定。
 

昭和3年5月3日、済南事件が起こりました。

済南事件とは、中国山東省の済南における、国民革命軍により日本人が襲撃された事件です。

 

日本人居留民を保護するために日本は軍隊を派遣し、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍との間に武力衝突が起きました。

 

日本の参謀本部によれば、日本人居留民の被害、死者12(男10、女2)、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280、との記録が残っている。

 

当時の朝日新聞は「邦人虐殺数280」と報じた
(小池聖一「済南事件」『世界戦争犯罪辞典』文藝春秋 )

 

日本人惨殺状況に関する外務省公電には、
「腹部内臓全部露出せるもの、
女の陰部に割木を挿し込みたるもの、

 

顔面上部を切り落としたるもの、
右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、

 

全身腐乱し居れるもの各1、
陰茎を切り落としたるもの2」
とあります。
(昭和3年5月9日、田中外相宛西田領事報告。中村粲『大東亜戦争への道』)

 

日本は軍隊を満州に派遣し、蒋介石と張作霖の両軍に対し、もし、満州に侵入したら、両軍共に武装解除を行うと通達しました。

 

村岡長太郎関東軍司令官は、国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐためには、奉天軍(張作霖)の武装解除および張作霖の下野が必要と考え、関東軍を錦州まで派遣することを軍中央部に強く要請していました。

 

しかし、田中首相は、出兵を認めないことを決定。
そこで、村岡司令官は、張作霖の暗殺を決意。

 

河本大作大佐は、初め村岡司令官の発意に反対したが、のちに全責任をもって決行したという。

 

2つ目の犯行説は、息子の張学良主犯説です。

 

事件当時、駐中国公使だったジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー(John Van Antwerp MacMurray)は次のように述べています。

張学良は、父の張作霖との関係がうまくいっていなかった。

 

その一方で、日本と張作霖の関係は完全に満足のゆくものではなかったが、どうしようもない状態ではなかった。

 

日本人が張作霖を爆殺したという説は理解できないとしている。
(ジョン・マクマリー『平和はいかに失われたか』)

 

このジョン・マクマリー駐中国公使は、昭和10年(1935年)11月、米国国務省極東部長スタンレーホーンベックに対し、次のような報告書を提出しました。

 

「日本の徹底的敗北は、極東にも世界にも何の恩恵にはならないであろう。

 

それは単に、一連の新しい緊張を生むだけであり、ロシア帝国の後継者たるソ連が、日本に変わって極東支配のための敵対者として現れることを即すに過ぎないであろう。

 

こんな戦争でアメリカが勝ったとしても、その成果は恐らくソ連が独占してしまうことになる。」と。

 

マクマレーは、日本の脅威よりもソ連の脅威を警戒していました。

 

日本に対して経済制裁を行なって日本に圧力をかけ、その後、日本と戦争をして勝利したとしても、米国の国益にとってマイナスとなるだけであると、日米開戦の6年前である昭和10年の時点で主張していました。

 

スタンレーホーンベックは、このジョン・マクマリーからの報告書を破棄してしまいました。

 

彼のアシスタントとして働いていた人で、アルジャー・ヒスという人物がいます。このアルジャー・ヒスはコミンテルンのスパイでした。
アルジャー・ヒスにとって、このジョン・マクマリー駐中国大使の報告書は都合が悪い内容でした。

 

なぜなら、アルジャー・ヒスのコミンテルンから与えられた役割は、日米開戦を実現することでした。

 

そのために、まず米国の政府高官達に信頼されるように活動していたのです。
そして、のちにルーズベルト民主党代表の側近にまで上りつめます。

 

アルジャー・ヒスにとって、何としても日米で戦争を起こさせなくてはなりませんでしたので、スタンレーホーンベックに対し、ジョン・マクマリー駐中国大使の報告書を握り潰すように、スパイとして誘導したのでしょう。

 

ジョン・マクマリー駐中国大使が、昭和10年に懸念していた通り、昭和20年に米国が日本に勝利したのち、中国に共産党国家が樹立。また、朝鮮半島の北半分も共産主義国家となりました。

 

もし、このジョン・マクマリー駐中国大使の報告書が、ルーズベルト大統領に届いていたら、どうなっていたでしょうか?

 

しかし、すでに米国民主党内には、アルジャー・ヒスを筆頭に、コミンテルンスパイ達が活発に活動していたのです。

 

話を張作霖爆破事件に戻します。

 

3つ目の犯行説は、ソ連の特務機関犯行説です。

 

張作霖殺害は、ソ連の特務機関が関与しており、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものである。
(『GRU帝国』2000年 ドミトリー・プロホロフ著)

 

GRUとは、ソ連軍参謀本部情報総局の略称で、当時は、労農赤軍情報局。現在も存続している機関。

 

極東国際軍事裁判(東京裁判)では、多くの日本人がソ連によって、偽証させられたと述べた。

 

ナウム・エイチンゴンはソ連諜報員。
当時、満州で国民党に捕まったソビエト軍事顧問団の解放、国民党による在上海ソ連領事館奪取の阻止に働いた。秘密警察である統合国家政治局(OGPU)全権代表など歴任。

 

日本の支援で満州を支配していました張作霖は、
大正13年(1924年)9月、ソ連政府は張作霖と「中国東北鉄道条約」を締結し友好関係を結んでいました。(『GRU帝国』2000年 ドミトリー・プロホロフ著)

 

中国東北鉄道条約(奉ソ協定)とは、奉天軍閥政府(中華民国の軍閥で、総帥は張作霖と張学良)とソ連との間で締結された条約であり、東清鉄道(1935年に満州国国鉄に吸収合併)に対する、ソ連の利権を再確認したものです。

 

大正14年(1925年)8月に、張作霖は東清鉄道の司法権と教育施設の接収し、実効支配したが、

 

張作霖軍の鉄道代金未納が1400万ルーブルに及んだ為に、ソ連政府が鉄道使用禁止を通達。

 

昭和元年(1926年)1月11日、張作霖は、ソ連人の鉄道管理官である東清鉄道工会主席シェシコフを逮捕してしまいました。

 

これら張作霖の反ソ的な姿勢に加え、ソ連が支援した対中国国民党に対する軍事行動に失敗したことから、

 

昭和元年(1926年)9月、フリストフォル・サルヌインが、張作霖の暗殺計画を立案し、

 

特務機関のレオニード・ブルラコフ(赤軍情報局第5課所属。当時は東清鉄道の電気技師に偽装)らの実行部隊により、奉天にある張作霖の宮殿に、地雷を敷設して爆殺する予定でした。

 

しかし、ブルラコフらが逮捕されたため、この計画は失敗に終わりました。

 

昭和3年(1928年)に、反ソ、反共の満州共和国創設を、張作霖と日本政府が協議したことから、ソ連特務機関は、再度、暗殺計画を立案し、実行責任者としてナウム・エイチンゴンを任命し爆殺に成功しました。

 

張作霖の隣に呉俊陞が座り、その隣に儀我誠也が座って会談していた時に、爆破事件に遭遇。
(『東京日日新聞』昭和3年(1928年)6月5日付夕刊、一面)

 

呉俊陞は、中華民国(北京政府)の人で、国民党(蒋介石)の北伐軍に敗北して、逃走する張作霖に同行していて、張作霖とともに死亡。

 

儀我 誠也(ぎが せいや)陸軍少将は、陸軍士官学校を石原莞爾と同期(21期)で卒業した後、ハルビン特務機関などを歴任し、張作霖政権に軍事顧問として派遣されていました。

 

儀我誠也陸軍少将は無事でした。

 

この時、イヴァン・ヴィナロフは、張作霖の乗っていた車両の隣の客車に乗っていました。

 

イヴァン・ヴィナロフは、ブルガリア人でソ連に亡命したスパイ。フリストフォル・サルヌインのグループで、軍事情報問題顧問として中国で働き中国共産党を援助しました。

 

グループの連絡は、在北京及び在ハルビンのソ連代表部で暗号係として働いていた妻のガリーナ・レヴェジェワが担当しました。

 

フリストフォル・サルヌインは、当時、米国籍クリストファー・ラウベルグという偽名を使って中国に滞在、コードネーム「オシプ」というソ連スパイでした。

 

3つの犯行説がありますが、どれも確証がありません。
日本の教科書やセンター試験などでは、一つ目の関東軍(日本軍)犯行説が定説となっています。

 

 

 

 

宣伝とはなんでしょうか?

 

国家が行う宣伝(プロパガンダ)は、国民に対して、あるいは海外に向けて自国に有利になるように、働きかけることです。
 

企業のイメージ宣伝も同じです。

 

その企業が売りたい商品をイメージ広告することで、それをみた人たちが、なんとなくその商品を買いたくなり、お店に行って、なんとなく買ってしまう。

そして、後でなんでこの商品を買ったんだっけ、と思ってみたりします。

 

繰り返し見たり聞いたりする宣伝の影響力は、人々の潜在意識に働きかけて、感情に働きかけ、そして行動に移すように誘導していきます。

 

中国共産党は、米国市民に対して様々な手段を使って、宣伝活動をしています。

 

その目的は一つ。日本に対する反日感情を植え付けることであり、また中国共産党に対して、同情の感情を植え付けることです。

 

これは、かつて日本が中国と戦争をしていた時から続けられているプロパガンダになります。

 

戸塚悦朗弁護士は、昭和59年(1984年)からジュネーブにある国連に通い、日本の人権問題について問題提起してきましたが、当初は全く相手にされませんでした。

 

しかし、「慰安婦」という言葉を「性的奴隷(Sex Slaves) または(Sexual Slavery)」と表現したら、国連の人権委員会のメンバーの態度が全く変わりました。

 

日本弁護士連合会(日弁連)は、平成4年(1992年)に戸塚悦朗弁護士を海外調査特別委員に任命。海外の運動団体と連携し、国連へのロビー活動を開始。

 

平成5年(1993年)6月のウィーンの世界人権会議において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用され、平成8年(1996年)クマラスワミ報告書で「軍隊性奴隷制(military sexual slavery)」と明記される

 

クマラスワミ報告とは、国連人権委員会の決議に基づいて提出された、女性に対する暴力と、その原因及び結果に関する報告書の通称である。

 

スリランカのラディカ・クマラスワミが、特別報告官に任命されたので、彼女の名前から、クマラスワミ報告と呼ばれています。

 

平成19年(2007年)1月末に民主党のマイク・ホンダ下院議員らが慰安婦問題に関する日本への謝罪要求決議案を提出し、

 

平成19年(2007年)7月30日、日本は慰安婦制度によって「20世紀最大の人身売買」を行い性奴隷としたとして日本に謝罪を要求したアメリカ合衆国下院121号決議が可決された。

 

マイク・ホンダは、世界抗日戦争史実維護連合会(略:抗日連合会)から平成8年(1996年)ごろから資金援助を受けるようになり、米国議員のなかで最も多額である13万9,154ドルの政治資金を集めたとも報道されています。

 

抗日連合会(Global Alliance for Preserving the History of WW II in Asia)は、カリフォルニア州に本部を置く、抗日・反日ロビー活動を主眼とする中国系アメリカ人による団体です。

 

この団体は、アイリス・チャンの著書『ザ・レイプ・オブ・南京』の宣伝販売や、日本企業に強制労働を強いられたとする賠償請求運動、日本軍の慰安婦問題についての支援活動やロビー活動を活発に行っています。

 

平成17年(2005年)には日本の国連安保理常任理事国入りに反対するために全世界で数千万人の署名を集めました。

 

ホンダが連邦下院議員に初当選した2000年の選挙でも資金・組織の両面で支援をおこなったが、2014年の中間選挙からマイク・ホンダへの支援から、インド人のロー・カンナへの支援に切り替えました。

 

平成28年(2016年)11月、マイク・ホンダを破り連邦下院議員に当選したロー・カンナは、平成25年(2013年)5月、尖閣諸島問題における中国の立場を全面的に支持する内容の論文を、抗日連合会と連名で、カリフォルニアの地元紙「サンノゼ・マーキュリー」に寄稿したことがあります。

 

平成18年(2006年)6月19日、それまでの国連人権委員会は、国連人権理事会として改組されました。

 

その中には、女子差別撤廃委員会など10の委員会があり、そのうち5つの委員会で毎年のように、慰安婦問題が提起されています。

 

「性奴隷」が国連で認知された平成5年(1993年)から数えると20年以上もの間、日本政府は全く反論をしてきませんでした。

 

国連の委員会に議案を提起できるのは、国連にNGOとして登録された団体のみですが、そのNGO団体の多くが左翼系団体となっています。

 

日本政府は、外国の基本方針として、国連主義を取っています。
 

しかし、その国連の実態は、左翼系NGO団体の巣窟となっているのです。

また、国連の委員会メンバーは、アフリカや中南米系の人たちが多く、先進国の人たちはあまり多くはありません。

 

それまでの女子差別撤廃委員会では、左翼系NGO団体の提起のみでしたが、ある保守系団体「慰安婦の真実国民運動」が初めて「性奴隷」や「強制」というのは誤りであると問題提起しました。

 

それを聞いた委員長が「慰安婦問題でもう一つの意見があることを初めて知った」と発言しました。

 

国連の女子差別撤廃委員会から、「リスト オブ イシュー(課題リスト)」という質問書が日本政府に送られ、それに対する日本政府の反論や見解を求める流れになります。

 

平成27年(2015年)11月に日本政府は、質問書に対する回答をまとめていましたが、同年12月に慰安婦に関する「日韓合意」が行われたために、外務省は政府の質問書に対する回答を握りつぶそうとしました。

 

その外務省の圧力に応じず、杉山晋輔外務審議官(現外務事務次官)が毅然とした態度で、慰安婦20万人説、強制連行説、性奴隷説を否定し、朝日新聞誤報について国連の場で説明しました。

 

日本政府が国連の場で、左翼系NGO団体に対する反論を毅然とした態度で行ったことは画期的でした。

 

左翼系NGO団体、中国系反日団体、韓国系反日団体にはっきりと反論を言っていくことが、求められていきます。

 

欧米の裁判では、たとえ拒否や却下されても反論を言い続けるということは、とても重要なことです。

 

どうせ却下されるだろうとか、反論しても無駄な抵抗だと思って、何も言わずに黙っていると、それは相手から見たら同意しているとみなされてしまいます。

 

左翼系NGO団体の巣窟となっている国連の人権理事会の場で、反論意見を言える多くのNGO団体が参加するようになれば、慰安婦や南京大虐殺などに関する世界の世論は、全く変わってくることでしょう。

 

(参考図書:「致知」平成28年(2016年)11月号 ”国連幻想から脱却し日本の名誉を取り戻せ”)

 

昭和12年12月20日の南京市内の野戦病院の様子です。

日本軍の軍医が南京の病院で中国の傷病兵を献身的に治療していました。

 

戦後のGHQ占領時にNHKの「真相箱(真相はこうだ)」という番組では、日本軍は手当たり次第に中国人を虐殺したと放送されました。

 

しかし、もし日本軍が中国人を手当たり次第に殺したなら、日本軍の衛生兵が献身的に手厚い看護を中国人に対して施すのは不自然です。

 

これら中国人傷病兵たちは、中国国民党軍が置き去りにしたのであり、日本軍は本格的に救済医療業務を行なっていたのです。

 

このような日本軍の優しさを聞きつけた中国人避難民が、南京に押し寄せてきて、昭和12年12月17日20万人であった人口が、1月後の昭和13年1月17日には25万人と、たった1ヶ月で5万人も増えていました。
(南京安全区国際委員会の調査)

 

南京で献身的に治療していた軍医は、NHK「真相箱(真相はこうだ)」では殺人狂として放送されました。

 

「真相はこうだ」とは、1945年(昭和20年)12月9日より10回にわたりNHKラジオで、毎週日曜日の夜8時から30分間、第1放送および第2放送で同時放送された、GHQによる宣伝(プロパガンダ)番組です。再放送は毎日放送されました。

 

当初は、批判の手紙が多かったので、真実も時々織り交ぜ、日本人が聞いても心地よいような内容を時々放送していくことで、嘘の宣伝(プロパガンダ)を実に巧妙に効果的に、浸透させていくことに成功しました。

 

日本軍国主義者の犯罪を暴くというストーリー展開で、情緒的な音響効果を駆使して、ドキュメンタリードラマ形式にして放送していき、日本人の贖罪意識を植え付けるのに効果的な役割を果たしました。

 

その番組の脚本(シナリオ)は、GHQの民間情報教育局 (CIE) ラジオ課が担当しましたが、表向きはNHKが作成した番組として放送していました。

 

「真相はこうだ」は、「真相箱」とタイトルを変え、昭和21年2月から昭和23年1月まで放送されました。

 

このGHQ宣伝(プロパガンダ)番組は、ほとんど嘘の情報を、まるで真実であるかのように日本人に対して放送したのですが、NHKは実は「嘘でした」と訂正していません。

 

終戦間際の大本営発表では、南方戦線で日本軍は負けているのを、勝っていると嘘の放送をして国民を欺いたと、批判する方たちがいます。

 

これは、戦争中ということもあり、国民の戦意高揚を維持するための目的でしかありませんでした。

 

しかし、このGHQ宣伝番組「真相箱(真相はこうだ)」は、日本人に十字架を背負わせる目的のために、嘘の宣伝(プロパガンダ)をしたのです。

 

そして、戦後71年経過した今も、この十字架を背負わされているのです。

 

(写真は、12月20日林特派員撮影「支那事変画報」朝日新聞社刊行 昭和13年(1938年)1月27日発行より)

 

 

昭和12年12月13日南京が日本軍により陥落。

 

そして、真っ先に中国人に銃口を向けたのは日本軍ではなく、実は、中国軍だったのです。

 

以下は、その当時の南京を守備していた、元中国軍兵士の証言を多数掲載した本(「南京大虐殺全記録」何建明著)の内容となります。

著者である何建明は、中国作家協会副主席を勤めている、中国では部長級の高官になります。

 

「南京を守備していた中国軍は国民党軍であり15万人いましたが、2万人が戦死し、残りの13万人が戦わずに逃げ回りました。

 

指揮官たちが真っ先に逃げてしまったので、残された軍隊の指揮命令系統が完全に麻痺してしまいました。

 

撤退命令を受けていない兵士と、受けたという兵士の間で、激戦が繰り広げられました。

 

(同じ国民党軍の内部で戦闘状態となったのです。)

 

戦場は唯一の通行口である南京城の城門で行われました。
ここでは5、000人以上の兵士と平民が命を落としましました。

 

人々は命かかがら別の場所から逃げ出して、ようやく揚子江のあたりまで辿り着いたが、対岸まで運ぶ船は、2、3隻しかなかった。
そこでまた、熾烈な血まみれの奪い合いが始まったのだ。

 

他人を船から川に突き落とす者、川に落ちて上がれず船の縁を掴む者、定員オーバーのため船が転覆して大声で助けを求める者、

 

机や椅子などにつかまりながら川の中であがく者など、死を恐る人たちは、手段を選ばずに必死に避難している。

 

もっとも残忍なのは、船に乗れなかった兵士たちが、離れていく船上の人たちを狂った野獣のように機関銃で掃射し、おびただしい人を死なせたことである。

 

川一面に死体が浮かび、血の海と化した。死者の数は数万人に上ると推測される。

 

この血なまぐさい中国人同士の殺し合いをどう解釈すればいいのか、筆者にはわからない。困惑と怒りを感じるだけだ。」
(「ついに中国で始まった大崩壊の真実」邱 海涛 著)(一部追加)

 

マギーフィルムというものがあります。

 

これは、ジョン・ギレスピー・マギー牧師が、南京が陥落した後、当時の様子を16ミリフィルムに収めた映像を元に、解説した文字を途中に挿入したフィルムとなります。

 

このフィルムは4部コピーされ、ジョージ・アシュモア・フィッチらが、昭和13年(1938年)4月にそのコピーを持って渡米し、ロサンゼルスを皮切りに全米各地で映写会を開いていきました。

 

ハロルド・J・ティンパーリの指示により、「侵略された中国」と題して、YMCA(キリスト教青年会)による反日キャンペーン用に全米各地で上映されました。

その目的は、日本軍の蛮行を訴えることでした。

 

ハロルド・J・ティンパーリとジョージ・アシュモア・フィッチは、南京大虐殺30万人説の有力な証拠の一つとされた『戦争とは何か-中国における日本の暴虐』(1938年7月)という本を共著で出版しました。

 

また、ハロルド・J・ティンパーリは、中国国民党(蒋介石)の中央宣伝部国際宣伝処の顧問を務めていました。

 

ジョージ・アシュモア・フィッチは、第二次上海事変の後、上海の日本人街の虹口公園で行われた祝賀式典(昭和7年4月29日)で、その会場に爆弾を投げ、

 

爆弾テロを行ったテロリスト、尹奉吉を、自身の運転する自動車で会場まで送迎したことがありました。(上海天長節爆弾事件)

 

この事件は、大韓民国臨時政府の首班の金九の指示で尹奉吉を使い行われた爆弾テロでした。

 

ワシントンでは国務次官のスタンレイ・ホーンベックをはじめ下院の外交委員会、戦時情報局などの要人、新聞記者などの報道関係者にもフィルムを見せています。

このフィルムは、昭和13年(1938年)5月16日の「LIFE」誌においても紹介された。

 

このマギーフィルムは、全米で上映会が開催され、反日世論の醸成と中国に対する同情論の醸成に、大きな威力を発揮しました。

 

終戦後の東京裁判で、マギー牧師は証人として発言しました。

2日間に渡る証言に対し、日本陸軍の松井石根被告の弁護人であるブルックス弁護士が、反対質問しました。

 

「現行犯をご覧になったことがありますか?」

 

とブルックス弁護士が問いつめると、二日にわたって証言したことは全部ウソで、結局窃盗と婦女暴行が各一件だけあることが判明し、法廷で笑い物になりました。

 

さらに、マギー牧師の日記には「私たちは本当は殺害現場を見ていません」と書かれています。(滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』(三交社、1997))

 

また、東京裁判では、マギーフィルムは証拠として提出されることはありませんでした。

 

証拠として採用されないようなフィルムによって、米国世論は、反日に傾き、中国に同情するようになっていったのです。

 

その宣伝効果は抜群でした。

 

この反日の米国世論が、対日経済制裁となり、その後の日米開戦へと大きく誘導されていったのです。

 

このプロパガンダで日本が被った損害はどれほどあったことでしょう。

松井石根(まつい いわね)陸軍大将は、マギー牧師の証言は嘘であったにもかかわらず、東京裁判でB級戦犯として処刑されてしまいした。

 

このマギーフィルムに映し出されている映像は、多くは南京難民区内の鼓楼病院で撮影されたもので、幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っています。

 

幼い子供や女性は、日本軍の暴行を受けたと字幕の説明がされていますが、実際にその証拠となる映像がありません。

 

虐殺場面とされる映像については、字幕の説明のみで肝心の映像は写っていないので、写っている死体が戦闘で死んだものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍の手によるものなのか、中華民国軍の敗残兵の手によるものかなどが明らかではありません。

 

先ほどの当時の南京を守備していた、元中国軍兵士の証言では、

「もっとも残忍なのは、船に乗れなかった兵士たちが、離れていく船上の人たちを狂った野獣のように機関銃で掃射し、おびただしい人を死なせたことである。

川一面に死体が浮かび、血の海と化した。死者の数は数万人に上ると推測される。」
(「ついに中国で始まった大崩壊の真実」邱 海涛 著)

 

とありますので、マギーフィルムに映し出されている川岸の遺体は、この時のものかもしれません。

 

この東京裁判で証拠として使われなかったようなマギーフィルムは、平成27年(2015年)に南京大虐殺が、ユネスコ世界記憶遺産に登録された際の証拠資料として採用されました。

 

 

 

 

 

毛沢東は生前、なぜ、”南京大虐殺”に触れようとしなかったのでしょうか?

 

実は、日本軍が南京を陥落したとき、中国奥地の延安という場所に潜んでおり、日本軍と戦った事実がないことがバレるのを恐れたからです。

 

昭和12年12月13日に南京が日本軍により陥落しました。
 

その直前の12月7日、蒋介石夫妻やドイツ人軍事顧問らは、米軍パイロットの飛行機により南京を脱出し、重慶に国民党政府の新首都を置きました。

 

その頃、毛沢東はどこで何をしていたのでしょうか?

 

毛沢東の行動を記録した「毛沢東年表」には、「南京失陥(陥落のこと)」というたった4文字しか記載がありません。
(「毛沢東年表」中共中央文献研究室編纂)

 

毛沢東共産党軍(八路軍)は、ほとんど抗日戦には参戦せず、宣伝工作に力を入れて、人民の赤化(共産化)を積極的に行なっていました。

 

毛沢東の狙いは一つ、中国統一です。

 

そのためには、中国大陸における正規軍である蒋介石国民党軍に勝利しなくてはなりません。

 

しかし、貧弱な軍隊しか持っていない八路軍にとって、厳しい現実でした。

そこで、毛沢東はコミンテルンから提案を受けました。

 

それは、蒋介石国民党軍と日本軍を戦わせ、日本軍が中国大陸から敗退したあと、消耗した国民党軍を打ちのめす、というシナリオです。

 

そのために、毛沢東は、まず、国民党の張学良を共産党に寝返るように工作します。

 

周恩来や潘漢年(はん・かんねん)を送り込み、「共に抗日統一戦線を組もうではないか。中華民国の誇りを取り戻すのだ」と説得し「抗日救国(一致団結して抗日に力を注ぎ、国を救おう)」を訴えました。

張学良は、共産主義にかけてみようと思いました。そして、10月29日、張学良は、ある計画を毛沢東の秘密連絡係の葉剣英(よう けんえい)に伝えました。

それは、蒋介石を拉致監禁するというものでした。

毛沢東は、蒋介石亡き後は、張学良を中国の元首にすると約束し、この張学良による拉致計画を煽りました。

 

その一方、毛沢東はスターリンにこの拉致計画について打電するのを控えました。
なぜなら、スターリンから反対されることが予想されたからです。

 

コミンテルンの計画は、日本軍と蒋介石の国民党軍を互いに戦わせて、日本軍が大陸から撤退したのちに、疲弊し切った国民党軍と共産党軍が戦い、この内戦に勝利した共産党軍が、中国を統一すると言うシナリオでした。

 

蒋介石を拉致して殺害してしまったら、このシナリオが成り立たなくなってしまうのです。



ソ連の諜報機関近いアレクサンドル・チトフは、「蒋介石を拘束する問題が、昭和11年(1936年)11月に葉剣英と張学良の間で話し合われた」と記録を残しています。

蒋介石は、紅軍(中国共産党)を殲滅するために長年戦っていました。(北伐)

「攘外先安内(国内を安定させてから外敵(日本など)を撃ち払う)」という中華民族統一の戦略を持っていて、とうとう最後の一歩のところまで追い詰めることができました。

しかし、西安にいた張学良が、紅軍(中国共産党軍)との最後の戦いに対し、軍事行動を起こさなかったことに蒋介石は激怒し、昭和11年12月4日、数人の部下だけ引き連れて蒋介石は西安に向かいました。

周りのものは止めましたが、蒋介石は大丈夫と言って、張学良の元に向かいました。

昭和11年(1936年)12月12日早朝、張学良の兵士である実行部隊400名が、蒋介石の宿泊していた温泉保養地、華清池の宿舎を襲撃します。蒋介石の護衛兵10数名が応戦しますが多数射殺されました。

蒋介石は窓から外に飛び降り裏手の山に逃げ隠れていましたが、寝間着一枚姿で岩の割れ目に潜んでいるところを見つかってしまいました。その逃げる際、入れ歯を落としてしまいました。

蒋介石は張学良に捕まり、拉致監禁されてしまいました。(西安事件)

張学良は8項目の要求を蒋介石に突きつけ、それを承諾すれば解放してやると脅迫しますが、蒋介石は全て拒否。

12月12日、毛沢東はモスクワに次のような電報を打電しました。「南京政府が蒋介石を罷免して人民裁判に付すことを要求」したいと。

一方、張学良には「最善の選択肢は、蒋介石の殺害です」と打電しました。

12月13日、南京政府の行政院長の孔 祥熙(こう・しょうき)(蒋介石の義理の兄)が、南京のソ連大使を呼び、「万が一、蒋介石に危険が及んだら、中国国民の怒りは中国共産党だけでなくソ連にも及び、日本と手を組んでソ連を攻撃する事態になるだろう」と警告しました。

 

12月14日、ソ連の2大新聞「プラウダ」と「イズベスチャ」がその一面に、「張学良の行動は、日本に利益を与えるものである」と論表を書き、蒋介石支持を明らかにしました。

張学良は、ソ連の支持を得られないということは、蒋介石を拉致監禁したのは失敗だったということに気づきました。

なぜなら、ソ連を無視して毛沢東の言う通りに蒋介石を殺してしまったら、南京政府(国民党軍)と日本軍が張学良と毛沢東の紅軍に対し、軍事行動を起こして戦闘になってしまうからです。

そして、毛沢東の紅軍はほとんど軍事的な戦力を持っていないので、殲滅させられるのは目に見えていました。

張学良は拉致監禁した蒋介石の元へ訪れ、次のように言って泣き崩れました。

「愚かで軽率な行動を取ってしまったと悟りました。あなたを解放させてください。ただし秘密裏にと。」

毛沢東は側近の周恩来を西安に送ります。そして「最後の手段」(殺害)を張学良に実行させるように指示しました。

12月15日毛沢東は、周恩来がそちらに向かうので、延安まで迎えに来て欲しいと打電しますが、張学良は無視。

張学良は、ソ連が支持しないことを知り、毛沢東に裏切られたと感じたのです。

12月16日、コミンテルン書記長ディミトロフは、毛沢東に次のような電報を打電しました。

「客観的に抗日統一戦線を害するのみであり、中国に対する日本の侵略に利益を与えるのみである。」

「中国共産党は、平和的解決に向けて断固たる立場を取らなければならない」という内容で、これは蒋介石を解放せよ、という命令でした。

蒋介石の殺害計画を指示していた毛沢東は、怒りを抑えきれなくなって地団駄を踏みました。

12月16日、南京政府軍(国民党軍)が西安に向けて、張学良討伐を宣言しますが、蒋介石は自重するようにメッセージを送りました。

12月20日に宗子文(蒋介石の義理の兄)が西安に入り、2日後の12月22日に、蒋介石が入れ歯をなくしたのでまともに話せないというので、蒋介石夫人である宋美齢とが西安入りしました。

そこで宋美齢は臆することなく、有利となるように交渉しました。

それは、夫が首を切られることよりも、ソ連共産主義に方針転換することを選び、その代わりに夫や自分(宗家ファミリー)の財産は没収しないことというものでした。

これは、共産主義化したら、富裕層の財産は没収されてしまうので、宋美齢と姉で孫文の妻だった宋慶齢と姉の宋靄齢、宗家3姉妹の財産は特別扱いにして、財産を没収しないことを約束させたのです。

毛沢東が中国統一した後も、この約束は守られました。

それから夫が中国大陸で「メンツ」を保つことができるように時間を与えることというものでした。

毛沢東は、西安に派遣した側近の周恩来と、蒋介石が会談することを要求しました。

なぜなら、中国の正式な政府として国内外に認められている国民党政府の代表である蒋介石と、

当時はまだ地方のゲリラ部隊に過ぎなかった毛沢東共産党の側近である周恩来が、対等に会談したとなると、

中国共産党は、それまでの”共匪”(ゲリラ部隊)から、国政の舞台での正式な政党として格上げされると言うことを意味していたからです。

蒋介石は、周恩来との会談を拒否していましたが、モスクワに人質にされている、息子の蒋経国を南京に帰国させることを、会談の条件に出しました。


12月24日の夜、周恩来が蒋介石の元を訪れ、「ご子息は帰国されるでしょう」とスターリンからのメッセージを伝えました。

交渉が全て終わったあと、蒋介石は威厳に満ち、何も言わず約束もせず、無条件解放を要求したと世界が報道しました。これにより、メンツは保たれました。

12月26日、蒋介石と宋美齢は、南京に戻ることができました。

無事に蒋介石が戻ってきた南京では、「蒋介石万歳!」「中華民国万歳!」と人民が叫び、爆竹が鳴り続きました。

 

この合意により、毛沢東の八路軍と戦闘することを止め、抗日戦に共に戦うということになりました。(国共合作)

 

蒋介石は、あともう少しで、中国共産党軍を殲滅することができたのに、西安事件により、中共を攻撃することができなくなってしまいました。

 

しかも、莫大な軍事資金援助を中共にすることで、壊滅寸前であった中共軍の軍備拡大を援助しなければならなくなってしまったのです。

 

もし、西安事件がなければ、中国共産党はこの世からなくなっていたかもしれません。

 

「日本切腹中国介錯論」を書いた、当時北京大学教授だった胡 適(こ てき)氏は次のように語っていました。

 

「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と。

 

これにより、毛沢東は蒋介石と戦闘をし、戦力を消耗する危険がなくなり、ひたすら共産党軍の軍備増強と、中国人民の赤化政策に専念できるようになりました。

 

さらに、昭和12年(1937年)、毛沢東は、蒋介石に毎月20万元から30万元の軍事費の支払い要求までしています。

 

これは昭和12年当時の上海の一般労働者の2050年分の年俸に相当します。このような莫大な金額を毛沢東は、蒋介石を拉致監禁することにより、手に入れることに成功しました。

 

「日本軍との正面衝突を避けよ、我々の主要な任務は八路軍(共産党軍)の軍備拡大であり、いたずらに軍備を消耗するようなことをしないこと、後方のゲリラ戦に徹して、決して前線に立って抗日の英雄になってはならない。」

というような事を、毛沢東は部下に厳命しました。
(「我が回想」張国壽)

 

蒋介石が、大々的に真正面から抗日戦をやっている間、毛沢東は、小さなゲリラ戦をやって、それを大きく中国人民に向けて宣伝する。

 

それにより、軍備を消耗することをせずに拡大させて、なおかつ、中国人民に対して中国共産党軍がいかに素晴らしい軍隊であるかということを浸透させるという戦略でした。

 

そして、その共産党思想に洗脳するための宣伝費として、蒋介石から抗日戦のためとして要求した軍事費が充当されました。

(「剿匪(しょうひ)戦史」蒋介石著 国防部史政局)

 

昭和12年(1937年)朱徳が引率した八路軍の幹部に対し、毛沢東は次のように極秘指示しました。

 

「70%は我が党の発展のために使い、20%は国民党との妥協のために使う。残りの10%だけを抗日戦に使う。」

 

つまり、蒋介石と共に抗日戦に団結して戦おうと協定を結んだにもかかわらず、それは建前であり、実は、日本軍と戦うつもりはほとんどなく、その先に待っている蒋介石との戦いのために、備えていたということになります。

 

毛沢東は、中国統一のために3段階にシナリオを作っていました。

 

第一段階:国民党との妥協段階
表面上はあたかも国民党政府に服従しているように見せかける。

 

第二段階:競争段階
2、3年かけて政治力と軍備力を拡張し、国民党政府に対抗し壊滅できるまで、継続する。

 

第3段階:進撃段階
国民党軍の各地区の交通手段を寸断し、孤立して連携できないようにする。そして、最後に国民党から指導的地位を奪う。

(「剿匪(しょうひ)戦史」蒋介石著 国防部史政局)
(「中共党的策略路線」張浩之講演原稿付録 司法行政部調査局)
(「対日抗戦期間中共統戦策略の研究」梅良眉氏著)

 

この現場にいた、李法卿(り・ほうきょう)八路軍幹部が、後ほど、その内容を口外しました。

 

八路軍はゲリラ戦に徹するといっても、一度、日本軍と正面から大規模に戦闘したことがありました。

 

昭和15年(1940年)8月、山西省・河北省周辺一帯で起きた戦闘で、八路軍が、40万人という大規模な兵隊が正面から攻撃して戦い、日本軍の補給路に大打撃を与え、日本兵276名が戦死するというものでした。(百団大戦)

 

対支那派遣軍司令官となる岡村寧次大将は、八路軍が以外にも強かったので、その指揮した彭徳懐(ほう・とくかい)を高く評価しました。

 

しかし、毛沢東は、彭徳懐を激しく非難。その理由は、いたずらに軍備を消耗させたことと、八路軍が強いと日本軍が認識してしまうと、今度は、八路軍を徹底的に殲滅しようと、日本軍が本気になってしまう恐れがあるためでした。

 

このような徹底した戦略により、毛沢東はシナリオ通り、昭和24年(1949年)10月1日、中国統一を果たしました。

 

毛沢東が生きていた時代、中国人民には次のように刷り込まれていました。

 

「抗日戦争を戦ったのは勇猛な八路軍や新4軍(後の人民解放軍)であり、国民党軍(蒋介石)は山に逃げ、特に蒋介石は日本敗戦の後、初めて山から降りてきて、国共内戦(毛沢東と蒋介石との内戦)を始めた。」と。

 

「毛沢東は神のごとく神聖で偉大であり、蒋介石は日中戦争において戦わなかった売国奴である」と骨の髄まで染み渡るほど徹底的に刷り込まれている中国人民。

 

このように中国人民に対して、宣伝(プロパガンダ)してきたので、”南京大虐殺”があったとして公開されてしまうと、毛沢東にとって非常に都合が悪いことになってしまうのです。

 

なぜなら、実は、日本軍が南京に侵攻し陥落した昭和12年12月13日、毛沢東八路軍は、中国奥地の延安におり、日本軍と戦闘した事実がなかったからです。

 

そして、実際に日本軍と戦闘をしていたのは、蒋介石率いる国民党軍であった、と中国人民に知られてしまったら、中国共産党の建国の歴史が根底から崩れ去ってしまう恐れがあるのです。

 

それを恐れて、毛沢東は、”南京大虐殺”という言葉を一度も口にしたことがなく、中学校の歴史教科書にも記載させたことがありませんでした。

 

ここで、疑問に思う人がいるかもしれません。

 

それは東京裁判で、”南京大虐殺”の事実があったとして、B級戦犯として処刑された人がいるではないかと。

 

東京裁判が行われていた昭和21年(1946年)から昭和23年(1948年)、連合国の一員であったのは、蒋介石国民党政府(中華民国)であり、毛沢東率いる中国共産党ではありません。

 

さらに当初の国連の常任理事国は、米国、ソ連、フランス、イギリス、中華民国でした。

 

中国共産党は国連の常任理事国にも入っていませんでした。

 

ですので、日中戦争当時に、蒋介石が行った宣伝(プロパガンダ)に基づいて東京裁判が行われ、南京大虐殺があったとして、一方的に戦犯を祭り上げて、処刑までしてしまったのです。

 

1958年版の中国の「中学歴史教師指導要領」の中の「中学歴史大事年表」の1937年には単に、「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」としか記載がありません。

 

その一方、1927年には「412大虐殺」と記載があります。
 

412大虐殺とは、蒋介石が共産党員やそのシンパたちを殺害した事件で、死者120人負傷者180人でした。

 

”南京大虐殺”という言葉が、教科書に登場するよになったのは、毛沢東が死去した、昭和51年(1976年)以降になります。

 

南京大学の高興祖教授が南京大虐殺のテーマで本を出版しようとしましたが、外部に出版することを禁じられました。

 

毛沢東は南京に20数回訪問していますが、一度も”南京大虐殺”という言葉を発言していませんでした。

 

また、毛沢東は、現在、中国全土に100以上ある:南京大虐殺”記念館を、一つも建設しませんでした。

 

その一方で、1956年に、南京太平天国歴史博物館を建設しました。

 

この太平天国とは、皇紀2511年(西暦1851年)1月、清王朝の反乱軍である太平天国軍が首都南京に侵攻した際、100万人以上の大虐殺を行ったという歴史的事実を展示する記念館です。

 

この反乱で、中国全土で2、000万人から5、000万人もの犠牲者が出たと言われています。(太平天国の乱)

 

ここまで徹底して、”南京大虐殺”を封印してきた毛沢東。
 

中国人民もこの事実を不思議に思い、中国のインターネットサイトでは、この話題で賑わっているようです。

 

平成27年(2015年)9月3日、中国共産党は、抗日戦勝利70周年記念祝賀パレードを北京で大々的に行いました。

 

これは,中国人民に対する宣伝(プロパガンダ)であり、日本を含めた海外に対しての宣伝(プロパガンダ)でした。

 

中国共産党は、あくまでも日本軍と戦って勝利したという嘘の宣伝(プロパガンダ)を続けていかなくてはならないのです。

 

なぜなら、中国人民が本当の事実を知ってしまったら、中国共産党の建国の歴史が根底から崩れ去ってしまうからです。

  (参考図書:「毛沢東ー日本軍と共謀した男ー」新潮社 遠藤誉著、
「中国の戦争宣伝の内幕」ヴィンセント・ウイリアムズ著

「マオ 誰も知らなかった毛沢東」ユン・チアン ジョン・ハリディ共著)
 
 

沖縄を舞台に民族分断工作を展開している中国共産党。

 

実は、その分断工作の原点は、戦時中、日本共産党野坂参三による”思想改革”をモデルとしています。

 

日本が中国大陸で戦争をしている時、八路軍(共産党軍)は、近代的装備を持たないゲリラ部隊でした。

 

そこで、真正面から正攻法で戦うことをせず、後方部隊をゲリラ的に攻撃する戦法を得意としていました。

 

しかし、それでは敵軍に完全勝利することはできませんので、日本兵捕虜を有効に使うことを重視しました。

 

ゲリラ戦中心の八路軍にとって、主力となる必要不可欠な戦力が日本兵捕虜だったのです。

 

日本兵捕虜は当初、シナ兵の日本兵への憎しみから、殺害されていましたが、昭和13年(1938年)に日本人捕虜を殺害せず、親切かつ丁重に扱うよう命令が出され、それが八路軍全体に徹底されていきました。

 

昭和14年(1939年)、日本兵士覚醒連盟という組織が、中国共産党の朱徳・総司令官の指導の元に、杉本一夫氏、岡田義雄氏(高木敏雄氏)、小林武夫氏により組織されました。彼らは日本人で最初の八路軍の捕虜となった人たちでした。

 

その日本兵士覚醒連盟で、日本兵捕虜の思想改造が行われました。
 

日本の帝国主義者は、日本人に狂信的な愛国心、そして中国人への民族的な偏見を吹き込んでいる、そのため日本軍は頑強で、日本兵は降伏しない、という認識が八路軍にありました。

 

当初は、日本兵に対して、天皇制を廃止して革命を起こそうと説得してみましたが、逆に凄まじい抵抗に遭いましたので、方針変更します。

 

八路軍は、中日両国の人民の解放のために戦っていると吹き込み、
中国兵の敵は、日本兵ではなく、自らの目的のために利用し、抑圧している日本の軍閥や財閥であるとプロパガンダするようにしました。

 

日本軍は天皇崇拝を徹底的に叩き込まれていたので、それを破壊することを諦め、代わりに軍国主義者という対立軸を作りました。

 

軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主義者への批判と人民(国民)への同情を呼びかける心理工作を繰り返しました。

 

人民(国民)に戦争責任がなく、むしろ被害者であるという論理を用いて、
人民(国民)と軍国主義者という、2つの対極を分けて考える”2分法”を取ったのです。

陸軍の兵隊は、地方の農村出身者が多く、世界恐慌の影響でとても貧しい生活を送っていました。

 

そして、北一輝が書いた「日本改造法案大綱」をバイブルとして革命思想を持った兵士は、この貧困の原因は一部の裕福な資本家出ある財閥と政治家出あるとして、何度もクーデーターを起こしていました。

 

この”2分法”は、このような日本陸軍の兵隊に効果的でした。

 

日本兵士反戦同盟(のち日本人民解放連盟に名称変更)が、昭和15年(1940年)に延安に設置され、「日本労農学校」や「第二学校」などの捕虜収容所において野坂参三は校長を務めました。

 

この野坂参三は日本共産党員で、日本から中国に亡命してました。

 

日本労農学校で野坂参三は、集団でお互いに相手の自己批判を徹底的に繰り返させ、それまで積み上げてきた自尊心や価値観などを、木っ端微塵に打ち砕くことにしました。

 

この方法は、それまで深く染み付いた古い思考を破壊し、新しい生活様式を受け入れるのに役立つと考えられました。
(戦後、泊まり込みで行う企業研修でこの方法を用いている業者もありました。)

 

疲労と自己批判で意識がモウロウとしてきたところに、何度も何度も自分自身の言葉で、政治的教義(マルクス・レーニン主義)を反復させるという思想改造をしていきました。

 

捕虜の日本兵たちにとっては、共産主義者になることだけが、過去を絶ち切って、罪深い過去の記憶から自らを解脱させる唯一つの方法だったのです。

 

解脱とは、しがらみから解放するということです。人間誰でも色々なしがらみを持っていきています。

 

そのしがらみから解放することができれば、幸せで生き生きと生きることができると、仏教では説明します。

 

そこでは、みんなで共産主義者になって、毛沢東を同志と呼び、中共軍を解放軍と賞讃して、そのもとに働く彼ら自身を、解放の戦士と呼称することによって、自分自身を肯定する居場所をつくりました。

 

日本労農学校での日本兵捕虜の思想改造は、成功を収めました。

捕虜の中で次のように話す人が出てきました。
 

「周恩来総理は(私の)人生になくてはならない指導者である」
「中国共産党と八路軍は私に第二の命を与えてくれた。それは私に、正しい人として生きる目的と意義を教えてくれた」

 

このような「覚醒した」日本兵たちは、新たに日本兵捕虜の獲得に利用されていきました。

 

昭和19年(1944年)3月4日、日向勝・砲兵中尉をはじめとする48人が八路軍の捕虜になりました。そのうち30人が日本人民解放連盟に参加しました。

 

日向勝は、砲兵教官として新四軍(八路軍)に止まり、砲兵部隊を育成し、第三野戦軍砲兵連隊の作戦参謀や大隊長などの要職を歴任しました。

 

日本の終戦後に始まった、日本の終戦後に始まった、淮海戦役、渡江戦役などの国府軍との大戦に参加して、この野戦軍は大いに活躍し連戦連勝。

 

共産党軍の勝利に大きく貢献しました。

 

日本人捕虜を、この”2分法”による思想改造は、GHQの占領政策のモデルとされ、日本人民解放連盟に加盟している日本人や日本共産党がその手足となって、日本国民全体に対して、”思想改造”の活動をしていきました。

 

この思想改造はウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)と呼ばれ、日本人に罪悪感を植え付け、一億総懺悔、日本軍国主義が悪玉であり、日本国民はその悪玉による被害者という、”2分法”を徹底的に植え付けられていきました。

 

プレスコードを定めて、新聞報道を規制し、検閲、焚書(すでに流通している書籍を絶版にし、回収廃棄すること)などをしていきました。

 

これにより、戦時中は鬼畜米英と言って攻撃の対象であった米国などは、悪玉である日本軍国主義から救った解放軍ということになり、米軍を非難するようなことができなくなるように、”思想改造”していきました。

 

同時に、中国共産党に対しても同じであり、日本軍国主義は、中国人に対して悪の限りを尽くしてきたので、懺悔しなければならない、という思考パターンを、日本人の中に植え付けていきました。

 

昭和27年4月28日、日本が主権回復し、日本本土からGHQが引き上げて行ったあと、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)の一部としてのプレスコードは失効し、検閲なども終了しました。

 

しかし、沖縄は主権回復することができず、その後も引き続き占領政策が継続されていきました。

 

沖縄では、4月28日を「屈辱の日」とします。
それは、GHQによる占領から日本本土が主権回復することができたのに、沖縄は、取り残されてしまい、引き続き米国の占領下に置かれたからです。

 

沖縄自由民主党を除く全政党・教職員会・官公労・沖縄青協・福祉関係など17団体によって、沖縄県祖国復帰協議会(沖縄復帰協)が結成されました。

 

米国から国際連合への提案があれば、沖縄などを米国の信託統治領とすると定める日本国との平和条約第3条の撤廃などの基本政策を決めました。

 

沖縄復帰協は、那覇市で第1回屈辱の日祖国復帰県民総決起大会を開催。以後、沖縄が返還される昭和47年(1972年)まで毎年復帰運動が行われました。

 

一方で、米軍による占領政策は、引き続き”2分法”を基本として、日本軍国主義を悪玉とし、沖縄県民は被害者であるという対立軸を作り、”思想改造”していきました。

 

そして、米軍は、その悪玉である日本軍国主義から解放した解放軍であると、洗脳していきました。

 

日本軍国主義は沖縄県民を苦しめ、また中国大陸では悪の限りを尽くしてきた、極悪非道な軍隊であったと、新聞などのマスメディアや、学校教育を使って繰り返し、沖縄県民に刷り込んでいきました。

 

昭和47年(1972年)5月15日、沖縄の主権回復後、米軍による思想改造は無くなりましたが、その代わり中国共産党による思想改造は引き続き、今現在まで続けられています。

 

明治5年(1872年)琉球藩が設置され、明治12年(1879年)沖縄県が設置されました(琉球処分)。

 

これにより500年続いた琉球王国が滅亡しましたが、琉球民族は一人の犠牲者も出していない、平和的な日本国への併合でした。

 

その琉球処分の時に琉球民族は、日本政府により滅ぼされた少数民族である、と宣伝(プロパガンダ)しています。

 

中国共産党が、チベット国に侵略し、チベット民族を大虐殺することで、自国の領土とした歴史的事実とは、大きく異なります。

 

この終戦後71年間にわたる、琉球民族と大和民族との分断政策により、次第に沖縄県民の意識は反日に、そして中国寄りに傾いていきました。

 

日本本土が主権を回復した昭和27年4月28日を「屈辱の日」と定め、毎年、日本本土復帰運動を繰り返してきた沖縄県民。

 

かつての熱烈なまでの日本本土復帰への情熱は、今は完全に薄れてしまったようです。

 

中国共産党は、さらに「琉球独立工作」を活発に繰り広げています。

「人民日報」の環球時報では、次のような記載があります。

 

1、民間の研究・議論により、日本の琉球に対する「不法占拠」の認識を世界に広める。

 

2、中国政府の名義で国際社会に対し、琉球問題を提起する。

 

3、実際の力を投入し、沖縄地区に「琉球国復活」の勢力を育成する。
(「人民日報」環球時報 2013年5月8日)

 

中国共産党では、沖縄の帰属問題を3段階で始動できるとしています。

 

このように、中国共産党は、国家戦略として計画的に、そして用意周到に多くの予算を割いて、米国などに対し「日本には琉球の主権はない」「琉球は日本のものではない」という世論を醸成しているのです。

 

この中国共産党による歴史戦に対し、日本政府は、中国共産党に遠慮して全くの無防備、無抵抗主義なので、中国共産党のやりたい放題の状態です。

 

そして、沖縄で日本革命闘争を繰り広げている、沖縄県知事のなすがままとなっています。

 

その昔、沖縄を守る、祖国を守ると誓い、若い命を散らして行った日本人たちがいました。

 

昭和20年4月1日、沖縄本島に米軍が上陸。
これを迎え撃ち、沖縄と祖国を守るために、日本軍と官僚、そして一般人が共に戦いました。

 

3ヶ月に及ぶ総力戦で12万人以上の沖縄県民が戦死。
沖縄戦を戦ったのは沖縄県民だけではなかった。

 

日本全国47都道府県から沖縄戦に参戦。
戦死した兵隊の出身者で一番多かったのは、北海道からの兵隊でした。その数1万人以上。

 

全国の若者が祖国防衛のために沖縄戦に、その若い命を捧げたのです。
沖縄県外の出身者の戦死者は6万6千人以上。

 

一方、米軍の死者・行方不明者12,520人。
負傷者72、012人。

 

死を恐れずに真一文字により突撃してくる特攻隊。
 

この戦闘の恐怖による神経症のため戦線離脱した兵士、2万6千人。

その損害の大きさに米軍は、さらなる日本上陸作戦を躊躇しました。

 

沖縄戦での戦闘が、日本民族を滅亡から救ってくれました。

 

沖縄県民、沖縄県外の日本兵たち一丸となって米軍と戦ったのです。
沖縄を守るために、祖国を守るために。

 

大田実海軍中将は、沖縄戦で、海軍最先任者として沖縄根拠地隊司令官を務め、米軍上陸時に約1万人の部隊を率いて沖縄本島小禄半島での戦闘を指揮。

 

沖縄での海軍部隊の戦いぶりは米国公刊戦史に以下のように記述されています。

 

「小禄半島における十日間は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準以下でありながら、いつかはきっと勝つという信念に燃え、

 

地下の陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、しかも米軍に最大の損害をあたえるためには喜んで死に就くという、日本兵の物語であった。」

 

昭和20年6月6日、大田実(おおたみのる)中将は、海軍次官宛に次のような訣別電報(玉砕間際の最後の電報)を打電しました。

 

「沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。

 

県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

 

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。

 

にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。

 

残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲

爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、

 

軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

 

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

 

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

 

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

 

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

 

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、

 

(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、

 

沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

 

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

 

沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。」
大田実(おおたみのる)中将

 

沖縄戦で散った英霊たち。

 

その英霊たちの思いに動かされ、当時の政治家は、米国との沖縄返還交渉を粘り強く続けた結果、ついに昭和47年5月15日本土復帰が実現したのです。

 

それでも、中国共産党による「民族分断工作」「琉球独立工作」に
対し、遠慮して、何も対抗措置を取らないのですか?

 
 

 

昭和21年(1946年)2月3日、北朝鮮との国境沿いの満州国の通化という場所で、朝鮮人民義勇軍(李紅光支隊)とシナ共産党軍(八路軍)による、3000名あまりの日本人大虐殺事件が起きました。
(通化事件、2・3事件)

 

終戦後まもない昭和20年8月20日、通化高等女学校にソ連兵が乱入。女子生徒を連行しようとしたので、女教師が身代わりとなり、連行されていった。

 

その後、深夜に返されたが、その女教師は自殺してしまった。ソ連兵に強姦(レイプ)されたためであることは、容易に想像できた。

 

8月24日に、ソ連将校20名と兵隊200名が通化市に進駐してきましたが、その半数以上は、日本軍(関東軍)から接収した銃や軍靴を身につけていました。

 

また、日本軍(関東軍)から接収した大量の武器弾薬をソ連軍から横流ししてもらった

中国共産党軍(八路軍)も同市に駐留するようになりました。

 

以後、通州市はソ連軍と、中国共産党軍(八路軍)により支配されるようになりました。

 

ある日、路上で真昼間から日本人女性を強姦(レイプ)しているソ連兵がいたので、日本軍憲兵隊の原准尉が、現場に駆けつけ、そのレイプ中のソ連兵にやめるように高等で注意したが、ソ連兵は無視してレイプを続行。

 

仕方なく、原准尉が持っていた日本刀で切りつけ殺害しました。
その後、駆けつけてきたソ連兵が原准尉を射殺。

 

それ以降、日本軍が所有していた日本刀も没収の対象となりました。

ソ連兵による日本人婦女暴行(レイプ)は、頻繁に行われていたので、日本人女性は、頭を丸坊主にしたりして女性と気づかれないように身を守り、外出は避けていました。

 

ソ連側は、日本人居留民に対し、慰安婦として女性を提供するように要求してきましたので、仕方なく、居留民会で話し合い、料亭で働いている女性を慰安婦として差し出しました。

 

当初、ソ連側は素人娘でないとダメと駄々をこねていましたが、居留民会の会長を務めていた、宮川梅一が拒否したので、ソ連側も妥協しました。

 

ソ連軍が通化市から撤退後、昭和20年10月23日、中国共産党軍の一個師団が新たに進駐し、間も無く劉 西元(りゅう せいげん)(劉 東元から改名)も着任します。

また、中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後吉林へ連行しました。

 

中国共産党軍は、遼東日本人民解放連盟の通化支部(日解連)を設立して、共産党への思想教育を実地していきました。
その際、使われた教材は野坂参三日本共産党が書いた本でした。

 

日本人居留民は17、000名いましたが、全ての財産を没収され、さらに、中国共産党への忠誠を誓う、共産主義者となることを誓約させられました。

 

11月17日、中国共産党軍は、元満鉄総裁という理由で大村卓一を逮捕。

 

昭和20年12月23日、日本人居留民大会が日本人民解放連盟主催で開催されました。

 

「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」をスローガンにして、居留民3000人、藤田実彦大佐も出席しました。

 

日解連通化支部の幹部たちからは、自分たちのこれまでのやり方を謝罪するとともに、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰である」などの発言がありました。

 

これは「思想改造」と言われる洗脳を受けたために、このような発言がなされました。

 

「思想改造」とはどのようなものでしょうか?

 

日本兵士反戦同盟(のち日本人民解放連盟に名称変更)が、昭和15年(1940年)に延安に設置され、「日本労農学校」や「第二学校」などの捕虜収容所において野坂参三が校長を務めました。

 

日本労農学校で野坂参三は、集団でお互いに相手の自己批判を徹底的に繰り返させ、それまで積み上げてきた自尊心や価値観などを、木っ端微塵に打ち砕くことにしました。

 

この方法は、それまで深く染み付いた古い思考を破壊し、新しい生活様式を受け入れるのに役立つと考えられました。

(戦後、泊まり込みで行う企業研修でこの方法を用いている業者もありました。)

 

疲労と自己批判で意識がモウロウとしてきたところに、何度も何度も自分自身の言葉で、政治的教義(マルクス・レーニン主義)を反復させるという思想改造をしていきました。

 

捕虜の日本兵たちにとっては、共産主義者になることだけが、過去を絶ち切って、罪深い過去の記憶から自らを解脱させる唯一つの方法だったのです。

 

解脱とは、しがらみから解放するということです。人間誰でも色々なしがらみを持っていきています。そのしがらみから解放することができれば、幸せで生き生きと生きることができると、仏教では説明します。

 

そこでは、みんなで共産主義者になって、毛沢東を同志と呼び、中共軍を解放軍と賞讃して、そのもとに働く彼ら自身を、解放の戦士と呼称することによって、自分自身を肯定する居場所をつくりました。

 

日本労農学校での日本兵捕虜の思想改造は、成功を収めました。

 

捕虜の中で次のように話す人が出てきました。
「周恩来総理は(私の)人生になくてはならない指導者である」
「中国共産党と八路軍は私に第二の命を与えてくれた。それは私に、正しい人として生きる目的と意義を教えてくれた」

 

このような「覚醒した」日本兵たちは、新たに日本兵捕虜の獲得に利用されていきました。

 

昭和19年(1944年)3月4日、日向勝・砲兵中尉をはじめとする48人が八路軍の捕虜になりました。そのうち30人が日本人民解放連盟に参加しました。

 

日向勝は、砲兵教官として新四軍(八路軍)に止まり、砲兵部隊を育成し、第三野戦軍砲兵連隊の作戦参謀や大隊長などの要職を歴任しました。

 

日本の終戦後に始まった、日本の終戦後に始まった、淮海戦役、渡江戦役などの国府軍との大戦に参加して、この野戦軍は大いに活躍し連戦連勝。

共産党軍の勝利に大きく貢献しました。

 

昭和20年12月23日、通化市で行われた日本人居留民大会に話を戻します。

日本人居留民たちは、日解連への非難や明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」と訴え、山口嘉一郎老人は、日本共産党の野坂参三の天皇批判を万死に値すると痛撃しました。

 

山口嘉一郎老人が「宮城(日本の皇居)遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案すると満座の拍手が沸き起こり、全員起立して宮城(日本の皇居)に向かって遙拝と、天皇陛下万歳三唱が行われた。

 

次に山口老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれませんので、徐々に教育をお願いしたい」旨を述べました。

 

翌日、中国共産党軍は、山口嘉一郎老人を始め大会で発言した者を連行し処刑しました。

 

中国共産軍側工作員の内海薫が何者かに殺害されたので、その容疑をかけられ、1月10日、シナ兵は、日本人民解放連盟通化支部幹部や旧満洲国の高級官吏・日本人居留民会の指導者ら140名を連行。
(1月10日事件)

 

菅原達郎通化省次長、河内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長の4名は、中国共産党軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑された。

処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されハチの巣にされた

 

昭和21年2月3日、中国共産党軍による蛮行に耐えられなくなった在留日本人は、重慶を拠点とする中華民国軍(蒋介石軍)と、林航空隊と戦車隊の支援を期待して、元日本軍(関東軍)将校などの指揮下で蜂起しました。

総勢1000名でした。

 

蜂起した日本人にはわずかな小銃と刀があるのみで、大部分はこん棒やスコップなどしか武器はありませんでした。

 

それまで、シナ兵やソ連兵に、全ての財産を没収されていたので、武器と呼べるものをほとんど持っていませんでした。

 

しかし、頼みの蒋介石軍の援軍もなく、また、この情報を事前に入手していたシナ兵により、林航空隊は拘束されてしまい、わずか数時間で制圧されてしまいました。

 

 この事件で、満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)に嫁いだ、侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の第一子、嵯峨浩(さが ひろ)が、巻き込まれます。

 

2月3日の真夜中、突然バンという銃声が鳴り響き、浩妃は息を潜めているとダダダと凄まじい足音がして一人の男が飛び込んできました。

 

男は「一番乗りの中山、お助けに上がりました」と叫びます。
さらにやってきた軍人が「今夜憲兵の工藤が救出に参るはずです。

 

皇后様(一緒にいた皇帝溥儀の皇后・婉容妃のこと)とご一緒にお待ちください」といって窓側にいき、八路軍(共産党軍)と銃撃戦を始めました。

 

しかし、計画は事前に察知されていたので、八路軍は一旦、旧日本軍人らを公安局の中に入れて包囲する作戦でした。そして機関銃で銃撃され、砲撃を受けます、

 

浩妃たちはじっとして身を伏せていましたが、皇帝の老乳母の王焦に砲弾の破片が命中し、右の手首が吹き飛ばされます。

 

乳母は「痛い痛い」と泣きながら血だらけの手で顔を触り、顔が血だらけになりました。この乳母の吹き飛ばされた手首は浩妃の娘・「こ生」のところに飛んできていました。

「こ生」は「忘れようとしても、なお血まみれの手首だけは記憶に残っています」と回想しています。

 

事件後、浩妃らは長春(新京)へ送られることになります。

 

16歳以上60歳までの日本人男性は、事件との関係を問わず全員八路軍の兵舎の前に集合せよ、と命令が出されました。

 

そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。
「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」

 

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。みるみるうちに、ばたばたと倒れた。

 

重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。

 

死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

 

 「日本人の男は全員外に出ろ!」。
2月3日の朝、日本への帰国を待っていた東京都葛飾区の設楽三郎さん(92)は、土足で踏み込んできた共産党軍の兵隊に連行されたことを鮮明に覚えている。
抵抗する様子を見せた日本人はその場で銃殺されたといいます。
(日本経済新聞2016年2月3日)

 

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び連行されました。
事件に関与したとみなされた女性も連行されました。

 

八路軍は連行する際、日本人を一人一人首を針金でつなぎ合わせて連行しました。

 

寝間着、素足に下駄履の者や病人までもが、マイナス20度になる外を数珠繋ぎで行進させられました。

 

3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして、建物の各部屋に押し込まれた。

 

8畳ほどの部屋に120人が強引に押し込められ、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされました。

 

抑留中は酸欠で「口をパクパクしている人達」や、精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓の外から朝鮮人民義勇軍の兵士たちにより銃撃され、窓際の人間が殺害されました。

 

設楽三郎さん(92)は、次のように振り返ります。
長屋の10畳程度の部屋に、100人以上が押し込まれた。「外は酷寒なのに、中はサウナのように蒸し暑くて不快だった」。
 

夜、殺気だった室内で小さな言い争いが起きると、見張りの兵が窓から発砲した。
静まりかえった室内に撃たれた男性のうめき声が響き、「生きた心地がしなかった」。(日本経済新聞2016年2月3日)

 

殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされました。

足元が血の海になったが死体を外に出すこともできませんでした。

 

拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちから、36年の恨み(日韓併合)と言って棍棒で殴りつけられ、多くが撲殺されました。

 

撲殺を免れた者の多くは手足を折られるなどし、中国共産党軍による拷問と尋問が行われました。

 

そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。

 

その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。

 

そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。

 

酷寒二月のことである。たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。
やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。

 

するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。

 

全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。これが毎日のように行われました。

 

生き残った者は、凍結した渾江(鴨緑江の支流)の川岸に一人ずつ並べられ、次々に銃殺されていきました。

 

3月5日、11月17日に逮捕されていた元満鉄総裁の大村卓一が獄死。

 

事件後の3月10日、市内の百貨店で、2・3事件の展示会が行われ、日本人からの戦利品と共に、孫耕暁(通化国民党部書記長)と藤田実彦大佐が、見せしめとして3日間立ったままの状態でさらし者にされました。

 

孫耕暁(そん・こうぎょう)は、中華民国政府(蒋介石)の通化市での指導者だったので、中国共産党軍からさらし者にされ、銃殺。

 

また、藤田 実彦(ふじた さねひこ)大佐は、この事件の首謀者とされたため、さらし者にされました。

 

藤田実彦大佐は痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪をひいているのか始終鼻水を垂らしながら「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けました。

 

昭和21年3月15日に藤田少佐が死亡(享年45歳)すると、遺体は市内の広場で3週間さらされました。

 

この事件は、日本がポツダム宣言受諾して武装解除した、昭和20年8月15日以後に起きた大虐殺事件となります。

 

また、この大虐殺事件の総指揮をした劉 西元(りゅう せいげん)は、中国共産党の建国の英雄として、中国では語り継がれています。

 

日本の教科書には決して掲載されることのない、通化大虐殺。

 

共産国に対して武装解除した後、どういう結果になるかということを、歴史が教えてくれています。