子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -37ページ目
 

 


 

 

GHQ占領時に作られた、メイド イン アメリカの英文からの翻訳憲法である、日本国憲法。
革新勢力の方達からは平和憲法と言われています。

 

本当に平和憲法なのでしょうか?

 

日本国憲法には、思想及び表現の自由、集会の自由が保証されています。

この自由を盾に、昭和40年代、学生運動が全国的に盛んに行われていました。

 

羽田空港における全学連の暴動事件、
原子力空母エンタープライズ号入湾阻止の3派全学連の暴動事件、
成田空港建設反対の全学連暴動事件、
王子、新宿駅での暴動事件、
東大闘争や各大学での学園紛争、
など。

 

これらの事件は、事前に用意周到に準備され計画されて行われました。しかし、事前に取り締まることはできませんでした。

 

なぜでしょうか?

 

日本国転覆のために行われている集会であっても、それを取り締まることはできません。(集会の自由)

 

また、その集会が国家転覆の思想であっても取り締まることができません。(思想の自由)

 

学生たちが、角材やがれきを手に持っていても、それだけで凶器と断定することができませんでした。

 

なぜならそれらは建築資材であって、実際にそれを使って警官や機動隊員に向けて攻撃を加えられる瞬間でなければ、逮捕することができません。

 

このような革命思想による破壊活動に対して、現在の日本国憲法は全く無力であり、むしろ、革命準備憲法と言えるのです。

 

メイド イン アメリカ の英文からの翻訳憲法である、日本国憲法。

その実態は革命準備憲法だったのです。

 

戦前の大日本帝国憲法ではどうだったのでしょうか?

 

共産思想を持った人たちに対し常に目を光らせていた機関があります。
それは特別高等警察(特高警察)です。

 

特高警察の組織力や情報網は、半端ではありませんでした。

 

戦時中、中国の上海は共産党スパイの巣窟でした。
その当時の上海には、日本海軍、日本陸軍、朝鮮総督府、台湾総督府などからのそれぞれ情報網があり、その中でも特高警察の情報網はありとあらゆるところに網を張っていました。

 

もちろん日本国内でも同様です。

 

昭和3年(1928年)3月15日、1600人を治安維持法の容疑で、日本共産党(当時は非合法組織)や労働農民党から一斉検挙しました。(315事件)

 

その後も2回にわたり大規模な一斉検挙が行われ、日本共産党は終戦まで壊滅状態で何も活動することができませんでした。

 

また、昭和16年9月から昭和17年年4月まで、ソ連のスパイであったゾルゲや尾崎秀実などを検挙しました。(ゾルゲ事件)

 

昭和7年(1932年)7月、ゾルゲの下でスパイ活動していた川合貞吉は、久しぶりに中国の上海から、日本の大阪に長崎、神戸経由で帰国した際、同じスパイの尾崎秀実に次のように語りました。

 

「長崎、神戸はいうまでもないが、梅田駅も塚口も、あらゆるところに敵(特高)の眼が光っている。全く水も漏らさぬ陣容だね。」と。
(「ある革命家の思想」川合貞吉著)

 

なぜ、戦前から戦時中にこれほど共産党員やそのシンパたちを厳しく取り締まっていたのでしょうか?

 

それは、当時の日本はソ連による、天皇制の国体の転覆を企てる、共産革命からの脅威を一番恐れていたのです。

 

終戦後の日本では、GHQマッカーサーが拘束されていた数千人の共産党員たちを釈放し、中国に亡命していた、野坂参三日本共産党を特別機で日本に帰国させ、占領政策に大いに利用しました。

 

戦時中は非合法組織であった日本共産党は、GHQにより、戦前からある政党の中で唯一認められた政党として合法化されました。

 

当時の日本共産党は、GHQを解放軍と言って、活発にGHQのために活動しました。

このように、戦前までの大日本帝国憲法下では、共産勢力を厳しく取り締まりをすることができたのです。

 

戦後に結党された旧、社会党(現、社民党)は日本国憲法についてどのような立場をとっていたのでしょうか?

 

昭和38年5月3日付けの旧社会党の機関紙である”社会新報”に”日本社会主義と護憲運動”というタイトルの記事が掲載されました。

 

その内容というのは、「今は護憲運動闘争を展開するが、革新勢力が国会で安定した多数を占めて、革新勢力を打ち立て、

 

この政府を終局的に社会主義権力に転化させると同時に、全面的な社会主義的改革と取り組む過程で、国民の同意を得て社会主義憲法を作る』というものです。

 

これはどういうことかというと、日本国憲法を守る(護憲)というのは、日本の軍備復活を阻止して弱体化させておいて、将来、社会主義憲法を作るための戦略の一つにすぎず、

 

革新勢力が国会で多数の議席を確保できたなら、今の日本国憲法を廃棄し、新たに社会主義憲法を作る、というシナリオを持っているということになります。

 

これは旧、社会党(現、社民党)自らその機関紙に掲載していた事実になります。

 

もし、革新勢力が日本の国会の過半数の議席を確保し、日本に社会主義憲法が制定されて、共産革命が起きたなら、一体どうなると思いますか?

 

まず、社会主義政権のもとでは天皇制は存在しません。

 

フランス人で共産運動の研究家である、スザンヌ・ラバン氏は次のように指摘しています。

 

「共産革命で粛清(殺害)された人々は、ソ連で4、700万人、(1917年から1960年の期間)、中国共産党では4、794万人(1949年から1966年)である。」

 

昭和2年(1927年)、毛沢東は次のように述べています。

「革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。

 

そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。

 

革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。」(毛沢東語録)

 

この毛沢東語録がスローガンとなって、多くの人たちが暴力革命に突き進んでいき、文化大革命では、同じ同胞であるはずの中国人を、なんと4、794万人も殺害しているのです。

 

この事実は決して日本のマスメディアでは報道されることはありませんし、日本の教科書にも掲載されません。

 

その一方で、南京大虐殺で40万人殺害されたということを熱心に報道し、教科書にも掲載しています。

 

このような大規模な粛清をして共産革命を実現しているのです。

あなたは、それでも”日本国憲法を守ろう”という革新勢力のスローガンに共感しますか?

 

日本共産党は、占領時、現在の日本国憲法について帝国議会で審議をしている時、はっきりと「軍備を持たない独立国家などあり得ない」と反対しました。

 

なぜ当時の日本共産党は、憲法9条に反対したのでしょうか?

 

日本共産党は機関紙”赤旗”(昭和43年1月8日付)に次のような記事を掲載しました。

 

「国民の間につまらぬ誤解があるといけないから、この機会にはっきりと申し述べておくが、日本共産党は未だかつて日本に自衛権がないなどと主張したことは一度もない。

 

駐留軍帰れ、自衛隊やめろといっているのは、それは今の日本がろくろく主権も回復しておらぬ対米追従国家だからである。

 

したがって、安保条約を破棄して米軍を追い払い、日本が完全に独立を回復したのちになってまで、この9条を擁護したりするつもりは毛頭ない。

 

そうなった暁には、世間並みの他の主権国家と同じように、自衛のための必要適切な措置を講ずることは理の当然である。

 

はじめにも述べたように、自衛権や駐留軍がいなくなって日本が一時真空状態になったからといって、自民党が宣伝しているようにソ連や中国共産党が侵略してくるような恐れは少しもない。

 

帰って逆にアメリカのような帝国主義国家が現存している以上、侵略の危険はむしろそちらの方からある。

 

独立を回復した後の日本が、そちらの方の危険から身を守るための必要適切な措置を講ずることは、これはもう当然至極の話で、

 

その後に及んでまだ9条がどうしたの戦争放棄だなどと、たわけたことを浮かすつもりは日本共産党には全然ない。」

 

米国追従の日米安保が破棄され、米軍基地が撤収され、自衛隊がなくなり、日本が完全に独立を果たした時に、憲法9条を破棄し、新たに軍隊を持つべきである、と主張しています。

 

つまり、今まで日本共産党が、憲法9条を守れと主張しているのは、米軍を日本から追い出し、日米安保を破棄させるための方便に過ぎないということになります。

 

日本共産党は、この赤旗の記事の中で、ソ連や中国共産党が日本に侵略してくる恐れはないと主張しています。

 

しかし、昭和20年8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、原爆が2発も落とされ、降伏寸前の日本に侵略してきました。

 

また、中国共産党は、そのの2050年までの国家戦略の中で、日本は中国の一つの自治区として計画されていますし、

 

現に尖閣諸島近海に不法侵入を繰り返し、また沖縄では、プロの活動家を潜伏させて、沖縄市民の世論を親中国に誘導しています。

 

国防不要論を説く、革新勢力の嘘に騙されてはいけません。

 

なぜなら、米軍を追い出すための方便にすぎないからであり、将来の社会主義憲法の制定のための戦略にすぎないからです。

 

(参考図書:「占領憲法下の日本」谷口雅春著)

 

 
 

 

 

以前、米国サンディエゴ在住の94歳のおばあさんが、次のようなことを何気無くポツンと言いました。  

 

 

 

「日本はすごいね、一度も外国から侵略受けたことないからね。日本には武士道が生きているからね。三島由紀夫が割腹自決したでしょう」と。    

 

それに対し「GHQに占領されたことありますけど」と返すと、そのおばあさんは何も話しませんでした。  

 

後になって、その質問は愚問だったと気づきました。  

 

かつて日本の若者が次々と戦場で死んでいった時代がありました。 太平洋の島々での玉砕や特攻隊。

 

このような死に方をした若者たちを「犬死」といってあざ笑う人たちがいます。

果たして彼らは犬死だったのでしょうか?  

 

宗教家の谷口雅春氏は次のように語っています。   
「美的生活意識というものは「肉体を抹殺して、もっと大いなるもの、潔きもの、大愛のために生命を捨てる」ところの潔さを喜ぶ心である。   

 

それはイエスの十字架上の死に比べるべきものである。イエスも彼が磔殺(たくさつ)された後に続く、未来に希望をつないで、十字架にかかったのではなかった。   

 

イエスが十字架にかかってから後の未来は、イエスの弟子たちはローマ政府の迫害が続いて弟子や信者の多くは死刑に処せられたり、島流しになっているのであって、決して喜ばしい「未来」ではなかった。     

 

十字架上のイエスを指差して「あれを見よ、人を救いて己を救い得ざるものよ」(言い換えれば犬死セルものよ)とあざ笑ったのであった。    

 

イエスの「未来」は祝福されたものではなかったが、「後世」がイエスのいった、「我、世に勝てり」の言葉が真実であったことを証明しつつあることは誰も疑わないであろう。   

 

 三島由紀夫の死は「未来」にかけたのではなく、「後世」にかけたのである。

 

”後世にかける”というのは、”永遠の起点”に立って、現象の途中の移り変わりに心をフラフラさせることなく、”永遠の未来”(実相世界)にあるところの、”みこころの天になる”秩序ー

 

一切の存在が唯一者たる神に中心帰一するところの秩序ー

がやがて後世の日本国に回帰し来たるためのその”出口”を作り、種まきをするために”死す”という意味なのである。

 

このことをイエスはその死の直前に、「我汝らのために処を備えに往く」(「ヨハネ伝」第14章第二節)
といっているのである。

 

また、「『我往きて汝らに来るなり』と伝ひしを汝ら既に聞けり。もし我を愛せば父に我が往くを喜ぶべきなり」(「ヨハネ伝」第14章第28節)
ともいっているのである。

 

「父に往く」というのは、「永遠の起点」に回帰するということである。そして永遠の秩序が地上に出現するための準備をして”後世”を待つという意味だったのである。

 

三島氏が自刀した劔は、イエスの十字架に当たるものであった。
決して彼は自分以外の何人も傷つけるつもりはなかった。

 

ただ、彼の目的はイエスが十字架にかかる使命を果たしたように、そして、乃木将軍が明治大帝に殉ずべく自刀したように、”自刀の使命”を果たすまでのことであった。」
(「占領憲法下の政治批判」日本教文社 谷口雅春著)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三島由紀夫が、昭和45年11月25日に市ヶ谷駐屯地にて割腹自決した際、自衛隊員に向けて撒いた檄文(全文)になります。
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われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。

 

かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。

 

ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。

 

われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。

 

しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 

 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。

 

政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 

 

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。

 

もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。

 

自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。

 

われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。

 

憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 

 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。

 

憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。

 

政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。

 

国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
 

 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、

「これで憲法は変らない」と痛恨した。

 

その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。

 

政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。

 

これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。

 

名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
 

 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。

 

創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。

 

論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。
 

 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。

 

男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。

 

しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
 

 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。

 

シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 

 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。

 

繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。
 

 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 

 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。

 

日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。

 

それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。

 

われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

 

   三島由紀夫

 

昭和45年(1970年)11月25日、三島由紀夫氏と森田必勝氏(「楯の会」第2代学生長)が、東京の市ヶ谷にある自衛隊の駐屯地にて自害しました。

 

自衛隊員約1千名に対して、檄文をばら撒き、隊員の前で演説をし、その後、割腹自殺をするという壮絶なものでした。

 

事件当日、益田兼利自衛隊東部方面総監に面会して、「自衛隊員を集めてくれ」と頼みました。

 

益田総監は三島由紀夫氏の要求を拒否しました。
 

そこで、彼は、仕方なく総監を縛り、外から妨害の入らないように部屋の扉に椅子等を置いて部屋の中に入れないようにしました。

 

数人の自衛隊幹部が、三島由紀夫氏を取り押さえようとして彼に近づくと、三島氏は剣を振るって相手の足を傷つけました。

 

そして、前庭広場に自衛隊員を集めて、檄文をまき、それと同じような内容の演説を約10分間しました。

 

三島由紀夫氏からの憂国の叫びを聞いた自衛隊員からは、
「英雄気取りするな、帰れ」とか
「次元が違うぞ、帰れ」
 

とかヤジが飛んだと当時のマスコミは報じていました。

 

朝日新聞は、「自衛隊に乱入」「反共と暴力是認」という悪い方に解釈できる大見出しでこの事件を報じました。(昭和45年11月25日、夕刊)

 

朝日新聞の投書欄には次のような意見を掲載しました。「三島由紀夫の死は、犬死であったと全ての国民がはっきりと言い切ることがこの事件に対する正しい態度であると信ずる」
(昭和45年12月1日、朝日新聞)

 

「三島氏らがクーデターを計画していた」ということを同志の学生が自供した、と報道されましたが、この件に関して山口警察庁警備局長は、昭和45年12月9日の衆議院内閣委員会で、そのような計画はなかったと発表しました。

 

事件当日は、連隊が富士山麓に演習に出かけていて、連隊長も市ヶ谷には留守でしたし、連隊長と三島氏の面識はありませんでした。

 

また、檄文を撒いて10分間の演説をしただけで、軍(自衛隊)を動かしてクーデターを起こすということは、現実的ではありません。

 

憲法改正の希望が失われたというのが、その動機でした。

 

憲法改正を立党の目標に掲げた唯一の政党である自民党。
その自民党の党首であった佐藤栄作元首相は、「私が首相である限り、憲法改正はしない」とはっきり明言していました。

 

これを聞いた三島由紀夫氏は、愕然とし唯一の希望であった自民党が憲法改正をしないというのでは、日本の将来はどうなってしまうのであろうか、と憂国の士として決起する日を探していたのかもしれません。

 

当時の保利官房長官に対し、三島由紀夫氏は次のように語っていたと報道されました。

 

「自分の主張は軍国主義の復活ではなく、乃木将軍の死去で消え去った武士道の再建にあると語っていました。」
(昭和45年11月25日「日本経済新聞」夕刊)

 

三島由紀夫氏が撒いた檄文とはどのような内容だったのでしょうか?
以下要約掲載します。

 

「創立以来20年になって、憲法改正を待ち焦がれてきた自衛隊にとって決定的にその希望(憲法改正)が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され

 

・‥

 

占領憲法上の私生児であった自衛隊が、逆に占領憲法を守る軍隊として認知された日だ。

 

・‥

 

なんたるパラドッックス(逆説)であろう。自らを否定する(戦力を持たない、交戦権を認めないと定めた)ものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。

 

男であれば、男のほこりがどうしてこれを認容シエよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一戦を越えれば、決然起ち上るのが男であり、武士である。

 

我々はひたすら耳を澄ました。しかし自衛隊のどこからも『自ら否定する憲法を守れ』という屈辱的な命令に対する男子の声は聞こえては来なかった。

 

かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわか

っているのに、自衛隊は声を奪われたカナリアのように黙ったままだった。

 

・・・

 

我々は4年待った。最後の1年は熱烈に待った。もう待てぬ。自らを冒涜するものを待つわけにはいかぬ。

 

しかし、あと30分、最後の30分待とう。ともに起って義のためにともに死ぬのだ。

日本を日本の真の姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでも良いのか?

 

生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。

 

それは自由でも民主主義でもない。日本だ。

 

我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶっつけて死ぬ奴はいないのか。

 

今からでも共に起ち、共に死のう。我々は至純の魂をもつ諸君が、一個の男子、真の武士として戦えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。」

 

三島由紀夫氏は、昭和43年12月1日に赤坂・乃木会館で、都学協及び関東学協主催の講演会で次のように語っています。

 

「昭和43年1月には、ベトコンのテト攻撃(1968年1月30日の旧正月に起きた、北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線による南ベトナムへの大攻撃)があり、米国大使館に攻撃をかけたのですが、アメリカは非常に驚きました。

 

コンピューターを駆使したマクナラマ戦略では、どうしてもベトナム戦争に勝てないのです。アメリカ人は非合理なものがわからないですから。

 

テト攻撃が終わって、ベトコンが逃げ去った後、日本刀が置いてあったという話を聞きました。本当かどうか知りませんが。おそらく戦争中の日本の軍人の日本刀を大事に持っていたのかもしれません。

 

ああいう事件が起きますと、あれはベトコンの一つのスピリットが現実を動かしているわけで、あれ自体としては全く無意味な戦争かもしれないけれども、

あそこへ切り込んで死んでしまった人間によって、今年の1月から確かにベトナムの戦争というものは動き出している。

 

それはどちらが勝った、負けたという問題よりも、現実というものは一つの無駄な方向へと動くことがあるのではないですか。

 

・・・

 

例えば、ベトナム戦争反対の焼身自殺というような非合理な行為も、大乗仏教の一つの影響と考えられましょう。

私たちに理解されないようなもの、そしてこういう非合理な要素が歴史を動かしていた。

 

それが現実を作っていくのですが、非合理な要素が現れた時だけ人の心を打つ、あるいは理解される。現れない時にはわからない。」
(『”憂国”の論理』日本教文社)

 

この講演に対して、谷口雅春氏は次のように解説しています。

 

「この時にはすでに三島氏は
『ベトコンが逃げ去った後に置いてあった日本軍人がおそらく残していったところの一振りの日本刀』
に”自分自身”がなることを決意していたと見ても良い。

 

あそこへ切り込んで死んでしまった人間によって残された日本刀のスピリットがベトナム戦争を動かしている。

 

その如く三島氏が自刀し、後に残した一振りの日本刀(日本精神を象徴的に表す)が、『後世』日本の歴史を動かす種子となることを期待したのだ。

 

現在に続く目先の”未来”の結果だけしか見えない科学者や唯物論的歴史家にはそのことは理解できない。

 

だから、人は”犬死”だとか、”時代錯誤のピエロ”だとかいってあざ笑うであろうが、それは芸術家だけにしかわからない。

 

・・・

 

三島氏はその行為が、もっと大なる反響を”後世”に巻き起こしてくれることを信じて散っていったのである」
(『占領憲法下の政治批判』日本教文社 谷口雅春著)

 

また、三島氏は昭和43年12月1日に赤坂・乃木会館の講演で、次のように語っていました。

 

「特攻隊の遺書にありますように、私が”後世を信ずる”というのは、”未来を信ずる”ということではないと思うのです。

 

ですから、”未来を信じない”ということは”後世を信じない”ということとは違うのです。

私は”未来”は信じないけれども”後世”は信ずる」
(『”憂国”の論理』日本教文社)

 

谷口雅春氏は三島由紀夫氏の行動について次のように解説しています。

 

「三島氏はマルキシズムの暗黒の渦巻く日本の彼方に、なお自民党という日本的理想を持った政党があり、それが憲法の自主的改正を党是としており、

 

きっと、やがては明治憲法が復元されて、日本未来の建国の理念と伝統とに基づく祖国が出現するであろうという希望を持って待っていたのであるが、

 

待てども待てども、その闇は深くして「自主憲法制定」お「明治憲法復元」も、その実現の希望の光がチラとも見えない現実に行き当たって、切羽詰まった情感が沸き起こったのである。」
(『占領憲法下の政治批判』日本教文社 谷口雅春著)

 

三島由紀夫氏はかつて自衛隊へ体験入隊したことがありました。
 

その際に、同じく体験入隊していた大学生が

 

「国家にイザという時が来たら、僕はいつでも死にます」

 

というような殉国の言葉を淡々とした心境で語ったので、とても驚きました。

 

終戦後、20年あまり経過していた日本では、学生運動が盛んであちこちの大学で学生が暴徒化して暴れまわっていた時代でした。

 

そのような時代にあって、

 

「国家にイザという時が来たら、僕はいつでも死にます」

 

という言葉を淡々とした心境で語る大学生がいるということが奇跡に近かったのです。

そして、彼らが皆ある宗教団体に所属していることがわかりました。

 

三島由紀夫氏は、その宗教団体の創始者である、谷口雅春氏に興味を抱き、その1900万部となったベストセラーである『生命の実相』を読むようになったそうです。

 

三島氏が決起する前日に、谷口雅春氏に一度会いたいと思って、昭和44年11月22日に、その宗教団体に連絡しましたが、結局会うことができませんでした。

 

もし、三島氏が谷口雅春氏と会うことができたなら、あのような決起を起こさなかったかもしれません。

 

谷口雅春氏は次のように語っています。

 

「その華々しき彼の死が、ベトナムに残された日本軍人の一振りの遣刀が今も強靭な力を持ってベトナム民族をして巨大国アメリカに対抗し得ているように、

 

自分の遺した殉国の精神が、日本の”後世”に於いて、日本民族に何らかのインスピレーションを与える時が来ることを信じて、割腹の悲壮美の生き方で、肉体生活の幕を閉じることにしたのであった。

 

しかし、今の佐藤栄作首相の率いる自民党がもしこの巨大な闇の彼方にチラリとでも将来の”自主憲法制定”の希望の光を彼に見せていてくれたならば、

 

彼はまた別の道を選んだに相違ないと思うと、私は遺憾で、やるせない思いでいっぱいである。」
(『占領憲法下の政治批判』日本教文社 谷口雅春著)

 

昭和4年(1929年)10月24日、世界恐慌が起きました。その時期の米国大統領は共和党のハーバート・フーバー(Herbert Clark Hoover)氏でした。彼が行った経済対策は失敗に終わり、世界中の経済を悪化させてしまいました。

 

そして、昭和8年(1933年)の大統領選挙で、民主党のルーズベルト大統領が就任しました。ルーズベルト大統領(Franklin Delano Roosevelt)は、ニューディール政策を行い、米国経済の立て直しをすることに成功しました。

 

また、ルーズベルトは米国海軍の軍事力増強を図り、米国民から圧倒的な支持をえました。しかし、米国世論は、中国大陸で日本が行っている軍事行動に対し批判的ではなく、米国は極東に干渉すべきではないというのが大勢を占めていました。

 

ニューディール政策とは、資本主義政策とは逆の社会主義的な経済政策であります。労働組合の組織活動を積極的に支援したり、政府が財政出動して大規模な公共工事を行うことで、失業者の雇用を確保したりしました。

 

このニューディーラーと言われる人たちは、終戦後の日本占領軍(GHQ)とともに大規模に日本国内で活動して、終戦後の日本に大きな影響力を与えました。

 

マッカーシー上院議員(Joseph Raymond "Joe" McCarthy)は、ソ連の共産党スパイが米国内に蔓延していると指摘して、一斉告発を行いました。(赤狩り、マッカーシズム)

 

マッカーシーの標的は、主に「国務省」と「民主党」でした。
 

また、昭和23年(1948年)、元共産党員のウィッテカー・チェンバーズが、アルジャー・ヒスは米国共産党のスパイであると告発しました。

 

アルジャー・ヒス(Alger Hiss)は、昭和8年(1933年)ニューディール政策に共感を持ち、農業調整局に勤務し、その後、スタンレーホーベックのアシスタントとして、「国務省」極東課に勤務。

 

そして、昭和20年(1945年)2月に「民主党」のルーズベルト大統領の側近として、ハリー・ホプキンスとともにヤルタ会談に同行。
終戦後、アルジャー・ヒスは「国務省」の特別政治問題局の責任者も務めました。

 

ハリー・ホプキンス(Harry Lloyd Hopkins)は、アメリカ陸軍のジョージ・ジョーダン少佐からソ連スパイであり、アメリカの最高機密であった原爆情報を、スターリンに届けていた、と告発されました。

 

このヤルタ会談(Yalta Conference)では、終戦後の世界秩序をソ連のスターリンと英国のチャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)とともに話し合われた重要な会議でした。

 

当時の民主党は、第二次世界大戦の世界的英雄であるルーズベルト大統領の側近に、ソ連のスパイがいるはずがない、とマッカーシー上院議員を強硬に攻撃しました。

マッカーシー上院議員は、米国陸軍内にスパイ網が存在すると主張し、陸軍の上層部を告発しました。

 

昭和29年(1954年)6月9日に全米へ中継された公聴会では、マッカーシーの攻撃的かつ侮辱的な問責が目立ち、喚問された陸軍側弁護士のジョセフ・ウェルチから、逆に告発の内容の信憑性の低さを指摘されて、次のように反論されてしまいました。

 

「君、ちょっと話を止めて良いかね? 君が私と同じ一弁護士で君の前途を抹殺しようとは思わんが、もう沢山だ。
君には品位というものが無いのかね?
(Have you no sense of decency )」

 

全米に放送されたこのシーンは、その後のマッカーシーの没落の象徴として多く流されることになりました。

 

その後共和党のラルフ・フランダース上院議員が、昭和29年(1954年)6月11日にマッカーシーに対する譴責決議(けんせき決議)を発議し、アーサー・V・ワトキンス上院議員率いる委員会が組織されマッカーシーに対する調査を開始。 

 

その後、昭和29年(1954年)12月2日に、上院はマッカーシーに対し65対22で「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として、譴責決議(けんせき決議)を採択されてしまいました。

 

これによって「マッカーシズム=アメリカにおける赤狩り」は失敗に終わり、ソ連スパイ達は、その後も米国内の「民主党」と「国務省」内を中心とした活動を続けていきました。

 

スパイ容疑があったアルジャー・ヒスは、昭和25年(1950年)に偽証の有罪判決を下され、5年の懲役が宣告されましたが、平成4年(1992年)に無罪が確定しました。

 

その後、平成7年(1995年)7月11日、国家安全保障局とFBI、CIAが、情報公開法に基づいてヴェノナ(Venona)文書を、一斉に公開しました。

 

ヴェノナ(Venona)文書とは、第二次世界大戦中に米国陸軍が、ソ連(モスクワ)と米国内に潜伏していた共産党スパイたちとの暗号通信を傍受していて、それを記録した文書となります。

 

このヴェノナ(Venona)文書により、かつてマッカーシー上院議員が告発した「国務省」と「民主党」内を中心に潜伏していたソ連スパイ達が、実は本当のスパイであったことが、次々と明るみになっていきました。

 

昭和20年(1945年)2月、ヤルタ会談で、ルーズベルトはソ連に満州国の港湾と鉄道の権益と樺太(サハリン)南部、千島列島を与えることをスターリンに約束。

 

また、ソ連は、ドイツ降伏の3ヶ月後に日本に参戦することが決められました。

このヤルタ会談に従い、ソ連はドイツ降伏(5月8日)の3ヶ月後の8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本に宣戦布告。

 

9日の午前0時に160万に上るソ連軍が満州と南樺太の国境を越えて怒涛のごとく侵略してきました。

 

その結果、昭和20年8月の終戦以降に起きた、満州国内でソ連軍による、日本人居留民に対する略奪、暴行(レイプ)、殺人の悲劇が起きてしまいました。

 

また、同じく、千島列島を防備していた日本軍と日本人居留民の悲劇も起きてしまいました。

 

日本降伏後、トルーマン大統領により、中国全権特使に任命された、ジョージ・マーシャルは、蒋介石に対し、共産党員を幹部に入れて、毛沢東と連立政権を作るように脅迫しました。

 

それまで米国は、日本と戦争していた蒋介石に対し、惜しみなく軍事援助をしていました。

 

しかし、日本の降伏後、中国全権特使に任命されたジョージ・マーシャル(George Catlett Marshall, Jr)は、それまでの米国の方針を変更し、毛沢東共産党と手を結ばないのなら、軍事援助を打ち切ると脅迫してきたのです。

 

ジョージ・マーシャルは、水と油を無理やり混ぜようとしたのです。

蒋介石は、ジョージ・マーシャルからの脅迫を拒否。
 

この結果、国民党軍への米国からの武器供与は一切停止され、国民党軍の士気は一気に低下してしまい、毛沢東共産党軍に敗れてしまいました。

 

そして、昭和24年(1949年)10月、中国大陸に共産党国家が成立。当時6億人(現在13億人)の中国人が共産党の支配下に入ってしまいました。

 

ジョージ・マーシャルは、赤狩りの標的にされた、太平洋問題調査会( The Institute of Pacific Relations)に所属しており、「「国務省」内部に共産主義者が巣喰っている」という共和党マッカーシーにより、糾弾されました。

 

さらに、昭和25年(1950年)6月朝鮮戦争が勃発。

これにより、米国兵36万が朝鮮半島に派兵され、3万8千人の米国兵が死亡という犠牲を払い、朝鮮半島の南半分の共産化を何とか防ぎました。

 

また、その10年後にベトナム戦争が勃発し、米国は共産国との泥沼の戦いを行いました。

 

その後も現在に至るまで、沖縄を始め、台湾海峡、南シナ海など東南アジア諸国では共産国の脅威にさらされています。

 

このような共産国による脅威の始まりは、すべて昭和20年2月にソ連のヤルタ近郊で行われた会談です。

 

ルーズベルトがスターリンに不用意に約束してしまった、満州国の港湾と鉄道の権益と千島列島、樺太(サハリン)南部を与えるというところから始まっています。

 

なぜなら、日本が建国した満州国と千島列島、樺太(サハリン)南部は、ソ連共産国に対する防波堤だったからです。

 

このヤルタ会談には共和党の関係者は同行していませんでした。

米国議会にも知らされず、ルーズベルトの独断で決められました。

 

GHQのマッカーサー(共和党)はこのヤルタ会談について次のように語っています。

 

「直接的にも間接的にも、私はこのヤルタ会談には全く関与していない。あの戦争終盤になってのソビエトの極東における対日参戦参入を即すようなことは、私はしない。

 

私も私の部下もヤルタ会談には出席していない。実は、私はヤルタ会談が開かれていることさえも知らなかった。

 

私が意見を求められていれば、ソビエトを対日戦にに誘うことなど絶対にしなかった。戦いも終盤を迎え、日本の降伏はもう時間の問題となっていたからだ。」

 

ヤルタ会談の半年後にスターリンはその会談の約束を破ってしまいます。

 

ポーランドを共産化し、チェコもハンガリーも東ヨーロッパの国々も続々と共産化していきました。また、5月のドイツ降伏後、東ドイツにベルリンの壁を建設しました。

 

このスターリンの行動に対し、ハリー・ホプキンスは次のような発言をしています。

 

「ロシアの狙いは、我が国の外交政策と大きな隔たりはないと信じている」
「ロシアの人々は我々アメリカ人と同じように考え、同じように行動する」

 

ソ連は、8月9日の参戦から9月2日の戦艦ミズーリで行われた、ポツダム宣言受諾の調印式までの、たった24日間の日本との戦いで、満州国と千島列島、樺太(サハリン)南部を手に入れることができました。

 

24日間の日本軍との戦いといっても、日本は8月10日にポツダム宣言を受諾する旨を連合国に打電し、8月15日に武装解除して降伏してますので、その実態は、ソ連軍による一方的な武器弾薬の接収、シベリアへの強制連行、日本人居留民に対する略奪、強姦(レイプ)、殺人という、軍規なき蛮行となります。

 

さらに中国を共産化し、朝鮮半島北部も共産化することができました。

 

スターリンは、ルーズベルトを賞賛しました。
なぜなら、スターリンが欲しいものは全て与えられたからです。

 

このヤルタ会談が行われた昭和20年2月、すでに精神的にも肉体的にも病んでいたルーズベルトは、その病弱な体を無理してこの会談に参加し、2ヶ月後の昭和20年4月に死亡。

 

「米国の若者を外国の戦場に送ることは決してない」と公約して大統領選挙に当選したルーズベルト。

 

ルーズベルトは、ソ連スパイであるアルジャー・ヒスや、ハリー・ホプキンスを信頼して側近におき、その助言を元に様々な決断をしていったのです。

 

(参考図書 『ルーズベルトの開戦責任』Hamilton Stuyvesant Fish著、『東京裁判史観の虚妄』江崎道朗著)

 

 

昭和12年(1937年)12月、日本軍が南京を陥落し、その後南京城内外で、日本軍による殺戮や強姦、略奪があったなどと宣伝されている時期に、南京にいたジョン・マギー牧師は映画フィルムで街の様子を撮影しました。

 

その映像は、ハロルド・J・ティンパーリの指示により、「侵略された中国」と題して、YMCA(キリスト教青年会)による反日キャンペーン用に全米各地で上映されました。

 

ハロルド・J・ティンパーリは、南京大虐殺30万人説の有力な証拠の一つとされた『戦争とは何か-中国における日本の暴虐』(1938年7月)という本を編集した新聞記者です。また、中国国民党(蒋介石)の中央宣伝部国際宣伝処の顧問を務めていました。

 

このマギーフィルムは、全米で上映会が開催され、当時の反日世論の醸成に大きな威力を発揮しました。

 

終戦後の東京裁判で、マギー牧師は証人として発言しました。

 

2日間に渡る証言に対し、日本陸軍の松井石根被告の弁護人であるブルックス弁護士が、反対質問しました。

 

「現行犯をご覧になったことがありますか?」

 

とブルックス弁護士が問いつめると、二日にわたって証言したことは全部ウソで、結局窃盗と婦女暴行が各一件だけあることが判明し、法廷で笑い物になりました。

 

さらに、マギー牧師の日記には「私たちは本当は殺害現場を見ていません」と書かれています。(滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』(三交社、1997))

 

このマギーフィルムに映し出されている映像は、多くは南京難民区内の鼓楼病院で撮影されたもので、幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っています。

 

幼い子供や女性は、日本軍の暴行を受けたと字幕の説明がされていますが、実際にその証拠となる映像がありません。

 

虐殺場面とされる映像については、字幕の説明のみで肝心の映像は写っていないので、写っている死体が戦闘で死んだものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍の手によるものなのか、中華民国軍の敗残兵の手によるものかなどが明らかではありません。

 

そのほとんどが負傷した中国人の治療の様子と死体を写したものです。

 

このプロパガンダで日本が被った損害はどれほどあったことでしょう。

 

松井石根(まつい いわね)陸軍大将は、マギー牧師の証言は嘘であったにもかかわらず、東京裁判でB級戦犯として処刑されてしまいした。

 

昭和41年(1966年)9月に、田中正明(松井大将の元秘書)ら5人が岸信介元首相の名代として台湾を訪問した際、田中が昭和11年(1936年)に松井大将の秘書として、蒋介石に一度会ったことを伝えました。

 

すると蒋介石は、「松井石根」という名を耳にした瞬間、顔色がさっと変わり、手を震わせ、目を真っ赤にして、涙ぐみながら

 

「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」

 

「南京に大虐殺などありはしない。ここにいる何應欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録してあるはずです。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。

松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と話しました。

 

終戦から21年経過した時期に、連合国の一員であった蒋介石は、なぜ、このように涙ながらに松井大将に申し訳ないことをしたと語ったのでしょうか?

 

明治40年(1907年)松井石根大将は、孫文が唱えた「大アジア主義」に共感し、自ら志願して当時の清国の武官となりました。

 

その後、三菱財閥の岩崎久弥から10万円の資金提供の協力を取り付け、孫文の辛亥革命を支援しました。

 

孫文は、蒋介石にとって絶対の忠誠を誓った偉大な革命家でした。

 

そして、大正元年(1912年)8月25日、袁世凱に対する孫文が行なった第二革命に失敗し、蒋介石は孫文とともに日本に亡命しました。

 

日本での亡命時期、蒋介石と孫文は、玄洋社の頭山満や松井石根大将から生活の支援を受けていました。

 

また、昭和2年(1927年)9月、松井石根大将は、中国で苦しんでいる蒋介石を日本に呼び、日本の田中義一首相と面会の席を設け、

 

「揚子江以南を掌握することに全力を注ぎ、北伐(北京政府、中国共産党軍との戦い)は焦るな。そして共産主義の蔓延には警戒するように。日本政府はその協力を惜しまない」という約束を取り付けました。

 

このように、松井大将は、孫文と蒋介石の革命の成功を願い、支援を惜しまず協力していました。

 

しかし、その後日本はその蒋介石率いる中国国民党と対決するようになります。

 

昭和12年7月の盧溝橋事件を皮切りに、

昭和12年8月第二次上海事変、

昭和12年12月の南京事件

と泥沼の争いに発展していきました。

 

 松井石根大将は、南京攻略後の昭和13年2月21日、日本政府から中国寄りの思想を持っていると見なされ、更迭され日本に帰国しました。

 

予備役となった松井石根大将は、昭和15年、上海と南京の土を使い、静岡県熱海市に興亜観音像を建立して、日中両軍の戦死者を慰霊していました。

 

終戦後は、陸軍士官学校58期の元将校らが、この興亜観音像を維持してきました。

 

日中両国が泥沼の戦争をしていた当時、南京大虐殺の宣伝(プロパガンダ)をすることで、戦況を有利にしようと計った蒋介石。

 

その蒋介石は、自身の行なった宣伝(プロパガンダ)のために、日本亡命時にお世話になり、また、孫文と蒋介石の革命に共感し協力してくれた、松井石根大将を処刑させることになってしまいました。

 

東京裁判の際、連合国の一員であった蒋介石は、南京大虐殺は捏造でした、などということもできなかったのでしょう。

 

なぜなら、その捏造のために米国世論が反日、新中国となり、日米開戦へと導いたからです。

 

孫文の革命に協力し、その後継者であった蒋介石の中国国民党軍による中国統一を願っていた、松井石根大将。

 

しかし、東京裁判で、南京大虐殺の汚名を受け処刑されてしまいました。

 

何ということでしょう。
歴史は悲劇を生み出します。

 

昭和21年(1946年)3月4日巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者を招いて最後の盃を交わした際、次のように語りました。

 

「私はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないナァ」

 

 

 

 

 

昭和12年12月13日南京が日本軍により陥落。翌日の14日から南京臨時政府が作られました。

 

その12月14日から昭和13年2月までの期間に、大量の中国人が日本軍によって虐殺、強姦、略奪、放火されたと中国によって宣伝されています。

 

しかし、その証拠写真142枚のうち、昭和12年7月29日に起きた通州事件の写真を無断転用しているものがあります。

 

通州事件とは、北京の郊外にある通州という地区に住んでいた日本人を標的にした中国人によるテロ事件になります。

 

250余名の日本人(朝鮮籍を含む。当時の朝鮮人は、中国人から日本人として見なされていましたので、日本人と同じように標的にされました)が、虐殺、強姦(レイプ)されました。

 

どれほど残虐に虐殺、強姦(レイプ)されたのかというと、当時の様子を目撃していた証言を、引用します。

 

その当時、通州に住んでいた、佐々木てん氏は事件の様子を目撃します。その記録は「天皇様が泣いてござった」のご著書に収録されていますので、引用させていただきます。

 

なお、以下の引用文は、勝手ながらR指定(未成年者禁止)とさせていただきます。
その内容が、あまりにも残虐だからです。

 

大人の方でも、そのメンタルケアについては自己責任でお願いします。途中で気分が悪くなりましたら、画面をすぐ閉じてください。

以下、引用始まり
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は沈さんに従ってその年の3月に支那に渡りました。長い船旅でしたが、しばらく天津で仕事をしておりました。

 

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりました時に、沈さんが通州へいくというのです。

 

通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて、支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私は沈さんに従って通州に行くことにしたのです。

それは昭和9年の初めごろだったのです。
 

沈さんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。

 

だから、買う人にとってはとても便利なんです。
沈に頼んでおけばなんでも手に入るということから、商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。

 

沈さんも北門のあたりまで行って、日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

 

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちは、沈さんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

 

この通州の町にはその当時、冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)がありました。

 

これは殷汝耕(いん じょこう)さんという人が作った政府で、軍隊も一万人以上いたそうです。

 

そして日本に対しては非常に親日的だったので、私も、日本人であるということに誇りを持っていたのです。

 

ところが、昭和11年の春も終わろうとしていた時、沈さんが私に、これから日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故かと尋ねますと、支那と日本は戦争をする、その時私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまり付き合ってはいけないと申すのです。

 

私は心の中に不満が一杯だったけど、沈さんに逆らうことはできません。

 

それが昭和11年の終わり頃になると、こうした支那人たちの日本に日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

 

それは、支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるようにに思われました。

 

そしてこの頃(昭和12年)になると、一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら、行進をするのです。

 

それが7月になると「日本皆殺し」「日本人は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

 

昭和12年7月29日の朝、まだ辺りが薄暗い時でした。突然、私は沈さんに激しく起こされました。大変なことが起こったようだ。

 

早く外に出ようというので、私は風呂敷包み二つを持って外に飛び出しました。日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

 

8時をすぎて9時近くになって、銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心している時です。

誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
 

そのうち、誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。

何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

 

私は沈さんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

日本人居留区に近づくと何か一種異様な匂いがして来ました。
 

何か生臭い匂いがするのです。
血の匂いです。

 

沢山の支那人が道路の傍に立っております。
そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も混じっています。

 

いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。
そのうち、日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。15歳から16歳と思われる色の白い娘さんでした。
 

その娘さんを引きだして来たのは、学生でした。

その娘さんは恐怖のため顔が引きつっております。
体はブルブルと震えておりました。

 

その娘さんを引き出して来た学生は何か猫がネズミをとった時のような嬉しそうな顔をしておりました。

 

そして、その着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。
薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

 

すると、雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが、何か一生懸命この学生に言っております。

 

しかし、学生はニヤニヤと笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。
娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
 

そして下着を取ってしまいました。
娘さんは「助けて!」と叫びました。

とその時です。

 

一人の日本人の男性がパアッと飛び出してきました。
そしてこの娘さんの上に覆いかぶさるように身を投げたのです。
 

恐らくこの娘さんのお父さんだったのでしょう。

すると、保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

 

何かグシャっと言うような音が聞こえたように思えます。
頭が破られたのです。

 

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

 

娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。

保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。
 

パーっと辺り一面に何かが飛び散りました。

恐らくこの男の脳漿(のうしょう)だったろうと思われます。
 

そして2、3人の兵隊と2、3人の学生がこの男の人の体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。

 

服が破れます。肌が出ます。血が流れます。そんなこと御構い無しに踏んだり蹴ったりし続けています。
 

そのうち保安隊の一人が、銃につけた剣で腹のあたりを突き刺しました。

血がパーっと飛び散ります。
 

その血は横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

腹を突き刺しただけではまだ、足らないと思ったのでしょうか?
 

今度は、胸のあたりを突き刺します。
また腹をつきます。

胸をつきます。
 

たくさんの支那人が見るけど「うーん」とも「わー」とも言いません。

ただ、見ているだけです。この屍体を3メートル程離れたところま
で、丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生たちは、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

 

この娘さんはすでに全裸になされております。
そして、恐怖のために動くことができないのです。
 

その娘さんのところまで来ると、下肢を大きく広げました。

そして凌辱を始めようとするのです。
 

これはもう人間のすることとは言えません。
ところが娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。

どうしても凌辱がうまくいかないのです。
 

すると三人ほどの学生が広げられるだけこの下肢を広げるのです。
そして保安隊が持っている銃を持って来て、その銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突っ込むのです。

 

何人もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声をだす人もおりません。
すると、ぎゃーと言う悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。

 

保安隊の兵隊がニタニタ笑いながら、この娘さんの陰部を抉り取っているのです。

私の身体はガタガタと音を立てるほど震えました。
 

この兵隊は今度は腹を縦に割くのです。
それから、剣で首を切り落としたのです。

 

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。

 

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。

ほとんどの日本人はすでに殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛

のように日本人を探し続けているのです。

 

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がわーっと押し寄せていきます。

 

私も沈さんに抱き抱えられながらそちらに行って見ると、日本人の男の人たちが5、6名兵隊達の前に立たされています。

 

そして、一人また一人と日本人の男の人が連れられてきます。
十名程になったかと思うと兵隊達が針金を持ってきて、右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

 

そうして、今度は銃につける剣を取り出すと、その男の人の掌をグサッと突き刺して、穴を開けようとするのです。

 

悪魔でもこんな無残なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊達はそれ平気でやるのです。

 

集められた十人ほどの日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
そして60歳を超えたと思われる老人もいるのです。

 

この10名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉り取った学生や兵隊たちは、今度は大きな針金を持ってきてその掌の中を通すのです。
10人の男の人が数珠つなぎにされたのです。

 

学生と兵隊達この日本人の男の人たちの下着を全部取ってしまったのです。
そしてもちろん裸足にしております。
 

その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、20歳前後と思われる男のところに行くと足を広げさせました。

 

そして、男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けて!」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにぐさりと男根を切り取った時、この男の人は「ぎゃっ」と叫んでいましたが、そのまま気を失ったのでしょう。

 

でも倒れることはできません。
学生や兵隊達はそんな姿を見て「ふっふっ」と笑っているのです。
私は思わず沈さんにしがみつきました。

 

旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行った時です。
日本の女の子が二人、保安隊の兵隊に連れられて出てきました。

 

一人の女の子は前がはだけていました。
この女の人が何をされたのか、私もそうした商売をしておったので、よくわかるのです。

 

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
二人のうち一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。

ほっぺたがひどく腫れ上がっているのです。
 

その女の人を引っ張ってきた保安隊の兵隊は、ほっぺたの腫れ上がっている女の人をそこに立たせたかと思うと、着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

女の人は本能的に手で前を抑えようとすると、いきなりその手を銃剣で切りつけました。
 

左の手が肘のところからバッサリ切り落とされたのです。
かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

そしてそこにばったり倒れました。
 

すると倒れた女の人の腹を銃剣で突き刺すのです。

私は思わず「やめて!」と叫びそうになりました。
 

その私を沈さんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。
私は怒りと怖さで身体中が張り裂けんばかりでした。

 

旭軒と近水楼の間にある松山楼の近くまできた時です。
一人のおばあさんがよろけるように逃げてきております。
 

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うと、いきなりこのお婆さんに斬りかかったのです。

 

お婆さんは懸命に逃げようとしていたので、頭に切りつけることができず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

 

学生はこのお婆さんの腹と胸を一刺しづつついてそこを立ち去りました。
誰も見ていません。私と沈さんとこのお婆さんだけだったので、私がお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんが目を開きました。

 

そして、「悔しい」と申すのです。
「仇をとって」ともいうのです。

 

私は何もしてやれないのでただ黙って額に手を当ててやっているばかりでした。
すると、このお婆さんが「ナンマンダブ」と一言お念仏を唱えたのです。
そして息が止まったのです。

 

私が西本願寺の別府別院にお詣りするようになったのは、やはりあのお婆さんの最後の一言である「ナンマンダブ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

 

お婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえてきます。
すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

 

そこに保安隊出ない国民党政府の兵隊も何名かいました。
みんなで集まっているのは女の子を一人連れ出してきているのです。
 

何とその女の子はお腹が大きいのです。7ヶ月か8ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

 

恐怖のために恐れおののいている女の子を見ると、女の私ですら綺麗だなと思いました。ところが、一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、女の人が頑強に抵抗するのです。

 

歯をしっかり食いしばってイヤイヤを続けているのです。
学生が2つか3つかこの女お人の頰を殴りつけたのです。

そして時々「ヒーっ」と鳴き声を出すのです。
と、その時です。

 

一人の日本人の男の人が木刀を持ってこの場に飛び込んできました。
そして、「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。
これで自体は一変しました。
 

学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で切りつけました。
するとこの男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。

 

そして持っていた木刀でこの学生の肩を激しく打ちました。
学生は「うーん」と言ってその場に倒れました。
 

すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣をつけてこの日本の男の人に突きかかってきました。

 

私は、見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
7名も8名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄ってきましたが、この男の人は少しも怯みません。

 

ぴしりと木刀を正眼に構えて一歩も動こうとはしないのです。
私は立派だな、さすがに日本人だなと思わずにはおられなかったのです。

 

ところが、後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でさっと突いてかかりました。

 

するとどうでしょう。男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で激しく打ったのです。

 

この兵隊も銃を落としてうずくまりました。
でも、この日本の男の人の動きもここまででした。

 

横におった保安隊の兵隊が男の人の腰のところに銃剣でグサりと突き刺したのです。
男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱闘を始めたのです。

 

男の人はうーんと一度唸ったきり声が上がりません。
そして、あのみるも痛ましい残虐行為が始まったのです。

 

それは、この男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
これ以上はもう人間の行為ではありません。

 

今度は、目玉を抉り取るのです。
この時まではまだ男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき僅かに手と足が動いたように見えました。

 

目玉を抉り取ると、今度は服を全部剥ぎ取り、お腹が上になるように倒しました。
そして、学生が又青竜刀で男の人のお腹を切り裂いたのです。

 

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ズルズルと腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあと仕切りに頭のどこかで考えていました。
 

ハッと目を上げてみると、青竜刀を持った学生がその男の人の腸を切ったのです。
一尺ずつぐらいに切り刻んだ学生は細切れの腸を、妊婦のところに投げたのです。

お腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬に当たると

 

「ヒーっ」と言って気を失ったのです。

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
 

その時、この妊婦の人が気がついたのでしょう。
フラフラと立ち上がりました。

そして一生懸命逃げようとしたのです。
 

その妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。

妊婦はばったり倒れたのです。
 

すると兵隊が駆け寄ってきて、この妊婦の人を仰向けにしました。

剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。
 

赤い血がパーっと飛び散りました。妊婦の人がひゃーという最後のひと声もこれ以上ない悲惨な叫び声でした。

 

お腹を切った兵隊は手をお腹の中につきこんでおりましたが、赤ん坊を探し当てることができなかったからでしょうか、今度は陰部の方から切り上げています。

そして、とうとう赤ん坊を掴みだしました。
 

その兵隊はニヤリと笑っているのです。

片手で赤ん坊を掴みだした兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

 

ところが、保安隊も学生もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。

 

私は、もう街の中には痛くないと思って、沈さんの手を引いて街の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。城内の道を通った方が近いので北門から入り近水楼の近くまで来た時です。

 

その近水楼の近くに池がありました。その池のところに日本人が40人から50人立たされておりました。
 

ほとんどが男の人ですが、中には50を越したと思われる女の人も何人かおりました。
ついさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された10人ほどの日本人の人たちが連れられて来ました。

 

国民党政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。
そして、一番最初に連れ出された50歳くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って切りつけたのです。

 

ところが首に当たらず、肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀ひったくるようにした国民党政府軍の将校と見られる男が、肩を切られて倒れている日本の男の人を兵隊2人で抱き起こしました。

 

そして、首を前の方に突き出させたのです。
そこに国民党政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

この男の人の首はコロリと前に落ちました。
 

これを見て国民党政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

落ちた首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。

 

この国民党政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させると、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に切りつけたのです。

 

するとこの男の人の額がパックリ割られて脳梁が飛び散りました。
国民党政府軍の将校は手を挙げて合図をして、自分はさっさと引き上げたのです。

 

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がわーっと日本人に襲いかかりました。40人か50人かの日本人が次々に殺されていきます。

 

そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。

 

全部の日本人が投げ込まれたときは、池の水は真っ赤になっていたのです、真っ赤な池です。その池に蓮の花が一輪咲いていました。

 

昼過ぎでした。日本の飛行機が一機飛んで来ました。日本軍が来たと誰かが叫びました。ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。

 

日本軍が来たというので、国民党政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

 

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残酷無比なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出していくのです。

 

私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。私は、支那人の嫁になっているけど、支那人が嫌いになりました。

 

こんなことから沈さんとも別れることになり、昭和15年に日本に帰って来ました。

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以上、引用終わり。

 

この事件は東京日日新聞や読売新聞、そしてあの『朝日新聞』も偏向報道することなく、事実をありのままに報道していました。
 

この事件を知った日本人は怒りに沸騰しました。

しかし、日本政府はこの事件を海外に宣伝することをしませんでした。

 

一方、中国はこの事件の様子を報道した日本の新聞雑誌に用いられた写真を無断転用して、積極的に海外に宣伝(プロパガンダ)しました。
 

でも、中国人が行なった残虐行為を中国が海外に宣伝して、一体何の利益があるの? と思うかもしれません。

 

中国人の宣伝(プロパガンダ)は全て捏造です。
歴史的事実ではありません。
 

この通州事件の写真も捏造しました。

 

時期を、昭和12年7月28日(夏の時期)に起きたのを、昭和12年12月14日から翌年の2月(冬の時期)とし、
場所を北京郊外の通州地区から南京とし、
被害者である日本人を加害者とし、
加害者である中国人を被害者として、

 

世界に向けて宣伝(プロパガンダ)していきました。

 

この写真を見た米国人は、どう思ったでしょうか?

 

それまでの米国世論は、95%が中国大陸での紛争に干渉すべきではないとなっていました。

 

米国の伝統的な外交政策は、孤立主義(モンロー主義)であり、海外紛争に対して不干渉という立場をとっていました。

 

しかし、このような宣伝(プロパガンダ)により、米国世論が大きく変わり、反日、中国同情論となっていきました。

 

中国国民党の蒋介石に積極的にドル借款したりして援助する一方、日本には経済制裁を加えていきました。
 

そして、日米開戦へと導かれていきます。

 

現在の中国はどうでしょう?

 

通州事件があった場所には高層ビルが立ち並び、事件当時の建物は破壊されたり、地中に眠っています。事件後建てられた慰霊碑も地中に眠ったままになっています。

 

中国人は、不都合な歴史は地中に埋める習慣があるのです。

 

その一方、中国共産党は全中国大陸の100箇所にわたり、抗日戦線記念館(南京大虐殺記念館)を作り、歴史教育の一環として、中国の子供達が集団でその記念館を訪問し、残虐な写真やその解説を見せられています。

 

その残虐な写真を見せられた中国の子供達は、日本に対してどういう感情を持つでしょうか?

 

全員、『小日本憎し』となるでしょう。(小日本とは、中国人の日本蔑視表現です)

一方日本では、この残虐行為の写真を見て見ぬ振りをして、避けていたように思います。

 

しかし、これは直視していかなくてはいけないと思います。
日本人にとって、決して忘れてはいけない事件だからです。

 

米国が決してパールハーバーを忘れないように。
そして、毎年、12月8日に真珠湾で慰霊式典を行なっているように。

 

『リメンバー通州!』

 

日本政府は、毎年7月29日に慰霊祭を行うべきです。
そうすることが、事件の犠牲となった人たちへの供養となります。

 

 

 

 

 

中国人の特徴はなんだと思いますか?

 

強いものには媚びへつらい、弱いものには、どこまでも高圧的な態度をとるというものです。

 

昭和7年(1932年)1月28日に起きた上海事変の1ヶ月前、
中国福建省の福州というところで、ある事件が起きました。
(以下『暗黒大陸 中国の真実』ラルフ・タウンゼント著より一部抜粋)

 

当時は中国大陸の各地で学生による秘密結社が作られて略奪、殺人が行われており、日本人も被害にあっていました。

 

ある日本人教師夫妻が標的にされ、「殺す」と脅されていました。
 

その殺された教師には何も脅迫されるような咎めはなかったのですが、たまたまカモにされてしまいました。

 

福州の日本総領事は、その脅迫された日本人の警備を中国の福州当局と警察に要請しました。

 

日本軍ではなく中国当局にです。

中国側に配慮したのでしょう。

 

要請を受けた中国側はしばらくその教師夫妻の自宅前に中国兵を配置して警備していました。

 

ところが、ある日、突然その警備兵が消えました。そして、日本人夫妻は襲撃され殺されてしまいました。

 

中国当局と秘密結社がグルになっていたとしか考えられませんでした。

この事件を聞いて、福州在住のの日本人は怒りに沸騰しました。
 

田村(貞次郎)総領事は中国当局を呼び、次のように述べました。

 

「非難するつもりはないが、双方の同意に基づいて警備に落ち度があったから今回の事件が起きたのである。この重大な過失に対し、ご遺族に5万ドルの賠償を願いたい」と。

 

この田村(貞次郎)総領事の要求に対して、中国当局はのらりくらりとはっきりとした態度を示しませんでした。

 

そこで、田村(貞次郎)総領事が次のように伝えました。

 

「よろしい、これ以上申し上げることはない。あとはそちらのご判断次第である。一言申しあげるが、当方はすでにことの詳細を日本海軍に打電し、軍艦数隻がこちらに向かっている。

 

お分かりかな。熟慮のほどを重ねて申し上げる」
と席を立とうとすると、

 

中国側は、「上に相談してみます」
と慌てて態度を改め、

 

田村(貞次郎)総領事総は
「5万ドルを耳を揃えて持ってくるまでは面会無用」
と突き放しました。

 

徹夜で相談した中国当局は、翌日5万ドルを現金で持ってきました。

 

その後、日本海軍の軍艦が到着しましたが、事は収まっていたので、艦砲射撃をする事なく終わりました。

 

その後、福州での日本人を標的にしたテロや殺人事件はピタリと止まり、あらゆる反日行動が止まりました。

 

日本人は、中国人から最高の扱いを受けるようになり、中国人にとって最も尊敬される外国人となりました。

 

その後、シンガポールに転勤となった田村(貞次郎)総領事に対し、送別会が設けられ、日本人だけでなく中国人からも賛辞が述べられました。

 

田村(貞次郎)総領事は、それまでの総領事の中で、一番の人気者でした。

福州在住日本人3000人は、何の危害も略奪も受ける事なく、平和に暮らすことができました。

 

これも、田村(貞次郎)総領事が、中国に対し毅然とした態度をとってくれたおかげです。

 

  (田村貞次郎総領事は、文官高等試験に合格後、大正6年に中国の漢口に赴任した後各地を歴任し、ホノルル総領事を最後に昭和11年に退官されました。)

 
 
 

米国の伝統的な孤立主義(モンロー主義)や、海外紛争への不干渉政策を改め、昭和16年12月の日米開戦へと導いていったのは一体誰でしょうか?

 

それは、反日、親中国キャンペーンとロビー活動を活発に行なった、中国の宣伝工作員と米国共産党系の人達です。

 

昭和10年(1935年)7月25日からモスクワで開催された、コミンテルン(第三インターナショナル)は、日本とドイツを狙い撃ちにして、「平和とデモクラシーと戦う人民統一戦線」を構築することを、世界の共産党に指示しました。

 

これを受けて米国共産党は、労働組合やキリスト教団体を内部から次々に乗っ取り、ルーズベルト民主党を支持して、全米各地で、親中、新ソ連、反日キャンペーンを繰り広げていきました。

 

「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟」(のちに「アメリカ平和デモクラシー連盟」と改名)は大々的に反日キャンペーンを展開。

 

この団体は全米22都市に支部を持つ「中国支援評議会」を作り、日本の中国侵略に反対し、「対日武器輸出禁止政策」を米国連邦議会に申請しました。

 

この「中国支援評議会」の常任理事のフィリップ・ジャフェ、事務局長のミルドレッド・プライス女史はソ連のスパイでした。

 

昭和12年(1937年)12月、日本軍が南京を陥落し、その後南京城内外で、日本軍による殺戮や強姦、略奪があったなどと宣伝されている時期に、南京にいたジョン・マギー牧師は映画フィルムで街の様子を撮影しました。

 

その映像は、ハロルド・J・ティンパーリの指示により、「侵略された中国」と題して、

YMCA(キリスト教青年会)による反日キャンペーン用に全米各地で上映されました。

 

ハロルド・J・ティンパーリは、南京大虐殺30万人説の有力な証拠の一つとされた『戦争とは何か-中国における日本の暴虐』(1938年7月)という本を編集した新聞記者です。また、中国国民党(蒋介石)の中央宣伝部国際宣伝処の顧問を務めていました。

 

このマギーフィルムは、全米で上映会が開催され、当時の反日世論の醸成に大きな威力を発揮しました。

 

終戦後の東京裁判で、マギー牧師は証人として発言しました。
 

2日間に渡る証言に対し、日本陸軍の松井石根被告の弁護人であるブルックス弁護士が、反対質問しました。

 

「現行犯をご覧になったことがありますか?」

 

とブルックス弁護士が問いつめると、二日にわたって証言したことは全部ウソで、結局窃盗と婦女暴行が各一件だけあることが判明し、法廷で笑い物になりました。

 

さらに、マギー牧師の日記には「私たちは本当は殺害現場を見ていません」と書かれています。(滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』(三交社、1997))

 

このマギーフィルムに映し出されている映像は、多くは南京難民区内の鼓楼病院で撮影されたもので、幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映っています。

 

幼い子供や女性は、日本軍の暴行を受けたと字幕の説明がされていますが、実際にその証拠となる映像がありません。

 

虐殺場面とされる映像については、字幕の説明のみで肝心の映像は写っていないので、写っている死体が戦闘で死んだものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍の手によるものなのか、中華民国軍の敗残兵の手によるものかなどが明らかではありません。

 

そのほとんどが負傷した中国人の治療の様子と死体を写したものです。

 

このプロパガンダで日本が被った損害はどれほどあったことでしょう。

 

松井石根(まつい いわね)陸軍大将は、マギー牧師の証言は嘘であったにもかかわらず、東京裁判でB級戦犯として処刑されてしまいした。

 

昭和41年(1966年)9月に、田中正明(松井大将の元秘書)ら5人が岸信介元首相の名代として台湾を訪問した際、田中が昭和11年(1936年)に松井大将の秘書として、蒋介石に一度会ったことを伝えました。

 

すると蒋介石は、「松井石根」という名を耳にした瞬間、顔色がさっと変わり、手を震わせ、目を真っ赤にして、涙ぐみながら
「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」

 

「南京に大虐殺などありはしない。ここにいる何應欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録してあるはずです。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。

 

松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と話しました。

 

 

ハリー・プライスと、その弟フランク・プライス、ジョージ・フィッチ(YMCA中国事務局長)、フィリップ・ジャフェ(雑誌「アメラジア」編集人)らが発起人となり、ヘンリー・スティムソン(米国元国務長官)を名誉会長として、昭和14年(1939年)1月「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」が設置されました。

 

この「アメリカ委員会」は、米国議会に対し「対日武器輸出禁止政策」のロビー活動を大々的に展開しました。

 

また、『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』と題したブックレットを6万部、『戦争犯罪』と題したパンフレットを2万2千部政策し、米国連邦議会の全ての議員、キリスト教団体、労働組合などに配布しました。

 

発起人の一人、フランク・プライスは中国国民党(蒋介石)の中央宣伝部国際宣伝処の英文編集委員でした。この組織は、海外に向けて宣伝(プロパガンダ)を行なっていた機関になります。

 

米国共産党により裏で操られていた米国マスメディアは、この「アメリカ委員会」の活動を好意的に報道していました。

 

太平洋問題調査会(IPR)は、YMCA主事が、国際理解とキリスト教布教を強化する目的で、大正14年(1925年)ハワイにて作られました。

 

そのIPRは、昭和8年(1933年)エドワード・カーターが事務総長に就任し、機関紙「パシフィック・アフェアーズ」の編集長にオーエン・ラティモアが抜擢されたことで、共産党に乗っ取られてしまいました。

 

オーエン・ラティモアはソ連のスパイであり、エドワード・カーターは共産党のシンパでした。

 

昭和15年(1940年)、ハーバート・ノーマン(「カナダ中国人民友の会」書記)は、『日本における近代国家の成立』を刊行しました。

 

この本は、IPRからの依頼により執筆され、エジアティカス(ドイツ共産党員)、陳翰笙(ちん・かんしょう)(ソ連スパイ)、冀朝兼(米国共産党員)の編集により作成されました。

 

この『日本における近代国家の成立』では、日本が中国大陸で戦争しているのは、日本人居留民を保護するためでもなく、中国人による排日ナショナリズムに対抗するためでもなく、日本軍国主義がその全ての原因である、と決めつけていました。

 

民主党のルーズベルト大統領は、このノーマンの『日本における近代国家の成立』によって、対日圧迫外交を理論的に支えることになります。
 

またこの本は、日本の占領政策にも大きな影響力を及ぼしました。

 

このように、米国共産党や、ソ連のスパイ、中国国民党の宣伝部隊の影響により、米国世論が反日、親中国となっていくことになりました。

 

当時の米国の状況を的確に分析していたのは、若杉要ニューヨーク総領事でした。

 

彼は、昭和13年(1938年)7月20日、日本の近衛内閣に次のように打電しました。

 

「ルーズベルト民主党政権と議会は、世論に極めて敏感なので、このような反日報道に影響を受けた世論によって、どうしても反日的になりがちだ」

 

「共産党系は表向き、デモクラシー(民主主義)擁護を叫んで反ファシズム(侵略政策をとる独裁制)諸勢力の結集に努めており、その反日工作は侮りがたいほどの成功を収めている。」

 

「共産党の真の狙いは、デモクラシー(民主主義)擁護ではなく、日米関係を悪化させて支那事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に対して軍事的圧力を加えることができないようにすること」

 

であるとして、共産党による日米分断作戦の挑発に乗らないように忠告していました。

 

しかし、その近衛内閣のブレーンの中にも尾崎秀実(ソ連スパイ)や、共産党が中央にまで入り込んでいましたので、日本も同じように、支那事変の長期化と同時に、日米開戦を仕向けるように工作が繰り広げられていました。

 

中国の宣伝部隊と共産党による、全米各地に繰り広げられた反日キャンペーンとロビー活動。

 

その影響により米国の伝統的な孤立主義(モンロー主義)、対外紛争への不干渉主義の方針を変更させ、日米開戦へと導いていきました。

 

このような活動は、日本の敗戦によって終了したのでしょうか?

 

残念ながら、戦後70年経過した今日も、その活動は活発に繰り広げられています。

 

日本政府も、米国民に向けた宣伝活動に大きな予算を割いて、親日世論の醸成を積極的に行うべきです。

 

もし、今まで通り米国における宣伝工作をほとんど行わず、中国の宣伝工作に操られるまま、反日世論と中国同情論が醸成されていくのを黙って見ているなら、かつての大東亜戦争の二の前になってしまうでしょう。

 

 

 

 

南京大虐殺の責任を取らされて処刑された、谷 寿夫(たに ひさお)陸軍中将。
 

本当に、掠奪、強姦、放火、殺人はあったのでしょうか?

 

昭和12年11月5日、上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛に、日本軍の第10軍が上陸しました。

 

杭州湾敵前上陸作戦は、上海に向けて進軍し、上海で日本軍と戦っている中国軍を挟み撃ちにする作戦でした。

 

しかし、中国軍が南京に敗走したので、日本軍も南京城に向けて進軍していきました。

シナ兵は、上海から撤退する際、堅壁清野(けんぺきせいや)作戦を行いながら、南京や重慶に退却していきました。

 

堅壁清野(けんぺきせいや)作戦とは、退却する地域の住民に対して食料や金品などを掠奪(りゃくだつ)し、住民の家屋を破壊するというものです。

 

シナ兵は、退却する際、決まってこの堅壁清野(けんぺきせいや)作戦を行い、さらに掠奪に抵抗する住民を容赦無く殺害していきました。

 

ただ、住民の中でも、シナ兵から食料や金品を掠奪されるのを黙ってみているだけではなく、集団で抵抗したこともありました。

 

「あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりではなく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害するという光景を何回も見ている」(『東京朝日新聞』 昭和12年(1937年)11月14日付夕刊 2面)

 

昭和12年12月に起きた南京戦の前には、日本軍に使われる可能性のある建物をすべて、中国軍は焼却しました。

 

そして、国民党軍により南京城壁の周囲1〜2kmの居住区全域と、南京城から半径16km以内にある道路沿いの村落と民家を焼き払い、焦土化しました。

 

焦土化の対象は、軍事施設や食糧倉庫のみならず田畑や民家にまで及びましたので、日本軍が南京城に到着した時には、南京城周辺には、住民はいなかったことになります。

 

昭和12年12月11日朝、第10軍は南京城の中華門手前2キロに到着。城内と雨花台砲台から激しい機関銃射撃を受け、日本軍も応戦します。

 

一昼夜激しい応戦を続けたのち、翌12日、中華門を突破し、城内に進軍し、昼過ぎに中華門西の一部を占領。13日に南京城は陥落しました。

 

蒋介石夫妻やファルケンハウゼンらドイツ人顧問団は、米軍パイロットの飛行機にて、すでに12月7日に重慶に脱出しており、南京城を守備していた中国の敗残兵は、日本軍の捕虜となりました。

 

第6師団を率いる谷 寿夫(たに ひさお)師団長は、数日南京城に滞在した後、蕪湖方面に前進命令が出たので12月21日に移動しました。

 

再び、中華門から南京城の外に出て蕪湖方面に移動していくと、その道の両側にはおびただしいトーチカ(塹壕)が作られていて、鉄条網も張り巡らされていました。

 

そして、その塹壕の中から、多数の中国の敗残兵が出てきて、無抵抗に捕虜となっていきました。

 

中国軍は、蕪湖方面から南京城に日本軍が進軍してくると予想して、トーチカや鉄条網を作り待ち伏せしていたのですが、別方面から進軍したので、一発の銃声を発することなく終わりました。

 

谷口勝上等兵は次のように記録しています。

「逃げ場を失った敗残の敵部隊は、限りなく街道に続いていた。私たちもまた、これに一発の銃弾さえ持ちいる必要はなかった。2百人、3百人と集団をなした敵を素手で捉えてしまう。

 

そして、私たちは、はたと当惑したのだ。自分たちでさえ食料の補給がつかない。蕪湖方面への進軍だけで手一杯だった。

 

それだのにこの千に余る敵敗残部隊をどうして養いそして処理したらいいのだろうか。

私たちに抵抗した南京城内の幾万と知れぬ敵は、一瞬にして南京城内外の屍の山を築いてしまった。それだのにこれは、はたと当惑した。」(『征野千里』谷口勝著)

 

昭和22年(1947年)3月10日、谷 寿夫第6師団長は、南京軍事法廷で、捕虜や住民を掠奪、強姦、放火、殺人を行ったとして、B級戦犯(通常の戦争犯罪)を宣告されました。

 

裁判長の石美瑜は判決文の中で次のように宣告しました。

 

「昭和12年12月14日から21日までの間に、谷 寿夫が担当した地域である中華門一帯で、放火・殺人・強姦・略奪にあった住民について調査可能な事件は、すでに四五九件に達している」

 

しかし、堅壁清野(けんぺきせいや)作戦で、国民党軍は、南京城壁の周囲1〜2kmの居住区全域と、南京城から半径16km以内にある道路沿いの村落と民家を焼き払い、焦土化しました。

 

日本軍が南京城に到着した時にはすでに、南京城外一帯は焦土化されており、住民がいることは考えられませんでした。

 

さらに、蕪湖方面へ向かう街道沿いは、国民党軍による無数のトーチカと鉄条網が張り巡らされており、要塞化していたので、ここに住民がいることは考えられませんでした。

 

昭和22年(1947年)4月26日、谷 寿夫陸軍中将は、蒋介石の執行命令により処刑されました。

 

「当時中華門一帯は激戦によって住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。」
「参謀長下野一霍砲兵大佐の召喚訊問を要請したい」

 

と、谷 寿夫中将は裁判で弁明しましたが、聞き入れられることはありませんでした。
 

無念の最後だったことでしょう。