南京大虐殺の責任を取らされて処刑された、谷 寿夫(たに ひさお)陸軍中将。
本当に、掠奪、強姦、放火、殺人はあったのでしょうか?
昭和12年11月5日、上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛に、日本軍の第10軍が上陸しました。
杭州湾敵前上陸作戦は、上海に向けて進軍し、上海で日本軍と戦っている中国軍を挟み撃ちにする作戦でした。
しかし、中国軍が南京に敗走したので、日本軍も南京城に向けて進軍していきました。
シナ兵は、上海から撤退する際、堅壁清野(けんぺきせいや)作戦を行いながら、南京や重慶に退却していきました。
堅壁清野(けんぺきせいや)作戦とは、退却する地域の住民に対して食料や金品などを掠奪(りゃくだつ)し、住民の家屋を破壊するというものです。
シナ兵は、退却する際、決まってこの堅壁清野(けんぺきせいや)作戦を行い、さらに掠奪に抵抗する住民を容赦無く殺害していきました。
ただ、住民の中でも、シナ兵から食料や金品を掠奪されるのを黙ってみているだけではなく、集団で抵抗したこともありました。
「あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりではなく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害するという光景を何回も見ている」(『東京朝日新聞』 昭和12年(1937年)11月14日付夕刊 2面)
昭和12年12月に起きた南京戦の前には、日本軍に使われる可能性のある建物をすべて、中国軍は焼却しました。
そして、国民党軍により南京城壁の周囲1〜2kmの居住区全域と、南京城から半径16km以内にある道路沿いの村落と民家を焼き払い、焦土化しました。
焦土化の対象は、軍事施設や食糧倉庫のみならず田畑や民家にまで及びましたので、日本軍が南京城に到着した時には、南京城周辺には、住民はいなかったことになります。
昭和12年12月11日朝、第10軍は南京城の中華門手前2キロに到着。城内と雨花台砲台から激しい機関銃射撃を受け、日本軍も応戦します。
一昼夜激しい応戦を続けたのち、翌12日、中華門を突破し、城内に進軍し、昼過ぎに中華門西の一部を占領。13日に南京城は陥落しました。
蒋介石夫妻やファルケンハウゼンらドイツ人顧問団は、米軍パイロットの飛行機にて、すでに12月7日に重慶に脱出しており、南京城を守備していた中国の敗残兵は、日本軍の捕虜となりました。
第6師団を率いる谷 寿夫(たに ひさお)師団長は、数日南京城に滞在した後、蕪湖方面に前進命令が出たので12月21日に移動しました。
再び、中華門から南京城の外に出て蕪湖方面に移動していくと、その道の両側にはおびただしいトーチカ(塹壕)が作られていて、鉄条網も張り巡らされていました。
そして、その塹壕の中から、多数の中国の敗残兵が出てきて、無抵抗に捕虜となっていきました。
中国軍は、蕪湖方面から南京城に日本軍が進軍してくると予想して、トーチカや鉄条網を作り待ち伏せしていたのですが、別方面から進軍したので、一発の銃声を発することなく終わりました。
谷口勝上等兵は次のように記録しています。
「逃げ場を失った敗残の敵部隊は、限りなく街道に続いていた。私たちもまた、これに一発の銃弾さえ持ちいる必要はなかった。2百人、3百人と集団をなした敵を素手で捉えてしまう。
そして、私たちは、はたと当惑したのだ。自分たちでさえ食料の補給がつかない。蕪湖方面への進軍だけで手一杯だった。
それだのにこの千に余る敵敗残部隊をどうして養いそして処理したらいいのだろうか。
私たちに抵抗した南京城内の幾万と知れぬ敵は、一瞬にして南京城内外の屍の山を築いてしまった。それだのにこれは、はたと当惑した。」(『征野千里』谷口勝著)
昭和22年(1947年)3月10日、谷 寿夫第6師団長は、南京軍事法廷で、捕虜や住民を掠奪、強姦、放火、殺人を行ったとして、B級戦犯(通常の戦争犯罪)を宣告されました。
裁判長の石美瑜は判決文の中で次のように宣告しました。
「昭和12年12月14日から21日までの間に、谷 寿夫が担当した地域である中華門一帯で、放火・殺人・強姦・略奪にあった住民について調査可能な事件は、すでに四五九件に達している」
しかし、堅壁清野(けんぺきせいや)作戦で、国民党軍は、南京城壁の周囲1〜2kmの居住区全域と、南京城から半径16km以内にある道路沿いの村落と民家を焼き払い、焦土化しました。
日本軍が南京城に到着した時にはすでに、南京城外一帯は焦土化されており、住民がいることは考えられませんでした。
さらに、蕪湖方面へ向かう街道沿いは、国民党軍による無数のトーチカと鉄条網が張り巡らされており、要塞化していたので、ここに住民がいることは考えられませんでした。
昭和22年(1947年)4月26日、谷 寿夫陸軍中将は、蒋介石の執行命令により処刑されました。
「当時中華門一帯は激戦によって住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。」
「参謀長下野一霍砲兵大佐の召喚訊問を要請したい」
と、谷 寿夫中将は裁判で弁明しましたが、聞き入れられることはありませんでした。
無念の最後だったことでしょう。