昭和21年(1946年)2月3日、北朝鮮との国境沿いの満州国の通化という場所で、朝鮮人民義勇軍(李紅光支隊)とシナ共産党軍(八路軍)による、3000名あまりの日本人大虐殺事件が起きました。
(通化事件、2・3事件)
終戦後まもない昭和20年8月20日、通化高等女学校にソ連兵が乱入。女子生徒を連行しようとしたので、女教師が身代わりとなり、連行されていった。
その後、深夜に返されたが、その女教師は自殺してしまった。ソ連兵に強姦(レイプ)されたためであることは、容易に想像できた。
8月24日に、ソ連将校20名と兵隊200名が通化市に進駐してきましたが、その半数以上は、日本軍(関東軍)から接収した銃や軍靴を身につけていました。
また、日本軍(関東軍)から接収した大量の武器弾薬をソ連軍から横流ししてもらった
中国共産党軍(八路軍)も同市に駐留するようになりました。
以後、通州市はソ連軍と、中国共産党軍(八路軍)により支配されるようになりました。
ある日、路上で真昼間から日本人女性を強姦(レイプ)しているソ連兵がいたので、日本軍憲兵隊の原准尉が、現場に駆けつけ、そのレイプ中のソ連兵にやめるように高等で注意したが、ソ連兵は無視してレイプを続行。
仕方なく、原准尉が持っていた日本刀で切りつけ殺害しました。
その後、駆けつけてきたソ連兵が原准尉を射殺。
それ以降、日本軍が所有していた日本刀も没収の対象となりました。
ソ連兵による日本人婦女暴行(レイプ)は、頻繁に行われていたので、日本人女性は、頭を丸坊主にしたりして女性と気づかれないように身を守り、外出は避けていました。
ソ連側は、日本人居留民に対し、慰安婦として女性を提供するように要求してきましたので、仕方なく、居留民会で話し合い、料亭で働いている女性を慰安婦として差し出しました。
当初、ソ連側は素人娘でないとダメと駄々をこねていましたが、居留民会の会長を務めていた、宮川梅一が拒否したので、ソ連側も妥協しました。
ソ連軍が通化市から撤退後、昭和20年10月23日、中国共産党軍の一個師団が新たに進駐し、間も無く劉 西元(りゅう せいげん)(劉 東元から改名)も着任します。
また、中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後吉林へ連行しました。
中国共産党軍は、遼東日本人民解放連盟の通化支部(日解連)を設立して、共産党への思想教育を実地していきました。
その際、使われた教材は野坂参三日本共産党が書いた本でした。
日本人居留民は17、000名いましたが、全ての財産を没収され、さらに、中国共産党への忠誠を誓う、共産主義者となることを誓約させられました。
11月17日、中国共産党軍は、元満鉄総裁という理由で大村卓一を逮捕。
昭和20年12月23日、日本人居留民大会が日本人民解放連盟主催で開催されました。
「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」をスローガンにして、居留民3000人、藤田実彦大佐も出席しました。
日解連通化支部の幹部たちからは、自分たちのこれまでのやり方を謝罪するとともに、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰である」などの発言がありました。
これは「思想改造」と言われる洗脳を受けたために、このような発言がなされました。
「思想改造」とはどのようなものでしょうか?
日本兵士反戦同盟(のち日本人民解放連盟に名称変更)が、昭和15年(1940年)に延安に設置され、「日本労農学校」や「第二学校」などの捕虜収容所において野坂参三が校長を務めました。
日本労農学校で野坂参三は、集団でお互いに相手の自己批判を徹底的に繰り返させ、それまで積み上げてきた自尊心や価値観などを、木っ端微塵に打ち砕くことにしました。
この方法は、それまで深く染み付いた古い思考を破壊し、新しい生活様式を受け入れるのに役立つと考えられました。
(戦後、泊まり込みで行う企業研修でこの方法を用いている業者もありました。)
疲労と自己批判で意識がモウロウとしてきたところに、何度も何度も自分自身の言葉で、政治的教義(マルクス・レーニン主義)を反復させるという思想改造をしていきました。
捕虜の日本兵たちにとっては、共産主義者になることだけが、過去を絶ち切って、罪深い過去の記憶から自らを解脱させる唯一つの方法だったのです。
解脱とは、しがらみから解放するということです。人間誰でも色々なしがらみを持っていきています。そのしがらみから解放することができれば、幸せで生き生きと生きることができると、仏教では説明します。
そこでは、みんなで共産主義者になって、毛沢東を同志と呼び、中共軍を解放軍と賞讃して、そのもとに働く彼ら自身を、解放の戦士と呼称することによって、自分自身を肯定する居場所をつくりました。
日本労農学校での日本兵捕虜の思想改造は、成功を収めました。
捕虜の中で次のように話す人が出てきました。
「周恩来総理は(私の)人生になくてはならない指導者である」
「中国共産党と八路軍は私に第二の命を与えてくれた。それは私に、正しい人として生きる目的と意義を教えてくれた」
このような「覚醒した」日本兵たちは、新たに日本兵捕虜の獲得に利用されていきました。
昭和19年(1944年)3月4日、日向勝・砲兵中尉をはじめとする48人が八路軍の捕虜になりました。そのうち30人が日本人民解放連盟に参加しました。
日向勝は、砲兵教官として新四軍(八路軍)に止まり、砲兵部隊を育成し、第三野戦軍砲兵連隊の作戦参謀や大隊長などの要職を歴任しました。
日本の終戦後に始まった、日本の終戦後に始まった、淮海戦役、渡江戦役などの国府軍との大戦に参加して、この野戦軍は大いに活躍し連戦連勝。
共産党軍の勝利に大きく貢献しました。
昭和20年12月23日、通化市で行われた日本人居留民大会に話を戻します。
日本人居留民たちは、日解連への非難や明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」と訴え、山口嘉一郎老人は、日本共産党の野坂参三の天皇批判を万死に値すると痛撃しました。
山口嘉一郎老人が「宮城(日本の皇居)遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案すると満座の拍手が沸き起こり、全員起立して宮城(日本の皇居)に向かって遙拝と、天皇陛下万歳三唱が行われた。
次に山口老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれませんので、徐々に教育をお願いしたい」旨を述べました。
翌日、中国共産党軍は、山口嘉一郎老人を始め大会で発言した者を連行し処刑しました。
中国共産軍側工作員の内海薫が何者かに殺害されたので、その容疑をかけられ、1月10日、シナ兵は、日本人民解放連盟通化支部幹部や旧満洲国の高級官吏・日本人居留民会の指導者ら140名を連行。
(1月10日事件)
菅原達郎通化省次長、河内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長の4名は、中国共産党軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑された。
処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されハチの巣にされた
昭和21年2月3日、中国共産党軍による蛮行に耐えられなくなった在留日本人は、重慶を拠点とする中華民国軍(蒋介石軍)と、林航空隊と戦車隊の支援を期待して、元日本軍(関東軍)将校などの指揮下で蜂起しました。
総勢1000名でした。
蜂起した日本人にはわずかな小銃と刀があるのみで、大部分はこん棒やスコップなどしか武器はありませんでした。
それまで、シナ兵やソ連兵に、全ての財産を没収されていたので、武器と呼べるものをほとんど持っていませんでした。
しかし、頼みの蒋介石軍の援軍もなく、また、この情報を事前に入手していたシナ兵により、林航空隊は拘束されてしまい、わずか数時間で制圧されてしまいました。
この事件で、満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)に嫁いだ、侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の第一子、嵯峨浩(さが ひろ)が、巻き込まれます。
2月3日の真夜中、突然バンという銃声が鳴り響き、浩妃は息を潜めているとダダダと凄まじい足音がして一人の男が飛び込んできました。
男は「一番乗りの中山、お助けに上がりました」と叫びます。
さらにやってきた軍人が「今夜憲兵の工藤が救出に参るはずです。
皇后様(一緒にいた皇帝溥儀の皇后・婉容妃のこと)とご一緒にお待ちください」といって窓側にいき、八路軍(共産党軍)と銃撃戦を始めました。
しかし、計画は事前に察知されていたので、八路軍は一旦、旧日本軍人らを公安局の中に入れて包囲する作戦でした。そして機関銃で銃撃され、砲撃を受けます、
浩妃たちはじっとして身を伏せていましたが、皇帝の老乳母の王焦に砲弾の破片が命中し、右の手首が吹き飛ばされます。
乳母は「痛い痛い」と泣きながら血だらけの手で顔を触り、顔が血だらけになりました。この乳母の吹き飛ばされた手首は浩妃の娘・「こ生」のところに飛んできていました。
「こ生」は「忘れようとしても、なお血まみれの手首だけは記憶に残っています」と回想しています。
事件後、浩妃らは長春(新京)へ送られることになります。
16歳以上60歳までの日本人男性は、事件との関係を問わず全員八路軍の兵舎の前に集合せよ、と命令が出されました。
そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。
「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」
その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。みるみるうちに、ばたばたと倒れた。
重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。
死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。
「日本人の男は全員外に出ろ!」。
2月3日の朝、日本への帰国を待っていた東京都葛飾区の設楽三郎さん(92)は、土足で踏み込んできた共産党軍の兵隊に連行されたことを鮮明に覚えている。
抵抗する様子を見せた日本人はその場で銃殺されたといいます。
(日本経済新聞2016年2月3日)
逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び連行されました。
事件に関与したとみなされた女性も連行されました。
八路軍は連行する際、日本人を一人一人首を針金でつなぎ合わせて連行しました。
寝間着、素足に下駄履の者や病人までもが、マイナス20度になる外を数珠繋ぎで行進させられました。
3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして、建物の各部屋に押し込まれた。
8畳ほどの部屋に120人が強引に押し込められ、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされました。
抑留中は酸欠で「口をパクパクしている人達」や、精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓の外から朝鮮人民義勇軍の兵士たちにより銃撃され、窓際の人間が殺害されました。
設楽三郎さん(92)は、次のように振り返ります。
長屋の10畳程度の部屋に、100人以上が押し込まれた。「外は酷寒なのに、中はサウナのように蒸し暑くて不快だった」。
夜、殺気だった室内で小さな言い争いが起きると、見張りの兵が窓から発砲した。
静まりかえった室内に撃たれた男性のうめき声が響き、「生きた心地がしなかった」。(日本経済新聞2016年2月3日)
殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされました。
足元が血の海になったが死体を外に出すこともできませんでした。
拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちから、36年の恨み(日韓併合)と言って棍棒で殴りつけられ、多くが撲殺されました。
撲殺を免れた者の多くは手足を折られるなどし、中国共産党軍による拷問と尋問が行われました。
そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。
その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。
そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。
やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。
するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。これが毎日のように行われました。
生き残った者は、凍結した渾江(鴨緑江の支流)の川岸に一人ずつ並べられ、次々に銃殺されていきました。
3月5日、11月17日に逮捕されていた元満鉄総裁の大村卓一が獄死。
事件後の3月10日、市内の百貨店で、2・3事件の展示会が行われ、日本人からの戦利品と共に、孫耕暁(通化国民党部書記長)と藤田実彦大佐が、見せしめとして3日間立ったままの状態でさらし者にされました。
孫耕暁(そん・こうぎょう)は、中華民国政府(蒋介石)の通化市での指導者だったので、中国共産党軍からさらし者にされ、銃殺。
また、藤田 実彦(ふじた さねひこ)大佐は、この事件の首謀者とされたため、さらし者にされました。
藤田実彦大佐は痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪をひいているのか始終鼻水を垂らしながら「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けました。
昭和21年3月15日に藤田少佐が死亡(享年45歳)すると、遺体は市内の広場で3週間さらされました。
この事件は、日本がポツダム宣言受諾して武装解除した、昭和20年8月15日以後に起きた大虐殺事件となります。
また、この大虐殺事件の総指揮をした劉 西元(りゅう せいげん)は、中国共産党の建国の英雄として、中国では語り継がれています。
日本の教科書には決して掲載されることのない、通化大虐殺。
共産国に対して武装解除した後、どういう結果になるかということを、歴史が教えてくれています。