昭和20年8月、北朝鮮に住む日本人の引き揚げ物語 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

昭和20年8月15日終戦を迎える前から、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州や蒙古、北朝鮮、樺太、千島を侵略してきました。

 

そのような時期に、北朝鮮に住んでいた日本人居留民はどのようにして、日本に引き上げてきたのでしょうか?

 

以下は、北朝鮮の羅南(ラナン)に住んでいた、ある母娘3人と長男の体験談です。

 

このまま朝鮮にいたら命が危ないという情報を聞きました。

 

軍事工場に働きに言っている長男がまだ家に戻っていませんので、約5日後に帰って来る長男を待ってから家を出ようと思いました。

 

しかし、その情報をくれた人からは、危険だから明日にでも家を出なさいと急かされ、母親と娘2人で大きな風呂敷とリュックに、飯盒と水筒、わずかな食料と着替えだけを持って、日本に向けて家を出ました。

 

最寄りの駅まで歩いて行くと、赤十字の貨物車が待機しており、病気や怪我をした人たちでごった返していました。

 

健康な日本女性3人は、必死に列車に乗せてもらうように駅長に頼みます。

 

朝鮮人の駅長は、許可をしようとしませんでしたが、たまたまその3人と知り合いだった日本人軍医が許可するように指示。

 

運よく、赤十字の貨車に乗ることができました。目的地は京城(ソウル)です。

 

途中、北朝鮮の共産党兵により、3人の健康な日本人を探していると言って検問を受けましたが、同乗していた衛生兵が嘘を言って庇ってくれたおかげで、捕まらずにすみます。

 

しかし、航空機からの爆撃で、先頭車両の汽車が破壊されてしまい、列車が動かなくなってしまいました。

 

仕方なく、自力で歩ける母子3人は、線路伝いに京城(ソウル)に向けて歩くことにしました。

 

日中は、北朝鮮の共産党兵に捕まる可能性があったので、藪の中で隠れて昼寝をして、夜になってから線路伝いに歩くことにしました。

 

ほとんど飲まず食わずであるき続けます。そのような日々を何日も続けてひたすら京城(ソウル)に向けてあるき続けました。

 

ある日、朝鮮の共産党兵に見つかってしまいました。

長女は年齢16歳。その朝鮮兵は今日の楽しみに丁度いいと朝鮮語で話し、彼女を連れて行こうとしました。

 

丁度その時、航空機が低空飛行ですぐ近くに爆弾を投下。とっさに地面に伏せた母子3人は、怪我を負いましたが、命にべつじょうはありませんでした。

 

しかし、先ほどの朝鮮兵は死んでいました。母親はその朝鮮兵の死体から軍服を脱がして、娘たちに着るように言います。

 

そして母親は、娘たちの髪の毛を丸坊主に切りました。

 

なぜ、そのようなことをしたかというと、兵隊に見つかると、12歳から70歳位までの老婆まで、見境なく婦女暴行(レイプ)をされたからです。

 

男性の格好をしていないと、いつ強制的に連行されて、レイプされるかわからなかったのです。

 

これは、満州でも樺太でも同じでした。ソ連兵と朝鮮の共産党兵は軍規というものがなかったのです。

 

しばらく歩くと貨物列車に乗ることができ、なんとか京城(ソウル)駅に到着しました。

 

そこで怪我をした、次女の治療を赤十字の人たちから受け、しばらく滞在していました。

 

赤十字の人たちが人先早く釜山に向け出発しましたが、母子3人は京城(ソウル)に残ることにしました。

 

なぜなら、長男がまだ、北朝鮮に残っていたからです。

その長男が京城(ソウル)に来るのを待つことにしました。

 

その京城(ソウル)駅での生活というと、食べ物はないので、ゴミを漁り、残飯をリュックに詰めて、それを少しずつ食べて繋いでいました。

 

宿泊施設はないので、駅のベンチやコンクリートの地面の上で寝ていました。

 

今のホームレスの方と同じような生活です。

 

しかし、ホームレスと違うのは、いつ命が奪われるかわからないというのと、いつ婦女暴行(レイプ)されるかわからないという危険と隣り合わせでした。

 

あちこちで強姦(レイプ)されて「助けて!」と金切り声をあげている日本人女性が、目につくようになったので、釜山行きの貨物列車に乗ることにしました。

 

貨物列車の中での食料は、駅のゴミ箱から漁ってきた、カビの生えたパン、みかんの皮、腐りかけたりんごなどでした。

 

釜山につくと、釜山港は日本へ引き上げる人たちでごった返していました。

 

ある日、駅の近くの倉庫で、独立祝賀会が開かれました。独立祝賀会というのは、日本が降伏したことにより36年間の日帝支配から解放されたということを祝う会です。

 

その場で、長女は、酔った朝鮮人から、「お前は男か、女か」と聞かれました。「男だ」と答えると、「女のような声だ、胸を触らせろ」と言われました。

 

これは女性の胸を触って満足するということではなく、男装した女性を女かどうか確かめるために、胸を触って確かめていたのです。

 

そして、胸が大きいとその場で連行され、婦女暴行(レイプ)が行われました。

 

長女は、京城(ソウル)駅に着いた時、赤十字の衛生兵から包帯をもらい、きつく胸を縛っていましたので、先ほどの朝鮮人から胸の検査を受けた時、「平らだ。男には興味ない」と言って立ち去って行きました。

 

次女が、川に水を汲みに行くとその河原のところで、日本人女性の上に乗って強姦(レイプ)している朝鮮人がいました。

 

「助けて!」と金切り声をあげて必死に抵抗しているのを目撃しました。

 

それを母親に告げると、もうここにいるのは危険と感じて、日本行きを決意。引き揚げ船に乗船する列に並び、数日待って、船に乗ることができました。

 

3日間かけて 日本の博多港に到着。ふるさとの土を踏むことができました。

 

しばらく博多港に長男の帰りを待って滞在していましたが、次から次へと引揚者がくるので、あまり長期間滞在することができずに、青森の実家に向かうことにしました。

 

青森の電報を送ると戻ってきてしまいました。

 

親子3人で電車に乗り東北に向けて満員電車を揺られていましたが、母親が何を思ったか、京都で降りて学校に通おうと言い出しました。

 

京都は大都市で唯一、空襲にあっていなかったので、そこで娘たちに教育を受けさせようと考えたのです。

 

学校の入学の手配を済ませると、母親一人で青森の実家に向かうことにしました。その間5日間、娘たちだけで過ごすことになりました。

 

今まで、生きるか死ぬかの瀬戸際の中、母親と家族3人で過ごしてきたので、たとえ数日でも、母親がいなくなるということは、とても心細いことでした。

 

京都の学校なんか行きたくないと次女は駄々をいいますが、きっと学校が気にいるようになるよ、と母親に言われて、仕方なく京都の女学校に通うようになりました。

 

住まいは、京都駅のベンチです。食料はゴミ箱の残飯でした。

 

数日後、母親が青森から戻ってきました。実家の両親は空襲に遭い、みんな死亡していました。

 

電報が戻ってきた時点で、母親は薄々感づいていたのでしょう。

娘たちにもその現場を見せたくなかったのでしょう。

 

娘たちの将来を思って、空襲の受けていない街、京都で教育を受けさせようと考えたのでしょう。

 

京都駅のベンチで娘に会うとしばらくして、母親は、息を引き取りました。

 

警察が来て事情を調べ、次に葬儀屋が来て火葬しました。そして、そのお骨を入れる骨壺は、今まで朝鮮から大切に持って来た飯盒にすることにしました。

 

次女が、それまでの道中、お母さんがいつも大きな風呂敷を、盗まれないように大切にしていたことを思い出します。

 

気になって、風呂敷を調べてみると布と布の間にポケットが付いていて、その中身を開けると現金と通帳が入っていました。

 

一方、長男はどのようにして日本に渡ったのでしょうか?

 

羅南の自宅に戻ると誰もいませんでした。そして、玄関の扉は開け離れていて、家の中に入るとほとんど全ての家財道具がなくなっていました。

 

当時の満州や北朝鮮などに住んでいた日本人の家には、ソ連兵や朝鮮共産党兵たちがいきなり乱入してきて、容赦無く金になるような家財道具を全て持ち去って行きました。

 

まるで追い剥ぎのように。

 

長男は母親が筆記体で書いた伝言を見つけました。

そこには「京城(ソウル)にて待つ」と書かれていました。

 

なぜ、筆記体だったかというと、漢字がわかる朝鮮兵に見つかってしまうと大変なので、わからないように筆記体で書いたと思われます。

 

そして、長男も京城(ソウル)目指して、家を出ることにしました。

 

その前に、仲良くしていた朝鮮人の李さんの自宅に相談に行きましたが、その荒らされた家の中で、李さん一家は殺害されていました。

 

朝鮮共産党兵は同じ朝鮮人でも、日本人と仲が良かった人たちを容赦なく殺害して言ったのです。

 

長男は線路沿いを徒歩で京城(ソウル)に向け出発しました。

 

途中、朝鮮共産党兵を見かけると、茂みや木の上に隠れていました。

 

ある時、森の中に隠れていたら、日本人たちが北朝鮮から南に向けて歩いてる集団に向けて、朝鮮共産党兵が銃を乱射。

 

多くの日本人が虐殺されて、その身につけていた衣類や靴、荷物、そして口の中の金歯まで、全て奪い取って行きました。

 

まさしく、追い剥ぎ(盗賊)です。

 

このような日々を数週間続けて、ひたすら京城(ソウル)に向けてほとんどまともに飲まず食わずで歩いていました。

 

ある雪が降る寒い夜、光が灯る家を見つけたので、意識が朦朧とする中をその光に向かって歩いていましたが、その家の前で倒れてしまいました。

 

その家の人が何か物音に気づき、外に出て見ると男の子が倒れているのに気づきます。

 

その家は朝鮮人家族の家でした。意識を失っている男の子を、家の中に入れて体を温めて、唐辛子を体にさすりながらマッサージをしてあげました。

 

身につけているものから、その男の子が日本人であるとわかると、朝鮮人家族は考えます。

 

なぜなら、日本人をかくまっているとわかると、朝鮮兵によって、一族皆殺しにされてしまうからです。

 

そこでこの男の子は、朝鮮人の孤児であり、縁あって一緒に住んでいるということにしようとなりました。

 

同じ朝鮮人でも、日本人に対して好意的な人もいたのです。

 

やがて、男の子は意識が戻り、朝鮮人家族の看病のおかげで、体調も良くなってきました。

 

しばらくその家でお手伝いをして過ごしていましたが、家を出ることにしました。

 

その朝鮮人家族は、一緒の暮らして行こう、お前は家族だ、と必死に引き止めます。

 

南に逃げようと、北から渡ってきた日本人引揚者たちはみんな、共産軍によって虐殺されていると話しました。

 

しかし、京城(ソウル)で待っている母と妹たちのところに向かうと言って、その家族と涙の別れをしました。

 

その家は、38度線を横切っているイムジン川まで6キロのところにありました。

 

38度線以南は米軍が統治しており、その川を越えて南に渡る人たちが多くいました。

 

しかし、夜間でも探照灯を水面に照らしており、人影が見えると機関銃で掃射していました。

 

長男はそのイムジン川を決死の覚悟で泳ぎ渡りました。

 

途中、機関銃で掃射されましたが、荷物を頭の上につけていたので、その荷物が守ってくれました。

 

そこから60キロ先の京城(ソウル)まで歩いて行き、やっとのことで駅に到着しますが、家族は見つかりません。

 

仕方なく、釜山行きの貨物列車に乗り込み、釜山へ。

 

そこから、定期的に出航している引き揚げ船に乗り込みました。

 

以前は引き揚げ船の到着地は博多でしたが、舞鶴に変更になっており、長男は日本の舞鶴に到着することができました。

 

長男は、舞鶴港で、兄の帰りを待っていた妹たちが新聞紙に書いて貼り付けていた伝言を見つけて、京都で再会を果たしました。

 

(参考図書:「竹林はるか遠く」ヨーコ・川島著 ハート出版)