人の面倒を見ていると、いつか自分の身を助けてくれることがあります。人の縁は大切に | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

ある満州国からの引き揚げ者の体験談です。

 

ご主人は、内務省官僚で土木建設技師として働いており、昭和13年から満州国に赴任していました。

 

そして昭和20年8月の終戦時、満州の営口というところに家族5人で住んでいました。その町は北京と同じ緯度の位置にあり、大連に比較的近い町でした。

 

生まれたばかりの赤ん坊をおんぶして、子供2人を連れて家族5人で、営口から大石橋という町まで48キロ以上を歩くことになりました。

 

その大石橋の駅に着くと、無蓋列車(屋根のない貨物列車)に乗り朝鮮半島から日本へ引き揚げようとしたところ、その無蓋列車は北上して走って行きました。

 

新京まで行ったら危険だというので、途中の奉天駅にて下車しました。

 

そこでソ連兵によって、貴金属から何から何まで、身につけているものすべて略奪されてしまいました。

 

何もかもなくなってしまった家族に、追い打ちをかけるように、ご主人はソ連に強制連行されそうになりました。

 

ご主人は、満州において国立建国大学というところで2年間教師をしていたことがありました。

 

建国大学は新京(現在の長春)にあり、1938年に開校した国立大学でして、森信三氏もいたことがある大学でした。

 

その大学の教え子であった満州人の董明沢という人が現れて、ソ連兵に説得してくれました。

 

その満州人のおかげで、ご主人は強制連行されずに、日本に家族とともに引き上げることができました。

 

常日頃、人のために面倒を見ていると、いつどこで助けてもらえるかわかりません。

人の縁というものは、大切にしていきたいものです。

 

それから約10ヶ月の間、奉天の町をあちこち逃げ回り、昭和21年6月、引揚船に乗り込むことができ、京都の舞鶴港に到着。

 

日本の大地に再び、家族と一緒に帰ることができました。

 

一人1000円の現金支給を許可されていましたので、5人家族で5000円の現金と、しらみだらけの服装で、ご主人の実家である茨城県水戸市に帰郷しました。

 

しかし、そこは空襲のために一面焼け野原でした。

 

(参考図書:「気と骨」平成27年1月号 大久保あい子さん 倫理研究所)