映像・音源で振り返る グループサウンズ フォ-クソング

映像・音源で振り返る グループサウンズ フォ-クソング

GS(グループサウンズ)やフォ-ク。映像や音楽を紹介します。

Amebaでブログを始めよう!

 

今年も終わりが近づいてきました。

毎年恒例の紅白歌挑戦。

取りあえず毎年録画はしているが、ここ数年観ていない。

知らない曲が増えてしまったのが要因か。

NHKが、「若者をタ-ゲットにしている」との方針だから仕方ないかな。

 

そんなわけで、ユ-チュ-ブに昔の「紅白歌合戦」を編集してアップしいています。

2023年は、もう少し動画アップを増やそうと思っています。

 

今回紹介するのは、1974年(昭和49年12月31日放送)の紅白歌合戦。

第25回NHK紅白歌合戦 - Wikipedia

 

 

 

1986年~2003年の17年間、年末に「思い出の紅白歌合戦」と言う番組がありました。

過去の紅白歌合戦を、オ-プニングからエンディングまで完全放送。

 

自分は、年末近くになると

 

>今年は何年度の紅白が放送されるんだろう?

 

と、新聞の番組表を楽しみにしていました。

 

参考までに各年度の放送内容は

 

昭和61年放送・・・・昭和50年  51年  54年

昭和62年放送・・・・昭和48年  51年  52年   

昭和63年放送・・・・昭和48年  54年

 

平成元年放送・・・・昭和38年   41年   50年   40年(白黒)

平成2年放送・・・・昭和48年   54年   60年

平成3年放送・・・・昭和49年   51年     55年     59年

平成4年放送・・・・昭和49年     63年

平成5年放送・・・・昭和38年   48年   53年     57年  

平成6年放送・・・・昭和49年   51年     55年     59年

平成7年放送・・・・昭和54年   56年     58年     60年

平成8年放送・・・・昭和47年   52年   57年   40年(カラー)

平成9年放送・・・・昭和48年   61年

平成10年放送・・・  昭和49年     63年

平成11年放送・・・  昭和53年     58年

平成12年放送・・・  昭和44年     54年

平成13年放送・・・  昭和38年     52年

平成14年放送・・・  昭和41年     61年     平成元年    平成10年

平成15年放送・・・  昭和43年     60年

 

平成15年以降は放送が終了。

放送されなかった、下記年度の放送をNHKに御願いしたいものです。

しかし、保存状態的に無理かも知れません。

 

・昭和42年 昭和45年 昭和46年 

 

昭和39年・・・・カラー・モノクロとも現存していない(ラジオ音声は現存)

昭和42年・・・・白黒VTRが現存するが、映像が全体的にぶれて大変見にくい

昭和45年・・・・現存しているフィルムは165分中の137分間で画像劣化

昭和46年・・・・カラーが現存しているが、大半が画像劣化で大変見にくい

 

 

 

 

 

最近、電車に揺れながらオックスを聴いています。

 

自分の中での「ベスト5」は

 

・僕は燃えてる

・オ-ビ-バ-

・ガ-ルフレンド

・僕のハ-トをどうぞ

・テル・ミ-(ライブ・LPレコードより)

 

たった3年の活動にも関わらず、インパクトが強いバンドでした。

オックスと言えば、やはり「失神」。

GSブ-ムに拍車をかけ「失神」が社会現象になりました。

 

 

 

3年間の活動で、シングル9枚とLPレコード2枚発売。

また、非売品レコードや企画物LPのオムニバスにも参加しました。

 

 

 

また、田浦幸(キ-ボ-ド)は、オックス在籍時に「涙が燃えて」でソロデビュー。

この曲は、オックスの演奏でライブでも歌われました。

 

 

 

 

 

 

1969年に発売されたLP「オン・ステ-ジ」で魅了された後追いファンも多いだろう。

特に「わらべ歌メドレー」は当時のGSを取り巻く背景を象徴している気がします。

 

オックスと言えば「失神」

ただ「失神」だけではなく、音楽性でも魅力あるバンドでした。

しかし、やはり「失神バンド」のイメージが強いのも事実です。

 

 

そんなオックスも、1980年代に再結成しイベントに出演したりしました。

 

 

テレビ放送「BS永遠のグループサウンズ」は、多くのバンドが出演し楽しみでした。

自分は「真木ひでと」の当時と変わらぬ熱唱が好きです。

 

昔の音楽を古くさく感じさせない迫力、まさに永遠のグループサウンズそのものです。

 

1990年頃までは、オックスは何度も再結成してテレビやライブで活躍していました。

今は「真木ひでと」がオックスの名曲を歌い続けていますが、出来れば再結成して欲しいGSでした。

 

2010年にオルガン担当の「夏夕介」が59歳で亡くなりました。

後期のオックス人気を支えた「田浦幸」で、俳優転向後に改名。

「特捜最前線」の叶刑事役は印象深い。

 

 

「夏夕介」は、和田アキ子のバックバンド「グランプリ-ズ」でプロデビュー。

オルガンが弾けないのに、いきなりステ-ジに立たされたようです。

また、GS「オリ-ブ」に加入するため、東京へ行く事が決まっていました。

しかし直前に、和田アキ子の推薦でオックスに参加したそうです。

その頃の話をト-ク番組で語っていました。

 

 

 

そして2022年、オックスのベ-ス担当「福井利男」が5月に亡くなった。

あの独得のベ-スを弾く姿と歌声が好きでした。

 

 

 

福井さんが亡くなった2ヶ月後、7月にオルガン担当の「赤松愛」が亡くなった。

芸能界を引退して一般人になったとは言え、日本の音楽を作り上げた功績は凄いことです。

独得のキャラクターで、音楽センスは抜群でした。

芸能界引退後も、テレビ出演や雑誌のインタビューに登場しました。

 

 

 

 

 

いつかオックスが揃ったステ-ジを見たいと言う夢が終わり残念です。

 

 

久しぶりに行った古本屋に「沢田研二・コ-ナ-」が出来ていた。

ザ・タイガ-ス時代から現在までのパンフや写真集、さらには雑誌も山ほど並んでいた。

月刊誌、週刊誌・・・

さらには、ザ・タイガ-スの映画3作の非売品写真集や生写真など。

気になったのが「沢田研二新聞」。

何だこれ?・・・・・・

 

と言うわけで、人気が今も根強くコンサート・チケットが手に入らないとか。

永遠のアイドルを通り越した存在だ。

 

そんな沢田研二だが、本人が司会を担当したテレビ番組は少ない。

自分が知ってるのは

 

・「虹のお祭り広場」

・「あなたとジュリ-」

・「沢田研二ショ-」

 

 

<虹のお祭り広場>

最終回は、ザ・タイガースのメンバ-も出演。

また萩原健一がゲストで、沢田研二と共演したりもしました。

 

 

 

<あなたとジュリ->

全13回の放送のうち8回タイガ-スが出演。

また、テンプターズやワイルドワンズ、トワエモアなどがゲストでした。

 

「沢田研二ショ-」は、ソロになって初めての司会番組。

日曜・夜23:00 - 23:30放送でしたので、必死に眠い目をこすりながら見ていました。

またビデオにも録画し、いつかタイガ-ス特集やってくれないかなぁと願っていました。

そして、その「いつか」が遂にやってきました。

1984年9月4日。

当時は今のようにビデオも発売しておらず、「写真以外の動くタイガ-ス」が見られる機会は、懐かしい映像を流す特番の中のGS特集で、10秒ほど映像が流れる程度でした。

そんな中での「沢田研二ショ-」は衝撃でした。

 

「虹のお祭り広場」や「あなたとジュリ-」が放送された1970年は、GSブ-ムは完全に衰退し、フォ-クソングや歌謡曲などが主流でした。

芸能雑誌を見ても、「にしきのあきら」や「野村将希」がグラビアを飾っていました。

 


 

「沖 雅也」「仲 雅美」の区別が難しかった時代でもあった。

 

次回は「沢田研二ショ-」の記事を書きますので、宜しく御願いします。

 

「沢田研二ショ-」はユ-チュ-ブでも普通に観れるので、特に珍しい映像はないです。

 

 

 

 

アダムとイブ/これが真実

つまんない/ロック 

 

(自主制作レコード)

 

 

昨年、アダムスの記事を2回に分けて書きました。

 

1年半の活動にも関わらず、GSファンへ強烈なインパクトを残したGS・アダムス

 

まさに「旧約聖書」はカルトGSファンのバイブル曲かも知れない。

 

80年代~グループサウンズの再結成が相次ぎました。

 

しかし、アダムスは残念ながら再結成はされませんでした。

多くのGSがメンバーの死去や行方不明で、再結成が年々困難になってきています。

 

アダムスもドラムス担当川上幸夫さん」が解散後に一般人になり、今ではアダムスのメンバーも連絡がつかないようです。

 

千原さんは亡くなりましたが、アダムスとして1度でいいから演奏して欲しい。

 

一般人になった「川上幸夫さん」今はどうしているのでしょう。

引退後の仕事はわかっていますが、ノンビリ過ごしているのでしょうか。

当時、家族で住んでた家も今は違う人が住んでいます。

何か手がかりがあればいいのですが・・・・

 

身内や知人が偶然ブログを見てくれればと言う【奇跡】を願う日々です。

 

 

1969年1月5日(日)「キャンペーン」 を富士スバルランドで開催。

十数人のファンが、富士スバルランドまで同行しました。

 

下の写真左は、ゴ-カ-トを楽しむドラム担当の川上幸夫氏。

右は、ファンと一緒にスケ-トを楽しむ、オルガン担当の土屋守氏。

 

その後、スケ-ト場の横にあるステ-ジで演奏。

 

偶然居合わせた観客や、地元の人などで盛り上がったようです。

一般の入場者も驚いたでしょうね。

いきなり 「旧約聖書」 が大音量で流れてきたわけですから。

 

それにしても、年が明けたばかりの1月5日。

メンバーもファンも寒かったでしょう。

 

  

 

 

  

 

   

 

 

ワイルドワンズも、富士スバルランドで1月3日~6日まで 「キャンペーン」を行いました。

当時の雑誌で、その時の様子が紹介されていました。

 

 

 

 

 

 

<1969年1月・アダムス>

・2日   池袋ドラム

・5日  富士スバルランド

・6日  池袋ドラム

・7日    新年会・新宿ACB

・8日    新宿ニューACB

・9日    池袋ドラム

・10日   新宿ニューACB

・11日   新宿ACB

・12日   池袋ドラム

・13日   練習

・14日   ウエスタン・カ-二バル

 

 

1969年1月 ウエスタンカ-二バル・オ-プ二ング

(アダムス/轟健二)

 

 

 

1969年1月には、すでのGSブ-ム下降ぎみでした。

 

 

GSブ-ムが下火になりつつも、アダムスは仕事が埋まっていました。

2月以降も、テレビ出演やジャズ喫茶を中心に活動。

 

2月6日にシングル第3弾 「地球はせますぎる」を レコ-ディング。

 

B面 「にくい時計」 は川上幸夫氏が泣きながら歌ったとか。

ジャズ喫茶でも、感情が入り過ぎて泣いた事もあったようです。

 

 

 

それ以外の活動として主だったものとして

 

・3月21日 ファンの集い

・3月30日 富士急ランド

 

この頃、こんな投稿がありました。

 

 

4月は、静岡~名古屋~岡山~仙台~大阪~新潟などで公演。

 

またジャズ喫茶でも活動。

 

 

それにしても、対バンが【ジュニア・ボ-イズ】とは面白い。

 

ジュニア・ボ-イズについて説明します。

1968年11月、東芝レコードから 「謎の瞳」 でレコードデビュー予定。

しかし、発売中止。平尾昌章作詩:作曲であった。

 

1969年2月 「明星」 で新しいバンド名を募集。

 

 

1万通の応募の中から 「ジ・アルファ」 に決定。

秋田県の男性が考えたバンド名です。

さらに、キャピタルレコードから3月にレコードデビュー予定!

 

 

しかし、発売中止に。

 

残念なのは、「残念賞」 に選ばれた100名の方達。

レコード・プレゼントは、どうなったのでしょうか。

「3月下旬発送」 と書いてあるが・・・・

 

その後、 「グリーングラス」 と名前を変えて、やっとレコードデビュー。

GSでもなく、ロックでもない歌謡曲。

 

 

 

ボ-カルの青山一也は、解散後ソロ歌手として活躍。

 

 

 

 

 

メンバーの松木恒秀と田中清司は、ステ-ジ101の専属バンド 「リズム101」 に参加。

「リズム101」は、アダムスの武部秀明(千原秀明)もメンバーでした。

 

 

話をアダムスに戻します。

 

2月6日の録音から3ヶ月。

ついに新曲を発売。

 

地球はせますぎる / にくい時計(1969年5月1日発売)

 

 

  

 

 

謎の円盤UFOをイメージさせるイントロから始まる。

いつまでも耳に残るイントロです。

このジャケットは、少しアイドルGSを彷彿させる。

 

B面 「にくい時計」 は、川上幸夫氏が見事に歌い上げるバラード。

 

下記のキャンペーン写真、微妙に違います。

右は、楽しそうですね。

 

  

 

キャンペーンで、名古屋や静岡、福岡や広島へ。

 

東京駅では、多くのファンが見送りました。

 

 

 

 

 

5月20日には、初めてのアダムス・ショ-を開催。

 

GSブ-ムは下降気味だが、根強いファンに支えられていました。

 

 

 

 

 

 

7月5日(土)、ファンの集い「アダムとイブ」を開催(東条ホ-ル)

 

 

同じ頃、ザ・タイガ-ス(7月公開映画) 「ハ-イ・ロンドン」に出演。

ジャズ喫茶シ-ンで 「にくい時計」 を熱唱。

 

せっかくのライブ映像なのに、音はレコード音源を使用。

 

さらに、映画パンフレットでは、「PSビ-ナス」 と名前を間違えてアダムスは紹介されています。

 

その後も連日、ジャズ喫茶やテレビ出演など中心に活動。

 

 

1969年8月の明け明けのスケジュールを見ると

 

・8月16日    ヤングメイツ

・8月17日    名古屋グランドキャニオン

・8月18日   新宿ニュ-ACB

 

東京から名古屋、そして東京と忙しい。

1日だけの為に、名古屋移動も大変だと思う。

 

ちなみに、名古屋グランドキャニオンのビルは、昨年取り壊されました。

 

 

そして9月に入り、4枚目のシングル 「明日なき世界」 を発売。

(ボ-カル・川上幸夫)

なぜか突然、夜中に頭の中を駆けめぐり眠れなくなるポップス調の曲。

 

B面 「影」 は悲しくなるバラ-ド。

(ボ-カル・川上・轟)

 

意外と 「影」 が好きだ!と言うファンも多い。

 


GS衰退期であったが、ジャズ喫茶を中心に活動していたアダムス。

 

各自の演奏技術が高かった為、ステ-ジではロック中心に演奏。

特に水谷公夫氏は、ロック志向が強かった。

 

この頃のライブ音源を聞くと、時代を突っ走っている感じです。

 

 

 

 

4枚のシングル以外に、自主制作レコード(日本CAC)が2枚残されています。

 

ファンが作成したと言うのは凄い。

殆ど出回っておらず、高値で取引されているのが残念。

 

・アダムとイブ/つまんない

・これが真実/アダムとイブ~ロングバ-ジョン

 

「アダムとイブ」 は、ウエスタン・カ-二バルでも歌われました。

「アダムとイブ」 は、ウエスタンカ-二バル音源ではないだろうか。

あくまでも、個人の意見です。

 

「これが真実」 はロック志向のアダムスらしい楽曲。

「アダムとイブ~ロングバ-ジョン」 は、突然にハ-ドな曲調に変わる不思議な曲。

 

 

大手プロダクションに所属していたためか、1969年9月に入っても仕事は順調でした。

 

9月初旬は、福岡県で新曲キャンペーン、ラジオ出演やジャズ喫茶で忙しい日々。

 

おそらく、裏では解散について話合いをしていたのではないか。

 

「アダムスシャツの女の子」のブログ記事に少し書かれています。

この時期、メンバーの心境に変化が見られるようになってきています。

ADAMS・クーキーさようなら、それは突然だった。 | GSアダムスのクーキーファン・アダムスシャツの女の子 (ameblo.jp)

 

そして、突然の解散発表。

 

確かにGSブ-ムは下火だが、まだ完全に灯が消えていたわけでもなかった。

ただ、仕事としていくには不安もあったでしょうね。

 

11月2日(土)に、目黒パ-クにて 「お別れ会」 を開催。

 

  

 

「お別れ会」の写真を見ると、メンバーが大人っぽくなっている気がします。

この 「お別れ会」 を最後に「アダムス」は解散。

 

2002年、残念ながらべ-スの千原秀明氏が死去。

再結成の夢が消えてしまいました。

 

解散後、水谷公夫氏は、ソロでLPなどを発売。

 

また、話題のミュージカル 「ヘヤ-」 にも、ギタ-で参加しました。

映像も残されています。

 

     

 

 

土屋守氏は、「里見洋と一番星」に参加。

このバンド、ヤンガ-スとレオ・ビ-ツのメンバーが中心。

 

  

 

  

 

 

 

轟健二氏は、解散後は音楽プロデューサー。

 

川上幸夫氏は、芸能界を引退。

 

当時のライブを聞いてみて思ったのが、川上さんはMCで客席を笑いに巻き込んでいました。

また、アダムスのレコードで8曲中、4曲のボ-カルを担当。

堺正章のような、「司会、歌に役者」 と、幅広い活躍が期待出来た気もするので残念であります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2年前に定年退職した方で、とてもお世話になった人がいます。

古い音楽が好きで、よく飲みに行きました。

スナックへ行くと、必ず最初に「岬めぐり」を歌いました。

 

少し酔いはじめると「白いブランコ」。

 

疲れてきて、もう帰るぞぉ~~の合図は・・・・

 

「あの素晴らしい愛をもう一度」を周囲を巻き込んで大合唱。

 

毎回パターンが同じだが、いつも楽しい時間を作ってくれました。

そんな先輩が、7月1日に天国へ行きました。

 

訃報を聞いてから「岬めぐり」が毎日のように自分の頭の中を駆けめぐっていました。

 

歌ったあとにいつも

 

>この歌はなぁ~恋人だった彼女が亡くなってしまい、ひとり残された彼氏の歌なんだぞ。

>だから心に染みる歌詞なんじゃ、わかるか~

 

毎回、この話を聞かされました。

あまり気にもしなかったけど、ここ数週間は歌詞を意識して聞いてみました。

 

あなたがいつか 話してくれた
岬を僕は たずねて来た
二人で行くと 約束したが
今ではそれも かなわないこと

 

そんな中、山本コ-タロ-の訃報。

「岬めぐり」がますます頭から離れなくなりました。

 

明るいメロディなのに、とても悲しい歌詞。

改めて聴くと、いい歌だなぁと思います。

 

目を閉じると「あの素晴らしい愛をもう一度」をみんなで歌った思い出が蘇ります。

本来は「恋人もいないのに」をヒットさせた2人組のシモンズの為に作られた歌。

結局、加藤和彦と北山修の二人で歌いました。

 

どうせなら「はしだのりひこ」も加えて、3人で歌ったら面白かったのにと考えてしまいます。

古い歌だけど「岬めぐり」も「あの素晴らしい愛をもう一度」も1970年代の名曲だと思います。

 

それにしても、人の死がだんだん身近に感じられる世代にいつの間にかなった気がします。

 

 

 

 

コロナを甘く見てはいけない。

前週より○人減少、ワクチンを打てば大丈夫・・・・

昨年と今年、知人が2人コロナで亡くなった。

40代と50代で持病らしい持病もなく元気だったのに。

感染者もそうだけど死者は相変わらず多い。

コロナを甘く見て欲しくないです。

 

 

 

 

遠い過去ですが、今から55年前の1967年11月5日に事故は起こりました。

 

1967年11月5日と言えば、LPレコード「ザ・タイガ-ス・オン・ステ-ジ」が発売された日でした。

 

 

また、その1週間前には初出演映画「ドリフターズですよ!前進前進また前進」が公開。

 

 

映画と言えば、ザ・タイガ-スは5本の映画に出演しています。

 

・前進前進また前進

・世界は僕らを待っている

・華やかなる招待

・ハ-イ!ロンドン

・喜劇!右むけ左!

 

 

また沢田研二・単独で下記に出演

 

・日本一のヤクザ男

・クレイジー・メキシコ大作戦

 

 

話が映画の方へ行ってしまいました。

事故が起きた11月5日に発売されたLP「オン・ステ-ジ」

 

ザ・タイガ-スにとっては「ファ-ストアルバム」ですが、未発売になった「ファ-ストアルバム」があります。

洋楽カバァ-曲やオリジナルです。

運良く、幻の曲を知人から聴かせてもらいましが、今からでも全曲CD化してもらいたい。

 

また、ザ・タイガ-スは、意外に未発表曲が多い。

下記などは未だにCD化されていない。

 

・悪魔の子供

・さざ波

・泣かないで

・ノ-モア・ラブ

・夕陽を探して

・私のエンジェル などなど。

 

その中で気になるのが、トッポが失踪した1969年3月5日録音の「さざ波」。

急にトッポがいなくなったが、ギターを森本太郎が完璧にこなしている。

録音を中止しなかったメンバーは凄いと思う。

 

1967年11月5日に事故は「奈良あやめ池屋外ステ-ジ」で起こりました。

 

1回目のステ-ジでは「モナリザの微笑」などのオリジナルに加え、Rストーンズやビートルズの曲を中心に演奏されました。

しかし、2回目のステ-ジへの観客入れ替えが行われた時に観客が殺到。

今と違い、自由席だったために「良い席を確保」したい観客が押し合いとなり将棋倒しとなった。

30人近い怪我人が出てしまいました。

 

その日の夕刊で事故は報じられ、GSバッシングが始まりました。

特に世論に敏感なNHKは、収録済みだった「歌のグランドショー/11月12日放送」のタイガースの出演部分をカット。
以後、長髪のGSはNHKに締め出され、一部の学校ではGSのライブへ行くのが禁止となった。

行くな!見るな!聞くな!と言われたら、反発したくなるのが若者たち。

逆にGSブ-ムに拍車をかけてしまいました。

 

 

GS大好きだった親戚に、「奈良あやめ池屋外ステ-ジ」の話を聞いた事があります。

自分は行かなかったけど、友人が会場に行って大変だったと。

その程度の話しか聞いた事がありませんでした。

 

先日、GS好きの友人の中に「奈良あやめ池屋外ステ-ジ」に行った人がいて、当時の話を聞かせてもらいました。

また、当日撮影したステ-ジ写真も頂きました。

 

1967年11月5日 日曜日
あやめ池遊園地野外ステージ
ザ・タイガースショー 午後13時 15時 2回公演

 

 

その日のタイガ-スの予定

昼「奈良あやめ池屋外ステ-ジ」 夜「アベック歌合戦」の公開番組の収録

 

どちらへ行くか迷いました。

やっぱり歌が聴きたいので親には

 

>友達と遊園地に行ってくる

 

そう告げて、早朝に出発し三人であやめ池に向かいました。

GSのコンサートへ行くとは言えない雰囲気でした。

 

朝早い時間に会場に到着したので、1回目のステージは混雑もなくスムーズに入れました。

後日、「アベック歌合戦」をテレビで見ましたが、「あやめ池公園」の時と同じ衣装だったのを覚えています。

その時に何枚か写真を写しました。

1回目のステ-ジ写真です。

 

事故が起こったのは2回目のステージの入れ替えの時でした。

入口に6000人近い女の子達が殺到して、絶叫悲鳴の渦の中で靴やバックが飛び交い、まるで地獄絵図のようでした。

あちこちで泣き叫ぶ声が響きわたっていました。

私も、その渦に巻き込まれ柱と群衆の板挟みとなりギューギュー押され続けて身動きすら出来なくて


息が出来ないー!苦しくて死ぬと思いました。


どうやって抜け出したのか記憶にないけど、友達は柵によじ登り、群衆に罵声を浴びせてました。
本当に怖かったです。

目の前には将棋倒しになって救急車で運ばれた女の子達もたくさんいました。

 

当然、この事は夕刊やニュースで報道され親に知れる事となりました。
何食わぬ顔で帰宅したら母が玄関先で鬼のような形相で待ち構えていて、顔を見るなり叱咤されました

 

最初は、コンサートは見ていないとしらを切り続けました
でも全身の青あざで、すぐにばれました。

あざだけで済んだのが奇跡です。

今まで生きて来て一番命の危険を感じた出来事でした
 

この時、タイガースのメンバーはステージの裏の控え室にいたようです。
悲鳴やら靴やバックが飛んでくるのが見えてとても怖かったと、森本タローさんが話していました。
ちなみにこのイベントに、小学生だっ明石家さんまさんが家が近くだったので行ったようで

 

>群衆に揉まれ、偉いめにあった


ジュリーが「さんまのまんま」に出演した時話してました。

 

この事故をきっかけに理解ない大人たちのGSバッシングが始まりました。

GSのファンは不良だ!

また、GSコンサート出入り禁止令が出てコンサート会場まで先生が見回りに来たりもしました。
NHKの出演もお流れになったりしましたが、裏腹にタイガース人気は更に勢い止まらずでした。

この年のレコード大賞新人賞にタイガースもノミネートされてたはず…
ファンの中では当然新人賞はタイガースだと信じて疑わなかった…
なのに蓋を開ければ永井秀和さんでした。
ファンにとっては衝撃的でした。

 


こんな感じで、当時を振り返って頂きました。

この事故の時、タイガ-スのメンバーは楽屋で悲鳴を聞いたそうです。

メンバーはPM3時30分に奈良県警の車で大阪へ。

 

その日の夜、精神的にきつい中で「ト二-のアベック歌合戦」の収録へ。

その時の写真が残されています。

どんな気持ちで撮影に参加したのでしょうね。

 

 

 

 

ザ・タイガ-スは、殺人的スケジュールだったため、事故の翌日には静岡へ。

人気が爆発していたタイガ-ス。

どこへ行っても大変な騒ぎだったようです。

 

 

ちなみにテンプタ-ズも同様だったようです。

 

ザ・タイガ-ス   ザ・テンプタ-ズ

 

ジャズ喫茶も常に満員御礼!

 

プライベートで頂いた写真もありますので、写真は転載しないでください。

 

取りあえず次回へ続く。

 

 

 

 
 

尾崎紀世彦が亡くなられて、間もなく10年になります。

2012年5月30日没(69歳)

 

その尾崎紀世彦が在籍していたのが、ザ・ワンダース。
結成時は3人グループでしたので、GSと言うよりコーラスグループでした。

雑誌ではGSとして扱われていますが、楽曲がGSっぽいからでしょう。
後期は5人組バンドとなり、自分たちでの演奏スタイルになりました。

 

<初期メンバー>

・尾崎紀世彦・栗敏夫・朝紘一

 

尾崎紀世彦は、ソロ歌手転向後「また逢う日まで」でレコード大賞受賞。

また役者として、沢田研二主演ドラマ「悪魔のようなあいつ」に出演。

レイプ事件や暴力事件を起こし、視聴者から反感を買うが素晴らしい演技をでした。

特に「主役:沢田研二」への嫌がらせは、ドラマを盛り上げるには最高でした。

 

栗敏夫は1969年にバンド解散後、裏方として音楽業界を支えました。

 

朝紘一は解散後「ソウルフル・ブラッズ」に参加。

このバンドは、矢沢透(谷村新司・堀内孝雄とアリスを結成)もメンバーでした。

 

「ソウルフル・ブラッズ」は、1970年代前半にシングル・レコードを発売。

あまり知られていないが、ジャズ系のLPにも参加しています。

 

もっと知られていないのが、矢沢透はGS「レボリューション」のメンバーとして1968年に「ある女子高校医の記録 初体験」と言う映画にも出演。

若々しい顔立ちで、ドラムを叩く場面が見られる。

こう言う話をしだすと止まらないので、ここで終わります。

 

朝紘一は、「ソウルフル・ブラッズ」解散後も歌手活動。

『ヒデとコータロー』としてCMソング「日立の樹」を熱唱。

みなさん1度は耳にした事があるでしょう。

 

 

「ザ・ワンダース」に話を戻します。

 

 

下記のの映像は、3人時代のコ-ラス・グループとしての 「ザ・ワンダース」。

真ん中が尾崎紀世彦です。

ちなみに踊りは「由美かおる」

 

また、5人時代の「ザ・ワンダース」のテレビ出演時の映像も残されています。

白黒なのが残念ですが、ギターを弾く尾崎紀世彦の貴重な映像です。

演奏曲は「マサチューセッツ」

シングル「僕のマリア」のジャケットでは尾崎紀世彦がボ-カル。

しかし映像では、ボ-カルではなく尾崎紀世彦はギターを弾いています。

後期ワンダースについては、資料も乏しく謎が多い。

 

ちなみに「ザ・ワンダース」を知らない人でも、何となく聴いた事があるのが『ウルトラセブン』の歌。
 

>セブン~セブン~セブン~~

 

歌っているのは 『ジ・エコーズ』 と言う謎のグループです。
簡単に説明すると 

 

ジ・エコーズ = ザ・ワンダース 
 

ザ・ワンダースは、テイチクレコードに所属していました。

東芝レコードから 『ウルトラセブン』 をザ・ワンダースの名前で発売は出来ません。

それが理由で、ジ・エコーズと名前を変えただけなんです。

 

アニメ「巨人の星」でも、ジ・エコーズとしてレコードを発売。

「巨人の星」は、なぜか日本ビクターやテイチクレコードからも発売された。


ちなみに、テイチクレコードは「ザ・ワンダース」 が所属していたので、テイチクがジ・エコーズとして発売する理由が不明。

 

  『ウルトラセブン』第37話

(1968年6月放送)

 

「盗まれたウルトラアイ」では、”THE WHUNDER 5” がステ-ジで演奏。

スナック・ノアで踊る若者たちのバックで、華麗な演奏を披露していている。

「ザ・ワンダー・ファイブ」は情報はありませんが、映像ではギター栗敏夫 べ-ス朝紘一に似てる顔が確認出来ます。

しかし「ファーストマン/バロン」のギターを弾いているギターの顔が映らない為、尾崎紀世彦の顔は確認出来ません。

 

ワンダースなのか違うのか、真実は不明ですがTBS会館での撮影だったようです。

 

ザ・ワンダースの「栗 敏夫「朝 紘一」とドラマに登場するバンドメンバー。

似てると言う意見もあるが、似ていないと言う意見もある。

真相は・・・・・・・・・どう思いますか? 

写真を並べてみました。

 

左・ザ・ワンダースのレコード写真より~

右・ドラマの中の「ザ・ワンダー・ファイブ」メンバー

 

ザ・ワンダース

シングル7枚 LP1枚 コンパクトLP1枚を発売。
シングルレコードが、1年に7枚とは凄いと思う。

 

 

 

   

 

  

 

  

 

LPは1枚のみ発売。

1980年代の中古レコードブ-ムの頃は、数万の価値がありました。

しかし、CD化の影響からか今では5千円前後にってしまった。

 

三浦恭子と組んだ「恋の数え歌」

日産サニ-(CMソング)

 

 

さらに多くのドラマの主題歌やCMソングをレコード発売。

「孤独の夕陽」は、完全なGS楽曲。

ワンダースの中では、一番GSらしさが出ています。

 

  

 

「妖術武芸帳」 

何種類かのテイクがあり、レコードも種類が多い。

確認取れてるだけでも、東芝 ビクター 徳間 コロムビア キングから発売。

さらにソノシートとして「朝日ソノラマ」「武田製薬」からの非売品も確認されています。

すべて、録音テイクが違うのが素晴らしい。 

 

アニメ主題歌 このレコードも何種類か存在しています。

「ばくはつ五郎」「桜が光る時計台」「涙はともだち」「燃えろ青春」の4曲収録。

 

 

さらにカセットテープや8トラカセットなども発売。

「ロック天国」が当時の雑誌で頻繁に紹介されていました。
ユニークな物として『ザ・ワンダース・軍歌を歌う』もあります。

 
レコード大賞「また逢う日まで」を受賞後は、人気歌手として雑誌の表紙を飾ったり、特集が組まれたりと大忙しであった。
「明星」では、表紙の二人が読者の自宅訪問なんて企画もあったようです。

 

 

 

 

下記の漫画は、特に面白いわけではないが・・・・

生い立ちから細かく描かれていた(一部のみ掲載しました)

 

人気絶頂の頃に、PYGの沢田研二と雑誌で対談。

少しだけザ・ワンダース時代の話が出てきます。

 

 

 

 


 

沢田研二も何度か「また逢う日まで」をテレビで歌っていました。

尾崎紀世彦、沢田研二ともに歌が上手いので名曲が輝きます。

ジュリ-は、どんな歌でも自分のオリジナル曲に感じさせてくれる。

 

あまり知られていませんが、ザ・ワンダースは解散後に再結成しレコーディングしています。
1度目は解散して間もなく、尾崎紀世彦の大ヒット曲『また逢う日まで』のレコーディングするにあたり、元ワンダース・メンバーが集まりコーラスを務めました。


考え方によっては、ザ・ワンダースのメンバーがレコーディングした『また逢う日まで』と言う曲を、尾崎紀世彦がソロ名義で発売し大ヒットしたとも言える。

 

2回目の再結成は2010年。
その時、ワンダースとして『ウルトラセブン』を再録音しDVDとして発売。

 

その時の、こんなエピソードが残っています。

 

尾崎>「ほかの2人が『やる』と言っているのに、私がやらないわけにはいかないでしょう」

「ウルトラセブン」のレコーディングを尾崎紀世彦は承諾。

仙台のスタジオでワンダースのメンバーの朝コータローさんと小栗俊雄さんと再会した。
3人が一度にそろうのは、71年に尾崎がソロで日本レコード大賞を受賞した「また逢う日まで」のレコーディング以来、実に約50年ぶり。

尾崎は「楽屋が別々なのはおかしい。3人一緒にしてくれ」

とスタッフに求めるなど、和気あいあいとした雰囲気でレコーディングにのぞみ、2日間で「ウルトラセブンの歌」を仕上げた。

 

 
 
 
 

 

 

<貴重音源 ラ・ラ・ラ~>

 

 

1967年~1970年まで続いた 「GSブ-ム」

 

どの時点が、人気のピ-クだったのだろう。

何となく 1968年3月の 「銀河のロマンス」 発表会の頃のような気がします。

映画 「世界は僕らを待っている」 にも出てくる武道館のシ-ン。

凄まじい人気を感じました。

 

想像出来ませんが、映画館で上映した時も大騒ぎだったようです。

男性も、映画館に行ったのでしょうか。

 

自分が、初めて全編通して観たのが1998年。

VHSビデオでした。

 

ビデオ発売されたのを知らず、偶然入った店で目に飛び込んできました。

タイガ-ス映画が、棚に3本並んでいて感動しました!

あれから20年以上経ってしまいました。

今では、普通にレンタルできる便利な時代です。

それはそれでありがたいが、感動は薄い気もします。

 

 

 

 

いつも思うのですが、大きなスクリーンでGS映画を観てみたい。

 

 

1968年春。

「ザ・ヒットパレード」 で、夢のような企画がありました。

 

人気グループサウンズから、メンバーをピックアップ。

そのメンバーで演奏すると言う企画。

演奏曲は 「ラ・ラ・ラ」

 

リ-ドボ-カル  

沢田研二(ザ・タイガ-ス)

 

リ-ド・ギタ-     

三原綱木(ブルーコメッツ)

 

サイド・ギタ-   

森本太郎(ザ・タイガ-ス)

 

べ-ス・ギタ-   

岸部修三(ザ・タイガ-ス)

 

エククトーン        

大野克夫(ザ・スパイダース)

 

サックス            

井上忠夫(ブルーコメッツ)

 

ドラムス           

 植田芳暁(ワイルドワンズ)

 

 

 

 ​​​​​​  

 

   

 

  

 

人気、実力を兼ね備えたメンバーである。

 

「ラ・ラ・ラ」 を、レパートリーにしていたバンドは多い。

そう言う意味で、打ち合わせも短時間で終わったようです。

 

「気の遠くなるようなメンバー」 と言う表現は、大げさですよね。

 

    

 

   

 

各グループ 「ラ・ラ・ラ」 をレコード化してると思って調べてみました。

自分の勘違いで、ザ・タイガ-スとワイルド・ワンズだけでした。

タイガ-スはライブLP、ワイルド・ワンズはセカンドLPに収録

 

   

 

 

  

 

こう言う企画も面白いものです。

他にも合同演奏が、色々とテレビではあったようです。

 

・タイガ-ス&テンプタ-ズ

・タイガ-ス&ワイルドワンズ

・テンプタ-ズ&ジャガーズ

 

などの音源が残されています。

他にも、きっと残されているのでしょう。

あれば聞いてみたい。

 

それから、「ヒットパレード」 の事が書いてある記事を見つけたので掲載します。

 

 

 

   

 

 

写真ではなく 絵 と言うのは凄いです。

 

 

豪華なメンバー達の演奏は、メンバー紹介から始まりました。

映像があれば観てみたけど、残されてないんだろうなぁ。

 

 

 

 

 

 

Oh! それ見よ

1969年10月1日~12月31日

(PM 9:00~9:30放送) 

 

独身カメラマンとスタイリストが繰り広げる、都会派ロマンチック・コメディ。

 

 

 

 

出演者

・小川ローザ

・佐藤 允

・野添 ひとみ

・夏 純子

・杉浦 直樹

 

小川ローザは、CMで一世風靡してレコードも発売。

『風が落した涙』 がヒット。

 

 

今回紹介するのは

「かぼちゃブルース/第11話」

 

 

 

冒頭から、グループサウンズ 「水谷ひろしとファンキー・プリンス」 が登場。

レコード化されていない曲を演奏。

オリジナルっぽいが、曲目不明。

2曲めは 「涙のイヤリング」 。

それも、GS風にアレンジされてかっこいい。

 

    

 

   

 

   

 

     

 

 

女> 

・そう言えば、あなたカボチャに似ていない?

 

 

佐藤 允>

・俺の顔がカボチャに似てる?

・バカ言うなよ

 

 

そんな会話から、ドラマは始まる。

 

主役の佐藤允は、海辺近くでレンタル・スタジオを経営。

 

 

レンタル・スタジオで、若者達が 「ダンスパ-ティ」 を開催。

踊り狂う若い連中が理解出来ない!と嘆く佐藤允

 

 

 

 

そこへカメラマン達が佐藤允の元へ・・・・

 

>若い連中ばかり撮影しても退屈!

>ゴ-ゴ-が踊れない

>中年の写真を被写体にしたい

 

>佐藤允

・俺が中年?

・俺はまだ若い!

・それなら踊ってやる!

・見てみろ!

 

「ゴ-ゴ-ホ-ル」 に乱入し、踊り狂う佐藤允

 

完全に 「タコ踊り」 だ。

 

  

 

 

生バンドは 「水谷ひろしとファンキー・プリンス」

 

「ファンキー・プリンス」 は、2枚のシングル・レコードを発売しました。

 

    

 

 「涙のイヤリング」 

 

GSの 「チェックメイツ」 が、デビュー曲としてレコーディング。

しかし、メンバー2人が事故で亡くなり発売中止。

 

次にレコーディングした 「ユキとヒデ」 が発売前に解散。

 

ユキは、アン真理子として 「悲しみは駈け足でやってくる」  をヒットさせた。

ヒデは、出門英として 「 ヒデとロザンナ」 として活躍。

 

また、「恋人同士」 と言う、オリジナルもレコ-ディングしたが未発売。

 

 

 

「おやすみ大阪」 を、久しぶりに歌った映像が残されています。

歌声が、当時とあまり変わっていないのが素晴らしい!

 

 

 

カボチャについて考える佐藤允

>カボチャで青春を送り、カボチャで中年を迎える・・・・

 

カボチャの心を知るため、カボチャ料理を作る佐藤允。

 

    

 

女性に誘われ、口説かれる佐藤允。

照れながら、顔をじっと見るとカボチャだった。

 

  

 

  

 

 

もちろん、夢である。

 

公園で、カボチャの事を真剣に考える佐藤允。

ふと、横を見たら小川ロ-ザがいた。
もちろん、面識はない。

 

 

ブランコに乗る小川ロ-ザ。

会話をする事もなく、意味不明の場面だ。

 

 

突然、場面が変わり海辺のシ-ン。

小川ロ-ザが、佐藤允の方へ走ってくる。

 

  

 

佐藤允

>君は結婚について考えた事があるの?

>結婚するとしたら、どう言う人がいい?

 

 

 

えっ!??? 君は僕が好きか?

 

 

でも、君は若い!僕と釣り合わない!

 

>小川ロ-ザ

・好きよ~~~大好きよ~~

  

 

中年のカボチャでもいいかい?

  

 

 

大好きよ~

    

 

    

 

    

 

    

 

 

抱き合う二人。

 

そして、いきなり結婚式のシ-ンに切り替わる。

が・・・しかし、花婿は佐藤允ではない!

 

    

 

なぜか年寄りになった佐藤允が

 

>結婚式を止めろ!

 

と騒いでいる。

 

>やめてくれ~~!やめてくれ~~!

 

    

 

そして、夢から目覚める佐藤允。

夢だと気づいて、笑顔いっぱい。

 

 

そして家を出て旅に出る決心をし、カボチャをス-ツケ-スへ。

 

    

 

窓を開けたら、目の前が海。

さらに、小川ロ-ザが一人で浜辺で遊んでいた。

驚く、佐藤允。

 

    

 

佐藤允

> お~~~い

 

      

 

      

 

      

 

 

>小川ロ-ザ  

・あなた、誰?

 

>佐藤允

・冗談も、いい加減にしたまえ!

 

       

 

 

小川ロ-ザの、頬と髪を撫でる佐藤允。

 

>小川ロ-ザ  

・誰か来て~~~

      

 

逃げる小川ロ-ザ。

追いかける佐藤允は、浜辺で転倒。

 

>佐藤允

・何で逃げるんだよ~~~

 

      

 

 

いきなり場面が変わり、波に打たれる佐藤允。

 

>佐藤允

・気持ちいいじゃないか!

 

 

突然、見知らぬ女性が、海の中から飛び出す!

 

画面が変わり、「END」。

 

このドラマ、全14話を観たのだが、よくわからない内容ばかり。

小川ロ-ザの、ドラマ内での設定に無理があったのかも。

GSがらみで書いてみました。

 

 

 

 

 

久しぶりに、紅白歌合戦の記事を投稿します。

1968年の紅白歌合戦は 「NHKへの再放送の要望」 が一番多かったようです。

 

1960年代前半~歌謡曲

1960年代中半~エレキ、青春歌謡、フォ-ク

1960年代後半~GS、ム-ド歌謡

 

これらを、全部まとめたような紅白歌合戦でした。

 

実際、1968年紅白歌合戦は、幅広い世代に支持されました。

 

視聴率は何と 76.9%!

 

話は変わり、最近、ユ-チュ-ブが厳しくなりました。

動画アップ時にチェックが入り、問題なければOK。

 

OKが出ない映像も公開は出来ますが、アカウントが削除される可能性があります。

削除されたら、動画のアップが出来なくなり、今までの動画も消えてしまいます。

 

1968年の紅白歌合戦は、多くの歌が 「著作権」 に引っかりました。

動画作成したら、OKが出ない曲が多くて編集しなおしながら作成。

当初作成した、32分の映像が、18分になりました。

 

実際、ユ-チュ-ブでも1968年の紅白歌合戦・映像は少ないようです。

いくつか 「著作権・無視」 をしてアップしている人もいるようですが。

 

今回は、動画作成で 「著作権」 に引っかかった曲をカットしました。

好きな曲が多く残念です。

ピンキーとキラ-ズや都はるみを、カットしなくてはならず残念です。

 

<出演者・一覧>

 

<審査員> 

・三船敏郎、藤田弓子 

・江夏豊(阪神タイガ-ス) 他

 

<ゲスト>

・クレイジーキャッツ  

・渥美清 

・コント55号    

・三木のり平             

・てんわやんわ 

・林家三平  

・ザ・ドリフターズ 

・前田武彦

・青空はるお・あきお 

・レ・ガ-ルズ

・金井克子 原田糸子 奈美悦子

・由美かおる 江美早苗

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歌と歌の合間に、多くのゲストが登場して客席や出演者を笑わせる。

この時代のお笑いの人達は、画面に登場するだけで、会場を笑いに巻き込んでしまう。

50年以上前なのに、本当に笑えてしまう。

 

  

 

クレイジーキャッツは、「恋の季節」 の替え歌。

 

恋は~~私の恋は~~~~ の部分が

 

ゴリラ~~世田谷のゴリラ~~ 

 

 

 

ザ・ドリフターズは、お馴染みの 「いい湯だな」 を客席を巻き込んで大合唱。

 

そして、レ・ガ-ルズはお色気タップリのダンスを披露。

それにしても、「由美かおる」 は、今も変わらないですね。

 

 

 

 

また、三田明が歌っている時に西郷輝彦・舟木一夫・橋幸夫が会場に花を投げ込みプレゼント。

運良く手にしたファンは、嬉しかったでしょう。

そう言えば、ザ・タイガ-ス・コンサート(2013年) で、森本太郎が投げたギタ-ピックが飛んできたので、もらいました。

あれから8年、過去の思い出になってしまいました。

 

 

紅白歌合戦と言えば、「応援合戦」。

どちらが勝ってもいいのだが、まるで運動会のように盛り上がっている。

赤が勝つ!白が勝つ!

大人たちが、必死になっている。

この年は、綱引きまで行われてしまった。

 

本当に、みんなで紅白歌合戦を盛り上げている感じです。

 

 

 

 

坂本九は、出演者に担がれて歌を熱唱。

今の時代では考えられない光景が多い。

 

 

最後は、白組が優勝!

涙ぐむ出演者もおり、いかに紅白歌合戦が栄誉ある舞台だったかが伝わる。

赤組は準優勝!

この時代、紅白歌合戦を辞退するなんてありえなかったと思います。

国民行事そのものです。

 

 

 

話はかわり・・・・

今も続いていますが、年末は 「紅白歌合戦」 「レコード大賞」 と言う2大イベントがあります。

以前は、今年のレコード大賞は誰だろう・・・・と予測するのが楽しみでした。

 

芸能雑誌では、早めに大賞予測の記事が出たり、盛り上がっていました。

1968年は、予想と結果が全く違う年でした。

 

予想では、「花の首飾り/ザ・タイガ-ス」 「恋の季節/ピンキーとキラ-ズ」

 

 

最終結果 「天使の誘惑/黛ジュン」

 

 

今のように、候補者が会場に来て 「その瞬間」 をドキドキして待つのではない時代でした。

審査で選ばれた受賞者達が、発表会に参加して表彰されるシステム。

 

だいたい、受賞は本人への電話連絡だったようです。

ある意味、つまらない感じですね。

 

しかし、参加者達は嬉しくて歌いながら泣いてしまったり・・・・・

それほど名誉ある事だったのでしょう。

 

 

この年は、日本レコード大賞が始まって10年めとの事で、過去の受賞者が勢ぞろい。

なぜかカラ-映像です。