PYGはいつ解散したんだ?
そんな「疑問」を持ちながら過ごしてきました。
結論は、解散はしておらず 「自然消滅」 が正解のようです。
おおまかな活動期間は『1971~1972 春ごろ』
1972年8月の「ウエスタンカーニバル」にも出演していますが、どちらかと言うと「それぞれの活動」が春以降は増えました。
萩原健一の役者仕事が忙しくなり「PYG」に参加出来る機会が減ってきたり、メンバーの個人的な仕事が増えてきたのも「要因」と思われます。
今回は映像・音源を多めに載せました。
PYGをあまり知らない人、興味持ってくれたらな・・・
わかりやすく説明すると、時期は同じでも
・沢田研二と萩原健一
2人のボーカルの時は「PYG」
・沢田研二のみ参加の時
「沢田研二と井上堯之バンド」
自由に歩いて愛して
当時は、深く考える人も少なく「PYG は PYG」。
例えば、テレビドラマ「太陽にほえろ!」の演奏。
録音されたマスターテープには「演奏 : PYG」として、テレビ局に保管されていました。
録音された時期は、1972年春頃なの PYG が活動していた頃です。
しかし世間一般には「太陽にほえろ!」は井上堯之バンド。
レコ―ドも「井上堯之バンド」として発売されています。
太陽にほえろ!
サウンドトラック
ドラマでは、沢田研二が 「太陽にほえろ!」 にゲスト出演。
久しぶりに、萩原健一との競演が実現しました。
二人とも、感情表現が素晴らしく演技がうまい。
1972年2月頃から、沢田研二も「ソロ歌手」として「単独でジャズ喫茶」にも出演するようになってきました。
自分が所持している『沢田研二・単独でジャズ喫茶』の一番古い音源は1972年2月の池袋ACB。
ブログに少し載せるため、2月の音源を久しぶりに聴いてみました。
この時は、沢田研二・井上堯之グル-プとしてのステ―ジでしたが、MCでジュリ―が
今日は「PYGマイナス1」 ではなく『沢田研二・井上堯之グル-プ』のステージ と話していました。
あくまでも「今日はPYGではない」と・・・
それにしても
・井上堯之グル-プ
・井上堯之
・井上バンド
・いのうえバンド
どう使い分けていたか不明だが、ややこしい。
沢田研二・井上堯之グル-プ
(池袋ACB 1972)
今後の「PYGの活動について」2月頃から事務所と「何度か話し合い」が行われました。
「PYGが井上堯之バンド」になった経緯について、興味深い話を「井上堯之」が番組内で語っています。
後半で 「井上堯之インタビュー」 の映像を載せます。
この番組、ロングインタビュ―で色々な「元GS」 が裏話などを語っていて、面白い番組でした。
内容として
ショ-ケンが、参加出来ない時が増えてきた。
今後、さらに参加出来ない時が増えてくるだろう。
事務所としては、沢田研二のソロ活動に力を入れたい。
「沢田研二本人」は、一人にはなりたくないと言っている。
沢田の要望として、井上さん達に今後も一緒にいて欲しい。
事務所としては、沢田研二の意向を優先させたい。
PYGのメンバーの考えは、沢田研二のソロで「PYG」を名乗りたくない。6人揃っての「PYG」
メンバーが出した結論は
ショ-ケンがいつでも戻って来れるように 「PYG」 はそのままにしておく。
沢田研二がソロの時は、みんなで沢田を支えよう!
それから「PYG 沢田研二:演奏 井上堯之バンド」と、使い分けをする事になったそうです。
この映像を見ると、「ジュリ―が理想としたバンド」ではないかと思いました。
沢田研二はソロ歌手として、1971年11月「君をのせて」~1972年9月「死んでもいい」まで4枚のソロシングルを発売。
PYGの活動時期と重なっています。
どちらかと言うと「ソロ活動に力を入れている」ように感じます。
ジュリ―の人気を考えると、時代の流れかもしれません。
タイガース時代後半から、単独でのテレビ出演も多かったので、違和感もなかったのかもしれない。
「許されない愛」と「あなただけでいい」
同じジャケット写真が使われているのはなぜだろう?
関係ないけど「GSのザ・ハイロ―ズ」も2枚のシングルレコ―ドを発売しているが、2枚とも同じ写真が使われています。
「1972年 紅白歌合戦」では、沢田研二がソロで出場。
間奏の部分で 「演奏 :ザ・いのうえバンド」 と紹介されていました。
1ヶ月前の11月に PYG として「初めての涙」のシングルを、発売したばかりだったのですが。
当時のスケジュール表を色々と調べてみました。
「PYG」 としての最後のステージ
・1972年9月15日
(新宿二ュ-ACB)
「PYG」 としての最後のテレビ出演
・1974年5月27日
(夜のヒットスタジオ)
『沢田研二&萩原健一』
演奏:井上堯之バンド
・1975年8月30日 日比谷野音
・1978年8月10日 名古屋市公会堂
・1978年8月11日 ナゴヤ球場
・1981年1月25日 W・カ―二バル
1981年の「日劇ウエスタンカー二バル」のエンディング。
出演者全員が舞台に立ちました。
その中に
・沢田研二 萩原健一 岸部一徳
井上堯之 大野克夫 原田裕臣
6人が揃ったが、PYGだ!と思った人はいただろうか。
たぶん、誰も考えなかったでしょう。
せっかくですので、ナゴヤ球場のライブ。
ナゴヤ球場は、今は中日ドラゴンズ2軍専用の球場。
3年後に取り壊す予定です。
隣にマンションもあり、名古屋駅近くの住宅街。
よくこの場所で『ライブ』が出来たな~と感心させられます。
普段、野球の試合をしていたので慣れていたのかも。
ナゴヤ球場 ライブ音源
PYGとしてジャズ喫茶等でライブが行われたのは、おそらく9月15日が最後かも知れません。
ちなみに、ニュ―ACBは9月末で閉店しました。
4年前には『チケットすら手に入らない状態』だったのに時代の流れは早い。
9月のスケジュールを見ると『テレビ出演がメイン』となっています。
1972年9月 スケジュール
1972年9月15日
新宿ニュ-ACB
9月17日のジャズ喫茶・池袋ACBでは「沢田研二と井上堯之グル-プ」となっています。
音源を聞く限り、まったく雰囲気の変化はない。
客席に「ショ-ケンのファン」がいないだけだ。
1972年9月17日
池袋ACB
デビュー前に言われていたのが
>沢田で1万人、萩原で1万人
机の上での計算はそうかもしれない。
現実には、一部の音楽ファンには受入れられなかった。
さらにロックコンサ―トでは 「帰れコール」 。
物を投げられる事件まで起きたようです。
単なる人気者の集まりで、実力不足!と考えた若者たちもいたでしょう。
現実的には、歌も上手いし演奏も上手い。
人気がありすぎたメンバーの集まりゆえの悩みかも。
しかし、メディアへの露出も多かった。
雑誌では「 人気 + 実力のPYG 」と紹介される事も・・・
ボーカル 沢田研二
ボーカル 萩原健一
ギター 井上堯之
べ-ス 岸辺一徳
キーボード 大野克夫
ドラムス 大口広司
メンバーは全員「GSの人気グル-プ出身」
・沢田研二と岸部一徳
(ザ・タイガ-ス)
・萩原健一と大口広司
(ザ・テンプタ-ズ)
・井上堯之と大野克夫
(ザ・スパイダース)
2大スタ―である「ジュリ―とショ-ケン」が、同じバンドで活動するのを、当時のファンはどう考えていたのだろうか。
PYG結成前、テレビ番組で「ザ・タイガ-スのメンバ―」が、解散後について語っていました。
岸部シロ―が一番自信満々!と言う感じです。
確かに『司会・役者・歌』など幅広く長く活躍しました。
解散直後、ファンとの対談がありました。
岸部 四郎 天国へ | 映像・音源で振り返る グループサウンズ フォ-ク 歌謡曲だよ人生は!
結成半年で、ドラムの大口広司が脱退。
原田裕臣が 「交代でPYGのメンバー」 になりました。
原田裕臣もGS出身で 「ミッキーカ-チスとザ・サムライズ」 のメンバーでした。
GSブ-ムが去り 「ザ・侍」 と改名しロックバンドとなった。
1971年7月17日
後楽園球場で開催された 「グランド・ファンク・レイルロード(G・F・R)」 の前座として 「麻生レミ&ス-パ-バンド」 として原田裕臣は出演。
大雨の中でのライブは、今なお伝説ライブとして語られています。
この時は、「モップス」も出演。
凄まじいステージとなった。
後楽園球場ライブ
1971年7月17日
GSからロックへ。
大半のGSが解散する中、時代の風にのってロックバンドになったグル-プもあります。
モップスは1974年まで活動し「たどりついたらいつも雨ふり」「月光仮面」などのヒット曲を残しています。
一番成功したバンドではないでしようか。
他にも
・ダイナマイツ → ニュ―ダイナマイツ
・ズ―ニーブ―
・フラワ―ズ → フラワ―トラベリンバンド
・ハプニングス4 → ハプニングス4+1
・ゴールデンカップス → ニュ―・Gカップス
・タックスマン → ニュ―タックスマン
・フロ―ラル → エイプリルフール
他にもあると思いますが・・・
原田裕臣は、後楽園球場ライブの2ヶ月後にPYGに参加
脱退後、ガンダーラのヒット曲で知られる 「ゴダイゴ」 をミッキー吉野と結成。
ゴダイゴ脱退後、萩原健一と Donjuan Rock'n Roll Band に加入
因縁と言うのもでしょうか。
PYGは、大口広司に代わり原田裕臣が加入したのですが、Donjuan Rock'n Roll Bandでは「大口広司と原田裕臣」の二人がツインドラムとして在籍。
さらに、沢田研二のバックバンド 「CO-CoLO」 に参加
ちなみに 「学生街の喫茶店/ガロ」 のレコードのドラムは 「原田裕臣」 である。
残念ながら、原田裕臣は数年前に亡くなられた。
自分がPYGを初めて聞いたのが、再発されたLPレコードのファ―スト・アルバムでした。
あとで知ったのだが、当時のLP本体は厚みもあり押すと音が出たそうだ。
そちらが欲しかったが仕方がない。
内容的には「ジュリ―とショ-ケン」を中心にロックと言うより「愛や淋しさ」をテーマにしたバラ―ドが多い印象でした
2枚目のLP「田園コロシアム」も買いましたが、PYGとしての「演奏力やボーカルの素晴らしさ」を活かした素晴らしい内容でした。
PYGの本領発揮と言うLPです。
当時の「テレビやジャズ喫茶の音源」は多く残されています。
しかし映像関連は少ない気がします。
テレビ局には、残されているはずです。
ぜひDVD化して発売して欲しい (高値になりそうだが、500枚は必ず売れると思う)
1971年4月「花・太陽・雨」
激しいロックではなく、バラートに近い曲調。
鐘の音が響く中始まる神秘的な曲で、メロディは別として歌詞は印象的だ。
<ジュリ―の回想コメント>
昭和46年1月24日、タイガ-スとして解散コンサ-ト。
2月に、井上さんや大野さん、ショ-ケンらとPYGを結成した。
花・太陽・雨
英語バ-ジョン
(1972年7月2日 新宿ACB)
2枚目のシングル「自由に歩いて愛して」
この曲、ロックバンドとしての PYG の本領発揮!
日本語ロックを当時の若者達はどう見ていたのだろうか。
<ジュリ―の回想コメント>
PYGの第一作は、予想ほど伸びなかった。
少しむずかし過ぎたんやないやろか。
このジャケットの真ん中の井上さん、かわゆいでんな。
自由に歩いて愛して
キャンぺ-ンも行い、メンバ―全員でヒット祈願!
3枚目のシングルは「萩原健一とPYG」 で1971年11月1日に発売された『もどらない日々』
戻らない日々
梅田コマ劇場
全く同じ11月1日、沢田研二は初めてのソロ・シングル「君をのせて」を発売。
『もどらない日々』はPYGの名前も使われているが「君をのせて」は PYG は関係なく、完全に沢田研二のソロ。
しかしPYGのステージでは「君をのせて」を PYG として演奏。
コーラスにショーケンも参加している。
<ジュリ―の回想コメント>
初めてのソロシングルや。
この曲は今でもショ-で歌ってるんだ。
知ってる人がいて拍手が来ると嬉しいね。
君をのせて
新宿ニューACB
また萩原健一は、PYGと離れて完全なソロレコード 「ブル-ジンの子守唄」 を1972年7月に発売。
「君をのせて」同様に、発売において PYG は関わっていない。
しかし、PYGのコンサートでは 「PYGの演奏」でよく歌われた。
ブル-ジンの子守唄
ウエスタンカーニバル
1971年末までは各自のソロ活動も含め、PYGのメンバ―はサイン会など精力的に活動をしていました。
沢田研二は「合歓の郷ポピュラーフェスティバル」に参加。
「君をのせて」を歌い 「川上作曲賞」 を受賞。
ちなみに ヤマハ主催「合歓の郷ポピュラーフェスティバル」は1969年~1971年まで3回開催。
1972年は「合歓の郷」日本歌謡祭」1973年からは「ヤマハポピュラーコンテスト」と名前を変えて、1986年まで開催されました。
いわゆる「ポプコン」です。
主な出演者として
『1969年~1973年』
・ワイルドワンズ ズーニーブー
・ゴールデンカップス モップス
・ブルーコメッツ スパイダース
・かまやつひろし ハプニングス4
・沢田研二 麻生レミ&PYG
1971年にはザ・モップスは「雨」でグランプリを受賞
この時の映像が残されています。
演奏ではなく、メンバ―はコーラスで参加。
この曲、なぜか心に響きます。
雨が世界をつつんで泣いている・・・
星勝がボーカルの、淋しさを感じる歌詞です。
合歓の郷
ポピュラーフェスティバル
また、「ヤマハ・ポピュラ-コンテスト」のライブ音源が残されています
・あの頃/ワイルド・ワンズ
・青春は流れる/ハプニングス4
・朝陽に祈る/ブル―コメッツ
・見えない壁ズーニーブー
・ユートピアを夢見る/町田義人
・渚の情景/麻生 レミ+PYG
ポピュラ-コンテスト ライブ音源
あの頃/ワイルド・ワンズ、
青春は流れる/ハプニングス4
君をのせて/沢田研二
この3曲以外は、レコード発売されなかった。
この「合歓の郷ポピュラーフェスティバル」の帰りに、こんなエピソ-ドがあったようです。
今となっては素敵な思い出です。
伊勢市のひづるさん、今もジュリ―ファンでしょうか。
ジュリ―に興味ない知人が、コンサートの時期になると毎年のように本人を見かけるそうです。
あの華やかさは・・・・
いつも、離れた場所からファンは見つめており『声はかけない』そうです。
ファンはよくわかっているのでしょうね。
1971年11月21日(日)
東京大久保駅前にあった 「三福会館」 で、PYGファンの集いが開催されました。
この日は、萩原健一のみの参加であったが、お笑いあり歌ありの楽しいイベントでした。
特に抽選会。
順番に番号が読み上げられ、当たったファンは大喜び!
ちなみに、イベントの中で萩原健一は『PYG解散』を完全否定しています。
その時の貴重な60分の音源が残されています
『戻らない日々』を参加者が大合唱!
男性ファンはいたのだろうか。
三福会館ファンの集い 萩原健一
PYGの活動とは別に、ソロ歌手として初めて「沢田研二・リサイタル」を1971年12月に開催する事が決定。
リサイタルに向け、セカンドアルバム「ジュリ―Ⅱ」を発売。
初めてのソロ・リサイタル前にファンとの対談が行われ、意気込みを語りました。
それにしても当時のファンは、つながりが強いと言うか積極的と言うか・・・
好きな事に対しての「熱さ!」を雑誌の投稿などを読んで感じます。
個人的には、タロ-とアルファべッツのライブが聞きたい
また、似顔絵コンク―ルなど楽しいイベントも開催
この「1971年12月スケジュ―ル表」を見ての通り、年末にかけてのスケジュ―ルがたくさん入っていました。
また年が明けた1972年正月も忙しい
1972年正月~PYGとしての活動も順調に開始された。
2月頃から 「沢田研二単独ライブ」 も、ジャズ喫茶などで開催される機会も増えてきました。
1972年6月25日には 「沢田研二ソロ」 として、新宿ニュ-ACBでバ-スディライブが盛大に行われた。
MCでは結婚をほのめかす話題も出ており、ファンは大騒ぎ。
演奏は井上堯之バンド。
沢田研二
バ-スディ・ライブ
こんなファンの投稿もありました
(1972年6月)
沢田研二もソロでの活躍が目立ってきた。
萩原健一はテンプタ-ズ解散直後に 「めまい」 と言う映画に出演。
まだPYGが 「花・太陽・雨」 でデビューする前で、テンプタ-ズのショ-ケンのイメージが強い。
1971年3月公開 松竹映画
天地真理の映画 「虹を渡って」 に沢田研二、萩原健一の二人が出演。
映画の中で 「君をのせて」 を歌う沢田研二
虹をわたって
1972年7月公開
知人が 「SHは恋のイニシャル」 と言う当時のTVドラマを送ってくれた。
「新宿ニュ―ACB」が出てきました。
客席の雰囲気も伝わります。
1970~「新宿ニュ―ACB」に定期的に出演していた「アルファ―ド」の丸山氏に送ったら、懐かしい!と返信を頂きました。
新宿ニュ―ACB 1969
「アルファ―ド」の丸山氏
喫茶というくらいだから、飲み物もソフトドリンクでした。
演奏のほかにMCもありますしね。
ゴーゴーホールはMC無しでした。
ドラムがずっとリズムキープで、次の曲に続いていきます。
踊り優先ですね。
ジャズ喫茶「新宿ニュ―ACB」は、踊る人はいなかったそうです。
聴くのがメインですよね。
このゴーゴーホールと言うのは3階にあった「ゴーゴーACB」の事で、こちらは生バンドの演奏で踊り専門でした。
丸山氏 映像を見て
ここでは1階から見たステージ感がわかります。
2階の客席から見たステージもいいですよ。
ザ・タイガースの時は、楽屋から一回外に出て窓から2階客席へ移動します。
ステージがすごく近くに感じます。
この頃はザ・タイガースでさえ2階は閉めて営業していました。残念なことです
1968年頃はチケット争奪戦でしたが、1970年くらいになるとファンの数も減り、平日だとザ・タイガースでさえ2階席はファンが入らなかったそうです。
まさかGSブームの4年後に 『各地のジャズ喫茶の閉店が相次ぐ』 なんて誰が想像したでしょう。
ゴーゴーACB 1969
ジャズ喫茶 新宿二ュ-ACB | 映像・音源で振り返る グループサウンズ フォ-ク 歌謡曲だよ人生は!
ちなみに「ゴーゴーACB」における「ザ・ダイナマイツ」のライブCDが数年前に発売されました。
買いましたが洋楽ばかりでした。
4枚目は「遠いふるさとへ」
1972年8月発売。
<ジュリ―の回想コメント>
僕がソロ活動を始めてからも、PYGの一員として参加していたんだ。
昭和47年8月発売だ。
この10月に日生劇場で初リサイタル。
遠いふるさとへ
(ニュ-ACB)
タイトルか決まってない段階で、何度もステージで歌っていました。
約1年ぶりに発売されたシングルレコードであるが、もうPYGはほとんど活動していなかった。
5枚目のシングルは「初めての涙」で1972年11月発売。
<ジュリ―の回想コメント>
PYGは楽しいグル-プやった。
井上さんとはよく飲んだし・・・・・
成功はしなかったけど、あの時の僕らには必要だったんだ!
月刊明星 沢田研二特集(ザ・タイガ-ス~PYG~ソロ) | 映像・音源で振り返る グループサウンズ フォ-ク 歌謡曲だよ人生は!
この時期はスケジュール表を見ても「PYG」の名前は出てこない。
この時点で、沢田研二はすでに4枚のシングルを発売。
ソロ歌手として軌道に乗っていたと思うが、なぜPYGとしてシングルを発売したのだろうか。
井上堯之、ジョ-山中、成田賢
インタビュー
1974年5月27日「夜のヒットスタジオ」に沢田研二と井上堯之バンドが出演。
途中から萩原健一がスタジオに入ってきて「初めての涙」をジュリ―&ショ-ケンで熱唱!
テロップも 沢田研二と井上堯之バンド ではなく「PYG」となっていました。
自分は映像マニア(オタク)でもあるので、1973年頃~「夜のヒットスタジオ」を集めています。
何年か前に、沢田研二の「夜のヒットスタジオ」がDVD化されたようです。
それにしても歌番組が減りました。
しかし、1970~の懐かしい歌映像を集めた「ベスト100」みたいな番組が、時々放送されています。
いわゆる『昭和・平成の名曲』みたいな感じで。
やはり昔の歌は覚えやすく、自然とメロディが浮かんできます。
こちらが、歳を取っただけなのかも知れないですが。
1974年になると『PYG』を応援する人もおらず、ファンは沢田研二と井上バンド、役者としての萩原健一として、応援するようになった気がします。
音源・映像まだまだ載せたいけど、文字数制限でここで終了します
















































































































































































































































































































