中村・紀野氏や長澤氏の現代語訳とはまるで違った内容になってしまったが、私自身は、あぁこんなことが書かれていたのか、と大いに納得している。
その「般若心経(小本)」のサンスクリット原典全文に対する私流現代語訳の集大成を、以下に掲載する。
「世に般若心経と称されている書」 原光 渡(はらみつ わたる)訳
全てを覚知する御方に礼し奉る
聖なる観自在菩薩、(即ち)深い瞑想による到彼岸行を成就(達成)したものは、(彼岸世界において次のように)観察する。
(彼岸世界に存在する)全ての諸世界は、五つのもの(色・受・想・行・識)が集合して出来ている、と。
そして、それら全ての諸世界の存在形態は非有非無の状態にある、と如実に見る。
彼岸世界においては、シャーリプトラよ、全ての諸世界は、非有非無の状態にあり、非有非無の状態にあるものが諸世界たり得ているのである。諸世界イコール非有非無の状態にあるものであり、非有非無の状態にあるものイコール諸世界なのである。諸世界、即ち、非有非無の状態にあるものであり、非有非無の状態にあるもの、即ち、諸世界である。
彼岸世界においては、シャーリプトラよ、非有非無の状態にあるものという特性を有する全ての諸世界は、(新たに)生じるのでもなく(不生)、(消滅して)無くなってしまうのでもなく(不滅)、垢れているのでもなく(不垢)、無垢なのでもなく(不浄)、減るのでもなく(不減)、増えるのでもない(不増)。
この非有非無の状態にあるものである諸世界(是空法)には、過去・未来・現在の全てが包含されている(非過去・非未来・非現在)。
それゆえに、シャーリープトラよ、(バックグラウンドである)彼岸世界そのものには、色受想行識の五蘊全てが無い、眼耳鼻舌身意や色声香味触法も全て無く、眼界から意識界に至る十八界全てが無い。
明も無く、無明も無く、明が滅することも無く、無明が滅することも無い、老いることも無く死ぬことも無く、老いることや死ぬことが滅することも無い、十二因縁全てが無く、又、十二因縁全てが滅することも無い。
苦集滅道の四諦も無く、何かを知ることも無く、何かを得ることも無い。
このように、(彼岸世界そのものからは)何かを得る(=何かに影響される)ということも無いことから、瞑想による到彼岸行を成就(達成)した菩薩は、心に何の迷いも無くクリヤーになり、迷いが無いことから、恐怖も無くなり、一切の迷妄の闇(=煩悩)が滅し尽くされて、寂静の境地(涅槃)に導かれる。
(又)、瞑想による到彼岸行を成就(達成)した、過去・未来・現在の三世に存在する全ての仏達は、無上の正等覚を覚って完全な仏陀となったのである。
故に、(悟りに至る為の)大いなる行法、明智を獲得する為の大いなる行法、この上ない行法、比類のない行法、全ての苦(=煩悩)を鎮める行法である、瞑想による到彼岸行は、真実にして嘘偽りの無いものであると知るべきである。
ここに、瞑想による到彼岸行という行法が説かれた。然れば、
修行者(僧)よ 修行者(僧)よ 彼岸を目指す修行者(僧)よ 彼岸を目指す全ての修行者(僧)よ 悟りよ 成就あれ!
これにて瞑想による到彼岸行の要諦を終わる。
以上、私(原光)が間接体験した神秘体験に基づいた、般若心経と称されている書の現代語訳をまとめてみた。
一読してお分かりのように、この書は、お経(経典)ではない。
前述したように、この書は、仏道修行の最終段階である、瞑想による到彼岸行にこれから臨もうとする修行僧に対して、師匠か若しくは既に到彼岸行を達成し、観自在菩薩(古くは観世音菩薩)という称号で呼ばれている先輩僧が与えた、手引書(ガイドブック)のようなものだったのではないだろうか。
従って、その成立は、般若経典群や他の大乗経典群の成立よりも古く、この書の成立とほぼ同時に大乗運動は始まったのではないか、と私は考えている。
この書に導かれて到彼岸行を達成した修行僧、即ち観自在菩薩(古くは観世音菩薩)が続々(?)と誕生したことにより、その修行体験内容が文書化され、蓄積され集大成されたものが般若経・華厳経等の大乗仏典群となり、大乗仏教が興隆したのではないだろうか。
※下記ホームページに、通読しやすいような形にまとめてありますので、
そちらも併せて御覧ください。(訳文が少し変更されています)