原典に観る般若心経24(Ⅱー30) | 仮説・彼岸世界

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この部分は、サンスクリット原文を漢訳したものではなく、原文をそのまま漢字に音写しただけのものである。

従って、この部分は呪文(マントラ)だから訳すべきではないとか、インド人は聞いただけで何のことか分かるので、わざわざ訳す必要はないと考えて訳さなかったとか、いろんなことが言われているらしい。


長澤氏の「梵文和訳ノート」でも、この部分にはかなりのスペースを割いて注釈がなされているが、残念ながら、門外漢の私にはよく分からない。


しかしながら、これまでの翻訳文章の流れ(文脈)から見て、漢訳されずに音写されているこの部分は、次のように訳すべきなのではないかと思う。


即ち、中村・紀野訳で「往ける者よ」と和訳されている 掲帝(ガテー)を、舎利子で代表される、瞑想による到彼岸行をまさに実践しようとしている「修行者(僧)」のことであると見做し、波羅(パーラ)を「彼岸を目指す」、波羅僧(パーラサン)を「彼岸を目指す全ての」と解釈し、次のように訳すのである。


《修行者(僧)よ 修行者(僧)よ 彼岸を目指す修行者(僧)よ 彼岸を目指す全ての修行者(僧)よ 悟りよ 成就あれ

これにて瞑想による到彼岸行の要諦を終わる。》