今を楽しく生きる、とは(Ⅲー3) | 仮説・彼岸世界

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彼岸世界への神秘体験について書かれたブログ

東日本大震災を受けて、多くの人は、何の変化もなく平々凡々と過ぎていくありふれた日常が、いかに貴重なものであるか、改めて認識させられたことだろうと思う。

失ってみて初めて、その有難さを知る。


16年前の阪神・淡路大震災でも同じような思いを抱いたはずが、月日がたつにつれ、直接被災された方は別にして、その思いも徐々に薄れつつあった頃ではないだろうか。

自分の身に直接降りかかる災難でなければ、一時的に共感は出来ても、いつの間にか忘れ去ってしまう。


私は、若い頃に、悪化した盲腸を手術するために、一週間の入院を余儀なくされたことがある。

自分ではあまり自覚していなかったが、かなり重篤な状態だったらしくて、一週間、病院のベッドで寝たきりになり、その後も一週間、自宅療養で毎日寝て過ごした。


若かった私が、その時に痛切に感じたこと、それは、歩けるということ、歩いて自分の行きたいところに自由にいけること、ただそれだけのことがいかに貴重で有難いことか、ということだった。

元気なときには考えもしなかった、ただ歩けるということの大切さ、有難さ。

このときの思いは、今に至るまで、ずっと忘れることなく持ち続けている。


楽しく生きるということは、人によって様々だろう。

今のようなご時世では、楽しく生きることは憚られる、と感じている方も多いに違いない。

新聞・テレビ・インターネット等のメディアから、あふれるように流される情報によって、全く同一ではないにしても、人々は同じ痛みを共有している。

痛みだけにとどまらない。

大地震・大津波によって引き起こされた原発事故が、被災地から遠く離れた地域の人々の間にも大きな不安を引き起こしている。

この痛み・不安の中で、楽しく生きることなんて出来るのだろうか?


今、朝日新聞夕刊紙上の連載「ニッポン人・脈・記」で、「生きること」というテーマで連載が続いている。

このシリーズは、第2次大戦中、数ヶ所のユダヤ人収容所に収容されながらも生き延びたビクトール・フランクルというユダヤ人心理学者を中心に展開されている人脈記だが、その中で、「それでも人生にイエスと言う」というタイトルの本が紹介されている。

原著は、ビクトール・フランクルが、第2次大戦終結後の1946年にウィーンで行った三つの講演を集めた本だということだが、残念ながら、私はまだこの本を読んだことがない。


本は読んだことがないけれども、「それでも人生にイエスと言う」というタイトルを見た時、直感的に、釈尊がもらした感懐「世界は美しい 人生は甘美なものだ」にどこか通じるものがあるのではないか、と感じた。

絶望的な状況下に置かれていても、尚且つ、その人生を肯定し、生き延びていく、生きていく。


生きていく中で、もし、楽しむ要素が一つもなかったとしたら・・・。

「人生を終わらせたかった」と言って、他人を巻き込んで、犯罪に走るものがいる。

希望や楽しみは、捜し求めるものではない。

今あるもの、今の境遇の中に必ずある。

それが、楽しみであり、希望であると気付いていないだけである。