縄文時代を想う(Ⅲー5) | 仮説・彼岸世界

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彼岸世界への神秘体験について書かれたブログ

いつの頃からかは忘れたが、なぜか縄文時代に心を奪われ頭の片隅から離れなくなってきた。

縄文時代の生活とか土器とか遺跡とか、そういう具体的な事物に興味を惹かれるのではなく、縄文時代はなぜ、1万年~1万5千年という永い期間にわたって連綿と続いたのか、という点についての疑問が頭を去らないのである。


縄文時代という時代は、あまり大きな変化をすることもなく、何百世代という世代にわたって生活が引き継がれてきた。

私が学生の頃は、縄文時代人は、採集生活や狩猟生活に明け暮れ、家を持たずに洞窟などに暮らしていた原始人のイメージで教えられていたが、近年の発掘調査の結果、三内丸山遺跡に見られる様に、かなり高度に発達した生活様式・社会様式を持っていたことが判明している。

又、従来は弥生時代から始まったとされていた稲の栽培も、縄文時代に既に始まっていたとする調査結果もあり、栗や桃の果実類やごぼう等の野菜類の栽培痕跡の発見とともに、縄文人の食生活は、意外に豊かなものだったという知見が得られている。


原始人というイメージがあらかた払拭され、知的で豊かな生活を送っていた縄文人というイメージが新たに生まれつつあるが、そうなると尚更分からなくなるのは、そんな縄文時代がなぜ1万年~1万5千年もの間、大きな変化をすることもなく連綿と続いたのかということだ。

縄文時代に続いて弥生時代が始まって以降、僅か2000年余りの期間で今日の隆盛を見るに至ったことを考えるとき、縄文時代の余りの永きに渡る変化のなさは、十年一昔、というほど急速に変化する現代人からすれば、まさに驚異というほかない。


縄文時代の人口は、最も多いときで26万人くらいで、大体10万人前後を維持していたと推定されている。

人口が少なすぎて文明が発達しなかったのか、それとも彼らが、全ての面において充足した平安な日々を送っていたために変化を必要としなかったのか?

初歩的な稲作をも含む農業栽培技術、舟で海洋に乗り出しての漁労技術、大陸との貿易交流も実現していたと見られる縄文遺跡の発掘調査結果から推定すれば、人口が少なすぎて文明が発達しなかったとは考えられない。

むしろ縄文人は、人口が余り増えないような、安定した生活文化の中で暮らしていたのではないだろうか。


縄文時代に続く弥生時代以降、人口は、ほとんど右肩上がりで増え続けてきた。

人口増の要因は、稲作技術の到来によって食料(米)の増産が可能になったからだ、と私達は社会科および歴史の授業で教えられてきた。

しかし、それは正しい理解なのだろうか?


確かに、自然界の動物社会を見てみると、食料(餌)の増減と個体数の増減との間には強い相関関係が見られる。

人間社会においても、食糧増産と人口増はイタチごっこのようにエンドレスで繰り広げられ、先日5月7日に報道(朝日新聞夕刊)された国連による「世界人口推計2010年改訂版」では、世界の人口は、今年(2011年)10月末に70億人に達し、2050年までに93億人、2100年までには101億人を超えると予測されている。

もちろん、必要な食料は確保されているという前提での推計値なのだろうが、それにしても凄まじいまでの人口爆発である。


これだけの人口を養うだけの食料を生産する余力が、この有限な地球上にあるのか、甚だ疑問に感じるが、既に、現時点でも生態系を一変させかねない自然破壊が目に余る状況になっている。


ところが、縄文時代には、食料を十分すぎるほど確保できる技術も能力もあった、と見られるのにもかかわらず、人口は直線的に増え続けることもなく、安定的(?)に推移している。

このギャップはどこから来るものなのか?


弥生時代以降の人間社会と自然界の動物社会との間には、食料と人口との間に似たような傾向が見られるので、縄文時代だけに存在する、何か特殊な要因があると考えられる。

それが何なのか、というのが私の最大関心事であるのだが、これまでの歴史研究では、縄文時代が余りにも永い間続いたことに対しての問題意識を持つ人がいなかったからだろうが、この問いに対する明快な答えは得られていないように思う。


社会の構成においても人口規模においても、全く比較にならないほど巨大化している現代社会は、成長し続けることだけが善であるかのように信奉されていて、人々もそのドグマから脱却できず、先行き大きな破局が待ち受けているかもしれない、というかすかな不安を胸に秘めながら、自転車操業的な毎日を送ることを余儀なくされている。


多くの人は、必ずしも、心身をすり減らし、家族の団欒を奪う、成長成長の日々を望んでいるわけではないだろう。

本心では、安全で安定した平穏無事な毎日が送れることを心から望んでいるのではないか、と私は思っている。


その想いを実現するためには、何が必要か? どうすれば、それが実現できるのか?

その糸口ですら容易には見つからないほど複雑化・混沌化した現代社会にあっては、答えは簡単に見つかるものではないだろう。

しかし、有限な地球で、末永く平和で安定した未来を築くためには、何か行動を起こし、何かを変えていかなければならない。

その大きなヒントが、1万年~1万5千年続いた縄文時代にある、と私は思っている。


次回、その縄文時代だけに見られる特殊要因(?)について、私の推測を披露してみたい。