縄文時代を代表する遺物に土偶がある。
大きくて丸い眼窩に細い目が特徴的な、遮光器土器と呼ばれる土偶は、一度は歴史や社会科の授業でお目にかかったことがあるだろう。
この土偶は、北海道で発見されている唯一の例外(男性)を除いて全て女性、それも幼女や老女は全くなく、成人女性だけという極めてユニークな遺物である。
これまでに発掘されている土偶は、完全な形で出土しているものは少なく、ほとんどが、身体のどこか一部が欠損或いは壊れた状態で見つかっているため、まじない等の儀式用に使ったのではという説もあるが、妊娠を思わせるふくよかな像が多いので、大方の意見では、おそらく、豊穣や多産を祈るための道具として使ったのでは、と推測されている。
永い縄文時代のほとんど全ての期間にわたって、この土偶は発見されているが、不思議なことに続く弥生時代になると、土偶は全く作られなくなる。
宗教的な理由なのか何なのか、文書類が残っていない時代のことなので全く不明であるが、現在でも、なかなか子宝が授からない人が、あちこちの神社や仏閣に詣でて祈願をするケースが多いことを考えると、一気に断絶していることには何か大きな意味があるように思う。
前回触れたように、食料(餌)と個体数との間には強い相関関係がある。
最近の発掘調査の結果からすれば、縄文人は、狩猟や採集に加え、ある程度の農業栽培技術も獲得し、豊かで知的な生活を送っていた、と推定されるようになった。
食料の需給面からすれば、もっと人口は増えてもよさそうに思えるのだが、現実には余り増えることもなく安定的に推移している。
現在のように、妊娠に関する科学的な知識が得られている時代とは違い、避妊技術のない、自然に任せた状態での人口の推移であることを考えると、縄文時代には、他の時代にはない独特の要因が存在すると考えられる。
その要因が何なのかについて思いを巡らせていたとき、確か一昨年(2009年)のことだったと思うが、朝日新聞に小さな興味深い記事が掲載された。
その記事は、ミトコンドリアのDNA分析結果から、約5000年前に、縄文人は台湾・フィリピンを経由してポリネシアの島々に渡ったことが明らかになった、というものだった。
つまり、現在のポリネシア人は、縄文人の子孫だと考えられるということを示唆している。
この記事を見て、縄文時代の人口が安定的に推移していた要因が、直感的にひらめいた。
「第1部 生きたままでも あの世にはいける」の中で、ポリネシアンセックスについて取り上げた。
朝日新聞紙上に連載された、五木寛之氏のコラムの中の同名のエッセーを引用したものだが、その中で、ポリネシア人は非常にゆっくりとしたセックスを長時間かけて行い、その結果として至福状態を体験する、ということを紹介した。
このポリネシア人に特徴的なセックスのやり方と、縄文時代の人口が、余り増えることもなく安定的に推移したこととが、密接に関係しているのではないか、ということに思いが至ったのである。
妊娠可能な成人女性には、周期的な生理現象がある。
この中で、受胎可能な期間、すなわち、この期間内にセックスすれば受胎するかもしれないという期間は、排卵日の前後の数日間しかない。
不妊治療を受けている夫婦を除けば、受胎可能期間などは全く考慮することもなく、普通は、やりたいときにセックスをやっているだろう。
そのような現在の我々のセックスのあり方は、数打ちゃ当たるを地で行っているようなもので、その結果として、人口は増える方向に働いている。
DNAの分析結果から、現在のポリネシア人は縄文人の子孫だと考えられることから、彼等のいわゆるポリネシアンセックスは、縄文人のセックスのやり方を受け継いだものと考えるのが自然である。
逆に言えば、縄文人も、ポリネシアンセックス的なセックスを実践していたであろう、と推定することが可能である。
非常にゆっくり長時間、接して漏らさず、を地で行くポリネシアンセックスは、そう頻繁に行えるものではないだろうから、結果として、受胎する確率は減少する方向に働き、至福経験は得られるものの、子供はなかなか生まれない、という厳しい現実に直面することになる。
その状況が、受胎・多産を願う土偶の製造につながり、人口が安定的に推移することにつながっていたのではないか、と私は思う。
妊娠に関する科学的な知見が得られていない時代において、数打ちゃ当たると正反対な実践を行っていた人々にとって、子供を授かることは、最も重要な信仰の対象だったであろうことは想像に難くない。
そのような縄文時代が永く続き、水田稲作技術とともに弥生時代が始まると、土偶の生産はピタッと止まってしまう。
そして、しばらくの期間、縄文人と弥生人は並存していたと見られているが、縄文人は何時の間にかいなくなってしまい、戦争もなく平和的に弥生人に取って代わられ現在に至っている。
次回は、なぜ縄文人はいなくなってしまったのかについて考えてみたい。